プロセキュートHATAさん日記
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2005.11.17【ワールドカップ出場国出揃う】
今月16日の世界各地での予選プレーオフで、オセアニアからはオーストラリア、北中米カリブではトリニダード・トバゴが、欧州の最後の枠をスイス、スペイン、チェコがそれぞれ獲得し2006年サッカーワールドカップ・ドイツ大会の本大会出場のキップを手に入れた。
これで出場枠32ケ国全てが出揃った。

サッカーワールドカップは世界で最も多くの人々が観戦する文句なしの世界随一のスポーツイベントだ。その予選にも本大会にも数多くのドラマがある。
オーストラリアは南米5位のウルグアイとの接戦をPK戦で勝ち上がり32年ぶりの出場、トリニダード・トバゴはアジア5位のバーレーンと共に初出場をかけて戦った。チェコはチェコスロバキアからの分離独立後初めての出場を勝ち取った。スロバキアは惜しくも出場を逃した。
そこには様々な多くの庶民の人たちの気持ちが込められていることだろう。

世界の紛争の狭間に追いやられた政治的弱小国が多いことにも気づかされる。いわゆる貧困国と呼ばれる地域からの出場もある。明らかに政治地図とは異なる国々の純粋なスポーツマンたちが全身全霊で戦う世界だ。
ワールドカップの出場によってその国の実情を初めて知る人達も多いに違いない。かくいう私もその一人だ。

こうした国々の思いが様々な国連をはじめ国際的舞台で対等に扱われているだろうか。忘れられてたり軽んじられていないだろうか。経済力や政治力、ましてや軍事力なんかで優劣が決まるような国際関係を一日も早く払拭したい。

《関連リンク》
FIFA公式サイト(英語)
JFA日本サッカー協会

2005.11.14【東京富士美術館にて大ナポレオン展を鑑賞】
昨日13日(日)に開催中の『栄光の大ナポレオン展−文化の光彩と人間のロマン』を鑑賞してきました。
感想を一言で言うと「素晴らしい!」
な〜んだと言われそうですが(^^ゞ日本国内でも最高レベルの展覧会ではないかというのが私の正直な気持ちだ。

とかくナポレオンの評価は真っ二つに割れることが多いように思われる。それは「侵略者・破壊者」と「民主主義の英雄」だ。しかしナポレオンには評価されるべきもうひとつの顔がある。それが「現代文化学術のオピニオンリーダー」としてのナポレオンではないか。今回の展覧会をみながらそんなことを感じました。

世界各国23の美術機関や個人コレクターから出展された展示品は300点余り。その点数の多さと一品一品のグレードの高さもさることながら、全体を包むストーリー性が実に素晴らしい。この展覧会をプロジュースしたのは東京富士美術館の学芸員をはじめとするスタッフの皆さんだと思うのが日本最高水準ではないか。当時の生活風習をはじめナポレオンの内的精神性の構築の過程が見事に再現されている。

みる人の気持ちをつかむことも忘れていない。数々の宝飾品の展示はその代表格だ。ティアラだけでも「マリーボナパルトのティアラ」「イタリア王妃マルゲリータのティアラ」「皇后ジョゼフィーヌのティアラ」と他の美術館ならそれひとつだけで展覧会をやってしまいそうな逸品が目白押しだ。
古代エジプトで高貴な色とされ、その色を再現することは高い技術を要求されたコバルトブルーをベースにした食器類の多くは個人コレクターからの出展だ。リスクの大きい海外への出展(たぶん)をよく承諾したものだと感心した。

個人的にはエジプト誌、パリの地図や建物のデッサンなど、当時の測量をはじめとした高度な技術に裏打ちされた展示品の数々に圧倒された。戦乱の続く中でこうした後世に続く高い技術を守り発展させたナポレオンの人間性に迫る展示である。

是非多くの人に見ていただきたい展覧会です。
会期は2005年12月23日まで。東京富士美術館にて。

《関連リンク》
栄光の大ナポレオン展−文化の光彩と人間のロマン

2005.11.11【運転士を懲戒解雇する東武鉄道】
新聞各紙で東武鉄道運転士の解雇について報道されている。この運転士は自分の長男を運転席に入れて約4分間、1駅分を運転したというもの。一読するとうかれた気持ちで子供を運転席に入れたかのようにも思われるが、報道によればそうではないらしい。

その3歳の子供(長男)は母親と妹の3人で父親の運転する電車に乗車したらしい。父親の働く姿を見たいと思うのは子供の自然な気持ちの発露だ。私が想像するに、物心がついた我が子に父親の働く雄姿を見せたいと思った母親の真心かもしれないとも思う。
乗車してしばらくすると長男は父親のいる運転席の扉をたたき出したらしい。子供にその行為をやめさせようと駅での停車中に扉を開けたら長男が運転席に入ってきて座り込んで泣き出したらしい。発車時刻になり時間を遅らせてはならないと思った運転士はそのまま長男を運転席に入れたまま1駅間を運転し、次の駅での停車中に母親に子供を引き渡したという。

たしかに運転勤務中に運転席の扉を開けるなど軽率な行為は厳重に咎められるべき過失だ。しかしそれが解雇という職を取り上げる処分に相当する行為であろうか。
東武鉄道には処分決定の撤回を再考されるよう切望する。

東武鉄道といえば最近では伊勢崎線竹ノ塚駅付近での手動式踏切における人身事故で有名になった企業だ。同業の西武鉄道は堤氏の事件を契機にその企業体質が問われているが、東武鉄道とて褒められるような経営ではないのではないかというのが私の率直な感想だ。
一例を挙げれば東武鉄道も路線に隣接する土地を所有しているが塩漬けにしているところをいくつも目にする。群馬県太田市の駅前所有地はその典型だ。東武鉄道が駅前開発をしないことの悪影響は太田市全体に広がっているのではないか。開発しないのであれば他者に売却すればいいと思うのだがそれもしない。
そこに住む住民の皆様にとっては死活問題である。
社員に対する考え方、社会における公器としてのビジョン、また鉄道事業という公共的使命を担う企業体として社会に有為なる存在としての東武鉄道の再生を強く要望する。

まずは懲戒解雇を決めた運転士への処分変更を速やかに行うことを改めて強く強く要望するものである。

2005.11.07【犯罪被害給付金制度の運用】
読売新聞の報道によると、北九州市監禁連続殺人事件において父親を殺害された被害者女性の親族が犯罪被害給付金制度の申請を問い合わせたところ、福岡県警が「監禁されていた間に申請期限が過ぎ支給できない」と回答していたことが明らかになっている。
この被害者女性は10歳の頃(1995年当時)から松永太(44)緒方純子(43)両被告と同居となり虐待を6年間にわたり日常的に受けていた。今年9月の福岡地裁小倉支部の1審判決では「女性は幾重もの心理的拘束を課されて逃走する気力をそがれ終始監視されており脱出は著しく困難だった」と認定されている。この判決を受けて親族の方が問合せをしたのではないかと思われる。

たしかに現行の犯罪被害給付金制度の申請期限は「事件発生を知ってから2年以内」と定められており、福岡県警は被害者女性が父親殺害を目撃した1996年を起点に計算したという。読売新聞の取材に対し福岡県警は「女性は欠席がちとはいえ小中学校に通っていた」ことを理由として「もっと早い段階で警察への通報が可能だった」と結論、事件が発覚した時点ですでに給付できないと結論を出していたと説明していると報道されている。

しかしそれでいいのだろうか?いまだ日本の公的機関においては(世界のレベルはしらないのだが)心理的虐待についての認識がなさすぎるのではないか。知っていたこととそれを誰かに伝えることができるということは明らかに異なる次元だ。精神的被害を正確に認識すれば時効が云々という問題など何も存在しない。いうまでもないが法改正などや弾力的運用など考えなくても現状法規で運用するべき意識の問題である。

再考を強く強く求めたい。

《関連リンク》
警視庁・犯罪被害給付金制度
警視庁犯罪被害者対策室・犯罪被害給付金制度

2005.10.07【変わらないNHK体質】
NHKが今年の紅白歌合戦で視聴者が聴きたい歌を投票する「スキウタアンケート」なるものの中間結果を発表している。
9月30日現在の集計で第1位は
紅組(女性):モーニング娘。「LOVEマシーン」
白組(男性):SMAP「世界に一つだけの花」
8月1日からの2ケ月間での応募総数は396,930通。Webで気軽で投票できることも功を奏しての好反響だが、その分若年世代の比率が高くなったとNHKでは見ている。

しかしNHK芸能番組センター部長の茂手木秀樹氏による発言は何なのかとあきれてしまった。
このアンケートの上位になった歌が必ずしも歌われるわけではないというのだ。だったら何のためのアンケートなのか?結局アンケートをしてもしなくても自分達であらかじめ「この歌を入れよう」と想定している歌があるということだ。投票してくれた視聴者を完全に愚弄している行為だ。

私もリサーチを本業とする者の一人としてNHKならびに茂手木秀樹氏苦言を呈したい。
アンケートをするならするでその結果に素直に耳を傾けなければならない。参考程度なら最初からそう明示しなければならない。
Webによる世代間偏向が出ているようにも言っているようだがそんなことは初めから予測できなくてどうするのか。
第一「スキウタ」って何なんだ??と言いたい。まったく意味のない造語だ。「好きな歌」でよいではないか?若年世代にうけを狙って「スキウタ」としておきながら、その世代からの投票が多かったからといって文句を言う筋合いではない。それとも「スキウタ」といって中高年世代がわかるとでも思ったのか?

自分勝手なアンケート名をつけて、勝手にはしゃいで、結果が自分達の思ったとおりにならなければ無視をする...。私達の業界ではこれを「メイキング(捏造)」体質と呼んで最もやってはならない行為としている。
NHKの使命は何なのか?何を変革しなければならないのか?自らの進退をかけて真剣に問い直すべきだ。

いつになってもNHKの視聴者不在の体質は変わりそうもない。

《関連リンク》
第56回紅白歌合戦・スキウタ中間発表

2005.09.28【携帯・固定電話の融合サービス普及へ】
27日、総務省の研究会が携帯電話と固定電話の融合サービス制度の検討を開始した。これは携帯電話各社が携帯電話機を屋内では固定電話として利用する融合サービスをはじめていることを受けて、このサービスが国民の利益につながると判断、普及促進のために同一番号体系化への検討を開始したものである。
既に同一番号体系を導入しているイギリスでは携帯電話番号体系に統一化された。日本でも同様の体系化をモデルに検討が進むものと思われる。

この背景にはIP電話の普及によって固定電話網と携帯電話との通話料金格差が拡大していることが挙げられよう。屋内で携帯電話を使用する際に固定電話網を利用することでユーザーの利用料金は格段に安く抑えることが可能になる。

波及効果はそれだけにとどまらない。
地方における携帯電話の普及は急速に進むことが予想される。特に山間島嶼部においてはコスト問題で中継アンテナ設置が止まっている地域があるが携帯電話機が先行普及することで中継アンテナ設置が促進されることも予想される。
また家庭内における無線LANや様々なOA機器、デジタルメディア機器との融合も進むことは間違いない。データ通信の融合は言うまでもない。
今回の携帯・固定電話融合サービスは多くの消費者が思っている以上に大きな可能性が現実化する突破口になるだろう。

国内ではNTTグループが9月からサービスを開始しており、KDDI、ボーダフォンともにサービス参集の意向を表明している。
研究会では一般の意見を公募するパブリックコメントを開始している。早ければ2007年度の新制度導入を目指している。
アイデアのある人は是非パブリックコメントを出してみてはいかが?

《関連リンク》
FMCにおける電気通信番号の在り方に関する意見の募集要綱
IP時代における電気通信番号の在り方に関する研究会

2005.09.26【愛知万博が閉幕】
6ケ月間の開催期間が終了し、121カ国と4国際機関が参加した愛知万博が25日(日)に閉幕した。
来場者数は当初目標の1500万人を大きく上回る2204万人だったと報道されている。マスメディアではこぞって大成功と報じているが正直なところ今回の万博の成果は何だったのだろうか?

毎日新聞は「参加国・企業が環境をテーマにした展示やイベントを展開したほか、会場内で出たごみを利用した発電や、有害物質を排出しない燃料電池ハイブリッドバスを運行するなど、会場全般を環境に配慮し人類と自然が共生する持続可能な社会を実現しようというメッセージを発信した。NPO、NGOなど、多くの市民組織が参加したのも特徴で、草の根レベルで環境保護運動の機運が高まった」と評価。

朝日新聞は「環境やロボット、IT(情報技術)などの分野で科学の最先端に接し、世界各国の人々とふれ合った。『自然の叡智(えいち)』をテーマに掲げた21世紀初の万博は、自然との共生や持続的成長可能な社会の一端を示し『開発型』が続いてきた万博の歴史に新たな一ページを加えた」と報じている。

実際に愛知万博に行った一人として言わせて頂ければ、そのような実感はまったくない。
上記のようなことが目的ならば万博である必要はまったくないのではないか。事実、幕張メッセや国際展示場(ビックサイト)等での展示会の方が内容も先端性も充実している。ハイブリッドバスももちろん素晴らしいが万博の本義ではないことは明白だ。またハイブリッド自体が一世代前の技術になりつつもある。
マスメディアも建前的な、あらかじめ用意されているような原稿を載せるのはやめたほうがいい。庶民実感とかけ離れた報道を見ているとなさけないような気にさえなる。
このような報道をしているライターは企業パビリオン中心に取材しているのかもしれない。

国際万博としての目的を再認識することが重要ではないかと思う。その意味では主目的のひとつに各国間の文化交流が挙げられるだろう。それに伴う経済効果も現実的な課題だ。そこに焦点を当てた国も多かったように感じられた。
第3諸国にあっては相当の予算を投下して出展参加しているところもある。私達はそのような諸国に対して何ができたのだろうか。この愛知万博を契機にして日々の関心の眼を少しでも世界の国々の繁栄と平和のために向けることが大切ではないかと感じた。

2005.09.23【選挙の公約を果たす議員に】
昨日22日に衆院選挙後の特別国会が開会された。
多くのマスコミの期待(?)に反して小泉内閣は全閣僚の留任によって第3次内閣がスタートした。選挙後のマスコミ報道では「自民党を勝たせすぎた」という表現やアンケート結果の報道も行われていますが、こうした表現には私は少し違和感を覚えています。というのも一人一人にとっては行使できる選挙権は小選挙区比例区それぞれ一票ずつしかないわけで、個人においては7:3でバランスよく投票するなどという行動はできないからです。上記のような発言は結果のみに眼を奪われているか当事者感覚のない評論家的発言と言えないでしょうか。白黒が明白である課題については圧倒的支持を得ることは当然起こりうる事態でもあります。

重要なのは選挙後の政治です。昨日より選挙後の国会が始まりました。各党が具体的にどのような行動をするのか有権者である私達は監視して場合によっては発言行動していくことが求められていると思います。

自民党と公明党は衆議院開会後の22日夜に与党首脳の会談を行い、年金問題の方向性について協議したことが報じられている。それによると2つの方針を打ち出している。
@議員年金(国会議員互助年金制度)の廃止
A厚生年金と共済年金の一元化
を行うことで与党として合意している。
この方向性については民主党も異論がないところであろう。それが民主党の選挙公約でもある以上は、党利党略を超えた国民のための議員であることを全議員が示してもらいたい。

2005.09.20【NHK新生プランを発表】
NHKは相次ぐ不祥事によって失った信頼を回復させるとして新生プランを発表した。しかし具体的な有効策は提示されておらず精神論に終始している感はいなめない。唯一数値目標が提示されているのは「放送の質の確保を図りながらも、平成18年度から3年間で全職員の10%、1200人を削減します」の箇所のみだ。それも「なぜ1200人の削減」なのか、その根拠さえ明示されていない。

その一方で報道されているのは「受信料の公正負担の徹底」ばかりだ。こうした姿勢をみればNHKは健全な企業体でないことは明白な事実だ。
しかしあえて指摘しておきたい点がひとつある。それはNHK受信料未払い行為についてだ。
不満があるのもわかる。しかし不満があるからといって不払いが正当化されるはずもない。言いたいことがあるならば受信料はしっかり払いながら言えばよいことだ。
受信料を払わないのであればNHKは受診しないことだ。真面目な人間が損をしているように感じられる社会は断じてつくってはいけない。

《関連リンク》NHK新生プラン

2005.09.09【郵政民営化・森本卓郎さんのコラムに違和感あり】
9月8日付『NextONE』を読んだ。ベンチャーリンクの発行している週刊のWebマガジンだ。私はこのマガジンの愛読者でもある。
この中でUFJ総合研究所の森永卓郎さんのコラムで「郵政民営化で本当に得をするのは誰か!?」が載っている。森本さんは平衡感覚に優れた優秀なエコノミストという印象がありテレビにもちょくちょく出演されている。
9月8日付『NextONE』はこちら

森本さんのコラムのテーマは「郵政民営化による経済効果に潜む問題点」として3点を指摘している。この3点について一読すると「なるほど〜」と思えたりするのだが、なんとなくしっくりこない。なぜだろうか。
思い至った。
それは私が経営者の立場で具体的に郵政事業を継続させるにはどうすればいいかを考えているのに対して、森本さんには経営をしようという立場ではなく具体的な提案がないからではないかと。
森本さんが指摘する3点を紹介しながら私なりの考えを述べてみたい。

@郵政3事業を分割することで経済性が下がるという指摘

それはそのとおりだ。しかし経済性を下げてでも分割すべきだという判断なのだ。もし仮に郵政公社を丸ごと民間企業にしたら不具合がないのだろうか。
まず金融については銀行法に沿って他の商業行為からの影響を排除しなければならない。また3事業の相乗効果を期待するよりも専門特化することによって事業収益をあげることが重要であるという判断、各事業の収益に責任を持つ企業体にするということが今年5月の特別委員会で明示されている。これには様々な意見があるだろう。経営者が違えば経営方針が違うのだから当然だが、一面大きな資本力のままでは民業圧迫との批判は必至だ。
では国鉄や電電公社のように地域会社に分割するのか。それではユニバーサルサービスはかえってコスト高になる。
制服なんて一緒にするように提案すればいいし民営化されたからって今の制服を使えばいいのだ。そんなことはいくらでもできる。
まずはそれぞれが分社化して適度な規模の株式会社になる。その後各社も競争関係になり、一般の企業との競争も始まるわけだ。
最初の時点で物流事業と金融事業ではそれぞれのフィールドが違うのは当然ではないだろうか。

A郵便貯金会社と郵便保険会社の株式完全放出によって外資に買収されるという指摘

経済の専門家である森本さんが言うのだからそのとおりかもしれないが、ではNTT株はなぜ小口の一般投資家が購入しているのかなと疑問に思う。民営化された企業業績がよければ国民が小口株主として株式を購入することもあるのではないか。さらに完全民営化は2007年施行の場合で2017年度になることが法案に明記されている。つまり10年間に何度かにわけて売却されることになるわけだ。「10兆円もの巨額な資金を出せるのは現時点では外資しかない」という指摘はあまり意味がないのではないだろうか。

B貯金と簡保のユニバーサルサービスが保証されていないという指摘について

これは何を指しているのだろうか?「過疎地の7220の郵便局で郵便貯金や簡易保険のサービスが維持される保証が与えられなかった」と書かれている。拠点ということであれば現在も7220局全てで貯金保険業務を行っているわけでない。
制度そのものという意味であれば関連法案に完全民営化までは保証されることが明記されているのだから、窓口会社にその業務は委託されることになる。
これは森本さんの表現が微妙にちがうのか勘違いされているのだと思う。

そして上記3点を総括して「民営化会社が分社化によってコストが上がった分を取り戻そうと猛烈な合理化に打って出るだろう」と指摘し「過疎地の郵便局からは金融と保険の機能が失われていくだろう」と結論づけている。
はっきり言って荒っぽすぎる論理だ。民間企業を馬鹿にしているとも言えるかもしれない。確かに経営の素人に任せてしまえばそのようなことも起こるだろう。要は新会社の経営者次第である。

では別の立場で考えてみよう。民営化しないで現状の公社のままでよいというのであろうか?それは国民として無責任ではないか。
公社化されて2年半。2期分の財務諸表がすでに公開されている。この財務諸表をご覧頂きたい。公社のままであれば2年後には確実に赤字に転落する。現行法令等の枠組の中での経営努力の範囲で精一杯努力しても2年が3年になるくらいのものだ。森本さんが指摘するような「法人税や株式注入で財政が潤う財務省」の姿など民営化時点では存在しないのだ。

おそらく森本さんは現行法案に上記3点を考慮した修正案で行けということだろう。しかしそれは考え方の相違だ。
特に分社化するかどうかは実際に事業の現場をやった人ならわかる。明らかに異なる事業を一緒の会社にすることはメリットよりもリスクが大きいのだ。「社長は一人でよい」と森本さんは書いているが、一人の社長で3事業をいきなり掌握するのはどうしても粗雑になる。3事業全てに卓越した経営者候補がいるのであれば是非紹介してほしいと思う。そんな都合の人がいれば誰も苦労をしないだろう。

私であれば必ずいったんは分社化し経営改善の進み方や事業展開によってM&Aという道を選ぶだろう。この際3事業が一緒になっていたらM&Aなど遅々として進まないに違いない。
株式の完全放出については10年間が長いとみるか短いとみるかだ。森本さんは10年間での完全放出は短いというのであろうか。ビジネスはそんなに悠長ではない。

評論家的な発言であればそれでもいいかもしれない。しかし当事者としての発言としては中途半端との指摘を免れないだろう。
民営化後にいかに経営再建を行うかだ。
民営化法案で雇用的な面での合理化は行えないことになっている。行うのは業務の合理化だ。「猛烈な合理化」など本当に経営のわかっている人のやることではない。ましてや「一人の社員で今までの2倍の仕事量をやらせる」なんてのは経営でも何でもない。経営を知らない愚人のやることだ。
経営改善の鉄則のひとつに「一の手二の手三の手」というのがある。それから考えても出てくる具体的な最初の方策は「成長企業への積極的な貸付」であり「物流の効率化と最新技術の導入」である。
私ならそのために1万人規模の追加雇用を提案するだろう。
経営の経験のある方や財務諸表がわかる方は下記に郵政公社の財務諸表などのリンク先を張っておくのでご自分で確認されることをお奨めします。

危機感を煽るだけでは賢明とはいえない。郵政事業が困難な状況であることは多くの人は理解している。だからこそ自らも当事者の自覚で経営の経験と叡智を結集して郵政事業を再建することが求められている。

【参考】第一期郵政公社決算の概要
    第二期郵政公社決算の概要

2005.09.07【衆院選投票日当日まであと3日余り】
今日の東京は、台風が日本海側を通過している影響があって終日強い風と突発的な雨降りの一日となりました。
衆院選投票日当日まであと3日余りとなり、駅頭などでの演説も聞く機会が少し増えてきたような気がします。直前の3日間で投票行動を決める有権者が多いという統計も出ていますのでそうしたことも関係しているのでしょうか。
街頭演説や知人との話の中で気になる点がいくつかありましたので2,3取り上げてみたいと思います。

@「郵便局には税金は使われていないので民営化しても行財政改革にならない」という主張

確かに郵政公社は独立採算の法人である。その意味では直接税金は使われていない。しかし多くの人が気づくからくりがある。多くの人を雇用し給料を支払い法人としても利益を上げているにも関わらず、法人としての税金を納める必要がないのだ。民間金融機関で義務づけられている預金保険機構への保険料も支払っていない。法律で義務づけられていないからである。
さらに郵政公社の主要な資金運用先は特殊法人である。その特殊法人は年間4兆円もの税金投入を受けながら、郵政公社からの借入に対する利息を払っているのだ。この事実を知りながら「行財政改革にならない」と発言することは意図的な事実の歪曲といわれるだろう。
2005.08.22【財政投融資の問題は何か?】

A「年金改革は年金一元化を掲げたわが党が進める」という主張

これがどこの党の主張かだれもがわかることだろう。この政党は前回の参議院選でも同様の主張を掲げた。受けて立った政府与党は年金問題を協議する3党協議会を設置したが、この党はその席につかなかったのだ。それだけではない。一元化のための財源案の不整合を指摘されても回答が出てこない、消費税で対応するとあるので政府与党が試算すると+8.5%必要になると指摘しても無回答。大きな制度的隔離がある国民年金を除いて、まずは厚生年金と共済年金の一元化に着手しようと与党が提案しても審議拒否だ。
しかし選挙になると街頭で声高に「年金だ」と叫ぶ。本当にやる気があるのかといいたい。

B国会では反対しておきながら「子育て支援もわが党がやる」という主張

これも有名な話題だ。国会審議では児童手当の支給拡充に反対、育児休業制度にも反対してきた野党第一党が、選挙になると「子ども手当」なる名前が違うだけの制度を掲げて「わが党がやる」といいだす。これには他の野党も反発している。
すでに現在行われている児童手当には制度上の不備はなく財源も確保されている。観点はどこまで支給していくかということだ。児童手当の効果には先例がある。欧州のフランスだ。フランスは児童手当と育児休業制度によって、約10年かけて人口減少を増加に転じることに成功している。
目先の政権争いばかりに目を囚われて未来の日本を支える子供たちを忘れてしまっている政党に未来を託すわけにはいかないだろう。子育て支援は単に子育て世代の支援ではない。わずか20年先の納税者を生み育てるという直近の課題なのである。

2005.09.05【東京23区内で浸水家屋が多発】
4日夜から5日未明にかけて、東京都や埼玉、神奈川県を襲った記録的な集中豪雨。床上浸水などの被害を受けた。
都内では杉並、世田谷、中野、北区を中心に508軒が床上浸水、1424軒が床下浸水した。首都高速渋谷線の渋谷出入り口付近など5路線7か所と一般道の25か所が冠水し、一時通行規制された。
私の住む東京都練馬区でも昨夜4日22時台を中心に1時間で100mmを超える豪雨が降ったが幸いにも浸水被害はなかった。

今回浸水被害が発生している地域は、元々小規模の被害が頻発している、地元では知られている地域ばかりだ。しかしこれほどの大被害になったのは珍しいと言えないか。
今回の被害発生の一因として「合流式下水道」システムが指摘されている。生活下水と雨水とを一緒の管で下水処理場まで運ぶ方法だ。今回の被害に対して、専用管や地下での調節池の建設を急ぐことを指摘する声も出ているようだが、その一方でそうした日本の現行システムであっても時間当り100mm以上の豪雨には対応できないことも事実である。

それよりも激流を発生させないための原因解決こそが必要だ。
原因解決の視点は2つ。
ひとつは集中豪雨を発生させないこと。
もうひとつは降った雨を一気に流さないことだ。

集中豪雨を発生させないためには温暖化を防止することが最も有効である。これは大きなテーマなので別の機会に書きたいと思います。
「雨水を一気に流さない」ことの方が対策から効果を得るまでの時間が短い。都市の保水力を挙げていくことは以前からプロセキュートのHPでも訴えていることでもある。いくつか方向性はあるが、抜本的には地下浸透の割合を上げていくことが重要だと私は思う。その次善の策として雨水浸透枡など雨水を貯めるタンク等も有効になる。

2005.08.31【かみあわない議論の本質】
昨日衆議院選挙が公示された。
あと11日間様々なメディアや場面を通して政治実績や公約、理念等が語り合われることだと思う。しかし昨今の議論や会話を耳にするにつけ暗澹たる気持ちになることが多い。それはなぜか?議論がかみ合わないことが多いのだ。
もちろん百人いれば百論あり、議論が対立することは当然だ。しかし議論が成立しないというのは話し合う舞台にも上がれないということでもある。様々な理由が言われるだろうが、その大きな理由として

@「哲学理念」の不在
A「現状認識・把握」力の欠如
B「傍観者」としての発言
この3点が大きく影響していると私は見ている。

@「哲学理念」の不在
これは繰り返し訴えていることだが明確でかつ過ちのない理念哲学なくして批判の目ばかりを持つと同じ現象であっても180度違う評価を下すことは日常的に発生している。
卑近なことであっても、今日明日の利益を、自分だけの利益を追い求めて行動するのか、10年20年先はたまた自分は死んでいるであろう100年先を、より多くの人々を想定して行動を決めるのかだけでも大きな違いが出るものだ。
その境涯の大きさの根底に据えられるものを哲学理念と呼びたい。

A「現状認識・把握」力の欠如
自分が100%満足できる状況などはまず実現させることは困難だ。ましてや社会という共同体の中で生活していく以上、まわりの人達と意見考えを交換しながらよりよい具体策を探っていくことになる。100%正しい人もいなければ100%間違っている人もいない。
また根本的な哲学理念が違うがゆえに結果として表れる方策が間違っている場合もあれば、方策は如何様にも対処できる場合もある。
ここで大切なことは現状を分析する能力だ。その前提となるのが現状認識・把握力だ。時代を追うにつれて一般的情報(information)は氾濫というくらいに多くなっているが、個々人がそれらを収集し取捨選択して有機的に組み立てる能力が育っていない。
そうなると先に飛び込んできた情報、印象の強い情報に左右され、現状を的確に認識することができない状態に入り込むのだ。これを思考停止と呼ぶ人が増えている。
そして意外なことであるが、充分な情報を収集していない人がことのほか多いのだ。(一例を挙げれば未だに「民営化されれば郵便局が数年で減少する」と思っている人が多い。民営化施行まで2年、その後完全民営化まで最長10年、少なくみても10年以上は郵便局拠点数は減らすことはない。そのために2兆円の基金を積み立てることも法案に明記されている。)

B「傍観者」としての発言
哲学理念を持ち、的確に現状認識ができたとしても主体的な行動が伴わない人は、その発言は必然的に上滑りをはじめる。評論家は多いが、場合によっては自分がその主張の実現のために尽力するという意識がないままの発言は創造的価値を生むことはない。そうした意識のない議論は時間の浪費になっている。

この3点だけでみても、いずれもが欠落している発言が実に氾濫している。
候補者を擁立している政党にあっても大半がこのことがわかっていないのではないかと思われるほどだ。
良識ある庶民として、責任ある言動をしていきたい。

2005.08.30【衆議院議員選挙・公示日迎える】
世間で高い関心を集めている衆院選挙が本日30日(火)公示され、9月11日(日)の投票日をめざして選挙戦がスタートしました。
今回の選挙は「郵政選挙」と報道しているメディアと「政権選択選挙」といっているメディアときれいに2分されている。どちらがどうという必要もないだろうが「政権選択」という表現はどうかと思う。というのは政権選択というなら衆議院選挙は政権をだれに託すのかということは毎々のテーマなのだ。

それはそれとしてマスメディアで喧伝されている
@「郵政民営化」は行うべきか行わないべきか
A「政権」を託すに値する政党はどこか誰か という2点について論じたい。

@「郵政民営化」
これは5回にわたって日記に書いています(8月16日20日)ので、そちらを再度読んでいただきたい。このようにいくつかの角度から郵政事業を考えてみると郵政民営化に反対する正当な理由は存在せず、また民営化によって郵便事業自体が、そして行財政改革が大きく前進するであろうことが予測することができます。
どのような理由を想定しても、郵政事業を現状のままでよいという結果には行き着くことはないでしょう。「なぜそんなに急ぐのか」という意見も見受けるが収支の数字をみればわかることだ。財務諸表が読める企業経営者であれば、だれもが2年後の実質赤字転落を予測するだろう。

A「政権を託すのはどの政党か誰か」
これは2つの角度から論じられなければならない。
ひとつは現在の自公連立に政権を託すことがよいのかどうか?
もうひとつは対抗軸として考えられている民主党に託すことがよいのか? という2点である。昨日29日に日本記者クラブの主催で自民、公明、民主、共産、社民、国民新党の6党党首による党首討論会が行われた。マスメディアでは「どの政党に政権能力があったと感じたかは有権者の判断するところ」とコメントを避けているが、与党対野党の構図で行われた討論の結果は、与党である自民公明の政策に明らかな整合性と実現性があったことは明瞭だ。少し長くなるが争点を述べたい。

(1)「郵政民営化」について
「郵便は国が責任を持って行うが郵貯簡保については民営化が筋だ」「(現在行われている)児童手当に反対したのはそれが不十分だからだ」「子ども手当はそれにかわる制度として民主党が提案している」等々...。だったら反対ではなくて、修正や制度の拡充を一緒にすればいいだろうと誰もが感じたはずだ。「なるほど!やっぱり自公ではできないことを民主党がやるんだ」とは誰もが感じない。事実、岡田代表が主張していることは現在の自公政権が実現している政策よりもスケールが小さいのだ。なおかつ次々と出している新しい目玉政策には整合性がないのだ。

◆国営を続ければリストラがることを認めた民主・岡田
「郵貯の預入限度額を500万円まで引き下げれば収益が半分になる。収益源が減るんだから公務員の首を切るのか?」と問われた岡田代表は「適正規模にすることが重要で、もし赤字が出るというのであれば、労使の話し合いの中で、人員を縮小していくことはやむを得ない」と回答しているのだ。これが郵便局を守ることになるのだろうか?国営を守ることが郵便事業を、郵便局に勤める人達を守ることにならないことを民主・岡田代表は露呈したのだ。

(2)子育て支援
「子ども手当」という言葉の遊びで反対する姿勢も国民不在であるが、民主案の財源には3兆円もかかるが配偶者控除や扶養控除を廃止しても1兆9000億円しか財源が取れないことを公明・神崎代表に指摘されると「歳出削減で1兆円捻出する」という。マニフェストにも書かれていない新事実だ(^_^;)

しかも民主党マニフェストには数字のズレがある。「17兆円の歳出削減」を謳いながらも個々の項目を足し上げていくと10兆5000億円にしかならないのだ。しかもその10兆5000円億円も机上の空論である疑いが濃厚であることを各団体から指摘されていることは2005.08.27【6団体からマニフェスト評価】でも紹介したとおりだ。

その10兆5000億円も、地方向けの補助金や国直轄の公共事業をカットしたり、介護とか医療防災義務教育費など国民の生活と密着したものを削ることを指摘されると「事業の効率化で達成できる」と回答している。それならば野党であってもすぐに提言できるではないか?「積算はある」と言いながらそれは政権をとらないと言わないなんて無責任もほどがある。

(3)年金一元化問題
「政権が変われば年金が変わる」と民主党は年金を今回選挙の眼目に据えている。しかしマニフェストを読めばわかるように具体的な期日も最低保証年金額である月額7万円の財源根拠も明示されていない。民主党は+3%の消費税で賄うとするが最低でも+5%になるとの指摘にも回答がなかった。

前回の参議院選挙で民主党の一元化は実現への道筋がついていないことが明白になったはずだ。選挙後の「与野党協議の場を持て」という民主党の要求に従って協議会を開き、民主党の主張する年金一元化についても協議すると与党側が歩み寄った。しかし民主党は与野党協議を拒否しつづけている。協議をしないでおきながら選挙になったらまたぞろ裏付けのない一元化案を出してくる。有権者はそんな国会での民主党の言動は知らないだろうと高をくくっているとしか思えない。

与党側からは「まずは厚生年金と共済年金との一元化を行って、並行して国民年金との一元化ができるか協議を行おう」という提案もなされているが、これを民主党は拒否している。なぜ拒否しているのだろうか?本当に国民のためを思って一元化を提案しているのであれば一刻もはやく協議を進めることが重要なはずだ。そうすれば反対勢力も説得も納得もできるではないか。多くの有権者が見せかけだけの「国民の味方」に誰も騙されずに、真実を見抜く眼力を持ち合わせていると思うが、公示日にあわせて一言書きました。
奇しくも複数のTV局の報道番組で「政策を見抜く”眼力”」という同じ言葉を使っていたのが印象的でした。

2005.08.27【6団体からマニフェスト評価】
26日午後に行われた「新しい日本をつくる国民会議」において参加6団体から、2003年衆院選マニフェストの達成状況および今回のマニフェストの評価が発表された。
総選挙直前!「政権公約検証緊急大会」

6団体とは
・経済同友会
・全国知事会
・言論NPO
・構想日本
・日本総研
・PHP総研 である。

それぞれ立場も視点も異なることが主な要因なのか評価に大きな差が表れている。これほどの違いが出るのかとびっくりするほどだ。

【2003年マニフェスト・実績評価】

まず2003年マニフェスト評価については与党である自民党、公明党の2党のみが評価対象としなった。100点満点中24点と倍以上の差が出ている。
団体名 自民党 公明党
経済同友会 65点 65点
全国知事会 60点 60点
言論NPO 43.8点 28.8点
構想日本 31点 52点
日本総研 70点 70点
PHP総研 32点 24点
おもしろいのはこの数字を横並びで見るとPHP総研が最も否定的な評価をしているように見えるが詳細を読むとそうでもないことだ。「橋本内閣以来はじめて対抗軸を明確にし、改革の実行を展望させているという点では高く評価できる」という分析を行っている。ということは今後の期待を込めて厳しく評価した見ることができる。
また全般的に行財政改革の方向性を批判しているのではなく、逆に抵抗勢力との妥協の懸念や党内不一致による改革の実効性を疑問視する形で低い評価点となっていることから考えれば、今回の解散への流れを支持していることを読み取ることができる。
公明党への評価が低いPHP総研と言論NPOがその評価点とした理由として、外交安保政策の弱さが挙げられている。言論NPOは安全保障等は自民党に依存しているとして厳しい指摘を公明党に下している。公明党はこの点について真摯に受け止める必要があるのではないか。

【2005年マニフェスト評価】※8団体(+連合+日本青年会議所)

8団体の評価となっているが実際に自民、公明、民主の3党のマニフェストに評価点を出しているのは経済同友会、PHP総研、言論NPOの3団体のみだ。
評価内容は「表記の充実度(形式基準)」「政策の実現性(妥当性)」の2本柱になっているが、これでは実現性がないマニフェストであっても体裁さえ整えていれば及第点の評価になってしまう。これで評価といえるのだろうか?
その観点から内容を見ると、問題なのは民主党だ。
経済同友会は「表記の充実度」に自民公明を上回る点数を付けるなど“形式”を評価しているが、政策実現性について「裏付けが不十分」「社会保障の充実と財政再建の両立は疑問」「郵政民営化については最終的な組織形態の説明がなければ経営体として成立しうるか否か将来の国民負担はどうなるか等が明らかにならない」と厳しく指摘している。
PHP総研は「期限や財政的な裏付を明確にしており公約を守っているかどうかを国民が厳密に検証しやすい」としつつも「そうした期限や財政的な裏付がどれだけ根拠があるものかどうかについては疑問が残り、作文上の修辞にとどまっている可能性がある」と机上の空論である疑念を呈している。
言論NPOは「マニフェスト型政策決定のプロセスが党内で確立している」としながらも「政策面ではそれら(マニフェスト等)と整合性のない政策も依然残っている」と指摘している。

しかしマスメディアの報道タイトルやニューステロップは「民主のマニフェスト・自公よりも高い評価」「民主優位の評価」となるのである。
私達が求めているのは体裁や形式ではない。実際の生活が、社会がよりよくなる政治の実現である。
一人一人がもう一度、メディア報道ではなく各党のマニフェストを実際に確認して責任ある投票行動を行なうことが大切ではないでしょうか。
各党のマニフェスト(公約)はこちら
- 自民党 政権公約2005
- 公明党 マニフェスト2005
- 民主党 日本刷新8つの約束
- 共産党 総選挙にあたっての訴えと7つの重点公約
- 社民党 総選挙政策2005
- 国民新党 ホームページ
- 新党日本 ホームページ

2005.08.25【人は同じ過ちを繰り返しているのか】
昨日の日記で民主党の身勝手な言動の一端を書いた。しかしこれは民主党のみの話ではなく身近に存在することを実感している。ビジネスのシーンにあっても対話が成り立たない人が厳然と存在する。このテーマは折りに触れて述べてきた。
例えば、
2005.01.07【独立をしたい知人とのコミュニケーション】

などもその一例だ。
それが時間を追うごとに増えてきているような気分になる。なぜこのような人達が次々と現れるのだろうか?私はそこに哲学の不在を強く感じずにはいられない。

ビクトルユゴーの名著『93年』には、見苦しいまでの、エゴ丸出しの自己中心の会話が展開されている。マラに自らの悪行や不正を指摘されたダントンが滔々と自分の実績を語るシーンがそれだ。
一見会話が行われているかのようにやり取りが交わされているがダントンはマラの質問には一切答えていない。意図が分かっていて意図的に違う話をしているのだ。またそのことによってマラを嘲笑する悪意も含まれている。

そして興味深いのは別のパターンも展開されていることだ。独裁政治の実現をめざすロベスピエールとダントンがお互いの発言を意図的に自分自身の擁護に取り込んでいる様だ。そのことによって、マラの諜報活動的行為による個々人への不正行為の摘発に対して、2人が自分の立場がよくなるように、あるときは共闘し、あるときは互いを非難しているシーンが実に繊細に描き出されている。
このケースが現実生活においても実に生々しく展開されることが多いのではないか。

なぜこのようなことが起こるのだろうか?
いくつか理由が挙げられるだろうが、集約的には「自己弁護」が最重要目的に据えられているからではないかと私は感じる。つまり「私は間違っていない」「確かにトラブルがあったがそれには私の責任はない」ということを常に言いたいがために、他人の発言の中から都合のよい部分を言質として拾い集めているのだ。
これを行う人間が1人でも入ってくればビジネスにあっても日常生活にあっても不協和音が発生し始め、必ずトラブルに直結する。しかしその本人は自分が原因をつくりだしているとは少しも感じていない。なぜなら「自己弁護」をすることがその人間の行動規範であるからだ。

もちろん他のパターンもあるだろう。それらも含めて、なぜ自己中心的な行動に終始するのだろうかという、さらにその奥に目を向ける必要がある。
私は、その原因は自分自身の行動に本源的目的を見出していないことに帰結すると思う。言い換えれば「何のために」働くのか、「何のために」一生をおくるのかという思索が浅すぎるのではないだろうか。
そのことを指摘すれば、確かに「よい商品を適正な価格でお客様にお届けする」等々それなりに回答が返ってくる。では「なぜ、あなたが『よい商品を適正な価格でお客様にお届けする』必要があるのですか?『よい商品を適正な価格でお客様にお届けする』ことによって何をめざすのですか?」という問いかけを2回くらいも繰り返すとすぐに会話が成り立たなくなってしまう。

仕事について、人生について誠に浅薄だと言わざるを得ないだろう。だから事前に想定していないことが少しでも発生すると、その対処行動が左右にブレることがしばしば起こるのではないだろうか。
これを哲学の不在と呼んで差し支えないと思うのだ。

あなたは自分を守ることが重要な目的になっていませんか?
哲学の不在を、自分勝手な哲学まがいの行動をおかしいと感じなくなっていませんか?
私自身も含めて、常に問い続け、行動する今日一日を送りたい。

2005.08.24【民主党よ自らの行動に矛盾を感じるのでは?】
民主党の岡田代表は23日の鹿児島市内での記者会見で「あえて小泉さんが郵政に絞り込んでくるのであれば、我々は『郵政改革が大事なのか、年金・子育てが大事なのか』という設定もしていきたい」と述べたと報じられている。
民主党には今までも期待したことは一度もなかったが、ちょっとたちが悪すぎるのではないか。「民主党よおまえもか」という気分だ。

確かに今後4〜5年を託す国政選挙だから焦点は郵政民営化だけで論じるのではなく、複数の重要課題をいくつか争点にしていただきたい。その意味で自民党のマニフェストにだって郵政以外の政策公約が掲げられている。
つまり郵政民営化も重要な政策課題なのだ。「郵政をとるのか、年金子育てをとるのか」ではない。どちらも大切だ。なぜ二者択一のような発言になるのだろうか。岡田さん説明してくださいよと言いたくなる。

そうした発言になる理由として考えられることはひとつだけだ。
民主党は郵政民営化の政策論争をしたくないのだ。そうでないというのであれば、民主党はこの問題について責任ある言動をとらなければならない。
そもそも民営化に賛成なのか反対なのか?マニフェストを見るとどっちでも取れる。この考えなら郵政法案に賛成になるじゃないの?と聞きたいような、否決された政府与党案からとってきたのかと思えるような内容もある。しかし政府与党案よりも明らかに杜撰で検証されたあとが見られない。

「現在340兆円ある郵便貯金と簡易保険は適正規模に縮小します」「8年以内に郵便貯金220兆円を半減させます」「郵便事業については国の責任で全国一律サービスを維持します」とあるがこれだけでは早期赤字転落は必至だ。この内容であれば郵便局員の人員整理は必死であり(そのことは岡田代表も認める発言を行っている)数年先を予測しても現在の体制よりもさらに事態は急速に悪化することが懸念されるマニフェスト内容だ。そのことの説明もないし21日のTV番組でも他党から指摘されたがこれにも回答がなかった。
2005年民主党マニフェスト

国の責任と言いながら郵便局の業績を急激に改善する方策は何ら提示されていないばかりか、驚いたことに「郵貯・簡保を適正規模に縮小した後は、政府系金融機関との統合も含め、あらゆる選択肢が可能になります」とある。明らかにリストラが想定されているのだ。民主党に一票を投じようとしている有権者はこのマニフェストを見ているのだろうか。民主党はいったいどういうつもりでこんな内容を提起しているのだろうか?

それと比較すると政府与党案はよく検討され、郵政事業に関わる関係者への配慮や将来の展望が込められていることがよくわかる。確かに完璧ではないのだが、民主党案と比べるとものすごく素晴らしく感じられるほど民主党案はひどい。

そもそも郵政民営化について民主党は態度を二転三転させていることは周知の事実だ。
2002年に政府与党が郵便局の郵政公社化の法案を提出した際に民主党は公社化に反対している。その理由は「公社では改革はできない民営化が必要だ」というものだった。それが今回の郵政民営化法案では「公社のままでよい民営化に反対だ」と180度反対のことを言っている。いったいどっちなのか?途中で方針転換したのか?それとも郵便局の将来など関係なく「反対反対」と言っているだけなのか?先日のTVではそのことを指摘されたら話をすり替えて答えなかったではないか。国民は賢明だ。そんなことでごまかせると思っているなら国民を愚弄するにも程がある。
この日記では特定の政党を名指しで非難することはなかったが、その方針も変えなければならないかもしれない。自浄能力のないいいかげんな輩を言いたい放題にさせておくのはそれ自体が社会悪であると強く感じるからだ。民主党の言動については一度まとめて検証してみたいと思う。

民主党よ責任ある答弁を行ったほうがよいよ。

2005.08.23【鳥インフルエンザ感染鶏処分方針の変更】
茨城県と埼玉県で発生した鳥インフルエンザの影響は私達一般の消費者が思う以上に甚大なものらしい。
特に茨城県は全国随一の鶏肉生産密集地域であり、日本一の生産量を誇る農場での鳥インフルエンザの感染が明らかになったため、その被害はBSEにも匹敵するという指摘もある。

農水省は、感染した養鶏場への処分方針を急遽大きく転換させた。今月22日に、過去のウイルス感染を示す抗体陽性反応が出た段階で養鶏場のすべての鶏を処分していた従来の方針を転換し、弱毒型ウイルスの場合は抗体検査が陽性でもウイルスが検出されないという条件を満たす場合に「密閉型鶏舎」に限定して鶏を処分せず鶏卵の出荷も認めるという決定を発表した。

抗体陽性が出た埼玉県鴻巣市のイセファーム堤向農場に鶏を搬入した茨城県の系列養鶏場3カ所で検査が行われ、いずれも結果は陽性であり、1カ所はH5亜型ウイルスを検出した。飼育中の鶏は約207万羽であるが今回の方針変更によって処分対象は開放(非密閉)型鶏舎1棟とウイルスが検出された密閉型鶏舎1棟で飼育中の計約26万羽にとどめることができる。
単純計算で全国の鶏肉(ブロイラー)出荷羽数の一日分より多い羽数の処分を回避できたことになる。この方針変更は今回の感染がいかに大きな影響を与えたかということを端的に表している。
農畜産業振興機構「鶏肉の国内生産量」

しかし全羽処分を行ってきた今までの中小零細規模の感染養鶏場の経営者を中心に納得のいかない感情が出てくることも容易に想像できる。
今までも中小企業や個人経営者なら個人責任とされ、被害が大手資本に及ぶと税金で救済するといった泥縄のやり方を私達庶民は数多く目の当たりにしてきた。ダイエーの救済や民事再生法の適用、銀行への公的資金の投入、過去には国鉄民営化だってその一例だとも言える。国鉄時代の借金なんていまだに税金で返済し続けていることをご存知だろうか?

責任ある立場の人間には、事態の因果関係を見極め、どこまでの結果がどの程度の確率でありうるのかを見極めることが求められている。その陰での行動が不公平なく多くの庶民の納得を得るための必要要件であると思う。

直接感染防止対策にかかわることができない私達消費者としては、曖昧な風評や悪意のあるデマに惑わされない賢明な消費行動をとることが重要であると思います。そして多くの関係者が安堵し、こうした暫定的な対策を講じて得られた時間の中で、抜本的な対応策が検討実施されることを願うのみです。

2005.08.22【財政投融資の問題は何か?】
先日の日記(8月18日)で郵政民営化の目的には「財政投融資という市場金利よりはるかに高い金利を税金で払い続けているところにメスを入れる」と書きました。この「財政投融資って何?」という質問を受けましたので簡単に説明しておきたいと思います。

◆財政投融資とは
郵便貯金や簡易保険で国民の皆さんから預かったお金の運用先として特殊法人に貸付を行うやり方を指します。その貸付先から支払われる金利によって郵便貯金の利息や簡易保険の満期利息や病気災害時の金額が支払われます。つまり運用して少しでもお金を増やさないと支払いができないことは一般の銀行や保険会社と同じです。

◆郵便局の主な資金運用先は道路公団
現在郵便局は国の機関ですので預かった保険料や貯金の運用先は法律で決められていないといけないのですが以前は管轄省庁であった郵政省(当時)の裁量で国会の承認もなく行われていました。その運用先が道路公団や住宅公団などの特殊法人です。2001年6月の特殊法人等改革基本法の施行によって運用先についてもガラス張りに近づけましたが、郵便局側の改革に着手できていなかったため、特殊法人への投融資は現在も続いています。

◆税金で郵便貯金の利息を払っている?
特殊法人に対しては、一般会計と特別会計から補助金や出資金名目で年間4兆円以上の税金が投入されています。出資金は一応は返還されることになりますがもし破綻すれば返済はさせませんし補助金は元から返済されません。
その一方で郵便局から貸し付けられた融資については滞りなく金利分が支払われています。税金によって郵便貯金や簡易保険の支払が行われているという指摘はこの実態を指しています。

しかもその金利は市場金利よりも高いとなれば納税者である立場からは「なぜ高い郵便局から融資を受けないといけないか」という当然の疑問が出てくる。それは郵便貯金預金者への利息支払と簡保契約者への支払を確保するためですが、ここまで話せば、郵便局という国営企業があるがゆえに多くの国民が必要以上に多くの負担を強いられていることが誰にでもわかるでしょう。

◆道路公団の出口の監視は始まった。次は入口だ。
その一方でその資金によって赤字だけの高速道路が次々と造られている。その投融資は適切なものなのか?もっと優先させるべき融資先はないのだろうか?現在郵便局は360兆円もの資金を保有している。その運用先が特殊法人だけでよいわけがない。と私は思います。
改革改革と言って、道路公団の放漫経営を弾劾している民主党は、税制投融資という潤沢な資金の入口を改革するという視点は持ち合わせてないのでしょうか。民営化以外の手法によっても抜本改革ができるというのであれば明確な代替案を提示しなければ誰も納得してはいけません。

事実、今まで大口の融資先であった住宅金融公庫での長期固定金利での住宅ローンは国会決議を経て廃止されたが、国民生活には支障が出ていない。なぜか?それに代わる形で銀行等で同率の長期固定金利での住宅ローンが組めるようになったからだ。このことによって税金の支出先を大きく減らすことに成功している。郵便局の大口融資先も縮小せざるをえないのだ。

しかし他の融資先を探そうにも民間企業への融資は法律で制約されている。郵政民営化を進める理由のひとつがここにもある。

2005.08.20【郵政民営化を考える(5)日本はソフトランディングの国】
このように4つの観点で郵政民営化の必然性を述べてみました。
私は郵政事業に特にしがらみのない立場の人間として複数の観点から考えてみて、郵政民営化は自然な流れであると感じています。
みなさんはどのように感じ考えているでしょうか?

◆民営化法案が通っても10年以上は郵便局数も雇用も減らない
そうは言っても直接的に郵政事業に関係して働いている人もおられることと思います。
ハードランディングを受け入れられない国土風土であることを考慮して、郵政事業の場合は民営化法案が可決されたとしても完全民営化までに10年以上の年月をかけることを認識していますか?
このことは国会に提出された郵政民営化関連法案を見れば明白です。
首相官邸HP「郵政民営化関連法案」
民営化法案施行後、完全民営化まで最長10年をかけることが明記され、その間は
・郵便局の拠点数を維持する
・郵便局員の人員整理は行わない
・郵貯、簡保のサービスは維持する

が明記されています。さらにそのための原資として2兆円の基金を用意することも決定しています。これらは当初計画にはなかったものであるが、2004年12月の与党内の協議で公明党が提案し自民党側が了承して法案に盛り込まれたという経緯がある。
郵便局が減ってしまう!職員がリストラされる!というデマゴーグに踊らされているあなた。安心しましたか?

◆反対議員はデマを流すだけ
その間、民主党をはじめ他党の議員は何をやっていたのだろうか。法案の文面に不備があるなど言っていたのだ。不備があればあれば皆で力をあわせてよりよいものにすればいいのだ。学校でも会社でも地域でも前向きな人達はどこれもやっていることだ。
最も民営化されなければならないのは国会議員たちかもしれない。

◆国営を守ることは郵便局を守ることにならない
今後10年の間には地方分権の流れもあります。インターネットや双方向の地上デジタル放送等の情報手段の選択肢がさらに増えているはずです。コンビニ等の店舗網も変化しているはずですから、郵便局自体の存在のしかたも劇的に変化しているかもしれない。その意味では郵便局も弾力的な運用ができる状態になっていることが望ましいはずです。
国営でいれば経営が悪化しないとでもいうのでしょうか?そんなことはありえないのです。

◆民営化とは人一人の努力で郵便局の経営改善をすること
一例を挙げれば、民営化によって今まで制限されてきた商品販売や飲食店事業などを郵便局と併設することも可能となる。地方にあってはガソリンスタンドやカラオケ経営店など民間企業が郵便局を開局することも可能となるでしょう。24時間営業の郵便局も各地にできるかもしれない。
民営化とはお客様の立場で仕事をするということです。
国営であることに何の意味があるのでしょうか?国営であっても需要がなくなれば仕事はなくなるのが当たり前の話です。
民営化とは自らの努力が活かされるということです。一人一人の努力で危機的状況の郵便局を経営改善しようという話なのです。

◆それでも民営化反対という方は直接議論しましょう
その意味では郵政民営化に反対する自民党造反議員や民主党の主張には根拠のない憶測が多く含まれており妥当性が限りなくありません。これは企業経営に携わった人間であれば誰でもわかることでしょう。
とりあえず郵政民営化に対しての私の考えを5回に分けて掲載しました。皆様のご意見、特に郵政民営化に反対という方のご意見をお聞かせいただければありがたいです(*^_^*)

2005.08.19【郵政民営化を考える(4)社会活動・経済活動の目的とは】
まだよく整理できないという方には、4つめの観点として根本的な私達の社会活動、もっといえば生活していく全ての営みの目的は何なのか、何のために生活をするのかという観点で考えてみましょう。

◆他人の不幸の上に自分の幸福を築こうとしない
私はその目的を表現する言葉として「自他共の幸福」という表現を好んで使っています。つまり、ひとりひとりが例外なくよりよい生活をおくること、それが自分だけでなく縁をもつ全ての人たち、また関わりあう全ての自然の生命たち、さらに未来を担う子供たちに受け継がれていく...そんなイメージを
もって使っています。

そんなたいそうなことを言っても日々の生活は一緒じゃないかと言われそうです(^_^;)では具体的に何が違うのか?
結論をはしょりますが、見た目は何も違わないと思います。しかし眼前にある、自分が縁する個々の事象に真剣に取組むこと。ここから全てが始まると思っています。
より具体的に、直面する仕事や生活にあっては取捨選択する判断基準も必要になります。
まぎわらしいものを的確に判断する基準として
・暴利は貪らない
・不労所得は求めない
・人の不幸の上に自分の幸福を築かない
ということを常にこころがけようとしています。
これらの判断基準に外れないことを精一杯やっていく。
これが大切だと思っています。

◆ライフライン事業と社会的格差解消事業に特化せよ
そのうえで行政府が直接行うべき事業は何であるかが問われるべきであると思います。私の今の考えとしては政府自治体が直接行うべき事業は、ライフライン事業と社会的弱者への事業に特化、限定されるべきだと思っています。
これは言い換えれば基本的人権を守り実現するための事業と言ってよいと思います。この部分には経済論理をそのまま持ち込んではならないと思います。ただし言い添えておきますが、「そのまま」持ち込んではないけないと思っているわけで、経済論理は厳然と存在しています。つまり個々の事業に対しての経済論理ではなく、国家全体としての経済論理は働いているというのが私の考えです。
つまり個々人や企業としての社会的活動がその個人企業単位で収支をとっていくのと同様に、基本的人権を守り実現するための事業は税金や保険料等で原資を確保しながら効率的に成果をあげていくことが求められているということになります。

ただおもしろいことに日本ではライフライン事業の大半は早い時点で民間企業によって行われています(^_^;)。ガス会社や電力会社、通信会社は民間企業です。
その一方で、水道は一部民間企業が行っているところもありますが大半は旧態依然とした形態で自治体が直接または共同出資で組合を作る形で運営されています。純粋に民間で行うのは水利権などが絡むからなのでしょうか。詳しく調べたことがないので正確な理由はわかりません。
道路関係は公団でいわば半官半民、しかしその上を走る交通機関(バスなど)は民間企業です。鉄道も一部の第3セクターを除いて主流は民間企業です。
こうやってみてみると日本における官民、公私企業体の違いは権益が存在するかどうかで分かれていると思えてしまうような様を呈しています(^_^;)

こうした中に郵政3事業が入ってくる必然性があるでしょうか?
・逓信(情報通信を含む)事業
・保険事業
・貯金事業
いずれも殆どの人は基本的人権を守り実現するための事業だとは認めないでしょう。

2005.08.18【郵政民営化を考える(3)累積赤字と財政投融資】
3つめの観点は日本国の抱える累積赤字の視点から考えてみます。

◆国家財政赤字は600兆円超・誰が返すの?
一人当たりの累積赤字が600万円以上になっている国家財政の現実に対してももっと現実をどうするのか?深刻な問題です。
ざっくり言えば、現状500万円の年収しかない家族が毎年500万円の借金を増やしながら1000万円の生活を満喫している...。
私は1000万円を使う生活をしたことがないのでわかりませんが(^^ゞ一家の稼ぎの2倍の生活は贅沢の限りでしょうね(^_^;)

◆小さな政府にしてないで解決策はあるのか
これが日本の現実です。個人の家庭ではありえないことです。個人の家庭で考えればわかります。とるべき改善策は2つしかありません。
@1000万円の収入を確保する
A500万円の身の丈にあった生活をする

今のままの生活を続けるなんていうのは破滅的思考です(^_^;)。
日本もどこかでどちらかの選択をしないと間違いなく破綻します。
政府で収益事業を行なうことは本末転倒ですから@の道とは増税か、経済成長を200%以上にして税収入を増やすかです。200%の経済成長なんてできるはずもないし、もしそうなればデフレスパイラルに突入しますから、実際には増税の道になります。
それでいいんですか?
それとも身の丈にあった生活をするんですか?
今の行財政改革は「倹約説活をしなさい」と国民をいじめているのではなく、税金を使わないで民間でやってもらおうということだ。
増税か民営化か?郵政事業に関してだけいえばそれ以外の選択肢はない。

◆道路公団の無駄遣いを支えているのが財政投融資
そもそも郵政民営化の主眼はどこにあるのか?財政投融資という市場金利よりはるかに高い金利を税金で払い続けているところにメスを入れることにあります。
それがわかっているから民主党だって「郵貯と簡保は民営化したっていい」と発言するわけです。
しかし郵便貯金事業だけ残して現在の正職員26万人をどうやって雇用するのか?ここで思考停止に陥っていはいけません。
そろそろ郵政民営化反対という主張が一気通貫していない継ぎ接ぎだらけの粗悪品であることに気づいてきたのではないですか?

2005.08.17【郵政民営化を考える(2)公務員の必然性はなにか】
視点を変えて公務員という立場がなぜ生まれたのでしょうか?

◆民間企業にも公益の利益を提供する責務がある
公共の利益を提供するためにその身分地位を保証した公務員という職責を作ったのは誰もが認めるところだと思います。
では民間企業には公共の利益を提供する責務がないのでしょうか?
私はここが根本的に間違っている、もしくは成熟していない重要なポイントであると思っています。

確かに利益の追求が企業活動の目的と言われています。営利法人と言われる所以でもありましょう。しかし利益の追求のために何をやってもいいのか?法律にさえ抵触しなければ許されるのか?やはりそこには人として許されない規律が厳然と存在します。
企業活動の目的を私は「求められる価値の創造と提供」だと考えています。
その視点から見ていけば現在の公務員と民間企業従事者との境目は実にあやふやなものであると感じられてなりません。その意味では公務員という職責が多くの仕事を担うのは成熟途上社会においてのみであると考えています。

◆民間企業をなめてはいけない
国会議員の郵政民営化反対の主張を聞いていて、20年ほど前だったと思いますが、ヤマト運輸への宅配事業許認可が遅々として進まなかった状況を思い出すのは私だけではないと思います。
あのときでさえ「全国統一のユニバーサルサービスを保証すること」が行政側から出された条件でしたね。民間事業にそんなことを要求するのかと驚きもしました(私が最初の就職企業が物流専門のトステム物流株式会社だったので詳しく調べたことがあります)。
しかしヤマト運輸はそれを達成しています。しかもそれは官から要求されたからではなく、事業を行う者の使命として全国網を完成させました。民間企業を舐めてはいけません。

◆真の経営者は民間企業にこそ存在する
何のために企業活動を行うのか?そのことを真剣に考え実践している企業は少なくないと私は思います。数年の移行期間があれば民間企業は確実にユニバーサルサービスを維持しながら解雇もしないで民営化を達成すると私はみています。
民営化されれば営利追求のみの経営になるという見方は民間企業を知らない人の言う空論です。人心の不安をあおるだけのデマと言ってもいいすぎでないと思う。

◆民間も公務員も現状にしがみつくことは許されない
少し話が広がりすぎましたが郵政民営化は自然な道筋であると私は思っています。これは日本に郵政制度を導入した前島密も元々考えていたことです。安定した生活を求めたいのは万人共通の思いでもあるでしょう。しかし平凡ということが日々の弛まない努力に裏打ちされているのと同じように、安定した生活を求めるならば常に向上し変化し続けることが求められているのだと私は思っています。
元来、老舗にしろ同じものにように見えて常にお客様の気持ちに答えるために不断の努力を続けています。

公務員=離職の心配がないという保障された関係は時代の役割を終えつつあるのだと私は思います。もっといえば国債発行額が返済額を上回り始めたバブル崩壊直後に行政サービス全般の民営化への道筋がつけられるべきだったと思います。
つまりすでに遅きに失っていると思うのです。

2005.08.16【郵政民営化を考える(1)変化は団体組織の宿命】
今回の衆議院選挙の焦点のひとつが郵政民営化の是非ですね。
この日記でも過去2回にわたり書きました。
5月22日の日記
8月4日の日記
ただ原則的な表現のみだったことに加えて、「あれだけ自民党造反議員や野党議員が反対するのだからよくわからないけど郵政民営化には何か落とし穴があるのではないか?」という声があると聞きましたので、果たしてそうなのだろうか?という話をいくつかの観点で私なりに述べてみたいと思います。

◆成熟した社会とは個々人が自立した社会
社会体制が円熟していくにつれて政治行政の果たすべき役割が変化していくのは道理であると思います。これは行政のみではなく民間企業のあり方もここ10年ほどで劇的に変化していることから考えても自然なことだと思っています。
ではどの方向に変わっていくのか?これが問題です。
そこで浮かび上がってくるキーワードのひとつが「自己責任」ではないかと思います。これは「自立」と言い換えてもよいと思います。

◆終身雇用制度崩壊で安定した生活は10年前に終わった
民間企業にあって終身雇用の神話が本格的に崩れ始めたのはバブルが崩壊してから数年が経った頃からかと思います。もちろん中小企業にあってはそんな神話は元々存在しませんが、一部上場企業ではショッキングな出来事でした。ちょうど私が独立起業して1〜2年後から身近な複数の人から相談を受けたのでよく覚えています。
企業年金の崩壊、年功給与体系から実績報酬への移行、退職金制度の見直し(401K型への怒濤のような流れ)、そしてリストラの嵐...これらがわずか10年で起きた出来事です。しかし多くの会社員は受け入れました。一部の労働組合が強行に反対しましたが主流にはなりませんでした。企業自体が倒産してしまったら賃金水準の維持など意味がないとサラリーマンの多くが感じたからではないかと私はみています。

◆公務員だけが身分を保証される時代も終わる時が来る
企業に勤める被雇用者も自分の判断で企業を選び、企業と共に今いる場所で全力を尽くすという本来の経済活動の原点回帰ができたのだと思います。
個々の自己責任を自覚した自立したビジネスマンが存在して、はじめて協働が成立するということであると私は思っています。

実はこのころから企業は企業自体の存在意義を問い直すことが頻繁に行われるようになってきたと思います。繰り返される企業献金問題や大型の企業買収、思想哲学のないリストラの繰り返しなどが企業自身の社会的存在意義を脅かしたのだと私は思っています。

このように社会変化の流れが速まっている中で組織団体は常に変化することが求められていると思うのです。それには民官の違いはないはずです。

2005.08.15【終戦60年・広島でのアンケート結果】
終戦から60年目の当日を迎えた。
広島市内の被爆者と小・中・高校生を対象に行われたアンケートの結果がある。
被爆60年 被爆者・若者アンケート《実施元・中国新聞社》
被爆者の40.4%、小・中・高校生の45.4%が「どんな理由があれ投下すべきでなかった」との回答が最も多かった。
しかし一方で被爆者の18.9%、小・中・高校生の25.3%が原爆投下を絶対悪と考えていないことがわかった。
選択肢(回答内容) 被爆者 小・中・高校生
戦争中でやむを得なかった 12.6% 10.2%
戦争終結のため仕方なかった 5.3% 10.1%
アジア侵略の結果 1.0% 5.0%

アンケートの選択肢を選ぶ際の心境としては様々あるだろう。同じ回答を行った人達が同様の心境と考えるのは余りにも早計であるが、実際に原爆被害にあった方の2割弱、未来を担う子ども達の4人に1人が原爆投下があったことをある面で容認している。これは言い換えれば、状況が状況であれば原爆使用もあり得るという発想に直結する危険があるということでもある。被害にあった人達やその地域の子ども達でさえこれだけの数字が出るのである。それ以外の地域や世代ではその数字はさらに高くなっているとことは想像に難くない。

生命の絶対尊厳は一定の共通認識であると思うには大きな油断があるのかもしれない。総論賛成各論反対という思考傾向は最も事態を過たせるのだ。例外を認めてよい考えなのか、不変の哲学なのか、一人一人が自らを問い直す日にするべきであると強く感じた。

2005.08.09【長崎原爆投下から60年】
長崎に原爆が投下されてから60年目の日を迎えた。
この1年で新たに200人以上の方の犠牲が明らかになった。8.6広島原爆に続き3日後の投下。様々なTV番組で「原爆投下は戦争終結には必要だった」との世論がアメリカで主流であり続けていることが紹介されている。しかし百歩譲っても(仮の話であって私は譲らない)広島の3日後に長崎の投下したことをその人達はどのように理由づけるのであろうか。

物事に当たる場合、状況に関わらず不変である理念哲学が必要だと私は思う。自然社会では当たり前のように万有引力や惑星運行のリズムが解明されているように、私達の生活も地球の一部であり、相互に影響を及ぼしあっています。そのことからも私達人間の行動のみが適当な感情で左右されていることの危うさを感じざるを得ません。
生命尊厳の哲学理念は全宇宙を取り巻く状況を端的に表現しているワードだと私は感じます。

・戦争もテロも絶対反対
・核兵器の完全廃棄、核軍縮の早期推進
・イラク、コソボをはじめとする地域紛争の早期完全解決
・環境保護を推進し自然破壊を阻止する
・貧困と人種差別を撤廃する
・Cox等排出規制をはじめとする地球温暖化防止対策を進める
・未来の子供達を育てる、教育を推進する
・宇宙の可能性を研究探索する
・7世代先の子孫達にこの美しい地球を渡していく    etc...

これらすべてに共通しその根幹にある理念こそ生命尊厳であると私は思います。私達一人一人の生命、自然界に生きる様々な生命、地球生命、宇宙生命そのものを不可分で代替の効かない存在、決して偶然ではなく存在する意味を持って誕生した生命として捉えようとした瞬間から私達一人一人の意識が劇的に転換し、具体的行動の重要性が認識され行動そのものが続けていけるのだと思っています。
広島・長崎の原爆死亡者の皆様の御冥福と被爆者、ご家族の皆様の御健康を心からお祈り申し上げます。

2005.08.08【衆議院が解散】
衆議院が解散した。
郵政民営化関連6法案が参議院で否決されたことによって小泉総理大臣が決断した。多くの国民が「えっ本当に解散したの?」という印象を受けたはずだ。その一方で「小泉さんだったら否決即解散だろうなぁ」というのも容易に想像できたことでもある。いい意味でも悪い意味でも自分がこうだと思い込んだら誰に何を言われようとも行動を変えることがない人である。

私は8月4日付で書いたとおり法案否決=衆議院解散という手法には賛成できない。解散に踏み切った小泉総理は多大な負担を国民にお願いしたのだという認識だけは持ち続けていただきたい。
そのうえで、8月30日公示9月11日投票日という選挙日程が確定した以上、私達一人一人は熟慮を重ねて投票行動を行うことが不可欠である。
衆議院選挙の投票は小選挙区と比例代表の二票が各人に付託される。

今回私達が表明すべき民意とは具体的には何か?
ひとつには郵政事業民営化の賛否である。
そしてそれだけではない。この審議を通して明らかになってきたことでもあるが「真に国政を託すことができるのは誰なのか」という点である。
この2点は言い換えれば「直面する政治課題」と「共鳴支持する理念哲学」とも言える。
このように書いてしまえば全くその通りなのだが、現実の問題としてはなかなか難しく感じられる。
それは
@自分が考える理念哲学と、直面する政治課題への対応の両方を満足させてくれる選択肢がない、矛盾している
A自分の思いと一致する候補がいない
ことが多々あるからである。

このうち@については自分内部の問題である割合が高く、熟慮に熟慮を重ねていくと実は矛盾していることは殆どないことに気づく場合が多い。哲学理念から突き詰めていくと多くの課題は必然的に一定の結論に達するのだ。有権者である私達が賢明になれば投票行動の基準はおのずから明確になってくるのだと私は思う。

難しいのはAのケースだ。上記@のような熟慮を重ねていない候補者、政党が少なからず存在するから候補者と政党自身が自己矛盾を起こしている場合があるし(このことが多大な混乱を招いている)、どうみても政治を託すに足りる候補が一人も出ていないという選挙区もある。
このような場合私達はどのように行動するべきなのだろうか。
私の結論は「次善の人を選ぶしかない」である。いわゆる消去法だ。
支持できる人がいないという理由で投票に行かないと、時として「この人だけは選ばれてほしくない」という候補者が当選することがあるのだ。誰でも身近で思い当たることが事例があるはずだ。近在の市長選や区長選、10年ほど前の東京都知事選でもそれが起こったことを記憶している人も多いに違いない。
そのうえで誰かが立候補するのを待つのではなく自分達の中から候補者を出していく努力を開始することだ。ここで重要なのは理念哲学であることは言うまでもない。今までの歴史においても数多くの人が民意を代表して政治の世界に打って出ている。その多くは直面する課題をテーマに公約を掲げて議員になっているが、その直面する課題以外の問題への対応はお粗末としかいいようがない方ばかりだ。これは本人の資質とかいう次元の問題ではなく哲学理念を持たない人が自分以外の多くの住民の代表(代議者)になることに無理があるのだ。

今回の衆院選挙は実に短期日程である。なおかつこれから週末から来週いっぱいにかけて夏休み、お盆休みの期間に入る。選挙を実施する方の苦労も多大であるが、有権者の側も政策や理念を検証する時間が限られている。
いつものことながらマスメディアはタレント議員の選挙活動や過激な発言をするテレビ受けのよい議員を出演させて対立軸ばかりをクローズアップさせるだろう。
私達は本質から離れたバラエティ的な意識を乗り越えて、限られた時間の中で「いま本当に政治を託すべき候補は誰なのか」を熟慮して投票行動を行なっていきたい。

2005.08.06【広島原爆投下から60年】
広島に原子爆弾が投下されてから60年を迎えました。
60年の節目とあってテレビ等では例年になく原爆に関する特別番組が組まれている。
そのうち何番組かをみた。番組内での表現で特に印象に残ったのは原爆投下60年にして初めて当時の模様を語ったという方が複数名登場されていることだ。
生存されている被爆者の方々の平均年齢は70歳を越えている。実際に体験した方の声を聞く機会は年々減少していくことは止めようはない。しかし昨今の核脅威の増大、戦争体験がないがゆえの戦争容認の傾向に実際に身を持って体験した方々が魂からの叫び声をあげずに死んでいくことはできないという痛烈なメッセージがあるように思えてならない。

2005.08.04【郵政民営化審議に思う】
郵政民営化に関する法案審議の参議院での採決が8日(月)になる見通しが濃厚だ。郵政民営化審議については5月22日の日記で書いて以来であるが、採決の前に一言書いておきたい。

まず国会議員の皆さんへ。
党議拘束をかけるのはやめよう。党利党略で判断するのもやめていただきたい。法案の本質を語り真の審議をおこなってほしい。現在の権益、損得を考えるのではなく、10年50年100年先のビジョンを見据えたうえでの今の法案審議であってもらいたい。
その意味では「法案否決なら衆議院解散だ」といっている人。筋違いの話はしないでいただきたい。

そして国民多くの方へ。
他人事のような無関心さは排除すべきだ。「私はこう思う」と賛成反対を自分として結論を出すことだ。
解散だ政権交代だ新党結成だという威勢のよい言葉に酔わされないように気をつけよう。

現在の、そして今後の政治課題は誰が見ても結論がはっきりしていることなど、それほどない。逆に、方向性をどちらにすべきか、どのような解決策があるのか、意見が二分されるような難しい課題が続くに違いない。それは今の社会状況や経済、ビジネスの方向が「これが間違いのない道だ」というものが一概にいえないのと似ているだろう。
右か左か、AかBかCかDか...いくつもある選択肢を比較検討し困難だと思われる課題に智慧を絞り、ぎりぎりの判断をすることが全ての分野で求められる時代に入っている。

郵政民営化も意見が二分されていても何ら不思議はない。
様々な影響や可能性や展望を、ぎりぎりまで審議していただきたい。それも審議して審議して、あとはいつもの継続審議...では意味がない。これは仕事であればよくわかることだ。「ここまでに結論を出して、その時点で最良と思われる方策を実行に移す」これが当然やるべき道だ。
当初考えていた案通りに決まらなかったから解散だ!なんてやり方がどこにあるのだろうか。社会の公器と言われる会社でさえ、社長が提案した内容通りにならなかったら会社を解散したり社員を解雇したりたら、ワンマン経営で社会からバッシングを受けるだろう。
それが会社の存続に関わる唯一の問題であればまだしも、いくつかある重要課題のひとつに過ぎない。
日本国にあっては様々な重要課題が次から次へと待ち構えてるのだ。

最後に私の郵政民営化への考えを。
今回の審議で民営化への道筋をつけるべきではないか。確かに雇用の問題もある。社会基盤としての郵便局の役割もある。しかし大切なのは方向性をどうするかということだ。全く変化をしないということはありえない。現実に郵便局も当初、逓信のみであった業務から現在の金融、保険業務まで拡大してきた。今後も変化していくことは間違いないし社会自体が変化する以上、団体企業が変わらないことなどありえない。
そのなかでどのような形がより無駄のなく社会に貢献できるのかということが考えられるべきである。
民営化はひとつの方向性だ。また民営化後にも別の形態がより適切だという議論が出てくればその都度議論をして最良と思われる結論を出せばよいのだ。

2005.08.03【パグウォッシュ広島会議が閉幕】
広島市でおこなわれたパグウォッシュ広島会議が7月27日「広島宣言」を発表して閉会した。
広島での同会議の開催はちょうど10年前の1995年にも行われている。会議ではこの10年間は核廃絶への有効な手段を打つことができなかった「失われた10年」との言葉も出たという。
今年は原爆投下から60年、ラッセル=アインシュタイン宣言から50年の意義深き年である。参加した40ケ国約170人の科学者、政治学者の思いにも決意するものがあったのだと推察する。

最終日に発表された広島宣言には「人間性を心に止め、それ以外のことは忘れよ」とのラッセル=アインシュタイン宣言の言葉が引用されていた。
同会議が核保有国とみなしている8ケ国(アメリカ・ロシア・イギリス・フランス・中国・インド・パキスタン・イスラエル)の核軍縮・核不拡散への取組みには何ら進展は見られない。アメリカにあっては劣化ウラン弾の使用や新たな小型核兵器開発の疑念まである。核保有がほぼ間違いないイスラエルはいまだNPT(核不拡散条約)に未加盟のまま。核兵器開発疑惑のあるイランは開発に関連すると見られる動きをやめていない。

こうした中東地域や米国の問題に加えて東アジア地域の核武装化(北朝鮮の核開発宣言・中国の弾道ミサイル発射実験など)の中で日本の果たすべき役割の模索も続けられた。東京大学大学院・藤原帰一教授の「日本は核廃絶を強く訴える一方で、安全保障はアメリカの傘の下での核抑止力に頼っている」という自己矛盾の指摘には全面的に同感する。広島・長崎・沖縄から発信される平和へのメッセージと永田町からの日本政府の表明とが、国際社会では全く同一視されていないというのが現状ではないかと思う。

パグウォッシュ会議の精神が学者のみにとどまらず庶民一人一人が実践するということがどういうことなのか?早急な思索と実践が求められている。
そう感じて少なからず焦りを感じる。

2005.07.30【隅田川花火大会を観覧】
今年で4回目となる隅田川花火観覧会を能野さん宅をお借りして盛大に行ないました。今年は22名の皆さんの参加をいただいて楽しく盛大に行なうことができました。
参加いただいた皆さん本当にありがとうございました。

2005.07.29【首都圏に震度5強の地震発生】
今月23日(土)16時35分頃、南関東に地震が発生した。震源地は千葉県北西部、震源の深さは73km、マグニチュード6.0と発表された。東京でも足立区で震度5強、23区の多くでも震度4が記録された。
今回の地震では災害に対する備えの危うさがいくつも露呈した。

@震度情報送信の遅れ
災害対策の大前提となる重要データである震度情報の送信が、都内52カ所から東京都経由で気象庁に送信されるまで22分かかっていた。このため政府首相官邸での官邸対策室設置が地震発生30分後にずれ込んでいた。東京都の「8年前に導入したシステムの処理能力の限界」「早急に抜本的改善を検討する」コメントが報道されている。迅速なデータ送信がおこなわれるのは当然であるが、現在のITの進捗は日進月歩だ。8年間も抜本的見直しをしてこなかったのは明らかに怠慢ではないか。また今回の見直しで多額の費用を使うことにも疑問がある。インターネット等の技術を活用すればわずかな予算で高速化(いわゆるブロードバンド化)が可能ではないかと思えるのだ。この点も私達住民は監視していきたい。

Aエレベータの再作動に多大な時間
現在のシステムではいったん停止したら管理会社の点検がおこなわれない限り再開ができないしくみになっていることも再開が遅れた要因のひとつだという。
これは災害時の想定がまるでなされていない。今回はビルの破損等の被害がなかったため、これでも影響は最小限だったといえるが、ビルの半壊や管理会社自体のビル破損等があったときのことも含めて緊急時マニュアルの策定が急がれる。

B交通機関に大きな遅延が発生
鉄道などの交通機関会社の皆様は本当に迅速に対応してくださって本当にありがたいと感じました。
問題はそうした都市交通に依存している生活にあると思う。こうした災害時には緊急の用事でない限り、数時間は移動を諦める等の社会としてのコンセンサスを形成することも必要ではないかと思う。実際に緊急を要する方もいるわけだからその方の移動手段を確保するという意味もある。そのように考えれば少なくとも1〜2時間時間を費やす場や方法も必要となる。検討されるべき課題がいくつか浮き彫りになるのではないか。

C東京都職員・災害対策時の補助要員の半数以上が登庁せず
東京都は災害時の補助要員を確保する目的で都庁に近いエリアに約10ケ所200名の職員を対象に住居を提供している。その施設や家賃にはもちろん都民の税金が投入されている。
都内で震度5強以上の地震が発生した場合は本来の業務よりも災害対策に関係する業務を優先することが定められている。今回の地震発生に際してその日の当番(土曜休日ということらしい)であった34人のうち登庁したのは13人、わずか38%に過ぎなかった。
補助要員用住宅は3LDKで月5万円ほどで通常職員の半額程度に設定されているらしい。
通常職員でも月10万円で新宿で3LDKに暮らせるわけでそれ自体優遇されすぎではないかと思うが、今回登庁しなかった職員に対して東京都は退去勧告をするという。これも当然だが、もっと根本的な問題がある。
こうした補助要員に必要以上に税金が投入されていないか。34人の登庁を確保するために年間いくらの税金が投入されているのか。投資対効果から見れば他の施策に切り替えるべきだ。当番は200人中34人ということは6回に1回という割合。月に1.5回程度、年間で20回程度だ。これだけのためにいくらの税金が使われているのか。それよりも実際に登庁させ、休日業務にあたらせながら地震発生に備える方が無駄がない。家賃差額だけで1日3万円の休日出勤の人件費を払うことができる。住宅の維持費等がいらないのだから圧倒的に税金を圧縮できる。それで休日サービスも向上されて一石三鳥以上の効果だ。震度5強以上の地震となれば補助要員でない職員であっても登庁していれば通常業務よりも災害対策に関わるのは自然なことでもある。再考を促したい。

そして最後に私達一人一人の取組みを再度確認しないといけないと実感した。
・家具等の転倒防止や危ないものを高い場所に置いてないだろうか。
・救急非難袋は用意されているだろうか。
・近隣の避難場所(小中学校)は確認できているだろうか。
・緊急時の家族同士の連絡方法は確認しあえているだろうか。
・近隣で一人暮し高齢者や高齢者のみ世帯の方の確認はできているだろうか。
・共働き等で子供のみになっている家庭はないだろうか。 ...

災害に対しての認識の甘さを思い知らされた。

2005.07.15【知床が世界遺産に登録】
南アフリカ共和国で開催されている第29回国連教育科学文化機関(ユネスコ)世界遺産委員会で北海道知床が自然遺産として世界遺産リストに登録されることが14日(現地時間)決定された。
日本国内での自然遺産は白神山地、屋久島に次いで3ケ所目となる(文化遺産を含めると13ケ所目)。自然の恩恵を受けてきた北の大地には守るべき自然がまだ多く残されている。また自然遺産という観点だけではなく、アイヌ民族をはじめとした日本原住民族の風俗習慣等も日本人の文化形成の恩人として正しく歴史認識されることが必要ではないか。

今後は日本国政府として保全状態が恒常的に維持されるよう監視保護活動を行なうことが義務づけられる。今までの登録地は必ずしも充分に保全されてきたとはいえない状況がある。それどころか世界遺産登録によって観光地化し、登録以前よりも明らかに自然環境が悪化している。
世界遺産登録には保護保全すべき危機的状況が生まれているという面も有している。世界遺産登録に浮かれるのではなく、正視眼で冷静かつ着実な保全活動を進めたい。

ユネスコ世界遺産センター
TBS『世界遺産』

2005.07.14【活字文化の再考を】
毎日新聞社社長の北村正任氏が新聞の使命について語った内容を読んだ。いくつもの重要な話を展開されていたがその中でひとつ紹介したい。それは「活字文化」について。

「赤いリンゴ」を例にあげながら、活字で読めば人それぞれ思い浮かべる赤いリンゴがあるが映像で表してしまうとその映像それひとつになってしまう。映像文化だけでは想像力や主体性が失われ、自分なりのものの見方、考え方を組み立てる機会を失ってしまう。
また情報の中には「映像」ではなく「言葉」でなければ伝えられないものもある。皆が知るべきでありながら知られていない現情報を発掘すること、ひとつの現象の奥底になる事実を掘り下げていくこと、これらについては活字メディアが圧倒的に優れていると思う。

趣旨このような話であった。大いに共感した。
近年、本を読まない人が急増しているように思う。たしかに昔から本を読まない人はいた。それに加えてDVDやビデオなどによる映像文化の普及やインターネット等による情報過多の時代背景が更に拍車をかけているのではないか。
「古今東西の良書を読め」とは教育の基本だ。

また毎日新聞では署名記事を多く載せるようにしているとも語っている。
昨今の文芸系週刊誌をはじめとする裏付調査をしない安易な中傷記事が氾濫していることは、インターネットやブログの普及によって匿名による無責任な発言が飛び交っていることと無関係ではないと思う。
毎日新聞の良識ある新聞報道が今後とも貫かれることを念願します。

毎日新聞社

2005.07.13【国語に関する世論調査】


7月12日、文化庁から「国語に関する世論調査」が発表された。
調査概要は以下の通り。
調査目的:
言葉の使い方に関する意識,敬語に関する意識,漢字についての意識,手書きによる表記とパソコン・ワープロ等による表記についての意識や今後の手紙のあるべき作法についての意識等を調査し,国語施策を進める上での参考とする。
調査対象: 全国16歳以上の男女3,000人
調査時期: 平成17年1月14日〜2月7日
調査方法: 個別面接調査
回収結果: 有効回収数(率)2,179人(72.6%)

調査の主たる目的は上記の通りで、時代の状況要素としてはワープロソフト等の普及による言葉遣いの変化なども大きな視点のひとつとなるだろう。
メディア報道では主に例年取り上げている慣用句等の意味の理解や使用実態について報道している。調査結果のサマリーでも取り上げられているし、その視点の方が読者にとってもわかりやすくておもしろいということも言える。まずは調査の主目的をよく理解したうえで個々の回答内容を見ていくことが重要だ。

言葉は常に変化するものだ。変化すること自体を悪と決めるのは正しい認識とは言えないと私は思う。大切なことはその変化が使う民衆のためなのか、逆に築いてきた文化習慣を破壊する半民衆的行為なのか、その見極めである。
人の心の乱れは言葉に現れる。また言葉は言霊(ことだま)であるとも言われて人の気持ちを表す大切な行為手段とされてきた。言葉を軽視する風潮が時代と共に増えている感もある。書籍を読まない人が急増していることも実感する。桂冠塾という読書会を始めたのもそうした風潮への警鐘という意味もある。
読書会【桂冠塾】詳細はこちら

さて調査にあった設問の一部を紹介。あなたは正しく答えられますか?
正解は国語に関する世論調査結果をご覧下さい(*^_^*)
「他山の石」とは?
(ア)他人の誤った言行も自分の行いの参考になる
(イ)他人の良い言行は自分の行いの手本となる
「枯れ木も山のにぎわい」とは?
(ア)つまらないものでも無いよりはまし
(イ)人が集まればにぎやかになる
どちらが正しい?
(ア)会社が学生を青田買いする
(イ)会社が学生を青田刈りする
どちらが正しい?(その2)
(ア)前回失敗したので今度は汚名挽回(ばんかい)しようと誓った
(イ)前回失敗したので今度は汚名返上しようと誓った

文化庁ホームページ
国語に関する世論調査結果

2005.07.11【若貴騒動に思う】
元来こうした芸能的な話題には触れてこなかったHATAさん日記ではあるが個人的な思いもあって少し私の気持ちを書いておこうと思う。

まずマスメディアに言いたい。憶測による疑心暗鬼そのものである記者会見など報道しないほうがいい。子供達が見てどう思うだろうか。人を信用しないということがいかに人の気持ちを荒んだものにするものなのかが痛いほど感じられる。確かに関係者は有名人であり、年寄株の行方などは社会的にも知らされないといけないニュースなのかもしれない。しかしだからといってどんな報道のやり方でも許されるというものではない。報道は事実に基づいて行なわれるべきだ。私的な推測はできうる限り排除されなければならない。
このような報道を行なうことによって、何か価値的なものが生まれるのだろうか。誰かが幸せになれるのだろうか。未来を担う子供たちに見せてよいと思えないものは報道しないことだと私は言いたい。

故・二子山親方の代理人とされる高柳幸一弁護士に。個人的な感情の確執の争いに巻き込まれることなく、法律実務家として、一人の人間として、的確な判断と英智に満ちた見事な指揮を取られることを信じています。
日本中の心ある同志があなたの行動を支持します。
見事なる解決を心から祈ります。
頑張れ。

2005.07.10【糺せ国会議員の人間性】


7月8日に行なわれた衆議院政治倫理確立・公職選挙法特別委員会で耳を疑うような発言をした議員がいる。民主党・永田寿康衆院議員だ。
「衆院解散が行なわれるとしたらそれは10月3日以降だ。なぜなら公明党の支持団体者の住民票が都議選のために東京に移動していて、その人達に地元で選挙権が戻るには再度住民票を移動して3ケ月後になるからだ、というようなことまで言う人もいる」という発言だ。
この発言に対して即日懲罰動機が提出された。この動議は公明党だけではなく自民党との両党から提出された。良識の府たる国会である以上、当然である。

国会という公式の場でここまでの発言をするのであるから根拠はあるのだろうと一般の人は思ってしまうだろう。永田氏は国民から民意を付託された議員である以上、確固たる根拠を明示する責任がある。しかし同様の根拠なき浮き言は何度も繰り返されてきている。以前は自民党、共産党の議員がこれをやってきた。民主党も同様だ。永田氏は議員在職5年余りの間に懲罰動議が3回出されており悪意のある発言を繰り返してきた経緯もある。
今回も標的にされてきたのは公明党とその支持団体である創価学会だ。他の政党がそのようなことを言われたことを私は聞いたことがないし、ましてやその支持団体が言われることなど皆無だろう。本当にそのような行為が行われたのであれば「誰かが言っている」というようなあいまいなことでは済まされない不当な行為である。徹底的に捜査するべきである。しかしそのような事実がないのであれば公明党と創価学会がデマを言われ続けてきたことになる。そのことを私達はもっと思索しなければならない。

公明党の堅実な議席確保がうらやましいのかもしれないが議員であるならば政策を実現することで国民の信頼を勝ち取ればいい。根拠なきデマ発言で人心を惑わせるような行為は愚劣であり人としての品位がない。
そしてこの発言は公明党とその支持団体への問題にとどまらない。「公明党候補の当選は都外から流入した輩によるものだ」という主張は公明党に投票した住民を完全に無視しているからだ。住民の民意を汲み取ろうとせずして議員が勤まるはずがない。

永田氏が明確な根拠を提示することを強く要求したい。そしてこれが根拠のない発言であった場合には自分自身で議員を辞職するだけの覚悟くらいはあるのだろう。進退を決めるくらいの責任があるのが議員という者の立場であると私は強く訴えたい。永田寿康氏が正義の勇者であるのか、俗悪者であるのか、国民一人一人がしっかりと見届けたい。

2005.07.09【イギリスでテロか】
7月7日にイギリス・ロンドンに起きた爆発事件はテロ行為であることがほぼ断定されてきた。現時点ですでに死亡者は50名以上、負傷者も700名が確認されたとロンドン警視庁は発表している。ロンドンでのオリンピック開催が決まった翌日でもあったが、テロ行為の標的が開催中のサミットであることにほぼ間違いないだろう。

イギリスでは日本と比べると歴史的にテロ行為の危険が身近に存在してきた国でもある。今回はアルカイダの関与も取りざたされているが私達はこうした行為に対して鈍感であってはならないと思う。
どのような主張があるのか、また言い尽くせないほどの苦悩を抱えてきたのかもしれないが、それでも人々を負傷や死亡に追いやる権利など誰人も持っていない。絶対に許せないのが生命を脅かす生命軽視の思想と暴力行為だ。主張があるのであれば言論で戦え!埋めがたいと思える心の溝であっても対話の力で乗り越えることができると信じて前へ前へと進むのだ。

またこうしたテロ行為の奥底には地球上における隔絶した貧困と病理があることが指摘されて幾久しい。具体的な募金活動等に協力することももちろん重要であるが、お金がないから貧困なのではないのだと私は思う。物質的豊かさを追い求める心こそが根源的な迷いであると私は言いたい。そのうえで一定上の物質的な豊かさを実現する。そうしたビジョンが求められていると訴えたい。
死亡された皆様のご冥福を心からお祈り申し上げると共に、一日も早い真相解明と根源に横たわっている憎悪と生命軽視の思想の根絶を願うものである。

2005.07.06【練馬区議会本会議を傍聴】


今日初めて区議会の本会議というものを傍聴してきました。
感想。「なかなかいいものです皆さんも是非一度聞きに行ってみましょう」。
しかし傍聴席に入ってびっくり。傍聴に来ているのが私一人だけ(^_^;)
「たくさんいて入れなかったらどうしよう」と真剣に心配して行きましたが完全な取り越し苦労。確かに平日の午後1時からですからサラリーマンの方はまず行けません。しかし地元練馬の経済団体関係者とか自治会関係者とか主婦の方とか定年退職後の方とか自営業の方とか、その気持ちがあれば聞きにいける人は意外と多いのではないかなぁとも思います。傍聴できることが知られていないということもあると思います。私も1〜2年前まで知りませんでした(^_^;)

2名の議員の質問と区側の答弁を聞きました。
議員によって質問のスタンスに微妙に違いがあることがわかりました。それは色々な要素があると思いますが、私が感じたのは「疑問だから聞く」のか「実現をすることを前提に言質を引出す」ことをしようとしているかです。また提案という内容であっても「アイデア」レベルで言っているのか、資料や現地を精査し「実施が必然である」というレベルで言っているのかという違いも感じました。
これは「区議会だより」などの紙面ではわからない微妙なニュアンスです。

もし傍聴に行ける方は是非行ってみましょう。皆さんの住んでいる自治体でも本会議や各種委員会が傍聴できるはずです。
なお練馬区では今回(平成17年第2回定例会)から本会議での質疑応答がビデオで見られるようになりました。傍聴にいけない方は必見です!
練馬区議会傍聴の案内
練馬区議会ビデオ放映

2005.07.05【東京都議会議員選挙】
一昨日7月3日(日)に都議会議員選挙が行なわれ、即日開票で全127議席が確定した。
NHK2005都議選開票結果
東京都選挙管理員会<都議選投開票速報>
様々なメディアで論評等が行なわれているがいくつかの視点を押さえておきたい。

@歴代2番目の低い投票率(43.99%)。
A自民は5減。第1党はかわらず。公明からの推薦者17名中16名が当選。
B民主は第2党に躍進。政党支持率は低下傾向で民主党当初見込は下方修正。
C公明党は現有数と同じ23名が立候補し全員当選。15選挙区でトップ当選。
D共産党は2減で13議席。
E生活者ネットは3減で半数に。

マスメディアでは「争点のなかった選挙」「風が吹かなかった選挙」というコメントも目立つがこうした表現は誤解を生むと思う。そこで暮らしている住民がいる限り争点は常にある。それが対抗軸かどうかという観点で見ようとするから「争点がない」などという思想のない表現になる。多様な住民の意向を反映するという意味では2軸では集約できない問題もあるし、多くの住民が望んでいる課題であればどの議員も一致協力して実現にあたるのだ。その意味では「風」など必要ない。地道に生活する私達にとって一時的な風など関係ないのだ。そんな言い方はそこで生活していない者の野次馬的な表現ではないだろうか。
今回の選挙においても東京で解決しなければならない問題を提起した候補とそうでない候補に2分されていたということではないか。争点がないように見えたのは思索のない候補が多かったからにすぎないと私は考えている。
そのことを敏感に感じ取った住民の気持ちが的確に現れているのが、上記に箇条書きした内容の中で根源的な状況を表している「@低い投票率」ではないかと思われる。民意を託しての代議制が議会民主主義の大前提であるのに投票しないということは託すことを放棄(または拒否)したということを意味する。

元来地元密着型の選挙を行ってきた自民党の議席減は地力の減退を如実に物語っている。自民党はよく企業や地域団体に顔を向けた自治政治を行ってきたことが指摘される。住民一人一人にとって何が必要なのか、地方政治は何ができるのかという視点が求められているのではないだろうか。少なくとも利益誘導型の政治が求められていないことは確実だ。

民主党は「政権交代への期待の表れ」と語っているが都内での政党別得票率を見ると1年前の参議院選挙、2年前の衆議院選挙から15ポイント近く下落している。1年間でこれだけのマイナスは急落と言ってよいだろう。参院選、衆院選の時の支持があれば軽く第一党になっていたはずだ。候補者51人擁立はそれを見込んでいた証拠でもある。政策の不整合や方針変更がよくある(今回の都議選でも党として掲げた「ローカルマニフェスト」が印刷配布後に支援団体から抗議が入って訂正している)など、「民主党は任すに足らず」という認識が広がっているのではないか。

公明党は支持母体である創価学会の支援が大きいと各メディアも公明党自身も分析している。確かにそれは言えるだろう。しかしいくら頼まれたからといっても住民一人一人が納得して投票に行かない限り投票数は増えない。公明党候補が当選している選挙区では民主党候補が落選しているケースも目立つ。昨年時点での政党得票率では公明党は民主党の半分以下という地域が殆どであったにも関わらずにだ。その点では民意を冷静に見ていくことが大切ではないかと思う。二大政党化が言われる中で現有数維持ももちろん大変なことだが議席増によって更に民意を反映させるという道もある。

様々な選挙で議席を減らし続けている共産党はあいかわらず「わが党の政策が理解していただくには時間が足りなかった」と言っている。「あいかわらず」と言ったのは議席を減らす度にここ数年ずっと同様のコメントをしているからだ(^_^;)ではどれだけ時間があればいいというのか?自分達の主義主張は支持されていないという見方をそろそろしてもいいと思う。そもそも未だに「共産」って言葉を党名に使っているのはなぜ?と聞きたい。共産主義の社会を目指しているの?はっきりさせたほうがいい。

議員は任期に着いてからが勝負だ。いかに仕事をしたかだ。それを私達は厳しく監視しながら、しかも積極的に能動的に地域自治に関わっていくことが求められていると思う。住民一人一人が一人も残らず主体者として関わってこそ代議制の政治行政が正常に機能するのだと私は思っています。

2005.07.01【経済産業省が悪質業者実名を公表】
経済産業省は本日7月1日、都道府県から特定商取引法に基づく行政処分を受けた業者の実名をホームページで公表した。
特定商取引法違反に基づく処分件数の推移及び事業者一覧の公表について

英断だ。だが遅すぎるという感も強い。
昨今のモラルなき世相には打つ手がないのかと諦めそうになる気持ちを抑えるのに苦労しそうなほどだ。「悪は眠らせない」という言葉があるが、しかし実際には悪は蔓延している。実名の公表には一定の成果もあるだろうが、こうした輩は社名をころころ変えていくらでも悪事を働き続ける。一人ひとりの人間を生命の奥底から変革するしか解決の道はないと痛感する今日この頃である。
《参考》
悪徳商法完全マニュアル

国民生活センター
悪徳商法マニアックス

2005.06.30【東京都議会議員選挙・3日後に迫る】
東京では都議会議員選挙が3日後の7月3日(日)に迫ってきました。東京に住んでおられる皆さんはもう投票行動を決められましたか。
そもそも都道府県議員選挙とはどのように捉えるべきなのでしょうか。「そんなのは個々人それぞれ違うんだ」という方もいるでしょう。もちろんそうです。ではそのように言っているあなたはどのように考えていますか?違うということとそれをきちんと自覚し表現できるということは根本的に次元が異なります。自分自身がはっきり意識できていない状態ではその場その場の雰囲気に流されて充分に民意を活かすことができないのではないでしょうか。

よく自治の基本は三権分立だといわれます。小学校や中学の授業でもそのように教えています(私は教育権を入れて四権を独立させるべきだと思っていますがそれは置いておいて^^;)。一権ずつに担い手がいるように思われがちですが国政においては曲がりなりにもその形を取っていますが、地方自治においては事情が異なります。まず司法は地方自治独自には存在しません。立法も条例という形式はありますが基本的には国政で法律化された枠組の中で行政が行なわれます。したがって行政権が必然的に強く発揮されるため、権限の多くは行政府の首長である都道府県知事に集中するのが都道府県レベルに見られる政治行政の姿なのです。

私達の生活に密着した政治が行なわれているのは市町村及び特別区(東京23区)でしょう。地方自治という面では都道府県と同様の状況がありますが、生活密着という意味では市町村区議会議員には地域密着で具体的な地域での問題解決ができることが求められています。法律の解釈や批判ばかりやっていても現実は変わらないからです。

それでは都道府県議会、そして議員はなにを担うべきなのでしょうか。
「広域の地方自治」これが私なりの答えです。今回の選挙においても「安心安全」と「防災」がクローズアップされなければならないと思っています。国政選挙を占う試金石だとか言っている政党やマスメディアはもっと思索すべきです。ローカルマニフェストなどという言葉も独り歩きしている感がありますが何を言わんかです。もちろん公約は必要です。しかしそれは国政の枠組が変化すれば大きく変わらざるを得ません。議会決定しても行政執行するかどうかは都道府県知事にかかっています。
その意味で重要視されるべき観点が浮かび上がってきます。
@広域の地方自治についての理念が明確であるか
A具体的な政策実現能力があるか
B国政や市区町村行政との連携が速やかにとれるか
C微妙な判断が要求される事案について確固たる哲学信念をもって瑕疵なく対処できるか
Dその上で任期中(4年間)に実現するべき具体的な政策は何か
などです。
新人の場合はそのプランが明確でその人のキャリアがそれを裏付けていること、現職であれば任期中に実績を挙げてきているかということになるでしょう。

やってもいない実績をやったやったと虚偽の宣伝をするとか、批判ばかりを繰り返しているとか、データに基づかない思い込みの主張をするとか、現職なのに実績が数個しかないとか、イメージばかり前面に出してくるとか、そんな候補は論外です。
また告示後の開口一番に「我が党に力を与えて下さい」と叫んだ政党党首がいました。哲学不在を感じる一言です。力は与えてもらうものではなく自分自身で研鑽し発揮するものです。代議制を採用している私達はその候補に権限を託して代議員として議会に送り出すのです。

プロセキュートはよりよい経営を、企業作りを目指して活動しています。また適正な利潤を上げて人間らしい生活ができることを目指しています。
しかし自分が実際に住んでいる地域が栄えずして1つの企業のみが利潤を上げ続けるということがあったとしたら、それは結果的には社会悪と言わざるをえません。それは私達の家庭や家族という単位に置き換えても全く同様のことが言えるのではないでしょうか。政治とはもともと私達の生活がその基点にあるのです(「私達がめざすもの」にも書いていますのでご一読下さい)。

そして国政、都道府県、市区町村という3段階(国政を衆院、参院に分ければ4段階)は固定的ではないと考えています。社会情勢を考えて1段階少なくなること、また国政の上に今の国連が発展的に別の形態をとることなどが必要となる時がくるのだと思っています。

東京に住んでいる皆さん。まずは7月3日の都議会議員選挙に自分自身の思索の結果を持って投票に臨んでいきましょう。

《参考:選挙に行こう!東京都選挙管理委員会

2005.06.27【愛知万博・つづき】
前回の続きです。
食事後はいくつかのパビリオンを見て歩きました。冷凍マンモスも見ました>^_^<撮影禁止だったのでお伝えできないのが残念ですが「これだけ原型を留めたままで凍結されていたんだなぁ」と感じ入りました。
見たのは、インド館、ネパール館、ベトナム館、マレーシア館、ラオス館、フィリピン館、オーストラリア館、シンガポール館、ニュージーランド館、カンボジア館、タイ館、南太平洋共同館などです。ステージではタイ王国とコンガの踊りと歌が披露されていて生演奏と歌声がよかったです。
見て歩いているうちに複雑な気持ちになってきました。「愛・地球博」というくらいだし環境重視が言われてきたのだからそうした内容も盛り込まれているかと思ったのですが殆ど見本市のような雰囲気。中には旅行代理店のパンフレット置場か物産展そのものというところも(^_^;)「こんなもんだろうなぁ」というさめた気持ちと「子供達にはよい国際学習の場だ」「途上国には必要な貴重な機会だ」という相反する気持ちに揺れ動く不思議な経験をしました。

それにしても日本国政府関係者らしき人はほとんどいない。この日も政府要人らしき方が来日していたようでほぼ毎日のように各国の要人が来場している。靖国参拝や郵政民営化で会談や議論するのもいいが、こうした国際友好の機会をみすみす無駄にすることはないと思う。新幹線で東京から乗り継いで1時間半で会場に来れるのだから、小泉首相も週に1日は会場入りするとか、官房長官や副官房長官が交代で毎日会場内で各国首脳と懇談を持つようにしたらどうか。すぐにメリットがあるようには見えなくても、そうした一人との対話こそが明日の日本を、世界を作るのだと私は思う。

16時には会場ゲートを後にしたので実質4時間余りの会場滞在でしたが楽しかったです。時間の都合で瀬戸会場や自然の森を残したエリアに足を運べなかったのは残念でした。

《余談》そういえば2日券ってないんだよね....。発売したら売れると思うなぁ。中部地域以外の人の多くは1泊2日で来るんだろうから。そもそも一日だけじゃ殆ど見られないし全期間入場券(当日券4日分に相当する金額)があるけど4日分じゃあねぇ...その券も前売りで買えるのが東海エリアのみってのもどうなの?って感じだ。

実はちょっとしたハプニングもありました。インド館の売店前で入場パスポ−トを落としてしまったのです。冷凍マンモスが展示されているグローバルハウス内の展示コースの事前予約がそのパスポート番号がわからないと入れないのです。少し歩き出して気がついて引き返したのですが売場の人はわからない。まず会話もあまり通じないのであせりました(^_^;)また会場内にはかなりの係員らしきスタッフ(男性)がトランシーバーを持って配置されているのですがほとんど役にたたない。「入場券を落としたんですがどこか落し物が届くところはどこですか?」と聞いてもよくわかっていない。トランシーバー持ってるんだから聞いてもよさそうなものなのに「総合案内所があるのでそちらで聞いてください」「そこに落し物が届くんですか」「それはわかりません」...ちょっとこれは問題だなぁ。治安のために立っているかもしれないが来場者の立場になってもう少し対応できるようにしないと...。
総合案内に行って聞いたらインド館のすぐそばに警備室があってそこに届けられていないかとか落し物が集まる場所があってそこに電話をかけてくれたので少しうれしかったです。結局入場券は出てこなかったのですが(^_^;)運営の実態がよくわかる経験でした。

何年もかけて準備した割りに表面的な印象が残る、また主催者の皆さんがもう少し現場を歩いてまわったほうがいいと思った万博ツアーでした。

《万博に行く前にチェック!2005年日本国際博覧会協会》


2005.06.24【愛知万博】
6月22日に愛知万博に行ってきました。6ケ月間の会期のほほ折り返し時期ということになります。愛地球博という呼び方もあり正式には2005年日本国際博覧会なのだそうです。
今回はツアーに参加しました。私が別で役員をやっている会社が所属している東京商工会議所豊島支部の主催のツアーです(ちなみにプロセキュートも東商会員で練馬支部所属です)。新幹線で名古屋まで行き、名古屋駅前から貸し切りバスで長久手会場西ゲート駐車場に移動しました。
ガイドさんの話では先日最高の一日14万人突破で地面が見えなかったほどの人出を記録、会期内の目標入場者数の突破は確実とのこと。かなり期待して行ったのですが...当日の入場者数は10万人余り。この日の1.5倍で最高人数の人同じになるはずですが印象としては閑散。ほんとに10万人来てたのかな?それとも地面が見えないってかなりオーバー??

それはそれとして(^^ゞ会場に到着したのが午前11時。まず駐車場から西ゲートの入口まで遠い!大人の足で20分はたっぷり歩きます。しかし近い場所(ゲートまで3分ほど)にも空いた駐車スペースが...ガイドさんに聞くと県内小中学校のバスが近い方に止めるとのこと。うん?それってちょっと違うんじゃない?自分達のバスが遠くに止められて嫌みを言うわけではなく、元気のいい小中学生はしっかり歩くべきでは?県外から遠路来ている人のために自分達は歩く側にまわるということだけでも立派な教育になると思う。今のように一番便利な場所にバスをつけてどんな基準で場所を決めているのか生徒達に納得のいく説明ができるんでしょうか?主催者の皆さんよく考えましょう。

西ゲート前で後ろを振り返ってツアーの人達を確認。会場役員(アルバイトだと思う)の言葉遣いと態度がかなりよくない。私達はまだいいが高齢者や外国籍の方にはかなり冷たくえらそうに感じると思う。最高入場者を記録した時にちょっとしたパニックを経験したせいなのか、私達がちょっと立ち止まって後ろから来る人を確認しようとすると「立ち止まらないで下さい!歩いてください!脇に避けてください!」と声が飛んでくる。それも二度も三度もだ。大して混雑していない、というかゲート(鉄道の自動改札機そのもの)前には瞬間的に4〜5名が並ぶだけでまったく並ぶことがないゲートだってあるのだ。手前20〜30mのところで多少立ち止まっても何の支障もない。入場前からなんだか悲しい経験だ(^_^;)主催者側にはよくよく現場を見ている人がいないんだろうと思ってしまう。

それでもなんとか参加者23名+東商職員さん2名+ツアーコンダクタさん1名+ガイドさん1名が集合。ゲート内に入ると案内の旗は出せないのでよく顔を確認してと言われる。確かにツアーの旗はかっこ悪いのかもしれない。しかしだ、みんな初めてのエリアに突入するのだ。旗とか出していいだろう?誰に気を遣っているの?と言いたい。全国からきてきてと宣伝する割りに見学に来た人のことをほとんど考えていない印象だ。

西ゲートを入って会場案内マップを入手したらここで自由行動に。私達は顔見知り3名でドイツ館でビールを飲もうとグローバルコモン4へ。万博なのだから横文字多用もいいんだろうがとにかくすぐに意味が理解できない英語(造語?)が多すぎる。グローバルコモンもそうだし(しかも1から6までが会場内に点在する)、グローバルループにグローバルハウス...なんか関連して隣接しているかというとそうでもない。会場内で携帯で話した際も「いまどこ?グローバル4?えっ5なの?」4番と5番では相当遠い(^_^;)なにがグローバルなんだか...日本関係の建物だけは「日本ゾーン」と別の呼び方だ。しかし「日本ゾーン」なるものメインの通路を挟む形になっていてマップで見るのと実際に歩くのでは印象が全く違ってかなり混乱した。
それはともかくドイツ館は150分待ち。待ち時間の電光掲示板があるのはよかったです。隣のフランス館は20分待ちとあるのでまずはフランス館へ。感想。がっかり。天井を含めた5面全部をスクリーンにした映写は素晴らしいが内容が...。環境保護を考えるシアターだとアナウンスされていたが水質汚染や環境破壊のシーンが映し出される合間に「環境を考えろ考えろ」とテロップが流れるだけであとは意味不明のパントマイムのようなシーンが続く。具体的な方策などまったくない。パビリオン内も正直安普請だ。いくらの予算で作っているのか知らないが愛知万博も軽く見られたものだ。

なんやかんで12時。とりあえず食事してから他を見ようと食堂に入るが行列だ。諦めて売店で巻き寿司の詰め合わせを購入。高い。どうみても市販価格400円どまりだろうという品が2倍の800円。同行の者が生ビールを頼んだら200mlもつがないもので500円。一口で空になる(^_^;)食事の悪評は事前に聞いていたが最悪だ。その後も各パビリオンで飲んだり食べたりしたがどこも同じでとにかく高い。ライスかパンがついた食事は出来合いとわかるものでもほとんどが1200円以上、マンゴジュース250MLくらいで500円なんてところが相場らしい。3.5cm大の揚げパン2個と直径6cmくらいのプレートに入ったカレーで600円なんて安く感じるからとにかくひどい。最後にシンガポール館で飲んだシンハービール350ml350円のなんとうれしかったことか^_^;小泉さんの指摘で手作り弁当を持ち込めるようにしたのはいいけど、作っていけない人はあいかわらず法外な料金の食事をさせられています。
(つづく)

2005.06.10【悪意ある恣意的な表現を見過ごしてよいか】東京・ねりま編
私の住む東京都練馬区に住む住民の間で話題になっている話のひとつが順天堂練馬病院の開院だ。来月7月1日のオープンに向けて工事も順調に進んでいる。最近この順天堂練馬病院に関連するビラが数回にわたって個人宅のポスト等に入れられている。その内容たるもの事実を知らない人が読んだらなんて思うだろうかというほどいいかげんなものだ。発行元は複数名乗っているが全体のトーンは「練馬区は税金を無駄遣いして高額な病院を誘致した」というものだ。順天堂大学という私立大学の病院を誘致したのは事実だ。しかしそれが税金お無駄遣いになっていたり意味のないことなのだろうか。

主な主張だけでも次のようなものがある。
@ 公立病院ではないので初診料や検査料などが高く取られる。区民にとって有益な病院ではない。
A 差額ベッドが約半数を占めるぜいたく病院だ。
B その差額ベッド代が最高6万円もかかる。庶民の病院ではない。
C 練馬区は病院前に6億円もかけてエレベータ付の歩道橋を作った。無駄の塊だ。作る必要なんかない。
D 病院用地として30億円相当の区有地を無償で提供した。その土地は区民の財産だ。

病院を批判しているビラの発信者には現職の区議会議員もいる。上記のようなことを本当に思っているのか、はたまた悪意を持って政略のために論調を張っているのか?いずれにしろ正しくない内容であることは医療や病院誘致の経緯を知る住民であればわかることばかりだ。

《確認するまでもないが「違う」ということを明確に》

初診料や検査料は医療点数で算出されるので私立だろうが公立だろうが恣意的な要素が入り込む余地はない。
また地域の拠点病院となる総合病院として、診療科目等の充実がなされていることは重要なポイントであり、その際には特定機能病院の指定を受け高度診療機器を設置運用させるために費用として特別療養費を初診時に受診者が支払うことになる。今回撒かれているビラではこの料金設定も高額だと言っているが2,000〜2,100円で検討がなされている。順天堂病院の本院では3,150円であることから、また他の医療施設では4,000〜5,000円前後である事実を知っているのだろうか。またそれとも診療科目が整った総合地域拠点病院が要らないとでも主張するつもりなのだろうか。

差額ベッドは全400床のうち171床で43%である。決して多いわけではないのだ。これは医療関係者はもちろん病院に入院した経験がある人なら知っている事実だ。これは厚生労働省が健全な病院経営のガイドラインとして半数のベッドについては差額ベッド代として個人負担のあるベッドを用意することが望ましいとされている。事実差額ベッドが2〜3割程度しか用意されていない都立病院では毎年20億円以上の赤字を計上している。単純に考えれば住民(東京都民)の税金で穴埋めしていることになる。受益者負担の原則から言っても差額ベッドを用意することは何らおかしいことではない。また差額ベッドは入院する患者の希望で入室待ちをするケースも多い。個室はどの病院でも常に満室状態である。ベッドが不足して差額ベッドを利用する場合も同意なしには使わないのだ(通常料金ベッドの4人室と同じ定員4人室の差額ベッド数は80床あり、この80床がこれに該当するだろう)。

その差額ベッド代は高額といえるだろうか。ビラに出ている「6万円」の差額ベッドは7床用意される特別室のことだ。よく芸能人や政府関係者が入院する時に使っているのがワイドショー等で紹介されるその部屋だ。利用したい人が高いお金を払って利用することに何ら問題はないだろう。逆にそうした方々にグレードの高い部屋で個人負担をしっかりしていただければ病院経営の助けにもなり私達庶民は助かるわけでもある。
私達が利用する差額ベッド代は現状の医療機関の水準と比べても決して高くない。
4人室で4,100円、2人室で10,000円だ。個室(1人室)も24,000円と22,000円の2種類が予定されている。負担できる方には負担をしていただき、多くの方には低い負担でという考えが見えてくる料金設定であり、経営をする者から見ても健全な設定といえる。

順天堂練馬病院の前に作った歩道橋。
まず不要だという主張について。現地を歩いてみればわかる。病院前の道路は笹目通り、いわゆる環状八号線(カンパチ)だ。交通量は都内でも有数であり現在の歩行者信号の青色点灯時間は19秒間。道路幅24mをわたりきるには健常者でなければ無理であることは明らかだ。では歩行者信号(青色)を長くすればいいのかというと一ケ所の信号だけを長くすれば環八の車の流れは停滞する。環八全部の信号の長さを長くすることも検討されたが交差する青梅街道や真青梅街道等の交通量など総合的に検討して不適切と判断、従って歩道橋となった経緯がある。
バリアフリーの考えから車椅子や歩行困難な方にも利用できるエレベータ付となった。歩道橋に上がり渡り切ったところから病院2階の受付に直行する設計に決定された。順天堂練馬病院は免震構造であるため歩道橋も免震構造が採用された。6億円が果たして必要以上に高額かどうか、ビラを撒いている議員にはパフォーマンスではなく、議会や委員会の場を通じて詳細な数字を元に検証することを強く要求するものである。

30億円相当の用地を無償提供とあるが練馬区が行なった措置は責められるべき内容だろうか。練馬区内に様々な医療に対応する医療施設がなく、多くの区民が武蔵野市や板橋区、埼玉県内の病院に入院している。「区内に地域拠点病院を」という声は10年も20年も前からの要望だったと聞く。しかし区立病院や都立病院の誘致はままならない。他例から見て赤字経営の危険も大きい。そんな中で誘致の乗り出したのが順天堂だ。建設用地を区で用意した。当初石神井公園付近の用地が検討されたが条件にあわず、そんな中練馬高野台駅徒歩5分の区立中学校が統廃合で用地が空くことになり、ここが候補に挙がった。
この土地に地域拠点病院を建設運営する条件で賃借料なしで順天堂に貸し出す契約になった(注:一部長命寺所有地が含まれるためその費用は別途発生する)。またそうすることで先般触れた差額ベッド代や特別療養費を低く抑える原資にもなっている。
病院を建てなければ民間に30億円で売却する予定の土地だったとかいうのならまだ話もわかる。それにしても安易に区有地を売却することはできない。遊休地か地域の施設用地になる可能性が高い区有地であるのだから住民が求めてきた病院の用地に無償貸与することは有効活用と言えるだろう。もちろん区有地のままだから区民の土地だ。順天堂も地域住民のための拠点病院であることは充分に理解して病院経営に当たってくれることになる。

もうひとつ付け加えると、それらのビラの中に「子供の安全のために順天堂練馬病院に24時間小児救急の要望を行う署名に協力下さい」という趣旨の文言があった。
もうすでに小児救急24時間365日体制で行なうことは順天堂との間で同意済みの事実なのだ。それをあとから署名を行なって「わが政党の実績だ」という言うつもりなのか。あきれてものが言えない。

様々な施策を批判することはもちろん自由だ。しかし虚偽の主張には正邪を糺していくことが求められる。意見を主張するということは他人からの反論を含めてより多くの人の意見に耳を傾けて、自らに過ちがあった場合はすみやかに訂正、場合によっては謝罪することが求められている。
皆さんの住む地域でもこんなやりたい放題の言論に名を借りた蛮行が横行していないだろうか。厳しく監視し続けることが求められています。

ビラを撒き続けている人よ。ポスターを張り出している人達よ。
自らの主張を今一度検証せよ。

【参考】特定機能病院と特定医療費について
●次の施設のある病院は厚生労働省から特定機能病院の承認を得ることができる。
 1 診療科目が10以上である
 2 病床(ベッド)数が500以上である
 3 医師、看護士、薬剤師等が一定人員以上配置されている
 4 集中治療室、無菌室、医薬品情報管理室がある 等
●特定機能病院における初診時には特定療養費を受取ることができる。
 初診時とはその病院に初めて受診した時をさす。
 今回の受診が過去の診療と同一病名や同一症状であっても自ずから診療を中止して1ヶ月以上経過した場合は初診となる。
●初診時に特定療養費が発生しないケース
 1 医療機関からの紹介状がある(他医療機関で初診料を支払っている)
 2 緊急の場合(救急車など)による搬入
 3 生活保護法の医療扶助対象である
 4 特定疾病等で公費負担の受給対象である
 5 同一病院の別の診療科で受診している 等

2005.06.07【悪意ある恣意的な表現を見過ごすべきか】東京編
東京では7月3日に東京都議会議員選挙が行なわれる。選挙が近づいてくるとどの陣営とも賑やかになるものだが、毎々虚偽の実績や実現もできない公約(マニフェスト)を掲げる政党の浅ましさには閉口してしまう。今回もまたぞろ現れている。

ある政党では児童手当の拡充に反対をしている。しかしその政党のHPを見ると「子供手当」なるものをつくるという。児童手当と子供手当、名称が違うだけじゃないの(^_^;)だったら賛成して早く充実を図ればいいのに...。パフォーマンス政党と言われる所以である。彼等は政権準備政党などと言っているが政権を担いたいのなら庶民のことをもっと真剣に考えてほしいものだ。しかし首都圏では選挙直前になると「●●の風」などという言葉が横行し「2大政党化」なる死語がマスメディアを通じてクローズアップされる。日本人特有なのかどうか庶民はメディア報道に弱い生命傾向がある。充分に戒めていかなければならない。

ある野党のポスターには「東京で30人学級を」とある。なるほど〜...。
しかし現在の東京都内の小学校1学級あたりの児童数は平均30.79人だ。この政党が声高に叫ばなくても実現されるのだ。でもまたあとから「私達が主張した」と言いたいのだろうか。そんなことばかりやっていたら支援している党員の方々だって気持ちが荒んできてしまわないだろうかと本当に心配になってしまう。
また「一人150万円で豪華海外視察」と他党を批判しているが自党の議員もちゃっり視察に参加して、自由行動の時間にはカジノまで行っていたことが先日の委員会で指摘されている。150万円の予算が高すぎるというのならば、毎々その党の議員も出席して審査を行なっているのだから正規の場所で審議すればいいのだ。それもしないで選挙が近づくとポスターやビラ、駅頭演説で叫ぶというのは選挙目当てのパフォーマンス以外のなにものでもないだろう。この政党は「東京都は福祉予算を80億円も削減するつもりだ」と叫んでもいる。そのような予定も事実もないことは都議会で正式に答弁が行なわれている。しかもその質問はその政党からではなく、別の党から「ある政党がこのような主張をしているが」と事実確認をおこなったものだ。議会では何も言えない三流野党に貴重な一票を託すような愚行は決して行なってはいけない。

これは東京だけの問題はないだろう。全国各地で繰り広げられている光景なのだと私は思う。先日、兵庫県尼崎市で市議会議員選挙が行なわれた。ある政党で10名の候補者を立てたがそのうち4名が落選した。尼崎といえばJR事故が発生した地域である。4人が落選した政党とは、その事故の夜にJR職員と酒を飲んでいた梶原康弘衆議院議員が所属する政党である。この政党の国会議員17名は事故の記憶が生々しい5月8日に事故現場から20kmのゴルフ場でゴルフをし、そのことが指摘されたら「どこならいいんですか。兵庫がダメで京都ならいいんですか」「東京はよくて大阪はダメなの?」「いつまで自粛するの?」と開き直った議員を抱える政党だ。
地元尼崎の庶民は賢明だ。こんな人達の集まっている政党を選挙で拒否したと言えるだろう。ひとつのことで全てを判断しようというのはもちろん正視眼とは言えない。しかし物事の本質がひとつひとつの事象に現れてくることも紛れもない真実である。

私達一人一人が正邪を見抜く眼力を養っていくしかない。

2005.06.05【このままでいいのか俗悪な言葉の氾濫】
最近、電車に乗っていてなんとなく荒んだ気持ちになる方はいないだろうか。私はそんな気持ちになる。電車の中が騒々しい感じがするのだ。その原因は週刊誌の中吊り広告だ。
三流週刊誌の中吊り広告の弊害についてはあちこちで指摘されていることなのでいまさら言うまでもないかもしれないが、今回あえてこの問題を指摘しておきたい。

以前から文芸出版社系週刊誌の事実確認の甘さは指摘されてきたことであるが、それは「甘さ」にとどまらず確信犯的行為であることは近年知られるところとなっている。
その代表格のひとつが週刊新潮である。その編集方針は1997年1月に朝日新聞紙上に連載された斉藤十一氏の言葉に象徴されている。氏曰く「うちの基本姿勢は俗物主義でした。一枚めくれば金、女…それが人間なのですよ。」
事件や事故があると常に「何か裏事情はないか」という視点で物事を探ろうとする。「こんな事情があったら売れるだろうなぁ」という取材方針で取りかかる。多くの名誉毀損訴訟を生んだ土壌はこうした取材方針にある。
先入観を持たずに事実に接するという報道の姿勢とは180度対極にあるわけだ。このあたりが同じ週刊誌でも新聞社系週刊誌と根本的に違う点である。裏付け取材に人件費が殆どかかっていないんだろうから利益だって出てるんだろうと思ってしまう。

また名誉毀損が認定されても出版社には殆ど損害はない。名誉毀損裁判で負けても出版社が潰れるわけではない(欧米では潰れた事例があるらしいが)。多くの日本人は買い続けるのである。また賠償支払が命じられても最高額で1000万円。庶民感覚では果てしなく高額であるが、スキャンダラスな記事で週刊誌が売れていれば1000万円なんて元が取れているのだ。

読み物(小説)ならばそれはそれでもよいかもしれない。しかし全国レベルの週刊誌の取材記事という体裁をとっていれば多くの読者は事実だと思い込んでいるのが活字文化の弊害でもある。その記事を更にスキャンダラスに煽っているのが中吊り広告である。まさに「売れれば何でもあり」と思わせる醜悪さである。自分の子供には見せたくないと感じている親世代は決して少なくないはずだ。

社会悪となりつつある三流週刊誌を駆逐する方法は?
皆が買わないことが最短最良の方策である。

2005.05.22【郵政法案審議拒否に思う】


現在の国会の中心議案のひとつである郵政民営化法案の審議がいまだ始まらないという状況が続いている。郵政民営化法案そのものについてはこの日記でも特に触れないできたが、それにしても審議拒否というのはどうなのだろうか。

郵政民営化法案についてはコメントの必要が特にないのではないかというのが私のスタンスだ。各メディアでは様々論点が提起されているが、私はそもそも税制的にも優遇されている郵政事業を見直すことで「小さな政府」を目指し、財政投融資という不透明な資金の流れを明らかにすることが郵政民営化による眼目であると考えている。民業圧迫だとか特定郵便局従事者への待遇はどうするのかという問題提起もある。サービスの地方格差も懸念されているが段階的な措置や関係部門等の調整など現場対応は個々の問題であるという認識だ。クロネコヤマトの宅急便事業の認可が進まなかった状況と似ていると思うのは私だけではあるまい。
制度的にも施行の中で修正をかけていけばよいと見ている。
判断基準は今後とも官で行なう事業なのか、民で行なう事業なのかという点だ。そこに焦点をあわせての議論でないと話はかみ合わない。

「審議拒否」とはどういう根拠で行なわれている行動であろうか。審議拒否行動をとっているのは民主党と社民党だ。HPで見る限り社民党はこのことについて触れている箇所がみつからないので民主党の主張を見ることにした。
《郵政民営化法案の瑕疵》
「法案に重大な瑕疵があるので出し直しをしない限り審議には入らない」という主張だ。
上記HPで書かれている点については審議拒否にあたるような内容だろうか。審議の中で法案の不具合を審議すればいいんじゃないの?というのが率直な感想だ。そもそも従来の法案においても完全な形での提出しか認めなかったというなら話もわかるが、もちろんそんなことはありえない。
民主党の主張は上記HP内においてだけでも矛盾している。「民営化等の見直しを行なわない」とする中央省庁改革基本法を根拠に民営化の議論自体を否定している(この件は公社化までの規定であることは文脈で明らかであるし、こんなことを言い出したら一度決めたことは悪法であっても改定できないことになる)かと思えば、「4月25日になされた政府与党合意の内容はほとんど法案には盛り込まれていない」とも言っている。審議自体はしていいのかいけないのかこれではわからない。個々についてはここでは検証しないが検証する必要もないだろう。

そもそも民主党は郵政民営化に賛成か反対なのか?国民の多くは意外と「民主党は賛成」と思っているのかもしれないが「民営化反対」なのだ。
《郵政改革に関する考え方》
《民営化よりも正常化》
正常化と言っているが具体的な方策がまだ提示されていない。「郵便局に集まるお金を減らすとともに、ムダ遣いをやめさせることが必要」とあるがどうやって集まるお金を減らすというのか?より安全と思われるところへより預金金利のよいところへと思うのは自然な国民感情だ。預けている国民の行動自体が悪だと言っているようにも聞こえる。
一方で民主党の衆議院議員のうち少なくとも20名程度は民営化を支持しているとも言われている。このような状況であればなおさらのこと審議を行なうことが必要ではないのか。しっかりとした主張を行なうことで廃案にはならなくとも継続審議とすることは充分可能なはずだ。それもできないというのであれば民主党の存在意義そのものが問われてくる。

2005.05.13【1円落札】
現在、行政改革の一環として積極的に進められている市場化テストが波紋を広げている。「市場化テスト」とは何とも馴染みのない言葉であるが、早い話が「官民競争入札」である。従来、官庁内で行なっていた業務の実施部門を見直し、入札制度を用いて従来の実施機関も入札を行い民間企業にも門戸を広げるものだと言えばわかりやすいだろうか。
今までの業務委託契約ではなく、当該業務そのものを一気通貫して全て行なうものである。従って民間が受託すればその職場には公務員は在席しないことになる。
ただし官側の抵抗は予想通り強く、本年度実施が予定されているのは厚生労働省管轄の5業務のみ。そのうち3件は社会保険に関する業務で、これら5件は従来から民間へ開放することを検討していたものだ。
社会保険業務の市場化テストについて

今回「厚生年金加入促進事業」の入札が4月21日に締切られ、新たな問題が浮上した。それが「1円落札」だ。当初スケジュールであれば4月28日に受託事業者が決定されているはずであるが、私の検索がよくないのか今日現在ネット上では確認することができなかった。
厚生年金加入促進事業とは厚生年金未加入事業所の事業主にコンタクトを取り加入を促す業務のこと。委託費は《基本額+加入させた成功報酬》となっている。
厚生年金保険、政府管掌健康保険の未適用事業所に対する適用促進事業に係る市場化テスト(モデル事業)の実施に関する方針について
この委託費を「1円」で落札したということのようだ。最低落札価格は設定されていないので手続きとしてはおかしくないということだろう。

しかし経済の仕組みから言っても1円で業務が行なえるわけはない。ということはより広い範疇の業務として収益構造を見込んでいることは間違いないだろう。例えば
(1)今回の業務を請け負うことによってそれに付随する随意契約業務を優先的に受注する
(2)実績を積んだ企業として次回以降の入札競争に優位なポジションを獲得する
(3)今回業務によってスキルを積み上げて新規の民間ビジネスに進出する
などである。(3)の場合は企業努力として大いに認められるケースであるが、(1)のケースは断じて監視阻止しなければならない。

判断が難しいのは(2)のケースだろう。こうしたやり方も確かにひとつのビジネス手法だ。しかしこの手法を行なうためには相当の資金力が必要だ。つまり資金力の小さい中小企業は弾き出されていつになっても参入できないことになる。
従って委託する側も単独の業務で見ていくのではなく管轄する全ての業務全体として委託費用を監視する必然性があるのではないか。
法的にも目的外の業務への公的資金流用の疑いも出てくるのではないか。

具体的な監視方法としては、落札企業と落札業務をマトリックス一覧化し、落札金額、実際に発生するであろう想定コストを管理して、低金額で受注した法人団体がその業務の赤字分を他の落札業務で補填しようとしていないか、厳しく監視することを提案したい。特に想定価格よりも低額、就く1円落札した企業は要注意企業としてマーキングするべきである。また落札企業が随意契約での業務受注が発生した場合もネット等で公開することを義務づけるべきではないか。
市場化テストをはじめとする民営化、行政改革が、健全な経済活動を阻害し暴利を貪る哲学を持たない輩の悪の温床とならないことを願うものである。

2005.05.09【憲法論議】
いま巷では意外と憲法が論議されている。その立場は大きく3つに分かれている。
・護憲
・改憲
・加憲 である。
護憲とは「憲法を護る」と言うとおり現在の憲法をそのまま維持しようという立場である。対して改憲は「憲法を改定する」立場である。ただし何を変えるかは人それぞれで言っていることは微妙に異なる。
今回の憲法論議から新しい考え方として「加憲」という立場が加わった。従来の憲法の精神を維持継続しながら時代に合わせて新しい概念を「加える」というものだ。護憲と改憲の中間にあるような感じがあるが気持ち的には護憲に近く、改憲派とは相容れないのではないかというのが私の印象だ。多くの日本人の気持ちを代表するのがこの加憲ではないかと思うのだがどうだろうか。
しかしこの加憲も何を「加える」のかでその内容は180度異なってくる。

現実的なテーマとして全く何も変えないという「護憲」は浮世離れであろう。そもそも完全完璧な憲法などあるはずもない。
そうなれば問題は大きく2つの課題が残る。
@現在の憲法の条文を変更するのか
A新しい概念を条文として追加するのか という2点である(理屈では条文の削除もあるが論議のテーブルには出ていないので除きます)。

やはり大きな論点になっているのは憲法第9条をどうするのかという点だ。これが@の論点である。私の考えは一貫して第9条は守るということで変わりはない。それはこのHATAさん日記を掲載し始めた最初のテーマとなった「イラク派遣」の中にも書いている通りだ(2003年12月7日・8日付)。

そして「A新しい概念を条文として追加するかどうか」は必要な概念であれば追加するべきであろう。そのことは多くの国民も反対をするとは思えない。加憲の立場を明示している公明党は「何を加えるか」についてHPで公開しているので参考になると思う。
ちなみに各政党のHPは以下の通り。憲法について一番大きくわかりやすいのは公明党だ。全く触れていない政党は「本当に考えているの?どうなのさ?」という気がする。
自民党 http://www.jimin.jp
公明党 http://www.komei.or.jp
民主党 http://www.dpj.or.jp
社民党 http://www5.sdp.or.jp
共産党 http://www.jcp.or.jp

ただしこの@Aの論議は加憲で落ち着いたとしても、具体的に何を加えるのかとなると全く噛み合わないことが多い。それは何故だろうか?これは今までの憲法論議でも全くそうだが、その前提となる国家のあり方に対するスタンスが異なる、または充分に思索されていないからだと私は思う(この点も2003年12月7日・8日付に少し書いています)。
具体的には

【第一段階】
(1)日本国家自治体のありかた、就く日本国民の生活を構築するということは具体的にどういうことか
(2)日本国は現在及び将来において世界の中にあってどうあるべきか、または関わりなく生きていく道があるのか

まずこの点が熟考されてのちに初めて議論が成立する。大して考えてなのに議論をすると、発言に詰まって「日本人には海外の問題なんか関係ないじゃないか」「政府がやらないでNPOがやればいい」等の発言が飛び出したりする。明らかな論理矛盾だが言っている本人は全く意に介さない。私はこの状態を「思考停止」「自己矛盾」と表現している。
日本は必然的に国際社会に深く関わっているということは、事例を挙げれば枚挙に暇がない。
例えば、日本である食品のブームが起こればその原料の殆どは海外に依存する。国内原料だけで賄えているヒット商品などないのだ。しかもその原料供給のためにその国の生産活動は急激に変化をきたし公害問題も頻発する。しかもブームは数年も続かず原料生産は打ち切られ、多くの場合その国の庶民生活と環境がずたずたになっているのは紛れもない事実である。第3諸国の貧困の原因はそんなところにも一端がある。現在世界各地で起こっている紛争の背景には貧困と病理が横たわっていることを私達日本人は深く見つめなければならない。

【第二段階】
(1)今後日本は国際紛争の解決に関わるのか関わらないのか
(2)世界の平和を構築するために積極的に関わるのか関わらないのか

その上でその関わり方をどのようにしていくのかという議論に入ることができる。

【第三段階】
・どのような方法で国際紛争に立ち向かっていくのか
・平和構築への具体的プログラムの構築と実施のためにどのように取り組むか

という議論があってからしかるのちに

【第四段階】
・現存する個々の紛争、テロの脅威にどのように対処するのか
・自衛隊を今後どうするのか?

というステップになるのではないかと思うのである。そうした段階の異なる議論をごちゃまぜにしていてはどうやっても建設的な議論にはなりえないだろう。

わたし個人の考えとしては、紛争予防こそ必要だと主張したいがこれはまたの機会にします。
またその根底は武力などでは絶対になく、一人一人の地道な対話にしかないことを強く主張したい。組織や国家が戦争を起こしてきたかのような表現がされることが今までにも時おり見かけてきましたが、組織や国家が自走したとしてもその根源は人間である。また一人の人間の必死の行動があれば最悪の状況から脱することも歴史が証明し続けてきています。杉浦千畝氏しかり、三木清氏しかりである。
リトアニア杉浦記念館
NextOne「朝礼110番」一人の勇気ある行動が内閣を倒す!?
自衛隊のあり方は一定期間をかけながら再構築されるべきだと考えています。直面するテロや国外からの攻撃という危機がぬぐいきれない間はそれに対しても備えなければならないというのも当然の危機管理である。例えはよくないが、原子力発電所は事故を起こしてはならないが、しかし万が一事故が起きてしまった場合を想定して危機管理を行なっていくようなものであるといえば多少はわかるだろうか。それが日本国内で起きたことだけに関わるのか、全世界的に関わっていくのかという一番最初の問題に直結することに思いが至れば私が言っている段階的な議論の必然性も一理あると思っていただけるのではないかと思う。

2005.05.05【JR西日本福知山線脱線事故が問いかけるもの】
4月25日(月)午前9時18分頃発生したJR西日本福知山線(宝塚線)脱線事故から早や10日が経とうとしている。なんとも言いようがない凄惨な事故だ。お亡くなりになった107名の皆様のご冥福を心からご祈念申し上げます。多くの負傷者の方々の全快をお祈り申し上げます。

事故の技術的な原因解明は事故調査委員会を中心に様々な関係者が誠意尽力されている。
国土交通省発表資料
朝日新聞・尼崎JR脱線事故
時間を追う毎に事故原因と思われる事態が次々と指摘されている。運転手の前駅でのオーバーランと遅れを取り戻すための大幅なスピード超過、過失の隠蔽、虚偽の報告、甘いブレーキの車種、軽量化された車輌台座、横からの衝撃を想定していなかった車輌構造、基準外であったために行なわれていなかった脱輪防止措置、予見に基づく置石原因説の発表、日勤訓練、沿線私鉄との過激な乗客獲得競争、ピーク時の定時遅延の常態化、過密ダイヤのしわ寄せ、秒単位での遅延調査の影響、具体策を欠いた現場への過大な改善要求、レールの歪みの疑い、カーブ進入角の適正の可否、蛇行動による横揺増幅、設置ATMの問題、被害者への対応、管理職の危機感の欠如、事故車輌乗車JR職員の現場立ち去り、事故当日に行なわれたボーリング大会と飲み会等々。複合的要因が縺れた糸のように絡み合って不幸にもしかし必然的に事故が発生したと思わせるほどだ。

JR西日本の対応も被害者、国民の感情を逆なでしている。自社の責任を過小に見ようとする意図が随所に露呈しており、事実確認に基づかない推測を会見で話すなど傲慢の極みだ。今どきこんな企業がまだ残っていたのかと思う反面、悲しいことだが日本中のどこにもある企業体質であることも間違いないだろう。
JRの企業責任や被害者補償を追及するのは当然のことであるし更なる被害者を出さないためには決して手を緩めてはならない。

しかしそれだけではなぜこの事故が発生したのかという根源的解決にはならない。大きな事故事件には必ずその予兆がある。これを見逃してはならない。
そしてそれだけではまだ片手落ちだ。何故いまこの場所で起きたのか?ということへの思索が更に重要だ。当事者となった方々だけの問題ではなく、私達一人一人に問いかけられている命題というべき問題だ。いま何かが忘れかけはじめていはいないか。生命尊厳という言葉を言葉だけで現実の生活のうえで具現化する努力に心を砕くことをしていないのではないか。

私の親しい友人が語っていた。「事故車輌から出勤した2名のJR社員のことが問題視されているが、会社員である私は同様の事故に遭遇しても死傷者の救出よりもこのJR社員と同じように出勤することを選んだと思う。」
そして大きく報道された内容を見て出勤よりも救援に尽力することが大切だと今なら思えるとも言っておられました。
このように一瞬の行動を決する私達の判断基準は実に脆弱である。その根本的原因は何だろうか。色々な言い方がされると思うが、私は自分自身の行動を判断する行動規範の欠如だと思う。欠如という言葉が言い過ぎであればその行動規範自体が本源的でないために思索が行なえなくなっているのではないか。より本質的には生命哲学の欠落が今回の事故として露呈したのではないかと私は思うのである。

JRの経営者達にあっても同様である。引責辞任で責任ととるとか直接の責任者を処罰すると同時に、人の心の底に巣食う無明ともいうべき不確かな哲学不在の暗雲を払っていく努力を具体的な形で社員教育と企業理念の具現化を図っていくことが求められている。
乗客サービスという言葉が自走し始めて安全の限界を超えようとしたらその危険性を見抜くにはやはり哲学が必要だ。哲学がないと個々の対応マニュアルを作ろうとする。しかし現場は百人百様であり千差万別だ。対応マニュアルに載せられるのはほんの一部に過ぎない。結局そのマニュアルに載っていないことは判断ができないという人間を作ってきたのが現代社会の実態である。
そして私達は社会の全ての場面で同じ状況に追い込まれている。

現場にいち早く駆けつけた事故現場周辺の住民の皆様の献身的な行動が被害の拡大を大きく防いだ。多くの方が阪神淡路大震災を経験した被災者やその関係者だ。私達は心から賞賛の声を送るとともに私達自身もそうありたいと心から願うものである。

2005.04.21【ジョイポリスの事故が問いかける安全性への信頼】
今月19日の午後に起こった東京お台場「東京ジョイポリス」での事故を聞き、大きな衝撃が走った。シートベルトを装着せずに遊具に乗った石川県の男性(30)が転落死したこの事故は一施設での事故ではなくテーマパークにおける安全神話とも言うべき信頼性が崩壊したといっても過言ではないだろう。
事故が起こった遊具は「ビバ!スカイダイビング」。ベルト未装着による危険性の認識や現場での安易な運用、事故発生後の虚偽の説明などはすでに多々報道されているのでここでは割愛するが、20日付読売新聞には同様の状況で事故になっておかしくなった男性の体験談が紹介されている。
証言は短いが本当に恐怖が込み上げてくるほどの現実感がある。様々なテーマパークや遊園地で「ここから落ちてしまうんじゃないか...」という恐怖感を感じた人は多いはずだ。またそれを体験できることがこれらの遊具の目的でもある。だからこそ絶対に安全でなければならないのだ。
「他の施設も本当に大丈夫なのか...」いま通常の感覚の人であればそう感じている。この遊具は2002年から稼動しているということだが今までよく事故を起こさなかったものだ。おそらく事故発生を予見させる現場でのニアミスは多発したはずだ。いわゆるヒヤリハットだ。
安全に対する理念のなさから起因する運用マニュアルの杜撰さ、現場での管理欠如...。いずれも商業主義から発生する集客第一主義と、ふざけとも言えなくもないおもしろさや恐怖体験の追求に目を奪われた生命尊厳の軽視に由来するものであることは私が指摘するまでもない。
おもしろければいいのか、他の施設にない独創性やスリルを追求することがそれほど大切なことなのか。今回のジョイポリスの事故が問いかけるものは深く重い。

2005.04.11【アジアにくすぶる日本への不信】


先週末突然降って湧いたかのように中国で抗日反日デモが起こった。
東京を中心とした関東以西エリアでは満開の桜で花見酒に酔っていた日本人も多かったに違いない。

10日に行なわれた町村外務大臣と王毅駐日大使との会談で、王氏は破壊行動に走った中国国民の行動について「過激な行動は中国政府としても賛成しないし目にしたくない」と述べ、公式な発言として初めて破壊行動に対して否定の立場を示した。当然であろう。
9日のデモでの破壊行動発覚以後、中国政府は「原因は歴史認識の過ちを認めない日本側にある」として中国国民の破壊行動について制止する処置を講じないできていた。デモの現場においても日本企業の建物への投石を繰り返す国民を目の前にして制止すらしない警察官の姿が映像として世界中に流れた。

正しくないものに対して声を上げるのは必要なことである。また日本の常任理事国入りを良しとせず抗議行動に出る自由も認められるべきだ。しかしそれと暴力による破壊行動とは全く異なる問題である。いくら正当性を訴えようと戦争を起こしてしまえば悪となるのと全く同じだ。暴力によって破壊行動に出ること、そしてそれを黙認する行為はそれ自体絶対に許されない悪である。

今回のデモ勃発の根底には日本への根深い不信感が横たわっている。アメリカでは殆ど語り継がれていない広島長崎の原爆投下を日本人が忘れていないように(それ以上に)中国や韓国、アジアの人々は戦時中の日本の蛮行を忘れていない。家族の生命を失った方々も多かったはずだ。そのことを私達は深く心に刻むべきだ。その上で世界の人々の安穏と平和のために何ができるのか思索することが求められている。

そもそも常任理事国入りして日本は何をやろうとしているのか?常任理事国になるのとならないのとでは何が違うのか?常任理事国にならなくてはできないことがあるのか?日本国民をはじめ同胞であるアジアの友に丁寧に語ることが求められている。
その上で理解が得られない、必然性が認められないとなった場合は常任理事国入りは断念することも必要であろう。

別の角度で見ると、現在社会主義国である中国では庶民レベルまで情報が充分に行き渡っているとはいえない状況もあるのかなと感じる。特に自由主義の前提である双方の意見を充分に聞くということはある程度意識して経験を積まなければできないことではないかと感じるし国営放送の他はインターネット(しかもネット人口は推定1割以下)という状況では不充分と言わざるを得ない。

教科書検定にしても様々な教科書製作会社があって日本人でも「おかしい」と感じる教科書が検定に合格することもある。しかし合格したといって日本人すべてがその教科書を認めたわけではない。またその教科書を採用するかどうかは各自治体の教育委員会によって決まる。デモによる意思表示も場合によっては必要であろうが、それよりもあらゆる場を使って言論による主張こそが求められている。

日本国内にあっても歴史認識の正邪を質していく努力が行なわれなければならない。ちなみに双方の意見を充分に聞くという点では日本人の精神レベルも実に脆弱だ。公式発表を鵜呑みにする。マスコミ報道に踊らされる。先入観や固定観念で物事を判断する。デマをデマと見破ることができない苦手だ。ディベートがうまくできない。個々の事態に対して自分個人の意見を持つことができない。集団で行動するほうが楽だと思っている。etc...
そのような精神的な未成熟さを中国をはじめとするアジア各国の有識者が見逃してはいないと私は思う。物事の本質を見極めることができない傾向を有する国を世界が見下している面があるように感じられてならない。
現在の混迷を打開するためには、どんな立場であれ、どのような評価が下されようとも正しいと思うことを正々堂々と主張できる、偏見を恐れず間違いを素直に認める勇気を持つことがすべての方策の必須前提となるのではないだろうか。

2005.04.10【プロセキュート創業9周年】


今日でプロセキュートを創業してから満9年となりました。
大きな節目となる明年10周年へ向けて更なる前進を続けてまいりたいと静かに深く決意しております。
更なるご支援ご鞭撻を心よりお願い申し上げます。

2005.03.23【悪は眠らさない】
少額訴訟制度を悪用した出会い系サイト運営者に対して、「架空請求の訴訟で精神的な苦痛を受けた」として110万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が22日東京地裁で行なわれ、原告の主張が全面的に認められて40万円の賠償支払いが命じられた。併せて問題となった架空請求の少額訴訟の判決も言い渡され、清水裁判官は運営業者の請求は架空だったと判断し請求を棄却した。
極めて妥当な法的判断である。

ここで問題となっている少額訴訟とは「60万円以下の債権を簡易に回収する目的から原則1回の口頭弁論で判決が出る訴訟制度」である。請求された側が答弁書を出さずにいると、相手の主張を認めたとみなされ、支払いを命じる判決を受けてしまうものだ。悪徳業者はこの制度を悪用し架空請求で少額訴訟を起こし裁判の正式な判決を得るのである。
法務省は「督促手続・少額訴訟手続を悪用した架空請求にご注意ください」と題した文章をHPで掲載して注意を喚起しているが、注意の喚起のみでよいのだろうか。判決が確定した後であっても架空請求事案については判決を無効にするような法改正が必要ではないか。このままでは真面目な人間が馬鹿を見ることになる。

私の携帯にも毎日同様のメールが届く。多い日には10通に達することもある。こうしたメールを発信する目的は架空請求という詐欺行為そのものなのだから、発信した時点で詐欺未遂として摘発逮捕するべきだ。「悪事であろうがばれなきゃやり得」との風潮を一日も早く一掃したい。

2005.03.22【竹島問題】


今月16日に島根県議会が制定した「竹島の日」をめぐって日韓関係が紛糾している。両者の見解の相違には異なる複数の問題が入り組んでいる。それらを整理しかるべき対応をとることが求められているのだろう。

@そもそも竹島(韓国名:独島)は日本韓国いずれに帰属する土地なのか?
A現在竹島に関わる生活がある庶民レベルの問題はどうするか?
この2つの視点で問題を解決するべきであろう。

まず1点目の土地の帰属について。これは双方それぞれに主張を明確にしている。
日本側の主張は「外務省HP/竹島問題」と「島根県HP/かえれ!竹島」に集約されるだろう。1618年までさかのぼり実質的、歴史的な文献をもとに領土の領有を主張している。
一方韓国側の主張は私がハングル語がわからないので(^_^;)公式サイトは読めないのですが中央日報系サイト等が参考になるだろう。日本が公文書で残っている1618年の出来事も「泥棒行為」と主張し一貫して領土侵略の意図があったとしているようだ。これは第2次世界大戦後の敗戦処理において返還の対象とされた暴力及び貪欲により略取したる他の一切の地域であるかどうかという点にも関係する。
両者の主張には征韓をはじめとする日本が行ってきた残虐侵略行為に対する根深い嫌悪感不信感が横たわっている。歴史のどこに基点をおくのか、またその際に侵略等の意図があったのかどうかは双方の主張にぬぐいがたい隔絶がある。
第一点目の解決のためには第三者に判断を委ねるのが妥当であろう。領土問題は国際司法裁判所に預託されるべきである。

実際に生活が関係する庶民にとっては第2点目が重要であると思う。漁業に携わる者としてはその水域で操業できるかどうかは死活問題だ。1999年に日韓両国は新日韓漁業協定を締結発効し、領土問題を切り離して竹島周辺は両国が自由に操業できる暫定水域としたが、日本の漁業者には事実上操業できない状態が続いている。竹島の領有を主張する韓国が既成事実を積み重ね日本漁船を締め出すという強硬姿勢を取り続けているからである。壱岐をはじめとした漁業従事者は実際に生命の危険に遭遇していることが報道されてきた。今回の島根県議会の条例制定の背景にはこうした事情も大きく影響しているはずだ。
この点については日韓両国政府は無法状態を放置せず、漁業従事者の安全と生活を確保するべきである。領土がどちらになろうがそれとは関係なく生活を送ってきた人々がいる以上、その生活は保障されるべきである。
その意味で1999年締結の新日韓漁業協定が履行されることを双方が監視保障することを望む。また漁場としても素晴らしい資源があるこの水域である。獲ることにばかり執着せず、日韓協働での海洋牧場等を設置してはどうか。乱獲を防ぎ両国の将来の利益に貢献するという意味でも重要な取組みであると思う。

2005.03.09【日本人にとっての宗教って理解できないものへの盲目か】
兵庫県最高齢者とされていた男性が実は5〜10年前に既に死んでいたことが報道されている。親族からの通報で事実が判明したということだが、なぜ死亡を届け出なかったのか。
警察発表によると、死亡した男性は70歳を超えた長男、二女、四女の3人と同居、死亡後はふとんに寝かせられていた。この3人は遺体に食事を供えたり、水で口をしめらせていたらしい。家族らは宗教上の信念から「酉(とり)年の3月に大願が成就するので今月中に届け出ると決めていた」と話したという。
不可解な事件が起こった時に聞く言葉の一つが「宗教上の理由」だ。

そもそも宗教って何なのだろうか。宗教の概念ほど歪められているものはないと思う。あまりにもその概念が違う形で固定化されているのであれば別に新しい言葉を使わないといけないかもしれないと考えてしまうほど、現代人の持つ宗教のイメージは歪(いびつ)化している。

宗教とはその言葉の持つ由来から言えば、最ももと(宗)となる考え、法理(教え)のことであろう。最も元とするべきものは何かを追求していけばその考え(理念、法則)は必然と明らかになってくる。最も元とするべきものは何か?多くの人がそれを思索し語り合わなければならないと痛感するが、それは生命そのものであり、宇宙生命全体のことではないだろうか。それを基にした考え法理とは、生命、宇宙の本質を追求し、本来的な生命、宇宙のあり方を探求することではないだろうか。言い換えれば、私達一人一人の生命そのもの自体がより生命本来の輝きを放つための探求であろうと私は思う。

宇宙といっても私達一人一人の生命の集合体である。最近よく引用させていただいているワンガリ・マータイ博士が言われているように、世界といっても結局私達一人一人の行動そのものであるのと同様だろう。我々の生命がどのような法則に則って活動をしているのか、よりよい生命活動のリズムがあるのかないのかを含めて、もっとも大切な根幹を追求実践しようということが宗教というカテゴリの持つ本来の意味合いであると私は考えている。だからこそ古今東西の賢人、有識者と言われる人は一人も例外もなく信仰を実践している。
生命の法則を思索実践せずして人生を送ることは、乗除加減を知らずして数字を扱うようなものではないだろうか。

それが(少なくとも私が住んでいる)日本においてはどうだろうか。死んだら極楽浄土に行くだとか、日曜日だけ集会に行ってありがたい話を聞いてきただとか、水晶玉を買えば幸福が舞い込むだとか、死んだ先祖に朝夕拝みなさいだとか、いったいどこに生命の法理を解き明かそうという真摯な研鑽があるというのか。結局何をやっているかと思えば、神社で神札を買ってきたり絵馬を買って下げてきたり、交通安全祈願だといってお守りを買ってきて車にぶら下げたり、新年だけ初詣に行ったりと、何かのついでという程度の軽い認識になっている。どこに生命を磨く努力が行われているというのか。何事もしかるべき努力なくして結果はないのである。

勉強もしないで司法試験や大学受験に受かろう、真面目に働くやつは馬鹿だ働かないで一緒楽して暮らそう、というのと何も変わらない。身近な例で考えれば殆どの人がわかることだ。しかし自分の実感が伴わない少し大きな事象に関しては多くの人が思考停止に陥ってしまう。人生のあり方というテーマはその最たるものだ。
人生という、より大切な事業において指針も、理念も、最終目標も、成果を出すための要因の積み上げ方(実施方策)もわからないまま、もがいているのが現代を生きる一人一人の実態ではないだろうか。

今の時点では自分の理解を超えたものであっても、自身の思考と境涯を広げ高めて生命本来の充実へ、宇宙の本来のあるべき姿へと理解実践していく。これが宗教の持つ意義であると私は思う。そこに立脚すると多くのことに視界がひらけてくる。自然環境、京都議定書の議論も生命と宇宙の在り方から考えれば、しごく当然の帰結だ。モラルなき犯罪が横行する現代社会の処方箋も見えてくる。50年後100年後の社会のあり方も、教育のあり方も、実に具体的にプランニングができ、しかもぶれることがないと私は感じている。

宗教をタブー視したり不要であるかのような今の風潮の大転換こそが根本的な問題解決の方途である。

2005.03.08【それでも頑張ろう】
それでも前に進むしかない。昨日の続きになるが今夜とある人とそのことに絡んで話を聞いて頂いた。今いる場所で最大限できる限りのことをやろう。自分の意思が完全に反映されるわけではない他人である回りの人たちに多くを望むよりは、自分がやるべきこと、やらなければならないことが残っていることに気づくと、紛動されている場合ではないことに思い至った。人間誰しもその人でなければできない使命がある、はずだ。あの人にはこうしてほしい、この人にはこれができるようになってもらわないと困る、と思っていても状況はどうなるのか誰にもわからない。しかし自分がやるべきことは自分がやれるかできないかだ。人生ゲームとして考えてみても実に明快である。
今いる場所で今やるべきことをやろう。それが必ず目の前の未来につながることを信じて。

2005.03.07【会合には納得と共感と、そして何よりも元気と希望を】


2月22日付で「会議会合のもつ意味」について感じるところを書いた。今日はその続き、というか少し疲れを感じるなという話。
今日のある会合で1年半ほど担当していた役回りを突然終わりにすると発表された。その理由は「負担が大きいだろう」だからとか。事前に一言くらいあってもいいんじゃないの?とは思ったが、それを前提に議事進行が組まれていることが明々白々だったので問い質すことはしなかった。正確にはできなかったというのが状況として正しいだろう。それを言うと予定の時間内に予定議事内容が終了しないことが明らかだったからだ。そのような状況がわかっていて事前に相談もないというのはある意味で確信犯である。瞬時にそこまで思いが至ると気持ちは離れ、一気に気力が抜けていった。

大きな状況を変革しようとすると個人は無力を感じる。ワンガリ・マータイ博士は「だれかではなく私が、どこかからではなくここから」変革は始まるのだと語っている。それに比べれば小さな会合ひとつのことだ。そんなことはくよくよ気にしないで悠々と進めばいいのだろう。
しかしそこは凡夫の凡夫たる悲しさである。リズムに乗り切れない時というのはこういう状況の連続なのかもしれない。
しかしこうした思いが理解されない、誰にもわかってもらえないという経験は貴重である。順風満帆の人生を歩んでいる人や要領だけで渡って来ている人には絶対にわからない気持ちだ。自分がその立場なら同じような辛い思いを他の人には決してさせない。これを経験しているだけで価値があると言える。またそう思ってすべてを活かしていくという決意が次の結果につながることを信じたい。

2005.03.04【まだまだある公職にある人達の役得】
地方自治体の職員共済組合や厚生組合の資金運用が問題になっている。
舞鶴市職員共済組合(組合員1045人)では加入年数に5万円をかけた額の「退会給付金」を支払っている。市は職員の掛け金の倍額を組合に補助しており給付総額の3分の2は公費。同給付金への公費投入はこの5年間だけでも約2億6000万円にのぼり、退会給付金総額は約4億円だ。
山形市職員厚生会は2002年度に基金2億円を取り崩し職員に「元気回復券」を分配している。残り3000万円についても2004年度に旅行券などを配布して使い切った。市職員課は「市町村合併を前に基金を使い切るのが目的」という。この厚生会でも市が職員掛け金の2倍の補助金を投入して運営してきていた。

明らかにお手盛りの制度と言わざるを得ない。職員共済組織等への公費投入自体が見直されるべきだろう。給与水準に問題があるというのであれば給与自体を改定するべきことである。結果的に住民から見えないところで公金からお金を受取ることに罪悪感を感じる職員も一人や二人くらいはいるのではないか。一住民の気持ちに立てば当然のことである。
こうした問題は理念なき政治行政の一端でしかない。一つひとつ根気強く改善していくことは言うまでもないが「何のため」の行政なのか、私たち一人一人の仕事なのかを見つめ答えを出していくことが根本的解決への第一歩である。

2005.03.03【求められる対話の力】


最近ある記事で「傾聴ボランティア」と「アサーション」が取上げられていました。

傾聴ボランティアとは、元気な中高年世代がカウンセリングの基礎を学んだのち一人暮らし等の高齢者の話し相手になるボランティアのことです。その淵源は、アメリカ・カルフォルニア州サンタモニカ市のある高齢者施設で、高齢者の健康には「心の悩み」が大きく関係していることに気づき、カウンセリングの手法を取り入れたボランティア活動を1978年に開始したことに端を発します。シニア・ピア・カウンセリングと呼ばれています。ピアとは「仲間」と言う意味です。悩みを抱える高齢者の思いを同じような経験を乗り越えてきた同世代の高齢者仲間が傾聴していくことにその目的があります。またこの傾聴ボランティアは相互に成長していくという面が大きく評価されていることも知られています。

アサーションとは自己表現とか自己主張というように訳されることがありますが、従来の日本文化にはぴったりとした表現がない概念かもしれません。
自己表現としては自己表現なのですが、あくまで相手の立場や気持ちを思いやりながら自分自身の気持ちや状況を的確に相手に伝えていく、このような意味合いを含む言葉です。従ってアサーションでは微妙な言葉の言い回しや声の調子、顔の表情などにも注意が払われます。いずれも気持ちを伝える重要なファクターだからです。

この二つに共通して言えることは、世代や地域性別を越えて対話ができない人達が増えているということです。そして言い古されたかのような対話の力こそが解決の道であることが示されています。今こそ対話の力が見直されている時はありません。
一言で「対話」というと「なんだそんなことか」と思う人が多いことでしょう。しかしそんなふうに感じたあなた!本当に対話ができていますか?そんな人に限って自分勝手な強弁家だったりカウンセリングの手法とか先に勉強しようとします。あまり適切なたとえではありませんが、対話を真剣に考えない人は自己研鑽もしないで楽して暮らそうと思っている人であり、手法のひとつ覚えはデートに行く際にトレンド雑誌のお奨めデートコースを読み漁った、かつてのマニュアル男達と大差ないでしょう。生きている人間が相手です。自分も生きている一人の人間です。成長し続ける自身がなくして真の意味での対話は成り立ちません。

1ケ月余り前にある識者が対話について書いている文章を読みました。
その方は言葉が話せる唯一の生物が人間であることに触れ「言葉を持つことが人間の最大の属性である限り、対話の中に身を投じていかなければならない」と訴えられ、現在社会を覆うテロや貧困、人権や環境破壊の諸問題を解決する突破口が対話の力であることを理路整然とかつ丁寧に展開されておられました。
そして人間のもつ英知の結晶として
@すべての事象は相対的、可変的である
A相対性、可変性を見極める眼識を磨き、相対性に紛動されない主体を築く
B眼識、主体をベースにするがゆえに対話の対象を選別しない、対話の道を閉ざさない
という原則を提示され、更に世界と自然界の不可分性を繋ぐ方途も三層別したうちのひとつである自然との対話にあることも鋭く見抜き、論陣を展開しておられました。
非常に感銘を受けた内容ですので別の機会に述べるとします。

傾聴ボランティアやアサーションを重要視されてくるなど、様々な場面、状況において対話の必然性を感じるようになった今日この頃です。

《参考》
傾聴ボランティア ホールファミリーケア協会
『傾聴ボランティアのすすめ』三省堂
アサーション 『自己カウンセリングとアサーションのすすめ』平木典子著 金子書房

2005.02.25【何故経営にスピードが要求されるのか】
経営をはじめどの様な計画であれ、行動を起こして目標を達成しようとするならばスピードが必要となります。
「事業のチャンス」という言葉で言われることがあるので「急いでやらないとお金儲けの機会を失う」というような程度の捉え方しかされないことがありますがそういうことではないと思うのです。

もちろん事業を計画していったんスタートすれば様々な経費が出ていくわけですから着手したら実施の速度を上げることはいうまでもないかもしれません。
しかし私が指摘しておきたいことは、消費者の求める欲求に応えることができるかどうかが経営のスピードに現れるということです。その点についてはトップ企業といわれる会社の経営者であってもかなり感覚の違いがあります。

求められている時に価値ある商品が提供されないと消費者(私たち一人一人を含めて)は同様の機能を持つ代替商品を求めてスライドします。また自社自店が提供できなくても他社他店がより価値的に提供できれば何ら問題もありませんしそのことを嘆く必要もありません。その商品機能に関しては自社自店に使命がなくなったというだけのことです。しかしこれが続けば自社自店は貢献することができない、存在する価値がないということになります。その意味で自社自店が存在するためには、また貴重な人生の時間を費やして仕事をする以上は経営のスピードが必然的に要求されることになるのです。

「これはやるべきだ」と感じる事業は速攻で着手、実行していく。そしてその事業が一定の成果を収めつつ次に求められていることに順次着手する。もちろん直感で大切だと感じたことを大切にしながら綿密な収支をはじめとした事業計画を組上げることは言うまでもありません。

2005.02.24【数字が読めることは経営者の基本のはず?】


数字の読めない経営者と出くわすことがある。個人的には実につらいことだ。どうして今までやってこれたのか不思議で仕方がないが...今週も自分の会社で予実表を作ったこともないし、他社の予実表を見ても最終的な赤か黒しか見えないという経営者と話をした。
実に不幸である。今までそこそこの仕事をしてきたみたいだが昨年新しく興した事業が軌道に乗らない。とりあえず数字から見えてくる問題の一端を指摘すると「そこにはお金がかかっていてもいいんだ」とか「開業時の先行投資分が入ってるから関係ないんだ」とか自分なりの数字の解釈を披露し始める。
どうも数字を指摘されることが自分の経営者としての過ちを指摘されているように感じるらしい。今まで経営分析や方針管理をやったことのない創業者とかベンチャーの代表に多いパターンだ。
まあそれならそれでいいかと「そこまで数字を説明できるんでしたら社長なりの収益をあげる黒字転換の方策の考えがあるんですね?」と聞くと「なくはないが自分は忙しいのでどこをどうしたらすぐよくなるか言ってくれれば改善するから」と言い出した。自分のはじめた事業という意識があるのか少々疑問だが(^_^;)意外とこうした経営者が多いのである。そんな経営者に限って勢いだけは人一倍あるので資金を貸そうという人も出てきたりする。それが信用だとまた勘違いする(^^ゞ

でもよくよく考えないと...収益構造があってこそ事業も大きく展開できる。収益構造ができないまま店舗や事業規模を拡大すると大きな負債を抱えて多くの人を不幸にする。
B/L、P/S、予実管理の数字を読み込めることはもちろんのこと、収益のサイクルが回り始めるまでの収支計画書を立てることは事業展開の最低要件である。数字が読めないがために収益の見込みのない事業まがいのことにのめり込んだり重要なポイントに気づかなかったりする。事業に見切りをつける際も数百万で終わらせられることも5000万も1億も負債を出してから出ないと決断できなくなる。

事業はボランティアではない。収支が成り立ってこその事業であり、それこそが経営者の仕事なのである。

2005.02.23【医師の過労死認定と病院の責任】
今月22日、医師の過労死を認める判決が水戸地方裁判所であった。茨城県土浦市の土浦協同病院に勤務していた当時29歳の男性医師は92年4月に自宅で薬物自殺した。その直前まで就業していた土浦協同病院には1989年10月から勤務。1日12時間以上の長時間労働が常態化し、休日も殆どなく深夜の呼び出しも頻繁にあったという。勤務期間にうつ病を発症、土浦協同病院から都内の病院に転勤した直後に生命を絶った。

彼を育て医師として天職を見出せた喜びにあったご両親の気持ちを思うと言葉に言い尽くせないやるせなさを感じる。医師の就業環境の過酷さは話には聞くことがあるがその具体的な厳しさは勤務実態を知らない私たちの想像を越えるものだろう。ましてや生命を預かる聖職である。その精神的な重圧は計り知れないものがある。
これを機に医療従事者の就業環境の見直しが進むことを望みます。

行政訴訟で医師の過労死が認定されたのは初めてのことと報道されているが、死亡から過労死認定の判決まで約13年間。この時間も長すぎないか。
それと同時に、2年半もの間過酷な労働条件を看過し、うつ病発症の原因となり、貴重な生命を奪う直接原因となった土浦協同病院の責任は厳しく問われなければならない。

2005.02.22【会議会合のもつ意味とは】
最近とくにこれは必要なのだろうかと感じる会議会合が多くなったように思う。もちろん有意義で必要不可欠な打合せが大半であろうが、定例化した会合でその内容に疑問を感じるものが多発している。

たとえば新しい事業、試みを開始しようとすれば綿密な事前準備、根回し、協議そして深い思索が必要だ。何としても実現しようとなれば他のスケジュールを変更してでも会議の場をセッティングする。
しかし伝達事項が中心であれば稟議、回覧等で充分その機能は果たすことができる。その場に集まり帰っていく時間を有効的に他のことに振替える方がずっと価値的だ。そんな会議会合に限って無理に権威付けようとする傾向がある。権威という言葉をカラ元気、抽象的な精神論と言い換えてもいいかもしれない。無理やりでも「今日の会合会議にきてよかった」と思わせようとする。しかし庶民は賢明だ。そんなことは見透かしてしまう。またそんな付け焼刃で出席者が満足すると思うこと自体を改めなければならない。

その一方で出席者から議案として取り上げてほしいと要望しているテーマがあっても主催者の関心外であれば協議されることもない。何のためにその場に集っているのか、意識ある出席者であればあるほど会合に疑問を持ち、次第にその場にいることが苦痛に感じるようになる。

会合会議のもつ意味。それは創造性の発露でなければならないと私は思っている。その意味で具体的ガイドラインを2つ挙げたい。
@個人個人が持つ英知を結合止揚(アウフヘーベン)する(1+1が3以上の行動結果を生み出させる)
A我見に陥ちがち、結果的に方向性がずれていきがちな個人活動の限界を補正向上させる

そして根本的な問題として会議会合に頼った活動が横たわっている。日常的に綿密な打合せ協議検討、そして具体的な行動がなされ関係各位とのコミュニケーションが図れていることがあらゆる社会活動がその目的を達成する要因となる。とかくコミュニケーションが乏しくなった組織ほど会議会合が権威的になっていく。回数も時間も長くなる。その内容はといえば同じことの繰り返し、ともすれば登壇する人の独演会や絶叫に終始することは皆一度や二度は経験していることだ。

個人としての意思がある程度あれば組織に属していない時の方が人は純粋に行動ができる。しかしそれでは生涯をかけても自己の世界に毛が生えた程度の貢献しかできない。それを仏教では「二乗(にじょう)」と表現し、そこに人としての大きな壁があることを解明している。
「社会構成者としての人間」「環境としての人間」の視座に立つならば、卑近なことであるが上記のような会議会合に参加する立場になった時が更なる境涯に躍り出れるかどうかの勝負と言えよう。
「どうせなにを言ってもかわりゃしない」と思ってあきらめてしまうのか、「この状況を乗り越えられればまたひとつ自分と回りの人達の境涯が開ける」と思えるのか、わずかな一瞬の差で180℃人生は変わっていく。

そうは思ってもなかなかすっきり行動できないのが人の性だろうか...。

2005.02.21【たばこ規制枠組条約】
今月27日に「たばこ規制枠組条約」が発効される。
2003年5月21日にジュネーブで行なわれた第56回世界保健総会で条約案が作成され2004年3月に署名された。日本の国会では2004年5月に国会承認され年6月8日に受諾書寄託を行なっている。
この条約発効によって、たばこ広告の制限規制や禁煙政策の実施などが義務づけられ、たばこメーカーには喫煙による悪影響を商品パッケージに表示する「警告表示」が義務づけられることになった。
隣人との(心の距離はどんどん離れていくのに)実距離が狭くなる現在生活をおくる中で、受動喫煙の防止をうたった健康増進法改正(2004年5月)に伴う公共施設等での禁煙義務化に続き、肺がん発生とのメカニズムが明白になっている「たばこ」への喫煙制限は必要不可欠な施策である。

日本たばこ産業株式会社(JT)は本年6月末までに現在発売中の全銘柄97アイテムの商品パッケージに「喫煙が肺がんの原因のひとつである」ことなどを明記することになる。
JT社長・本田勝彦氏のコメントが出ている。「全銘柄のパッケージを換えるには大変な労力がかかる」...何を言っているんだという感じだ。
庶民の健康を害しながらその危険の上に自社の利益が生まれているという自覚が全くない。それにたかだか97アイテムだ。民間企業にあってその数のパッケージ変更に半年もかかるというのはお役所感覚以外の何物でもない。現行のパッケージの下半分に警告文を入れるだけなら1日もあれば全部の版下原稿は作れる。見てくれや経費を考える前に一人一人の健康を考えるべきだ。「条約が発効になったからしかたないからパッケージを換える」という後ろ向きな意識はないか自分を見つめ直してほしい。
それに2003年5月の時点で早かれ遅かれ表示義務になることはわかっていたわけだ。既に1年半以上も時間があって何が「労力がかかる」なのか。1年半以上何をしてきたのかじっくり聞きたい。
日本を代表する企業のトップの意識の低さにあきれる思いがした。

2005.02.17【京都議定書発効される】
昨日2月16日ついに京都議定書が発効されました。ここで改めて触れておきたいと思います。京都議定書で求められているのは何でしょうか。この日記でも昨年12月21日付で触れたように一言で言えば温室効果ガスの排出抑制です(議定書骨子はこちら)。健全な地球を次の世代に引き渡していくためには温室効果ガスの取り組みだけでは全く事足りません。しかし温室効果ガスの問題さえできないのにそれ以外のことは何を言わんかです。「一丈の堀を越えざる者二丈三丈の堀を越えてんや」との先哲の言葉を引くまでもありません。

そして昨日大変な努力に向けての第一歩が踏み出されました。大切なことは現在の生活や経済活動の根底にあるエネルギー消費を劇的に改革しない限り未来の地球はないという認識を具体的な形に転換していくことです。
とはいっても個人の生活が今日を境に大転換させることは現実としてはできません。代替エネルギーもエネルギーを大幅に削減した生活を送るすべも現時点では個々人の生活の中に充分に用意されているとは言えないからです。しかし大きなエネルギー政策の転換が必要であると共に、できることからはじめることこそ必要不可欠です。こうしたひとつひとつの積み重ねこそが持続可能な未来を作る原動力となるからです。

とりあえずできること
・暖房(夏になったら冷房)の設定温度を1℃抑えよう。
・近くのスーパーに買物に行く際に自動車、バイクを使っている人は自転車か歩くようにしよう。
・通勤に車を使っている人は公共機関への切替が可能かどうか検討しよう。
・冷蔵庫の開閉回数を減らすように努力しよう。
・室内の使わない電灯はこまめに消そう。
・必要以上の夜更かしはやめて朝早く起きて行動しよう。
他にも気づいたことを各人から始めよう。そして自分が気づいたことを回りの友人達に語り共に実践する人の輪を広げていくことが大切です。自分一人だけ幸福というシチュエーションはありえないからです。

昨年のノーベル平和賞受賞者でケニア環境副大臣のワンガリ・マータイさんが京都市で行なわれた「気候変動枠組条約第3回締約国会議(COP3)」記念シンポジウムのため来日し基調講演を行ないました。マータイさんがケニアの自然回復のために1977年に一人から始めたグリーンベルト運動はその後約3000万本の植樹運動へと拡大。発展途上の豊かさを追求せざるを得ない社会情勢の中で、後継世代のために環境を守り育てることの意識革命、女性の地位を向上させることに大きな貢献を果たされた偉大な女性です。その活動の一部はドキュメンタリー映画「静かなる革命」で取り上げられ、2002年夏に南アフリカ・ヨハネスブルグで開催された「環境開発サミット」の映画祭でも大きな反響を呼びました。
そのマータイさんが語っています。「小さな一歩でも行動を起こすことが真の意味を生み出すのです」。
またそのグリーンベルト運動の合言葉は含蓄深い。「砂漠化は北から広がってくるのではなく我々の裏庭から始まる」。
まさに私達の家庭の小さな一つ一つの取組みにこそ地球の存亡がかかっているとの自発的意思が求められています。

「自分達さえ不自由なく暮らせればいい」「誰も見てなければ何やっても構わない」「死んだ後のことなんか知ったことか」...
そんなエゴイズムと決別し、京都議定書の発効を契機として七世代先の子孫達にまで地球環境を引き継げるように私達から取組んでいきたいと決意しています。

2005.02.15【公務につく人達の適正な年収とは】
国会職員で国会議員の年収(2077万円)を上回る人達が19名いる事実が一部マスコミで報道されている。俸給、調整手当、ボーナス等の総額として
国立国会図書館長:3041万円
衆参事務総長:各2976万円
両院法制局長:各2900万円
国立国会図書館副館長:2433万円
衆参事務次長、衆参法制次長、衆院調査局長(計5人):各2400万円
常任委専門員、裁判官訴追委員会事務局長、裁判官弾劾裁判所事務局長(計8人):各約2100万円 である。
そのほか国会議員同程度の高給を受け取る常任委専門員(年収約1800〜2100万円)が30名いることが指摘されている。

このような現象になった背景には不況が進み民間企業でのリストラや賃金カットという社会情勢の中で国会議員の給与の一律2割カットを行なったことがある。
こうした逆転現象に対して国会職員側は「専門員は各常任委員長や理事に政策面で提言するなど役割が大きい。議員立法が多くなっている現在は特にそうである」と反論していることが報じられている。
国家、地方公務員においても様々な歳出削減を言われる中で、本当にそれだけの年収が必要だと言うのであればその支出モデルなりを提示しないといけないのではないだろうか。議員にあっては年収の中で自身の生活費のほかに議員活動に要する経費を賄っている。それでも国民感覚を超えているということで歳出カットになった。2000万円を超える国会職員の年収がその仕事の対価としてふさわしいというのであればその根拠を数値なりで提示することが必要だ。

一方、兵庫県尼崎市は今月14日、市長の退職金を1期2550万円から490万円に引き下げる条例案を市議会に提案する方針を固めた。白井文市長は「退職金を500万円にする」と公約して初当選、特例として自身の減額を決めており、これを条例化しようということのようだ(なお助役と収入役の退職金は従来通りの約1000〜1600万円)。白井市長の言う「選挙で選ばれた市長の1期4年間の退職金として2550万円は高額」というのは庶民感覚だ。4年で490万円はまだ高い感もあるが民間企業の雇われ社長でもっともらっている人達もいるからなんとも言い難いが、収益を上げる民間企業と住民を代表して行政を行なう人達とを同じ土俵で考えること自体がおかしいだろう。

清廉の政治家であり人民の宰相とうたわれた周恩来先生が生涯貫いた信念のひとつが「民衆奉仕」であった。少しでも行政に携わるものの思いはそうあってほしい。

2005.02.08【1円起業が2万4千件余りに達する】
このほど経済産業省から、最低資本金規制特例制度を利用した起業件数が2万社を超えたことが発表されました。いわゆる「一円起業」です。
同制度を利用した1月21日現在での起業件数は株式会社9,821件、有限会社14,818件の計24,639件。そのうち最低資本金調達に成功したのは1343社。施行されたのが2003年2月ですから最長の企業でもまだ2年。資本金は設立後5年以内に規定額に達せばよい。しかしそれでも到達した企業の割合が5.4%というのはこころもとない数字です。
2万4千社余りのうち実際に業務を行なっている企業がどれだけあるのか追跡調査も必要です。すでに解散しているところも相当の割合で存在しているのではないか。(※ちなみに2004年2〜3月に調査した「最低資本金規制特例制度利用実態調査」が発表されているがその後の公式な発表は見当たらなかった)
2004年12月8日の法制審議会答申によれば、今後最低資本金制度は廃止の方向がうたわれており、この流れは止められないと思うが本当に必要な措置なのでしょうか。

私は新規起業と何らかの理由により再起を図る場合とでは全く状況が異なると感じます。確かに300万円の資本がなくてもできる事業もあるでしょう。であれば法人格に何故こだわるのか?個人事業主として行なえばよいでしょう。
実際に様々な業種を見てみても300万円程度の費用はそこそこ必要です。「いやいや株式会社にしないと困るのよだけど1000万円も必要ない」という声が聞こえそうですがそれなら何故有限会社ではだめなのでしょう?
かつて産学協同という触れ込みで起業が華やかに取り上げられた時期がありました。結局大きな成果もなく解散していったケースが多かったことからもわかるように、体裁や法人格にこだわる人達に事業の完遂を求めること自体が無理なのかも知れません。

何らかの理由で事業に失敗した経営者が再起を図るには必要な制度改正だと思います。今の制度でも再起業はできますが、金融機関が資本金の預りを拒否するケースもありますし負債を抱えたまま別途資本金を確保するというのは債権者が納得しません。
私の考えとしては新規起業と再起を図る再起業とは厳しく選別し、再起業の場合のみに適用することが必要ではないかと考えます。

「法人」という言葉の通り、法律によって団体等に人格を付与することが法人のそもそもの意味でしょう。特にとかく利害関係が対立する経済活動にあって法人格を取得するということは自他共の人格に関わっていくという自覚が必要であると私は思います。互いの存在を尊重しあい、より多くの人の利益に供するという自覚を促していくことがより必要なことであると感じています。
この規制緩和が逆に安易な破綻者(加害者)と被害者を生まないことを祈るのみです。

2005.02.04【主流となるかリアプロ方式TV】
個人的には購入の予定はないが家電市場で元気が良いのが大画面TVだ。
主力技術は液晶・プラズマ・リアプロ(リアプロジェクション)の3方式である。特にリアプロはここ2年ほどで技術革新が進み、「暗い・ピントが甘い」というイメージから大きく改良された。ちょうどノートパソコンのTFT液晶から現在の高画質に変わったくらいの進化である(ちょっとほめすぎ^^;?)。
アメリカでは昨年から俄然売上が伸びているらしい。いくつかの日本メーカーもアメリカ市場で数万台単位で好調に販売を伸ばしている。セイコー、三菱電機、ビクター、ソニーなどがそうだ。国内での商戦は今年夏のボーナス時期をにらんだ6月から激しくなるという予測が大方の見方である。実勢価格は60型サイズで40万円台、50型サイズで30万円台での攻防になりそうというから現在のプラズマTVよりもかなり割安感のある価格帯になるようだ。
消費電力が他の2タイプに比べて総体的に低いというデータもあるのでその点は歓迎だが、どうしても庶民生活の外の話という気がするのは私だけだろうか(^_^;)

2005.01.27【参議院本会議始まる】


国会では26日に参議院本会議が始まった。小泉首相の施政方針演説に続いて各党からの代表質問が行われた。今年の政治課題の眼目は、経済の景気回復が本調子でない中で危機的といえるところまで追い込まれた財政状況をいかに立て直しながら2007年から減少傾向に突入する少子化対策をいかに講じていくかにあると言えるだろう。
代表質問の内容を紙面等で見る限り、一部の政党を除いてほぼその認識は共有していると思われる。ではその具体的な政策は如何という議論と実行に成否がかかってくる。

財政改革が叫ばれて久しい気持ちさえあるが国家財政のバランスシートは何ら改善されていない。それどころか2005年度末の国と地方をあわせた長期債務残高(簡単に言えば借金残高)は774兆円に膨れ上がっている。10年前の1995年度末が410兆円だったというから実に1.9倍になっている。
しかしそれでも単年度の予算でさえも国債発行に頼った予算編成を続けている。12月25日付産経新聞には家庭の家計に置き換えて警鐘を鳴らす記事を書いていた。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041225-00000001-san-pol
その意味では与党である公明党の代表質問として、人件費の削減も含めて5〜7年かけて20〜30%の歳出削減計画を各省庁毎に作成実行する提案がなされたことは一縷の望みとも言えるかもしれない。

その一方で無駄遣いとわかっていて自ら律することができない人の性も見えた。今回の代表質問の質疑内容と見て私も初めて知ったのであるが、地方自治体によっては「歩行手当」なるものを支給しているところがあるという。「何のこと?」とすぐにはわからなかったが、庁舎まで徒歩で通勤する公務員への通勤手当だというのだ。一般企業ではありえないことで俄かには信じがたかった。質疑内容によると
・3km未満の者に一律月額5700円
・1Km未満の者に4950円、1km以上2km未満の者には5750円
など相当の金額を支給している自治体は少なくないらしい。唖然とする。
私が以前勤務していた某企業では自転車通勤者への月額500円の交通費支給という規定はあったが、徒歩で通勤する者に何で通勤費が必要なのか?
昨今各地で告発されている警察官の組織ぐるみでの裏金疑惑といい、携わっている本人達からの自浄作用が動き出さない限り財政改革は本格化したとはいえないだろう。

そして忘れてならない点がもうひとつあると私は思う。それは現在社会の病理ともいうべき人の心の問題だ。以前であれば10年に1度といわれるような凶悪犯罪が毎日起きている。これはマスメディアが発達したらわかるようになったということではないだろう。確かに古の時代にも戦争があり刀剣による殺し合いもあった。しかし人類社会が破滅しかねない危機的状況は人類始まって以来の状況と言えるだろう。

それと共に精神的なバランスを失って一人悩み苦しむ友人達が本当に多くなった。地球上には飢えと伝染病で死んでいく人々が多くいる中で先進国のみの病理だという指摘もあるだろうが、それでも紛れもなく私達が直面する現実の課題である。
昨年末に障害者医療費のあり方について少し調べる機会があった。直接は10月12日に厚生労働省から発表された「今後の障害者保健福祉施策について(改革のグランドデザイン案)」についての自分なりの考えをまとめるためだったがその中で述べられている障害者の増加はこの現実を、社会として、そして個人一人一人として正面から取り組んでいくことの必然性を痛感させるものだった。
このテーマについてはまた改めて考えてみたいと思っています。

2005.01.18【阪神淡路大震災から10年】
昨日1月17日は阪神淡路大震災から10年の節目でした。神戸の人口は震災直前にまで回復してきたとも聞きました。災いを転じて福と為す。最悪の状況から様々な思いで育ち暮らした土地から離れずに10年間生活をしてこられた皆様に心からエールを送りたい気持ちです。
地震が発生した当時、私はある会社に勤務していて大災害の報道を気にしつつも日々の仕事に追われて会社に出ていたのを覚えています。そしてあれから10年。その翌年に独立起業して現在の生活に入りました。苦しんでいる方々の心を同苦し、勇気をもって行動できる一人にと決意を新たにしました。

2005.01.07【独立をしたい知人とのコミュニケーション】
このような仕事をしていると「独立したい」という方と毎月何名かは話をすることになります。ビジネスとして話を持ち込まれる際はさほど支障がないのですが、これが交友関係の延長で相談されるとなると多くの場合コミュニケーションが成立しません。これは何故なのでしょうか。

多くの場合、話す内容などよりも話を聞く姿勢に問題があると思います。これは相談を持ち込む友人側も持ち込まれる側も双方に言えることです(もちろん百人百様ですから一概には言えませんが)。

相談者(友人側)には正確な意味でのビジネスモデルをお持ちで経営計画も大まかながらも実現可能な裏付けを持っている方もおられます。しかし一方で現状の勤務状態への不満と自分の夢の世界しか見られず、耳障りのよい話しか聞けない人も相当の割合でいます。そして多くの場合そのことを自覚できていません。経験のない個人事業なり起業なりの相談を行なうわけですから(しかも代価なしで)、知らないことを請う謙虚さも必要です。自分が考えている事業プランを否定される場合もあります。これは起業後であってもプランニングした事業のうち採算がとれるのは数分の一、多くの場合十にひとつ以下の割合であることを考えても道理と言えます。今考えている起業プランを否定されたくらいで感情的になるのであれば相談など持ち込まなければいいのです。
人の話を聞けない人は経営者には向きません(もちろん経営者の強いリーダーシップを強調する向きも一部ではあります)。起業診断としてそれなりの対価を払ってアドバイスなり経営診断を受けようという姿勢があればそのような要素は少ないわけですが、交遊関係を頼って話を聞こうというレベルでは謙虚な姿勢を持ち合わせない方もいるのです。見よう真似でも経営計画書的なものを作っていればよいですが何も作ることさえ思い浮かばない人は起業独立の精神的な準備にすら入っていないと自覚すべきです。

相談を受ける側も経営未経験者である相談者に対して寛容な気持ちで諄々と話を聞いていくことが大切です。しかし以前からの知人となると気心が知れていると思うせいか往々にして踏み込んだ言い方になります。親しいがゆえに甘い判断をさせてはならないと思う気持ちも相当あるでしょう。確かに経験を積んでいる分相手に対して指導的な口調になるでしょうから自制も必要です。様々なビジネス場面に直面している分だけ独立企業への判断がシビアになり相談者自身が反発を覚える場合には寛容に対応することも必要となるでしょう。筋違いなことを言われてもじっと聞いてあげる忍耐も必要です。
さらに相手が以前の会社の上司とでもなると、相手は相談と言いながら優位な人間関係が逆転しそうな雰囲気には激しく抵抗するでしょうから話はなおさらこじれることでしょう。
友人関係の延長でビジネスをする危険が指摘されるのも似通ったケースと言えるかもしれません。独立と言いながらビジネスへの意識格差が激しい知人からの相談にはあまり本気で言い切ってはならないのかなぁと思う今日この頃です。

自らへの戒め『じつに傲慢な人はありとあらゆる感情にふりまわされるものだ』(オランダの哲学者スピノザ)

2005.01.05【2005年の位置付け】
プロセキュートは本日が仕事始めです。仕事始めにあたって2005年という年について一言。2005年は様々な意味でターニングポイントになると考えています。今後2010年までの5年間が地球の運命を決定づける期間であると思います。

地球規模の問題としては昨年顕著になった自然サイクルの崩壊に象徴されるように地球環境の急激な回復が望まれている。その直近の課題が京都議定書発効に代表される地球温暖化対策だ。多発する地震や台風被害。スマトラ島沖の大津波の被害は今もその全貌が明らかになっていない。どのように立ち向かっていくのか。自然の神々を畏敬して祈りを捧げるだけなのか、先端科学の粋を結集して克服しようとするのか。いずれでも根源的な解決には結びつかないだろう。自分が及びつかない現象に対して思考を停止させることは人間の悪弊である。科学の力だけで自然に立ち向かうなど愚の骨頂であることは今までの歴史が証明している。結果を生み出した原因を取り除き、良い結果を出すために最善の努力を行うことが必要である。その根幹は真の原因を明確にすることである。

国際レベルにおいては国連創設60年を迎える。今年からは「持続可能な開発のための教育の10年」を柱とした人権教育世界プログラムがスタートする。かつて南北問題と表現された貧困の格差に象徴される諸問題の根源には生命軽視の風潮がどす黒く沈滞している。そして大国主導の国連のあり方に大きな転換が求められている。アイルランドを舞台にした紛争にも大きな変化があらざるをえないだろう。東西冷戦の解決、地域紛争の平定と目的をシフトしてきた国連にとって世界連邦的な役割を担えるかどうか大きな転換点であり私達はそれを支援していく。

日本国内にあっては原爆投下終戦から60年を迎える。核や戦争体験の非日常化が進む。イラク派遣への国内論調の二転三転にみられるように平和についての根本的な理念が確立されないまま浮ついたヒューマニズムばかりが横行する。就学児童の減少が進み、団塊の世代が定年を迎え始め、第2ベビーブームの世代が出産時期にさしかかる。少子高齢化対策はこの2010年までのピークに有効な対策が打てないと国家破綻を迎えることになるだろう。また国家赤字も600兆円を優に超えた。地方財政の赤字を加えると1000兆円超と言われる。財政健全化を回復させながら真の福祉国家を現出させることができるのか。もう今までのように「日本の政治家には愛想が尽きた」などと言ってはいられない。私達においても明年の国政選挙もにらんで地域に根ざした着実な取組みが求められている。

私達が実際に生活する地域においては近年顕著になった凶悪犯罪の多発と若年化が懸念されている。「振り込め詐欺」に至っては騙された方が悪いと言わんばかりの巧妙な手口が次々と編み出される。ここにも生命軽視の風潮が延漫している。なぜ生命が大切なのか、殺人は犯罪で罰せられるからよくないのか、なれば法律に触れなければ何をやってもいいのか、見つからなければOKなのか。犯罪の温床は思想哲学の歪みにあると断じざるを得ない。誰が見ていようといまいと行った行為は厳然と因となって結果に繋がっていく。またそうでなければ世の全ての道徳さえも成り立たない。
今こそ生命尊重の思想を先入観なく正しく認識し実践する時代であると宣言し啓蒙していく決意だ。

地域経済にあっては景気回復基調といわれつつも停滞状態が続く。何のための経済か事業なのかの見直しが行なわれない限り、個々の企業店舗にあっての経営は成り立つことはない。自分だけが豊かになればいいという考えは社会から完全に一掃されねばならない。自他共の繁栄こそが真の社会の姿だ。またここでいう自他とは自然環境も含む。つまり未来の子孫達が豊かに暮らすことができる環境を永続させようという発想なくして自他とは言わない。今の生活が豊かになればいいというのはエゴイズム以外の何物でもない。因果をわきまえない独善である。
経営的体力から言えば今年来年までが限界だろう。大きな変革が個店レベルで行われることが必定である。私達はそのために活動する。

プロセキュートにあっては今年4月で創業10年目に入ります。社会に求められる価値を創造することを眼目として進んできた弊社も大きな飛躍を目指します。自他共の幸福を実現するべく意欲的に活動してまいります。

2005.01.01【謹賀新年】
2005年明けましておめでとうございます。
今年の元旦も清々しい快晴に恵まれましたね。皆様にありましてはどんな新年を迎えられましたか?私は年頭にあたり、一年間の目標と決意を一覧にしました。個人的なことや経営上の目標もあります。ひとつひとつ具体的に数値や期日を設定しました。一年終えた時にどれだけ達成できているのか、全項目の達成を目指して精進してまいります。
本年も宜しくお願い申し上げます。

(最終です)

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