プロセキュートHATAさん日記
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2007.12.18【エクセルギーハウス(黒岩哲彦さん設計)が毎日新聞に掲載される】

少し前になってしまいましたが、2007年11月26日付の毎日新聞にエクセルギーハウスが掲載されました。

掲載されたページは「STOP地球温暖化」と題した特集ページ。大きな紙面が割かれています。
今いる場所から、できることを始める。
このことの大切さを実感してほしいと切実に思います。

【記事の全文はこちら↓】
http://www.prosecute.jp/task/08/press20071126.pdf

2007.12.7【法人事業税の論議に疑問】

いま一部の人達の間で法人事業税の問題が過熱している。

政府・与党が都市と地方の税収格差是正のため、都市部の法人事業税の地方への再配分を検討している問題だ。
私は以前から都市部と地方との税制格差については、原則的に是正する必要があるという意見であるが、今回のような議論は暴論といわれても致し方ないだろうと感じている。
現実に、法人事業税から総額約4000億円程度を地方に回す案の対象となっている4都府県(東京・神奈川・大阪・愛知)からは再配分に反対、抗議する「緊急アピール」が出されている。

そもそも東京をはじめとした都市部に企業が集中するという現実自体を直視しなければ地方分権などありえない。私は地方分権の理想像は道州制の施行にあると考えている。
問題はどこまで同州に委譲するのかという論議の内容であるが、国防と外交、そして教育の3つ以外はすべて道州に移行すべきであると私は考えている。
その上で道州間にまたがる法人等の税収はどうあるべきか?
スケールメリットが損なわれることになっても、同州別に独立した法人として、もしくは企業内分社の考えを導入して企業活動すべきであると考えている。もちろん海外企業との競争力という問題が発生するが、それがわかったうえでもこの主張を行ないたい。
※道州制は今回のテーマ外なので私の主張は【私たちがめざすもの】参照。

これらの主張を現在の法人事業税に当てはめて考えれば、各企業の本店(本社)がどこにあるに関わらず、事業税を法人の各事業所(営業所、支店、支社、工場、販売店舗など)の規模に応じて各都道府県に納付するべきだと私は思う。
その按分基準を各事業所毎の従業員数によるのか、実質的な生産高や売上高によるのか、その他の基準にするのか等々の議論をすべきであると思う。
実際に働いている人がいる地域、事業所が存在する地域に税収を落としていくべきだ。
そうした議論をしないで「法人事業税が多い4都府県から他の道府県に再配分する」というのでは理解が得られないのではないか。4都府県の知事達に格好の反対口実を与えることにもなっている。
4都府県知事も反対を声高に叫んだり、国税から地方税への移譲などという総論ばかりを言うのではなく、立場を超えたより国民全体の賛同が得られるような具体的な次善策を提示すべきだ。
今の状況では国民の目からは、どっちも自分の権益を守りたいというエゴのぶつかり合いとしか映らない。

本当に地方分権を考えるのであれば、より本質的な法令整備を議論することを強く望みたい。

【関連リンク】
法人2税問題で「緊急アピール」 4都府県知事
自民税調の税制大綱素案 財政再建へ高い壁 地方法人2税、消費税が焦点

2007.12.3【第16回黎明塾「製品ライフサイクルと製品ポジショニング」】

12月1日(土)に第16回黎明塾を開催しました。
今回のテーマは「製品ライフサイクルと製品ポジショニング」。

身近な企業経営者と話していても、正確な意味の製品ライフサイクルを理解している人は本当にわずかだ。殆どの経営者は「どんな製品でも導入→成長→成熟→衰退という4段階を経るということだ」程度の認識である。実に貧弱といわざるをえない。
差別化の視点や、自社が提供している製品のライフサイクルに応じたより適切な戦略を、いかに立案し、実践していくのかという経営戦略に至っては、何ら有効的な回答が期待できないのが現代日本における経営の実情であろう。

今回は根本的な概念である差別化とポジショニング戦略の考え方を押さえた上で、製品ライフサイクルの各時期におけるマーケティング戦略の留意点と具体例を学ぶことにした。
そして少し視点を広げて、市場そのもののライフサイクルを創出していく起業家の立場から、市場のライフサイクルについての取り組み方を考察する流れとした。

今回の内容に関連してひとつ指摘しておきたい。
日本の経営において特に顕著なのではないかと思うのは、「スタイル」と「デザイン」の概念を正確に把握できていないことである。
あなたは「スタイルとは何ですか?」と問われてどのように答えるだろうか。
また「マーケティングにおけるデザインの重要性を教えて下さい」と問われて何と答えるだろうか。
特にデザインという言葉は、グローバルスタンダードな理念と全く異なる使われ方をしてきた。100人の経営者がいても99人は製品の外観やパッケージ程度の認識しかない。
製品開発に関わる者であってもその認識はさほどの違いはない。
日本における創業成功率が格段に低い理由の一つもこうした点に現れていると私は感じている。

理解を容易にするために「製品」というカテゴリを用いていることも付け加えておきたい。
サービスという無形商品も大きなビジネス分野であり、無形財にあっても同様の考え方が重要である。

【関連サイト】
http://prosecute.way-nifty.com/blog/2007/12/16_e6f3.html

2007.11.29【第32回桂冠塾『貧しき人びと』(ドストエフスキー)】
11月24日(土)に今月の桂冠塾を開催しました。
取り上げた本はドストエフスキーの『貧しき人びと』です。

私はドストエフスキー作品を読むのは今回が初めてだったのですが、参加されていた増田さんが以前からドストエフスキーを読まれていましたので様々補足をしていただきながらディスカッションを行なうことができました。

ドストエフスキーは1821年にモスクワで生まれています。トルストイと同時代を生きたロシアを代表する作家の一人です。ただ生涯を通してトルストイとの交流は生まれなかったようです。雑誌『時代』で連載したコラム「作家の日記」でトルストイの作品を高く評価するなど、若くして高い評価を得ていたドストエフスキーのほうは「トルストイのような作品を書いてみたい」と親しみを感じていたようですが、トルストイはドストエフスキーがあまり好きではなかったのかもしれません(^^ゞそんな話題をはじめ様々な感想を交わしました(*^_^*)

私の読後感の一端ですが、なんとなく読みにくいのではと根拠もなく思い込んでいたドストエフスキーって「けっこう読みやすい」。
逆に、さらっと読み流してしまいそうなくらいです。時間つぶしくらいのつもりでも読めてしまいますし、そうした評価もなされてしまう危惧も感じます。
今年「カラマーゾフの兄弟」の新訳が出版されてベストセラーになっています。この作品自体も未完成という評価になっていて(ドストエフスキー自身が続編を構想していると言いつつ他界している)、いわゆるミステリー小説として読まれています。訳者の亀山郁夫氏は月刊誌『潮』12月号寄せた「ドストエフスキーの蝶」と題した一文でその楽しみの一端を紹介もしています。
そのこと自体は何も悪いわけではないのですが、彼自身が生涯に残した作品に一貫した主題(テーマ)が存在することをみていくことも別の側面を知ることにもなります。

それは「ネワ河の幻影」と彼自身が呼んだ心的体験です。
この時の強烈な印象を生涯の作品の中で現そうとしたのではないかと思われます。
その意味では時代や社会情勢が作品の舞台として反映されることがあったとしても、時代の思想が彼の作品に大きな影響を与えたという印象はどこにも感じることができません。
そうした意味においても、ドストエフスキーは稀有な作家であったのではないかと感じています。

【関連サイト】
http://prosecute.way-nifty.com/blog/2007/11/32_9788.html

2007.11.28【ツークリック詐欺サイト初摘発 クリック後でも無効を主張できる認識を】

インターネット利用者をターゲットにした「ツークリック詐欺」と呼ばれる詐欺行為で出会い系サイト運営会社インセンス会長・落合正行被告らが逮捕、再逮捕されている。
巨悪を眠らせないためにも同様の詐欺行為の摘発強化を望みたい。

こうしたツークリック詐欺は日常化していることに驚きを隠せない。
毎日のように届く迷惑メール。もちろん迷惑メールフィルタ等を利用して自己防御は行なっているが、Webサイト上に問合せ先アドレスを掲載していると防ぎきることは現実には不可能だ。フィルタや振分機能を通過する迷惑メールが100通を超えることが珍しくなくなった。
この迷惑メールの大半がアダルト系サイトへの誘導だ。
この中にツークリック詐欺等の犯罪行為が含まれていることは想像に難くない。私たちの目の前に詐欺行為がうじゃうじゃとのたうち回っているのが現実だ。

ツークリック詐欺はアダルトサイトに誘導の後、画像等をクリックすると「okを押すと有料になります」等のメッセージが現れて、その画面でクリックしてしまうと数万円の請求メールが届くというのがよくあるパターンだ。
Web上での商取引を規制する電子契約法では操作ミスによる請求の無効が主張できる。Enterキーを押しただけで不当な請求に屈する必要は全くない。
発信元が不明な請求メールなど堂々と無視することだ。
配達証明等の郵送物が来ても覚えがなければ受取を拒否することだ。
もし仮に受け取ってしまってもあわてることなく、弁護士に相談して解決を図ることである。
間違っても自分ひとりで判断しない。
何度も言う。
巨悪を眠らせては、ならない。

【関連リンク】
<ツークリック詐欺>出会い系サイト初摘発へ 被害3億円超(毎日新聞) - Yahoo!ニュース.
電子契約法について
電子契約法(本文)
電子契約法(逐次解説)

2007.11.28【オシムの精神 継承しなくて本当にいいのか】

サッカー日本代表監督の後任人事として岡田武史氏を最有力候補として正式交渉に入ることが報じられている。
オシム現・監督の脳梗塞という病状から考えれば、早期に後任監督を決定することは重要な決断であるが、問題はオシム監督が1年半積上げてきた精神とスタイルを継承しないことが暗黙の了解とされている点だ。

これは日本代表サッカーにとって、重大すぎる、根本的な方針転換を意味する。
今の日本代表を応援しているサポータにとって「オシム精神」は多くの共感を得ているのではないかと思うのは私だけではないはずだ。
現状を維持すれば勝利が得られるという戦いは、どこの世界にもない。
たとえそれがワールドカップを制覇したブラジル、フランスやイタリアの代表チームであっても、当然のことだ。
いわんや発展途上の、まだまだ先を目指す弱小日本代表チームである。

オシムが植えてきた「走るサッカー」の精神の根幹は「挑戦する心」である。
次回ワールドカップの予選がみえてきた今この時の後任監督は、この精神を継承する者であることは絶対条件であるはずだ。
もし180度違う「守りのサッカー」など持ち出す監督候補は完全に除外しなければならないはずである。そんな監督にするくらいなら、監督は誰でも務まると極論してしまっても、あながち間違っていないはずだ。
私は個人的には岡田監督は嫌いではない。
フランスワールドカップの予選の最中、加茂監督の迷走を収拾してW杯初出場を果たした能力の高さは今も顕在であろう。しかしそうした人間性の素晴らしさと指導方針、サッカー哲学とは必ずしも合致しないのが辛い現実でもある。

私は、オジェック新・監督の誕生で既成路線となるものと思っていただけに、岡田ジャパンの誕生近しの報道には激しい違和感を感じている。
ここは浦和経営陣の英断を期待して、オシム精神の継承者が涌現することを切に望みたい。

【関連記事】
岡田監督決定的!オシム流解体へ(スポーツニッポン) - Yahoo!ニュース.
W杯は岡ちゃんに任せた!日本サッカー協会が監督就任を正式要請

2007.11.22【ゆうちょ銀行わきの甘さを露呈 詐取48億円を米に一括送金】

フィリピンでえび養殖を行なうという触れ込みで約4万人から600億円の資金を集めた東京都台東区の投資会社ワールドオーシャンファームがアメリカに一括送金した48億円がFBI当局によって口座を凍結された。
48億円もの大金が一度に送金されてきたのだから犯罪の疑いがあるとして口座凍結の措置を行使したFBIは適切な判断である。
が、ここで問題視されるべきは、送金元である日本国内の金融機関の対応がどうであったかという点だ。悪用された口座は郵便口座だ。栃木県小山市内の郵便局にその口座があったことが報道されている。
多くの個人や企業からの振込が行なわれた事実。最終的には少なくとも48億円もの巨額で異常な金額に膨れ上がっていた。ワールドオーシャンファームは、その48億円をアメリカの口座に一度に送金処理している。
これを異常な取引としてチェックする機能をゆうちょ銀行は有していないのか。

日本の金融機関は今一度、自分達の社会的責任を自覚し、具体的な対策を講じることを強く望みたい。

【関連記事】 エビ養殖で詐取48億円、米に送金…FBIが口座凍結(読売新聞) - Yahoo!ニュース.

2007.11.13【花兄園(かけいえん)浦和店に行く】


昨日、花兄園(かけいえん)の浦和店に行った。
場所は10月10日にオープンした浦和パルコの地下1階、大丸フードマーケットというフロア内だ。開店からちょうど1ケ月のタイミングだ。
月曜日の正午過ぎだったが、どの店舗もなかなかの盛況ぶり。
花兄園のお店は東京駅一番街のお店のときから懇意にしているので楽しみに訪ずれた。
あいかわらず、おいしい。
花兄園プリンの味は健在。
安全に対するこだわりもかわらず徹底していた。
この違いは、実際に食べてもらうとわかる。
と私は思うが(^_^;)...味だけだと今の商品製造技術をもってすれば、相当ごかましが効くのも、事実。合成甘味料やら食品添加物入りの味をおいしいと思ってしまっている消費者がどれだけ賢明に判断できるのだろうか(^^ゞ?

【関連リンク】
花兄園Webサイト
浦和パルコ

2007.11.9【「区民と区長の集い」に参加してみる】

昨夜11月8日(木)から行なわれた「区民と区長の集い」に参加してみた。
これは練馬区(東京都)の志村豊志郎区長が就任以来、継続して開催されている会合だ。私の近隣でも以前から出席している方もいるが、私はなかなか時間が合わなくて今回初めて参加してみた。
練馬区のホームページには概要が出ているのだが事前にあまり確認しないで行ったものだから要領がわからなかった(少し反省^_^;)が、毎回テーマを決めて開催されている。
これまでに10テーマが取り上げられ、今回は「良好な交通環境について」。
1つのテーマで区内4ケ所程度で開催されるので開催回数としては約40回ということだろう。
8日の会場は東大泉5丁目にある勤労福祉会館。我家からは自転車で3分ほどだ。
時間は2時間。そのうち約30分は区側からパソコンを使って現在の交通事情や課題と講じている対策についての説明があり、質疑応答は1時間30分だった。全部で長くても1時間半だと思っていたので「しっかりやっているんだなぁ」というのが率直な印象だ。

練馬区内、そのうち大泉地域の住民が参加者の大半だったようだが、同じ地域といっても住生活環境には大きな格差があるなというのが実感だ。頭ではわかっているつもりでも実際に住んでいる人の生の声を聞くとひしひしと迫ってくるものがある。
特に交通が不便な西大泉地域の住民の意見は貴重だった。
ただ同じようにバス停にも西武線の駅にも遠いはずの南大泉地域の住民の方の発言が一人もなかった。関区民センターでの集いに参加される人が多いのだろうか。このあたりも気になるところだ。

あまり参加された他の住民のことはあれこれ言いたくないが、一言だけ触れておきたい。
外かく環状道路の建設に反対している住民複数名が出席していたようだ。
司会から最初に「外かく環状道路については事前に意見をいただいている」「他の問題もあるので後半にその話題を取り上げるので」という説明があった。
私と同じテーブル(三人掛け)に座っていた年配の女性が20時15分を過ぎたあたりで「時間配分がおかしい」「外環についての反対意見を言わせないつもりか」と不規則発言が飛び出し(その人もそのあとに発言の機会が予定されていたのだが)20時40分くらいまで他の参加者との激しい遣り取りが続いた。

確かに90分の質疑応答の中で10数分(結果的には延長して約20分かかった)しかないというのは短いかもしれない。区側として一つの問題にあまり多くの時間をとられたくないという思惑もあったのかもしれない。
ただ単純にみれば8分の1程度の割合だ。様々な問題が提起されていたことを考えるとそんなに短い時間だとは一概に言えないだろう。
「外環の問題が最重要問題だ」と思っている方々にしてみれば短いだろうが、それぞれの住民にとって最優先問題は、もちろん違う。
あえて言えば、外郭環状道路延伸問題については別途それだけのための住民説明会や様々な機会が設けられることになる、これからも時間をかけて話し合う問題だ。練馬区長とだけ話しても結論が出る問題でもない。事業主体はもちろん練馬区ではない。
コミュニティバスなどはなかなか他に発言する機会がない。しかも何度も陳情しても運行に至らないという地域の訴えも出ている問題で事業主体は練馬区であり、会合の趣旨に合致した問題である。
そのことを考えればコミュニティバスを含む区内南北交通の問題や駅周辺の放置自転車問題、流入する通過車輌への対策やバリアフリーへの問題などに多くの時間を費やすことに理解を示すべきではないかと私は思う。

かくいう私だって発言したいこと(交通利便性が高まることによる通り抜け車輌への対応や様々な対策や検討経緯のディスクロージャーについて)があったのでずっと手を挙げて続けていたのだが、他の方が指名され続けて結局発言できなかった。
しかしそれだからと罵声を発したりしないのが参加する者のルールだ。
時間が短くても発言の機会を確保してもらっていたのだから、私などよりもずっと優遇されているのだ。よくよく状況を把握できないのであれば公共の場所で発言することは他の住民の迷惑になることを心しなければならない。
それでもさらに言いたいことがあれば冷静に発言するとか、後日文書等で提出すればいい。
自分以外の人達の対応には、誰しも往々にして不満は付き纏う。
回答が誠意あるかどうかは、相手のあることでもあり、別次元の問題だ。
そうした現実も含めて、そこから改善していくのが私たちの日々の活動だと私は思う。

こうしたことも含めて感じるのは、行政に対する住民としての姿勢がどうあるべきかという問題だ。
議員や区長を選出する選挙への積極的な関わりあいはもちろんのこと、日常的な課題に対して自分の要求や考えを主張するだけでなく、より広い視点でどのような影響があるのかを思索できる人間性を養わなければならない。
自分の言いたいことを言えなければわめきちらすような、子どもがやってもみっともない行為は自ら糺していける一人一人になりたい。

【関連リンク】
区民と区長の集いの案内


2007.11.8【国の混合診療方針にメス】

長年、常識とされてきた制度運用にメスが入った。
保険適用の治療と適用外の治療を併用した場合には全て保険適用外として全額を自己負担するという従来の国の方針に対して、今月7日、東京地方裁判所は個々の診療毎に摘要の是非を判断することを求める判決を下した。

たしかに保健適用外の診療には危険が伴う場合がある。
経済的にゆたかな富裕層に有利な制度運用になるという指摘もあるだろう。
しかし生死のぎりぎりの境目で治療を行なっている患者にとって、自分自身に効果があると思われる治療はできる限り行ないたいというのは、人として当然の感情ではないだろうか。
そうした際に、例えば従来は保険適用の治療を何年もつづけて、さらにそれ以外の治療を併用したいと思うことは自然な気持ちだろう。そうしたときに全ての治療を保険適用外にするというのはおかしいと多くの人が感じるのだと私は思う。

大切なのは一人の人の気持ちを思うやること。
そのことを忘れなければ、法律の運用も、日常の生活も大きく間違うことはないと、私は思う。

【関連記事】
<混合診療訴訟>全額自己負担は違法 東京地裁で国側敗訴

2007.11.7【山場CMは「不愉快」86%】

当然だろう。
私はマーケティングに従事する者の一人として以前から視聴者の気持ちを逆なでする構成だとあきれていた。
今回の調査では山場CMで流される商品に対する購入意向も訊いている。実に「買いたい」という人は2.9%で、「買いたくない」とした人は34%という結果だ。そうだろうなぁと納得の調査結果だ。
この程度の視聴者感覚をTV局の人間はわからなくなっているということだ。
たぶん山場CMの枠の方がひと段落CMよりも高く売られているに違いない。
多少なりともマーケティングに携わる人間であるならば、こうした数字を突きつけられた自らの体質を大いに恥じるべきである。

【関連リンク】
「ここぞ」という場面でCM 「不愉快」86%「繰り返し」もウンザリ

2007.11.6【第31回桂冠塾『下流志向』(内田 樹)】
10月27日(土)に月例の桂冠塾を開催しました。
今回で31回。取り上げた本は『下流志向−学ばない子どもたち働かない若者たち−』です。当日の参加者は3名と少し寂しかったですが(^_^;)久しぶりに駒場さんも参加できました。

タイトルからは今どきの話題本かと思われるかもしれませんが、読了すると著者の内田さんは確固たる教育者であることが理解できます。実に多くの気づきと指摘が盛り込まれています。ここ数年の出版本の中では群を抜く作品であると感じます。参加したメンバーの反響も高かったです。

なぜ若者(これを私は現代人と言い換えたほうがより正確だと思う)は自ら「積極的に学ばない」選択を始めたのかという大きなテーマを真正面から取組み、教育へのビジネス概念の導入の愚かさ、不快という貨幣による解析の試み、自己責任とリスクヘッジの欠落、時間概念があってこそ理解できるという教育の捉え方、その根本にある師弟関係の欠落の指摘など、その論理展開は納得のいく点が多々あります。

教育の大半をビジネス概念で捉えることの危険性の指摘には思い当たる点がいくつもあります。
これは学校教育だけでなく、少し仕事ができるという感覚の人々が多用するのがビジネス用語(しかもアメリカ仕込のカタカナ用語)でもあり、日常生活の場面でも特異な空気が流れることがあります。その言葉を使っている本人は「さも的確に状況を捉えている」かのような錯覚に陥っていることに気がついていない。
内田さんが展開する教育における「等価交換」概念の導入や子どもが消費行動から社会生活に入っていくという指摘などは「果たしてそれで多くが説明できるのなかぁ」という疑問を抱く人もいるかもしれませんが、それはひとつの見方として読み進めるのがよいと思います。
内田さんが論じたいのはそうした個々の解釈ではなく、私たちはどうしたらいいのかというこれからの提案ですから個々の解釈にこだわる必要はないと思いまます。

一例として挙げている「不機嫌」という不快貨幣を使い始めた現代人の性向についての指摘には多くの共感が得られると思います。私もこのことは日頃から気になっていました。
この10年20年の間に、皆さんの回りに「不機嫌な人」が増えたなぁと感じたことはありませんか?道を歩いていてすれ違いざまに肩がぶつかってお互いによろけてしまった。
そんなときあなたなら、どうするでしょうか?
「すみません」「大丈夫ですか?」といいますか?
あなたは言うかもしれませんが相手の人は同じように言うでしょうか。
近年断然増えてきた反応は、不機嫌そうに相手をにらむ、「ちっ」と舌打ちをする、ひどい場合には「気をつけろよ!」と相手を怒鳴る…。こんな光景が日常になったように感じるのは私だけではないと思います。

交通事故の場合でもそうです。事故を起こしたとしても「絶対に先に謝ってはいけない」というのが常識になっています。なぜ謝ってはいけないんでしょう?車同士がぶつかってしまった。相手のドライバーは大丈夫だろうか?そんな気持ちを言葉にしてはいけない。そんなことがいつから常識になったのでしょうか。

これは単なる一例にすぎませんが、まわりの社会環境がこれでは、いくら自分一人が健康で気持ちよく生きようと思っても、人の中に出て行くと、どうしてもいやな気持ち、他人を警戒する気持ちになってしまう…。
その結果として、次第に人との関わりは最小限度にして、他人とは必要以上に関わらないようにしようという生活スタイルが主流を占めるようになったように感じます。
これらの行動の原因の一つに、不機嫌という態度をとることによってその後の交渉を優位に進めようという経済概念が働いているという内田さんの指摘は的を得ている部分があると思います。

しかし、このような時代になったからこそ、人と人との繋がりが真摯に求められるようになってきていると私は感じます。
「二十四の瞳」「金八先生」を紹介しながらの教育者のあり方、「スターウォーズ」のメインテーマは師弟関係にあるという文脈からの師弟の重要性の展開などは正鵠を得た論理展開だと喝采を送りたいです。

おそらく今年のベストセラーの一冊となるこの本。
今年の終りまでに多くの人に読んでいただきたいと思います。

2007.11.5【無料電話相談を開始<第1回を実施>】

複数のお客様から要望をいただいたので電話による無料相談を始めました。
毎月第一月曜(祝日に当たる場合は翌火曜日)午前10時から11時30分までを充てることにして、今月は第1回目でしたが問合せは1件。まずまずかな。
特に告知をしなかったので逆に「よくかかってきたなぁ」と内心驚きも(^^ゞ
月初の週明け月曜日の午前中というのもわかりやすいのかもしれない。
月初の週明けは事務所での書類整理等にかかることが多いので、かかってくる電話が続く間は続けてみようと思っています。
通常の問合せは従来通り時間等に関係なく気兼ねなくお寄せ下さい。
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★無料電話相談★
 実施日時:毎月第一月曜 午前10時〜11時30分
 対応内容:経営及びマーケティングに関する相談
 電話番号:03-3925-5914 
 担当者 :畑森(はたもり)
 ※祝日の場合は翌日(火曜)になります。
 ※概ね10〜15分/回を目安に相談内容を準備下さい。
 ※なお無料相談は初回の1回のみとなります。
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2007.10.27【第30回練馬まつり】

今月21日(日)に第30回になった「練馬まつり」が開催されました。
当日は晴天に恵まれて暖かい小春日和。
我家の3歳になった娘と3人でおにぎりをつくって会場となっている練馬駅周辺に向かって自転車で行ってきました。中央会場となっている練馬総合運動場をはじめ、開進第二中学校、南町小学校、平成つつじ公園、練馬文化センターなど数ヶ所で催し物が行なわれていました。

駅近くで娘の友達2家族と合流。各会場に設置されているスタンプを捺して回るスタンプラリーも行なわれていましたが、さすがに3歳の子供連れには難しく(^_^;)一番にぎやかなイベントがパレードだと聞き、文化センター横あたりでパレードを観覧しました。
でもこのパレードが...。出演されている各団体はよかったのですが、合い間が長すぎてひとつの組が行ったあとで10分以上まつことがしばしば....。パンフレットに書かれている予定時刻も大幅にオーバーし、子供達は待ちくたびれて模擬店が出ている総合運動場に移動してしまいました(^_^;)
出演した方々が素晴らしかっただけに、全体進行がうまくいっていたのか、とても残念でした。

今回は練馬区独立60周年を記念して盛大な開催だったとのこと。
今後も継続して地域に根づくよう、私達もまた来年も参加したいと思います。

20071021_6
2007.10.17【エクセルギーハウス関連動画】

エクセルギーハウスに関連する話を収録した動画を黒岩さんに紹介いただきましたので紹介したいと思います。

地球をすくう建築ExergyHouse@―地球をすくうための視点

地球をすくう建築AExergyHouse―地球の老化を加速させてはいけない

地球をすくう建築BExergyHouse―身近な小さな状況の差を活用する建築

地球をすくう建築CExergyHouse―蒸発で地球をすくう

地球をすくう建築DExergyHouse―エクセルギーハウスの実例〈蒸発する建物)

地球をすくう建築EExergyHouse―エクセルギーハウスの実例〈ビオトープ〉

エクセルギーハウス横浜ExergyHouse(1)

エクセルギーハウス横浜ExergyHouse(2)


2007.10.17【エクセルギーハウスのオープンハウスを見学(3)】

10130017_2 家の中を一巡したあとで黒岩さんのレクチャーを聞きました。

まず「多くの家庭で使用されている電力は発電時の3%程度しか使用されていない」と指摘。発電された電力の実に97%が送電等によって消費されている。大きな発電施設で一括して発電して利用するという、利用する側にとっては非常に利便性の高いシステムが払っている代償は実に多大だ。
その3%で現代人の生活を支えるために30数倍もの発電を行なっている。巨大な発電所を建造して、多大な原料を使用して、場合によっては放射能の危険性を背負いながら、である。

今回の中村さん邸を拝見して感じたのは「現代人が生活するエネルギーって自前で供給することができるんだ」ということと「自分で供給すると思ったほど巨大な量は必要ないんだ」ということだ。
最近、環境破壊を行なう中国や発展途上国の行為を摘発するかのような報道番組を目にすることが多くなって気がしている。
アフリカで大量に伐採される巨木。
アジア地域で工場が誘致されて周辺河川が激しく汚濁している様子。
経済発展が著しい中国各地で広がる大気や水資質汚染。
乱開発によって加速している砂漠化と温暖化。

しかしそうした指摘をされても、テレビのこちら側でわかったようなつもりになってみている日本の視聴者たちが明日から、今日いまから何をすべきかを示唆する要素は、何もない。
これでは世論を煽るだけ、第三諸国への怒りを増徴させるだけの負の連鎖と何ら変わりがない。
実際に私一人一人に何ができるのか。何をするべきなのか。
そうしたポジティブな姿勢と行動を生んでいくことが重要だ。
その意味でも、このエクセルギーハウスの実践は見事であると思う。

とかく「環境に優しい生活を!」というと利便性と相反する前時代的な生活を強いるようなイメージが付いてまわる。誤解がないように補足するが「現在の便利な生活のままで持続可能な社会がつくれる」という主張をしようと言うわけでは、ない。
より本質的な問題に着眼して、そこから問題を解決する志向を定着することが重要なのだと私は思っている。
雨水利用はその典型だ。
現在ではほとんどの雨水は何ら利用されることなく、地上に達し汚水となって海へと排出される。
少し前の日本のほうが、ずっとたくさん雨水を生活に活かしてきた。
棚田はその典型であるし、溜池、天水桶なども田舎、市中に関わらずあちこちに設置されていた。山林や森の高い保水力によって多くの雨水が大地に蓄えられ、豊富な地下水にもなっていた。
多くの雨水が生きる糧として利用されてから地下浸透や用水路を経て海へと流れていた。

今はどうか。皆さんがよくご存知のとおりである。
その結果、温暖化が進行し集中豪雨化した雨水は、都市部でも農村部でも保水力を失った大地の上を暴走し始めた。人は雨水を災害の元凶のように扱い、より早く海に排出することを最優先とした。
そのツケがいま地球環境に襲いかかっている。
そんな一面があるのではないだろうか。
黒岩さんたちの取組みを単なる「自然に優しい冷房システム」程度に思う人がいるとしたら、浅はかにも程があるだろう。
これから先、住宅や公共施設を建築する人達のわずか1割でもエクセルギーハウスの思想を取り入れるならば、大きな力になる。

そうそう、エクセルギーハウスは個人の住宅の話だけでは、もちろんない。
たとえば小中学校、高校の体育館や教室。
これらの施設への冷房設備の導入が進んでいるようだが、維持運用費の費用もさることながら、結果的に温暖化を加速させることに繋がらないだろうか。
かといって熱された体育館で体育や部活動を行なうことは危険行為になりつつある。
しかし例えばバトミントンのようにわずかな風も許されないスポーツもある。
実際、バトミントンの試合では猛暑の中で体育館の窓を閉め切り、エアコンも対流が起こるという理由でつけない中で行なわれる。
黒岩さんの設計する雨水を利用した涼房システムであれば、身体への過度の負担もなく、低コストで効果的に室温を下げることが実証済みなのだ。ちなみに体育館施設での導入実績もある。
各自治体の担当職員や議員の方々も是非エクセルギーハウスを見学して自分の目と肌感覚で体験することを強く主張したい。

エクセルギーハウスが訴えるもの。
それは今を生きる私たち一人一人が今から始めるべき使命を自覚し、行動する自分に変わることではないだろうか。

【関連リンク】
二重屋根涼房システムのエクセルギー住宅
循環型住宅や地域づくりのエキスパートであるアルキテクタ・黒岩哲彦さん(1級建築士)のHP

2007.10.16【エクセルギーハウスのオープンハウスを見学(2)】

005台所のシステムについても少し触れておきましょう。
特記すべきは排気システム。写真をみていただくとわかりますがどこにも換気扇がありません。通常、換気扇がある位置にはしっかりと戸棚が備え付けられています。
ライトの奥にある縦10cm幅40cmほどの隙間のような構造が調理で発生する湯気や煙を排気するとの説明にはびっくりしました。
黒岩さんいわく「流体力学をやっている人から見ればメーカーが売る換気扇なんか子供だまし」「あんな換気扇で対流が起こるなんてことはありえない」。空気の流れに逆らわなければ油のべとつきも起こらないのだと!
うちの奥さんも毎月のように換気扇の掃除に四苦八苦していますので(+_+)そうした苦労が換気扇メーカーの不誠実さによるものだと思うと怒りすら湧き起こってきます(^_^;)
今更ながら知らされてない真実がまだまだあるものだと考え込みそうです。しかも一度建てると長く暮していく自分の住居の中に「換気扇」のような素人を騙すようなものが、堂々と、備え付けられていることに愕然としてしまいます...。

さて気を取り直して(^_^;)2階へ。
004雨水利用による室内への放冷、屋外への放湿を肌感覚で実感する空間です。
天井部分の冷放射によってでしょうか、首から上で特に爽快さを感じました。これは適切な湿度管理にもよるもののようです。バルコニーも広くつくられています。当日はまだオーニングの取り付け工事が行なわれていましたが、仕事をされているその側で屋根の中につくりこまれた雨水タンクを拝見しました。

屋根の中には1トンの雨水が貯まります。
「1トンというとさぞかし屋根が重くなると思うでしょう」と黒岩さんが問いかけます。
しかしコンクリート造の屋根と単純に比べると3分の1ほどの重量。日本家屋と比べても瓦を載せている重量とほど同程度の重量。これにも驚きでした。

屋根の上部がろ過構造になっており、きれいにろ過された雨水がタンクに貯まっていきます。タンクは3種類に分かれており、
・集雨濾過槽
・ヒート槽
・ドライ槽
と用途に応じてつくられています。私は、ただ感心です。
これらのタンクの制御は常時動いているというものではなく、必要なときに必要な分だけ動かすという思想が徹底しています。バルコニー上のオーニングのはしに小さな太陽電池が備え付けられていて、動力源はそれだけで済んでいます。

なかなか一気には書き切れません(^^ゞ
この続きは次のエクセルギーハウスのオープンハウスを見学(3)のページで(*^_^*)

2007.10.15【エクセルギーハウスのオープンハウスを見学(1)】

今月13日(土)に横浜市都筑区のオープンハウスを見学してきました。
月例の黎明塾(経営塾)の一環としてインフォメーションもしましたが参加者は佐藤秀男さんのみというちょっと寂しい人数でしたが(^^ゞ充実した時間を過ごしてきました。

当該住宅の施主様は中村さん、設計はアルキテクタの黒岩哲彦(あきひこ)さん、施工はギャザーホームさん達です。
黒岩さんとはかれこれ6年余りのお付き合いがあり、今回のエクセルギーハウスの話を聞き、楽しみに現地に向かいました。

001 中村さんの建築中の新居は横浜市都筑区の都筑中央公園に隣接する自然環境に恵まれた場所にあります。右の写真は公園内から中村さん宅を写したものです。
予定の時刻を少し過ぎて15時をまわって到着しましたが同じくらいに着いた方もおられてちょっとほっとしました(^^ゞ
当日の参加者は雑誌記者、大学の先生、施工技術者、建築士などなど様々な分野の方々です。
さっそく黒岩さんのナビゲーションで案内が始まりました。

まず玄関を入り屋内の漆喰塗りの壁について話を聞きました。日本伝統の粗塗りの効果の話には皆一様に納得。補修がつきものの建築住宅に長くローコストでしかも快適に暮らすには必要な考えです。また小さな傷なら自分でかっこよく補修できそうです。
続いて狭い居住空間を活かす智慧として「収納スペースには荷物を出し入れする空間が必要」「その空間を廊下に使った」と。大きな収納棚を機能的にかつ美しく配置されていました。
次に来客用寝室を見学。公園側(南向き)1階の好位置ながら公園からの視覚をさえぎる必要もあり、床面から少し高い位置に窓を設置。その分を補うように窓面を天井よりも高く開口しています。デザイン的にも優れた設計です。

次に床下に設置した雨水タンクと加湿機能付エアコンの説明を。床下には2トンのタンクが入っていました。
黒岩さんの設計のコンセプトは家の中の空調は室内の空気を温めたり冷やしたりするのではなく、躯体そのものの温度を年間を通して安定した温度に管理することで、人間自身が寒い時期には暖かく感じ、暑い時期には涼しく感じるというものです。
床下に入っている雨水タンクはその思想を具体化する重要アイテムです。
暑い時期は、タンク内の水温が蓄冷効果を発揮しその温度が家の躯体を通じて床と壁、2階室内天井に伝わり家中を涼しく保ちます。外気からの熱伝導を抑えるために外壁には外断熱材が施工されています。また家を傷める要素のひとつが乾燥ですが雨水がほどよく循環するため適切な湿度にも保たれるという効果もあります。
008_2  外断熱については他の住宅メーカーでも販売トークに使うことが増えてきましたが「では『壁の中はどういうしくみ、構造になっているのですか?』と聞いてみてください。」と話しておられました。まったくそのとおりと同感しました。外から遮るだけで室温を一定に保つ機能が盛り込まれてなければ、今の温暖化の時代には熱中症になるだけです。では住宅メーカーはどうしているのか?結局エアコンでがんがん室内を冷やして熱風を屋外に吐き出してヒートアイランド現象を加速させるだけで、省エネにも地球温暖化防止にも自然を守ることにも、何も貢献することができません。

ところでこの雨水タンクのみで、寒い冬の季節にはどう対応するのでしょう?
雨水タンクは屋上の太陽光電池パネルと接続されており、雨水を暖かくして床と壁、天井暖房の効果を発揮します。床下に加湿機能付エアコンが入っているのは曇雨などで太陽光発電が充分に行なわれない場合の対応でした。太陽の熱エネルギーをそのまま利用する、冬の季節の対応のほうが一般の人には理解しやすいかもしれません(*^_^*)

次にバスルームを見学。
シャワーは雨水を直接利用しています。この雨水は床下に貯めたものではなく屋根の中に設置したタンク(水量1トン)から落としてきています。太陽光に温められた温水はそのまま使える構造です。また太陽パネルで発電した電気で加熱することも構造的に可能とのこと。熱すぎる場合は水道水等で薄めるということで混ぜ合わせるための貯水槽も設置されていました。アイデアとしては、加熱していない雨水と混ぜることで水道水に頼らないという選択もできそうです。

長くなってきたので続きは次のページ
エクセルギーハウスのオープンハウスを見学(2)で(*^_^*)

2007.10.12【中小企業における事業継承の本質とは】

少子高齢化社会のおける経営課題のひとつが事業継承である。
現在の中小企業経営者の平均年齢は57歳。
人材がある程度確保できる規模の企業なら問題のない年齢であるが、殆どが数名で構成される中小企業においては相当厳しい現実だ。現時点で後継者が決まっている企業は約4割と言われている。しかしだからといって「中小企業の6割が事業継承者を必要としている」という認識は誤りだ。
現存する中小企業の大半は赤字経営。したがって事業を継承させたいという意志を持っている経営者は圧倒的に少ない。「誰が好き好んで赤字経営の苦労を背負い込むんだ?」というのが現場の声だ。
また経営者の引退予想年齢が67歳という調査結果もあるが、現実問題として67歳まで的確な経営判断ができるとは正直考えにくい。

中小企業庁や中小診断士の先生方は口を揃えて、会社の現状把握を含む事業継承計画の必要性を訴えているが、そもそも現時点で後継者が育っていない会社に本当に後継者が必要かどうかの判断が必要になる。
その会社に存続理由があり、事業継承してほしいと現在の経営者が望むならば、継承するに足る事業になっているのかというステップに入る。
がしかし、ここで多くの企業は「事業継承の価値なし」という経営判断になるのだ。

一代限りというのが中小企業の、今も昔も変わらない現実である。

しかしそのうえで、留意すべき企業群が存在する。
確かに「事業継承の価値なし」となる企業が多いと書いたが、その判断をする基準項目とウェイトが重要になる。判断する者がどういう視点で企業活動を見るかによって判断基準と結果は大きく違ってくるからだ。個々の基準についてはあえてここでは記述しないが、
 それは技術力かもしれない。
 優良顧客を持っていることかもしれない。
 独自の販売ルートを有していることかもしれない。
 独自の研究開発手法かも知れない。
それ以外にもここに書けない特筆事項が存在することも多々ある。
現時点では充分な価値がないとしても手を入れることで将来的な可能性が秘められていることも多い。
それは百社百様だ。
また事業そのものになにを求めているかという継承を考える側の考え方、哲学の問題でもある。
そしてなによりも事業継承を受ける者の経営能力に、大きく左右される。
「中小企業は一代限り」という通説を覆すには
・親族内継承か
・外部経営者の受入か
・M&Aか
というような従来通りの使い古された陳腐な発想では、到底およびつくものではない。

事業継承者を必要としている中小企業の実態は、診断士が考えているような簡単なものではないが、大きな可能性が眠っている。
それは新規創業と比べると、間違いなく大きな財産である。
その財産を現実化させることが「本当の意味での事業継承の醍醐味である」と私は思っている。

【関連リンク】
中小企業庁
事業継承ガイドライン 20問20答

2007.10.10【ジェネリック医薬品普及へ 健全な自由競争と利用者の勉強が必要】

今月8日(月)、厚生労働省は後発医薬品(ジェネリック医薬品)を普及させる目的でジェネリック医薬品の品揃えを充実させている薬局に対して調剤報酬を上乗せする方向で検討に入ったことが報道された。
現在原則として1回420円になっている調剤基本料に加算する考えだという。

立法の役割として、広範囲な社会的利益の誘導のために法的制約を設ける使命があるという面から一定の評価ができるだろう。ジェネリック医薬品を普及させることは社会保障費、つまり国民からの保険料と税金を有効に制御することに直結するからだ。
先行医薬品が研究開発等に投下した資金が回収された後で販売されるジェネリック医薬品の普及は根拠なき薬神話を是正する意味も持っている。

ただしこの調剤報酬の上乗せという措置には、ジェネリック医薬品普及のために庶民の保険料を投下するという側面がある。この点は不正受給の温床にならないよう、また調剤報酬の支払金額は伸びたが実質的な医療費は抑制されなかったというような本来の目的にそぐわない実態にならないように監視する必要がある。
もっとわかりやすくいえば、調剤薬局が報酬を得るために帳簿上の在庫量のみ貯えて実際の調剤には先発薬品を出すというような不正行為などが想定される。在庫量や品揃えだけではなく、実際の調剤薬品目をチェックする方策が求められるだろう。

ジェネリック医薬品の普及のためには、法改正のみでは不充分である。
根本的には次の3点が考えられるだろう。
ひとつは薬を処方する医師の処方時の対応の改善、ふたつには調剤薬局間の健全な自由競争、そして最後のひとつは患者自身の意識改革である。

まずは診察をした医師が患者に対して処方箋を出す際に先行医薬品名を書いてしまえば、患者や薬局の気持ちに関係なく書かれた薬品名の現物を買い求めざるを得ない。処方箋を書く際に努めてジェネリック医薬品を記載する、または追記としてジェネリック医薬品の在庫がある場合はその医薬品を出す旨を記載する意識を医師に求めなければならない。

その上で次の課題は薬局自身の姿勢だ。
どこの病院に行ってみても周辺に複数の調剤薬局が乱立している。
販売している薬は当然の事ながら価格差は、ない。
「ここの薬局で買ったらよく効くわよ」ということも、もちろんない。
そうなれば各薬局はどうやって経営をよくしていくかといえば、新規来店客数を増やすか、来店頻度を上げるか、一人当たり単価を上げるかの3つの視点しかない。
しかしさほど有効な方策を打つことができない各薬局では、店舗前に呼び込みの看板を設置したり、お茶を出すなど付帯的サービスに留まっているのが現状だ。それでもそこそこの売上があるのでそれ以上の努力をする必要を感じていないのかもしれない。格段に増加する見込がない現状の中で売上を維持する最大の要因は薬価である。そうなれば同じお客であれば価格の安い薬よりもより高い薬を売ったほうが収益になるのは自明の理だ。ジェネリック医薬品を積極的に置こうとしないのは、彼らの論理から言えば当然ともいえよう。
しかし、そこを一歩踏み込む調剤薬局の出現を期待したい。
ジェネリック医薬品を積極的にそろえることが他薬局との最大の差別化になる時代になりつつあることを自覚し実践してもらいたい。

そのためにももうひとつの視点である「患者自身の意識改革」がもっとも重要だ。
病院で処方箋を出された私たち患者は明確な基準を持たないまま、複数の調剤薬局からなんとなく足の向いたところに入って医師に指定された薬品を買って帰る。医師が処方する薬品が先行医薬品なのかジェネリック医薬品なのかを知識として有する、またはわからない時には医師に問い返す賢明さを実行したい。
ジェネリック医薬品を揃えていない薬局であれば、入店後であっても買わないで退店する小さな勇気を発揮したい。

もともとは、自分達が支払っている保険料や税金である。
こうしたひとつひとつの意識改革こそが、多額の医療費の抑制に貢献することを正しく認識したい。

《関連リンク》
ジェネリック医薬品 普及推進へ報酬上乗せ
ウィキペディア 後発医薬品

2007.10.9【政治資金で購入した不動産で資金運用? 小沢一郎さん 政治家を辞めて実業家になりなさい。】

小沢一郎氏の旧態依然とした金権政治家体質、倫理観の欠如した錬金術とカネ感覚については何度も指摘してきたが、その行状が「違法行為」にまで踏み込んでいたことが白日の下に曝されることになってきた。

本日(9日)付毎日新聞で「小沢一郎代表 資金管理団体に家賃収入 規正法違反の疑い」とのタイトルで、政治資金で購入したマンションをコンサルタント会社や財団法人に賃貸を行なって家賃収入を得ていたことが報道されている。報道の内容は、間違いがない事実であることは小沢事務所も認めている。
報道にあるとおり、政治資金規正法では政治団体の資金運用は「預貯金、国債や政府保証債券、元本保証のある金融機関への信託」以外は認められていない。小沢氏のマンション賃貸行為は違法であることは明白だ。総務省も「政治資金は国民の浄財。資金で購入した不動産を家賃を取って貸すのは同法が禁止する資産運用にあたる疑いがある」とコメントしている。

小沢一郎という人間は、まあよくもこんなことを平気でやっているものだ。
小沢事務所のコメントを聞いて怒りを通り越してしまった。
「うちとしては、政治資金の運用という認識はない。コンサルタント会社は、小沢氏の政策立案を請け負っている。財団法人は小沢氏が設立にかかわり理事を務めている」
認識があろうがなかろうが、犯罪の有無は事実で判断する。
そもそも「認識がない」なんてことがありえるのだろうか?
こんなことをいっていたら「なんでもあり」でしょう?
日本は犯罪者の天国になってしまう。

通常の感覚ならば、コンサルティング会社が入居している部屋を小沢氏が所有している必要はないはずだ。
財団法人を務める他の国会議員だって、たくさんいる。
そうした法人に国会議員が政治資金で購入した不動産を貸すなんて行為自体が、想像できない。

何度も繰り返してきたとおり、国会議員が政治資金で不動産を購入するなんて行為それ自体が信じられない。だからこんな国民が唖然とするような行為が発生するのだ。この行為そのものが「おかしい」と思えないこと自体が、狂っている。異常な精神状態だ。どんな説明会見があったとしても、一般の国民には理解不可能である。

小沢さん。
どう説明しても「適法な行為」という立証は無理だと思います。
それと、こうしたコンサルティグ会社や財団法人からの家賃収入は、不動産所有者の小沢一郎氏の個人所得になっているんでしょう?
家賃収入の納税は事業所得として正しく申告していますよね?

小沢さん。
国会の本会議もここ数年はほとんど欠席してましたし、もう政治家稼業には未練はないでしょう?
政治家たるもの、引き際はきれいにしましょうよ。それがあなたの美学でもあると思います。
今後は、経験を活かして実業家に転進することがよいと私は思います。
これだけ政治資金を使ってビジネスをしてきたんだから、ビジネスを本業にしたら大成功されると思います。

なお現在、小沢氏をめぐる主な資産は以下のとおり。

■小沢一郎氏の政治団体(総務省届け出分)の資産
(1)陸山会      10億8055万円
(2)誠山会      1億3735万円
(3)小沢一郎東京後援会 2706万円
(4)小沢一郎政経研究会 2134万円
(5)改革国民会議    11億8354万円
(6)改革フォーラム21  6億9262万円
【  総 計  】     31億4246万円   (産経新聞の記事より)

31億円!
この殆どは不動産資産だという。
どこの国の国会議員なんでしょうか...。

【関連記事】
<小沢一郎代表>資金管理団体に家賃収入…規正法違反の疑い
不動産どうする?小沢代表、保有資産31億円(産経新聞)

2007.10.8【小沢一郎 自由党と民主党の合併時の不透明資金疑惑】

8日(日)テレビ朝日放映の『サンデープロジェクト』で田原総一朗氏が、小沢一郎と民主党をめぐる政治とカネの問題に切り込んだ。
2003年の民主党と自由党の合併時における不透明な資金の流れについてだ。
この問題は以前から問題視されてきたが、なぜかマスメディアは報じてこなかった。

この2003年の政治資金疑惑は大きく2点において問題が指摘されている。
ひとつは、自由党が解党当日に、同党代表を務めた小沢一郎氏が、代表となっていた政治団体「改革国民会議」に対して、5億6000万円の政党助成金を含む約13億円を寄付していた問題だ。

政党助成金の原資は言うまでもなく国民の税金である。
国会議員数に比例して按分されるもので、法律的には一度交付されると返還することは定められていない。しかし自由党のケースのように交付された党自体が消滅する場合にはどうするのが国民的理解を得られる方途だろうか。
一国会議員が代表を務める政治団体に寄付をする(しかもそれ自体には税金もかからない!)という行為が国民的理解を得られるのだろうか?倫理的に許されてよいものだろうか?
通常の感覚で言えば、国庫に返還するのが筋というものだ、と私は思う。
国民の血税で政党を助成したはずが、いつのまにか一政治家の活動資金になっている。
これが「おかしくない」と思うほうが、おかしいと私は思う。

もうひとつの問題は、上記の行為が行われた2日前、つまり自由党が解党する2日前に、民主党から自由党に対して3億円の寄付が為されている事実だ。
つまり、自由党解党に伴って小沢氏が代表を務める改革国民会議に移管された資金(約13億円)のうち3億円は民主党から流れたカネであるということだ。
独立した政党間にあって、なぜこのような資金の受渡しが必要だったのだろうか?
誰の指示で、何の目的のために、この行為が行われたのだろうか?
何らかの密約、裏取引があったと思うほうが自然ではないのか。
民主党の党員や支持者には何ら知らされていない。
サンデープロジェクトに出演していた民主党の枝野幸男氏も「こんな話は相談ひとつ受けていない。3億円もの資金の寄付をどなたが決めたのか。民主党、そして当時の自由党の代表なり、幹事長なりが説明責任を果たすべきだ」と発言している。
小沢一郎氏、菅直人氏、鳩山由紀夫氏の3名は、この疑惑に答える責任と義務がある。

小沢氏の資金管理についての不透明さは、私のブログの中でも再三にわたって指摘してきた。
今回の「サンデープロジェクト」での田原氏の指摘のように一部ジャーナリストも民主党、自由党という小沢氏周辺での資金の不透明さを指摘してきているが、多くのマスメディアはこの問題を報道しようとすらしていない。そして殆どの日本国民は、マスメディアで報道されるニュースや論調を丸受けする未熟さ幼稚さから、いつになっても抜け出そうとすらしない。

冷静に考えれば、田原氏の指摘は正論だ。
それに対してもっとも国民感情を代弁していたのは、公明党の高木陽介氏の発言であったと私は感じる。
小沢氏一郎氏が行なっている資金関連の行為は、違法ではないとしても、脱法行為である。
良識ある人がやるべき行為では、断じて、ない。
こんな人物に日本の総理大臣を託して本当にいいのだろうか?という疑問を全ての国民が検証すべきである。
検証した上で「なるほど小沢氏は日本の未来を託するにふさわしい高潔で理念と実行力のある政治リーダーである」と評価するなら、小沢民主党に政権を託すればよい。
党利党略と、行政執行能力とは、根本的に違う。
パワーバランスによる人心掌握術と、人として信じるに足る人望とは、まったく異質のものだ。
何度も言う。
日本のマスメディアよ、偏向していないというなら、この問題を真正面から報道せよ。
そして、庶民の良識よ、いいかげんに目をさませ。

【関連ブログ記事】
小沢民主党は、本当に日本の救世主か。
襟を正すべきは誰か


2007.10.4【教科書検定を見直す時期に】

第二次世界大戦中の沖縄戦に関する高等学校日本史教科書の記述削除をめぐり、沖縄を中心に大きな世論が巻き起こっている。
昨月29日には11万6千人が参加した「教科書検定意見撤回を求める県民大会」が開催され沖縄の総意として決議文が採択された。今月3日には、仲井真弘多沖縄県知事が渡海紀三朗文部科学大臣に面会し、検定意見撤回と削除された記述の復活を直接訴える事態に発展している。

日本の学校教育で使われる教科書は検定と呼ばれている。
報道等で繰り返し説明されているので詳細は必要ないと思うが、戦前の国家主導型教育の反省から、各分野の専門家によって構成される「教科用図書検定調査審議会」によって検定が行なわれるようになった。しかしその実態は専門分野(教科)毎に数名で行なわれており、記述内容を精査するという行為には程遠いのが実情だ。結果的には文部科学省の「教科書調査官」数名がまとめた検定意見等をたたき台として、矛盾点や不整合がないか程度を見ていくだけになり、論議がある点や意見が分かれている争点については無難に事を運ぶ傾向が続いていた。
《参考》教科書検定の流れ

報道によると、今回問題となっている沖縄戦での集団自決について5社の2006年度版日本史教科書に検定意見がつけられた。東京書籍、実教出版、三省堂、清水書院、山川出版社である。
検定意見書として「沖縄戦の実態について誤解するおそれのある表現である」と書かれており、「日本軍により」「強いられ」「追い込まれ」等の表記が削除となっている。
これについて文部科学省は「軍の強制は現代史の通説になっているが、当時の指揮官が民事訴訟で命令を否定する動きがある上、指揮官の直接命令は確認されていないとの学説も多く、断定的表現を避けるようにした」と説明している。(『沖縄タイムス』記事より)

今回の争点は大きく2つの視点でみるべきだと思う。
一つは、直接的問題、つまり「日本軍による関与があったのか、なかったのか」という歴史的事実。
もうひとつは、システム的問題としての、教科書検定のあり方である。

沖縄の集団自決は歴然とした事実である。
日本軍の関与に反論する論客達は、命令書等の証拠物件や発令記録の有無を争っている。
しかしそれは本当に正しい論点なのだろうかというのが私の疑問点だ。
たとえ命令発布の記録がなかったとしても、沖縄は日本国本土決戦を阻止する「最後の護り」「一億総玉砕」「火の玉になって」等々様々な報道が繰り返されていたことは誰も否定できない。
そのような状況下で、あれほど多くの沖縄に住む同胞たちが自ら身を投げ、手榴弾で生命を絶った事実をどのように受け止めなければならないだろうか。
自ら生命を絶つしかないという判断しか選択できない状況に追い込んでいたのは、まぎれもなく日本国軍部である。その事実は動かしがたい、と私は思う。

教科書を第三者機関である「教科用図書検定調査審議会」に全権を託すというのであれば、文部科学省の関与を完全に排除すべき時を迎えているのではないか。
以前から現在の三権分立(司法、立法、行政)から「教育権」を独立させて「四権分立」にすべきと主張する識者がいる。すでに30年以上前からの主張と伺っているが、時代を見通した卓越した見識である。
教育権を独立させるためにはその経済的原資も必要となる。
税金で賄うような考えでは今とまったく変わらない。
まず教育権を統括する独立採算機関を設置し、小学校から大学、大学院にいたるまでの設置認可などの全般を政府から移管する。現在の学校教育機関等に納付する授業料等の中から、この機関の運営に関わる原資を賄うといったしくみが適切ではないかと思う。
この機関の一部門として「教科用図書検定調査審議会」の機能が存在する。このようなイメージが必要になるのではないか。

一国の利益不利益に左右されない、正しい意味での世界市民育成のための教育が求められている。

【関連リンク】
Yahoo!ニュース 沖縄集団自決と教科書検定
Yahoo!ニュース 教科書検定
外務省 日本の教科書検定
文部科学省 教科書制度の概要
ウィキペディア 沖縄戦(集団自決の賛否両論の論拠解説あり)

2007.10.3【小沢民主党は、本当に日本の救世主か。】

民主党の傾向を象徴するような報道が続いている。
渡部恒三氏の架空の事務所費問題と小沢一郎氏のアフガニスタンでの国際治安支援部隊(ISAF)への参加意向だ。

民主党の最高顧問を務める渡部恒三氏の政治団体「新時代の会」が1993年からの12年間、活動実態のない甥の当時の秘書、現在の佐藤雄平・福島県知事の東京都内の自宅マンションを事務所として申請して家賃、水道光熱費を含む事務所費1億7800万円を支出していた。
さらに2000年に同団体の代表者、3年前に会計責任者が死亡していたにも関わらず、その後も役員変更の届け出もしないまま会計責任者として捺印された書類を添付提出していたという。

同じ事態が自民党幹部で発覚したとしたらどうなるだろうか。
交代したばかりの福田内閣の不信任案提出、内閣総辞職で総選挙になっているのではないか。マスメディアもこんな暢気な報道では終わっていないだろう。渡部氏だけではないはずだ。追及していないだけで、民主党の中にも、もっといるのではないか。
マスメディアと有権者のいい加減さもさることながら、これが自民党を激しく糾弾してきた民主党議員の実態である。
要するに自民党議員も民主党議員も大差がないということだ。
10年もさかのぼれば同じようなことをやってきた同じ穴の狢(むじな)だ。事実、同じ自民党でやってきたわけだ。こんなことを理由に、内閣支持率を下げ、民主党に期待している一部の日本国民は無思想で場当たり的といわれても、しかたがない。

一方、小沢一郎氏は10月5日付の民主党機関誌において、「政権を担う立場になれば、アフガニスタンでの国際治安支援部隊(ISAF)への参加を実現したい」と語っている。
ISAFの活動は武力行使を伴う治安維持活動を行なっている。通常の考えで言えば、集団的自衛権の範疇を明らかに超えているため海外での武力を伴う活動であることは明白になる。つまり武力行使を禁じた日本国憲法に違反するという見解が一般的であり、そのために現在の与党政府は、給油活動という後方支援活動を行なうことで憲法の規定内で、かつ国連加盟国としての義務を果たすという政治判断をしてきたという背景がある。
小沢氏は、そして小沢民主党を支持している有権者たちは、どのように考えているのだろうか。

小沢氏には憲法を遵守するという意識はあるのだろうか。
国連決議があるのであればそれでよいという姿勢の危うさは何度も指摘してとおりである。
もし仮にも小沢氏が日本の総理大臣にでもなったら、軍国化は一気に加速する危険すらあるのではないか。

日本の多くの国民が勘違いしているのかもしれないので、敢えて指摘しておきたい。
国連は国際紛争の解決手段として軍事力の行使を否定していない。
もっと言えば、ある国連加盟国が自国のエゴのために他の加盟国に宣戦布告し侵略行為を開始した場合は、その他の全ての国連加盟国は武力行使を伴った抗戦に参加することが義務づけられているのだ。
「国連決議があればよいのだ」という小沢氏の主張を、平和憲法維持の錦の御旗のように思っている日本国民がいるとすれば、それは無知でしかない。
小沢氏の思想は危険なのかも知れない。
それは小沢氏の著作を読めば、殆どの国民が理解できることだ。

自民党と民主党。
本質的に、いったい何が違うのか。
小沢民主党は、本当に日本の救世主なのか。
今一度、冷静に賢明に見極めていくべきときを迎えている。

【関連記事】
民主・渡部氏の政治団体、実態のない事務所に経費計上
<渡部氏事務所費>実態なし 12年で1億7千万円以上支出
<小沢民主党代表>アフガン部隊参加に意欲…海自給油代替案

そういえば民主党は7月の参議院選挙の際に「政府広報の内容が選挙違反である」として政府与党を公職選挙法違反で告発すると談話を発表していたが、告発したのだろうか?
私の知る範囲では何もしていないように思うのだが...。
やっていないとすれば単なるパフォーマンスでしかなかったということだ。
告発をしたという事実を知っている方は教えてほしいものです。
そのことを記載したブログ

2007.10.3【エキナカ商業施設 固定資産税の評価見直し】

昨年来検討されてきた鉄道用地内での商業施設(通称「エキナカ」)への固定資産税と都市計画税について、通常の商業施設並みの課税を東京都が発表した。
JR東日本は今月2日、この課税措置を原則受け入れることを発表した。

この経営判断は適切だ。
私は駅ビル内への出店コンサルタントを行なった経験からも「エキナカ」への税負担の軽減措置は妥当ではないという考えを持っていた。報道でも指摘されているとおり、駅構外には改札を出た場所から商業施設が広がっているにも関わらず、税負担に3倍もの開きがあることには、公正かつ自由な競争を確保することを謳っている独占禁止法の精神にも反するとさえ感じていた。

しかも経営的視点から言えば、駅構内の方が売上を構成する立地要件が、より整っている。
つまり、より立地条件がよいにも関わらず大家(土地施設所有者)の税負担が軽いという逆転現象が起きていたわけである。
更に指摘すれば、その税負担軽減の恩恵はテナント入居者(お店)には何ら還元されていない。テナント料は「好立地」ということで「エキ外」よりも格段に高く設定されているのが実情だ。

エキナカを利用した人は気がつくと思うが「こんな小さなケーキが何で800円もするの?」とか「同じチェーンの飲食店なのにどこか盛り付けが見劣りするなぁ」と感じた方も少なくないと思う。
一般の消費者が知る機会はほとんどないが、JR駅構内やJR所有の駅施設内でのテナント料は周辺施設に比べても比較にならないほど、高い。いわゆるテナント料の他にも様々な名目の費用が付加されるためにJR東京駅など主要ターミナルに至っては、坪当たり費用は銀座の一等地の賃料を超える相場になっている。
「これで採算を取れというのはどういう神経なの?」という言いたくなるような場所でさえ坪5万円を超えているケースもある。

ではテナント入居している店舗はどうやって採算をとるのだろうか。
多くの店舗では、致し方なく販売商品の単価を高く設定したり、盛り付けのボリュームを下げたり、原価の抑えられる原材料を使うといった、消費者にとっては不利益になる不本意な経営をせざるをえない状況に追い込まれている。
それでもJR主要駅に出店しているというだけでも波及効果があるという側面が強く、出店を希望する企業、店舗は後を絶たない。したがってJRなど鉄道事業社サイドは強気の価格提示を続けているのである。

このような状況のなかで、税の軽減措置で得をしていたのは土地施設所有者であるJR東日本など鉄道事業者のみ、しかもその場所で高額の賃料収入を得ているという、極めていびつな現実が続いている。
今回の措置でその異常な状態が部分的でも修正されることを望みたい。
そして私たち消費者は、JR等の事業者がこの税負担をテナント入居者に転嫁するような行為をとらないように監視すべきである。

JR東日本社長の清野智氏は追加課税分について「23区で13億円、社全体で20億円。それなりに納得して支払うことになる」とのコメントを発表しているが、あまり上から見下ろすような印象の与える態度は止めておいたほうがいい。
今までの「一人丸儲け」の状態に消費者が気がついたら、バッシングの嵐になりかねない。

【関連記事】
「駅ナカ」 追加課税「納得」 JR東、支払い受け入れ
駅ナカ商売拡大で22億円追加課税へ、都が固定資産税など
独占禁止法(公正取引委員会)

2007.10.1【第30回桂冠塾『わかったつもり』】

9月29日(土)に30回目となる桂冠塾(読書会)を開催しました。
今回取上げた本は西林克彦著『わかったつもり−読解力がつかない本当の原因−』です。

当日開始直後に、まず参加者に読後の印象を聞きました。
参加者の中には
「西林氏が取上げている文例がしっくりしない」
「著者が言うような、そこまで文脈を読み取る必要があるのか」
という懐疑的な意見を持った方もいました。
最初に読後感を聞いたねらいは、3時間の桂冠塾を経た後で、その読後感がどのように変わるのかを実感してほしいと思ったからです。
そのねらいは達成できたように思います。

古今東西の様々なジャンルから毎月一冊を取上げるというのが経験塾の趣旨ですが、「本を読む」こと自体を考えるという意味では参加者にも好評だったようです。
新書サイズで読みやすいボリュームだったので参加いただいた全員が読了しての出席でした。これは30回目にして初めてのことです。全員が読了していたのでチェアマンとしても進めやすく、当初予定していた討議内容を一通り終えることができたのも初めてでした。
読了するということも大切だなと改めて感じました。

誤解を恐れずにこの本をざくっと概観すれば、西林氏の考える「読解力がつかない本当の原因」とは、本来は文章を正確に理解するために行なわれている文脈の理解と既存スキーマの発動という2つの大きな構成要素が魔力と化することで起こると展開します。そしてその2つは文章を構成する「部分」を読み飛ばしたり読み違えたりすることによって発生するというのが西林氏の持論と言えるでしょう。
言い換えれば、この文脈の魔力と既存のスキーマの魔力を見破り、更に新しい文脈に着目することで「わかったつもり」から脱出することができるということになるでしょう。

本書から短い例文を二つ紹介しましょう。
この例文は「文脈」「既存のスキーマ」の働きを気づかしてくれる初歩的な文章です。
みなさんはそれぞれ何について(またはどのような状況を)述べている文章かわかりますか?
そして「なぜ理解できたのか」または「なぜ理解できなかったのか」考えてみたいと思った方は是非この本を読むことをお奨めします。

(1)新聞の方が雑誌よりもいい。街中より海岸の方が場所としていい。最初は歩くより走る方がいい。何度もトライしなくてはならないだろう。ちょっとしたコツがいるが、つかむのは易しい。小さな子供でも楽しめる。一度成功すると面倒は少ない。鳥が近づきすぎることはめったにない。ただ、雨はすぐにしみこむ。多すぎる人がこれをいっせいにやると面倒がおきうる。ひとつについてかなりのスペースがいる。面倒がなければ、のどかなものである。石はアンカーがわりに使える。ゆるんでとれたりすると、それで終わりである。(ブランスフォードたちの実験材料より)

(2)風船が破裂すれば、なにしろすべてがあまりに遠いから、音は目当ての階に届かないだろう。ほとんどの建物はよく遮蔽されているので、窓が閉まっているとやはり届かないだろう。作戦全体は電流が安定して流れるかどうかによるので、電線が切れると問題が起こるだろう。もちろん、男は叫ぶこともできるが、人間の声はそんなに遠くまで届くほど大きくはない。付加的な問題は、楽器の弦が切れるかもしれないことである。そうすると、メッセージに伴奏がつかないことになる。距離が近ければよいのは明らかである。そうすれば、問題の起きる可能性は少ない。顔を合わせている状態だと問題が少なくてすむだろう。(ブランスフォードたちの実験材料より)

【当日の様子や他の視点でのコメントなどはこちら↓】
http://www.prosecute.jp/keikan/030.htm

2007.9.29【平沼氏の収支報告書に見える政治資金の流れ】

小泉内閣の中心課題であった郵政民営化に反対し自民党を離党した平沼赳夫氏の資金管理団体の収支報告書が話題になっている。

2006年度において少なくとも18人の造反組議員に寄付やパーティ券購入の名目で資金援助をしていた。
従来から党内に派閥を擁している政党では、派閥の領袖が派閥議員に活動費や選挙時の運動費の目的で現金を振分けるやり方は広く知られている。
従来はこうした資金の流れは表面化することはなく、政治資金規正法施行後は派閥の力が弱体化したことも相まって、話題になることが少なかったように思われる。
落選に危機感を募らせていた平沼氏がカネで影響力を行使しようという従来の手法をあからさまに使ったのだろうか。

政治の暗部はまだまだ、闇が深い。

【関連記事】
読売新聞 - 平沼氏、造反組18人に資金援助…落選者に月100万円.

2007.9.27【時津風部屋で行なわれていたものとは】

大相撲の時津風部屋の斉藤俊さんがけいこ中に急死した事件で、時津風部屋の時津風親方(元小結双津竜)や兄弟子達による暴行が行なわれていたことが明らかになった。
暴行は親方自身によるビール瓶での殴打、兄弟子による金属バットでの殴打、複数名による足蹴りなど陰湿極まりない。
俊さんが死亡後に、遺体を遺族に返さずに火葬に伏そうとした隠蔽疑惑も報道されている。

「逃げろと言えばよかった」
「もう少し頑張ってみろよと私のエゴで言ってしまった」
俊さんの父・正人さんの言葉に涙が出そうになる。
私が同じ父親の立場でも、もう少し頑張ってみろと言っただろう、と想う。
もう少し、心のアンテナを敏感にしていればよかった...きっとそんな後悔の念がいつまでも消えないに違いない。
もし仮に正人さんの言葉がエゴだとするなら、時津風親方の言動は畜生界の生命の所作だ。

年端もいかない少年少女の凶悪犯罪がけたたましいばかりに報道される昨今。
彼ら彼女達がそんな風になったのは本人のせいばかりではないのかもしれない。
いい歳をとった、相撲の師匠だとか言われるような輩がこんな体たらくでは、若い世代の人達に意見するなどもってのほかだ。

生命に対する尊厳の気持ち。
他者を思いやる境涯の大きさと深さ。
まわりの声を聞き漏らさない心配りと繊細さ。

私達は、助けを求める声を聞く力を、日常の中で忘れ去っているのかもしれない。
今からでも、少しでも、耳を傾ける心を少しでも強くしたい。
そして、人間として許せない所業をひとつでも防ぐ自分でありたい。

《関連記事》
<力士急死>「真実を知りたい」と訴え 斉藤さんの父会見(毎日新聞)
「逃げろと言えばよかった」=遺族の父、涙まじりに−時津風部屋の力士死亡

2007.9.26【NHK経営委員会も改革が必要だ】

今月25日に開かれたNHK経営委員会はNHK執行部から提出された5ケ年経営計画の承認を見送った。見送りの理由は「受信料の公平な負担を実現するための施策が示されていない」からだという。

この5ケ年計画には、
・コンプライアンス(法令順守)体制の確立
・地域放送の強化
・受信料の一律月額50円、口座振替利用はさらに50円(月額計100円)の引き下げ
の諸案が盛り込まれていた。

今回の見送りによって受信料の改定は、当初予定の2008年10月実施は不可能となり、早くても2009年4月以降になるという。
確かに受信料を引下げればよいという問題ではない。
経営計画案も、現実性のない、緊迫感のない粗末なものだったのかもしれない。
しかし、見送るというのは庶民感覚として、果たして許されるだろうか。
「5%なんて甘い。経営努力でもっと値下げができるはずだ」から突き返したという趣旨の経営委員会委員長の古森重隆氏の発言が報道で紹介されているが、もしそうなら本末転倒そのものだ。まずは5%でも値下げをして、並行して経営計画を再提出させればいい。

加えて、NHK経営委員会は、独自の代替案を策定していない。
「役割がそういうものだ」と言われればそれまでだが、「受信料の公平な負担を実現するための施策が示されていない」と言うだけで、現状から何も変わらない状態を、半年も一年も続けさせるつもりなのだろうか。
5ヵ年経営計画(執行部案)についての経営委員会の見解を一読したが、NHK執行部を批判して諌めているという姿勢をとってはいるが、結果的に批判のための批判に終わっている。
これでは、執行部と経営委員会で水掛け論、批判合戦で終わってしまうだろう。
今までの通例や定款、法令等を変えてでも、執行部からの再度の提出を短期間で求めて、1ケ月以内の再承認を行なうなど、経営委員会それ自体の改革も必要ではないかと強く感じた。

今は情報化社会であり、ディスクローズの時代。
以前のようなお役所仕事では、もう通用しない。
NHK執行部も、経営委員会の方々も、自分達が求められている役割を、よくよく自覚しなければならない。

【関連記事】
受信料値下げ含むNHK5か年経営計画、承認見送り(読売新聞)
NHK執行部の受信料値下げ案に経営委が「ノー」(夕刊フジ)
NHKオンライン(経営委員会見解に対する会長コメントもあり)
NHK経営委員会(各委員の写真やプロフィールもあり)
5ヵ年経営計画(執行部案)についての経営委員会の見解

2007.9.21【首都高速道路会社 新たな距離別料金制と公的負担を要望】

果たして、一般庶民の感覚でそんなことが許されるだろうか?
首都高速道路会社(橋本鋼太郎社長)は現行の一律700円の利用料金を、ETC利用で400〜1200円、現金利用で一律1200円にする改定案を発表した。
さらに割引制度導入のために公的資金の導入を強く要望していることが報じられている。この割引制度というのはETC利用を前提とした400〜1200円のレンジの部分を指しているのか、ETC設置に関しての助成や通勤時間帯などの時間帯別割引などのETC車通行時の料金差額の補填を求めるということだろうか。

こうした橋本鋼太郎氏達の経営感覚を皆さんはどう思うだろうか。
私には「多くの庶民が関わる公的な事業を担っているという経営者の自覚が欠落している」というのが正直な印象だ。
ETC設置に関しても現金支払についても利用者に実質的な負担増を求め、その一方で公的支援を公然と要求する。
道路会社自身の企業努力はどこにあるのか、と思う。
少なくとも私には、経営者の血のにじむような思いはどこからも伝わってこない。
非常に、安易だ。
橋本氏たちにとって首都高速道路会社は、もちろん自分自身が創った会社ではない。いわゆるサラリーマン社長というか、お役人社長だ。
一定の任期が終われば多額の退職金をもらって悠々自適の生活をおくるという気持ちも少なからずあるかもとも思う。
多少であっても、今後の日本の経済発展を憂い、より多くの庶民の貴重なお金を使って高速道路を使ってもらっている、という殊勝な気持ちがわずかでもあったら、公的資金が欲しいなどという安易な経営者の発言にはならない。

思い切って、高速道路会社を民間企業に売却したらどうだろう。
もちろん経済界で確固たる経営を行なってきた世界的な企業に。
そのくらいのことをしなければ、橋本鋼太郎氏たちのような経営感覚のない経営者を日本経済界から駆逐することは、できないのかもしれない。

【関連リンク】
<首都高>新たな距離別料金制を発表 公的負担も要望
首都高速道路公団 橋本鋼太郎氏 〈建設グラフ2001年12月号〉
首都高速道路ホームページ
首都高速道路(ウィキペディア)

2007.9.19【さあどう出るのか小沢一郎。】

アフガニスタンに展開中のISAF(国際治安支援部隊)任務延長をめぐって、国連安全保障理事会が近く採択する決議案にOEF(不朽の自由作戦)への謝意が盛り込まれることが確実になった。
これは日本側からの働きかけに各常任理事国が理解を示したものだ。
民主党の小沢一郎氏はインド洋上での給油活動の根拠となるテロ特措法の延長に反対する理由として「国連決議によらない」ことを筆頭に挙げている。
国連決議の有無に左右される小沢氏の姿勢の危うさは過日ブログでも指摘したが(http://prosecute.way-nifty.com/blog/2007/09/post_34e4.html)それが浮き彫りになった。

民主党幹事長の鳩山由紀夫氏は早々に「このことで民主党の考え方は変わらない。感謝を強要するというのは茶番だ」「国連決議の条件がクリアされればいいわけではない。事後的な決議では順序が逆という問題があり、結論を大きく変えることにはならないと思う」等と発言した旨が報道されている。
民主党の発言に一貫性がないのは今に始まったことではないが、鳩山氏のような言い方をするなら初めから「国連決議」云々と言わなければいい。テロ特措法延長反対の理由そのものを自ら否定していることに気づかないのだろうか。

「感謝を強制するのは茶番だ」と発言しているが(常任理事国を「強制」させるほどの力が日本にあるのなら、それはそれですごいことだが^_^;)その発言自体が常任理事国各国に対する非礼であることもわからないのだろうか。
そんなことで決議を出すいいかげんな各国だとでも、鳩山氏は本気で思っているのだろうか。
国連安全保障理事会での決議は国連総会決議に次ぐ、実質上最も効力のある国連決議である。
民主党の政治感覚の欠落ぶりにあきれて批判もしたくないほどだ。

自民党の総裁選挙に関連して小沢氏は「口先で何を言っても実現しないと誰も信用しない」と発言している。
その言葉をそのまま、小沢氏に返したいと思う。
さあどう出るのか。小沢一郎。
あなたの言動を、良識ある国民は、見ている。

【関連記事】
「民主の反対理由なくなる」=海自活動含む国連決議案で−高村防衛相
<アフガン決議案>国連の謝意、「追い風」と期待…政府毎日新聞
国連、海自給油など海上阻止行動への「謝意決議」採択へ読売新聞
<アフガン決議案>国連の「謝意」に「考え変わらず」 民主毎日新聞
<民主党>小沢代表「首相誰でもいずれ解散」毎日新聞

2007.9.12【安倍首相が辞任】

本日9月12日、安倍首相が辞任する。
12時58分頃のNHK綜合テレビが速報を流し、そのまま報道を続けている。
14時から首相辞任会見が行なわれる。

安倍氏は、ついに気持ちが折れてしまったのだろうか。
孤立無援の中で、いったん萎えた気持ちを立て直すことはないだろう。
国会は急遽の首班指名、組閣人事に着手されることになる。
この事態を民主党議員や政府与党憎しとなった有権者は拍手喝采で歓迎するのだろうか。
「今頃やめるなら参院選後に辞めてろ!」と罵声でも浴びせるのだろうか。
森田実氏、室伏哲郎氏ら政治評論家と呼ばれる方々が我が知り顔で「当然だ」「遅すぎるくらいだ」等のコメントを出しているが、では今直後からの日本人の生活をどうするつもりなのか。無責任な評論を言うだけなら、あなた達にやってもらわなくても、私にだってできると言いたい。

安倍氏でなければ、この1年弱の政局を別の結果で乗り切れたのだろうか。
自民党でなければ、画期的な変革を成し遂げることができたのだろうか。

たしかに安倍氏の失策も多々あった。
しかし、おそらく日本政治最大級の難局に際して政治決断を下してきた成果は、冷静に評価されてしかるべきだろう。

一時の感情のみで如何様にも流されていく現代日本人の世論は、どこまで迷走すれば気が済むのだろう。
日本の良識よ、いいかげんに目を覚ませ。

【関連記事】
安倍首相が退陣の意向、与党幹部に伝える
安倍首相「議会で求心力がなくなった」 午後に会見
<安倍首相辞意>衝撃の一報…列島にショック広がる

2007.9.11【もったいないな、あのお店。】

8日に行なわれたシンポジウムに参加するため八王子市に行った際、少し早めの時間に昼食を駅ビル(八王子NOW)の飲食フロアでとったときの出来事。

エスカレータで9階フロアに上がり、ぐるっと各店を見る。11時半前ということもあってどの店も空席が多い。店構えも同じような感じで「フロア全体をコーディネートした店舗デザイナーの人がいたのかな」とか思いつつ一周する。メニューや料金、店内の広さもさほど差がない。軽めにそばでも食べようと思って、2つあるエスカレータのひとつに近いお店に入った。

店内の雰囲気、テーブルの大きさ、価格や料理の味、注文から出てくるまでの時間なども及第点で格段の不満はなかった。しかし、また行こうとは思わない。
それはなぜか。
店員の応対が、よくない。
愛想がないとかそういうことではない。人として伝わってくるものが誰にもないのだ。無愛想とかではないだけに、もったいない。なんとかなるのに、と感じるのだ。
さほど混んでいないのに、のれんをくぐっても1分以上店員が出てこない。
女性店員がやっと顔をみせたと思うと、挨拶もなくいきなり「あそこに」と左手で示すが、空いている席が3〜4テーブルありどこに座っていいのかわからない。戸惑っていると既に店員は奥に入ってしまっていた。
少々待たされて別の女性店員が注文にくる。ランチメニューの名前を覚えてなかったので「入口の前に出ていた今日のお奨めのセットを」と告げると「はっ?」「何のセットですか?」と店員はあからさまにいやな表情に(^_^;)私は必死に思い出そうと「え〜と、たしか塩○なんとか御膳とか書いてあったような...」(あとで見て見たら塩○はお店の名前で、ごはん物は全部、塩○☆☆御膳となっていた^^;)と告げるが、よくわからない店員は「とろろご飯のあるセットですか?」といわれたが覚えていない私は「そうかな?...よく覚えてないのでそれでいいです」と答えた。テーブルにはメニューがあったが、時間がもったいないと思ったのだろうか、メニューを使って確認しようとはしなかった。
話の落ちは想像がつくだろう。私が食べたかった御膳でないものが出てきた。
そばも食べられなかった。店内のお茶はそば茶だったが(^_^;)
料理が出てくるまでの待っている間、やっと落ち着いて回りを見ると私が食べたかったものを半分以上のお客が注文している。なんで欲しい御膳のことがわかってくれなかったのかなぁ。
会計の際もレシートを渡されただけで「ありがとうございました」等の言葉もない。私が代金を支払う際はレジだけを見ており、レシートを手にしたときには半歩歩き出していた。

お店を出るとちょうど正午。
回りの店舗を見ると10名前後の入店待ちのお客様が並んでいた。
私の入ったお店はもちろん行列などなく、店内にはまだ空席が残っていた。
地元の人たちはさすがによく知っている。

経営者は気がついているのかなぁ...もったいない。
厨房も、内装も、外装も、メニュー構成もよいのに、本当にもったいない。
ある意味で業績改善がやりやすいお店だ。一緒にやりませんかと言いたくなる。
手を入れれば、売上も、お客様の満足も、ぐんっと伸びるのに。
もったいない。

2007.9.11【テロ特措法新法案を提出へ】

昨日から臨時国会が始まった。
臨時とはいっても62日間の長期にわたる重要な国会日程となる。
今国会最大の焦点はテロ特措法の延長が可決されるかどうかだ。民主党は小沢代表主導のもと、延長反対で意思統一されると思われる。衆議院で可決の後、参議院でどのように審議されるか厳しく監視していきたい。

今日になって、テロ特措法にかわりインド洋上での給油と給水活動に限定した新法提出の動きが報じられている。期間は一年を想定しておりその場しのぎの印象はまぬがれないだろう。
そもそもこんな泥縄新法のアイデアが出てきたのは民主党がテロ特措法延長に反対をしているにもかかわらず、今の時点で給油活動をやめると共同歩調をとっているアメリカ軍の活動に大きな支障が生じることは必至のため、なんとか給油活動だけは継続しなくてはならないという事情によるものだ。
この点を小沢氏たちがどのように判断するかが焦点といえよう。

民主党の主張は「海外における平和維持活動は国連決議を経たものに限る」というスタンスだ。民主党は従来からの持論のように言っているが、そうではない。ここ数ヶ月前から言い出したことだ。
たしかに特措法という名称のとおり、元々は特別措置であるのでゼロベースで見直しをするという意見も妥当だ。しかし現実に日本の自衛隊による給油を受けている艦船が太平洋からインド洋にかけて移動している事実もある。
もし日本が給油活動から撤退する場合に、どの国がその代役を果たすのかという問題が出てくる。

良識的な判断としては、期限の迫ったテロ特措法は期限延長を承認したうえで、今後の平和維持活動に関する方向性等を協議し、しかるべき新法を提出するというのが道理ではないかと、私は思う。

民主党はアフガニスタンへの人道支援を行なうべきだという主張も行なっている。これは見解の違いこそあれ自衛隊を海外派遣するという前提で主張が行なわれている。こうした主張の前提として平和維持活動の定義を含むこれからの国際的平和活動はどうあるべきかが話し合われるべきであろう。

小沢氏は「国連決議」されれば平和維持活動をすると主張するが、そもそもどのような基準で国連で活動の是非を審議しようとしているのか。日本自ら主体的な取り組みを発信していない状態では、他国任せとしか感じられない。
日本も立派な国連加盟国だ。
地域紛争やテロリストによる攻撃が行なわれた場合、日本としてどのように行動するのか。他国の出方を見てから態度を決めるような姿勢は、すでに許されなくなっている。常任理事国になれば、さらに主体的に各国に働きかけることが求められる。国力からいっても、アジア諸国への経済的影響力からいっても他国を追従していればよい立場では、ない。
日本として平和活動が必要があると判断したら、反対する各国を説得してでも国連決議に持ち込むくらいの決意が必要とされている。ではその場合になったら、今の政治家達にぶれのない政治的判断ができるのだろうか。すくなくとも私は、今の政治家達はふらふらしてて頼る気持ちにはなれない。それは自民党議員もそうだし、民主党議員はもっと危なっかしい。

これからの政治家に必要なもの。それは、理念と哲学だ。
国連決議があれば...などと他人事のような発言はもう、やめにしたい。

【関連リンク】 Yahoo!ニュース - 読売新聞 - テロ特措法新法案は給油に限定、国会承認規定は削除へ

2007.9.10【原水爆禁止宣言50周年記念シンポジウム】

もし原水爆をいずこの国であろうと、それが勝っても負けても、それを使用したものは、ことごとく死刑にすべきであるということを主張するものであります。なぜかならば、われわれ世界の民衆は、生存の権利をもっております。その権利をおびやかすものは、これ魔ものであり、サタンであり、怪物であります。それをこの人間社会、たとえ一国が原子爆弾を使って勝ったとしても、勝者でもそれを使用したものは、ことごとく死刑にされねばならんということを、私は主張するものであります。(『原水爆禁止宣言』より)

1957年9月8日、台風一過の三ツ沢公園陸上競技場で、戸田城聖創価学会第二代会長はいかなる理由であれ原水爆の使用は絶対悪であり、使用者はことごとく死刑にすべきであるという宣言を発表した。
戸田城聖先生は強硬な死刑廃止論者であったことは有名である。その戸田先生が「死刑」を主張までして原水爆廃絶の思想を全世界に広めようとした真意はなんだったのだろうか。

ちょうど50年後にあたる9月8日(土)に開催された「戸田城聖先生原水爆禁止宣言50周年記念シンポジウム」に参加した。13時15分からのビデオ上映の後、13時35分過ぎから開始。創価大学S201教室の会場は定員520名だが次々と一般市民の方々が来場し別教室(S101)に音声中継を行ない収容するなど1200名余りの参加となった。

基調講演は明石康・元国連事務次長。
国際的な核軍縮の現状を様々な視点から考察、NPTの取り組みやCTBTにおける核保有国の独善性を糾弾。カットオフ条約はその後の進展がみられないが、核非保有国による非核地域の広がりを評価し北東アジアでの非核化が当面で課題であると指摘した。
「我々は核廃絶の熱意を失ってはならない」という明石氏の訴えは心に残った。
日本だけでなく国際的平和が必要とされており、国連を中心とした平和構築が重要であると述べ、一国平和主義の流れが出てきた日本の現状はとても気になると指摘。その意味でも戸田城聖先生の原水爆禁止宣言は今だもって輝きを失っていないのみならず、池田大作SGI会長の提言を先頭として全世界的な広がりをもつ創価学会の活動に大いに期待し評価していることを述べた。

その後、小出稔、中山雅司、西原祥子各氏による報告が行なわれ、原水爆禁止宣言の意義、国際法から見た核兵器使用の問題、原水爆の生物に及ぼす影響や平和利用の可能性について等が論じられた。
その後休憩をはさんで、質問票によって参加者から寄せられた数多くの質問に関して応答があった。
原子力の平和利用に関しての質疑では参加者の中に水素発電の実用化に7ケ国共同で取り組んでいる方がおられて50年後の実用化を目指して研究が行われている報告もあった。

核抑止論の幼稚な論理が横行した20世紀。しかし9.11事件に象徴される核テロリストの存在に対して有効的な論理を持ち合わせていないアメリカは、ピンポイントで地下に打ち込む限定核使用の研究を始めている。
中途半端な理性を根拠とした核抑止論による「使えない核」保有から「使える核」開発に踏み込んでしまった核保有国の暴走をとめることが私達にできるのか。
私たち個人がいったい何ができるのか。
これが参加者の多くの思いだったに違いない。
中山雅司教授は、核の「必要悪」から「絶対悪」への転換、「平和を願うならば平和の準備をせよ」という思想を伝えることを強調。明石氏は民間レベルでの対話、すなわちセカンドトラックでの対話の推進を呼びかけた。

核保有国は核の必要悪、核抑止論を捨てない。
しかし彼らを含めてほとんどの人は核兵器は悪だと認めている。
私たちは更に踏み込んで、核兵器の絶対悪の思想を広めるために対話を繰広げたい。
それが意見の対立になり、感情的分断に陥る危険に直面したとしても、相手の気持ちを思いやりながら自ら歩み寄り、分断から団結へと変えていくという、とても困難でしかし単純な行動の持続が求められている。

原水爆禁止宣言50周年にあたり、私たちの使命を今一度確認しあって地道な対話を少しずつでも日々続けていきたい。それが「遺訓の第一」とした戸田城聖先生の平和実現の思いに答える道ではないだろうか。

【関連リンク】
恒久平和への挑戦
戸田記念国際平和研究所
創価大学平和問題研究所

2007.9.5【第29回桂冠塾 ダンテの『神曲』を読む】

9月1日に8月度桂冠塾(読書会)を開催しました。
今回の本はダンテの『神曲』です。

古典中の古典、西欧文化の源泉、ルネサンス誕生の父、詩聖と讃えられたダンテ・アリギエーリ。彼の出生や経歴は詳細にはわかっていないが、1200年代の人物であることを考えると記録が残っていないことはさほど不思議ではないだろう。
世界史的にも文学的にもダンテを欠いて語ることができないほど著名な彼であり、その代表作『神曲』であるが全編を読了したした人はわずかであることも、ほぼ間違いない作品である。

とにかく難解というイメージがついてまわっている。
キリスト教や神学の素養がないと理解できない。
ギリシャ神話やローマ文化の知識がないと読み進められない。
そんな高尚な文学作品というイメージが定着しているようにも思う。
しかしダンテは市井に生きる庶民のために『神曲』を書いた。
それは『神曲』が当時の知識階層の言葉であるラテン語ではなく、トスカーナ地方の方言(現在のイタリア語の源流)で書かれたことに象徴されている。

桂冠塾当日の参加者も読み通したという方はわずか1名(^_^;)まったく目を通すことさえできなかった方もいたほどだ。未参加だが読了された方が「目で文章を追うが全く理解できない経験を初めてした」という趣旨の感想を寄せていただいた(^_^;)
しかしそれほど難解なのだろうか?
確かに私も冒頭部分で時間を要した。現代人の会話文化に染まっている私達には馴染めない文章なのだろうかと思いつつ、自分自身の読解能力の限界に近いのかなという感覚を一瞬持ちかけたが(^_^;)独特の言い回しに慣れてくると一定のリズムで読み進めることができた。
これが韻文詩の特徴なのかもしれない。

当然のことながら『神曲』は作品としてのふところがとてつもなく深い。
全体の構成を理解するだけでも相当の感覚を必要とするが、例えば「この人物はなぜここで登場するのだろうか」という視点で読むとダンテの意図を更に深く拝することができる。
多くの解説が指摘するように特定のテーマ、例えば「愛」であるとかまた「師弟」「人間性の復興」「生と死」「生命の永遠性」「生命観」など、重要なテーマがいくつも含まれている。
一度、二度で読み終わったといえる作品ではない。生涯で何度も読んでみたい。
そう感じるという意味でも、他の作品とは数段以上格が違う、特別な作品である。

ダンテに限らないが、多くの西欧の作家詩人は現実の社会で行動している。政治家として現実変革に格闘した人達も多い。
翻って日本の作家の行動を見てみると、どうか。
多くの作家達は自らの活動範疇を文壇での執筆活動のみに限定している。一部の作家は政治家になっているが、創作活動で醸成されてきた自らの思いを現実社会で展開しようというケースは、ほとんどない。
世界的文学賞などを受賞した日本を代表する作家に至っては、皆無である。

完訳本としては平川祐弘氏、寿岳文章氏、山川丙三郎氏の訳本が著名である。
3名のどなたの訳も難易の度合いはさほど違いはない。いずれも名訳だ。特徴的に言うと寿岳氏のものは個々の解説が充実しており、平川氏、山川氏のものは韻文の美しさが大切に約されている印象を受けている。
その他の訳本の大半は抄訳で充分に『神曲』を伝えきっているとは言いがたい。図書館によっては永井豪の劇画『ダンテ神曲』も置いているが、ストリー的には谷口江里也訳に沿っている。
抄訳本のほとんどが地獄篇に偏っているのもひとつの特徴だろう。谷口江里也訳はギュスターヴ・ドレの插絵を中心に構成されているようだからそうなるのは当然といえるが、他の訳者が同様になるのはどうしてなのか首を傾げざるを得ない。
大作であるが故に途中で息切れしたのか、ダンテの真意が理解できなかったのか...。
私はその両方であると感じるが、特にダンテの真意が理解できないままに翻訳作業を行った者達も少なからずいたのではないかと思う。

「死後の地獄や天国の世界ってこんな感じなんだよ」という話がしたかったのだろうか。多くの読者がそう感じているように、同時代やギリシア神話の英雄達を地獄に落としてまで、非難を浴びるのを覚悟で書かれた作品の動機が、その程度であるわけがない。
どの人物が地獄界のどの圏に落ちた、どの人物は煉獄のどの環で贖罪をしているといった判断に、思索に思索を重ねたことが推察される。自分自身の判断が間違っていないか司教の考えを聞きに行ったという指摘もある。ダンテは流浪の旅の中で考え抜いた末の、ぶれのない確信を持った自分自身の基準を持っている。

ダンテはなぜ『神曲』をあらわしたのか?
この疑問を追及する必然がある。
そしてその結論ともいうべきダンテとしての思いは最終章である「天国篇」に書かれているのは明白だ。したがって天国篇を読み込むことが『神曲』を読むことで特に重要になる。
しかし一足飛びに「天国篇」を読むことをダンテは戒めている。
池内紀氏も解説で指摘しているが天国篇第2歌の第1行でこう述べている。

おお御辺たち、聴きたい一心で小船あやつり、歌いながら進むわが船のあと追ってきた人々よ、
船先(へさき)めぐらし、もとの岸辺に立ち帰れ。大海原に乗り出ずな。恐らくは私を見失い、白波のよるべも知らに漂うであろうほどに。(寿岳文章訳)

地獄篇、煉獄篇とめぐってきた者のみが天国篇を読み進むことができるという。
ダンテの『神曲』によって事実上のルネサンスが始まったという見解もほぼ定着している。
ダンテがこの作品を通して求めたものとは?
そのひとつの考える端緒になればと思いながら...
下記ページにも少し記載しました。ご覧いただければ幸いです。
【第29回桂冠塾/当日の様子やウェルギリウスを師と仰いだ理由とは?など】http://www.prosecute.jp/keikan/029.htm

2007.8.31【7月の完全失業率3.6%に改善】

総務省は労働力調査速報で7月の完全失業率が前月比0.1ポイント改善されたと発表している。
果たして景気は回復しているのだろうか。
求人倍率は横ばいで変化がないという。この求人の質を検討することも必要だ。
まだ回復基調に乗っていない限られたパイを多くの人数で分け合うために、非正規雇用やタイムシェアリングが行なわれて完全失業者のカウントが下がっていることも充分懸念される。

リンク: Yahoo!ニュース - 読売新聞 - 7月の完全失業率3.6%に改善

2007.8.30【朝青龍報道 少し沈静化せよ】

朝青龍がモンゴルに帰国した。
相撲協会の理事を中心に様々な発言が報じられているが、心の病は外見からはわからない。仮病疑惑や従来からの不遜な言動が積もり積もって、朝青龍は信用できないという心理状態になっていることも想像できるが、しかし、である。

心の病であれば初期段階での適切な治療ができるかどうかで快復への道筋が大きく変わってしまう。
相撲協会の関係者も、マスコミ報道関係者も冷静に静観することだ。
空港やモンゴルへ取材陣が殺到するなど非常識にすぎる。
どうも現在の日本人には人としての理性と倫理観が欠落しているようだ。
報道陣も代表社を決めるなど、冷静な対応を望みたい。

リンク: Yahoo!ニュース - スポーツ報知 - モンゴル軍、朝青龍を守る!国挙げて20社超の日本報道陣封じ.

2007.8.30【やっぱり出てきたか民主党の不祥事】

参議院議員選挙が終わって1ケ月。
選挙で激しく糾弾されたのは与党自民党だったが、やはり、といようか民主党の不祥事が次々と明るみに出始めた。
横峯良郎氏(さくらパパ)のかけゴルフと不倫報道、青木愛派選挙違反事件への小沢一郎氏政策秘書から指示疑惑、姫井由美子氏の不倫疑惑だ。
現在の報道の推移を見ていると、無実潔白ではない様子だ。
特に姫井由美子氏の疑惑は、不倫相手が実名で語っている、姫井氏が否定していないなど、疑惑は限りなく濃厚だ。

政権をとることが最重要課題である民主党にとって、選挙に勝てさえすれば倫理とか関係なくなっているのだろうか。
もちろん自民党だって領収書の5重計上などとんでもない不祥事が明らかになっている。だからといって民主党の不祥事が小さなものだとは言えないのは誰の目にも明らかだ。
小沢氏の政策秘書が選挙違反行為を指南との疑惑は、小沢氏自身の道義的責任が問われる問題だ。

もしこれが安倍総理の政策秘書が起こした疑惑ならば、即日即刻、辞任退陣しろとバッシングが起こっているはずだ。皆さんもそう思うでしょう?であるならば、小沢氏においても同様だ。最低でも民主党党主の辞任は避けられない。さらに、それだけでいいのか?という指弾があってしかるべきだが、そんなことをいうマスメディアは、どこも、ない。
マスコミが断言しないことを一般国民が声高に叫ぶことは、まずない。
今の日本人の精神構造は、ここまでいびつに歪んでいる。

議員である前に、人間として失格。
そんな人物が議員になっている。
それが民主党の不祥事の印象だ。

あれほど民主党を持ち上げてきたマスメディアがどのように追及するのか監視しよう。
日本のマスメディアに良識が残っているかどうかのリトマス試験紙だ。
なによりも「与党自民党憎し」で民主党に投票した有権者は、この現状に何と言うのだろうか。
私たちは、こうした不祥事が明るみに出なくても本質が見極められなければならない。

【関連リンク】
「姫井氏に不倫疑惑!交際していた教師が告白「かなりのM」」事件ニュース:イザ!.
姫井氏に不倫報道…また民主新人にスキャンダル
Yahoo!ニュース - 産経新聞 - 小沢氏政策秘書が利害誘導指示、青木愛派選挙違反事件.
livedoor ニュース - さくらパパ反撃 「週刊誌も恐喝に加担」だって!!.

2007.8.27【平和学とは何か 玉井秀樹氏の講義を受講】

今年の夏季大学講座第2日(8月25日)に「平和学とはどのような学問か」というテーマの講座を受講した。
講師は創価大学平和問題研究所の玉井秀樹准教授。
玉井准教授は昨年はじめて夏季大学講座で担当していただき、その講座を受講し非常に勉強になったので、引き続き今年も玉井准教授の講座を受講した。

皆さんは平和学という学問はどういうものだと考えているだろうか。
平和学という学問領域があることをしらない人も少なからずいるのかもしれない。
ましてや平和学の講義を受けたことがある人は一握りではないかと思う。

玉井準教授の講義は、2度の世界大戦の反省から平和学がうまれてきた歴史的経緯、ストックホルムアピール、ラッセルアインシュタイン宣言、戸田城聖原水爆禁止宣言、冷戦からポスト冷戦の中で昇華されてきたピースビルディングの考え、平和構築における重要な出来事があった1979年と1989年、平和構築支援プロセス、今日的課題としての平和構築などを俯瞰し、その根源になる人間性の確立、人間主義の行動準則に至る、様々な実例と相反する理論をわかりやすく紹介しつつ、明瞭な理論を展開。具体的な方策展開の着眼として創価大学創立者である池田大作SGI会長の平和提言に含まれた意義と先見性に注目し、スポンヴィルの人間社会の多層秩序から暴走する秩序を制御する観点からも創価の人間主義、平和主義の重要性を展開されており、素晴らしい内容であった。

国連のあり方について、国連加盟国が戦争を起こした場合の加盟国として行なうと規定されている軍事行動について、ソマリアでの集団的暴力行為、IAEAの日本への疑惑、瓶の蓋論など、重大な事象が次々と起こっている。個々の事象それ自体が衝撃的であるが、個々の事象を断片的にみれば180度違う論理だって主張することさえできる。
総体的に把握し行動を決定する、人間としての良識の重要性を痛感した。

今年の講義を受講して「平和とは何か」という根本問題について大きな気づきがあった。
「平和」の対極になる概念は何か。
多くの人は「戦争」「争い」等と答えるのではないだろうか。
しかし戦争がない状態だけで平和といえるのか。決してそれだけでは平和とはいえない。
このあたりまでの思考は多くの人ができる。
ではどうすれば、どうなれば真に平和になったといえるのだろうか。
その答えに到達するためのひとつの入口が「平和の対極にある概念を定義する」ことになると実感した。

ヨハン・ガルツゥング氏は「平和」の反対概念を「暴力」と定義している。
直接的な暴力を排除するだけではなく、精神的な暴力も、構造的な暴力も、人間が潜在的に持っている可能性を妨げる全ての働きが、すべて暴力なのだ。
平和ではない状況を生み出してしまう主たる要因には病気や貧困がある。

では病気や貧困をなくせばそれで平和になるのか。
なくすだけで、またいつか再発してしまえば非平和状態に落ちていってしまうのではないか。
そうした疑問が、自分の中にあったのも事実だ。
平和の対極は暴力であるという考えを元に再度自分自身の思考を再構築すると、やるべき方策が大きく変わってくる。
病気や貧困をなくすためにワクチンや金銭的支援をすることももちろん重要だが、その状態を発生させない構造構築がより重要なのだ。
そして更に重要なのは、そのような悲しむべき状況が再発したときに、自ら改革する強い意志と行動を持った人間性を醸成することである。

ある意味で、平和の実現とは全人類共通の目標だろう。
私たち一人一人の人生の目標も、ここに基準をあわせて考え直すことでより多くのことが見えてくるのではないだろうか。
平和学は学者のための学問ではない。
私たち庶民一人一人の究極の目的を学問の目で追求した行動的理論構築の試みではないだろうか。
真の平和を考え行動することで、個々人の人生の目標も定まってくる。
そんな感慨を深くもつことができた、真に有意義な受講であった。

平和学の目標や方策アイデアは相当議論されていてやるべきことは明確になっていると言ってもいいかもしれない。誰がみてもやるべきことはわかっている。核兵器はないのがいいに決まっている。戦争がなくなればいいと誰もが思っている。
しかし、わかっていることが実現できない。その壁を乗り越えるのが私たちの使命だ。
講義の中で玉井准教授が訴えていた言葉が、深く心に刺さった。

玉井秀樹准教授!
これからも夏季大学講座で毎年担当いただきたいのはもちろんとして、いろいろな機会で平和について語って下さい!

2007.8.24【第35回夏季大学講座が始まる】

毎年8月に行なわれている第35回創価大学夏季大学講座がはじまった。
今年は24日から26日の3日間開催される。毎年1万人が参加する日本最大の市民講座である。
私は2003年に初めて受講し、今年で5年目となる。
心理学や脳科学、音楽、Webや歴史、文学、法律、バイオ、古典や平和学など多彩なテーマでも知られるようになった。
今年は親子で参加できる科学実験教室も開催される。
鍛えの夏にふさわしい研鑽のひとときにしたい。

〔関連リンク〕
2007年度夏季大学講座
個人的な案内ページ http://www.prosecute.jp/keikan/2007summer.htm

2007.8.16【布滝(のんたき)を歩く】
岡山県阿波村の布滝を訪れた。
布滝と書いて「のんたき」と呼ぶ。岩肌を水が流れる様が布のように見えるからだろうか、実に美しい風景だ。
滝の100mほど手前まで道路が舗装されており、乗用車で入っていける。無料の駐車場とトイレが整備されており、小さな子供がいても充分行ける環境になっている。
私もまもなく3歳になる我が子を連れて登った。
近隣の高齢者が言うには、以前は車が入れる道はなく、反対側の山を越えて尾根伝いに歩いて見に行ったそうである。数年前に発生した土砂崩れの復旧にあわせて、地域住民が憩える場所として整備したのかもしれない。

私の生まれ育った勝央町と比べても5度以上も涼しい。
裸足になって滝の流れに入ってみた。
冷たい。気持ちがいい。
猛暑といわれている日常の暑さを忘れることができた。

地球温暖化対策が叫ばれて、久しい。
色々な対策が提起されているが、私たち庶民ができる対策の考え方として、簡潔にふたつの方向性で考えてみる。
それは
@気温を上げない努力
A気温を下げる努力 だ。

エアコンひとつ取上げてみても、ある程度過ごせる気温になれば昼間の短い時間だけ使って殆ど使わないで一日を送ることもできるが、朝から夜まで30℃を超し昼間は40℃にもなろうかという状況ではエアコンなしで過ごすことは生命の危険にも直結する。
必然的に温暖化が加速されてしまうという悪循環だ。
そこまで我慢してエアコンを使わないとしても、それは「気温を上げない」努力であり、下げることには直接貢献できない。
現在の状況は、気温を上げないと共に、気温を下げる努力が求められている。
わずか数℃とはいえ、自然の力で気温を下げることができれば地球温暖化が失速することは、間違いない。

今年、都市部各地で「ドライミスト」の導入が進んでいる。
微粒子化させた水を空気中に撒布することで気化熱によって周辺の気温を低下させるものだ。微粒子であるので気化が早く、人の肌や衣服が触れるということはない。
こうした技術も大いに導入したい。
我が家では玄関先と中庭、テラスへの打ち水をしている。周辺の気温と反射熱の暑さが確実に低下する。
水の力は偉大だ。

そしてなによりも、水の豊かな自然、緑の豊かな環境を増やしていくことが、地球温暖化を解決する最も有効な方策だと実感した。


2007.8.15【62年目の夏】

62年目の終戦記念日を迎えた。
戦後日本も還暦を過ぎた年齢になった。
ここ数年、個人的な関心もあってピースビルディングについて学ぶ機会を持っている。直訳すると「平和構築」と表現される。
以前に紛争予防と呼ばれていた概念等を中核にして、真の平和とは何かと模索し現実の世界に安心して暮せる社会を実現しようという平和学の中核概念だと理解している。
私の大学時代の同級生が準教授としてこの分野の研究を牽引していることもあって、数年前から継続して学んでいるが、このピースビルディングの思想が今後の地球規模の平和構築の主幹を成していくことは国際的な共通認識である。

平和とは、単に紛争がない、軍備を縮小するという単視眼的な、表面的な事象だけでは実現できるものではないのは自明の理だ。
その大きな要因には貧困の解消、病気の減少、人権問題の解決、水問題を含む環境問題など、生命に直結する諸課題が含まれている。
その現実の運動のオピニオンリーダーは国連だ。
事務総長が交代して、今後の活動がぼやけている印象もあって少し不安材料もあるが、その国連の中で中核的存在として活動しているのが国連公認のNGO団体だ。
私たち日本人はその事実をほとんど知らない。
日本のマスメディアの不勉強のゆえか全く報道されないからであるが、メディア報道に依存し主体的な発想をしない日本人の日常意識にも大きな問題がある。

私たちが目指すべき将来の社会とはどうあるべきか。
そのために、今、自分が何ができるのか。
具体的な一歩を踏み出すきっかけの一日としたい。

2007.8.12【第13回黎明塾『競争への対処』】

8月4日(土)に今月の黎明塾を開催しました。
今回のテーマは「競争への対処」。

端的に言ってしまえば、競合他社が存在しない市場などごく一部の特殊なものだけで、ほとんど全ての企業活動においては競合する自分以外の存在がある。
この競合他社を特定するという視点は、簡単な場合もあるが、そうでもない、つまり特定すること自体に優れた経営感覚を必要とする場合がある。
今回はそうした視点でも論じてみた。
そして、競合他社の分析手法を確認し、インテリジェンスシステムの構築を通して避けるべき競合他者についてもディカッションを行なった。

今回のメインは「競争戦略の設計」にある。
その中でも、特に注目したのはマーケットリーダーの6つの防御戦略と市場シェア拡大の3要素であり、マーケット・チャレンジャーの攻撃戦略の選択である。
これらは実に様々な示唆に富んでいる。
それは、どの企業にあっても常に競合他社の脅威に晒されているからだと私は思う。

そして、そのように競争への対処は重要であるが、顧客志向とのバランスが重要だ。
具体的には現場の経営者は、ポートフォリオ等を活用して、限られた資源をどこに振分けていくのかという経営的課題に日々取り組んでいる。
更に言えば、競争への対処は重要なテーマであり、実践的な方策を数多く提示したが、相対的にだけ捉えてはならないということだ。
「A社よりも優れた商品開発を!」とか「B社の業績を乗り越えよう」「C社に勝ってトップシェアを獲得しよう」というのは目標が具体的で分かりやすい面がある。その一方で自分たち自身の本来の目標を見失う危険がある。
顧客志向とのバランスという表現をしたのは、そのことを端的に表わせるからだ。

相対的な対処と本来の目的の融合。
それが今回のテーマでもある。

【開催内容の概要はこちら】→http://www.prosecute.jp/reimei/013.htm

2007.8.9【社会保険庁のシステム運用にはNTTデータと日立製作所にも責任がある】

年金記録問題の事後処理にあたっている社会保険庁の対応は緩慢で、その作業は遅々として進んでいないことが報道されている。
記録漏れが指摘され社会問題化している5000万件の分析が事実上始まっていない。年金業務・社会保険庁監視等委員会の委員に進捗を質問された村瀬清司社会保険庁長官は、現行システムで通常業務を行いながら分析作業を行うことは支障をきたすと回答している。
その善後策として分析用システムの開発導入を億単位での検討していることが追加の巨額投資ではないかと疑問視されているという報道内容だ。

しかし、分析用システムに追加投資する金額の大小が問題なのだろうか。
現在のシステムの運用には年間1000億円を支出しているという。もちろんその財源は年金保険料だ。
システム導入当初から一度もシステムの再構築をすることもなく遺跡と化したようなCOBOL言語によるシステムで、年間1000億円ものリース料を取っているNTTデータや日立製作所は暴利を貪っているといえないのだろうか。その処理能力、処理速度は、現在の主流システムの1割にも満たないのではないか。
その金額は一日に換算しても2億7000万円以上だ。
10日分で27億円である。
これを暴利といってなにか支障があるだろうか。
分析用だけではなく、メインフレームも含めて、新しいシステム構築をする責任がNTTデータと日立製作所にはあるのではないか。

年金記録問題は社会保険庁の問題だが、社会保険庁だけの問題ではない。
それを取り巻くように、甘い汁を吸い尽くしてきた連中が、必ずいる。
そうでないというのであれば、NTTデータと日立製作所は公式の場で年間1000億円の妥当性と、コンピュータが進化しているにもかかわらず大きなアップグレードをしないまま今までCOBOL言語で運用してきた正当性を主張すべきである。
それが国民の保険料や税金で仕事をする者の絶対的責任である。

【関連ニュース】
社保庁、年金漏れ後始末に巨費…新システム導入に疑問の声

2007.8.7【誰のための人生か】

昨日、それなりの立場にある人物の、ふとした発言に出会った。
事の背景がわからないと理解しにくいので説明が難しいのだが、直接の発言内容は
「やらないといけない目標は早くやってしまって、残りの期間はゆっくりしようよ」
というものだった。
私は非常に違和感を感じた。「それって違うでしょ?」
何人かにその思いを尋ねてみた。
しかし、大半は上記発言をした人物と同様の思考をしていた。
私は、愕然とした。

そもそも人生は自分自身が責任をとるべきものだ。
誰かに言われて嫌々やるものでは、もちろんない。
しかし何故、やりたくないノルマを課せられたかのような発言になってしまうのだろうか。

「何のためにその課題をやるのか」という自分自身への問いかけがないからだ。
「何を目指す人生なのか」という最終的な目的を忘れたからだ。
そして「他人はどうあれ自分自身が選んだ人生だ」という本因妙の決意がないのだ。

私が思っていることは、当たり前に共通認識されているべき事項のはずだ、と思っていた。しかし決してコンセンサスになっていない。
このような姿勢でいる限り、どんな戦いをやっても勝てるはずがないのだ。
敗北するのは必然だったともいえようか。

まずここから、変えていかなくてはならない。
日々の生活の中で、一つ一つの課題が達成できない大きな理由を、みつけた。

2007.7.29【参議院選挙当日を迎える】

いよいよ参院選当日を迎えた。
昨日アップしたブログの反響が思いのほか寄せられている。
やはり著名な人の発言の影響は大きい。

田原総一朗氏の指摘にはいくつかの大きなポイントがある。

(1)今回の選挙の構図は自民vs民主ではなく、政府与党vs三者連合(官僚・反安倍勢力・マスコミ)である。
(2)今回の世論は官僚主導によるクーデターである。
(3)日本には2大政党は成り立っていない。その責任は労組政党になり切れない民主党にある。
(4)それを見抜けない有権者が民主党の風に吹かれている。

選挙当日に至っても「自民はだめだ」「民主に一度やらせてみればいい」というのは、いいように世論操作されている一般大衆そのものである。
相次ぐ閣僚の不祥事は許されるものではない。しかし民主党議員がどうかと言えば、不祥事は自民党の倍以上だ。野党の今でさえそうなのだから政権に入ればさらに倍化するだろう。つまり不祥事は自民党だからではなくて、今の国会議員自体の由々しき問題なのだ。
ウォルター・リップマンは真実を見抜く目の大切さを次のように述べている。
「自分以外の人達の行為を充分に理解するためには、彼ら自身が何を知っていると思っているかを知らなければならない。だとすれば、公正な判断をするためには彼らが自由に使える情報だけではなく、その情報を濾しわけた彼らの知性についても評定しなければならない」

つまり、今回の問題で例えれば年金記録漏れ5000万件の事実を誰が、どこで、いつの時点で把握したのか。その情報をどのような意図を持って開示したのか。それを把握し評定するべきであるということだ。
田原氏や猪瀬直樹氏が指摘しているように、社会保険庁は問題が表面化する1年前の昨年(2006年)6月時点で5000万件という概要を把握していた。その時点で民主党の長妻昭議員が社会保険庁に接触している。しかし社会保険庁は事実を監督官庁の厚生労働省に報告していない。その情報は民主党だけに伝えられた。その事実を民主党が公表したのは今年2月。政府与党は事実確認を社会保険庁に指示するが、その報告がなされたのは、更にその4ケ月後の今年6月になってからだ。
この時系列の事実にいびつな思惑が秘められていることは誰の目にも明らかだろう。
このことひとつとっても、社会保険庁の意図は容易に類推できる。

この情報に飛びついたのが民主党、そして長妻昭議員だ。
この時点で官僚による社会保険庁解体に関連する法案をつぶしにかかるシナリオは出来上がっていたとみてよいだろう。民主党議員はその舞台俳優にさせられただけではないか。

公務員改革関連法案に関しても同様の構図であろう。
それに躍らされた結果が「安倍バッシング」「民主の風」である。
「民主党が政権をとれば政治が10年遅れる」という政治評論家がいるが、10年なんてものではない、と私は思う。
明治維新から連綿と続く官僚政治が息を吹き返すということだ。
問題は民主党がどうのこうのではない。
私たち日本人は、いいかげんに物事の本質を見抜く力を身につけなければならない。

今日は投票日当日。
知性ある投票行動を期待したい。

2007.7.27【やっと語られ始めた、参議院選挙の隠された真実。】

本当の意味での争点が語られないまま、参議院議員選挙は最終盤を迎えている。
私のブログでも何度も繰り返し書いてきたが、悲しいかな私の筆力のなさ、大きな反響を作り出すことはできないでいる。それでも1日1人、2人、3人と直接会って、私の考えを語っている。会って、時間をかけて語れば、まず理解をしてもらうことができる。それはそこに何かしらの真実があるからだと私は思っている。
それが、最も大切で、確実に現状を変えていく直道であることを確信する。

ここにきて、やっと著名なジャーナリスト達が重い口を開き始めた。
中でも田原総一朗氏が日経BPネットに寄稿している連載コラム「田原総一朗の政財界『ここだけの話』」で、先週と今週の2回にわたって鮮やかに描き出している。

7/19付 安倍政権の打倒を企てた官僚たちの二重クーデター
http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/column/tahara/070719_20th/
7/26付 争点なき参院選に絶望した財務省若手官僚からの電話
http://www.nikkeibp.co.jp/style/biz/column/tahara/070726_21th/

なぜ、年金問題と閣僚不祥事追及が巨大な世論と化したのか。
なぜ、マスメディアはこぞって安倍バッシングに狂騒するのか。
今回の選挙で自民党が惨敗、民主党が大勝して、一番得をするのは、誰なのか。

このテーマを、私たち有権者は、今こそ真摯に考えなければならない。
本来の選挙の争点から遠く逸脱した情勢をみて、笑っている奴が間違いなく、いる。

田原氏は言う。
「安倍内閣は、小泉前首相ですらできなかった、いわばタブーである二つの改革をやろうとしている。一つは社会保険庁の解体と民営化。もう一つは、公務員の天下りの改革だ。これまで各省庁の官房長が握っていた天下り斡旋の権限を奪おうというのだ。
これこそが、今、安倍政権が非常に窮地に立たされている最大の原因だと思う。」
そして
「社会保険庁解体と公務員制度改革は、自民党内外からの安倍政権への逆風となっているといえるだろう。だが、この安倍政権への逆風を仕掛けたのはとりも直さず官僚であり、自民党内の反安倍勢力である。そしてそれを煽っているのがマスメディアだ。その壮絶な反撃に安倍政権が苦境に立たされているというのが、参院選を前にした今の状況なのだ。」
「社会保険庁の解体・民営化も、新・人材バンクも、今度の選挙で安倍内閣が負けて安倍首相が退陣したらご破算になる可能性がある。だから、官僚たちは何としても安倍内閣を潰さなくてはならないとその機会を狙っている。さらに自民党内部からも、経世会を中心に、官僚制度を守りたい人たちが『公務員制度改革をして人材バンクのようなものをつくったら、優秀な人材が官僚にならないから反対だ』と、公然と言い始めている。」

その主張内容は決して浮ついたものではないし、うがった見方でもない。
確かなニュースソースと長年政財界を見てきたジャーナリストの確かな目が、そこにある。
そして、こうした視点で現在の情勢を見直すと、民主党という存在は、官僚たちに見えない糸でうまく操られている操り人形でしかない、ということになる。
皆さんは、この視点をどのように感じるだろうか。
私は、田原氏の視点は真実を射抜いていると感じている。
それは、私の庶民感覚が「そうだ」と反応しているからだ。
官僚の旧弊と戦う与党を選ぶのか、官僚の思惑に易々と利用されている民主党を選ぶのか。
さらに、与党といっても自民党と公明党の2つの選択肢が、ある。
本当に目下の課題に真正面から取り組み解決しているのは自民党か、公明党か。
5年、10年、20年そして100年先のビジョンを描き、実行する力があるのは自民党なのか、公明党なのか。
私たちは、今こそ、賢明にならなければならない。
そして、その思いを一票に込めて投票にいかなければならない。
その行動こそが、明日の輝かしき日本を、創る。

【関連リンク】
自・公に逆風止まらず…参院選終盤情勢調査(読売新聞)
内閣支持率微増、参院選は民主優位に変わりなし…読売調査

2007.7.25【参議院議員選挙の争点:年金問題】

参議院議員選挙の投票当日まであと3日となった。
今回の選挙では何を基準に投票行動を決めたらいいのだろうか。
緊迫した日本を取り巻く情勢とは関係なく、マスメディアに扇動される形で終始、年金問題が取りざたされてきた。私個人としては年金制度事態は前回の衆議院選挙を経て一定の方向へ動き出していると見ているので、マスメディアが言うような年金問題は、今回の争点にすべきではないと思うが、誰に聞いてもこの話題が出るので少しだけ触れておこうと思う。

まずは各党がどのような対応をとっているのかマニフェストから見てみよう。
自民党:http://www.jimin.jp/jimin/jimin/2007_seisaku/kouyaku/pdf/kouyaku_01.pdf
民主党:http://www.dpj.or.jp/special/manifesto2007/pdf/manifesto_2007.pdf
公明党:http://www.komei.or.jp/election/sangiin07/policy/jutenseisaku2007.pdf
共産党:http://www.jcp.or.jp/down/bira/07/pdf/200707_seisaku.pdf
社民党:http://www5.sdp.or.jp/central/seisaku/manifesto07s.html
新党日本:http://www.love-nippon.com/manifesto.htm
国民新党:www.kokumin.or.jp(重たくて次が開けないのでトップページのアドレス)

全てにコメントすると冗長になるのでいくつかピックアップしたい。
国民の多くの関心は、政府与党である自民党と公明党の政策と、対抗軸と目されている民主党の政策がどのように違うかという点だろう。
政府与党の政策の重要項目は
(1)年金記録漏れ5000万件の年内調査
(2)ねんきん定期便の発行
(3)事後納付2年(現行)から5年に延長
(4)社会保険庁の解体(非公務員化)
(5)2009年度から国庫負担2分の1へ引上げ(2004年改革で対策が進行中)
(6)年金カードの導入(平成23年度)

一方、民主党案の重点項目は
(1)年金通帳の交付
(2)年金納付データの送付
(3)社会保険庁は国税庁と統合する(歳入省を創設する)
(4)年金制度を一元化する
(5)基礎年金(最低保障年金)として全額税で賄う

政府与党の政策は案ではなく実際に実施されている事項であるので、問題になるのは民主党案が政府与党の政策よりも優れているか劣っているかという判断だ。
民主党案を順に見てみよう。

(1)年金通帳の交付
明細を記録するという趣旨は理解できるが、ねんきん定期便を発行する政府与党の政策と違いはないし、年金カードシステム導入を発表している与党に比べて見劣りがする。

(2)年金納付データの送付
これも政府与党の「ねんきん定期便」とさほど変わりがない。

(3)社会保険庁は国税庁と統合する(歳入省を創設する)
これはよくない。
こんな組織変更をして何の意味があると思っているのだろうか。社会保険料と税金とは似て非なるものだ。社会保険庁の労務管理も今回の年金記録問題の大きな一因であることは明白な事実だ。政府与党の政策では公務員としての資格を消滅させることが大きな目的になっている。国家公務員としての特権を盾にしてサボタージュに近い労働条件を作りこんできた当然の報いであると私は感じている。
民主党案では、当然のこととして社会保険庁職員は公務員としての地位が保障される。どちらが抜本改革をする決意があるのか、明白だ。

(4)年金制度を一元化する
これは従来からの民主党の主張だ。
しかしその詳細はあいかわらず示されていない。大きなものだけでも国民年金、厚生年金、共済年金がある(その他に農林、海運関係などがある)。
そのどの年金制度を基準としてあわせていくのかさえ明示されない。国民年金にあわせれば現在の会社員の支給額は大幅ダウンとなり、厚生年金にあわせるとすれば企業が半額負担している保険料相当額を自営業者の場合は誰が負担するのか。このような根本的な課題くらいは解決案を提示すべきだ。
絵に書いた餅と言われても致し方ない。

(5)基礎年金(最低保障年金)として全額税で賄う
これは複数の視点から矛盾が指摘されている。
まず基礎年金の支給額が明示されていない。前回(衆院選)マニフェストでは月7万円としたが、今回マニフェストでは金額が記載されていない。なぜだろうか。理解に苦しむ。支給水準が示されないと試算自体ができない。
次に、財源には矛盾が露呈している。根拠が曖昧で頻繁に説明が変わっている。
前回マニフェストで民主党は新たに年金目的消費税(+3%)で財源を確保するとしたが、今回はムダをなくし、現行の消費税(5%)全てを年金財源にすることで捻出できるとして年金目的消費税案を撤回。
しかし政府与党から「消費税全部を年金財源にはできない(地方納付分が1%、国庫分から地方交付に充てる金額があるなど)」「民主党が言う年金に必要な金額が7〜8兆円少ない」などの指摘がされると「国民全員が対象」としていた制度案をあっさり変更して「年収1200万円以上の人には支給しない」所得制限を設けると発言。
さらに与党から「1200万円以下にしても全国民の3分の1以上がもらえない計算になる」と指摘されると「年収600万円前後から支給制限を設ける」と新たに発言。まさに泥縄状態だ。
さらに与党から「民主党案の財源であれば年収200万円から支給制限しないと整合性がとれない」と指摘されている。加えて小沢氏は「現在の未納者、未加入者には払わない」という。これでは現行制度と何が違うのか。保険料支払いが税金徴収になるだけで、最低保障と呼べないのではないか。
さらに「従来保険料を払ってきた人との整合性はどうするのか」と指摘された小沢氏は仰天発言をした。現在の制度から基礎年金制度へは40年近くかけて移行するということだ。ではこれから40年間はどうするというのか。
民主党のマニフェストだけを読んでいたら数年後には基礎年金制度が始まるのかと思う有権者も少なくないはずだ。それが自分が生きている間には実現されないかもしれない年齢の人も多い40年後の話...。これでは、小沢民主党は、古い体質の旧態依然とした自民党政治よりも、たちが悪い。民主党が政権をとったら、自民党よりももっと悪くなるんじゃないか、と感じる。

政策を問われると、民主党はほとんど逃げ腰になっている。
マニフェストから民主党の年金案をみてきたが、これでは民主党に政権を任すと誰が言えるだろうか。

その点はさすがにマスメディアも厳しく言わざるをえないのだろう。
「小沢代表は「制度を根本から変えれば大幅な歳出削減が可能」と強調するが、補助金は大半が社会保障や義務教育関連だ。簡単に切るわけにはいくまい」(読売新聞)

「小沢代表率いる民主党の公約も「ハイそうですか」とは言いがたい」(朝日新聞)

「過去の納付の実績が考慮されないとかえって不公平が生じる。民主案にその対応策が用意されているのか、これまでの説明ではわからない」(毎日新聞)

「最低保証年金をいくらにするか、という点について、今回民主党は口を閉ざした。前回衆院選では「7万円」と明確に打ち出していたにもかかわらず、である」(産経新聞)

さてあとは有権者である私達が賢明な行動ができるか、である。

2007.7.23【第28回桂冠塾『世論』(ウォルター・リップマン)】

7月21日に28回目となる桂冠塾(読書会)を開催しました。
今回の本はウォルター・リップマン氏の『世論』です。
《当日の様子など→》http://www.prosecute.jp/keikan/028.htm

実に内容の濃い本。多くの示唆を含み、現実の課題についてのリップマン氏の見解が明確に述べられている。
ただ参加者の中には読解が困難と感じたメンバーもいたとのこと。正確な表現に努めるリップマン氏の文章は制約条件や例外を記述しているケースが多く、必然的に長くなる傾向があるからだと思う。それにもかかわらず、掛川トミ子さんの日本語訳は的確で、1つのセンテンスを2つに分けるなど、読み手の気持ちに立った名訳であるという評価も高い。
読者の一人として感謝申し上げます。
以下、私が感じたなかから少しだけ記述したい。

作品の冒頭にプラトンの『国家』から引用した文章が書かれている。
人間達が地下の洞窟に住んでいる。
首と足を鎖でつながれて前しか見ることができない。もちろん動くこともできない。
背後の高い位置に燃える火があり、その間に道と低い壁があり、その上で器や人形や動物の像を動かしている。前しか見えない人間達は自分達を含めた影しか見ることができない。
そんな彼らが呼んでいる物事の名前は影そのものだと思い込んではいないだろうか。
概要、そんな文章だ。

リップマンが論じようとしている世論はまさに、人は物事そのものを見るのではなく、映しだされた影を見ているようなものだという暗示なのだろうか。この点に注目すると『世論』をより正確な理解に近づけながら読むことができるように思う。
第一章では「外界と頭の中で描く世界」と題して、自分が認識するまわりの出来事(環境)は、様々なフィルターを通して認識されることを論じる。リップマンは、このように頭の中で描かれるイメージ(環境)を擬似環境と呼ぶ。
そして、行為の現場(実際の環境)、人間が思い描くイメージ(擬似環境)、自分自身の行為の三者関係を図式化する。つまり、人は擬似環境に影響されて行為に及ぶが、その行為の結果は擬似環境でなく実際の環境に影響を与えるということだ。

ここに同じものを見て、同じことを聞いても、180度異なる意見を持ち行動をする人間の特質が生まれる要因がある。そして多くの人達はより快適に生きたいがために、できる限り同様の擬似環境を手に入れることを欲する生命傾向を有しているとは言えないだろうか。
そしてこうして形成される複数の人間達の擬似環境こそが、世論と呼んでよいものだと私は感じた。

そしてその思考プロセスをよりわかりやすく展開するために「ステレオタイプ」の概念を提示する。あえて指摘するがステレオタイプそのものは悪ではない。またステレオタイプを全く持たない状態で、日常起こっている多くの物事を認識することは相当困難である。
それぞれのステレオタイプが形成された経緯や目的、そしてその限界を知って用いていく智慧が必要不可欠だということだろう。

この作品には示唆に富んだ文章が次々に並んでいる。
一例を指摘すると、リップマンはこの世代を代表する社会主義の論客であった経験もあり、マルクス主義者や社会主義者の論理的欠陥を世論の観点から端的に指摘をしている。世論は人間性と擬似環境によって生まれる複合物であるとし、環境を整備すればよりよき生き方ができるとしている社会主義、共産主義を一言で切り捨てている。
実に鮮やかだ。

原始的なデモクラシーも同様の視点で批判している。政治家と一般大衆との関係性を述べた箇所は、現在の自民党と民主党の政治手法を髣髴とさせるものだ。その意味では、本人たちが日本の主流だと主張している自民党も民主党も原始的な政治理念しか持っていないということだろう。
詳細は第四部(さまざまな関心)、第五部(共通意志の形成)や第六部(民主主義のイメージ)をお読みいただきたいが、85年も前に切り捨てられた幼稚な政治家に惑わされている私達日本人は、人類規模の政治活動ができないことを大いに反省をし、恥じるべきである。

時は折りしも参議院選挙直前。
TV番組の主張を中心とした党首論争や、結果として見えるだけの政策論争をあおる新聞報道を読んでいたって物事の本質は見えてこない。大切なのは、擬似環境と共に世論を形成するもうひとつの要素である「人間性」を追求することだ。
ここに思いが至れば、より真実に近づくことができる。

人間は誰もが自分達の利益を追求する生き物だ。
それをどのように追及するべきか。これもリップマンのテーマのひとつであった。
私はそれを「自他共の幸福をめざす生命尊厳の哲学」に求めたい。
それを実現するために少しでも近い人たちは誰なのか。
答えは、哲学への先入観という不完全なステレオタイプを打破することができれば、おのずと出されると思うのだが。

一度動き始めた世論を修正することがこれほどに困難なことなのか。
私たちは未来のために、今回の経験を絶対に忘れてはならない。

世論は未来のものであるとリップマンは訴えている。
そして、批判者や擁護者、報告者はすべて過去のものであると断言している。
私たちは過去の人になる必要はない。
自他共の幸福こそが真の意味での自分達の利益であるはずだ。
未来のために世論を創出させる責任が、私達には、ある。

【当日の様子など→】http://www.prosecute.jp/keikan/028.htm
【関連リンク】ウォルター・リップマン(Wikipedia)

2007.7.19【民主党が政府広報を選挙違反で告発?】

民主党幹事長の鳩山由紀夫氏は本日19日談話を発表し、19日付朝刊に折り込まれた政府広報(あしたのニッポン平成19年7月 第2号)の年金問題に関する掲載内容が与党の主張そのものであるとして、安倍内閣を公職選挙法違反の容疑で告発する準備に入ったとしている。
「究極の選挙違反」=政府広報で告発準備−民主

何でも政府与党と対立させるのが民主党のスタンスだが、ここまでくると「何を言っているだか」という感じだ。
与党の主張そのものって言うが、政府与党なんだから一緒で当たり前だ。
鳩山さん、「選挙期間に入ったら年金記録漏れ問題の対策をするな」っていうこと?
選挙期間中だろうが目下の課題に取り組むのが現職政治家の使命だと私は思う。
それとも民主党が政権をとったら、緊急課題があっても選挙期間中は広報はしないの?
立法府をあずかるべき国会議員なら、公職選挙法をもう一度よく勉強してほしい。
政治活動と選挙活動の違いくらいはわかってほしいものだ。
門前払いされても「国家権力の横暴だ」なんて寝言を言わないでね。
民主党の感覚がおかしいだけなのだから。

社保庁解体阻止から始まった今回の年金記録漏れ問題の追及。
高速道路無料化の公約。
児童手当に反対して子供手当なる名称だけ違う手当の主張。
財源も確保できず地方財源を考慮できていない基礎年金民主党案。
いつのまにか政策立案すらやらなくなったシャドーキャビネット...。
どこかの学生が思いつきのサークル活動で出してくるような政策案ばかりで政権担当能力はないのは関係者の間では周知の事実。くわえて自分達が政権を担当する時の状況すら想定できないようでは「もう民主党いらないんじゃない?」といいたくなる。

日本の有権者も民主党に甘すぎる。
同じ愚行を安倍自民党がやらかしたら、バッシングの嵐。参議院選挙は歴史的な大惨敗まちがいなしだ。
同じことをやっているのに、民主党なら見て見ぬふりをする有権者の見識のなさ。
女性は子供を生む機械発言は柳沢氏だけでなく、菅直人もやっている。
事務所費を問題にするのなら、小沢一郎氏の不動産購入は問題でないのか?
しかし国民は民主党には批判を加えようとしない。
こうした事実は、枚挙に暇がない。
民主党に一票を投じようとしている有権者は、民主党の私利私欲のためにうまいように利用されている一面があることを気づくべきだ。
いいかげんに民主党に目を覚まさせてあげたほうがいい。

【関連リンク】
政府広報オンライン(あしたのニッポン)
東京都選挙管理委員会(選挙Q&A)

2007.7.18【参議院選挙に関心がある 78%】

今月14日から16日に読売新聞社が行なった全国世論調査が報道されている。

調査期間:2007年7月14日(土)〜16日(月・祝)
調査方法:電話によるインタビュー調査
対象者:全国の有権者がいる世帯66,873件
サンプル抽出方法:不明(報道内容に見当たらず)
回答者:41,735人(回答率62.4%)
報道内容はこちら→ 与党過半数割れも、民主第1党の勢い…参院選・読売調査

質問項目は以下の4点
1)今回の参院選挙に関心があるか
2)投票に行くかどうか
3)安倍政権を支持するか
4)どの政党を支持しているか
とされているが、紙面での読売新聞を読むと、比例区と選挙区それぞれで、どの政党候補に投票するかを聞いている模様だ。
したがって設問数は6問と思われる。

私が注目したのは2つの点だ。
まず、選挙への関心があると回答した人が78%(大いにある52.5% 多少はある25.5%)、投票に必ず行くと回答した人が69.7%であり、従来の調査結果に比べても格段に高いこと。
もうひとつは政党支持率。全体では自民党27.5%、民主党25.7%であり、やや自民党が多い程度の拮抗状態であるが、実際にどこに投票するかを問われた結果は民主党が優位に立っている点だ。

読売新聞では上記の結果を元に選挙区毎の当選者と比例区での獲得議席数を予測している(※これは電話番号の市外局番から集計したことが推察されるが、本来の個人情報の考えから判断すると今後は問題視されるかもしれない)。
その結果予測は民主党の圧勝であり、「民主党第一党をうかがう勢い」となっている。

あながち実態と大きく違っていないと、私は思う。
昨今感じている風潮から判断しても、現在の有権者は民主党へ投票する公算が高いと思うからだ。
ただし、なぜ民主党が支持されるのか、その理由は調査では質問していない。
有権者が知りたいのは、その点ではないだろうか。
また候補を擁立している各政党も理由を知るべきだと思う。
現代社会は複雑な問題が多岐にわたって存在している。
それら多くの課題を目の前にして、何もかも含めて一人の候補者に投票するのが選挙の実態だ。なぜその候補を選ぶのかは個々の有権者に聞かないと当落結果だけでは、わからない。
何を重視している有権者がもっとも多く、次いで問題と考えているのが多いのは何か。
そうした分析なくして当選結果だけで「信任された」というのは乱暴すぎないかと思うのは私だけではないと思う。

逆説的にいえば私たち有権者は、どのような理由で投票行動を決定するのかを熟考しなければならない。繰り返しになるが、現代社会の問題は複雑多岐にわたる。それを「白か黒か」という二者択一を迫るような選挙をしているのは日本くらいである。そのことに疑問に感じない有権者が多いことに、その病根は深いと感じる。
何度も主張してきたが、いまごろ2大政党なんて言っている先進国は日本だけだろう。議会先進国のイギリスは第3極、第4極が有権者の支持を受け、多彩な国民意識を代表している。今も2大政党政治をやっているのはアメリカだ。そのアメリカの現実と未来はどうなのか。おして知るべしと言いたい。
それでもアメリカでの2党間には、それなりの政治志向の違いがある。しかし日本はどうなのか。政治理念の違いのない自民党と民主党が政権争いをやっているだけだ。
一昔の自民党内の自民党総裁の椅子を奪い合う派閥争いと何の違いがあるというのだろう。

選挙は政権争奪ゲームではない。
年金問題をはじめ、プライマリーバランス、納税制度、外交政策、医療問題、教育問題、少子高齢化対策、環境問題、等々。どれひとつ取上げても猶予なき緊急課題が山積している。
政治家達の余禄の場ではないのだ。
中学生でも考えられるような政策案を出してくるような政党はいらない。
実現のために汗と智慧を搾り出していないから、素人でもわかるような矛盾だらけのマニフェストがばら撒かれるのだ。

本当に日本と世界の現実と未来のために政策を作り出し、実現していけるのは誰なのか。どの政党なのか。
今一度、先入観に囚われずに、真摯に語り合う時ではないだろうか。

2007.7.12【参議院選挙が公示】

参議院議員選挙が7月29日(日)の投開票日に向けて公示された。
参議院は任期6年。3年をずらして定数の半分ずつを改選する制度だ。
今回の改選議席数は121。
有権者は何を基準に投票行動を決するべきなのだろうか。

毎日新聞社説:参院選公示 針路を決めるのは有権者だ
読売新聞社説:党首討論会 やっと年金制度論に踏み込んだ
朝日新聞社説:参院選公示―「安倍政治」への審判だ

各紙それぞれ書いているだろうが、いずれも表面的な事象、結果に終始しているようにしか、私には思えない。
毎日新聞は社説タイトルは勇ましいが、内容は年金記録漏れ問題と憲法論議について触れているのみ。冒頭に「年金問題や政治とカネ、憲法改正、消費税率の引き上げ、教育改革、格差問題、地方分権」と浮上している問題を列挙して主な論点が出揃ったという書いているあたりは、思想のなさの現われだろう。
読売新聞は年金制度が今回の論点だと思っているのだろうか。記録漏れ問題を一蹴しているあたりは毎日よりもまだましかという程度だ。
朝日新聞に至っては「年金不信、閣僚スキャンダル、失言問題」を「逆風3点セット」と呼び、安倍政権の審判だと庶民感覚からはおやじギャグのような肌寒さすら感じる始末だ。

年金問題と言いつつ、記録漏れ問題にばかり目が囚われているのが実態だ。民主党が出している年金制度案は前回の衆議院選挙で、すでにその欠陥を指摘されているものであって、財源が確保されていないことをはじめ制度上の矛盾点が指摘されているものである。衆議院選挙以降に現状の年金制度についての新たな問題点が浮上しているのならともかく、負担増に対する不満のみで現在のような世論になっているのだとしたら、国民の身勝手だといえまいか。
憲法論議は賛否が分かれる諸問題まで検討が進んでいるとは言えない。民主党においては党内に改憲派と護憲派の180度異なる主張のグループが対立しており、党としての見解表明を結党以来先延ばししている。いずれにしろ今回の選挙の論点にはできないだろう。
事務所費問題や諸閣僚の問題発言は、本質的な問題ではもちろんない。与野党を問わず、全ての政治家が社会的問題を起こしているのが現実なのだ。「安倍政権の審判」などというマスメディアは、事実認識がいいかげんでいかにも思想がない。
消費税問題については税制度全体の中で見直していくべき問題だ。プライマリーバランスの視点も重要であるし、それよりもまず日本という国が大きな国家保証を目指すのか、小さな政府を目指すかの議論と国民的合意がなければ、5%がいいとか8%にすべきだとか目先の数字を云々する問題ではない。

ざっと俯瞰するだけも、今回の選挙においてのメディア報道は投票行動を決すべき論点を何も指摘していないし、各政党もその点を世論に訴えることができていない。
これは政党側の問題も大きい。
ひとつは第二勢力と思われている民主党が、第2軸になりえていないことに大きく起因している。日本の政治の舵をとってきた自民党への不信感が限界に達しているのは間違いのない庶民の実感だろう。しかし政権を担う能力と政治理念が民主党にあるかどうかだ。

ここで私たちは冷静に考えなければならない。
現在の絶望しそうなほどの政治の閉塞感は、自民党のせいで起きたことかどうかという点だ。今は選挙直前に、社会保険庁を解体しようとする政府与党案を阻止しようとした、野党の支持勢力が仕掛けたと思われる年金記録漏れ問題の表面化で、国民が冷静な判断能力を失った一種の興奮状態が続いている。そこに根絶することのない不透明な政治資金問題が突発地震のように火を噴き出す。世論は「政府、与党憎し」で制御不能になりつつある。
しかし、制御不能となっていた社会保険庁の実態を把握していたがゆえに、政府与党は社会保険庁改革法案を提出したのであり、不祥事が続いているのは、むしろ民主党であることを有権者なら少し前まではよく覚えていたはずだ。
つまり、いま政府与党攻撃の材料となっている出来事のすべては、自民党、民主党を問わず現在の国会議員全体に病根があるのだ。その点を突き詰めることなくして、自民党がいいとか民主党がいいとか言っていても根本的解決にはならない。

あえていえば、もし仮に野党勢力が過半数をとって民主党を軸にした政府与党が誕生しても、不祥事はなくならないだろう。政策も大きな変更もないはずだ。そのことは民主党議員が一番よく知っている。経験がない分だけ、権力の甘い誘惑に負けて明治政府のときのような私利私欲が横行する危険が増すだけである。その兆候はすでに現れている。

しかしこのまま自民党に今の政治を続けていかせるわけには、もちろんいかない。
私たち有権者は、非常に困難な、しかし限りなく重要な政治判断を迫られている。
今回の参議院選挙は、末期的症状を呈し始めた日本の政治に残された選択肢を、予断なく、賢明に選び取っていくことが求められていると私は思うのだが、皆さんはどのように感じるだろうか。

2007.7.9【納税の主体者との意識に欠けた消費税論議】

安倍首相が「消費税を上げないといっていない」と発言したことから消費税問題が急浮上してきている。
日曜の各局の報道番組で各党首の発言を聞いたが、党首の中に消費税問題を他人事として考えている輩がいるのではないか、と感じた。

それは「消費税を上げるのか上げないのか、今すぐ明言せよ」といった稚拙な発言に象徴されている。また国民の中にも同様の風潮がある。
Webで様々な報道をみたが、唯一ロイターだけが予見を交えずに事実を伝えているように感じた。
詳細はこちら→ 消費税を上げなくて済む可能性はある=安倍首相(ロイター)

番組内で安倍首相が繰り返し主張していたのは、ここ1,2年の経済成長をみていると景気回復に伴って大きく税収が増えている、歳出削減の独力も1兆円単位で成果が出てきているので、こうした状況が続くとすれば新たな増税をしなくても年金財源等を確保することができる。しかしそれが困難な場合は消費税の見直しに着手することもありうる、という主張だ。
私は個人的には、経済的、税政的観点から見てごく自然な主張だと思う。
こうした発言を目の前で聞いていながら「上げるのか今明言せよ」とは、理屈のわからない愚昧な輩かと思う。消費税を上げたくないと主張するのであれば、自然と税収が増えるよう努力をすればいいのだとは思わないのだろうか。
「消費税増税は何が何でも反対」としか言わない、一部の国民も同様だ。
自分自身が日本国の当事者で、自身が利益を出して、所得を増やして、結果的に納税することで消費税の税率アップをなくすことができると思いもしないのではないか。

公明党の大田昭宏代表が発言した言葉は、その点を明らかにしている。
「この景気回復と歳出削減が続けば消費税を上げないで済む可能性が出てきている」
「私はその(消費税を上げない)可能性のほうがずっと高いと思っている」

各党首が、この日本をよくしていこうと思っている当事者であるとすれば、太田代表の発言を聞いて気がつくはずだ。
日本人ひとり一人がもっと元気になって経済成長を続けよう。
そう、私たち庶民が元気に働いて、もっと納税ができるようになれば消費税を上げる必要がないと安倍首相も大田代表も言っているし、多くの経営者や有識者も同様に認めている経済論理なのだ。

それぞれの党首が、そして国民の一人一人が主体者であるならば、「消費税を上げさせない!」とか「大企業が利益を貪っている」とか能書きばかり言っていないで、まず自らが汗を流して元気に働いて、より立派に納税をしてほしい。

【関連リンク】
消費税を上げなくて済む可能性はある=安倍首相(ロイター)
安倍首相の消費税アップ発言に猛反発(スポーツ報知)
消費税税率引き上げで論争 7党首出演のテレビ番組(毎日)

2007.7.8【なぜ冷静になれない?赤木農水相 事務所費問題報道に疑問】

この週末は赤城徳彦農水相の事務所費問題がテレビの報道番組で加熱している。7党首が揃った各局の番組でも放映時間の1/3から半分近く占めていただろうか。

赤木議員の政治資金管理団体が、両親が住む自宅を「主たる事務所」と届けながら10年間で約9000万円の事務所費が収支報告書に記載されていることが問題とされている。加えてその両親がTV局のインタビューに「ここは自宅で住居」であることを答えているシーンが虚偽記載の証拠のひとつとして放映されている。

報道番組で野党党首は「赤木農水相罷免」「安倍首相の任免権者責任」で一致して追及していた。タレント等のコメンテータを並べた番組でも一様に「赤木農相辞めろ」を声高に叫んでいた。
しかし、本当に赤木農相の事務所費は違法なものだろうか。
また、適法であっても国民感覚として人道的に許されないのならば問題とすべきだが、そうした性質のものだろうか。

今回の赤城氏の事務所費には問題とされる部分はないと私は見ている。
あえて言うが私は赤城氏を援護する立場では、もちろんない。
あくまで第三者の視点からみていて、今回の報道のあり方はおかしいと感じるのだ。

公表された金額は、1年平均でみれば900万円である。
資金管理団体の収支報告書には「主たる事務所」に加えて「従たる事務所」の各経費も計上することになっている。他に事務所がないのではない。数年前から水戸に事務所を構えている状況を判断すれば決して不明瞭な金額とはいえないはずだ。地域の坪当たり単価の相場を考えれば、普通に想像できる出費ではないか。
10年前と言えば中選挙区時代だ。事務所も複数開設していた議員が大半だった。赤木議員もそうなら、数名の事務員を雇っているはずで年2000万円以上かかっていてもおかしくない(そうであればこれだけで3〜4年で9000万円になるだろう)。その後、小選挙区制になり、徐々に事務員と事務所を整理していったのだと思う。
そうした時代背景を考えれば、事実関係の確認の仕方も今のような一方的な犯罪追及のようなトーンにはならないのではないか。
「主たる事務所」についても、祖父の時代から自宅を主たる事務所としてきたと赤木氏は当初から説明していた。地方を地盤とする代議士は、今は機能していなくとも伝統ある、いわば創業の地に主事務所を置いてほしいという地元支援者の声に応えて、代々の実家を届けているケースは他でも知っている。民主党議員でもあるのではないか。一般企業においても、創業の地に登記上の本店住所を置いたままというケースは意外と多くある。
自宅が事務所の一点をもって不正があると決め付けるのは、明らかな暴論だ。

日頃からファッショ的な危険性を政府権力側に警告を発しているのがマスメディアであり、野党勢力のはずだ。
ところが、今回の赤城氏の事務諸問題の取上げ方に限って言えば、マスメディアも野党も、最初から犯罪者扱いをしている。事実関係を精査すれば自ずから判明する事例だ。
事実を正視しようとしないでマスメディアで非難の言葉を流し続ける。
これはマスメディアによる言論統制であり、世論操作ではないのか。

一部の報道番組の取材キャスターは事務所費に問題がないことを気づいているようだ。番組内で次のような趣旨の発言をしている。
「問題がないといえばないのかも知れないが、事務所問題で自殺した松岡大臣の後任だから、少しでも疑わしいと思われることがあれば大臣にするべきではない」
「本人(赤木氏)が説明するならわかるが、安倍首相がそこまで代弁する必要があるのか。」
この発言は馬脚を現している。
通常ならば問題になるようなケースではない、理屈としてはわかる、といっているようなものだ。要は「安倍政権の汚点にすべし」との結論がまずありきの追及報道なのではないか。
賢明な視聴者であれば、野党党首たちが言っていることに道理があるのか、安倍首相が言っていることが正しいのか、自ずとわかってくるはずだ。松岡氏の時とはあきらかに違うケースだと冷静に判断できるはずの事例である。

赤城氏は、より詳しい書類等を精査して国民の疑問に答えなければならない。
これが言われなき冤罪疑惑であれば、なおさらだ。
それが公人たる者の宿命である。

そして、このままこのような報道や野党の追及が続くような事態は早急にやめさせなければならない。
これは明らかな言論の暴力であり、マスメディアの自殺行為である。

20世紀を代表するアメリカのジャーナリストであるウォルター・リップマンは著作の中で、我々(民衆)が物事を正しく認識する困難さを指摘し、いかに世論操作を受けやすいかを描き出している。
「自分以外の人達の行為を充分に理解するためには、彼ら自身が何を知っていると思っているかを知らなければならない。」

報道番組での野党党首やタレント等の発言を聞いていて、憂鬱になった。
これは、大人社会のいじめではないのか。
私たち一人一人が、マスメディア報道や先入観に囚われることなく、自らの確固たる判断基準をもって、自分自身の責任で物事を判断できる賢明な庶民でありたい。

【関連リンク】
またも閣僚に疑惑…いらだつ首相…赤城農水相、実体ない事務所費計上か
与野党党首、農相事務所費問題などで論戦
赤城農水相事務所費問題 茨城県連幹部「ダメージが大き過ぎる」
農水相罷免、首相は改めて拒否=公明代表「違法でない」、野党は反発

2007.7.7【第12回黎明塾『ビジネス市場と企業の購買行動』】

7月7日14時より第12回黎明塾を開催しました。
今回のテーマは「ビジネス市場と企業の購買行動」。
消費者市場とは別の市場としてビジネス市場を考えることがありますが、本然的には同一の市場原理が働いているのだと私は考えています。
把握しにくい衝動的要素が入りやすい消費者行動に比較して、ビジネス市場における購買行動は理論的に把握しやすい形で発現されることが多いように感じます。
言い換えれば、ビジネス市場を正確に把握する視点を持つことによって、目の前の消費者市場をより適確に把握し対処することができると言えるのではないかと思います。

一例をあげれば、ビジネス市場を把握する中核理論のひとつに「相互利益の最大化」が挙げられますが、これは本来的にどのような市場にあっても重要視されるべき考え方です。
しかし、現実のビジネスにおいては、自らの利益の最大化のみが追求され、数々の不祥事が引き起こされているのが現実の社会です。
昨今の企業の不祥事を事例に、ビジネス市場の購買行動の重要性を考察することは、現代の要請でもあるように感じます。

【主な課題等はこちら→】http://www.prosecute.jp/reimei/012.htm

2007.7.6【TS認定の幼児用浮輪で死亡事故】

国民生活センターの発表によるとST認定を受けている浴槽用浮き輪による幼児死亡事故が発生している。浮き輪というと、胴体を入れてわきの下で両腕でおさえる形を思い浮かべる人が多いと思うが、今回問題となっている玩具は仕様状態が大きく異なるらしい。

報道によると「ビニール製の四角形が多く、ずれ落ちないようにパンツ型のシートが付いている。足を通し、座った状態で浮かせて使う」という。つまり、四角い空気が入った座布団のような形状のものに両足が入れられる穴がふたつ空いていて、そこに両足を通してお湯の上に座って楽しむ形になっている。

これではバランスを崩してお湯の中に頭を突っ込んでしまったら、足をはずすことができずに水中から頭を出すことができない。
助けを求める声を出すことすらできない。死んでいった子供は、声を上げようとして大量のお湯を飲みながら、どんなに苦しく、どんなに心ぼそい状態で、ひとりぼっちで死んでいったのかと思うと、激しく心が締め付けられる。

転倒して発見してもらえなかったら、100%確実におぼれる。
なぜこのような玩具が必要なのか。
どういう感覚でメーカーはこの玩具を製作したのか。
またどのような基準でST認定が出されているのか。
再発防止のための万全の方策を打たれることを切に望みたい。

【関連リンク】
入浴用の浮輪で乳児が水死
国民生活センター
STマークについて

2007.7.5【仮面ライダー新作 PG-12指定】

仮面ライダーシリーズの最新作『仮面ライダー THE NEXT』(10月27日公開)がPG-12指定を受けた。
子供向けヒーローものでは前代未聞という。私もびっくりした。

監督の田崎竜太氏の次のようなコメントがニュース記事に掲載されている。
「真剣に描く場合、ショッカーのバイオレンス性が出てくる。
 そのバイオレンス性を押して、逃げずに描写したらPG-12に踏み込んだ。
 新たな世界が広がるのでは? と思い、恐れずにいった」

確かにPG指定の基準や是非についての議論もあるだろうが、田崎氏のコメントには未来を担う子供たちを思う温かみや思想理念を、全く感じない。
田崎氏は、暴力についてどのように考えているのだろうか?
「真剣に描くとバイオレンス性(暴力性という意味だろう)が出てくる」とはいったいどういう思考なのだろうか。暴力を直裁的に描かないと正義のヒーローが表現できないということだろうか。もしそうであれば、実に貧困な精神性だといわざるを得ない。

私はまもなく3歳になる子供がいるので、子供向けの番組やビデオDVDをみる機会がある。なぜここで出てこないといけないのかと感じる、暴力シーンや戦闘シーンが派手に描かれていることが、実に多い。
その多くは色鮮やかな爆発シーンと効果音と組み合わされて、子供たちは自然と興味が惹きつけられる。
そうした効果のなかで、他人を殴ったり、切りつけたりすることに抵抗感を感じなくなってしまうのではと心配になるのは、私だけでないと思う。

私たちが幼かった頃。
もちろんすでにヒーロー達がいた。
悪者も多く、いた。
しかし、彼らが退治されるシーンは暴力シーンと一緒には極力描かれないことが多かったように思われる。
丘の向こう側で爆死したり、泡のように消えていったり...。
時代劇でもみね打ちを多用するなど、殺人に直結するシーンはできる限り描かない傾向がこれからの時代の要請だと思う。

今後の子供向け作品がどうあるべきか。
議論が活発になることを望みたい。

【関連リンク】
“子供に不適切”な最新版『仮面ライダー』が発表
PG-12とは - はてなダイアリー
映画のレイティングシステム - Wikipedia

2007.7.4【久間氏の「しょうがない」発言は何か】

防衛庁長官の久間氏の原爆投下をめぐる「しょうがない」発言は、久間防衛庁長官辞任という形で幕引きが図られた。
後任には安全保障担当補佐官として、安全保障政策に関与してきた小池百合子氏が就任した。

今回の問題発言の背景には様々な要因がある。
その中で、2点について指摘しておきたい。
ひとつは、日本における歴史認識の問題。
もうひとつは、「しょうがない」という言葉が多発される日本の国民性だ。

総体的に、日本人は歴史認識ができてないと私は感じている。
それは、より広い視野で物事を見ること、その物事の現象と原因という因果関係を突き詰めて検証するという思考訓練がなされていないことに起因するのではないだろうか。
今回のケースでいえば、アメリカによる原爆投下が日本における戦争終結にどのように影響したのかという点だ。当事者であるアメリカ側は、自己正当化という論理も働くので彼らの論理をそのまま受入れるという性質のものではない。
ソ連の参戦という問題も大きく影響しているのは当時の文献等が明らかになるにつれて、ほぼ歴史的評価が固まりつつある。ソ連参戦によって日本軍部は戦争終結に動き始めていたことを裏付けるものだ。
また戦後におけるソ連の発言力拡大を危惧したアメリカが原爆投下によって終戦時期を早めようとしたという指摘にも裏付資料が明らかになっている。
もちろん反証も出されている。
こうした相反する歴史的証拠を検証する努力が軽視されてきたのが現在の閣僚発言の一因にあると、私は思う。

そして同じくらい問題なのが「しょうがない」という言葉を多用してしまう国民性だ。
「しょうがない」とは「仕方がない」「仕様(やりよう)がない」が変化した言葉であるが、本来の意味からすれば、打つべき手を打ち尽くして、これ以上講じることができる方策がない、という状況の時に使うべき言葉ではないのか。
ところが、日本人は安易に「しょうがない」という言葉を多用する。
私の回りでも、実によく耳にする。
本当に打つべき手がない状況なのか。
この安易な言葉を使うとき、その人は早々と努力することを放棄していないか。
言葉の持つ意味は重い。
そして言葉は、それを聞く人によって微妙に受け止め方が違うのも現実だ。
真意を伝えたいと思うのならば、ひとつの言葉にできる限りの思いを込めて語ることが求められていると、私は思うのだが皆さんはどのように感じるだろうか。

【関連リンク】
<小池防衛相>就任へ抱負「言葉は選びたい」
久間防衛相辞任、原爆発言で引責 後任に小池補佐官
原爆投下の正当性、米核不拡散担当特使が強調

2007.7.2【これで調査レポートと言えるの(^_^;)?】

Yahoo!のニュースで、ある調査レポートのタイトルに目が止まった。
そのタイトルは「シニア向けサイト」を利用しない理由は「自分はまだシニアではない」
japan.internet.comのデイリーレポートとあるので、本文を読んでみると...

・・・インターネットコム株式会社JR 東海エクスプレスリサーチが行った「シニア向けサイト」に関する調査によると、「シニア向けサイト」を利用したことがないユーザーは全体の9割近くで、その理由の最多は「自分はまだシニアではない」だった。

へぇ〜そうなんだ。自分はまだ若いって思っている人が多いのかなぁ。
各人、シニアって何歳くらいからがそうだと思うんだろう?と思いながら次のセンテンスを読みすすめると...

・・・調査対象は、全国の40歳以上の男女330人。
・・・年齢別では、40代53.0%、50代27.9%、60代14.5%、70歳以上4.5%。
・・・全体330人のうち、いわゆる「シニア向けサイト」を利用したことのあるユーザーは12.1%(40人)。
・・・「シニア向けサイト」を利用したことがないユーザー87.9%(290人)に対して、利用しない理由を聞いてみたところ、最多は「自分はまだシニアではない」(146人)だった。

なるほど〜。この146人を年齢別にセグメントして高齢者層の回答結果からコメントしたんだろうな、と思ったら、次を読んで驚いた。

・・・アンケート回答者の大半が40代であるため、このような回答が多くなったのかもしれない。

ええっ?なんですかこのコメントは?
こんな個人的な感想を述べてどうするんだ?ってつっくみたくなる。
年齢別にクロス集計をせずして、何のための調査なのか。
これでは年代別に属性を尋ねている意味がないではないか。
初歩も初歩。リサーチに携わった初心者でさえ行なう、最低限の集計とコメント作業すらやっていないのだろうか。
こんなレポートが堂々とネットで公開されているようだから、リサーチを正しく理解できない消費者や経営者が後を絶たないのだろう。
関係者には大いに反省と勉強をしてもらいたいと願うばかりである。

【関連リンク】
「シニア向けサイト」を利用しない理由は「自分はまだシニアではない」

2007.6.24【第27回桂冠塾『青い空』(海老沢泰久)】

昨日6月23日(土)に第27回目の桂冠塾(読書会)を開催しました。
今回の本は『青い空』(海老沢泰久著)です。
当日は真夏を思わせるような暑い日。
いつもよりも少ない、4名での開催となりました。

著者の海老沢氏の創作意図は何か。
海老沢氏はあとがきで次のように述べている。
「日本人と宗教の問題については、国学院大学に学び、折口信夫の学問に長く触れてきたこともあって、学生のころからあれこれと考えてきた」
このことからもわかるように、日本人と宗教の問題を問うことが本書のメインテーマであることは明白だ。

この点について、どのような問題点が提起され、著者独自の視点によってどのような結論なり方向性が示せているのかを読み解いていくことが、まずは必要な論点だと私は思う。
そのうえで、伏線としても用意されているそのほかの複数の論点を整理し、読み進めるのがよいのではないかと思う作品である。その意味では、参加者が少ないうえに「読了」「冒頭の章のみを読んだ」「全く未読」とバラついていたのは、かなり難しさがあったのも事実だが、それよりも、宗教というカテゴリに関して考えること自体に経験が乏しいという障壁が大きかった。

作品としての目的を達成しているかといえば、不充分と私は思う。
日本人の信仰と宗教の問題に肉薄しているとは、なかなか言い難い。
端的に評するなら、日本人における宗教思想史としての小説というのが、より適切だと感じる。なぜ信仰と宗教の問題に迫っていると感じないのかを、私なりに再度念頭に置きながら読み返してみた。

「人間にとって宗教とは何か」
「自身にとって信仰とはどのような意味を持つのか」
そのような本源的な追求がないためではないだろうか。

しかし本書が取り組んだテーマを読みやすい形で表わした意義は決して小さくない。
多くの人が『青い空』を読み、どのように感じたのか。
それをお互いに語り合うことも、意義のあることだと思う。
今回の桂冠塾でも、その点に大いに期待したのだが...。
参加者の思考が思いのほか深化しなかったのが、主宰者として少なからずの反省と不満足であった。

《当日の様子、少し違う観点でのコメントはこちら↓》
http://www.prosecute.jp/keikan/027.htm

2007.6.23【人の誠意とは】
最近、人の誠意ということについて頻繁に感じることがある。
昔からよく言われていることであるが、自身が大変なときにどのように振舞うのかで、その人の本当の誠意、真価がわかるものだ。
平常時には、多くの人が周囲を充分観察をすることができ、ほとんどの人が回りへの気配りもできる。自分自身に余裕があることが大きな要因のひとつだろう。

ひとつのことが行なわれていくには、表面に現れた現象以外に目に見えない努力の積み重ねがあるものだ。
そうした陰の努力に気づくかどうか、また気づいたとしてもその努力に誠意をもって応えようとするかどうか。
そうしたひとつひとつの積み重ねが人生を決するのだと私は思う。

重要なのは、いざという時だ。「まことの時」と言い換えてもいい。
自身も苦しいときに、どのように行動することができるのか。
自分のことだけしかみえない、配慮のない、利己的な行動となっていないか。
他山の石として自身を省みながら、常に自己練磨の日々でありたい。

2007.6.21【革新という幻想に打ち勝て。】
近年、Webでの情報発信、個人の主張が豊富になってきた。
その中で、非常に興味深く感じることがある。
それは同じ事象を見聞していても、180度違う見解がその人の当然の見解として述べられている事実だ。
個々人の意見の違い自体は、Webが進化する以前から存在していたわけだが、現在の状況はかなり違う様相を呈している。

その一面を指摘すると、思考の前後関係がわからないまま、唐突に単発的なコメントが散乱する現象がある。
リアルな付き合いであれば「なぜそのような発言になったのか」その人となりや経験から推測もできるし意見交換もできる。また書籍等で意見を展開する場合では、それなりの論理的な手順を踏んで思考段階を説明していたように思う。
しかし、現在のSNSやブログでは短く書くことがスマートで読みやすいという風潮があり、結論のみを書く人が極めて多い。
その結果、前後の脈絡は全く不明で、一見すると独善的な断定口調の文章が飛び交っているのではないかと、私は思うのである。

たとえば、いま旬の話題のひとつは参院選だ。
匿名での公開が多いブログでは、現状の政治への批判ばかりが目につく。
批判ばかりしていても何も生産的な行動は生まれてこないのだが、自分が政治家になろうという人以外は「そんなこと知ったことではない」となるのが大半だろう。
批判されるのは常に体制側であり、保守と呼ばれてきた。
批判する側は革新派と呼ばれて、体制批判することが役割のようになってきた。
体制側を支配層と位置づけて、支配層対非支配層の対立を煽ってきたのが従来型の政治構図でもある。
日本には歴史的にも政治が庶民に身近だったことがなく、反体制的な思想が充満してきた。これは今はじまったことではなく、少し前なら全学連、全共闘が跋扈していた60年代の学生闘争があり、さらに前には明治維新や自由民権運動があった。

近代を生み出した明治維新の評価も近年少しずつ変わりつつある。
「明治の元勲」などという表現もあるが、当時の文献等を調べてみると政治家の多くは私利私欲に走っていた。
今も昔も、権力の魔性を打ち払って庶民の幸福のために一生を捧げている政治家は、ほんの一握りでしかないのだ。

腐敗した体制を批判するにもいいだろう。
革新を叫ぶ次の体制を狙う一群に期待するのも、自由だ。
しかし、民衆の理想を叫んだ改革者が体制側になった瞬間に、抑えていた魔性が吹き出すことを、歴史は証明している。
明治維新がそうであったように、さらにはフランス革命がそうであったように。

世間では、昨今の政治を「強行採決ばかりだ」とか「社会保険庁の監督すらできない無能の政府」等々の批判もくすぶっているように思える。
それは、事実だ。
しかし物事の本質を見極めなければならないのは私たち民衆だ。
体制への批判を仕事にしているマスメディアの過激なタイトルに踊らされていないか。
「強行採決」になった要因は何か。その中で最も深刻な主要因は何か。
「社会保険庁」の悪弊が改善されてこなかった最も責任をとるべきは政府なのか。社会保険庁自身なのか。
政府、社会保険庁という「団体」が問題なのか、それとも真の要因はさらに一歩掘り下げた先に存在しているのか。
そんなことすら考えもしないで「政府憎し」で感情的な発言を繰り返していては、自らの首をしめるようなものだ。
短絡的で、マスメディアの報道ひとつで考え方をコロコロ変えてしまう、成熟することができない国民性が恥ずかしくなってしまう。

では私たちは何を基準に行動を決するべきか。
本源的には、一人一人の行動を現実的に規定している哲学思想を見極めるしかない、と私は思う。確固たる哲学思想を持たないのは、論外だ。
哲学思想に基づいた現実の行動を、私たちは判断していくしかない。
私達の運命共同体は、こうして微妙な判断を積上げていくしかないと私は思うのだが、皆さんはどう感じられるだろうか。

2007.6.21【会期延長 各地の選挙管理委員会の反応に苦言。】

会期延長に伴い、参院選日程が当初見込よりも一週間先に延びることになりそうだ。
一部の選挙管理委員会では、既に7月22日投票日を刷り込んだ選挙葉書等を印刷発注しており、日程変更で修正に追われていることが連日報道されている。
また投開票に使用する29日の会場が他の行事や大会で使用される予約が入っており、調整が難航していることも報道されている。
会期延長で迷惑を被ったかのようなコメントをしている選管もある。

しかし、あえて言いたい。「何を言っているんだ」と。

7月22日投票というのは想定されていた日程であり、決定事項ではない。
危機管理の完全な欠落と言わざるをえないだろう。
どのような状況であれ、起こりうる可能性を想定して、回避、対処する方策を適宜実施していくことが、業務担当者には求められている。
事実、一部の選管では開票作業に使用する会場を7月22日、29日の両日とも確保しているところもある。印刷に至っては、事前の打ち合わせを綿密に行ない、選挙日程が確定し次第、迅速に発注を行なうべき性質の業務だ。全国の多くの選管ではそのように原理原則を遵守して行なっているに違いない。
予測に基づき、印刷業務を発注するという一部地域の選管の行為は言語道断であり、税金の無駄を発生させた選管関係者には、業務上損害賠償をする責務が発生するのではないだろうか。「損失を国に請求したい」などという発言は、盗人の開き直りみたいなもので、物事の本質が全くわかっていない愚輩の戯言だ。

これが一般企業の業務だったら、どうだろうか。
印刷等を発注した担当社員は、責任をとらされて降格、減給は当然だろう。
配置転換や依願退職することもあるかもしれない。
私自身も「ほぼ間違いなく受注できるだろう」と思いつつも、正式契約をじっと待っていて直前でどんでん返しをくらった経験は何度もある。外注先にせっつかれて見切りで発注したい誘惑にも襲われつつ、最終的に3000万円近い損失を防いだという冷や汗ものの経験もある。
現場の人間は会期延長をぼやく前に、自分に与えられた目下の課題に全力で取り組むことだ。

愚痴もこぼさず黙々と準備を進める全国各地の職員に敬意を表したい。
そして、自身を省みようとしない選管職員には猛省を求めたい。

【関連記事】
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参院選先送りに頭抱える

2007.6.20【参議院議員選挙7月29日(日)投票へ】
今国会の会期延長がほぼ確定的になってきた。
会期延長の目的は、円滑かつ充分な審議時間の確保にあり、直裁的には社会保険庁改革関連法案、年金時効撤廃特例法案、地方公務員法改正法案の成立にあると見られている。
一方で、成立を見送る(継続審議扱いとなる)公算が強いと見られるのは労働関連3法案などだ。

選挙目当ての駆け込み実績作りだという批判もあるが、選挙日程を意識した審議であったとしても必要な法案審議であれば歓迎すべきことだと、私は思う。
こうした批判は、選挙があることによって一定の時間的精神的リミットを設定でき、審議に従事する議員達への意識づけになっているという裏返しだ。一定期間ごとに選挙を行なうことの補完的論理でもある。
選挙を前にしたこの時期に、国民の目線に立った法案審議を徹底して行なっていただきたい。

与党側が当初、労働3法案に焦点を絞りつつあったのは、ひとつの戦略でもある。
最終的には公務員制度改革関連法案の成立に全力を挙げる方針が固まりつつある。
多くの国民が承知のとおり、労働組合の大半は組織として民主党を支持している。
その意味では、民主党は労働者層(今でもそういうセグメントがあるとすればの話だが)の意見を政治に反映することも必要な役割になるわけだ。
しかし、今回の労働関連3法案や公務員制度改革関連法案をはじめ、各法案審議に対して民主党は態度を保留したまま「審議継続」を要求することが多い。
その理由として、労組の支援を全面的に受ける議員グループや、財界寄りのスタンスを取る保守系議員グループなど、思想的に相対立する寄合い政党であることが指摘され続けてきた。その結果、党としての政策決定を行なわない思想風土が経営されているのだろうというのが民主党への評価だ。
もしそれが事実としたら、一党の政策見解すら決定できない政党が与党になれば、日本の政治は5日で立ち往生してしまうだろう。
今がよくないから、別の政党に政権を渡せばよくなる、なんて確証はありえない。
さらに悪化する可能性だってありえる。歴史的にはこのパターンが圧倒的に多い。
私たち有権者は、本質をよくよく見極めなければならない。

話し合いを尽くそうという姿勢は大変に大切なことだ。
しかし、審議を尽くすためには、それぞれのメンバーが自身の意思表明があってこそ、審議そのものがはじめて成り立つ。態度を保留したまま、相手側の批判ばかりしていたらいつまでたっても建設的意見の昇華はありえない。
その意味で、労働関連3法案や公務員制度改革関連法案に対する、民主党をはじめとする野党各党の意見表明に注目したい。

2007.6.17【若き二人に栄光あれ】
昨日6月16日(土)、大切な友人の結婚式と披露宴に参列させていただいた。
新郎との出会いはかれこれ2年前になるだろうか。
現在も継続して開催している経営塾(当時は第一期の龍馬塾)に参加していたメンバーだ。当時の座長であった上津社長(株式会社パナビア)のオフィスに、営業で来社したのが縁である。
現在、新郎は勤務する企業のアメリカ法人に勤務して1年。
生涯の伴侶との二人三脚を歩み始めて、さらなる飛翔を決意していることだと思う。

心温まる結婚式と披露宴だった。
旧友達の飾らぬパフォーマンスとはなむけの言葉がよかった。
一人、日本で準備を進めてきた新婦の姿が、健気で、美しかった。
そして、なによりも、若さに似合わぬほどの、新郎の回りの人達を慈しむ心に、感動した。
両家のご両親への感謝と決意を込めた一言一言には、不覚にも涙してしまった。

披露宴は新郎新婦のためにだけやるものではない。
自分達が祝ってもらうパーティと自分達が主宰して準備する披露宴とは180度違うものだ。なによりも、今までお世話になった人達への報恩感謝の思いで開かせていただくものだ。
そんな、当たり前のことを素晴らしいと感じた、ひと時だった。

朝倉政孝さん、百加さん。御結婚おめでとう。
そして、素晴らしい時間を共有させていただいて、ありがとう。
二人の大活躍と幸福な人生を歩まれんことを、心より祈っています。

2007.6.14【ヨドバシカメラの職業安定法違反の疑い】

ヨドバシカメラによる、職業安定法違反の疑いが報道されている。
家電メーカー等から派遣されている販売員や説明員(通称ヘルパー)を、閉店後の棚卸し作業や店内改装業務を指示したり、開店時間内でのレジ操作にも従事させていた違法行為だ。

少し前には、ヤマダ電機で同様の違法行為が摘発されており、家電量販店での事件はあとを絶たない。
私は今の会社を起業する以前、2社でのサラリーマン経験があるが、その転職時期に2ケ月間ヘルパーとして、秋葉原駅前すぐの某量販店(仮にS社としよう)で仕事をした経験がある。

当時、S社でもヘルパーへの労働強要が日常的に行なわれていた。
月末の商品棚卸しはもちろんのこと、毎日の倉庫からの品出しや様々なメーカーからの商品入荷時の検品も指示された。それだけでも明白な違法行為の強要であるが、毎朝の朝礼への参加も厳命され、その場でヘルパー一人一人にその日の売上ノルマを言い渡された。そしてそのノルマに達しないヘルパーは、店長や統括店長(部長)からののしられるという状況が毎日のように繰り広げられていた。
その店長は「いやなら来なくてもいい」とまで発言をしていたのをはっきりと覚えている。実際に数日で来なくなった某メーカーのヘルパーを評して「売れないやつは邪魔になるからいないほうがいい」と私にも話しかけてきたことがある。

量販店としての優位な立場を利用したエゴ丸出しの行為であった。
派遣の登録企業(仮にM社とする)での事前の説明では、そうした指示があった場合は断ることができるとあったが、実際にその場面に直面した私は業務を断ると激しい言葉で罵倒された。M社に報告すると「対処する」というM社担当者の言葉とは裏腹に数日後「どの量販店でも日常化していることなので穏便に」と諭された。
何もしないで批判するだけでは癪に障ると感じた私は、懸命に売上を上げることに努めた。最初の月は思うようにいかなかったが、2ケ月目には店長からのノルマを達成するようになり、再来店して私を指名してパソコンを買ったお客様も現れた。この時から店長の私への態度が変わったことを、今でもよく覚えている。

「もういいだろう」と思った私は、統括店長(部長)と衝突したのを機に、2ケ月間の出来事を詳細に記したレポートと一緒に、退職届をM社に提出した。
M社からは退職に必要な書類の説明文書が郵送されてきただけで、最後までS社の違法行為には何も触れず、対処しなかった。
店長が慰留の言葉をかけてくれたのがせめてもの救いだった。
数年前に、その店を訪ねたことがあったが、当時と変わらずヘルパーさんが店頭で頑張っていた。

家電量販業界の体質は、今も昔もさほど変わっていないのだと思う。
ヨドバシカメラは「今までも、今後も諸法令を遵守していく」とコメントしている。
「今までも」というあたりが、いやらしい。
今まで、守っていないのはほぼ明白な事実だと、私の経験からも類推できる。
こんな姑息な発言が出るような企業に、自浄能力など、ない。
人間のエゴを垣間見る、悲しくなる事件だ。

《関連リンク》
ヨドバシカメラ
ヨドバシカメラ職安法抵触の疑いヘルパーが棚卸し(朝日新聞)
ヨドバシカメラが派遣販売員にレジ業務、職安法違反の恐れ(読売新聞)

2007.6.13【マクドナルドの価格戦略の試み】

昨日6月12日、日本マクドナルドホールディングスが、全国統一価格から地域別価格への変更を検討していることを発表した。

100円商品を除く全商品の価格を、東京、神奈川、大阪、京都の4都府県で平均3〜5%の値上げを行ない、東北と中国地方で2〜3%値下げするのが検討案の柱となっている。
その理由として、都市部と地方との人件費や店舗賃借料等の経費格差を挙げている。

日本マクドナルド全体としては、平均3〜4%程度の業績改善を見込んでいるのだろう。低価格戦略から、差別化商品の定着へ、方向性をもった戦略が成功軌道に入りつつあるマクドナルドの次なる一手だ。

そもそも、ナショナルチェーンだから取扱商品を均一料金で提供しなければならないという理由はない。
しかし、日本ではそうした商習慣が長く続いてきた。
オープン価格の導入は、ひとつの対応であったが、地域別商品価格の導入は新しい時代を画する試みになるかもしれない。

《関連リンク》
日本マクドナルド:地域別価格を検討 セット商品差額最大70円程度(毎日新聞)

2007.6.12【井の頭の写真家が訴える縦割り行政の矛盾】

今日6月12日付の読売新聞の記事に目が止まった。
35面の都民版の記事なので東京以外の読者は読むことができないだが、
タイトルは「井の頭公園の芸術家『登録制』行政の矛盾訴え写真展」。

今年1月13日から、都立井の頭公園で作品を展示・販売するアーティストは事前登録が必要となり、登録が認められると土日に限り、その行為が許される「井の頭公園アーツマーケッツ」という制度が始まっている。

記事に取上げられているのは井の頭公園で昨年3月末から自分の作品を展示・販売している写真家の風間健介さんだ。
記事の一部を紹介する。
風間さんは、井の頭公園で作品を売りたいという気持ちで北海道夕張市から転居してきた。
この登録制度ができるまで、毎日、公園で展示販売し一日数千円の売上があがるようになっていた。今回の制度では土日しか販売ができない。事実、売上は7分の2に激減。週7日のうちの2日だからきれいに比例している。土日だから多く売れるということではないようだ。

風間さんは登録制度そのものを批判しているのではない。
同じ井の頭公園内で、平日でもパフォーマンスを披露して収入を得ている芸術家がいるという事実を指摘し、土日だけに限定している登録制の矛盾を訴えている。
平日も活動できるパフォーマーたちは、東京都が許可した『ヘブンアーティスト』。
所管は東京都生活文化スポーツ局。
かたや風間さんたちの登録制度は、東京都建設局の公園管理事務所の管轄だ。

ヘブンアーティストが毎日活動してもOKなのに、なぜ、井の頭公園アーツマーケッツの登録者は土日だけなのか。
それとも、大道芸人なら毎日OKで、写真家や画家は土日だけだと言うのか。

風間さんの訴える行政の矛盾は、当然だ。
東京都は、誠意をもって、対処すべきである。

写真展は公園の風景が中心
会場は武蔵野商工会館(武蔵野市吉祥寺本町1-10-7)
期間は6月13日(水)から20日(水)まで
入場料は無料

《関連リンク》
井の頭恩賜公園(Wikipedia)※アーツマーケッツの説明など
風間健介写真展 「井の頭公園」のお知らせ
風間健介ホームページ

2007.6.7【コムソンの介護事業からの退場通告】

6月6日、厚生労働省は介護事業最大手のコムソンに関して、全国に展開する約2000の事業所のうち1600箇所余りについて介護事業の更新を認めないよう、全国の自治体に通知した。
これは2006年に施行された改正介護保険法に基づく第一号の摘要事例となる。

私は開始当初からグッドウィルによる介護事業参入には疑問の声を投げかけてきた。
コムソンについては、以前から介護保険報酬の不正申請や介護サービスの不正等が指摘されてきていた。
勤務していないヘルパーを常勤登録する、行なっていない介護サービス分を受給申請するなどは常態化しており、自治体が事業指定を取り消そうとすると先回りをして突然事業所の廃業届けを出すという姑息な手段を繰り返していた。
突然の事業所閉鎖でサービスを受けられなくなった高齢者へのフォローなど、ない。
利用者を無視した営利追求集団と化したコムスンへの今回の措置は、当然というしかない。

しかも通知が発表された当日夜には、グループ会社(日本シルバーサービス)への事業譲渡によって介護事業を継続することを発表した。
このような手段が認められては、断じてならない。
これは、不正を繰り返した悪徳業者が下された法的制裁に対して、昂然と反旗を翻したと言うことだ。
まぎれもない、法治国家への挑戦だ。
断固たる姿勢で、適正な法的解釈と運用を行うことを、強くのぞみたい。

今回の通達がどのような趣旨でだされたのか、理解しようという気持ちはもとよりないことは明白になったが、この程度の幼稚な考えしかできない事業体が日本最大手なのだから、なさけなくなる。

介護事業はスタート当初から矛盾を抱えた運用が繰り返されている。
サービスの提供量を確保するため、厳正な審査も課してこなかった現実もある。
都市部も過疎地域も同等のサービス提供を目指した行政側の弱みをうまく利用したのが、営利目的で参入した介護事業会社の代表格・コムスンだった。
コムスンが事業所を閉鎖すると、近隣数10km範囲に他の介護サービスを提供するところがないという地方も現存する。利用者にとっては絶対になくなってほしくない拠点だろうし、従事していたヘルパー一人一人は頑張っていたはずだ。
強い態度で臨めなかった自治体があったのも事実だろう。
諸々の思惑を呑み込みながら、介護保険に投じられる総費用は7兆4000億円を超える事態を迎えている。

そもそも、介護保険の考え方とは、何だったのだろうか。
今までの日本では、高齢になり自由が利かなくなると、家族が身の回りの世話をするという文化が継承されてきた。もちろん一部には、姥捨て山とかデンデラ野などがあったが、主流は家族による扶助であった。
近年、高齢化が進み家族による負担が大きくなり、また高齢者の一人暮らしという生活スタイルも増え始め、家族の考え方だけでは高齢者を支えることができないという考えから、社会全体で高齢者を支えようというのが、介護制度の根本的思想だと私は理解しているが、どうなのだろうか。

しかし現実は、もちろん違う。
社会の一人一人が支えようというのではなく、介護保険料を払うことで、介護サービス事業者にやってもらっているのが、現在の構図だと私は思う。
しかも、自分達で支えられる場合の家族でさえも「利用しないのは損だ」という考えに傾き、必要以上に介護サービスに依存し続けている。

元来、自助・扶助・互助が基本概念の介護において、利益を出そうという発想自体に大きな誤りがあるのではないか。
今の報酬体系では仕事としてやっていないという声を介護現場の事業所経営者、ヘルパー、ケアマネジャーの方々から聞く。
しかし、どうなのだろうか。介護を営利事業としてやっていいのだろうか。
また成り立たせていいのか。
様々な事業に携わってきた人間の一人として、今後の介護サービスのあり方を真剣に考えるときを迎えていると感じている。

【関連リンク】
株式会社コムスン
グッドウィルグループ
厚生労働省老健局の指導について
<コムスン>6万人どうなる 介護不許可で
厚生労働省ホームページ

2007.6.5【松井証券・一橋大学大学院の株式売買履歴の研究の是非】

5月30日に発表された松井証券と一橋大学大学院による共同研究が波紋を広げている。
共同研究チームは、松井証券の顧客の株式売買履歴を研究対象として、今後の投資行動に関する基礎研究に役立てるとしている。研究成果をビジネスに転用することも明示している。
松井証券には、顧客からすでに数百件の苦情が寄せられ、取引口座の解約を申し出ている顧客もいるという。
松井証券側は、氏名など個人が特定できる情報は出さないとしており、さらに追加措置としてデータ提供を拒否する顧客は6月末(当初6月5日を延長)までに申し出ることで問題はないと考えているようだ。

法的な解釈がどうなるのか、私は法律の専門家ではないので、その点はコメントできないが、人として、ビジネスを行なう者としての常識的判断として、率直に感じる。

松井証券の感覚は、おかしい。

メディア報道でも「苦労して確立した投資手法を外部に漏らすのはおかしい」(読売新聞)等の顧客の声が掲載されている。
これは、至極あたりまえの感覚だ。

ビジネスにおける知的財産のひとつに、プロセスという概念がある。
今回の問題の焦点は、まさにこのプロセスという財産が誰に帰属するのかということではないか。
松井証券は、顧客の財産は株式売買によって得た利益だけだと考えているのかもしれないが、松井証券が顧客の売買データを分析する行為自体が、厳密に判断すれば、顧客の知的財産権を侵害する行為だと断定される危険があると、私は感じている。

コンビニ等の小売店がPOSデータやポイントカード等の会員による購買データを分析するのと同様の感覚で、売買履歴を分析しようと考えたのかもしれないが、この両者は根本的に違うデータ様式を形成している。
POSデータは個人やプロセスのデータではないし、ポイントカード等に個人を特定できる会員登録を行なう際には、そのデータを分析等に利用することを明記し同意した顧客データのみの活用に限定されている。

もし、松井証券が購買履歴の利用について、会員制ポイントカード作成時に類する手続きを踏んでいるのであれば、それは問題ないだろう。
また、個々の顧客との契約がコンサルティング契約等の形で、購買履歴等も松井証券に帰属する解釈ができる場合ならば分析をしてもよいと思われる。
松井証券が、顧客から受け取る報酬がどのように規定されているのか、私は仔細を存じ上げないが、通常の場合であれば単なる売買手数料のはずだ。

いずれにしろ、現状の松井証券には顧客の売買履歴を分析する権利はない、と私は思う。松井証券は、研究そのものは予定通り行なうとしているようだが、本当に熟考して経営判断をしているのか、少なからず疑問を感じる。
経営の根幹に関わる事態を引き起こしているという認識が必要だと思う。
松井証券の経営陣には、再考を促したい。

ビジネスに従事するものとして、何が顧客の財産であり、何が自社の財産であるのか、日頃から思索を尽くしていきたいと痛感する事件だ。

【関連リンク】
松井証券
株売買の履歴提供、松井・一橋大研究に投資家「やめろ」
行動ファイナンスに関わる研究への協力について(松井証券)

2007.6.4【年金記録問題は辞任要求ではなく救済と再発防止だ】

昨日6月3日(日)のテレビの政治討論番組は年金記録問題の本質に迫るかと思っていたら、さほど目新しいこともなかったので少し肩透かしにあったような感もあるが(^_^;)この数日の報道で気にかかるものもあったので少し触れておこうと思う。

同じメディアといっても、当初こそ、いずこも加熱していたが、テレビと新聞では報道姿勢に相当な違いが出てきている。
新聞報道では既にこの問題にはスペースを割いていない。問題の所在と解決への道筋がひとまずついたと考えているのだろう。
それに対して、テレビ報道はあいかわらずの相当な加熱ぶりが目につく。比較的長時間にわたり政治問題をテーマにできる報道番組が週末に用意されているという事情もあるのだろうが、新聞報道に比べると、本質から逸脱した発言も多い。特に民放では、生放送でレギュラー出演者がコメントする番組が多いからだろうか、事実誤認や不勉強によると思われる感情的な発言も多々あり、不快感すら感じてしまう。

今回の問題の本質は社会保険庁そのものにある。
たしかに監督官庁の厚生労働省にも責任の一端があるわけだからその点ははっきりさせる必要がある。
しかしその責任のとり方は現在の大臣を辞めさせることではないはずだ。ましてや、安倍首相や与党の責任を問うような論調は、スケープゴートを作り上げて血祭りに挙げようとする蛮行と大同小異だと申し上げたい。

現職政治家に全く責任がないとは言わないが責任論を言い出したらきりがない。
現職の厚労相に責任があるというのであれば、基礎年金番号一元化の作業計画が練られた、まさにその時の大臣には、もっと責任がある。
現・民主党副代表の菅直人氏その人だ。

今回の年金時効特例法案と日本年金機構法案について、審議時間が短すぎる、強行採決だという批判も、的を得ていないだろう。
日本年金機構法案は3月13日に提出されて審議が続けられてきた。法案の中身の審議に踏み込まなかったのは民主党の戦略の結果だ。
年金時効特例法案については、審議時間が1日4時間のみであることが挙げられているが、この法案の趣旨は明白で緊急を要するものだ。第三者機関の委員の選考基準があいまいだなどというのは、法案そのものを審議する姿勢ではない。法案成立後、運用に入る時点以降に決定、監視し続けるべき事項だ。

それよりも、より本質的な議論があるはずだ。
なぜ、年金記録もれのような事態が、しかも5000万件もの大量に発生してしまったのか。そして、その事実が把握されてから10年間も、なぜ積極的な対策が講じられなかったのか。
その被害者救済と、原因究明及び再発防止対策を講じるという視点が絶対不可欠だ。

この点を比較的冷静に明確に主張していたのは、NHKの日曜討論に出演していた公明党の坂口力氏(元・厚労相)だったように印象を受けている。
責任ある与党としては、また厚生労働大臣経験者としては、当然の対応である。
しかし、他の政治家に比べると、ずっと納得のいく態度であると感じられる。
またフジテレビ系列「報道2001」に出演した、同じく公明党の高木陽介氏は従来の政府発表にさらに踏み込んで「2880万件だけでなく宙に浮いた5000万件を1年以内の徹底調査・照合を行なう」ことを明言した。
私も庶民の一人として5月25日ブログで早急に5000万件全部解明すべきだと書いたくらいだったので http://prosecute.way-nifty.com/blog/2007/05/5000_2114.html 与党の役職にある国会議員として、よく言ってくれたという気持ちだ。

対して、今回の問題で見苦しさを感じるのは民主党の対応だ。
マスメディアでは「民主党に風が吹いている」等の表現が見受けられるが、本当にそうだろうか。
前述の日本年金機構法案にしろ、今回の年金記録問題にしろ、抜本的対策を講じようという姿勢は、民主党からは感じられない。
年金問題は日本の将来がかかっている総国民的重要課題である。
一党一派の政争論点にすべきではないと私は思う。

なぜ民主党は、本質的議論を避けているように受け止められかねない国会戦術をとりつづけるのだろうか。
党としての統一見解が出せないという指摘もある。
国家的課題に取り組めるだけの見識と技量がないという指摘もされてきた。
それと同時に、特定の支持母体に支えられているがゆえに、その支持者の意向に逆らえないという指摘がもっともよくなされている。
今回の問題であれば、年金記録漏れを徹底追跡してこなかった最も大きな背景の一つに、雇用の縮少を懸念してコンピュータ化に消極的だった労働組合(自治労国費評議会と国公労連所属の全厚生労働組合)の存在が指摘されている。この団体には、宙に浮いた年金記録を解消するための作業に対してノルマを課さないように主張していたという指摘がある。
今回の日本年金機構法案にも反対を表明しており、その影響があるため、民主党内では社会保険庁解体に賛否の議論が取りまとめられないという見方もある。

支持母体があるのが悪いわけではない。
政治参加は国民が持つ権利であるからだ。
しかし、その特定の団体の利益のために動くのは政治家ではない。それは政治屋だ。
それを覆い隠すように、与党攻撃をしているのだとしたら、民主党の犯している罪は重い。
そうでないというのであれば、国会の審議で示してもらいたい。
真の政治家の議論を、切に望みたい。

【関連リンク】
ウィキペディア(Wikipedia)社会保険庁
日本経済新聞社説:年金救済、国民は顧客の視点で(5/29付)
ずさんな社会保険庁・年金記録不明が5000万件(5/25ブログ)
全厚生労働組合ホームページ
社会保険庁と国費評議会との間で交わされた覚書等に関する質問

2007.6.3【第11回黎明塾『消費者市場と購買者行動』】

昨日6月2日(土)に第11回黎明塾(経営塾)を開催しました。
今回で通算33回目の開催となりました。

今回のテーマは「消費者市場と購買者行動」。
来月予定のビジネス市場とあわせて、市場における購買l行動を考察することにしました。
市場というと多くの人が消費者市場を想定して話していることが多いように感じます。ある意味でつかみにくい市場動向の分析の多くが消費者市場に集中していると思われます。
一般的にも消費者市場はモデル化しにくいと言われてきました。
私達が消費者自身の立場になってみても「なぜそのような購買行動をするのか」を考えて行動していることは少ないようにも感じます。

しかし、捉えにくいからとって考察を途中までで適当に終わらせてしまうことには大きな疑問があります。
現在、事業経営を行なうことは非常に大きなリスクがあります。
事業を行なって収益を確保する確率は、企業労働者として就職する確率よりも圧倒的に低い状況が続いています。
もうした現状に少しでも改善の糸口は見出せないだろうか。
そのひとつの視点が「購買行動」の分析にあると私は考えています。

〔当日の内容などはこちら〕→ http://www.prosecute.jp/reimei/011.htm

2007.6.1【6月から住民税が増えるとの報道姿勢に違和感。】

「6月から住民税が増税になる?」というニュアンスの報道が目についた。
たとえば
’07参院選:住民税、来月大幅アップ 「重税感」争点化狙う野党 与党、説明に躍起 というようなタイトルだ。

いまさら私が説明するようなことでは、ないだろう。
昨年度に比べて、今年度から確かに住民税の徴収金額が大幅にアップする。
6月からというのは算定金額の基礎となる昨年度所得を確定させてから住民税額が決まるのが毎年6月からであって、今年だけのことではない。

額面の金額が増えるのは、二つの要因がある。

ひとつは、国から地方自治体への財源委譲の施策の一環として所得税と住民税の比率を変更したことによるものだ。
国税である所得税の減税(委譲)はすでに本年1月から実施済であり、今回の税源委譲に異議を申し立てるなら、この時点より前に提起すべきだ。
減るときには何も言わないで、委譲先の地方税(住民税)が増える時点で騒ぎ出すのはフェアな態度では、ない。
下記図表は全国地方税務協議会のHPに載っていたものだ。各メディアとも同じ内容で作成しており、モデルケースを紹介している。わかりやすいと思ったので紹介させていただく。
20070601_1

もうひとつの要因は、納税金額が増えたのは1999年度から実施されていた、定率減税が廃止になったことによる。
しかし、これも一昨年度からの既定路線だ。
定率減税は、当時不況下にあった日本経済の建て直しを図り、個人消費を活性化することを目的に、所得税を20%(上限25万円)、住民税で15%(上限4万円)を減税するものだ。
あくまでも時限的措置であり、暫時継続されてきたが、いつまでも続けるべき性格の制度ではないことは明らかだ。この措置がされてきた間は、本来の税収は確保できていないことになる。

ここ数日、定率減税の廃止の是非を云々しているマスメディアや議員がいるようだが、そもそも今頃議論するのは、おかしい。
定率減税の廃止は一昨年には決定された路線であり、すでに昨年(平成18年)度には半分に縮小、そのうえでの平成19年度の廃止である。

各法人の経理担当者や代表者は、決算時期にあわせて税務署が行なっている法人決算処理の説明会などの場で、また確定申告をしている個人事業主の人達も、以前から聞いている話である。
問題ありと言うのなら、なぜその時点で議題にのせなかったのか。
庶民が負担する納税のことを知らないのか、興味がないのか、それとも実施の時点にあわせて国民の不安を煽ろうとしているのか。

いまさら何を言っているのかというのが、私の印象だ。

国民感情としては、税負担は多いよりも少ないほうがいいに決まっている。
一部では、税金の無駄遣いもある。
許せないという気持ちは、国民として、当然の感情だ。
しかし、自分だけで生きていける社会ではない。
ましてやこれからは、社会全体としてのセイフティーネットをどの程度整備するのが妥当なのか、という議論が必要になる時代である。
格差社会の是正を求めながら、税負担もしたくない、というのは虫がよすぎる。
不安を扇動するような、恣意的な報道や邪な考えの政治家、訳知り顔の批評家に振り回されて馬鹿を見るのは庶民の私達なのだ。

庶民は、もっと、賢明にならなければならない。

追記として。
ネットを検索していて、おどろくような文章を目にした。
nikkeiBPnet on Yahoo!第31回「定率減税が6月に全廃、これが消費低迷の一因になっている」と題したコラムだ。
http://headlines.yahoo.co.jp/column/bp/detail/20070530-00000000-nkbp-bus_all.html
この文章の冒頭にこうある。
「1999年に、当時の小渕恵三政権が個人消費を浮揚するため、恒久的措置として定率減税を実施した。」
「恒久的」とは、ずっと続く、半永久的というような意味だ。
明治大学の高木勝教授の話となっているが、どのような根拠があって「恒久的」と言っているのか。
日経BPネットと高木勝氏は、自身の社会的ステイタスをかけて、説明をすべきだ。

【関連リンク】
’07参院選:住民税、来月大幅アップ 「重税感」争点化狙う野党 与党、説明に躍起
定率減税が6月に全廃、これが消費低迷の一因になっている(日経BPネット)
全国地方税務協議会:平成19年からあなたの所得税・住民税が変わります。

2007.5.31【小沢一郎も、ここまでか。】

昨日5月30日に党首討論が行なわれた。
今国会で2回目となった今回の論点は年金改革だ。
5000万件にのぼる記録漏れ問題と善後策。
社保庁改革関連法案のゆくえ。
この2点が国民の大きな注目をあつめている。

正直な感想を述べておきたい。
小沢一郎よ、何がしたいのか?

まず、この日になぜ固執する必要があったのか甚だ疑問だ。
同じ30日には熊本県で松岡利勝前農水相の葬儀があった。
安倍首相は「延期を申し入れたが民主党の理解が得られなかった」
「惻隠の念はお互いに持つべきではないか」と記者団にコメントした。
現職閣僚の死亡に際して首相が参列しないのは、国民感情からも、一人の人間として納得できるものではない。
首相夫人の首相弔辞の代読が痛々しかった。
党利党略を考えているとしたら、人として許せない。

民主党は「葬儀に配慮して日程変更する考えはあった」
「与野党協議で決まっただけだ」と反発していると言う。
そんなことを言うのなら、なぜ自ら日程変更を申し入れないのか。
どちらに真実があるのか、賢明な人間であれば自ずからわかることだ。

関連動画:フジテレビ永田町ナイトウオッチ(首相のコメント他)

社保庁問題に関して、政府に責任があるのは、当然だ。
しかし、その言質を首相からとるだけの党首討論なら、どれほどの意味があるのだろうか。
責任については、すでに安倍首相が言明している。
問題の焦点は「その後をどう解決するのか」に移っているのだ。
それがわからないのか、小沢氏の主張は責任論に終始した。

もっともお粗末だったのは、小沢氏からは何の具体策も出てこなかったことだ。
安倍首相からは
・5000万件の調査を一年で行なう
・5年の支払の時効をなくす
など対応策が出されている。
もちろん充分とはいえないが、民主党側からも指摘があった事柄に対して、政府与党として責任ある対応をとろうとしているのがわかる。

首相側のそうした姿勢に対して、民主党としての対応策を求められた小沢氏はこう言い放った。
「ここ(党首討論の場)は首相に質問する場」。
何を言っているんだろうか。
「討論」という言葉の意味がわかっていないわけがないだろう。
開き直るにも、ほどがある。
あきれた。

政府の対応が充分だとか、全て正しい、などと言っているのではない。
しかし、小沢氏を党首にするしかないような政党に、政権交代させたら、どんな日本になってしまうのか。

日本の選択肢は、他に、あるはずだ。
あってほしい、と念願する。

【関連リンク】
<党首討論>年金支給漏れ、社保庁改革法案で攻防戦(毎日新聞)
年金問題、政争の具にすべきでない=党首討論で安倍首相(ロイター)
ニュース特集:松岡農水相自殺(朝日ドットコム)
動画:弔問客が続々訪問…自殺した松岡前大臣の葬儀
動画:フジテレビ永田町ナイトウオッチ(党首討論の様子など)


2007.5.27【第26回桂冠塾『リトル・トリー』(フォレスト・カーター)】
昨日5月26日(土)に26回目になった桂冠塾(読書会)を開催しました。今回の本は『リトル・トリー』。著者はフォレスト・カーター氏です。

私たちが目にする現代社会の真実とはいったい何なのだろうか。自分達が常識と思っている考え方が独善に満ちたものであったとしたら、どんな悲劇が起きるのか。ネイティブ・アメリカンの歴史を学ぶとそんな怖さをひしひしと感じる。

この作品では、渡来した西欧人の行状に対して、一種の諦観を持ちながらも痛烈な批判を浴びせている。その多くに私は共感する。特にアメリカ合衆国政府の政策とキリスト教的道徳観がネイティブ・アメリカンの人々を苦しめ、殺していった歴史的事実を正視眼で直視することを、あえてここで強調したいと思う。

そしてこの事実はアメリカ国家のみではない。日本においても全く同様の行為が行なわれてきている。北方のアイヌ民族に対して、南方の琉球王国に対して。私達も今一度、自分の住む国家の来し方を検証すべき時を迎えているのだろう。

フォレスト・カーター氏の経歴については確かに疑問が生じる余地があるだろう。しかしそれを差引いても『リトル・トリー』は読むべき作品である。
我々人間が失ったもの、自ら踏みにじってきたものが随所にちりばめられている。キリスト教社会では異端とされるが真理に近いと直感するネイティブ・アメリカンの宇宙観、自然観、そして生命観がそこにある。

そのいくつかが『リトル・トリー』の随所で語られている。
ネイティブ・アメリカンが持っている宇宙観、生命観は現在の最先端の宇宙論、生命論と合い通じるものが多い。そのひとつでも多く、自分自身の生活に取り込むことができれば現代社会の病巣も少しはよくなるだろう。
この作品を契機にして、20世紀までの地球文明の功罪を問い直す機会を各人が作り出したい。そして本当に幸せに生きるとはどういうことか、何が人生の目的なのか。より真実に近づける宇宙観、生命観を探求することを馬鹿にしない、真摯な人の輪を広げていくことを切実に訴えたい。

「言葉に意味なんぞあるものか。それよりも言葉の調子に気をつけるんじゃ。
 そうすりゃ、そいつが嘘をついているかどうか見抜ける」

【コメントの全文、当日の様子等はこちら】
第26回桂冠塾『リトル・トリー』

2007.5.25【ずさんな社会保険庁・年金記録不明が5000万件】

社会保険庁の不祥事が次々と明るみに出ている。
該当者が特定できないままの年金保険料納付記録が5000万人分も放置されているという事実だ。あきれて物が言えないというのはこういう時に使う言葉だろう。
今日25日の衆議院厚生労働委員会において年金支給もれに関する救済案が提示された。
救済案の主な内容は
1)不明5000万件のうち疑いが強い2880万件を中心に調査する。
2)現行時効制度での5年を過ぎたものでも補償を行なう。
3)領収書などの証憑がない場合でも新たな確認手続きを検討する。
4)社会保険事務所に相談窓口を設置する。
というものだ。
まずは迅速に救済に着手することを切に要望したい。
「2880万件を中心に」等と言わずに全件解明を目指して一つずつ確実に処理していくべきだ。更に不備な点も出てくると思われる。とにかく迅速さと正確さで誠意をもって解決しなければ感情的になりつつある国民感情に応えることはできなくなる。

それと同時に社会保険庁改革は着実に進めるべきだ。
年金支給漏れ問題が解決しないと社保庁改革法案を審議しないというのは論外だ。常に同時並行で改革を進めることが求められている。

しかし体制を変えることが根本的解決になるわけではない。
社会保険庁という役所を法人化しても、公務員をやめさせて民営化しても、不正をする輩は必ず悪事を繰り返す。「権力の魔性」といわれることがあるが、不正を行なえてしまう立場にいると人は何かのはずみで坂を転げ落ちるように悪事に手を染めてしまう。

必要な改革の柱は2つある。
ひとつは、悪事や怠慢、ミスを発生させないしくみ作りだ。
重複チェックや精度の向上、監視の強化などしくみとして防止するという方法だ。
もうひとつは、目的と使命感の醸成だ。
いま自分が行なっている業務は何のためにやっているのか。誰のためか。どのような成果に繋がる仕事なのか。
その意識を持つ一人一人を育成することがもっとも重要であると私は思う。

反対するだけなら無責任男でもできる。
与党も野党も政争の具にするのではなく、受給の対象となる国民一人一人のために働いてほしい。
自分達の社会だ。
政治家でなくても、まわりがそうでなくても、常に主体的に取り組む自分自身でありたい。

【関連リンク】
厚生・国民年金の加入記録、該当者不明5000万件
年金支給漏れ 救済は「本人任せ」(読売新聞)
年金記録不明5000万件 社保庁に調査義務付け(読売新聞)

2007.5.24【高野連は公平か?岩手県専大北上高が再加盟】

本日5月24日、日本高校野球連盟が西武球団との裏金供与問題で野球部を解散した岩手県専大北上高校の再加盟を発表した。6月1日付で加盟となる見込だ。

日本高野連の脇村春夫会長は「再加盟が早すぎるのではという考え方もあるが、学校側が一丸となって復帰に取り組んでいる印象を受けた」と語っているようである。
しかし誰の目から見ても異常に早すぎる再加盟だ。
元々の事件の発端は同校野球部に所属していた野球部員に対する西武球団からの便宜供与に便乗して、同校野球指導者らが法外な謝礼を現金等で受け取っていたというものだ。
高校野球史上最悪の事件と言っても過言でないだろう。

それが同校の野球部自主解散から再加盟まで1ケ月余り。
当初、高野連自体が除名相当との姿勢であったと報道されていたし、過去の出場停止など処分された高校の事例に比べても、おかしいだろう。
甲子園出場の常連校だから優遇されたのではないか、何か高野連側に弱みでもあるのかと言いたくなる野球関係者も少なくないのではないかと思う。

本来私も今回のような処分が妥当だと思う。
もっと言えば過去にさかのぼって同様の基準で処分を決めるべきだったと言いたい。
今回の事件では現役野球部員が関与していないことを挙げる向きもあるようだが、過去に処分された事例でも、野球部を引退した3年生が関与した事件、試合や練習にも出ていなかった補欠選手が起こした事件でも1年以上の試合出場停止の処分が課せられたことが多々ある。
過去の高野連の処分は何が目的なのか、本当に子供達のために下した処分だったのか、疑問を感じるのだ。
授業料免除や補助の問題もそうだ。野球部員の授業料免除や優待制度を非難する権利が誰にあるのか。学力やクラブ活動に取り組んできた生徒に対して学費を免除補助する制度があるのに、厳しい練習に取り組んできた野球部員が優遇されるのがそんなに悪いことなのか。

高野連では一貫した公平性が保たれているのか。
今回の処分を妥当というなら、今までに処分を課せられた高校球児のためにも、過去にさかのぼって説明する責任を果たしてほしい。

【関連リンク】
専大北上の再加盟承認 6月1日付で 高野連
自主的解散が早期復帰に 専大北上高(Yahooスポーツナビ)

2007.5.24【関越道側道の車止め撤去の是非】
昨日6月23日、練馬区大泉学園町の関越自動車道の側道に設置されていた車止めが撤去された。この措置をめぐり、地域住民の賛否は二分されている。

この問題の発端は関越道が開通した1976年にさかのぼる。
高速自動車道が設置された際に作られたこの側道を利用する流入車輌が増加する懸念を持った地域住民の陳情を受けて、同年練馬区は側道中央付近に車止めを設置する通り抜け車輌対策を実施した。

しかし当初から住民の間では賛否が二分していた。
設置から16年後の1992年には「存続を求める住民の理解を得る」ことを条件に、車止め撤去を練馬区議会が全会一致で可決している。
しかし付帯条件となった存続を主張する住民の理解を得ることが難しく、今年に至るまで15年間も実施が見送られてきた。その間、賛成反対双方の住民からの陳情が続いていたことが記録に残っている。

今回の決定に至る経緯と、撤去の主要な理由として挙げられている「地元の生活道路、通学路への車輌の流入を防ぐ」ことは、同じ練馬区に住む住民の一人として納得のできる内容だと私は思う。長年にわたり検討を重ねてきた課題へのひとつの結論であり、幼い子供を育てている親世代の一人として、生活道路を抜け道に使うドライバーの実態には本当に苦慮しているからだ。

車止めを設置してから30年余り。交通事情も当時と比べ物にならないほど悪化している。マイカーの保有率の飛躍的な上昇。渋滞を避けるという理由だけで生活道路に入り込んでしまうドライバーのモラルの低さは年を追うごとに悪化しているようにも感じる。

しかし同じ地域に住んでいるからといって全員が同じ見解にはならない。
同じ地域に住んでいるからこそ利害が対立し、正反対の意見がぶつかることは当然と言えるだろう。
車止めを設置した側道周辺に住んでいるか、側道から少し離れた抜け道などになっている住宅地に住んでいるかによっても、思考の前提が大きく変わってしまうのも人の常だ。
継続にしろ撤去にしろ、全員の賛同を得ることは事実上不可能だろう。
住民と行政もそうだが、住民同士での地域のための話し合いが行なわれてきたのかどうかの検証も今後のために充分に行なうことが大切ではないかと思う。その話し合いの中で、再度の車止め設置という決定もあるかもしれない。
大切なのは対話という人として最も尊い行為によって解決を探ることだ。
完璧な正解というものは、ない。
常に最善を目指して前進し続けることが私達一人一人に求められている。

追記として。
一昨日の22日には撤去実施に反対する議員の請求によって臨時議会が開催されている。様々な利害が絡む案件であるので充分に議論を続けていただきたいと思う。
しかし一言苦言を。
議会召集の理由がいただけない。
先月22日の区議会議員選挙で改選が行なわれて新任議員が執務を開始する5月30日までは議会が機能していないのでその期間を狙って車止め撤去を実施しようとしたことがよくないという主張だ。5月30日からの新任議員に案件を託すべきだというが、この主張には賛成できない。
充分な取材をしているのか甚だ疑問だが、今回の撤去を「寝耳に水」のように報道しているメディアがあり、それを鵜呑みにしたわけではないだろうが同様の主張をしている区議会議員がいる。撤去に向けて信号機の設置を進めるなどの措置がとられており、それらの経緯を知らなかったというのは議員として許されるべきものではないと思う。
そもそも選挙が行なわれて新任議員が登庁するまでの1ケ月余りは空白期間なのか。議員は最後の一日まで議員だ。区民の税金から給料をもらうのだから任期が最後だろうが変わらず仕事をするのが当たり前だ。
どこまでも住民本位の議会と議員であってもらいたい。

【関連リンク】
練馬区議会、改選前議員で臨時会 『車止め』報告求める(東京新聞)
練馬区議会ホームページ

2007.5.23【こんにゃくゼリーで窒息死の報道にどう対応?】

今日23日に、国民生活センターがこんにゃくゼリーをつまらせた窒息死が2件発生していた事実を発表したという報道に目が止まった。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070523-00000132-jij-soci
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2007052300959

従来メディアでは、高齢者や幼児が詰まらせる事故が多いように報道していたように記憶しているが今回の事故はいずれも7歳の男児だ。十分に咀嚼能力があっても事故が起きている。
気になって国民生活センターのHPを閲覧したが、事故後の経過を読んで驚いた。
片方のケースでは「製品の注意書きに『もし喉に詰まったときは背中を叩いて取り出して下さい』と記載されていたが、事故が発生したときに相談者が当該処置を施しても全く取り出すことができず、駆けつけた救急隊員が医療用の器具を用いて取り出したという状況だった」(HPの原文のまま)。

つまり誤って喉に詰まらせたら救急隊員が来るまで呼吸できない場合が起こりうるということだ。到着までの時間によっては死が到来する。これは深刻な事態といわざるをえない。
同HPには、EUにおいて2003年5月にゼリー菓子へのこんにゃく使用許可を撤回する決定を行っている事実も紹介されている。
日本においても行政措置が検討されるべきだ。

そしてなによりも、こんにゃくゼリーを製造販売している製造者がこの事態をどのように受け止めているかが重要な関心事だ。
私も食品製造の経営に携わる一人として自戒を込めてあえて言っておきたい。
政府や業界団体が動く動かないに関わらず、死亡者を出してしまっている事実を真摯に受け止めなければならない。現在、製造者が行なっている措置といえば、商品の包装袋等に「よく噛んで食べて下さい」「喉に詰まることがあります」「詰まらせたら背中を叩いて吐き出させて下さい」等の注意書きと、商品の大きさを小さくする、配合を調整して柔らかさを変えるといった商品仕様の変更だ。
少し勘ぐる人なら「事故が起こるのは消費者の自己責任だと思っているか」と言いたくなるだろう。メーカーとして売り続けることが大前提での目先の対応でしかないと言われて、納得のいく説明ができるだろうか。

こんにゃくゼリーを食べなくても健康的な生活を送ることはできる。
製造者自らが抜本的決断を行なうべき段階にきているのではないだろうか。

【関連リンク】
国民生活センター「死亡事故2件発生 こんにゃく入りゼリーの事故」
平成17年度家庭用品に係る健康被害病院モニター報告
株式会社マンナンライフ

2007.5.22【本当の評価は?『大日本人』】

第60回カンヌ国際映画祭が話題だ。
世界3大映画祭のひとつで、無名だった映画がカンヌで評価されて世界的ヒット作になった例はいくつもある。
日本国内での認知度も非常に高い。

今回、日本で注目されているのが北野武監督に並んでダウンタウンの松本人志監督デビュー作の『大日本人』だ。
国内未公開のこの作品がどのような評価を受けているのかは、現地に行けない私たちはマスメディアの報道に頼るしかない。
今回のメディア報道を見ていてどれが真実に近いのか考え込んでしまった。

松ちゃんカンヌで“強烈洗礼”「監督の才能ないのでは」(夕刊フジ)
カンヌで絶賛の声!松本人志監督映画「大日本人」が堂々公開(サンスポ)

上記2件は正反対のニュアンスの評価が報道されている。

同じ場面を伝えているのになぜこうも違う報道になるか?
片方だけの報道を目にしたら疑問もなくそのまま信じてしまうだろう。
マスメディア報道の実態を垣間見る思いがした。

2007.5.18【邪馬台国論争】
今日の読売新聞に、今月13日に早稲田大学国際会議場で行なわれた「邪馬台国の会特別講演会」に関連した記事が載っていた。

そもそも邪馬台国はどこにあったのか?
これが邪馬台国論争の最大の論点である。どのような国家体制であったかとか、文化文明を有していたのかという以前の問題であるが、論争の争点は「畿内説」か「九州説」かの二者対立に集約されている。

記事に付されていた図が目に止まった。
『魏志』倭人伝に記載されている邪馬台国までの方角と距離を図式化したものだ。一里の長さは時代や地域によって大きく異なるので括弧書きで書かれている想定地域は必ずしも正しいと言えないかもしれないが、この記事を執筆した(と思われる)片岡正人氏の文章が気になった。

「朝鮮半島に置かれた帯方郡から邪馬台国への行程は図の通りだが、額面通りに受け取ると邪馬台国は九州のはるか南海上にあったことになってしまう」
だから記述のどこかが間違いなのではないかとして読みかえることで畿内説、九州説とも根拠としているということだ。
私は素人なので詳しくはわからないが、素朴な疑問がわいてきた。

額面通りに受け取ってはいけないのだろうか?
邪馬台国は日本領土内ではなく、南海上の諸島やニュージーランドやオーストラリア、はたまた南アメリカ大陸に存在した古代国家だと考えるほうが無理がないように感じるのだが皆さんはどう思われるだろうか。

紙面では有力2説としているから、2説以外の少数派の意見もあるのだろう。
私のように考えた人もいるのだろうが、きっと有力説以外に一括りされているのかなと思う。
記述された文献を元にするわけだから、その文献のどこが正確で、どこに誤りがあるのかを精査することは非常に重要だ。

日常の行動思考も同様だ。行動を起こすためには意識無意識に関わらず、行動規範が必要だ。何を信じるに足る原理原則とするのか。その根幹部分について、人は意外と無条件に信じ込む傾向があるように思われる。そして一度信じると、論理的矛盾がわかってもその行動原理を変えようとしないように感じる。
保守的傾向とはそのような人間本来の主流の性向なのだろう。
邪馬台国論争は、歴史研究と人間行動の問題の一端を表わしているのかもしれない。

【関連リンク】
木村鷹太郎の邪馬台国=エジプト説
邪馬台国の会
邪馬台国 - Wikipedia

2007.5.18【世田谷区議虚偽経歴事件】

4月22日の世田谷区議会議員選挙でトップ当選した民主党公認の森学区議会議員が選挙公報やポスターに経歴を虚偽記載していた問題が報道されている。
外務省勤務当時の肩書きを事実の「3等書記官」ではなく2等級上の「1等書記官」としていた。
森本人は「勘違いしていた」として謝罪文を提出している。

どうして勘違いできるのだろうか。誰がどう考えても確信犯である。
メディア報道では、外務省には小国の大使館に勤務する際に1等級上の階級を名乗る「ローカルランク」があると報じている。それが森氏が勘違いした原因だとでも言いたいのだろうか。「2等」と掲載したのならまだ言い訳にもなっているかもしれないが森氏は「1等書記官」だと記載している。情状を検討するに値しないだろう。

謝罪文で済むと思っているようでは話にならない。
辞職勧告決議案が提出される見込みと言われているが、自身の進退を自身で決することもできないようでは議員たる資格が欠如しているのではないか。
このような議員候補に投票した有権者も深く自省をするべき事件だ。

外務省のローカルランクなるもの、虚偽体質の温床だとわからないのもびっくりだ。それが小国(何が小国で何が大国なのかも疑問だが)相手の場合だと言うから、国の規模で差がつけるのが常態化しているということだろう。一方で相手国を小馬鹿にし、一方で媚びへつらうかのような卑しい人間性を垣間見たような、悲しい思いになってしまった。

2007.5.17【こんなものか党首討論】
安倍VS小沢。
今月16日に行なわれた党首討論だが、各メディアが酷評しているのであえてコメントする必要もないだろう。
これが日本の舵取り役かと思うと暗澹たる思いだ。
安倍氏や小沢氏の問題なのか。
それとも他に有為な人材がいないため、さほど人格も能力もない彼らが責任ある立場に就かざるを得ないのか。
もっと真剣に日本と世界の次の時代を考え、行動する指導者はいないのか。
哲学不在の時代と言われて久しい。
私たち一人一人がこのことを真摯に考えるべき時期に来ている。

2007.5.15【沖縄本土復帰35周年】

沖縄が日本に復帰して35周年を迎えた。
第二次世界大戦の敗戦処理の中で、アメリカの統治下に置かれた沖縄が日本に復帰したのは、戦後27年が経った1972年(昭和47年)5月15日。
米軍統治の影響はいまだに残っており、在日米軍基地の大半は沖縄に集中している。
国内で唯一の民間人を盾にした戦争被害の地でもある。

そうした歴史を持つ沖縄の人達は平和への意識が高い。
現代の日本にあっては、沖縄、広島、長崎の人達以外の平和意識は極めて脆弱になっているのではないだろうか。
そんな平和を希求する沖縄だが、所得水準は日本全体の平均よりも低い。アメリカ軍に関連した職業に従事する人も多く存在する。平和を望み、軍隊撤退を要望しつつも、アメリカ軍基地が一斉になくなると路頭に迷ってしまう庶民が多発するのも沖縄の現実だ。

ビジネスのグローバル化が言われて久しい。
私達も何かできることがないのか、自身に問い直す契機にしたい。


2007.5.13【第10回黎明塾「マーケティング環境の観察」】

昨日5月12日(土)に黎明塾を開催しました。
今回で10回目(経営塾としては通算32回目)となる今回のテーマは「マーケティング環境の観察」。事業成功の根本は経営者自身にあることはいうまでもないことですが、そのうえで当初の目的を達成するためには、事業を取り巻く現状、ビジネス環境を分析する能力の有無、高低の差が歴然と存在します。

市場は常に変化しつづけている。
したがって市場を形成する側にある経営、事業遂行にあたっては自らが変化に対応することが必然的に求められます。人の心の動きには世論をはじめとして時流と呼ぶべきものが存在します。もちろん人は千差万別ですが、それでも時代や大きな出来事によって大きく民意が形成されるのは歴史が証明している事実です。

そうした社会全体の底流には時流、いわゆるトレンドが存在します。
またトレンドそのものを形成する、より根底的な要因、マクロ環境が存在します。
トレンドとマクロ環境を的確に、過つことなくつかむことは、適正な利益を確保することが決して容易でない現代社会における経営の必須要件といえるでしょう。

今回はそうした観点で、今後予測されるトレンド予測と主流を成すと思われるマクロ要因とその現状についてディスカッションと分析を試みました。

《当日の様子などはこちら→》http://www.prosecute.jp/reimei/010.htm


2007.4.29【『永遠の都』ホール・ケイン】

4月28日(土)に25回目となる桂冠塾を開催しました。
今回は『永遠の都』(ホール・ケイン)を取上げました。
ほとんどの参加者が読めないままでの参加となりましたが、かろうじて1名の方が読了していただいておりました。

この作品はどのような表現をするのがふさわしいのでしょうか。
革命小説、ロッシィとローマとの大恋愛小説、キリスト教信仰を基盤とした理想郷建設のユートピア小説、友情と同士愛を描いた青春小説....。
いろいろな形容がされていますし、どれもこの作品を言い表している表現であると思います。この作品にはいくつかの大きなテーマが提示されています。

そのうえでひとつの表現をするのであれば、作者のホール・ケインは「信じ続けることの難しさと大切さ」を訴えたかったのではないかと私は感じています。
裏切りと謀略、愛する者への不信、そして自分自身の良心を覆い隠して歩んでいく人生に、自分自身の存在が崩壊してしまうかのような危機感を感じながら、それでも生きていこうとする主人公たち。

何が真実なのか、何がよりよい選択なのか。
判断する基準を持てず、迷い、戸惑い、立ち止まって投げ出しそうになる人生。
それでも生きつづけることの意味と、それだからこそ確固たる信念の確立の必然性を強く感じるのは私だけではないと思います。

《当日の様子などはこちら→》http://www.prosecute.jp/keikan/025.htm


2007.4.21【投票に行こう】

明日4月22日(日)は統一地方選挙後半戦の投票日だ。
国民の半数以上が関係する地方政治にとって重要な一日となる。

「誰でもいいからとりあえず選挙に行こう。投票しよう。」ということでは、もちろん、ない。
しかし投票しなければ有権者としての権利を行使できない。
スタートラインにつく、という意味で一人でも多くの有権者に投票に行ってもらいたい。
そのうえで、自分の投票行動には責任をとることを各人が自覚することが重要だ。
言い換えれば、責任ある投票行動をすることだ。

■自分が重視する候補者を選ぶ基準は何か?
■その基準に誤りはないか?
■基準の優先順位と重み付けは的確か?

そして投票した候補が当選した後は任期(地方議会であれば4年)の間の議員活動にも責任が生じる。
地域での有益な活動や議会での実質のある活動実績があるのか、ホームページや議会だより、議員からの区政報告などで厳しく見守り続けることが必要である。
そして場合によっては、議員に提言を行なったり、怠慢を摘発することも必要になるかもしれない。そのときは決して傍観者にならずに公正に対処することが求められるだろう。
まかり間違って、その議員が犯罪を犯すようなことがあれば、その責任の一端は一票を投じた有権者にもある。

権利の行使は責任が伴うことを、私たちは自覚しなければならない。
誰のためでもない、私たち自身のための街づくりをするのだから。


2007.4.20【候補者の本質を見抜くのは有権者の責任】

統一地方選挙の後半戦も終盤を迎えてきた。
22日の投開票日まで残り1日余り。
もちろん地方選挙なので各市区町村毎に関心度や熱気は様々であるが、少なくとも私の周辺ではこころなしか今回の選挙は特に盛り上がりに欠けるような印象がある。
なぜだろうか。

大きな原因のひとつに「争点に欠ける」ことが挙げられるのではないか。
争点が欠ける更なる要因には大きく二つの視点が考えられると私は思う。

まず1点目は有権者が争点を比較検討する機会に恵まれていないことだ。

首長選挙では今回からマニフェストが配布できるようになり、関心を集めるかと思いきや、そうでもない。
議会議員選挙にいたっては選挙公報くらいしか各議員の政策主張を目にする機会はない。「選挙カーや街頭演説はうるさい」という指摘は以前から多くあり、ブログ等でも声高に書かれている(私も選挙カーについてはかなり懐疑的な意見を持っている)が、なくしたら個々の議員候補の政策主張を知る機会はますます減ってしまうというのも現実なのである。

そしてもうひとつの要因として、争点となるような政策論争自体がなくなってきたのではないかという点だ。

もともと地方選挙はそれぞれの自治体に大きな問題(例えば巨大なプロジェクトの可否や現職の汚職など)があればそれが争点となる以外は、比較的地味な選挙といえるだろう。それは日常の生活に密着した政治ということの裏返しでもある。
それゆえに「議員になって何がしたいのか」「どのような政治理念信条で地元行政に取り組むつもりなのか」また現職であれば「任期中に何をやったのか」が明確にされなければならない。この点が近年急激に希薄になっているように感じるのだ。

立候補者の質的ばらつきが拡大していることも指摘されている。端的に言えば「このような人に我が地域の議員を任せられるのか」という人間まで立候補している。
特に公募制で挙がってきた候補にその傾向が強い。市区町村議員を都道府県議員、国会議員へのステップアップとしてしか見ていない輩がいるのも悲しき現実だ。
どこ、とは言わないが、ある政党では、毎回の都道府県議議選や国会議員選挙で、地方議会議員からの鞍替えが相次ぐ。今回も1期目の途中とか在任11ケ月だけという議員がいた。
こんな議員は最初から当選させてはならないと思うが、皆さんはどう感じるだろうか。

大切なのは議員としての信念理念だ。
理念や信念がない、あいまいだから、議員の不祥事が相次ぐ。
汚職や贈収賄の魔力に負けてしまう。
選挙のために、やってもいない実績を平気で詐称する。
必ず実現するという決意もビジョンもない公約を平気で言い放つ。
発言に一貫性がないパフォーマンスやルックスばかりが先行する。
結果として、議員になっても何もやらない。何をやったらいいかわからない。

何のために議員になろうとしているのか。
地域の発展のため、住民の生活向上のために、本気で取り組むのは誰なのか。
それを見抜くのは有権者の責任である。


2007.4.19【国会図書館長に長尾真さん】

今年4月1日付で国立国会図書館長に元・京都大学学長の長尾真(ながおまこと)さんが就任した。
慣例改め、元学長の図書館作り
asahi.com:国会図書館長に元京大総長の長尾氏 慣例破り起用 - 教育
長尾真さん=国立国会図書館長に慣例破りで起用される

報道によると同館長職は衆参両院の事務総長経験者が務めるのが慣例で、議会以外からの就任は第14代目の長尾さんが初めてだという。
こんなところにも官僚の天下り構造というか囲い込みがあったのかと驚いたが、長尾さん就任のきっかけが、内定していた谷福丸・前衆院事務総長が事務総長当時の2002〜03年度国政調査活動費約1億円が、料亭などで議員らの飲食代に使われていた問題が昨年発覚したことによるというから国会事務方の暗闇は国民に知らされていないことがまだまだあるのではないかと気が滅入ってしまう。

以前は歴史的事実の確認や統計データなどの正確さを必要とする情報を入手するには国会図書館に行くものだと思っていた時代もあった。
しかしWebでの情報収集が日常化した現在では、自分の経験から推察しても国会図書館まで足を運ぶ人はかなり減っているのではないかと思う。

しかしそうは言っても腐っても鯛、枯れても国会図書館である(けなしているのではないのでお間違いなく^^;)。
従来通りの運営では希薄化するのは必然だが、国会図書館の役割はなくなるわけではない。

少し視点を変えてみよう。

情報化、デジタル化が進む現在社会は、活字離れが言われて久しい。
私も読書会(桂冠塾)を主宰しているので痛感するのだが、世界を代表する名著の多くが購入できないのが実情だ。かつて翻訳された海外の著作には絶版になっているものも多い。
書店に並ぶのはコミック(漫画)本、流行の推理小説、おおげさなタイトルが踊る新書本、目先に囚われたビジネス本、そしてゴシップや中傷記事が並ぶ週刊誌の類いばかりだ。書店等が発表する年間ベストセラーの中で、10年20年後の子供たちに読ませたい本がどれだけあるだろうか。
子供たちに「本を読もう」と言いながらも、名作を読む環境はますます悪化していることに憂いている大人たちはどれだけいるのだろうか。
まともに本を読もうと思うと公立図書館で借りるのが一番確実だというのが私の感想だ。しかしそれも充分に書籍が揃っているわけではない。

国立国会図書館の担うべき役割はいくらでも、ある。
全ての出版物を網羅する日本唯一の機関として発展することを民間出身の新館長誕生に大いに期待したい。

《関連リンク》
国立国会図書館 http://www.ndl.go.jp/
私の住む地域の練馬区立図書館 https://www.lib.nerima.tokyo.jp/index.shtml
桂冠塾(読書会) http://www.prosecute.jp/keikan/index.htm


2007.4.18【政治資金規正法 今国会に改正案提出へ】

今月18日、自民、公明の両党は今国会に政治資金規正法の改正案を提出することで合意した旨が報道されている。
事務所費など透明化へ、政治資金規正法で今国会に改正案
<与党党首会談>政治資金規正法改正案、今国会に提出で一致

松岡農相の事務所費、光熱水道費の問題などの事態を考えれば、今期中の提案可決は国民の意志だと言えるだろう。
ただし自民、公明の両党間で骨子が合意されているわけではない。
資金管理団体による不動産所有を禁止する点では合意できているようなので、この点は評価できる。国民の議論を経て、罰則規定を追加することも検討してほしいと思う。

難航している焦点は「事務所費等の領収書添付の義務化」だ。
一連の問題を考えれば、領収書添付は必然と考えるのが国民感情ではないか。領収書添付を絶対条件とする公明党に対して、事務所費の項目を細分化することで領収書添付を避けようとする自民党の姿勢は、庶民の納得を得られないだろう。

事務の煩雑化を言う人もいる。
これは確かにそうだ。できることであれば、そのような時間と手間をかけずに議員としての活動に専念してほしいと思う。しかし松岡氏のような議員が規正の網の目を悪用したような疑惑が生じている。国民の多くが、一部の国会議員は不正に政治資金を使っていると思っている現状では、事務が煩雑化するのは自業自得である。

「懇談相手や場所が特定されると政治的自由が侵害される」という自民党の考えがメディアで報道されているが、このような考えは論外だ。
そもそも事務所費を使って、誰と、何を懇談するのか?
公開されれば侵害されるような政治活動を必要と思っていること自体が問題だ。
自民党は、よくよく自分達の置かれている立場、議員の責務を考え直すことだ。

《過去の関連ブログ》
どのように理解しろというのか松岡農相事務所費問題
小沢一郎のずれた感覚に唖然


2007.4.16【言論の正邪を見破る賢明な有権者たれ】

今年は言わずと知れた政治決戦の年である。

今月8日(日)に投開票が行なわれた前半戦に続き、昨日15日(日)に統一地方選挙後半戦の告示が行なわれた。
明日17日告示の市町村長、議員選挙とあわせて22日(日)に投開票が行なわれる。
私の住む東京都練馬区でも、練馬区長選挙と練馬区議会議員選挙が行なわれる。昨日は正午前頃から各候補が地元私鉄駅前を中心に立候補の挨拶を行なっていた。夕刻は選挙カーが駅の南口、北口で10台近く交錯して、一気にヒートアップしていた。
投票までの一週間。
私たち有権者は、各候補の実績と公約をよくよく吟味して、大切な一票にそれぞれの思いを込めて行使したい。

告示前までの1ケ月ほどの間でモラルを逸脱した行為が目にとまった。
誰れ、とは言わないが、ある会派陣営(政党)のチラシだ。
3枚のチラシが数日の間を置いて入れられていたのだが、あまりにも身勝手な論調展開に義憤を感じたので少し概要を紹介しておきたいと思う。

一連のチラシで最初に目に止まったのは地元地名がついた「●●区民新聞2007年1月号外」というものだ(1月号外となっているが3月に入ってポストに入っていたように記憶する)。
大きな見出しがつけられており「子どもの医療費 4月から中学3年まで無料に」というもの。「区政アンケートを行なった」「議会で提案した」ことが書かれていて、この陣営(会派)が実現したと思わせる論調になっている。

次は3月30日付になっている「▲▲▲▲党●●区議団ニュース」だ。
大きな見出しは「こども医療費中3まで無料、いきいき健康券実施」。論調は前出のチラシと同様だが、大きく違うのは「予算に反対したのに実現したと言えるのか」「議会で質問しただけで実績と言えるのか」という党外からの指摘に反論している点だ。

最後の3枚目は告示前日の4月14日(土)のチラシだ(私が気づいたのは翌15日だが告示以降の届出のないチラシ配布は選挙違反のため14日にポスティングしたのだろう)。
これに書かれていたのは地元小学校敷地内に開設された学童クラブがその陣営(議員候補本人)の実績だというものだ。

地元での経過などがわからないと、どれも「なるほど」と思われるかもしれない主張だが、事情を知っている地元住民からみると実績詐称以外の何ものでもない。
上記の会派の議員候補たちは告示前から繰り返し「私たちが医療費無料化を推進」などと街頭演説やチラシで宣伝していた。その根拠としてチラシにもあったように「議会で質問した」「署名を行なった」ことを挙げている。
しかし、議会で質問しただけで、署名を集めただけで、「その政策を実現した」と言えるわけがないのは誰が考えてもわかることだ。
そんなことを言っていたら
「実現しそうな政策について一言二言質問しておこう」
「急いで署名を集めて出しておこう」
ということをやって、「政策を実現した」と全議員が主張し始めることになる。
そんな論理が通るはずもない。
議会での質問は議員としての職務でもあるが、それと「自分が実現した」と主張することは次元が全く異なる話だ。

もし仮にある小学校で志のある小学生が学校をきれいにしようと自ら早朝の清掃活動を始めたとする。地道にコツコツと何ヶ月も続けて有志の友人も一人二人と増えてきた。
その様子を見ていた要領のよい全く関係のない同級生が、学校の先生達に「学校をきれいにすべきだ」「私がその主張をしている」とパフォーマンスをして「このとおりみんなが清掃を始めている」「これは私が言っていたことが実現したのだ」と主張して、真実を知らない地域社会から表彰されたいと願うようなものだ。

●政策を実現するために、住民の皆様から理解が得られる財源を確保する。
●公平で効果のある実施計画を策定し実施方法を精査し、決定する。
●関係する部署、諸団体と問題点を協議し、様々な付帯事項等を解決する。
●財源と実施要綱案に基づき、予算案を策定し、審議、決定を行なう。

これらの地道な努力を行なって、はじめて政策を実現したと言えると私は主張したい。

学童クラブの設置に至っては、墓穴を掘ったといえるだろう。
設置した小学校長も、実際に陳情をした保護者、PTAの方も上記会派の議員達が動いたという事実はないとはっきり証言している。
「学童クラブ設置のために動いたのは他の人だ」と、皆が口をそろえて他の会派に所属する議員(仮にT氏としよう)の名前を挙げる。
・実際に放課後に児童が過ごす学童クラブの定員が少なく、要望を聞きに来てくれた。
・この話を聞き、建設のための複数の候補地を交渉した。
・区議会に地域住民から要望書を提出し可決された。
・その後も現実には問題が噴出し、特に区と折衝して予算を確保した。
・難航した建設場所については現在の小学校長が英断して決定した。
・当初2007年4月予定だった開所時期を、子供たちのためにと2006年12月に繰り上げてオープンさせた。
これらの問題の解決のため、T議員が動いて一つ一つ事を進めていったことが、区関係部署や区議会の議事録にはっきりと残っている。
そしてなによりも関係した地域住民の声が証明している。
私も地元住民のひとりとして、一昨年からこうした経緯を見守ってきた一人だ。
問題のチラシに書かれているような、数回要望した程度で開設できるほど単純な問題ではないのだ。
前述のチラシが真実なのか?
事の真偽がどこにあるのか?
誰が嘘をついているのか?
少なくとも学童クラブについては事実としてはっきりとわかるのだ。
それを真実を捻じ曲げたチラシなどで言いくるめることができると思っているとしたら、相当庶民を馬鹿にしているに違いない。

こうした言葉の虚偽が横行してきたのが今までの日本の政治なのかもしれない。
このチラシや虚偽の主張をばら撒いている会派(政党)は、広告宣伝による世論操作を行なってきた歴史もあるのかもしれない。
最終的な目的達成のためには、途中の手段の選択は誇張や虚偽も許されるような信念、方針なのかもしれない。
しかし悪事に大も小もないと私は思う。
人として許されないことをやった人間に私達の代表として政治を任せることができるだろうか。ましてや政治は私達の子どもや孫の世代に連綿と続く、今生きている世代の責任が問われる偉業である。

善悪を見抜く賢明な有権者の投票行動を望みたい。


2007.4.11【今度は民主の風が吹くのか】

統一地方選挙の前半戦は、投開票が4月8日(日)に行なわれた。
私の住む東京都ではマスメディアの関心を集めた都知事選挙だった。
結果は投票者の半数余りの支持を獲得した石原慎太郎候補が3選を果たした。
とかく「石原圧勝」が報じられているが、現実は果たしてそうだろうか?

知事選挙は1名の当選者を選び出すという意味でわかりやすい対立構図だ。
その意味では対立軸として自民vs民主を代表する代理選挙という報道もあったが、必ずしもそうではないだろう。
浅野氏敗北は単純に石原vs浅野という個人候補の差による要因が大きい。
様々な政策について異論反論もありながらも、総体として一人の候補を選び出して投票を行うというのが選挙のしくみである。

今回の選挙への関心は高く、東京都知事選挙での投票率は、4年前に比べて10ポイント余りアップした。(今回54.35%,前回44.94%)
当日有権者数は10,238,704人だったので10ポイントは約100万人に相当する。
この100万人の有権者の投票行動に注目することが重要な視点のひとつだ。
個々に確認することはできないので統計的に推論することになるが、その一環としてマスメディアが報道するのが出口調査をもとにした無党派層の投票行動だ。

読売新聞社による出口調査では無党派層の38%が石原候補、36%が浅野候補に投票したと報道されている。ほぼ互角に分け合ったということだ。したがって普段から支持政党を持っている有権者の多少によって勝負が決せられたというのが読売の分析のようだ。

しかし果たしてそうだろうか?
近年、都市部特に東京では無党派層と呼ばれる有権者カテゴリが定着したかのように報道されている。無党派層と聞くと
「あまり選挙に行かない」
「一定の政治的信条がない」
「直前にその都度投票する候補を決める」
といったイメージがあるように思うが、私はそのようには思っていない。

現在の無党派層には大きく二つのパターンがあるように思う。
ひとつは、政治自体にあまり関心がない人たち。
もうひとつは、自分が託するに足りる政党がみつからない人たちである。

前者は多くの人が従来から持っているイメージの類型であるが、後者が近年増えているように感じる。
つまり、毎回選挙には行くが日常的に思想信条を一にする政治パーティはないというパターンだ。
多くの候補者は、この「無党派層」の支持をいかに取り付けるかに腐心している。政治に関心がない人達に住民としての自覚を訴えるのは非常に重要であると思うが、評価されることを最優先するのは、ある意味で本末転倒であると感じている。

本来、多くの候補者の中から一人の人を選ぶには、それ相当の理由がなくてはならない。
それは公人としての実績であり、人間性も必要だ。間違ってもルックスや実現させる決意に欠けた耳障りのよい公約ではいけない。

日本社会が成熟したと言われる「56年体制の崩壊」以降、選挙のたびに言われるようになったキーワードがある。
それは「風」である。
私は個人的には好きでない表現であるが、マスメディアはなぜか多用してきたように感じる。「風をよむ」などというコーナーを続けている報道番組もあるほどだ。
しかし、政治は「風」なのだろうか。
本当に風を読むつもりがあるなら、風が起きるその原因を探るはずだ。
つまり、表面化された政策やマニフェストの基礎となる政治信条や理念だ。
自民党一党による政治からの脱却を期待する有権者の受け皿となるべき、過去に「風」を受けてきた多くの政党のすべてが、その後数年で党命を絶ったという事実は何を意味するのだろうか。

今までの固定概念を捨てて、今一度、正視眼で政治を見つめ直したい。

《関連リンク》
東京都選挙管理委員会
東京都知事選挙
統一地方選「前半の部」は与党が優勢


2007.4.9【第9回黎明塾<情報収集と市場需要の測定>】

今月4月7日(土)に第9回の黎明塾(経営塾)を開催しました。
今回のテーマは『情報収集と市場需要の測定』です。

黎明塾の講義構成がフィリップ・コトラー氏の『マーケティング・マネジメント』の章立を踏襲していることからもわかるとおり、経営の基本にはマーケティングマネジメントをすえるべきであるというのが当塾の底流にあります。
しかしコトラー氏の自説を紹介するのが目的ではないことも参加しているメンバーには理解いただいていることでもあります。

さて一貫して確認していることのひとつが「市場は常に変化し続けている」。
この表現に象徴されるように、市場を的確に把握し続けることは経営の重要な基本的仕事のひとつです。
今回とりあげた情報収集という仕事は、とかく狭義的に捉えられることが多いように感じます。分析を必要とする現場情報よりも、収集分析されたサマリーのみを要求する経営者によく出会います。
確かにデータは日常業務の中から生成されますし、社外からの情報収集には担当部署を設けることが現実的といえます。

そのうえであえて申し上げておきたい。
「情報収集と市場需要の測定は経営者の仕事である」。

《当日の様子など↓》
第9回黎明塾 http://www.prosecute.jp/reimei/009.htm
《マーケティングリサーチの実務をテーマにした執筆↓》
マーケティングリサーチは事業成功の必須要件だ
http://www.prosecute.jp/activity/theme03.htm


2007.4.3【ピラミッドは内側から作られた!】
古代文明の象徴の一つであるエジプトのピラミッド。
この太古の建造物の謎に新説が発表された。
クフ王のピラミッドの建設にあたって、巨大な石を運び上げるためにピラミッド内部に位置する回廊が設けられて、内側から外に向かって積み上げていったというものだ。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070401-00000546-reu-int

記事でも紹介されているが、従来定説とされていたのは
(1)ピラミッドの外側にらせん階段を作って運び上げた
(2)土を盛って巨大な直線の傾斜台(スロープ)を作って運び上げた
のいずれかで、NHKなどの番組では(2)を元にCG画像が制作されていた。

しかしいくら巨大な権力を持っていたエジプト王とはいえ、(2)説はあまりにも無駄が多いし、(1)説は重力的にも作業的に困難があるように思えてならなかった。
今回の新設の詳細はわからないが、第一報の印象としては「真実に近い」という気がする。

人類の太古のロマンに夢が広がる。

2007.3.31【ブッシュのエタノール政策に疑問】
先日のメディアが、アメリカのブッシュ大統領が3月26日(現地時間)に3大自動車メーカー(ビック3)首脳と会談を行い、バイオエタノールを国策として普及拡大することで合意した旨を報道している。
http://www.sankei.co.jp/kokusai/usa/070328/usa070328000.htm

3月始めには、ブラジルのサンパウロでルラ大統領と会談し、温暖化ガス削減につながるエタノールを国際的に取引しやすくするための共通の基準作りを模索し始めている。
ブッシュのエタノール政策は地球温暖化という未来の世代への課題を果たそうという純粋な動機でないことは誰の目にも明らかだ。

バイオ・エタノールによる温暖化ガス削減効果は決して大きくない。
私個人としては、本来、生命を育むことが主目的たる農業作物をガソリン代替品として消費することに大きな抵抗感がある。少なからずの人達に同様の感情があるのではないかと思う。
事実、アメリカ国内では、バイオ・エタノールの原料となるトウモロコシ栽培に転換する農業経営者が続出している。恣意的な生産物の偏りが発生し始めており、今秋以降の農産物市場の偏重が危惧される。加えてトウモロコシ相場が急騰しており、元々トウモロコシを飼料として利用している畜産生産者には大打撃となっている。私も懇意にしている仙台市の花兄園も飼料コストの高騰に危機感を募らせていた。

アメリカが自動車文化を手放せないとしても、燃料電池などの圧倒的に環境負荷の小さな技術も実用化されている現状の中で、ブッシュはなぜエタノールなのか?

予測される答えはわかりやすい。
現在自動車メーカーが保有している設備と技術の応用で対応できるからだ。つまり現行の自動車産業を守ることが最重要課題なのだと指摘されて反論できないと思われる行動を展開しているにすぎない。

どこまで身勝手な行動をするつもりなのか。
誰かブッシュの暴走を止められる人はいないのか。

2007.3.【宮沢賢治作『銀河鉄道の夜』を読む】
3月17日(土)に第24回桂冠塾を開催しました。
今月の本は『銀河鉄道の夜』(宮沢賢治)です。
多くの人が小中学生の頃に一度は読んでみた(ふれてみた)ことがある作品だと思います。

賢治の人生を辿ってみると、真剣に生きた人生って素晴らしいんだなぁという思いと、寒風に吹き晒されたようなどこかせつなく心がしめつけられるような思いとが、複雑に交錯する感じがしばらく続きました。

宮沢賢治のような人物が実在したんだという事実、そして志半ばで斃れてしまったのはどこに原因があったのだろうかという疑問を、改めて今後も考えてみたいとも思いました。

作品の中に「ほんとうの幸(さいわい)」という表現が何度か出てきましたが、現代に生きる一人一人にとって幸せって何だろうと考えることは、ことのほか少ないのかもしれません。
自らの幸福と自分以外の人の幸福との関係はどうあるべきなのか。
世知辛い現実に生きていると永遠の課題のように思えますが、自他共の幸福こそが真の幸せであってほしいと願っているのは私一人ではないと思います。
そのためにも、身近な一人を大切にする。
自分は嫌な思いをすることがあっても人にはさせない。
自他の幸福は共に実現できるのだという生き方の中に真実があるように私は思います。

今一度読み返してみるのもいいなと感じる一書です。

《当日の様子などはこちら→》http://www.prosecute.jp/keikan/024.htm
《関連リンク》宮沢賢治記念会 http://www.miyazawa-kenji.com/

2007.3.19【宮沢賢治の故郷を訪ねる】
今月3月12日(月)岩手県花巻市を訪問しました。
前日から降り始めた雪が一晩かけて降り積もり、昼間も間断なく降雪と激しい風が続く吹雪の一日。時間の都合もあり、宮沢賢治記念館と賢治の家の2ケ所を見て回りました。

宮沢賢治記念館は奇抜なアイデアがあるわけではありませんが、豊富な資料で充実した展示内容。随所に真面目な工夫が施されていました。
館内を「時代・地域・生家」「信仰」「科学」など8つの部門を中心に構成。賢治の人生と思想的背景を辿ることができるようになっています。
賢治が関心の高かった鉱石や化学反応、星のついては小さなブースを設けて、ひとつひとつに映像と音声が流れるようにボタンがついたボックス席が用意されていました。
代表的な童話作品については、音声と投影されたイメージのイラストで紙芝居形式のスライドが見られるようになっています。これらのコーナーだけでも子供から大人まで惹きつけられて楽しく、勉強にもなる内容です。

中央にはプラネタリウムのイメージのドームが作られており、銀河鉄道の夜で登場する星座や星の位置がわかるようになっています。ここも音声でのガイドが組み込まれており、花巻での地平線もわかるようになっています。
そのほかに20分おきに賢治の生涯をまとめたビデオ映像が上映されているほか、特別企画展示室も設けてあります。私が行った日は童話「フランドン農学校の豚」の作品内容がイラストと立体模型を駆使して展示されていました。おもしろかったです。

賢治の思想の大前提には信仰があり、それを外して賢治の人生を語ることはできない。そのことを実感させられる深みのある展示です。
時間が許せば一日ゆっくりみて回りたくなる記念館です。皆さんも是非足を運んでみて下さい。入館料大人350円もとても良心的価格です。

その後、「賢治先生の家」と呼ばれている建物を見学しました。ガイドブックでは「賢治の家」と呼び捨てになっていますが、現地に行ってみると案内板には「賢治先生の家」とあります。その場に立ってみて初めて実感しましたが「賢治先生」と呼ぶ気持ちがわかりました。多くの人が同様の体験をしているのではと思います。
記念館からは車で15分ほど。県立花巻農業高等学校の敷地内にあります。
到着した頃には暴風雪の状態に(+_+)車を降りると前を見ることもできません。とりあえず構内に車をとめて歩き始めると後ろから声が...。「大変な天気になっちゃいましたね〜」振り返ってみると頭までかっぱをかぶった女性の方。風雪に飛ばされないように私もジャンパーのフードをかぶっているので、お互い両手で顔を抑えながら話を聞くと、この学校の先生でした(*^_^*)
「今日はどんなご用件で?」「宮沢賢治の家を見に来ました」「こんな日に大変ですね〜どこから来たんですか」「東京です」「ひぇ〜大変な日にきちゃいましたね」「そうですねもうびっくりです(+_+)こちらはよく降るんですね」「今年は全然降らなかったんですよ〜積もるほど降ったのは今日が初めてです!」
大変な日に来たもんだと改めて実感しました(^^ゞ

受付で鍵を預かって、先ほどの先生に挨拶をして賢治先生の家に自分だけで向かいました。
ここの説明は...機会があれば是非一度行って実際に感じてみてください。
賢治が花巻農学校の教師の職を辞して、羅須地人協会をつくって活動していたときに住んでいた家が移築されたものです。

賢治はここで約2年にわたり農耕自炊の生活を送っています。自ら荒地を開墾し、地域の農民たちに肥料配合の指導を行なうなど自他共の幸福を目指して彼なりの理想郷<イーハトーヴ>を作ろうとしたのではないでしょうか。
しかし志半ばで賢治は病に斃れます。地域の農民達にも最後までとけこむところまでいけなかったという指摘もあります。

経済的にも恵まれた生家での生活を棄ててまで賢治が貫こうとした生き方とはなんだったのでしょうか。激しい吹雪の中ですきま風がびゅんびゅん入ってくる賢治の家で、私の思いはいろいろな方向に広がっていくのを感じました。
賢治が生活した頃もこんな寒さの辛い日が多かったんだろうかと思いながら、晴れた暖かい日に来たのではないことを幸運だったと思いました。
この施設を維持管理するのは本当に大変な苦労があるのだと思います。見学料もとらずに長年管理していただいている花巻農業高等学校の皆様に深く感謝しながら、施設をあとにしました。

【関連リンク】
宮沢賢治記念会 http://www.miyazawa-kenji.com/
花巻農業高等学校 http://www2.iwate-ed.jp/hka-h/
読書会<桂冠塾>『銀河鉄道の夜』 http://www.prosecute.jp/keikan/024.htm

2007.3.15【事業を遂行する者の資質とは】
最近ある人から打診されたことで考えさせられることがあった。
私が進めているある事業に関連して「よいタイミングで自分をその事業の関係者に紹介してほしい」という依頼である。
その方にとって元々関心のある分野だったようだが、その人の今までの来し方を知っているだけに、正直なところ返答に窮してしまった。

営利活動のみならず地域活動や社会貢献などのNPO、NGOにわたって、こうした依頼は時おりある話だ。実際に月に数回はそうした話もする。
しかし人と人をつなぐということは、それ相応の責任が発生する。
重要な点として、そうした依頼する人の意識を見極める必要がある。
真剣に全力で取り組もうとしているのか、それとも興味がある程度の軽い気持ちなのか。
事業に関わるとしても、その人にその資質があるのか。
資質があったとしても、受け持った役割を責任を持ってまっとうできるのか。
もし適切でない人物を紹介すれば、仲介した自分自身に責任が発生するのは当然だ。事業自体にも悪影響を及ぼすことになる。

一概に言えないが今までの経験から類推すると、知人を介して重要案件を依頼する人の中には主体性に欠ける場合が少なからず存在する。
ではこうした見極めを的確に行なうのはどうすればよいのか。
その根本は信念理念に根ざした自分自身の判断基準を醸成することにつきる。その理念を築き上げることが経営者としての必要資質である。
しかしそうはいっても、多くの人はわかりやすいチェックポイントを聞きたがるだろう。今までの経験からいくつあげてみると...

□約束の時間が守れない
□自分が発言した内容をよく忘れる
□自身の発言に一貫性がない
□自分のスケジュール管理ができない
□一度決めた小さな目標に対しての執念がない
□個人的に金銭を借りて返していない
□面倒なことは極力避けようとする
□他人にお願いできることはやってもらおうとする
□できるだけ働かないで暮して生きたいと思っている
□自分の行動がどのように回りに影響するのか考えることが少ない
□決断すべき時を先延ばしにする傾向がある
□損得を考えて得にならないと他人のために動けない
□自分以外の人の立場でものを考えることができない
□他人の欠点をみつけると徹底して攻撃する
□自分の都合にあわせて建前と本音を使い分けている
□見つからなければマナーは守らないことが多い
□自分を正当化する為に右と左の人に違うことを言う
□たとえ自分が間違っていても言葉でごまかせると思っている

これらの項目のうち2つ以上にチェックがつく場合は事業に参画させないと判断することだ。
また自身に置き換えてみて、生き方を修正していくことが大事だ。
上記のような生き方ではいけないと思いつつ惰性に流されている人は多い。
もし上記の指摘が「なんでいけないの?」と思うようであれば、問題は深刻だ。
なぜ人はそれぞれの環境に生まれて、千差万別の環境にもみくちゃにされて生きてきているのか?
それを自分以外のせいにするのか、自身が望んで挑戦していけるのか。

人生も事業も、常に変化の連続だ。
一瞬たりとも不変ということはありえない。
変化には必ず兆し(きざし)がある。
この兆しに直面したときに、勇気を持って取り組もうとするのか、変化することを煩わしく思ってできる限り避けて通ろうとするのか。
漢字では、兆しに取り組む姿にみえるのが挑(ちょう)であり、避ける道をとおる姿を思わせるのが逃(とう)である。挑は挑戦であり、逃は文字通り、逃げることである。

ピンチはチャンス。
困難を飛躍できる千載一遇の時と捉えて喜んで立ち向かえる自分自身でありたい。

2007.3.14【どのように理解しろというのか松岡農相事務所費問題】

昨日3月13日の参議院予算委員会の集中審議において、事務所費問題を追及する野党議員の質問に対する松岡利勝農林水産大臣の答弁を聞いた。

「年間五百万円かかっている水道光熱費は法律に基づいて処理しているというだけでは国民は納得できないのではないか」という質問に、松岡氏は「法律に則って適切に処理している」「私の判断で公開するわけにはいかない」と答えていた。
加えて安倍総理大臣には「松岡大臣に公表を迫るつもりはないのか」という趣旨の質問があったが安倍氏は「法律に則っているので問題はないと認識している」という答弁だった。
〔関連記事〕
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20070313i113.htm
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20070314i207.htm
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20070313i111.htm
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070309-00000011-gen-ent
↑これはおもしろい(日刊ゲンダイの直撃取材)

私などが多くを語る必要もないだろう。
法律解釈の面や行政実務としては、もちろん落第点だ。
文脈を問う現代国語の試験問題であっても合格点とは言えないだろう。
不備のない法律などない。不正の入り込む余地があれば、疑念を晴らすために法律に定められた以上に透明性を高めるのは人間として当たり前の行為であり、行政立法に携わる人間にはより高い倫理性が求められる。

もちろんそんなことが一番わかっているのは答弁している松岡氏と安倍氏のご両人だ。わかっていてそんな答弁を繰り返すのは、公開すると都合が悪いか、もっと他に都合の悪いことがあるので国民の意識を事務所費に惹きつけているか、どっちかだろうと俗人は勘ぐるものだ。

安倍氏と松岡氏に贈る言葉。
「李下に冠を正さず」
よい機会だから覚えておくのもよいことだ。

安倍氏の政治手腕には期待したいところだが...
最低限の期待として「史上最も仕事をしなかった内閣」と言われないように一つか二つは国民のために頑張ってもらいたい。

2007.3.7【本当に勝手気ままな親が起こした事件だったのか】

昨日の読売新聞にある事件の背景が掲載されていた。
昨年2006年12月30日に埼玉県和光市に起きたアパート火災で、出火した部屋に一人残されていた2歳の男子が焼死した事件だ。
〔事件後の報道など↓〕
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/jiken/news/20070219k0000e040021000c.html
事件直後や書類送検が報じられた際には、マスメディアやWebでは若い母親への非難が集中していた。
報道を目にして私もやりきれない思いがこみ上げてきた。しかし、何か別の事情がある可能性もありうると感じてコメントをしなかった。一つには私にも2歳半になる子供がいるので「一人でも大丈夫だと思った」という感覚が腑に落ちなかったためでもある。ただ遊びたいだけの自覚のない若い母親が起こした事件とは、短絡的に思えなかった。

2歳の子供を一人にしてスノボ−に行けた精神構造が生まれたのには、やはり背景があった。
Webで検索したがこの記事が見つけられなかったので、3月6日付読売新聞朝刊19面からその概要を紹介する。

・この一家は2年前にアパートに入居(男子の年齢から類推すると出産直後か)。
・事件の1年程前に父親は別居、母子2人暮らしになる。
・20歳で妊娠し親の反対を押し切って結婚していたこの母親は自力で育てることを決意。
・時給の高い深夜の調理の仕事に就いていた。
・夕食と風呂の後、子供を寝かせつけて22時に出勤し翌4時過ぎに帰宅する生活。
・子供と朝食を食べ、昼間は子供と一緒に過ごす毎日を送っていた。
・男子は乳幼児健診や予防接種は欠かさず発育も順調だった。
・保育所申請や行政への相談もなかったため自立可能な家庭と見られていた。
・公的な支援を受けたことはなかった。
・警察の調べでは近隣には深夜や年末時期に手頃な金額で子供を一時預り施設はなかった。
・育児と仕事に明け暮れる中、一日くらい骨休みしたいと思って行ったスノボーだった。

この家庭においては、夜間とはいえ1〜2歳の子供が一人でいる時間帯が日常的に発生していた。私たちが考えているよりも低いボーダーが日常に蔓延し、次第に危険が迫っていたのだ。スノボ-には午前5時に出発し出火直後の22時過ぎに帰宅している。直前まで仕事をしていたとも考えられる時間帯だ。スノボーの後に、そのまま仕事に行くつもりだったのかもしれない。本質的ではないが、あと10分、15分早く帰宅してくれていれば男の子は死なないで済んだのかもしれないとも思ってしまう。

この事故は避けることができなかったのか。
もちろんその母親が事件を引き起こし、我が子を焼死させてしまった事実が覆るわけではない。それでも、親子2人の母子家庭で、1〜2歳の男子を抱えて、公的支援を受けることなく、親族や地域にも支援されずに、事故なく、自分が働いて養っていこうとしている20歳前半の若い母親が、まともに生きていけると思うほうが無理があるのではないだろうか。

たしかに親族にも事情があるだろう。
地域の住民としても入り込めるまでに親しくなれなかったのだろうとも思う。
しかし、もう少しだけ親身になれる近隣の友人、親族者がいなかったのだろうか。
現代を生きる私たち一人一人は、この事件を自身の教訓にしなければならない。
この母親と男の子のためにも。

2007.3.2【誰のための国会審議か】

2007年度予算案の通過巡って与野党の攻防が激化しているという報道を目にした。
「うん?そんなにもめるような争点ってあったんだっけ?」
自分の関心が低かったのかな(^_^;)と反省しながら記事を読むと・・・
【Webの掲載記事↓】
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070302-00000106-yom-pol
http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/kokkai/news/20070302k0000m010127000c.html

やはりというべきか、与野党が対立するような重要な争点はどこにも書かれていない。
野党は審議不十分というが4月からの予算執行を考えれば、この時期の可決を目指す与党の姿勢に妥当性があるのは明らかだ。
結局、様々な不祥事や事務所費問題を明らかにしない閣僚の不信任決議案などを提出するつもりなのだろう。

不祥事や疑惑の追及は徹底してやっていただきたいが、それと予算審議を拒否することは次元の違う問題だ。様々な利害関係が入り組む現代にあって、単純な対立構造でもよしとした60年代や70年代の政治手法のような国会運営では、国民の理解が得られるはずがない。
予算執行が遅れるようなことがあれば、確実に不利益を被る社会的弱者がいる。
予算審議の決議は、庶民に密着した重要案件なのだ。

前回、予算案が衆院本会議で与党単独採決されたのは1989年のこと。
今回そのような結果になれば18年以来の異常事態となる。
誰のための国会審議なのか。
審議拒否している野党、議員はよくよく考えてもらいたい。

2007.2.27【毎週の憂鬱 月曜日】

このところ月曜の夜が終わり、深夜に帰宅すると憂鬱になる。

どの分野にすれ、リーダーたるものは事業目的の達成が使命として課せられている。3〜6ケ月の短期決戦であればなおさらだ。

少しよくない数字が出てくると、すぐに方針を変更する。
意味のない動員がかかる。
方針打ち出しだ、報告だと言って、会議や会合の回数が増える。
報告する数字ばかり見ていて、現場の個別状況を把握しようとしない。
内を伸ばさずして、外の結果ばかりを追いかける。

すべて敗北の方程式だ。
どこが最終的にウィークポイントになるか。そのくらい着手前からわかっていてあたりまえだ。現場の一兵卒でさえわかっている事実を理解していないかのような発言がリーダー間で飛び交う。
方針を変えるとしても伝え方もあるはずだ。すぐに舵を切れない人だっている。相手先への配慮も必要になる。「自分は器用ではないから」と方針が発表された直後から、その方針に沿って地道に準備を進めてきた同志だっている。
「方針が変わったから行けかなくていい」「キャンセルするように」と一刀両断されては、そうした人達はどうしたらいいのか。心待ちしている方にも礼を逸することにならないか。
人との関係において、自分の都合のみで行動することの影響も考慮すれば、しかるべき方針変更の打ち出し方、指揮のとり方があるだろう。

先哲の経験と智慧が活かされていない。
それに学び、活かそうという思いが薄いのだろうか。
数字を追いかけるが「その数字は当てにならない」と公然と言い放つ。であるならば、信頼できる数字とは何か、それを明示するのがリーダーである。
煽られれば人は動くとでも思っているのだろうか、そこに思想哲学を感じることは、ない。

信頼できる状況を作りこむためには具体的に何を行動するのか。
そうした個々の具体策が出てくる背景には何があるのか。
目下の課題と遠大な構想の課題とはどのような関係にあるのか。

それだけでいい。
真のリーダー不在を痛感する毎日である。

2007.2.26【小沢氏ばかりではない政治家の甘さ】

政治資金の透明化をめぐる論議は遅々として進まない。
一部では「痛み分けか」などという発言まで出ているようだ。
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2007022500064

何が痛み分けなんだろうか。痛い思いをするのは都合の良いようにお金を使われている国民の我々であって、自民や民主の議員達ではない。
結局、自民の議員も民主の議員も事務所費を含めた政治資金各内容に関する領収書の添付については消極的だ。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070223-00000113-mai-pol

一方、地方議会では説明責任を果たそうという動きが出てきている。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070226-00000045-mai-pol

お金に清潔で自らの襟を糺すことは議員としての最低必須条件のひとつだろう。
政治能力や実行力云々の以前の話である。

2007.2.25【新渡戸稲造の『武士道』を読む】

2月度の読書会【桂冠塾】を24日(土)に開催しました。
今回取上げた本は新渡戸稲造氏の『武士道』です。

『代表的日本人』『東洋の理想』と並び、1900年を前後して英文で発表された明治を代表する作品です。この作品は日本人の思想を欧米に紹介したとされていますが、必ずしも論理的記述を踏んでいないため、「読む」のではなく「読まれてしまう」作品でもあると感じています。
今回改めて4回繰り返し読みました。それは何故でしょうか。
新渡戸氏が展開しようとしている主張がすっと入ってこないのです。
文体の問題(矢内原忠雄氏の訳が現代表現ではない)も少なからずありますが、新渡戸氏の話の展開に違和感を感じたからです。

結果的に言えば、新渡戸氏が主張している論点は正しくないのだと思います。
武士道の入門テキストとして読めば適切な本だと思いますが、新渡戸氏が主張するような日本固有の道徳観念は武士道によって形成されたという事実はないのだと思います。
あえて新渡戸氏の主張に沿う分析をするならば、農耕民族から始まったとされる日本において職業的に分化された武士の流れと、日本古来の自然崇拝に根ざした神道、当初から政治に利用されてきた仏教の流れが、武家政治(なかんずく徳川封建政治)の安定を目指す目的で、民衆の思考の成長を鈍化させ、道徳的にも哲学思想的にも未成熟な民衆を作ってきたのが武士道の一側面であるといえるでしょうか。
儒教の影響についても新渡戸氏が主張するような本源的なものではなく、執筆時点からさほど遡らない徳川期の影響が彼の実体験の中で強いのだと思います。

当日は、新渡戸氏の経歴と思想、執筆の背景等を確認しながら、3時間にわたり様々な視点から『武士道』を論じました。
《当日の様子はこちら↓》
http://www.prosecute.jp/keikan/023.htm

時間的な制約がなければさらに議論を続けたい気持ちをおさえて今月の桂冠塾を終了しました。
3月は17日(土)開催です。
取上げる本は『銀河鉄道の夜』(宮沢賢治)です。

2007.2.22【長野県松本市と安曇野市を訪ねる】

今月(2月)10〜11日に長野県安曇野市と松本市に小旅行してきました。
10日(土)朝9時半、自家用車で2歳5ケ月の我が子と妻の3人で我が家を出発。大泉インターから関越道を利用して北上。藤岡JCTから上信越道に入り、更埴JCTから長野道を南下しました。
例年ならスキー渋滞の特異日なのですが暖冬の影響で大きな渋滞もなく、途中の横川SAで休憩しながら13時半には豊科ICを出て、安曇野市三郷明盛(旧・三郷村明盛)に向かいました。

20070211_3_1 この日訪ねたのは上田太郎先生です。
上田先生はうちの奥さんが山岳をやっている関係で山で知り合った日本を代表する山岳画の第一人者です。前日の連絡にも関わらず、御夫妻で快く迎えていただきました。
夕刻まで3時間ほど、上田先生の故郷の話をはじめ、松本や安曇野の山々との出会い、画家を志すまでの苦難の時代、今後の展望など、色々なお話を伺うことができました。
今年は4月に第66回の創元展(主催:創元会)、10月には松本市市制施行100周年を記念した北アルプス山岳絵画展が予定されており、創作活動の最中でした。
両展とも是非行かせていただこうと思っています。
個人的なことながら、上田先生は昭和9年生まれで私の両親と同じということもあり、まだまだ元気で活躍されることを祈っております。

夜は長嶺荘に宿泊しました。安曇野市(旧・明科町)直営の宿泊施設です。
浴衣、丹前、ハブラシ、タオル、バスタオルが備え付けです。ふとんは宿泊者が自分で敷きます。築年数が相当経過している感じがありますが(^_^;)古いのが気にならない人にはお奨めの宿です。安曇野地域にはペンション等がたくさんありますが、その多くは山裾側のため山並みを眺望することができませんが、長嶺荘は河川を挟んで対岸側に建っているので、北アルプスの絶景が眼下に広がっています。
20070211_1 この眺めは断然お奨めです。一望の価値ありです!
宿泊できる部屋数も比較的少ないので食事やお風呂が込み合うことも少ない感じです。ただ日帰り入浴ができるため男湯は夜9時までは地元の人も多いですね。露天風呂は夜9時まででしたが内風呂は24時間入浴できます。私は20時過ぎと翌朝に利用させていただきました。温泉だと思い込んでいたのですが(^_^;)帰宅後にパンフレットをよくみると「人工鉱泉」とのこと。泉質はラジューム複合弱アルカリイオン泉。ラジウム成分を溶かし込んでいるようです。私は入浴後も身体が温まって軽く汗をかいていましたので個人的にはとても満足できました(^_^)v
朝食は食堂でいただきました。ご飯は夕食朝食とも自分でよそいます。和食でメニューの選択はありませんが(^^ゞ素朴で私は気に入りました。朝はドリップしたコーヒーも料金内で飲めます。

20070211_2 11日(日)は近くの犀川(高瀬川、穂高川が合流したすぐ下流付近)にある白鳥飛来地を訪れました。例年であれば積雪があることを思うと、白鳥に身近で触れ合えるのは本当に貴重な体験です。この日は400羽近くが飛来していたのではと思います。ボランティアの方々がえさとして麦やパンの耳を用意されていました。大変な苦労だと思いました。
このえさを目当てにかもとトンビも集まっており、雄大な自然の中で野鳥が成育している一端を垣間見ることができました。

お昼ご飯は松本市内でと思い、その前に市内に住む柳原哲男さんという知人を訪問しました。やはりうちの奥さんの山岳関係の方です。上田先生が山岳画の製作のために登山する際には画材などを担いで上るなど、上田先生が一緒に山を歩く北稜会の幹事もやっていただいている方で、うちの奥さんも一緒させていただいたことがあるので近況伺いがてら自宅を訪問しました。
ちょうど在宅されており、近くのファミレスで2時間半ほど一緒に食事をしました。
聞くとそれはそれは多忙の様子です。
仕事の合間に、10月の北アルプス山岳絵画展の事務局長、3月の選抜高校野球に母校が出場となりその支援が毎日のように...。お話をしていて感じたのですが人徳がある方なので何かと頼まれるのだろうと推察しました。

14時半過ぎに柳原さんとお別れをして、塩尻北インターから長野道〜中央道を使って19時に自宅に帰ってきました。ルート的にはぐるっと一周した感じですね。
我が子にとっては初の安曇野・松本訪問。時間的にも無理なく、友好も重ねられ、自然に触れることができた有意義な安曇野・松本でのひとときとなりました。

【関連リンク】
創元会 http://www.sogenkai.or.jp/
松本市制100周年事業 http://100sai.city.matsumoto.nagano.jp/
長嶺荘 http://www.anc-tv.ne.jp/~nagami1/
安曇野市HP http://www.city.azumino.nagano.jp/

2007.2.21【小沢一郎のずれた感覚に唖然】

昨日来のメディア報道で民主党代表の小沢一郎氏が20日午後、衆院議員会館で記者会見を行なって自身の資金管理団体の事務所費の詳細を公表した旨が繰り返し伝えられている。
【主な記事はこちら↓】
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070220-00000122-jij-pol
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070220-00000132-mai-pol
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070221-00000000-maip-pol

この話題は私は1月13日付のブログ【襟を正すべきは誰か】で既に触れているのであえて書くこともないかと思っていたが、適切な報道のコメントが殆ど見受けられないので、小沢氏の政治感覚、庶民感覚のあまりのズレ、倫理観の欠如にもう一度触れ、多くの人に一考を求めたい。

小沢氏の資金管理団体「陸山会」の所有する不動産が12件で取得総額は実に約10億1900万円に上る。近年の主なものでは
・深沢事務所・寮・作業場地代(約3億4300万円)同建築費等(約2600万円)など東京都世田谷区の土地・建物購入費 総額約3億7900万円
・仙台事務所・寮購入関係 約3400万円
・盛岡事務所・寮購入関係 約2800万円 などだ。

政治資金で不動産を購入するのは不適切との指摘が噴出しているが、当然だ。
小沢氏は陸山会の所有する不動産12件すべてについて小沢氏個人が権利を持たないことを明記した確認書を交わしたと説明し、そのコピーを公表した。小沢氏が政界引退または死亡後は「後進の支援」や「日米・日中の草の根交流基金」に同会の資産を充てると説明している。

そのようなことで国民が納得するとでも思っているのか。馬鹿にするにも程がある。
そもそも小沢氏は4〜5年に1度の選挙で再選される衆議院議員だ。突然の解散だってある。「政界引退または死亡後」云々と言っているが、自分は落選しないとでも言いたいのか。4〜5年間しか保証されていない衆議院議員が自分の事務所や秘書の寮を「借りる」のではなく「購入」する感覚が全く信じられない。次の選挙で落選したらこれらの事務所と寮はどうするつもりなのか。
「後進の支援」や「日米・日中の草の根交流基金」などと言っているが、国民の了解も得ずに国税から捻出されたお金による購入物件の使途を小沢氏が勝手に決めていいのか?
「後進」が民主党の議員養成に繋がれば明らかな流用にもなるだろう。法的に問題ないと言いたいのだろうが、法律には不備がつきものだ。法律に触れなければ何をやっても問題がないという姿勢が今の日本をだめにしているとは、小沢さんあなたの教育の持論だったはずだ。

そもそも寮とは何物だ?事務所費と呼べるのか?
秘書個人の自宅ではないのか?秘書には給料払っているんでしょう?
その給料の中で住居を借りるなり購入するのが筋じゃないのか?
他の議員の秘書も寮を用意してもらっているの?次々と疑問が出てくる。
それでも寮が合法だというのなら、居住している秘書の氏名を公表すべきだ。それが公金を使う者の義務であると私は思う。
「賃借がよくて購入が良くないというのがわからない」と小沢氏は発言している。なぜわからないのか?あきれた。
自分勝手な論理を押し通したいのなら、最初から助成金を受取らずに自前の資金だけで政治活動をすればいい。1円でも税金から捻出された資金を使うなら国民感覚で行動することが求められるのだ。

一つ一つ反論していたらどんどん長い文章になるし、反論する気もなくなるほどの身勝手な猿芝居だ。
このような論理が通るなら、政治資金の使い方など「なんでもあり」になってしまう。
国会が良識の府であるならば、このような議員は退場させるしかない。
かつては私も期待をしていた小沢一郎氏だ。
しかし見苦しい悪あがきはこれまでにして、最後は潔く自らの進退を表明してほしい。

2007.2.15【モラルなき日本経済の転換を】

日本には一流企業というカテゴリはないのだろうか。
トップ企業のモラル欠落の実態はとどまることを知らないかのようだ。

今日も東京電力、関西電力の取水データの改ざんの常態化が報道されている。
【Yahooの記事はこちら↓】
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070214-00000014-yom-soci

水力発電所はどれだけの水を地元水系から取水するか予め許可されている水量があるが、両電力会社の水力発電所の水量計測器にはその水量を超えて取水した場合には許可水量内の数値になるようデータを改ざんするプログラムが組み込まれていたというのだ。確信犯どころか完全に悪意のある犯罪だ。これが日本を代表する企業のやることなのか。全国の水力発電所でデータ改ざんが次々と摘発されているが、企業トップはその事実を知らなかったというのだろうか。仮にそうであれば経営者として欠格者である。

一方、JT(日本たばこ)の行為も驚嘆する。
神奈川県が公共の場を全面禁煙する条例を制定するかどうかのアンケートをインターネットで行なった。アンケート実施期間は2006年12月27日〜1月26日。該当の設問への回答者数は4042名。1月20日頃まで禁煙規制に「賛成」が大幅に多かったが、締切り2日前になって賛成反対が逆転したという。
JTは社員を動員したことを認めたうえで「条例が成立すれば、ほかの自治体に波及する恐れがあった」とコメントしている。何を言わんかだ。なぜ条例を制定しようとするのか、その意図を考えれば情報操作をしようという発想にならないはずではないのか。
インターネットによるアンケートの脆弱さを露呈した形でもあり、匿名性は悪意のある人間には格好のターゲットになることを辛くも証明したわけでもある。
【Yahooの記事はこちら↓】
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070215-00000401-yom-soci

彼らは自社の目先の利益しかみえないのか。
いったい何のために事業を行なっているのか。
このような企業が日本経済の一翼を担っていると言われているのが今の経済界の実態だ。小さくてもいい。自他共の真の幸福を目指す企業経営者が一人でも多く輩出し、持続する事業経営ができることを心から祈りたい。

2007.2.14【中国・雲南省でペンキを塗って緑化?】

中国の新華社が13日付で雲南省昆明市内の富民県において、同県林業局がペンキを使って山の岩肌数千平方メートルを「緑化」していたと報じている。
もちろん新華社は激しく抗議する論調のようだ。周辺住民も怒りをあらわにしていることが報じられている。

【Yahooの記事はこちら↓】
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070213-00000011-scn-cn

石の採掘現場で露出した地面を隠すために、緑色のペンキを使って約10人の作業員で20日間以上作業をしたという。言うまでもなくペンキは有害物質を含んでおり、巨大な自然破壊の愚行だ。あきれて言葉も出ない出来事だが、現実に行なわれた事実であることに重大な問題をはらんでいる。

たしかに雲南省富民県林業局のレベルは最低だ。中国政府としての管理監督責任も問われなければならないだろう。
いったい誰からどうような指示が出されていて、現場の管理者がどのように作業を組み立てたのか。「緑化」という言葉を理解していたのかさえ疑問に思えてくる。実際に作業した10人の中に「自然破壊」という言葉を知っている者がいなかったのかもしれない...。
私たちは情報と文明の中で暮らし、それなりの常識というものが存在しているが、世界には全く違った日常生活も存在する。自然の中にあっても木を切る時には、7世代前からの恩恵を受け、7世代先の子孫のことを考えて切る本数を制限する民族もいる。そこには人としての叡智を感じる。一方でそうした先人達の知恵を継承しない民族や人達がいても決しておかしくない時代だ。中国には4人組に代表される文化伝統を意図的に破棄した時代もある。問題の原因はより深いところにあるのではないか。

しかしこれほどまでにあからさまでないにしろ、同類の事態が身の回りで起きていないだろうか。例えばCox排出の問題を言いながら捨てられない快適な生活、資源保全といいながら使い捨てと化しているペットボトルの山々、進まない回収された資源ごみの再利用、いまだ増え続ける残飯の廃棄...。

富民県林業局に腹を立てるだけの資格が果たしてあるのか。
自らに問い質したい。

2007.2.6【我が地域よ おまえもか】
ここ1週間ほどの間で大きく失望し怒りを感じる事態があり、昨夜それが決定的になった。
自分には人生の師匠と大哲学があると言いながら、その生き方を真正面から受け止めない人物が多くの人に指導をする一方で、不都合なことはこっそりと処理をする。そのことを裏切りだとは感じないのだろうか。

悪い枝があれば必ず乱れる。
悪の芽は小さなうちに絶たねばならない。
また小さなうちに対処することで本人も再起の道が開かれる。
城塁を崩す蟻の一穴は必ず塞ぐ。
安易な温情主義は慈悲とは違う。
これは人生の真理を言い表した言葉であると感じる。

フィリップ・コトラーはマーケティングの場面で語っている。
「人はどのようにして期待を形成するのだろうか。過去の経験、友人や知合いの意見、マーケターや競合他社から得た情報や約束をもとにしているのである。マーケターが大きすぎる期待を抱かせれば、人は失望する可能性が高くなる」
日常の出来事に置き換えるならば「マーケター」を「信頼している人物」と言い換えるといいだろう。
期待の小さな接触の積み重ねが信頼を生む。一度でも期待を裏切られると、人は積み上げた信頼を突き崩す。それでもかすかな望みを持って期待し続けようとした人が、繰り返し失望を経験した場合、どのような行動をとるのか。失望という辛い経験をしたくないという自己防衛の心理が働き、期待することをやめるのだ。

その自己防衛の心はすでにわが身の回りに忍び寄っている。
まじめに努力するのが馬鹿らしくなる。相手の立場で誤りを糺すことさえしないのだから自分達も適当にやればいいんじゃないの。言葉に出さなくても必ずそうなっている。
私が住む場所においてはそうした不幸な人を出さない。
気力が急激に萎えていく中で、それが私の使命だと思いたい。

2007.2.5【顧客価値と顧客満足】

2月3日(土)に経営セミナー第7回黎明塾を行いました。
今回のテーマは「顧客価値と顧客満足」です。

市場を形成するためには価値の交換が必須条件となることは前回のセミナーでも確認をしましたが、その大きな構成要素である顧客にとっての価値は何によって認知評価されるのでしょうか。
業界や業態の違いに左右されない本質的な決定要素の検証とともに、個々の企業においてどのように捉えられていて、それが妥当であるのかという視点でもディスカッションを進めました。

また高業績企業という観点から、顧客の位置付けを明確にし、企業におけるビジョンとはどうあればよいのかという課題も取上げました。
そのほか失った顧客の分析、アウトソーシングの是非、ロイヤリティの形成などがテーマとなりました。

当日の様子などはこちら↓
http://www.prosecute.jp/reimei/007.htm

2007.1.29【『雄気堂々』(城山三郎)】

1月27日(土)に22回目の読書会《桂冠塾》を開催しました。
今回取り上げたのは城山三郎作の『雄気堂々』です。
当日の様子などはこちら→ http://www.prosecute.jp/keikan/022.htm

今回の『雄気堂々』は近代日本の民業を創り上げたと評される渋沢栄一の半生を綴った人物伝です。
昭和46年の一年間をこの作品に費やしたといわれた城山三郎氏は毎日新聞の連載開始にあたり次のような一文を残しています。
「現在と同様、価値観の動揺する時代に生きて、ひとりの若者にとって人生は何であるか、ひとりの壮年にとって人生は何であるか、さらにひとりの老人にとって人生は何であるかを、しぶとく問い詰めてみたい」

渋沢栄一は江戸時代末期の武州血洗島(現在の埼玉県深谷市)に農夫の息子として誕生。倒幕攘夷の気風に右往左往しながらも一命をとりとめ、試行錯誤の中で自身の生きる能力を培い欧州視察の機会を得ます。フランス滞在中に大政奉還が行なわれ、帰国後は自身の経歴と人の縁から活躍の舞台を勝ち取っていく姿が描かれています。
生涯で500の民間会社と600の社会事業に関係した渋沢栄一。
同時代を生きた人間達と比して大きな違いが果たしてあるのでしょうか。大にすれ微細にすれ、違いがあるとすればそれは何だったのでしょうか。またそれは一人の人間が生きていくうえでどれほどの違いになっていくのでしょうか。

「雄気堂々、斗牛を貫く」
「八百万の神達、神計りに計りたまえ」
と言い続けた渋沢栄一の生き方を通して、城山三郎氏の掲げたテーマを共に考えてみました。


2007.1.24【いじめ調査を拒否する教職員組合】

北海道教職員組合(北教組)が全道あげてのいじめ実態調査に対して、協力しないよう指導していたことが報道されている。読売新聞には、北教組本部の小関顕太郎書記長が調査への組織的な非協力を文書で指導したことを認めたうえで、「いじめの実態は学校現場で把握し、対応している。全道一律の調査は必要ない」と話した旨が掲載されていた。
http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/news2/20070124wm00.htm

何を言わんか、である。学校現場で対応できているというのであれば、なぜ死を選ぶ子供たちが後を絶たないのか。いじめの問題は「いじめ」だけの問題ではない。その根には人間として互いに尊敬し信頼しあえるかどうかという心の問題がある。
ある教室では、教員から生徒に調査用紙が配られた際にその教員の口から「提出しなくてもいいからな」との発言が出たことも報道されている。状況から類推するとほぼ事実であると思われる。こんな発言をする人間が教壇に立っていること自体が問題だ。裏表のある言動、物事への不真面目さ、人間不信を肯定助長させることに気がつかないのか。
もちろん調査をすることが即問題の解決になるわけではない。しかし現状を把握せずして現状を打開することができないのは自明の理である。

そうした教員の言動に対して、児童生徒の父兄からは批判、憤慨の声があがっているという。当然だ。そうした教員に対してはもっともっと弾劾の声をあげることが必要だ。
巨悪も最初は小さなところから始まる。小さなことだからと見過ごすことは許してはならない。

悪しき言動を見て放置するのは、悪を行なうことと同罪である。

2007.1.22【警察官犯罪の匿名報道】

毎日新聞ニュースで警察官が犯罪を犯したケースで匿名発表されるケースや事件そのものが公表されないケースが増えていることが報道されている。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070122-00000016-mai-soci
警察側はその理由として「逮捕されていないため」等としているが、その罪状は収賄容疑のほか、傷害、万引き、飲酒運転など民間人であれば逮捕されてもおかしくないケースばかりであると報道は続いている。

日本は法治国家である。しかも世界の先進国とされている。
それでも一部の個人的恣意がまかり通ってるのが実態だ。法は万人に平等に運用されることが遵守する義務を課す大前提である。これを徹底するのはどうすべきなのだろうか。運用の監視強化や罰則を課すこと、監察制度の厳正運用などが挙げられるだろう。

しかし、それらは表皮的な対策にすぎない。結局は一人一人の生命の変革によるしか根本的解決はないのではなかろうか。その意味で警察官犯罪の匿名発表の根源は警察官のみの問題ではない。現代社会が抱える病巣の一部である。


2007.1.20【大学入試センター試験始まる】

2007年度の大学入試センター試験が始まった。20、21日の両日に全国の55万人余の受験生が自分自身の進路を目指して全力を尽くす。
例年、大雪になることも多いセンター試験の日程だが、今年はなんとか天候がもちそうな様子。それぞれの方が持てる力を発揮できるよう応援したい。

2007.1.19【道州制の本義は何か】

今月18日、全国知事会で道州制についての統一見解をまとめたことが報道されている。「真の分権型社会を実現するためのものであり、国の行財政改革の手段ではない」とする統一見解をまとめた。
そのこと自体は別に目新しくもないが、大いに疑問に感じていることがある。それはそもそも「道州制」と表現している考え方そのものである。

マスメディアでは、現行の都道府県制度を廃止するかわりに現在の複数の県の広さを想定した地方自治体を設置して地方分権を進めることだと報道している。政府もそのような説明を行っている。しかしそれなら格段意味があるとは言えないと感じる。事実、平成の市町村大合併の県バージョンと変わりないだろう。

本来の道州制に込められた思いはそんなものだろうか。少なくとも私は違う。最低限でも中央政府の権限の委譲を受けるだけの能力と機構が必須とされる。委譲のやり方も発言する人によって千差万別だ。ただ現状の報道を見ていると、政府側も県知事側も中央政府の機構はそのまま縮小するだけで、新設される道州側にその出先機関的組織を置くようなイメージでいるように感じられてならない。現状の本庁と出先機関との関係と本質的に変わらない発想の延長で考えているのではないかと思ってしまう。
議論の内容を見るとげんなりしてしまう。道州のあり方を「どの権限を委譲するか」で枠組みを決めようという土俵で議論を進めているからだ。現在の政府組織の中で方向性が見出せていない教育の問題もある。道州を跨るビジネスの扱いをどう考えるかという問題もある。司法、立法や行政、財政権などを委譲するかしないかといった議論などは単視眼かつ上から見た議論であって、現実の国民生活の問題には殆ど役に立たない。

本来、何のための政治か。誰のための政府行政組織か。一人一人の庶民のためであり、一人一人が幸せに暮らすための行政である。本質的には組織などこれが最良理想的などといえるものは存在しない。ただ現状の課題は何か。日本という国が大きくなりすぎて庶民の生活から遊離してきたことへの処方箋のひとつが道州制の議論ではないのか。そうであるならば、国防と外交以外はすべて道州に移管し日本国政府としては行政機関を置かないくらいのゼロベースの検討立案と決断があってしかるべきだと私は思う。

根拠のない前提をこしらえた議論は時間と労力とお金の無駄である。

2007.1.16【ソフトバンク携帯のホワイトプラン】
今日の朝刊の広告を見て「うん?」と目が止まった。
「¥980 月額基本使用料」
「ソフトバンク携帯同士、国内 通話無料」...
これって月額基本料2880円のゴールドプランの値下げバージョン??

何を隠そう(隠すことはないが^^;)私はソフトバンクモバイルのユーザー。ゴールドプラン発表後に少し考え、11月の後半に家族の携帯と2台一緒にゴールドプランにした。
さっそくゴールドプランとの違いとゴールドプランから変更した場合の追加費用が気になって...仕事の合間にちょこちょこと調べて一日が過ぎてしまいました(^^ゞ

まずは携帯から「157」番の自動音声ガイドを聞く。
・1〜21時のソフトバンク携帯宛の通話無料
・上記以外の通話は21円/30秒。
・ソフトバンク携帯宛メールは無料。
・ゴールドプランからもプラン変更が可能。
・6ケ月契約に同時加入することでプラン変更手数料は免除(無料)。

ふむふむ。それならゴールドプランと変わりないんでは?そういえばゴールドプラン契約時に新スーパーボーナスで新しい端末買ったなぁ。説明がややこしくてよく理解できなかったけど(^_^;)端末購入代金が機種毎に「○○円割引」ってなっていた...。この分の割引金額が請求されるんでは?今までのケースだと充分ありうる話だ。

やはりホームページで確認だ。
まずはオフィシャルページ。
http://mb.softbank.jp/mb/price_plan/3G/white_plan/
私が知りたい情報は掲載されていない...新たにわかったことは
・ソフトバンクユーザーのプラン変更は翌請求月からの適用。
ということ。プラン変更が2〜3日あとでも損はしないので、少し時間的に余裕ができた(^^ゞ

いくつかブログも見たがあまり参考にならない。
1月5日に行なわれたプレスリリースが私の疑問に心情的に答えてくれていた。
MYCOMジャーナル1月5日付
http://journal.mycom.co.jp/news/2007/01/05/380.html
・ゴールドプランでの月200分の無料通話分がホワイトプランにはない。
プラン変更時の費用はやはりはっきりしないが、孫正義社長は次のように発言していた。
「ゴールドプランを契約したばかりのユーザーも、ペナルティなしでホワイトプランに移行することができる」
「正真正銘のシンプルな料金体系。別の付帯事項によって、ひっかけがあるとか、裏があるものではない」
「他社の料金体系に比べて、少しでも安くすれば最低料金を唱えるが、そこに留まるのではなく、私が世界一高いと思っている日本の携帯電話料金を引き下げるというソフトバンクの志を実現したかった」

よし!孫社長の言葉を信じてホワイトプランに変更だ。

《関連リンク》
ソフトバンクモバイル「ホワイトプラン」
MYCOMジャーナル「SBM 新料金「ホワイトプラン」発表」

2007.1.13【襟を正すべきは誰か】

ここ数日、政治資金収支報告書に記載されている事務所経費について波紋が広がっている。
家賃のかからない議員会館内の事務室を主たる事務所と届けているにも関わらず多額の経費が計上している国会議員が少なくとも6名いることが報道されている。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070111-00000001-yom-soci
多額の事務所費の支出が報道されている政治資金管理団体は、伊吹文科相の「明風会」、松岡農相の「松岡利勝新世紀政経懇話会」、中川昭一自民党政調会長の「昭友会」、遠藤利明文科副大臣の「新風会」、衛藤征士郎元防衛長官の「新21世紀政治経済研究所」、松本剛明民主党政調会長の「松本たけあき後援会」だ。

加えて、民主党代表の小沢一郎氏の資金管理団体が2005年に事務所費として約4億1500万円を計上。前年までの事務所に比べて10倍以上という突出した増加をみせている。
これについては、民主党の鳩山由紀夫幹事長が13日午前記者団に対して「小沢氏が東京都世田谷区内に約3億6500万円相当の土地と建物を購入し、費用を事務所費として計上したと党職員から報告を受けた」と説明。「全く問題ないと判断している」と述べた。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070113-00000054-jij-pol

元々の問題の温床は事務所費については領収書の添付が必要ないという点だ。小さな規模の法人会計であっても領収書等の証憑なしでの出金は税務署は経費として認めてくれない。それが国会議員の政治資金管理団体であれば1000万、億単位の経費でも証憑書類なしでOKなのだから、庶民感覚ではなぜ不要でよいと法律で決めているのか理解できない。

民主党の鳩山由紀夫氏の発言も疑問を感じる。小沢氏が約3億6500万円相当の土地と建物をなぜ事務所経費として計上してよいのか?その実態を精査したのか?また事務所として購入したというのであれば、議員を辞職や落選した際には即座に売却して経費を返却するというでもいうのであろうか?国会議員という職制から勘案しても事務所のための土地と建物を3億円以上の費用を投下して購入することに不自然さを感じないのであろうか。

議員は庶民の納税によって、庶民の信託を受けて政治という仕事を任されている公職人である。誰よりも襟を正して、清廉に生きることが求められている。

《関連リンク》
政治資金管理団体
政治資金規正法

2007.1.11【不二家の危機管理】
不二家がシュークリームの原材料に消費期限切れの牛乳を使用していたことが判明した。問題が発覚した工場は埼玉県新座市野火止にある。私の住む練馬区東大泉からも遠くない場所だ。

不二家の当初の発表には全く危機感が感じられない。消費期限切れの牛乳を使用したのは元社員の現パート契約の60歳代の従業員で、廃棄するとよい顔をされないと思ったということで職人気質のためか自分の判断を過信したんだろうという。企業側からこんな発言が出てくること事態に唖然としてしまう。この言い草では「今回の事件は一個人の判断で会社としての問題ではない」と言いたいのか。

その一方で「消費期限切れの原材料は廃棄する」とマニュアル化されているとしながら廃棄方法が明示されていない。牛乳の廃棄は産業廃棄物となるため廃棄方法が明示されていないことはありえない事態だ。
しかも不祥事はシュークリームだけではない。シューロールにりんごの加工品のアップルフィーリング...。過去には1ケ月に50匹もの鼠が捕獲されていたことも判明した。致命的だと感じるのは、社内調査で発覚してから今日の発表まで2ケ月も公表しなかった事実だ。

会見した藤井林太郎社長は、品質管理を徹底管理するため、11日から5カ所の洋菓子工場の操業を休止、全国の不二家チェーン店での洋菓子販売を休止すると発表したが、その口ぶりでは1週間程度で再開する心積もりらしい。
甘い。
そんな認識だから事故を未然に防ぐことができないのだ。私も食品製造業の経営者と改善活動を行なうことがあるが、そんな簡単に衛生管理が改善できるものではない。おそらく経営者が現場を知らないのだ。
以前、雪印が社会からバッシングを受けた大事件があったが、不二家にとっては完全に他人事だったのだろう。今回のことで「数億円もの損失が出そうで大変だ」と思っているのかもしれないが、それだけで終わるのか。経営者であれば、企業存亡の岐路に立った危機的緊急事態であることがわからなくてどうするのか。

不二家よ、食の安全をなめてはいけない。

《関連リンク》
株式会社不二家 http://www.fujiya-peko.co.jp/
yahoo!記事 http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/food_safety/?1168511422

2007.1.8【渋沢史料館を訪ねる】

思い立って、渋沢史料館を訪問しました。
今月27日(土)の桂冠塾(読書会)で取り上げる本『雄気堂々』が、渋沢栄一の生涯を書いており、その下調べのためでした。昨日、いつも参加いただいている高塚裕さんに『雄気堂々』のことを伝えると「王子駅近くの飛鳥山公園内に渋沢栄一の記念館があるよ」という話になり「それなら一緒に行ってみましょう」と今日のイベントとなりました。

最寄の交通機関はJR王子駅、都電荒川線の飛鳥山停留所、都バスの飛鳥山停留所、少し離れていますが地下鉄西ヶ原駅など。私たちは池袋駅から都バスを利用しました。

渋沢史料館、青淵文庫、晩香廬が見学できて大人300円。安い(*^_^*)。本館1階では30分おきに栄一の生涯をまとめた資料映像が上映されていてよくまとまっています。2階の展示内容もわかりやすく、直筆の貴重な資料も興味をひきました。
青淵文庫、晩香廬は現在、建物の内部を公開中。ただし土・日・祝日の12時半〜15時45分のみで5月6日まで。ゆっくり見て回って係の方から説明もいただいて2時間楽しめました。これで300円は絶対お得です(*^_^*)

明治の黎明期を駆け抜けた偉人・渋沢栄一。その業績は今脚光を浴びつつあります。羅針盤を見失っている現代にあって、栄一の生涯から学ぶものは数多くあるように感じられます。27日(土)の桂冠塾も充実した内容にしたいです。

《リンク》 渋沢史料館

2007.1.6【マーケティングの中核コンセプト】

本日、今年最初の黎明塾<経営塾>第6回を開催しました。
今回のテーマは『マーケティングの中核コンセプトとツール』です。
激しい雨の降る中、参加いただいたみなさんご苦労様でした。

今回のポイントは、マーケティングの大前提といえる標的市場と市場細分化の考え方の要諦は何かを考察したうえで、価値と満足の関係、交換と取引、競争の存在などの現実にどのように対応していくのかを大きな流れとしました。
現実のビジネス社会に存在する5つのビジネスコンセプトを個々のケースに当てはめながら、今後のビジネスの目的はどうあるべきかをディスカッションしました。

実施内容等は下記ホームページをごらんいただければと思いますが少し思った点を述べておきます。
それは「ビジネスの目的を真摯に熟慮しよう」ということです。自分自身の生活信条や信念を問われるとそれなりのことを話す人であっても、では現在どのように現実の仕事をしているのかと問い直すと割り切った回答をする人が多くなってきているように感じています。
経営者であれ社員の立場であれ、己が信じようとする理念信念があるのであれば、現実の課題に矛盾を起こしてはならない。また事実として矛盾があるのであれば、それを直視し、その矛盾の原因が何であるのかを追求し解決する努力が求められていると強く感じます。

ビジネスの目的は何か。利潤を追求することなのか。求められた価値を提供することなのか。それらは決して間違ってはいないでしょう。一面の真理であるとも思いますが、現代の社会が抱えている諸課題に答えることには充分ではないと感じています。

当日の様子などはこちら→ 《第6回黎明塾

2007.1.5【謹賀新年】
2007年明けましておめでとうございます。
今年の正月も私の生まれた岡山で親子3人に私の両親、兄家族と揃って迎えました。年末の29日に初雪が降りました。未明に大きく積もり、その後1日かけて降ったりやんだりが続き18cmほど積もりました。

新年は素晴らしい快晴で迎えました。
本年は自分自身から、今いる場所で、目下の課題に全力で生き切ってまいりたいと決意しております。
一人が変わっていくことが社会と未来を創っていくことができる。
またそうした地道なひとつひとつの行動を続けていく皆が、ひとりももれなく持続して幸せに暮していける社会にしたい。
そう願う2007年の年頭です。

本年も誠心誠意頑張ってまいる所存です。よろしくお願い申し上げます。

(最終です)

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