プロセキュートHATAさん日記
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2008年12月25日 (金)【第45回桂冠塾『アルジャーノンの花束を』】
12月13日(土)に今年最後の桂冠塾を開催しました。
今回取り上げた本は、ダニエル・キイス作『アルジャーノンに花束を』です。

この作品は1966年に発表され、同年のネビュラ賞を獲得した作品として知られています。日本ではユースケ・サンタマリア主演で舞台を日本に書き換えてテレビドラマ化されましたので日本版に先に接したという方も多いのではないかと思います。

作品全体を通して、主人公チャーリー・ゴードンによる手記という一人称形式で書かれていきます。チャーリーには知的障害があり、昼間はパン屋さんで働いていますが、同僚からはあからさまに馬鹿にされている。しかし(幸いなことに)チャーリイはそれは彼らの親切心だと勘違いしたまま、毎日を楽しく暮しています。チャーリーにはひとつの心の支えがあります。子供の頃に母親に捨てられた時に彼女から言われた「いい子にしていれば迎えに来る」という言葉を信じていい子でいるように自分に言い聞かせながら毎日を暮しています。

そんなチャーリイの日常を根底から覆すプロジェクトが突然始まります。脳外科手術によって知能が驚異的に向上する、その人体実験第1号にチャーリーが選ばれたのです。すでに白(ハツカ?)ネズミによって動物実験も行なわれていて、そのネズミがアルジャーノンです。
最先端の脳外科手術によって、平均的な人間の知能をはるかに超えた超知能を獲得したチャーリイの生活は一変します。チャーリイ自身は知りたくなかった、周りの人達の言動の真意を知り、精神的ショックを受けます。そして彼を取り巻く周囲の人々の変化には何とも形容しがたい気持ちになってしまうのは私だけではないと思います。そして、その後チャーリイの身の上に次なる変化が....。

作品を読んだ多くの読者が身につかされる思い。それは幸せとは何か?
当然のことながら、多くの人はわかっている。知識があっても、知能が高くても、様々な分野で優秀な仕事ができたとしても、それは本当の幸せではないという事実を。
では、本当の幸せって何なのですか?
ちょっとやそっとでは答えられない人生の難問を、この作品は真正面からぶつけてくる。
チャーリイは純粋で、必死だ。
人体実験の結果として自分自身が廃人になるかもしれない恐怖を抱えている意味では、まさに必然としての死と直面しながら、残された時間をせいいっぱい生き抜く。

かかわる人達は、極めて自然な振る舞いとして描かれる。何か身近な体験があったのか、実写的といえようか。人が社会的弱者に対して行いがちな蔑視、迷惑だといわんばかりの忠告苦言、人格の否定、逆に偽善的ともいえる過度な対応などが淡々と描かれると、心が痛くなってしまう。
同じ人間なのに、知的話題ができると周囲の評価が劇的に変化するあたりは、現在社会の風景というか、自分達の日常的光景とも言える。何とも形容できない複雑な思いがわいてきてしまうのは私だけではないと思う。

格差なき社会が言われて久しい。
障がい者にも優しいバリアーフリー社会も少しずつだが前に進んでいる。
しかし私たちが本源的に持っている「知的」なものへの探究心が、翻って差別的な感情の温床になってはいやしまいか。
いま一度、当たり前だと思っていた意識、感覚を見つめ直す時期に来ているのかもしれない。

【実施内容などについて】第45回桂冠塾

2008年12月9日 (火)【第27回黎明塾 テーマ:人材育成とセールス・フォース】

12月6日(土)に今月の黎明塾を開催しました。
今回のテーマは「人材育成とセールス・フォース」です。

どんな企業においても、営業・販売部門の育成、もしくは販売力の確保は収益の命運を握る最重要課題の一つです。
人員がある程度確保できる大企業と、社員自体が少ない中小零細企業では事情が大きく異なりますが、その根源は同様であるように感じます。
特に、自身が独立起業した創業業者にとって事業の拡大を模索する中で必ず直面する問題であり、この問題を乗り越えることができない企業が多く存在しているのが厳しい現実です。

創業者もしくは企業経営者自身ができる事業規模にはおのずと限界があります。
その個人の範疇で事業をするだけであればセールス・フォースの問題は大きな比重を占めるわけではありません。しかしそうしたミニマム・ビジネスの怖さはリスク・ヘッジができないことにあります。少しの景気や事業環境の変化であっても事業継続の危機に直面してしまうからです。
周囲の環境からの影響を相対的に小さくするには適切な事業規模の拡大が必要になります。そのような状況になった場合に経営者が選択する重要事項として「どの部門、役割を自分以外のスタッフに任せるのか」という経営決断が必然的に存在します。
オーソドックスな手順として、まず間接部門や管理部門を他のスタッフに任せ、その後に次の選択に入ります。それは、

事業の主体となる部門を任せるのか。
それとも営業販売部門を任せるのか。

という選択です。
とかく創業から年数が経たない企業や事業規模が小さい企業の場合は、経営者自身の人柄や能力、才能がクライアントからの受注を決定づける主たる要因であることがほとんどです。
個人能力で依頼されてきた事業をどのように企業組織化していくのか。
ここが重要なポイントです。
人材育成とセールス・フォースは企業の命運そのものなのです。

より多くの人材を育て、他人の人生に関わりを持ちながら事業を拡大するのか、一人の体制のままでフリーハンドでその時その時で重要だと思われる事業にパートナー関係にあるほかの経営者と協働しながら全力投球するのか。
確かに将来的なリスクをヘッジすることは難しいかもしれないが、当面現状の延長線上であれば大きな冒険をせずとも事業を継続することができるという意識も働きます。大きくしたくても、現状を維持することすらできない経営環境に追い込まれている経営者も少なくないはずです。
現実の判断としては大いに悩むところであり、またとかくすると、事業を大きくすることが目的にすり替わってしまう危険も多分に孕んでいます。
そうした見通し不安な状況を常に抱えながらも、常に前へ前へ進むことが経営者の本質なのかもしれません。
そういった意味では、日本人、少なくとも私の知る経営者の何割かは、経営ということの本質を考えてみるべき時期を迎えているように感じられます。

今回も2名での開催でした。
今後の開催も様々検討したいと思います。

【実施内容はこちら→】第27回黎明塾 実施内容

2008年11月30日 (日)【第44回桂冠塾 『赤毛のアン』(L.M.モンゴメリ)】

11月15日(土)に今月の桂冠塾を開催しました。
今月のテーマはL.M.モンゴメリの『赤毛のアン』です。
『赤毛のアン』が発刊されて今年でちょうど100年の節目を迎えました。NHKをはじめ100周年を記念した催しが様々行われてきました。ただマスメディアでは大きく取り上げられることは少なかったように思います。

赤毛のアンはTVアニメでファンになったという人も少なくないと思います。年代的にはたぶん私よりも少し若い世代、もしくはちょっと上の世代で子供と一緒に見たというお母さん世代になるのではと思います(^^)。私は残念ながらアニメを見る機会はなく、全文を読み通したのは今回が初めてでした。
日本語訳としては村岡花子氏によるものが長く親しまれてきました。1993年に松本侑子氏による訳本が発刊され、現在ではこの両者の日本語訳が親しまれているように思います。
※村岡訳については2008年の発刊100周年にあわせて、遺族の手によって新たに推敲が加えられて現在に至っています。
※松本訳については2000年の文庫本化にあたり改訂が加えられています。

今回は私の中では充分に準備できなかったという反省があります。
作品全体を通して参加したメンバーの感想を語っていただいたりしましたが、従来の回に比べても作品の時代背景などの考察も不充分だったと感じています。
この週末に再度読み直してみましたらいくつか「これは重要だな」と思われる点が出てきました。例えば...
・フランス系移民とイギリス系移民の時代変遷と境遇の違い
・アンとギルバードの相手に対する気持ちが変化していく心の機微
・アンを取り巻く大人たちの心の変化とその源泉
・マシューとマリラの生き方に見る当時の人生観 などなど
考えてみると、どれも『赤毛のアン』にとっては重要なファクターです。

また、作品中にちりばめられているイギリス文学の数々、聖書から引用している言葉と思想、当時の政治状況と庶民の政治に対する考え方、当時の生活習慣、モンゴメリの人生、エドワード島の自然、なぜ赤毛のアンが読み継がれてきているのかなど、当日取り上げた内容についても、もっと深く考察することができたのではと思い、参加いただいた方々には申し訳なく思っています。
今回の反省を生かして、次回以降の準備にあたりたいと考えております。

また今回初参加いただきました本田さん、高橋さんありがとうございました。
よろしかったら参加後の感想などもぜひお寄せ下さい(^_^)v

【関連リンク】
第44回桂冠塾 『赤毛のアン』実施内容
出版100周年企画 赤毛のアン展

【関連文献】
『赤毛のアンへの旅−秘められた愛と謎−』(松本侑子)NHK出版
『赤毛のアン(もっと知りたい名作の世界10)』(桂宥子・白井澄子編著)ミネルヴァ書房

2008年11月25日 (水)【第26回黎明塾 テーマ:3つのプロモーション・ツールを使いこなせ】

11月1日(土)に今月の黎明塾(経営塾)を開催しました。
今回のテーマは「3つのプロモーション・ツールを使いこなせ−ツールの性質と利用法−」です。

ここで取り上げているプロモーション・ツールは広告、販売促進、パブリック・リレーションズの3つです。
組織の立て分けが明確になっている企業においても、ことのほか上記3ツールの違いが意識されていない場合があります。ここで特に注目してほしい視点は、双方向コミュニケーションができているかどうかという点です。
「よいものだから売れる」という時代は終わった、と賢明な経営者はすでに気づいています。しかし「元々よいものだからそこをわかってくれれば必ず売れる」という意識は依然として経営者の心情の根底に居座り続けています。
そのこと自体は、おそらく、決して間違いではありません。
しかし「よいもの」というプラス評価の基準はどこにあるのでしょうか。経営する側、作り手の側にあるだけで、使用する消費者の側では全く違う評価メジャーで選別されるとしたら、その「よいもの」はひとりよがりでしかありません。

ここにプロモーション・ツールに双方向コミュニケーションの視点が不可欠であるという論拠があります。
では具合的に、どうすればよりよい形で双方向型コミュニケーションを行いながらプロモーション・ツールを使いこなすことができるのか。
これが今回の最も大切なポイントです。

当日は2名と非常に少ない人数での開催でした。
いまだ時おり参加に関する問合せはありますが、以前に比べると激減しています。
実際に足を運んでくる人はほとんどいなくなっています。
人の心は移ろいやすいものといいますが、昨今の不況に遭遇して独立経営することに魅力を感じなくなっているのでしょうか。
おそらくですが、従来「独立開業したい」と希望する人達の中には相当な割合で「会社組織の煩わしい人間関係から離れたい」というネガティブな動機と「働いた分が報酬として受け取れないサラリーマンではなく自分の努力の結果が報酬にダイレクトに出てくる」という経済実態を無視した非現実的空想の動機の2タイプが含まれていると感じています。
これら2タイプの独立開業志望者は、社会的な状況が暗転するとたちまち安易な選択肢に方針転換してしまう。数年前にマスメディアがもてはやした開業独立ブームの本質は所詮そんなものだと私は見ています。

何をもって自身の人生の方向性を判断し、進むべき道を選んでいくのか。
経営哲学を云々するその前に、自身の人生の哲学を真摯に考えられる人こそ、これからの経営者として求められるのではないだろうか。

【実施内容はこちら→】第26回黎明塾実施内容

2008年11月5日 (水)【国民は見抜いている マスメディアの不見識。】

今日は第44代アメリカ大統領が誕生する日だ。
アメリカ建国史上初めての黒人大統領が誕生するかどうか、世界中の関心が集中している。アメリカが新たな一歩を歴史に記すことを期待しながら推移を見守りたい。

アメリカ発と言われている100年の一度の経済恐慌の波が押し寄せている。
構造的に見て「アメリカ発」なのかどうか、日本自体が抱えていた経済構造の歪みがサブプライムローン問題に端を発して必然的に表面化してきたのだと私は思っているが、その話はまた後日にするとして、今朝ふと目にしたTV番組の不見識ぶりを一言指摘しておきたい。

その番組はテレビ朝日系「スーパーモーニング」。私は見たのは午前9時台前半だ。
その時間帯のテーマの一つが消費税増税を含む政府与党の政策批判。
様々な人達の意見があるのだから批判も賛成もすればよいのだが、テーマに入る冒頭に流される編集ビデオがひどい内容だった。

先日10月30日18時から行なわれた麻生総理の第2次経済対策が早くも破綻して始めたというシナリオを描きたいのだろうが、次のような映像を並べていた。
@麻生総理の会見発言「3年後に消費税を5%上げる」
A民主党鳩山幹事長の発言「こんな状況下で3年後に消費税を上げるなんてどういうつもりか」
そして、与党内でも不調和音が生じ始めたとして、
B公明党北側幹事長の発言「必ず3年後に消費税を上げるということではないと受け止めている」
C自民党細田幹事長の発言「必ずしも3年後に消費税を上げるということではないと思う」

こうした映像が順番に流されていく。
他の情報を得ていない視聴者がみると「ああ、またか。気勢を上げただけですぐにぼろが出るよ」「かっこいいことばかりいいやがって。政府与党ひどいもんだ」となる。こんな風に世論を誘導しようとしている意図が明白である。

私は10月30日18時からの会見の生中継、20数分をもれなく見た。
麻生総理は「3年後を目途に消費税を上げることを含めて税の改正に取り組む」と明言したが、それには前提条件があると、明言していた。それは徹底したムダの排除を行い、景気を3年を目途に建て直し、全治3年の日本経済を回復させてから、ということを丁寧に話していたのだ。「スーパーモーニング」が番組で弾劾しているような「3年後まずありき」という話ではない。経済状況等の影響で3年間で経済状況が好転できなかった場合は消費税を含む直間比率の問題はそのあとになることもはっきりと理解できる会見であった。公明党北側幹事長も自民党細田幹事長も、麻生総理の意図を正しく理解しているということであり、なんらおかしな話ではない。
それにも、関わらず、である、。
テレビ朝日系「スーパーモーニング」のような全国ネットの番組の手にかかると、政府与党内での不調和音という話になってしまう。そしてメディア側にいる人間が考える歪んだ意図に沿って、恣意的な映像編集を堂々と行ない、国民に誤解を振りまいている。
番組プロデューサー達がわずか20分余りの総理会見を確認していないはずはない。会見全体を見ておきながら、なぜあのような映像編集を行い、全国ネットで流すことができるのか?私は一人の人間として、彼らの精神構造を疑わざるを得ない。

テーマの冒頭にVを流すのはどのテレビ局、番組でも定着している感があるが、私達視聴者はこうした映像報道を充分気をつけて見なければならない。相当に偏向した映像編集が行われている。それも客観報道のような体を為しながら。
しかし、私達国民は彼らが思っているほど、馬鹿ではない。
こんな番組を作っているようなテレビ局、マスメディアの面々は、自ら自分の首を絞めていることに早く気がつくべきだろう。

小室哲也が詐欺容疑でまもなく逮捕される。
虚像の世界に生きる人間への戒めとして、深く受け止めるべき輩は、意外と多く生き残っているように思えてならない。

■参考までに...
関心のある方は、自分自身の目と耳で総理会見を確認してみるのがよいと思う。いかにワイドショー等のTV報道が意図的な編集をしているかがよくわかる。
よい勉強材料である。
麻生内閣総理大臣記者会見-平成20年10月30日 - 政府インターネットテレビ
→You cube 麻生内閣総理大臣記者会見-平成20年10月30日

2008年10月25日 (土)【第43回桂冠塾 『長距離走者の孤独』(アラン・シリトー)】

10月18日(土)に今月の桂冠塾(読書会)を開催しました。
今回の本はアラン・シリトー作『長距離走者の孤独』です。

この作品を一番最初に読んだのは中学生の時だった。社会の体制に反発する主人公の少年に著しい共感を覚え、喝采を贈ったことを鮮明に記憶している。「長距離走者の孤独」というネーミングと共に、大人にわかってもらえない自分自身が秘めている10代の多感な少年の心を描き出してくれたような思いだったのだろうか。

あれから30年余りが経過した。
その間、『長距離走者の孤独』はマイベストブックの一冊としてその地位を維持し続けていた。今回の桂冠塾にあわせて再読した、その読後感はというと...正直に話すことにするが、「この作品って意外と平凡なものだったのだろうか」という認識に急降下してしまった。

たしかに、独特の語り口は読者をして一気に読み終えさせる力がある。
しかし有り体に言えば、社会に反発する10代少年を描いた青春小説ではないか。
作品の構成も3章立てでシンプルだし、大きなメッセージ性は見当たらない。
この作品を初めて読んだ時の感激というのは、やはり私自身が10代の少年だったからで、その後の社会経験を積んだ目からみれば際立った名作とも言えないのではないか。
・・・そんなふうにも感じてしまうほど、平凡な作品に映ったのだ。

しかし、それだけの作品だと断定するにはどこか違和感が拭えない。
なにか、なぜか、しっくりこないのだ。
このふわふわした感覚はなんだろうか。
そう思いながら、私は毎回の桂冠塾で行なっている定型の手順を踏むことにした。
それは、作者のプロフィールと作品の背景をまとめることである。
『長距離走者の孤独』が発表されたのは1959年。前年に発表した『土曜の夜と日曜の朝』と共にシリトーが結核療養中のマジョルカ島に滞在していた時の作品である。
シリトーの経歴と作品の時代背景を少し調べてみると、大きく2つの要素があることに気づかされる。
それは
1)世界を巻き込んだ戦争の時代
2)歴史の重みを持つイギリスの階級社会 である。

特に『長距離走者の孤独』を読むにあたっては、イギリスの階級社会への認識を深めることが必須である。イギリス社会における階級とは日本人の私たちが考えている以上に、強大で浸透しきっていると考えるのが妥当なのだろうと私は思う。
ここが理解できないと、この作品が「社会体制に反発する若い不良少年を描いた青春小説」になってしまう。
『長距離走者の孤独』はイギリス階級社会が内包している構造的矛盾、絶望感を描き出しているのだ。
日常的な少年犯罪や庶民の会話の中から丁寧に紡ぎ出している。
この作品が名作と称される由縁である。

しかし、ある一面、限界を感じさせる作品でもある。
それは、今感じている現実に積極果敢に立ち向かい変革しようという意思の存在を感じないからかもしれない。不満や抵抗する純粋な気持ちが描かれているが、あくまでも社会体制の枠組の中での感情にとどまっている。そこがどうしても好きになれない。反発するのなら、その気持ちをより創造的エネルギーに転換すべきであると思うのは私だけではないだろう。
ただ、当時の社会にあって作品を書き続けたアラン・シリトーの意志の強靭さは大いに評価されるべきだと思う。

主人公のスミス少年は大きなタイトルがかかった大会、イギリス全土の感化院の代表で争われる全英長距離クロスカントリー競技のボースタル・ブルーリボン杯を手にする直前に、走ることを止める。
それは彼が綿密に計画してきた反抗の切り札だった。
虚しさを感じる一面、痛快さを感じる、当作品のクライマックスといえるだろう。

この一瞬だけは、明快に勧善懲悪の構図が現れてくる。
少年時代に読む読まれる作品には、どうもこの形が多いのかもしれない。
しかし読み終わってみれば、スミス少年は感化院を退院(出所)したあとも、窃盗を中心とした生活を改めることは、当然ながら有り得ない。一撃を食らったはずの体制側の人々にあってはもちろん、何の変化もない。
しかし、それが現実の生活なのであろう。
人生を一瞬で転換できるような、劇的な出来事というものは一生の中で一度も起こらないのかもしれない。大きな力の前で自分自身の非力さを痛感することも多い。具体的な解決方法などまったく思いつかない....そんな状況にあっても一歩ずつでも、前へ前へと進むことができる人が偉いのだと、私は思う。

アラン・シリトー作『長距離走者の孤独』は、やはり名作である。

【関連リンク】第43回桂冠塾実施内容

2008年10月10日 (金)【マンナンライフこんにゃくゼリー製造中止 に一言。】

こんにゃくゼリー製造最大手のマンナンライフは今月7日、7月に1歳の男児が窒息死した同社商品・ミニカップ入りこんにゃくゼリー「蒟蒻(こんにゃく)畑」の製造中止を決め、卸売各社に通知した旨が報道されている。

この措置の理由としてマンナンライフは「警告マークを大きくするなど行政(農林水産省)に要請された改善策に応じられないため」としている。また「商品が危険だから製造中止にするわけではない」ということで自主回収はしないのコメントも報じられている。

個人のブログ等をみてみると農林水産省の指導に対して概ね批判的、マンナンライフに同情的、自己責任がとれない消費者の身勝手というような意見が主流のようなので、一言書いておきたいと思う。
私個人の意見としては、農林水産省の指導も、マンナンライフの措置も妥当であったと感じている。これは2007年5月に死亡事故が公表された際に当ブログでも指摘してきた通りである。
→《こんにゃくゼリーで窒息死の報道にどう対応?(2007/5/23付ブログ)

あらかじめ断っておきたいが、「消費者の自己責任がない、責任は全て製造者側にあるんだ」と言っているわけではない。
とかく自論に固執した人は、どんな文章を読んでも一定のバイアスがかかり、歪んだフィルターを通して読んでしまう。自身の考えと合致しないと激しく攻撃的になる。
匿名のブログや投稿では、特にその傾向が著しい。

確かに今回のマンナンライフ社の姿勢には少なからずの不満もある。
最初の事故からは相当の時間が経過しており、遅きに逸した感が否めない。
同社コメントからは「本意ではないが行政のせいで製造中止する」「我々メーカーや商品自体に何の問題があるのか」という不承不承対応したという姿勢が明白だ。だから事故になった当該商品一品のみしか製造中止にしないのだろう。本当に納得しないのなら対応しなければいい。「弱みを見せたくない、自社の強気の姿勢を崩したくないが、今後何かあったら面倒だ」としたらこんな対応になるだろうというような勘ぐりも出てくる。
死亡した遺族の方々は、激しい怒りを感じているに違いない。
食品製造に関わる者の一人として、経営者として、もっと誇りを持って潔くあってほしいと思う。

確かに製造中止すればそれでいいのかという問題もある。
子供が喉に詰まらせないのは保護者の責任だというもっともらしい意見も多い。
しかしこんにゃくゼリーは、元々存在する食品形態ではない。
こんにゃくメーカーが自社が取り扱う原材料を使った新商品が開発できないかと考えて、市場に出してきた独自商品である。
また、死亡事故で亡くなったのは子供だけではない。高齢者もこんにゃくゼリーを喉に詰まらせて死んでいる。
これは自己責任だと言って片付けてしまって良い問題だろうか。

他のブログ等での発言を見ていて気になるのは、どうも一面的にしか物事を見ない人が増えているのではという危惧だ。
たとえば「喉に詰まらせて死亡している食品は他にもあるのに『こんにゃくゼリー』だけが危険視されている」という論調がある。例として取り上げている食品が「もち」である共通点があり、だれか最初に記述したコメントに多くの人が同調したのかもしれない。
確かに餅を食べて死亡する人も後を絶たない。その意味では餅製造業者への喚起を促す必要があるかもしれない。
しかし、大きく異なる点がある。
それはこんにゃくゼリーには、類似した大きなゼリーという商品市場があることだ。こんにゃくゼリーはこのゼリー市場の一部ともいえる。この元々の「ゼリー」の食べ方として、あまり噛まないで呑み込むシーンが多くあるという状況が事故を生む背景なのだ。言い換えれば、飲み込んで食べる「ゼリー」のカテゴリでなければこのような事故は起きていないともいえる。
元々存在する「ゼリー」と同じような食べ方をして死亡するという悲劇が生まれているという状況を正確に認識しなければならない。事実、私の家族も普通のゼリーだと思って「こんにゃくゼリー」を買ってきたことがある。こんにゃくゼリーを呑み込んで食べると子供だけではなく大人も窒息する危険があるということを知らない人も多い。
そして、問題なのはこんにゃくゼリーを一度喉に詰まってしまうと水を飲んだり、逆さにしても排出しにくいという点も挙がられている。
事件の記憶は簡単に風化する。何らかの形で商品購入時の注意喚起を行なうべきという指摘にはそれなりの妥当性があるのではないか。
もちを喉に詰まらせるのとは状況が明らかに違うことをよく理解すべきだろう。

厚生労働省は「製造を中止しろ」と要請しているのではない。
一般の「ゼリー」と違って、「こんにゃくゼリーは噛まないで呑み込むと喉に詰まらせて死亡する危険がある」ということをもっと購入しようとする一般消費者にわかるように告知してほしいという趣旨である。
他のブログ等での発言ではこの点を勘違いしている者さえいる。

製造者の立場としてすべきことは
@消費者に「正しい食べ方をしないと死亡に至る危険がある」ことをはっきりとわかる形で告知する
A消費者がメーカー側が想定していない食べ方をしても危険が発生しないように商品を改良する
という処置を講じる必要があると私は感じている。
マンナンライフと事件にあった購入者のどちらに責任があるのか、というような問題ではないと私は思う。
それぞれがそれぞれの立場でよりよき関係を目指して努力すべきではないか。確かに「行なう必要はない」という意見もあるだろう。それはそれとして一つの意見だ。だから厚生労働省も強制力のない「要請」というお願いで留めているのだと思う。

私も食品製造販売に関わる者の一人として自戒を込めて申し上げたい。
食に関わるということは、生死に関わることだ。
製造者自身の目の前で、目の届く限られた範囲で食べていただける環境なら、まだいい。
しかし流通にのせて、より多くの消費者の皆様に食べていただくということは、予測不可能な事態が発生するという事業選択を行なったということだ。
そうした不測の事態が発生した時には、その当事者として被害を被った消費者の立場に立って、最善の措置を、迅速に、最大限の誠意をもって対処するしかない。

それができないのであれば、小さく、目の届く範囲で商売することだ。
マンナンライフの今回の対応は、昨今の食の安全の問題と同根である。
今回の対処についても、厚生労働省やマンナンライフが「事故を起こした消費者の自己責任である」という発言をしたとしたら、それはそれで大きな問題になっているだろう。
多くの人達の利害が絡み、関係する人の立場が複雑になっている現代においては、大多数の賛同を得る対応が見つからないことも多くなってきている。
どのような処置、態度をとっても賛否は激しく巻き起こるだろう。
私たち庶民は賢明な目で、物事の本質を見抜いていくことが求められている。

【関連リンク】
国民生活センター
<こんにゃくゼリー>マンナンライフが製造中止(yahoo!毎日新聞ニュース)
こんにゃくゼリーで窒息死の報道にどう対応?(2007/5/23付ブログ)

2008年10月6日 (月)【第25回黎明塾「統合型マーケティング・コミュニケーションのマネジメント」】

10月4日(土)に今月の黎明塾を開催しました。
今回のテーマは「統合型マーケティング・コミュニケーションのマネジメント」です。

大きなトレンドが存在しなくなった現代において、事業収支を黒字化し、維持し続けることは極めて困難な状況になっています。
また、携帯電話等の最先端技術の分野、食品飲料に代表されるように、多くの市場において、商品ライフサイクルは極端に短命化しており、商品が売れても開発コストを回収できずに次の商品に消費が移行してしまうという現象が常態化しています。
商品やサービスの開発コストを削減するのはもちろんですが、短命化する商品ライフサイクルにどのように対応するべきか。
それは、消費者動向を表面的にとらえるのではなく、顕在化されていない潜在的シーズを商品機能に反映させるというアクションとして求められている。
私はそのように考えています。

マーケティング・コミュニケーションは商品サービスの提供者と利用者との双方向コミュニケーションにその本質がある。
しかし、理屈ではわかっていても、ビジネスの現場では実現されることはほとんどない。その理由は何か。
それは、事業者が提供できる商品サービスが自ずから限定されているという現実に原因がある。当たり前といえばそれまでだが、この認識を正確に把握し、双方向コミュニケーションに徹すればビジネスとしての採算性は充分に見込むことができるのである。
とかく事業というものは、「これこれの技術がある」「こんな商品を市場に出したい」「ショップを開いて売上を上げたい」という自分の強い思いから出発する。
しかしそれがいま、声が届く消費者にとって「なくてはならない」不可欠の商品であることは殆どない。

では事業者としてはどうすればいいのか?
これらの人たちに向けて広告宣伝を行なって購買を促進するのか?
それとも、その商品サービスを必要とする人達を探し出してニーズを聞くのか?

これが今回の大きなテーマである。
当日は、ここ1〜2年で見受けられるトレンドを紹介しながら、収益改善を果たしている企業事例を検証しながら進めた。
個々の事例をみると納得できる施策を行なっている。がしかし、複数の企業事例を冷静にみていくと似たようなビジネス環境にあって180度も違う施策を行なっているケースに遭遇する。今回の事例をみてもそうである。
実際の自分の場合であればどちらの選択がより適切なのか。
ここにビジネスの決断の本質の一端がある。

マーケティング・コミュニケーションを現実に展開するポイントを踏まえつつ、個々の実例に対処できる経営者を、市場は強く求めている。

【関連リンク】
第25回黎明塾 実施内容

2008年10月3日 (金)【対話を重視せよ 小沢民主党が答える番だ】

麻生首相の逆質問に対してどのような発言になるのか、国民の注目を集めていた民主党・小沢代表の代表質問が10月1日に行なわれた。
小沢氏は麻生首相の質問に答えることはなく、「私の所信を申し上げることにより、首相への答弁としたい」と述べ、自らの「所信」を表明。代表質問を事実上の所信表明演説と位置付け、同党の衆院選マニフェストの基本政策をアピールした。

自らの主張も大切だが、問われたことに真正面から正々堂々と応えることが大切な時もある。小沢民主党にとってはそれが今だったのだと私は思うが、小沢氏たちはそう考えていなかったようだ。
小沢氏は国民の期待に応えることをしなかった。
というよりも「それがなにか意味があるのか」という程度の意識なのかもしれない。
国民の気持ちがわからない。それが小沢民主党の実態だろう。もし仮の話だが、小沢氏が真正面から逆質問に答えていれば、国民の世論は民主党・小沢一郎に大きく傾いていたに違いない。

これで、国会運営の主導権は与党側の掌中に握られたと言って過言ではないだろう。
これも小沢氏の出した決断によるものだから、必然とも言える。
「一度くらい民主党にやらせてみれば?」と考えている有権者は、そろそろ目を覚ましたほうがいい。
かつて、小沢一郎という政治家が国民の生活を第一優先で自らの行動を決定したことがあったかどうか。
衆議院議員が出席すべき国会の9割以上を欠席してきたという事実。
これだけみても、小沢氏に日本の舵取りを任せていいかどうか。
良識ある一人であれば、どこから吹き出したのかわからない「風」やマスメディアの論調に頼るのではなく、自らの意思と判断基準で、行動を決するべき時がきている。

2008年9月30日 (月)【麻生首相が所信表明演説 小沢よ真正面から受けて立て。】

9月29日午後に行なわれた衆参両院本会議において、麻生太郎首相は就任後初の所信表明演説を行なった。
民主党と民主党的世論を支持するマスメディアからは激しい反発、批判が巻き起こっている。その主な趣旨は
・この国のビジョンを示してほしかったが、かけらもない。
・本来の所信表明演説を逸脱して民主への「逆質問」を続けた。
・少数野党が無視された。
というものが代表的だろう。

ただ所信表明演説の全文を確認すると必ずしも的を得た批判ばかりではないことがわかる。マスメディアは視聴者にとって刺激的な表現を繰り返し報道する傾向があり、発言の真意を正しく伝えているとは言い難い面もあるので、こうした重要な内容は自分自身で確認することが大切だ。
→全文はこちら 第170回国会における麻生内閣総理大臣所信表明演説(首相官邸Webサイト)
ビジョンについては3年間3段階という短期目標を明示した点では、従来の首相演説よりも現実的で責任を明確にしたと言えるだろう。
演説の中で麻生首相は、日本のあるべき姿を「強く、明るくあらねばならない」とし、「自民党と公明党の連立政権の基盤に立ち、責任と実行力ある政治を行うことを国民の皆さまに誓う」と訴えた。

さらに「緊急な上にも緊急の課題は日本経済の立て直し」として
(1)当面は景気対策
(2)中期的に財政再建
(3)中長期的には改革による経済成長
を取り組むガイドラインを提示しつつ「日本経済は全治3年」と明言。
2011年までに単年度のプライマリーバランスを黒字化するという当初からの政府与党の目標を継続する流れになっている。
直面する景気対策として家計に対する緊急支援のために「今年(2008年)度内に定額減税を実施」を明言。後期高齢者医療制度は「制度をなくせば解決するものではない」として、高齢者に納得していただけるよう1年を目途に必要な見直しを検討すると述べている。
さらに、地域の再生、地球温暖化への対策として「成長と両立する低炭素社会を世界に先駆けて実現する」「我が国が強みを持つ環境・エネルギー技術を育てていく」「世界で先頭をゆく環境・省エネ国家として国際的なルールづくりを主導する」ことを宣言すると共に、今後の外交姿勢として日米同盟の強化、アジア諸国との協同、テロとの対決などの地球規模の問題群への取組み、北朝鮮の対応を明示した。
簡潔であるが、直面する重要課題を提示したといえるのではないだろうか。

逆質問については個々の課題に触れた文脈の終りに、民主党としての具体的な回答を求めている。「麻生内閣はこういう方針で取り組むが、民主党はどういう姿勢で臨むのか」という問いかけである。
確かに従来の慣習からみればイレギュラーであるが、そのことを取り上げて非難するのは殆ど意味がないと思う。逆に通り一辺倒の内容の薄い演説に比べれば向上を目指して国会議員同士が議会の場で切磋琢磨する議論は大いに歓迎したい。
私をはじめ国民も大いに知りたいことではないだろうか。
少なくとも私は、民主党の答弁を、是非聞きたい。

また、慣例を逸脱するのがおかしいというのであれば、民主党の小沢代表は10月1日に行う代表質問を「民主党政権の実現に向け、政権構想を語る『所信表明演説』の場と位置づけており、首相に肩透かしをくわせる構え」(産経新聞)であるとしているのだから、これも逸脱であり、民主党は完全な言行不一致である。
今回の逆質問で麻生首相は民主党に基本的姿勢を問うている。

民主党への質問・提言
一、国会で合意形成のルールづくりに応じる用意はあるか。
一、補正予算に反対なら論拠とともに代表質問で提示せよ。地方道路財源を補てんする関連法案への賛否は?
一、消費者庁創設に賛成か否か。
一、国際社会の一員たる日本が、インド洋での補給支援活動から手を引いてもいいと考えるか。

麻生首相にとっては今国会運営上でどうしても真意を確認しなければならない重要事項であると同時に、今国会が開かれるにあたって国民が最も知りたい争点である。
別に予算委員会で表明してもよいだろうが、そこまで国民の知りたい権利の充足を待たせる必然性もないだろう。
すぐに民主党としての姿勢を明らかにし、更にその先の議論を国民から全てが見える白日の下で、正々堂々と展開してもらいたい。民主党に政権担当能力が充分にあるのだと主張するのであれば、またとない絶好の機会ではないか。

上記4点の質問に対して、小沢代表が、少しもかわすことなく、真正面から、勇んで、滔々と自らの主張を展開されることを強く望む。

少数政党が無視されたと一部の野党が息巻いているが、少数なのだから致し方ない面がある。では少数政党を考慮した演説を行なえばそれでいいのか。無所属議員一人一人のことは考慮しなくていいのかという論理になる。
政党の立場とか、対立構図とか、争点の明確化とか、そんなものは大した意味はない。
その先にある本質的な目的が重要なのである。
いいかれば「何のための政党なのか」「何のための争点なのか」、「誰のための政治なのか」と考えれば多少は物事の本質に近づけるのかもしれない。

一人一人の庶民の生活を最優先に考えて、国会運営をする。
それがいま、最も求められている。

【関連リンク】
第170回国会における麻生内閣総理大臣所信表明演説(首相官邸Webサイト)
麻生首相が所信表明演説 対決姿勢前面に(Yahoo!動画ニュース)
首相所信表明、対決姿勢に野党一斉反発(読売新聞)
【麻生首相所信表明】“逆質問”連発に民主反発「パフォーマンスだ」(産経新聞)

2008年9月29日 (月)【第42回桂冠塾『兎の眼』(灰谷健次郎)】

9月23日(火・祝)に今月の桂冠塾(読書会)を開催しました。
今回取り上げた作品は『兎の眼』です。
現代児童作家である故人・灰谷健次郎氏のデビュー作です。

■評価が分かれる灰谷作品の代表作

この『兎の眼』は賛否が真っ二つに分かれる作品ではないかと思う。
それはすなわち灰谷作品への評価が分かれるということにもなるだろう。
灰谷氏自身が認めているように『兎の眼』は欠陥のある作品だと思う。
プロットの一貫性に欠ける箇所や挿入されている逸話の果たす役割が不明瞭だったり、弱すぎるように感じる箇所がいくつかある。
登場する人物の個性もやや芝居がかったきらいがあり、現実離れしている感が否めない。参加者からも「後半に展開されている登校ボイコットのくだりは必要なかったのではないか」という意見も出されていた。物語の終わり方も大雑把な感じを受けると思う。

一例として小谷先生の言動について一言触れておくと...。
大学を出て間もない小谷先生が今後どのような教育者として進んでいくのか、読者としては非常に気になるところだ。
小谷先生の子どもたちに対しての姿勢と、夫に対する姿勢の格差には多くの読者が違和感を感じるのではないかと思う。この点についても当日の話題となったが、子どもたちに接する時のような根気強さと対話する心を、なぜ夫に対して発揮しないのか。小谷先生自身の思いを夫に語るシーンが全く描かれていない。それどころか最初から「私の気持ちなどわかるはずがない」という諦めの心で一貫して夫と接している。これでは悲劇的な結末を想像するしかなくなる...。
灰谷氏が子どもに対する姿勢として多くの読者に訴えるものは、男女間、夫婦間には必要ないというのでしょうか。

確かに時代の違いを大きく感じさせる作品でもある。
作品が書かれ、私が始めて接した昭和50年前後の劣悪な生活環境にも愕然とさせられる。それと同時に、この作品が注目された大きな理由の一つに「大人が読む児童作品」であることが上げられていた。言い換えればそれまでは大人が読んで耐えられる児童作品というものが乏しかったということになる。

灰谷作品の賛否が分かれる理由には現実に行なわれている教育現場での問題を取り上げていることも大きく影響しているように思う。それゆえに時代を経てみれば急激に陳腐化してしまうテーマだったりもすることも多いのだろうと思う。それが堀江祥智氏も指摘しているように、この作品が乗り越えられていく運命にあるといえる由縁だとも感じる。

また、教頭先生や校長先生だってそれぞれの職務を全うしようとしている真面目な人たちだ。それを勧善懲悪的構図に押し込めて、足立先生たちに喝采をおくるような、単純な話にしてしまっていいのだろうか。
そのような指摘をされてしまう作品でもあるが、それでも、こうした現在進行中の教育現場での課題を児童文学の域にまで引き上げた灰谷氏の功績は大きいと私は思っている。

障がい者であるみな子ちゃんをめぐる子供達とその親達の気持ちの変化には、劇的なものがある。「そんなうまくはいかないよ」という現場の声ももちろんあるだろうが、そうした現実を踏まえてでも強く語りかけてくる声が聞こえる。
ごみ処理所の生活も同様だ。
「ごみ」というみんなが出している生活の敗残物にもかかわらず、いったん自分達の手を離れると思いをめぐらさなくなる。そればかりか自分勝手な主張を滔々と述べて結果的に弱者を排斥しようとしてしまう。
いま大きな社会問題となっている自己中心的な人間の行為を「モンスター●●」と呼んだりしているが、その生命的病理はずっと以前から巣食っていることを見事に描き出している。

■それでも、10代だった私は純粋に感動した

いままで述べてきたような感想等も当日の参加者の間で語られた。
そうした作品としての意見、評価が多々ありながらも、読み進めている時の、そして読み終わった時の心の底から、ある種の感動に似た感情がこみ上げてくることを私は隠すことができない。

私が『兎の眼』を初めて読んだのは高校1年生の秋だったと記憶している。
当時、通っていた高校で文藝部に所属していた私は1級上の先輩が読んでいた灰谷健次郎氏の『太陽の子(てだのふぁ)』(※第2回桂冠塾で取り上げました)を薦められて読んだ。
今までにない衝撃を受けた。
まだ社会や複雑な人間関係、教育というものを経験していなかった高校生の私にとっては未知なる感覚であった。その衝撃のままに続けて手にしたのがこの『兎の眼』であったと記憶している。
あれから30年が経った。
今回ひさしぶりに読み返した。
30年前と全く同じ感情が沸き起こってきたとは、言わない。がしかし、そのときの感激がふつふつとよみがえってくると同時に、複数の視点で物語をみている自分が、そこにいた。

あれこれ言うこともできるが、やはりこの作品を読むと「まだまだ人としてやることが残っている」という気持ちになる。「子どもと共に、成長する人の姿は素晴らしい」と、単純に、純粋に感じるのだ。
灰谷氏が「幼い魂の抵抗−『兎の眼』の意味するもの−」と題したエッセーで語っている。

『兎の眼』は一言でいえば、自立しようとする幼い魂が、意識的であれ無意識的であれ、その自立を妨げようとするものに対して挑んだ抵抗の譜であり、教師が子どもたちの奥深くしまいこんだやさしさを探る当てたとき、はじめて対(つい)の人間として共に生きる道を発見できたという物語である。

このことは教師だけの問題では、決してない。
子を持つ親の世代一人一人の問題であり、次代を担う後継の友に何かを託したいと願う私達一人一人が直面する重要なテーマである。

今回は私を含めて3名という寂しい参加人数でした。月例の土曜ではなく、祝日に開催したことで欠席になってしまった方もおられました。会場予約と他の予定が重なるなどの理由による日程決定だったのですが、やはり土曜実施を堅持しなければと反省をした今回の開催でした。
今回、遠路千葉県から初参加していただきました奥山さん、ありがとうございました。

【関連リンク】
第42回桂冠塾実施内容

2008年9月17日 (金)【政府が事故米流通先を公表 人の生命の基底がみえてくる瞬間】

三笠フーズの摘発によって実態が明らかになってきた事故米穀(汚染米)不正転売問題に関して、農林水産省の調査を元に政府は今月16日、新たに外食産業を含む375の流通先を公表した。
汚染米の流通先一覧(政府発表)はこちら

東京、千葉から西の日本列島の半分以上に広がる汚染拡大に、多くの人は驚きを隠せないに違いない。しかし長年にわたって、ある意味で米業界内では「あっても決して不思議ではない」黙認行為だったのではないだろうか。
何段階もの転売を重ねる米売買によって、トレーサビリティは全く判らなくなってしまう。しかしその転売によって決して少なくない業者の利益を生んでいた。
日本の農業、米の悲劇はこんなところにあるのだ。

政府による流通先公表という行為に対しての様々な反応には思いを複雑にせざるを得ない。今回の公表は必要であったという国民世論が大勢を占めるだろう。その一方で「事故米だと知らなかった善意の第三者である末端業者までなぜ公表するのか」という業者の立場での反論も当然起こってくる。仮にそのような理由によって公表を見合わせたとしたら、今度は消費者である国民の多くは政府、農林水産省の対応を一斉に非難するのは間違いないだろう。
ひとつの決断、行動を起こした時に賛否両論が出ているのは必然である。問題がより多くの人達に関係するとあればなおさらである。

事故米と知らずに購入した多くの商店、事業者は、「お客様に申し訳ない」「健康被害が出ていないか心配」と痛めた自身の心をさらに自分から先の人達に回し向ける。
その一方で、公表によって売上が激減するなど被害を蒙ったのは事情を知らされずに事故米を買わされた自分を含めた事業者だと主張する人もいる。その怒りの矛先は流通先を公表した政府、農林水産省に向かっている。

農水省の調査に販売先10社の実名を明かさなかった三重県四日市市の食材卸業「ミルズカトウ」の加藤芳男社長(49)は、三重農政事務所などを相手に訴訟を起こす考えを表明。社長は「公表された店は売り上げが落ちる。農政事務所の職員に『会社や販売先がつぶれても公表する』と言われた」と憤った。(MSN産経ニュースより転載)

事故米と知りながら不正転売した三笠フーズ等の業者や、それを防ぎきれなかったという意味での農林水産省を許せないというのではないところが私の目には不思議に映るが、その人その人の立場にあっては、その主張が最も重要な行為なのだろうと思う。
こうした非常事態に直面した時に、その人自身がもっている生命の基底がどこにあるのか、行動思考の基準がどこに置かれているのか、端的に現れてくる。

そしてもうひとつ、忘れてならないのは、こうした業者名公表という関心の高い出来事に目を奪われて事件の本質を見失わない私達の姿勢が大切である。
とかく日本人は熱しやすく冷めやすいと揶揄されがちだ。
大切なことは、
この事件が突発的なものなのか構造的なのか。
事件の本質的原因は何か、またどこがその発生温床になっているのか。
応急措置と恒久対策は如何にして講じるのか。
−−こうした次を見定めた前向きな対応が求められている。

【関連リンク】
汚染米の流通先一覧(政府発表)
【事故米不正転売】「まさかうちが…」外食産業は困惑(産経新聞ニュース)
汚染米 外食産業にも“飛び火” 公表、戸惑いと憤り(Yahoo産経新聞)
複雑な流通ルート 隠蔽と価格高騰の一石二鳥(IZA!)


2008年9月12日 (金)【奥多摩湖・山のふるさと村に遊ぶ】

9月6日(土)から7日(日)で奥多摩湖畔の「山のふるさと村」で過ごしてきた。
ここは東京都立奥多摩湖畔公園内の施設で東京都の管理運営だ。
7月の終り頃に、7年前に一緒にキャンプをした友人家族(以下K家族^^)からお誘いがあり、なかなか日程が取れずに9月第1週の実施となったのだ。
予約は意外とスムーズにとれた。あとでWebで調べてみるとなかなかの人気でトップシーズンは予約開始日に埋まってしまうこともあるらしい。ラッキー。

6日は午前中に地元自治会主催の防災訓練になったため、途中まで訓練に参加して午前11時頃に自宅を出発。富士街道から新青梅街道に入り、ひたすら西へ西へ。
途中で自動車3台による追突事故があり事故渋滞していたが、それ以外は順調に走る。途中でおにぎりを食べたりしながら、14時50分頃現地に到着した。

川崎から来たK家族は13時頃に到着しており、すでにテントを張り終わっていた。テントサイトは山の斜面を整地しており、2張ずつ程度で1区画を使えるようになっている。隣りとの間隔は充分取ってあり、独立した庭のような感じになっていてなかなか快適だ。
炊事場もトイレも適度に近くて清潔になっている。シャワーも無料で使えるのがうれしい。私は使わなかったが奥さんと子供たちは利用したようである。

K家族は4人。私の友人と奥さん、高校1年生と小学生5年生の姉妹だ。我が子も女の子のためすぐに打ち解けて、川遊びに行きたいという。少しまわりを確認したが深い渓谷になっており、ちょっと降りることは難しそうだ。駐車場にとめた車でビジターセンターに移動し、そこから奥多摩湖に流れ込む渓流に降りていく。
水が冷たい(*^_^*)
速い流れの場所もあるが、緩やかに蛇行させている場所もあり大人がついていれば小さな子どもでも充分に水に入って遊ぶことができる。なかなか、いい。
ここでうちの奥さんを子ども3人の監視役に残して、私はテントを張りに戻る。
20歳代最後の頃に買った記憶があるテントだからずいぶんと購入してからの期間が長くなるがどこも破れたりしないでよく活躍してくれている。前回のキャンプ以来で7年ぶりの登場だ。
テントサイト内にテント用のすのこが用意されている。へ〜これはいい。
K夫妻が手伝ってくれて、汗をかきながらなんとかテントを張り終わる(ふ〜っ)。
すのこのおかげもあり、テント内はすごく快適だ。

ここで缶ビールをあけて、乾杯。
汗をかきながらのビールは格別に、うまい(^_^)v

しっかり汗もかいたのでラフな服装に着替える。今回、食材等々の買出しは全部K家族がやってくれた。私が川沿いに行ったりしている間に野菜もおおかた切ってくれていた。ありがとうございます。感謝。
私はかわりに体と使おうというわけではないが、持参したバーベキューコンロを組み立てて火を熾(おこ)す。テントサイトは直火禁止だがバーベキューコンロはOKなので、とてもうれしい。ひさしぶりのことなので炭火にする要領がなかなか思い出せない(^_^;)今どきのやり方は火炎放射器のようなボンベタイプのバーナーで一気に炭を焼くようだが、そんなものはもちろん持っていない。悪戦苦闘するのがこれまた楽しいのだ。
30分以上は格闘しただろうか、ようやくまともな炭火になってきた(ほっ^^;)。
その間に友人Kが子どもたちを車で捜しながら連れて帰ってくれる。
みんな揃って食事の準備をして、あとは網をのせて焼いて食べる番だ。

テントサイトには木製のテーブルとベンチのセットが2つ作られている。しっかりしたもので自然の中に溶け込んでいる。2家族でひとつのテーブルを囲んでも狭くない大きさはありがたい。一緒に食べようとみんなに声を掛ける。しかし、4歳になったばかりの我が子が恥ずかしくなったのか、隣りのテーブルで食べると言ってきかない(^^ゞ。
困ったなぁと言いつつも、まあそれもいいかと食べているとKの奥さんが気を利かせてくれて二人の姉妹に「隣りに言って食べてあげたら」と助言。さっきまで一緒に川遊びをしていたので気心が知れているのだろう。少ししたらきゃっきゃ言ってはしゃいでいる。本当にありがたいなぁとしみじみ。

あとは星空をみながらゆっくりと語り合う時間....。
のはずが、子ども達も遅くまで楽しそうにテントに入ったりして遊んでいるし、Kも日頃の疲れからか、火のそばでうとうと...。私もなんとなく眠くなったりで...。
まぁのんびりと寝ちゃうのもいいかなと。軽く雨がぱらついたのを機に、そのままそれぞれテントへ。おやすみ〜。

日頃から眠りの浅い私(^^;)は朝4時頃に目が覚めた。
しばらくは家族を起さないようにじっとしていたが、手持ちぶさたで起き出す。トイレに行くが、まわりのテントの人達も起きてこないのでもう一度テントの中へ。2回それを繰り返してから(^^ゞもういいかと思って炊事場に行って顔を洗ってひげをそったりしていると次第に空が明けてくる。他のテントの人も一人二人起きてくる。
お湯を沸かしてコーヒーを入れて飲む(ただしインスタント^^;)。
山の空気を満喫した感じで、とても気分がいい。
子供たちも起きてきて「近くを探検してくる」と言って子供たち3人で山肌のほうに歩いていく。帰ってくる頃を見計らって朝食を準備する。パン、焼きうどん、スープ...。なかなか朝から盛りだくさんだ。おいしい。
食後は子供たちは近くを散策。Kと私はキャッチボールをして過ごす。
9時過ぎたくらいからテントや荷物を片付け始める。
意外と早い。昨日自宅で荷物を積み込んだときのことを思うと、自分でも相当手際がいいと思う。やはり人間って経験するということは大きいものだ(うんうん)。

その後、キャンプ場サービスセンター(管理事務所)に顔を出してビジターセンターへ。
クラフトセンターという建物が併設されており、K家族はなにかものづくり体験をしていくという。「我が子もできることがあればやったらいいんじゃない」と妻に話しながら私は午後3時過ぎから練馬区内で予定があったため一人先に帰る交通手段を確認しにビジターセンター内へ。バスの時間が意外とないことを確認して、どうしようかと思いつつクラフトセンターに行くと妻と我が子がガラス越しに教室内をみている。
K家族は陶芸体験をすることにしたらしい。我が子は木工か石細工がいいんじゃないかと話をすると「おとうさんと一緒に帰ろう」と言ってくれたので、ここでK家族と再会を約しながら挨拶をして別れる。

11時半頃にビジターセンターを出発して一路我が家へ。
途中で「○●ガーハットでちゃんぽんが食べたい」という我が子の意見で東大和あたりまで一気に帰ることに。しかしもうすぐというところで我が子はお昼寝タイム。そのままノンストップで自宅まで帰ってきた。
自宅到着は14時。
ほんとスムーズな週末旅行だった。
当初の天気予報は雨だったが、夜パラパラした程度で日曜は暑いほどの素晴らしい晴れの天気。よい思い出となった。
ちなみに16時頃に急に雲に覆われてどしゃぶりの雨に。
ほんと、天気にも守られたねとしみじみと。

都会で生活していると、自然の中で過ごしたあとの精神的な安定感というか、自分自身の生命がゆったりとおおらかになっていることを体中で実感する。
いかに不健康な環境で生活しているかということだろう。
これからは時おり時間をつくって奥多摩あたりで過ごしてくるのも大切だなと感じる今日この頃である。

【関連リンク】
東京都立奥多摩湖畔公園 山のふるさと村

2008年9月11日 (木)【農水大臣、汚染米輸入禁止を指示 本質はどこにあるのか】

9月10日、太田誠一農林水産大臣は食品衛生上問題のある事故米(汚染米)が輸入検疫で判明した場合は輸入を認めず輸出元に送り返す方針を決めた。
大阪市の三笠フーズによる偽装転売事件を受けた対応策のひとつである。

期限を区切った応急措置としては一定の評価をしたいと思うが、今後も続ける対応策と考えているのであれば問題があると言わざるを得ない。
9月8日付でも書いたが、問題の米は日本が世界貿易機関(WTO)の協定に基づくミニマム・アクセス(最低輸入義務)枠で輸入した米である。自国民の安全を守りたいからという理由で汚染米を送り返すのであれば国際的義務を放棄することになりはしないか。これはPKO活動への参加とも同様の構図ともいえるだろう。
また、事故米は数量こそ少ないが国産米でも発生している。
輸入禁止では本源的解決ではないことを明確に自覚すべきである。

日本としてできる貢献は他にある。
事故米を発生させない努力、そして発生した事故米を安全に消費するシステム(仕組み)作りが重要なのではないだろうか。

そもそもなぜ事故米が発生するのか。
これを追求することで一番目の課題「事故米を発生させない」ことに大きく貢献できる。
大きな原因としては
(1)過剰な農薬使用による安全基準を超えた残留農薬米が発生する
(2)自然災害等で水に浸かった米が発生する
(3)土壌中、大気中の有害物質によって汚染米が発生する
(4)非衛生的な保管状況によってカビ等が発生する
このような原因が推測することができる。
こうした状況に対して、日本の農業技術、土壌改良技術、災害防止や被災後の農作物の加工技術などが大いに役立つはずだ。東南アジアでは自然界に存在する土壌中の砒素の問題もある。日本で行なわれてきた有機農法も大きな光明になるに違いない。
民力と協働し、早急でより効果的な検討実施を望みたい。

そして早急に対応すべきは、2番目に指摘した「発生した事故米の安全な消費システムの確立」である。
続報として「浅井」(名古屋市瑞穂区)、「太田産業」(愛知県小坂井町)の2社での事故米の不正転用が判明している。事故米の不正転用はもっと広がっていたと推測される。
三笠フーズでの不正行為は冬木三男社長自らが政府払下げ米の買付に意欲的であり、入札では工業用のり原料米相場の2倍以上の高値で落札していたことも報道されている。「なぜそんな高い価格で落札できるのか」「採算が取れるのか」等の疑問の声が同業他社からも出ていたという。
そうした疑問を応札した農水省自身になかったのか。
まずは農水省職員、そして農水省組織としての再教育を行なうところから始めていただきたいと思う。そのうえで最終消費まで追跡するシステムと執念を培うことが必須である。
この対策はさほど難しいことではないはずだ。
落札する業者は限られている。2003年度から本年7月までに落札した業者はわずか16社にすぎない。このくらいの数の会社を管理できなくて何のための国家公務員かと言いたい。

こうした2点の対策を講じることで当面の対処ができるだろう。
しかし、今回の事件の本質はもっと根が深い。
それは「ばれなければ多少のことは許される」という人間の奥底に潜む自分本位の生命の傾向性だ。人間社会の犯罪のほとんどは同根であると言っても過言ではない。
この自己中心的生命をどのようにして克服できるのか。
今までは道徳観や倫理観の徹底教育等でやってきたが、手に負えない状況になった。その綻びは次第に大きくなり、時代とともに加速度を増している。

自他彼此の心なく(自分と他人を差別する気持ちをなくして)、自他共の幸福をどのようにすれば実現できるのか。ここに思いをはせ、すべての施策の基としていく社会を創出するしかないと強く感じる事件である。

【関連リンク】
「三笠フーズ」騙しのテクニック(J-CASTニュース)
愛知2社も汚染米販売 農水省との契約違反(産経新聞ニュース)
メタミドホス米「いい米だ。全部買いたい」三笠フーズ社長(産経新聞ニュース)

2008年9月9日 (火)【東大泉中村町会の防災訓練に参加】

9月6日(土)に行なわれた防災訓練に参加した。
2002年1月に現在の住まいに入居して、はや6年半。お恥ずかしい話だが初めての参加である。しかも以前から友人家族と約束していた予定があり1時間弱で中座させていただいた。申し訳ない限りである。

当日は朝から小雨がぱらつくあいにくの天候。
まず9時30分に近隣の集合場所に傘を差して歩いて出る。ここまでは妻と我が子と3人で参加。同じ班(住んでいる地域毎に班が組織されている)の方とお互いに挨拶を交わしてすぐに一時集合場所に移動。私の住むあたりは都立大泉高校の東門(裏門)前だ。ここで班毎の参加者確認があり、避難拠点になっている区立大泉東小学校に移動した。
小学校の入口で非常食用のクラッカービスケットとペットボトルのお茶をいただく。集合場所の体育館に移動しながら、マンホールの上に取り付ける簡易トイレや防災備品の入ったプレハブ物置などを見学。私達の地域は大泉東小学校まで近いのでゆっくり歩いて9時50分頃には体育館に到着した。同じ班の方々と挨拶、懇談しながら全体の開始を待った。全体訓練は防災ビデオから始まるようだったが、私は20分ほどその場に参加したあと開始前に失礼させていただいた。

途中までであったが近隣の方々の顔を知ることもできた。
災害が発生した時に一番大切なのは隣近所との連携である。その根っこは隣近所には誰が住んでいるか知ることであり、自分自身の存在を知っていただくことであると思う。
今回の防災訓練で初めて顔をあわせた方、初めて声を交わした方が何名もおられた。これを機に少しでも近隣の方との交流をするように心掛けたいと感じた訓練であった。

あわせて感じたことを追加でひとつ。
練馬区のWebサイトには「防災のページ」がある。
このページの充実を強く望みたい。
具体的には以下の2点をすぐ対応してほしい。

そのページには「防災訓練」→「区内で行なわれる防災訓練」というコーナーがあり、防災訓練の予定をインフォメーションするファーマットになっているのだが、地域の自治会等が自主的に行なっている訓練情報の予定が0件なのである(なお間違いのないように補足すると、並んでいる別の項目で自治体や消防署主催の訓練は紹介されている)。
防災訓練に参加するかどうかでいざという時の対応は大きく変わってくる。是非、地域の訓練の情報を掲載してほしいと思う。

次に、避難拠点についてはPDFファイルの中で「区立小中学校103校」と明記されているが、避難拠点をプロットした地図がないため、自分がどこに行けばいいのか多くの区民はわからない。小中学校をプロットした地図としては「洪水ハザードマップ」があるのでこれでよいと思われているのかもしれないが、避難拠点毎の区域割りが書き込まれていないのでどこの小中学校に行けばいいのかわからない状態だ。事実、今回の防災訓練に参加した方との話の中でも「前回の訓練の時は大泉第二中学校に集合だったが今回は大泉東小学校に変わっていた」という方がおられた。実際に災害が起こった際には更に混乱するのではないだろうか。是非、区域割りを記入した避難拠点マップを作成しWebサイトにアップしていただきたい。もちろんWebサイトで確認する区民はまだまだ少ないに違いないができることはやっておくべきだと思う。

防災訓練情報の掲載はメールで要望をおくったが、果たして迅速に対応してくれるか。練馬区には大いに期待したい。

【関連リンク】
練馬区 防災のページ
練馬区洪水ハザードマップ
練馬区 防災のページ/防災訓練
練馬区 町会・自治会のページ

2008年9月8日(月)【事故米転売事件 農林水産省の責任は重い】

米卸売加工会社「三笠フーズ」による、汚染された事故米穀の食用転用事件で大きな衝撃が広がっている。この偽装行為は昨日今日始めたことではなく、約10年前から恒常的に行なわれていた疑いが濃厚だ。
どうして食品偽装が跡を絶たないのだろうか。
今回、三笠フーズが食用として流通させていた事故米は、殺虫剤メタミドホスが混入したもの、自然界で最も発がん性があるとされているアフラトキシン(発がん性のあるカビ毒)に汚染されたものなどである。いずれも残留基準を超えたものであり、本来は工業用など非食用として厳しく管理されなければならないものである。

このような米がなぜ食用に偽装されて流通してしまっているのか?
今回問題になっているのは、国が世界貿易機関(WTO)の協定に基づくミニマム・アクセス(最低輸入義務)枠で輸入した米である。
事故米の相場は、食品加工用米の流通価格の5分の1程度で安価といえようか。工業用の糊などに使われることを考えれば妥当な価格かもしれないが、それは「事故米」ゆえの価格である。
国際的な分担として汚染米を国内に持ち込む農林水産省には、健康被害が懸念される危険物として最終段階でどのような用途で消費されるのか、厳重に管理する責任があるはずだ。
メディア報道をみる限りでは、そのような厳重管理など全くされていない。民間企業に売却されたあとは知らぬ存ぜぬである。

三笠フーズの企業責任が重大であることはいうまでもないが、農林水産省の管理責任はそれ以上に重大である。

【関連リンク】
三笠フーズ事故米穀の販売先企業名(農林水産省・報道発表資料)

2008年9月3日 (水)【平和を創る人間をめざして 玉井秀樹准教授の講義を受講】

8月31日(日)、今年の創価大学夏季大学講座の最終日である。
今年も玉井秀樹准教授(創価大学平和問題研究所長)の講座を受講した。
玉井准教授の講義は一昨年、昨年に引き続き今年で3年連続の受講である。
今年のテーマは「平和を創る人間をめざして」。サブタイトル「創立者の平和提言に学ぶ」とあるように、池田大作創価大学創立者の平和提言、すなわち1.26を記念したSGI提言を平和学、世界平和構築の視点から考察しようという内容である。

この内容は昨年、一昨年ともレジメには講義予定といて記載されていたが、時間切れのためであろうか多くの時間を割り当てることのなかった内容である。
大いに期待をしながら受講に臨んだ。
講義は大きく3つの視点で行なわれた。すなわち
(1)平和学の教科書としての平和提言
(2)2001年以降の平和提言のポイント
(3)第33回(2008年)平和提言で示された「宗教のヒューマナイゼーション」とは
である。

■平和学の教科書としての平和提言

まず最初に、過去に行なわれた平和提言の多くがその後実現していることの意義を見ていった。
1968年 日中国交正常化提言 → 1972年 日中共同宣言
1983年 米ソ首脳会談の提案 → 1985年 レーガン・ゴルバチョフ会談 
2004年 国連復興理事会の提案 → 2005年 国連平和構築委員会
2008年 クラスター爆弾禁止の提言 → 2008年 クラスター爆弾禁止条約
これらの実現を偶然だとか評論家的予測だか言うのは容易いだろう。これが評論なのか、この提言によって世界が動いたのか。それはそれに関わった当事者達の証言によれば明白になる。彼らは「池田先生に提言していただいた事実が大きい」と証言している。
この歴史的証言をなぜ日本のマスメディアや有識者、為政者達は正視眼で評価できないのか。ここに人間の持つ魔性が潜んでいると思われてならない。

池田先生の個々の平和提言は文章的には前半、後半に分けて学ぶことができる。
前半はその提言を行なったときの時代精神の本質を語り、後半はそのときの国際社会の課題と具体的提言になっている。
全体としては平和運動、平和問題の現状を俯瞰しつつ、その時点での最も重要な施策を抑えていると言える。
では、なぜそのことが世界の指導者達に啓発を与えることになるのだろうか。
されは多くの場合、行うことができる方策というものは検討尽くされていることが多いからではないだろうか。言い換えれば様々な多岐にわたる方策が示されはするが、その中から何を選んで実行すべきかに悩んでいる、とはいえまいか。
池田先生の平和提言はそうした判断基準とも言うべき時代精神の本質を明確にわかりやすく説き、数多くある方策の中からいま行なうべき最重要施策を優先順位をつけて提示しているからこそ、多くの指導者に受け入れられているのではないか。
講義を受けながら、そのように感じた。

講義の後半は、ではなぜ池田先生はブレことなく的確な提言を行う続けることができるのか。その疑問にも答えを見出すことができるだろう。

■2001年以降の平和提言のポイント

ここでは各年毎の平和提言のポイントを年代を追って学んだ。
どの年も重要で価値ある提言内容であるが、あえて特筆すべきは2002年の提言といえよう。前年の9月11日にアメリカ同時多発テロが起こった4ケ月余り後の提言である。
日頃ほとんど池田先生の行動を報道することのない日本のマスメディアがこぞってこの年の平和提言を取り上げた。その論調は「池田大作SGI会長 テロリストに対する武力行使を容認」という内容だった。
この表現が提言の全体像を正しく言い表しているかどうかは提言全文を読むとよくわかる。Yes-Noの二者択一的な表現によって本質が歪められる典型的な事例だ。
確かに池田先生はこの提言において、大きく踏み込んだ。
しかしその本質は変わらず仏法の中道主義にある。
それは「”殺の心を殺す”という自己規律」と人間性への信頼に基づく文明間、宗教観対話に解決の方途があるとする池田先生の本提言の主張に端的に凝縮されている。
その後の平和提言においても、無差別テロに対する戦いは「対話」の力によるしかないことが毎年のように繰り返されていくのである。それは大量破壊兵器を撲滅する戦いにおいても全く同様である。

こうした平和提言の流れの中で本年2008年の第33回SGI提言を見ていく。

■第33回平和提言で示された「宗教のヒューマナイゼーション」とは

今年の提言にあって、大きくクローズアップされた概念が「宗教のヒューマナイゼーション」である。
池田先生は提言の中で次のように述べている。

私どもが標榜する人間主義とは、使い古されてすっかり手垢のついてしまった、それ故さしたる共鳴を響かせなくなってしまったヒューマニズムではない、万事に「原理」「原則」が「人間」に優先、先行し、「人間」はその下僕となっている、そうした”原理主義への傾斜”と対峙し、それを押しとどめ、間断なき精神闘争によって自身を鍛え、人間に主役の座を取り戻させようとする人間復興運動なのである。

この意味を現実の闘争の中で咀嚼し、行動の基盤としていけるか。
そこに私達の挑戦の本質があるといっても過言ではないと思うのである。

講義の中では、平和学、平和運動の現状や紛争解決研究などについても紹介があった。
紛争は危機でもあり、機会でもある。
発想の転換の重要性。
環境の悪化は経済格差(貧困)の拡大と密着している。等々...。
様々な気づきをいただいた講義であった。

講義の中で1992年の国連総会で演説した12歳の少女のスピーチを映像とともに聞いた。
「子どもでもわかることがなぜ大人のあなたたちにできないのか?!」
心に突き刺さる言葉であった。

名古屋の永田さんとも初めて顔をあわせて挨拶もでき、有意義な一日となった。
次の受講の機会を楽しみにながら創価大学をあとにした。

2008年9月2日 (火)【第36回夏季大学講座を受講】

今年も創価大学夏季大学講座が開催された。
開催日程は8月29日(金)から31日(日)の3日間。私は30日31日の両日に受講した。
今年で36回目の開催であり、私は2002年から受講し始めたばかりなのでやっと7年目である。今年も多くの方が20年以上受講しており名誉学生証の栄誉に輝いていた。

30日(土)は高橋保教授の「夫婦から家庭・家族をデザインする−すぐキレる子どもたち、さまよう若者たち−」を受講した。
キレる子どもはなぜ生まれるのか?
これが本講座のテーマの一つであった。
1966年にスポック博士の著書『スポック博士の育児法』が翻訳紹介されてからの日本における育児の急激な変化、アメリカにおけるゼロ・トレーランスの取組み、2〜3歳に限定された眼窩前頭皮質の形成については非常に興味をそそられた。
できることであれば、キレる子どもに育ってしまった子どもとどのように接していけばよいのか、その点の方途を示してほしかった。子育て真っ最中の親としては何かの示唆だけでも得たと思う次第である。

「さまよう若者たち」についても同様の感想だ。
講義の後半は、こうしたキレる子どもたちもさまよう若者たちも夫婦から出発して家庭家族を再構築することで再生していくことができると講義が進む。
たしかに私自身の立場では重要な、不可欠の要素だと感じたと同時にふと感じたことがある。それはキレる子どもたち、さまよう若者たちの多くはすでに戻るべき家庭を失っているという現実だ。
確かにこれから夫婦生活を営み、家庭家族を創っていく場面に遭遇している人達には得るものが多かったに違いない。しかし現在、不幸にも不遇な状況になっている子どもや若者たちはそうした家族環境に身に置くことができなかったがゆえに、今の不遇に陥っているのではないか。

講義の後半で聞いた「夫、妻、夫婦それぞれの生きがいを持つ」ことの必然性、夫婦の4つの関係には深く感じるところがあった。
女性の化粧は誰のためにするのか?という問いかけには、夫婦というものについて更に様々と思いを深くした次第である(*^_^*)

終了後は受講講座は違うメンバーと合流し、八王子駅前で懇親の一席をもった。毎年の恒例となりつつある第二日目終了後の宴であるが、今年は経済学部の山中馨教授が同席して下さり一段と盛況な会となった。一年に一回言葉を交わすメンバーもおり、また今年初めて同席した方もいる。また来年も集うことができればと念願している。

2008年8月26日 (火)【第41回桂冠塾『黒い雨』(井伏鱒二)】
8月23日(土)に今月の桂冠塾(読書会)を開催しました。
今月の本は井伏鱒二氏の『黒い雨』です。人類初の原子爆弾投下、そして太平洋戦争終結から63年目の夏を迎えました。
『黒い雨』は原爆小説を代表する作品として有名です。

井伏氏は生前、この作品をルポルタージュとして書いたことを述べている。作品が生まれた経緯については、筑摩書房刊『重松日記』におさめられている相馬正一氏による「解説」が詳しい。以下、相馬氏の解説を元に経緯を簡単に紹介する。

作品の主人公である閑間重松のモデルである重松静馬が、当時残していた当用日記のメモを元にノートに書き起こしたのが「重松日記」である。

重松氏が「重松日記」を書き残そうと思い立った直接のきっかけは原爆体験の風化への危機感であった。「重松日記」は本編2冊と続編2冊の計4冊から構成されている。詳細の紹介は今回の趣旨から少し外れるので割愛するが、本編を書き起こし始めたのが昭和20年9月。断続的に書き進めて、昭和24年春から本格的に執筆に着手、約2年間を費やしたという。記録された期間としては昭和20年8月6日から13日までである。

被爆の翌月から書き始めたことにはそれ相応の理由があった。
それは原爆投下による被害を事実よりも矮小化しようとする報道への危機感であった。アメリカメディアでは、原爆被害によって広島長崎は「今後75年にわたり不毛の地になるであろう」と報じていた。事実は人間の想像を越えた生命力によって75年よりも短い期間で復興を果たしたのだが、過剰に反応したのが当時、仁科博士らによって組織された災害調査委員会である。
彼らは、

1)原爆による放射能は爆発後一週間から10日後には全く無害になっていた
2)爆心付近で発生した放射能の強度は人体に有害な強度の数十分の一から百分の一にすぎない
3)爆発直後の一両日は強い放射能が存在したが短時間で減退したと考えられる

として、原子爆弾の被害は「爆発による直接の被害を除いては生物におよぼす被害はほとんどないものと推定される」という報告書を発表し、昭和20年9月16日付で新聞各紙が一斉に報道したのである。
どうしてこのような無責任な見解を公表できたのか、当時の日本の科学水準から推測しても断定的に無害と主張できるとは想像できない。冷静な調査分析が行なわれていれば、科学的推論が結論に至らなかったか、相当の放射能被害が推測されるという結論に至るのではないだろうか。裏返して言えば「結論まずありき」の方針が透けて見えてくる感じすらしてしまう。

重松氏は子孫のために、原爆の悲しみを繰り返さないために自分自身の手記が少しでも役立たないかという思いで日記を書き起こしたのであろう。後年、井伏氏に書き送った手紙からもそのことをうかがい知ることができる。

その後、重松氏は被爆した怪我の治療等が一段落した昭和34年頃から、8月14日、15日の記録の執筆を再開し、昭和35年1月10日に脱稿した(なお後記「被爆其後のことども」は昭和37年7月に書き加えられた)。
当時すでに釣り仲間として知り合いになっていた井伏鱒二氏に日記を見てもらおうと手紙を書き送ったのが昭和35年6月である。その中で、当時の原水爆禁止運動に失望し、手記を何らかの形で活かしたいと思ったことが書き綴られている(これが10年余り経ってから日記の記述を再開した大きな理由だったと推測される)。

その後の井伏氏との遣り取りについては同著『重松日記』に収められている「重松静馬宛井伏鱒二書簡」から推測することができる。
また同著には「広島被爆軍医予備員の記録 岩竹博」も収録されており、『黒い雨』を読むにあたっての最適の資料集になっている。
「重松日記」本体についても、そのままでも充分読み応えのある作品といえる。全編を読んでみると、井伏氏が『黒い雨』をルポルタージュだと自称しているのも納得がいくだろう。事実は小説よりも圧倒的な説得力とドラマを展開するのだ。井伏氏が技巧を殆ど用いることなく、重松氏の体験を忠実に再掲したのが『黒い雨』である。

本編については多くを語る必要はないだろう。
是非一人一人が何度も読み返しながら、重松氏、井伏氏の思いを、何らかの形で感じるものをつかんでほしいと願うものである。

本年4月、国による原爆症認定基準が大きく緩和された。
資料が不足しているため事実は確認できていないが、今までの基準では作品中の矢須子の場合は原爆症に認定されなかった公算が極めて高い。
いわゆる「残留放射線」による「入市被爆者」の原爆症認定問題である。
日本国は「矢須子」を原爆被害者に認定しない...衝撃的な事実だ。
『黒い雨』の悲劇のヒロインである矢須子は間違いなく原爆の被害者である。しかし国は「原因確率」等の審査基準を理由に入市被爆者の認定申請のほとんどを却下してきた。

何のための基準なのか。
基準が大切なのか、そこで苦しんでいる一人の人が大切なのか。
戦後63年にしてようやく気がついている程度が、私達の生命の現実なのだ。
基準が緩和されたとは言っても、今回の適用基準でも対象外にはじき出される人の中に間違いなく原爆症だと推測される人が残っているのも事実だ。
基準云々を論議する前に、目の前の一人の人を救っていける私達一人一人でありたい。
またそれが重松さん、矢須子(本名は安子)さんの体験を後世に活かすことにつながると信じたい。

【関連リンク】
第41回桂冠塾『黒い雨』(井伏鱒二)
NHKスペシャル「見過ごされた被爆−残留放射線63年後の真実−

2008年8月 7日 (木)【第24回黎明塾「流通業およびマーケット・ロジスティクス」】
8月2日(土)に第24回となる黎明塾を開催しました。
今回のテーマは「流通業およびマーケット・ロジスティクス」。

メーカーによって用意された製品、サービスは何らかの形によって消費者、使用者に届くことが必要である。従来この機能を流通と呼んできた。この流通には商的流通(商流)と物的流通(物流)の2側面があり、以前はそれぞれ独立した部門で行なわれてきた経緯がある。
特にPhysical Distribution の訳語である物流は、製品の輸送、保管、荷役、包装、流通加工という現業に限定されるなど、経営活動の中で軽視されてきた。
その後、ロジスティクス(logistics)の訳語により、後方支援という概念が日本の経済界に導入されたのは実質的に1970年前後であったように思う。

その後、サプライチェーンマネジメントとして再評価され、マーケット・ロジスティクスとしてその概念は発展拡大してきているが、いまだ日本における経営的な位置付けは充分ではない。コスト部門という意識が強く、できることであれば業務委託によってコスト削減すべきという固定概念にとらわれたままの経営者も多く存在している。

当日は、流通業を専門とする経営者の視点と共に、企業経営におけるマーケット・ロジスティクスの重要性を考えました。

【関連リンク】第24回黎明塾・開催内容


2008年8月 6日 (水)【広島原爆投下から63年目の夏】
今年も8月6日の朝を迎えた。
今から63年前の今日8時15分。
広島市の上空で人類の歴史上初めて原子爆弾が使用された。

今年の8.6も暑かったが昭和20年も暑い一日だったという。
この一年で新たに確認された死亡者は5302人。死没者は25万8310人にのぼった。
今年4月には原爆症認定基準が大きく改定された。
原爆投下後に市内に入って残留放射線によって被爆した被害者の認定、被爆後に海外に転出した被害者の認定などが認められることになった。日本国政府としての方針が拡大されただけであり、まだ司法判断がどうなるか予断は許さない状況ではあるが、大きな前進であった。
今回の認定基準変更で対象者は10倍に広がるという見方もある。しかし原爆被害の現実がそうだったということだ。更なる認定基準の見直しと被害者救済は続いていくことになる。

いまも世界の各地では紛争がおこなわれている。
幸いにも日本においては武装した勢力による紛争戦争は存在しない。しかし一方では、精神的崩壊は加速度的に増加し続けている。
こうした現代的病理の解決方策は果たして存在するのだろか。
事実を正視眼でみつめることから真実の行動がはじまる。
広島、長崎への原爆投下を決定し実行したのは人間だった。
私達が現実に立ち向かっているのも人間自身である。

遠い回り道のようであっても、一人の人間における生命の変革が社会と世界を平和へと転換する唯一の方途であるように思えてならない。
63年目の原爆投下の日を、自分自身の小さな、しかし長い目で見たときには大きな一歩となるだろう現実の行動を確実にはじめる決意の日としたい。


2008.7.31(木)【第40回桂冠塾『月と6ペンス』(サマセット・モーム)】
7月26日(土)に今月の読書会を開催しました。
今回の作品はサマセット・モーム作『月と6ペンス』です。

サマセット・モームには『人間の絆』などの代表作がありますがモームの存在を知らしめた本作品を取り上げました。
戦後しばらくの期間にわたって英語教育の教材に取り上げられることが多かったようで、中高年世代以上の方には懐かしく感じられる作家です。「モームの作品は英語の副読本で読んだ」という人もいました。

作品そのものの評価は必ずしも高いとは言えないかも知れません。
たしかに何らかの啓発を受けたという人は少ないようですし、私自身読了した感想としては問題提起の意識の高さに比して、独自の思索の深さというものはあまり感じられなかったように思います。
しかしモーム自身の文筆の力には驚嘆させらます。
とにかく先に先にと読み進めたくなる文章とストーリー展開。
適度な話の溜め方には、嫌気が差すほどひっぱりまくる今どきの報道番組のプロデューサー達にも見習ってもらいたいほど、抜群のタイミングを感じます。
モームの短編作品が高い評価を受けているのも、そうした点に大きな要因があるようにも思います。

モーム自身が強く感じていた問題意識とは何か。
それは様々な表現があると思いますが、ある視点から見ると「人間とは何か」という人としての本源的な叫びであったように感じます。
モームはその疑問を生涯持ち続ける中で、ゴーギャンという異色の画家の人生を知り、『月と6ペンス』の構想を具体化していったのだと思います。
ただ、その疑問についてのモーム自身の思索は深化することはなかったように思います。その裏返しとして、自分自身を「通俗的」作家という表現で自虐したのかなとも思います。
自伝的作品である『サミングアップ(The Summing Up)』では「自分は批評家たちから、20代では残忍、30代では軽薄、40代では皮肉、50代では達者、現在60代では皮相と評されている」と書いている。
そのように記述し、また自身もそのように表現することで、そこから先の思索を凍結してしまったように感じる。
モームには、そこで立ち止まることなく、人間そのものを直視し、掘り下げていく努力をしてほしかったと思う。
またそれができる人物だったと思いたい。

作品の発表から明年で90年。
サマセットモームの提示したテーマを解決する必然性が迫ってきているように思えてならない。

【実施内容などは→】第40回桂冠塾実施内容

2008.7.22【社会保険庁の入力ミスで13年間無年金生活】
73歳になった男性が、以前に勤めていた年金納付期間がみつかり13年前に遡って月額75000円の年金給付が認められた。
この方の名前は松居幸助(こうすけ)さん。不明になっていた年金記録は1969年2月〜4月分。この分の納付記録には名前が「ユキスケ」となっていたという。松居さんは年金受給資格である納付期間20年(240ケ月)に1ケ月足らないとして、65歳の時に訪れた世田谷社会保険事務所で申請を却下された。このとき、氏名の入力違いの疑いのあるデータを調査するなどの処置を社会保健事務所は怠った。今から10年余り前当時の公務員の窓口対応を思い出すと、大柄な態度だったんだろうと容易に想像できてしまう。

松居幸助さんは何度か転職を繰り返しながら65歳まで仕事に従事。65歳以降は兄と公営住宅で同居しながら貯金を切り崩して細々と生活。昨夏に同居の兄が逝去したあとは秋から半年間病気で入院生活となり、弟に家賃を納めてもらいながら生活してきたという。

社会保険庁の心ない安易な作業に人生が大きく狂ってしまった人がいる。
勤務時間をだらだらとやり過ごすことに罪悪感のない社会保険庁職員、何の責任感もなく適当に作業件数をこなすアルバイト、常に責任所在を回避しながら無難に業務を消化し高い金額を得ようとする請負業者...。
無作為による犯罪の責任は、法廷で厳格に裁かれなければならない。

そうした法的処分が行なわれたとしても、やりきれない思いが、間違いなく残る。
私達の人生ってなんだろう。
そんな些細な、どうしようもない、いいいかげんな輩の怠慢によって、大きく左右されてしまう人生とは...。
憤懣をたたきつけることで一時の気持ちは晴れる。
経済的な保証や、場合によっては損害賠償を得ることもあるかもしれない。
しかし、それで自分自身の人生を切り拓くことができたといえるだろうか。
いいかげんな人間の性根を根本から叩きなおすこと。それも精神論や懲罰によってできるものではないだろう。
自分自身を含めた全ての人の生命に巣食う怠惰な生命傾向を転換することのみが根本的な解決の道ではないかと痛感する今日この頃である。

【関連記事】
無年金 入力ミスで13年 73歳、記録見つけ受給資格

2008.7.13【】
2008.7.10【第39回桂冠塾『三国志』(吉川英治)】
6月28日(土)に第39回目の桂冠塾(読書会)を開催しました。
今回の本は吉川英治作『三国志』です。

時代は今から1800年ほど前。
日本においてはやっと邪馬台国の存在が認められる程度で、大和朝廷が歴史に登場する以前の時代である。当時の日本の状況はよくわからないのが実態で、詳細な歴史などもちろん判然としない。日本人にとっては、そんな太古の時代に三国志の世界が繰広げられているのことに大きな驚きを覚えずにはいられない。

皆さんは『三国志』という作品にどのようなイメージを持っているだろうか。
魏・呉・蜀が覇権を争った壮大な大河物語。
劉備玄徳を中心とした信義の世界を描いた物語。
諸葛孔明が活躍する知略攻防の世界。...
こんなイメージが多いのではと思う。そういう私も同様のイメージを持っていたが、今回一気に読み通した読後感は、全く違うものに変わった。

人智の及ぶ限界というか、高き理想を継承し実現することの困難さといえばいいのか、世の常ならざるあわれをひしひしと感じざるを得ない。そんなある意味でやるせない思いが広がった。
諸葛孔明はそうした状況を「天命」「天意」と呼ぶ。
当時の中国、漢民族の奥底にある思想を垣間見ることができるのも「三国志」を読む楽しみ。特に印象的なのが星をはじめとする天文によって将来を予見しようとする思想だ。しかしそれを神通力とか妖術だと短絡視しないところが「三国志」のおもしろさだ。逆に妄信的な思想はことごとく退けられている。言い換えれば自然界の摂理、法則をよく知ることが勝利の秘訣と説かれているとも読むことができる。現代にも通じる考え方である。

物語の後半は、亡き劉備玄徳の遺志を受け継いだ諸葛孔明が、天下万民が天子の元で安心して暮せる国家の創出に全生命を賭けて戦いを挑み続けるシーンが続く。
しかしその壮大な挑戦に綻びが生じる。それは、恣意的で自己中心的な人間の弱さ、ずるさからだ。ここで勝利していれば大願は成就できたはずという緊迫した場面で、だれか一人が自分の利害に固執し、堕落した自分自身の生命に流され、本来の目的を忘れて、団結の呼吸を乱し、そこが敗北の因となっていく。
諸葛孔明は、どんなにか、歯軋りを繰り返したことであろうか。

人こそ、すべての出発点であり、終着点である。
そのためには、人(人材)が綺羅星のごとく涌き出で続けるのか、病んだ歯がぼろぼろと抜け落ちていくようにいなくなってしまうのか...。
蜀の滅亡は、劉備玄徳の息子・劉禅の姿に如実に象徴されている。

今回の桂冠塾では「桃園の巻」「群星の巻」を中心に読み進めていただいた。
諸葛孔明も登場する前であり、魏呉蜀が天下三分の計でにらみ合うずっと以前が舞台である。黄巾の乱から始まり、桃園の誓いが行なわれ、董卓が暴政を行い、曹操がそれを伐つというあたりまでである。群雄割拠する英雄の中で劉備玄徳はどちらかというと、まだまだ影が薄い。曹操も決してスマートで智謀に長けたという感じではなく、感情的で短絡的な行動が目に付いてしまう。黄巾の乱も、発起した際の大義名分は徒党を組んだ当初からどこかに消えうせている。それもあまり疑問を差し挟むことなく淡々と書かれている印象だ。人は大きな権力や人を動かせる立場に立つと、生命の底に潜む悪性を昂然とあらわすのだろうか。「三国志」の世界は出来事を淡々と記述することで、人間の生命の持つ傾向性、生命そのものの本質を赤裸々に描き出し、読む人にそのことを気づかせてくれるのかも知れない。

そんな状況だからこそだろうか。朴訥として人間味くさい劉備玄徳が、次第に人望を集めていく展開に。人の世にあって何が大切なのか、つくづくと考えさせられる。

語りだすとまだまだ尽きることがない。
人生の色々な場面で、何度となく読み続けていきたい一書である。

【関連リンク】
当日の様子など http://prosecute.way-nifty.com/blog/2008/07/39_67a9.html
大三国志展(東京富士美術館)
http://www.fujibi.or.jp/exhibition/sangokushi.html
大三国志展ブログ
http://www.fujibi.or.jp/3594blog/
2008.6.23【大三国志展を鑑賞】
6月21日(土)、東京富士美術館で開催中の『大三国志展』を鑑賞に八王子に行ってきました。

当日は朝から少し雨模様。「暑くならなそうでよかったよね」と友人と家族を誘っての小旅行です。
行きは家族三人で私が運転して「いざ出発!」。
現地で友人の高梨さん、佐藤秀男さんと合流して、帰りは高梨さんの車で帰宅する予定。なかなかよいプランニングです(^_^)v
自宅を出るのが少し遅くなって週末の渋滞にも重なり1時間40分ほどかかって、到着したのが13時前。タイミングよく待ち時間なしで第二駐車場に入れられる。「先に軽く食事でも」と3歳10ケ月の智栄ちゃんを連れて創価大学内を散策。学生食堂でランチを食べようと楽しみに向かったのですが私の前の人までで販売が終了(+_+)気を取り直して大学生協でパンを買ってベンチに座ってゆっくりと食事。雨はあがっていて梢の下で快適な昼食です。

これからが今日の目的『大三国志展』の鑑賞です。
途中で佐藤秀男さんと合流。私は3時間余りのゆったりとした鑑賞ができました。うちの奥さんと智栄ちゃんは15時半頃に鑑賞が終了して先に帰宅の途に。結局、高梨さんは来れませんでしたので後半は佐藤秀男さんと一緒に鑑賞しました。

まず感じたこと。出展品が素晴らしい。
国内をはじめ中国各地の美術館等から集められた逸品がずらりと並んでいる。此れだけ多くの美術館等から集められるのも稀なことではないかと思う。今回地震のあった四川省の文物考古研究院などからも出展されており、地震の被害を避けることができたという逸話もうかがった。
年代を追いながら三国志の世界が展開されている様子には、知的欲求の充足と共に新たな興味をかき立てられる。
五丈原の戦いを再現したジオラマはとてもわかりやすい。視覚聴覚に訴えるものがあり企画の多彩さを充分に堪能できる。

こうした明確なテーマを設定した展覧会にすることによって、個々の美術品や歴史的価値がある品々が、私達の前に活き活きと生命を吹き込まれてくるような感覚を覚えた。
丁寧に、時代順に展示するだけでも美術館の役割を果たしてはいるだろうが、今回の東京富士美術館による『大三国志展』のような試みは大いに評価されていくだろうと思う。
またこうした試みが『三国志』を単なる古典や文学作品としてみるだけではなく、現在の私達の生活の中で新たな意味ある存在として再認識されるきっかけにもなるのではないだろうか。
事実、私は今回の『大三国志展』をきっかけに吉川英治作『三国志』を読むことにした。ひとつの試みが入口になり、様々な角度で文学や歴史、生活に触れていく。
こうした小さな行為の積み重ねが次代を創っていくのだと感じている。

鑑賞後は散策して建設の始まった創価大学新体育館を見たあと、蛍桜保存会主催の「ホタルの夕べ」に参加。帰りの時間もありホタルをみる時間まではいられなかったですが、在学時代に参加できなかったイベントにも触れることができて感慨深いものがありました。偶然にも、受付をしていた女子学生が同期生の娘さんでした。三国志展の鑑賞中には同窓生3人に会うなど、不思議な縁を感じたひとときでもありました。

【関連リンク】
大三国志展(東京富士美術館)http://www.fujibi.or.jp/exhibition/sangokushi.html
大三国志展ブログhttp://www.fujibi.or.jp/3594blog/
第39回桂冠塾『三国志』http://www.prosecute.jp/keikan/039.htm

2008.6.18【東京メトロ副都心線に乗る】
開業(2008/6/14)から間もない営団地下鉄(東京メトロ)副都心線に初乗車した。

今日は新宿区戸山に用事があり、池袋での所用を済ませて池袋駅から乗車。降りる「東新宿駅」は3駅目。
西武池袋線沿線に住む私の日常ルートからは、副都心線の池袋駅は少し歩く位置にある。東武線や有楽町線利用者には不便を感じない場所だろう。
最初は改札の場所がわからず右往左往10分以上も同じあたりを彷徨ってしまった。改札を入ると利用者は少なめの感じ。ゆったりと歩いてホームに向かう。

前日もダイヤの大幅な乱れがニュース報道されていたが、乗車してみようと思うと発車時刻に比べて5〜6分遅れで電車が到着。要らぬ混乱を避けるためだろう、ホームに設置されている電光の案内板には発車時刻そのものが表示されない。正確な運行にはまだしばらくかかるのだろうという印象を持った。

乗ったあとはとても快適。新しい車輌という特別の印象はなかったが、こころなしか走行音等も静かに感じる。駅毎に色遣いが違って作られているのがよくわかる。ゆったりと小旅行気分にもなれるかも?という感覚。高齢者や日常生活で利用する方には細やかな配慮に感じられるだろうと思う。仕事で利用するビジネスマン等にはあまり関係ないかももっとシンプルに、経済的に作ってという意見ももちろんあると思う。

わずか3駅で目的の東新宿駅に到着。
地上まで遠いのはあとから作られる地下鉄路線の宿命だろう。乗車時間と同じくらい時間がかかる計算だ。
地上に出てみると繁華街から少し離れたロードサイド。
東京の別の顔が見えてくる。

帰路は同じ「東新宿駅」から小手指行きの直通電車を利用。
これはとても便利。深夜になって疲れた体には乗換えなしで自宅の最寄り駅まで帰って来れるのは本当に有り難い。今までは新大久保駅から山手線で池袋まで行って、雑踏の中を西武池袋線に乗り換えていたので、時間的にも精神的にもずっと楽になった。運賃も今までのルートと同じなのがうれしい。
どんどん、便利になる都会生活。
上手に利用しながらも、将来の在り方も考えていくのが大切だと感じた一日でした。

2008.6.18【メディア報道のニュースタイトル】

「衆院選「負け」覚悟の決断できるの?首相の消費税発言」

こんな見出しが躍るのは、本質を語れない国民性の裏返しなのだろうか。
この表現自体は産経新聞ニュースの見出しだが、マスメディアのほとんどはこうした表現の報道を日常的に流している。
そもそも、選挙で負けるということが何を意味しているのだろうか?
将来を展望し、現在の状況を勘案して、やるべきだと決断すべきことであれば、選挙に勝つか負けるかはどんな意味があるのだろうか。
この表現の裏には、「愚民」とまでは言わなくても、「多くの有権者は目先のことしか考えないんだよ」的な庶民を見下したマスメディア独特の差別意識が居座っているように思えてならないのは、私だけだろうか。

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衆院選「負け」覚悟の決断できるの?首相の消費税発言

2008.6.9【第22回黎明塾「価格設定戦略と価格プログラム」】

6月7日(土)に今月の黎明塾を開催しました。
経常利益が1〜数%を推移する中小零細企業が多い現在、商品の価格設定の1円の差は経営を大きく左右する時代である。
しかし、この1円2円の差を自覚している経営者は実に少数である。
たとえば522円に出荷している自社製品を、521円にした場合どのような影響があるのか、逆に523円にするとどうなるのか。また意図的にそうした価格変更を行うことを的確に判断する経営スキルがあるのか、少々不安を感じるわけである。

今回は、そうした価格設定に関わる諸課題を整理し、いかに自社の状況に適合させ、状況に応じて価格変更を行っていく際の的確な判断基準を提示することに努めた。
実務的な内容であり、いま一度、各々の企業にあっても現状の価格戦略の成否を検証していただきたい。

【実施内容等について】第22回黎明塾の実施内容

2008.6.6【日本水泳界 貫くべき信義と捨て去るべき利権を見極めよ】

日本水泳界が迷走している。
公式契約している3社と、契約したことのないスピード社の水着のいずれを選択するのか。

そもそも日本水泳連盟と水着メーカー3社との契約というのが、どれほどの意味を持つものなのか、大いなる疑問だ。
水泳連盟が推奨する水着というのはあってもいいと思うが、日本水泳連盟と「契約」しているオフィシャルサプライヤーの水着以外は着ることができないという論理は、一般市民の感覚では「利権」としか理解できない。
いいものはいい、技術革新は常にあるものだ。各自の判断で「これが良い」と思ったものは自由に着ることができるのは当たり前ではないか。
オフィシャルサプライヤーに指名することで、無償提供を義務づけてきた過去もあるのかもしれない。しかしそうした言い分は大義名分であって単なる囲い込みでしかないことは多くの庶民から見ても明白な事実だ。

何のための契約なのか。
一番最優先に考えるべきは、実際に競技をたたかう選手自身のことではないのか。
契約している国内メーカー3社は恥ずかしいとは思わないのか。
恥ずかしくないというのであれば、自らそうした制度の撤廃を3社共同で申し入れたうえで、多くの競合他社の中で勝ち残ってもらいたい。

【関連リンク】
英・スピード社製水着対策 契約3社「改良を」
「着なければ勝負にならない」スピード水着 日本新5連発の爆発力

2008.6.5【後期高齢者医療制度 落ち着き先はどこか】

後期高齢者医療制度の先行きが見えない。
厚生労働省は6月4日、国民健康保険から後期高齢者医療制度に移行した後期高齢者(75歳以上)の保険料負担の実態調査結果を公表した。
低所得層ほど負担増 後期高齢者医療制度で実態調査(産経ニュース6/4)
後期高齢者医療の保険料、7割の世帯は負担減…厚労省(読売新聞6/4)
また、報道機関等でも独自の実態調査を行なっている。
後期高齢者医療制度、7割の世帯で負担額軽減(読売新聞5/29)
モデル世帯別保険料増減額

記事のタイトルだけをみると、調査結果が矛盾するような印象を受けるが、よく読んでみるとどちらも実態を把握していることがわかる。
調査結果の数字に食い違いがあるのは調査誤差ではないだろう。大きな要因として考えられるのは、各自治体毎の独自の軽減措置である。
東京23区などの大都市や地方の中核都市は、国保保険料の算定基準に資産制(資産がある住民は保険料が増える制度)がなく、独自の減免措置を講じている自治体が多いため、保険料が地方の市区町村に比べて低く抑えられてきたからである。

今朝の番組をざっと見渡したが、テレビのメディア報道は明らかに厚生労働省の当初の説明との食い違いを一番大きく取り上げている。社会の矛盾にメスを入れるというメディアの役割から見れば必要なことであるが、テレビで取り上げている住民が取材しやすかったと思われる都市部住民に偏っていたという問題点も直視すべきであろう。

それよりも重要なことは、後期高齢者医療制度をどうするのかという議論だ。
選択肢は大きく二つ提示されている。
(1)制度そのものは施行し、運用面で改善を行なう
(2)制度そのものを廃止する
この二つである。
選択の可能性としては「全く新しい制度を考案して施行する」「現行の健康保険制度を改善して運用する」ということも考えられるが、現実には提示されていない。

上記2選択肢しかない現実を冷静に考えれば、廃止法案という主張は愚を極めていることは明らかだろう。
後期高齢者医療制度は2年前に制定された新しい制度である。
「屋に屋を重ねる」という批判もあった。今もその指摘は的確だと思うが、現行制度の枠組では多くの国民の理解を得ることができる制度改革ができない、どうしても歪みがでてしまうという判断で、新しい保険制度を上乗せする方式が採用されたのだと思う。
保険料負担の問題は2000年の医療制度改革の時から継続して審議、議論が続いてきた重要課題である。よく指摘されている事実であるが参議院で関連法案を可決した際に共産党を除く各与野党が「早急に新たな高齢者医療制度を創設する」ことを付帯事項として決議している。
その意味では、自民・公明の与党は地道に検討を続けて新しい制度創設をリードしたことは評価されて良いだろう。
たしかに、保険料算定基準など根幹に関わる部分で更なる検討が必要な要素が多々あるのが事実だ。制度を決定してから2年間どれだけの周知徹底、また国民の議論を喚起してきたのか、努力が足りなかったと指摘されるのも当然といえよう。
与党、なかでも公明党が制度施行以降に迅速に各地で国民の声を聞いて、与党プロジェクトとして運用改善を行なっている努力も高く評価できる。が、ならばなぜ1年前にそうしたことをできなかったのかという不満がくすぶっているのも事実である。
いろいろな憤懣ややるせない気持ちが鬱積している人達も少なくない。

では私達は今日から、どういう行動をすべきなのだろうか。
釈然としない気持ちを持ちながらも、着地点を探っていかなければならない。
それが前進ということだろう。
今回の制度で、従来の保険制度で抱えていた問題点が相当改善されているのも事実である。そうしたひとつひとつを評価しブラッシュアップしながら、新たにクローズアップされている問題点、施行に伴う不具合点を丁寧に洗い出し、改善していくしかないだろう。
マスメディアも、感情的な報道はもうそろそろ終わりにして、新制度の評価すべき点、改善すべき点を大きなテロップボードを使うとか一覧表にして、もっと本質を突く議論の喚起を行なってほしいと痛切に願っている。

いま読んでいる本に吉川英治作『三国志』がある。
(→『三国志』は今月の桂冠塾のテーマである)
劉備玄徳、曹操、孫堅らがそれぞれの理想をかかげて、自らの国家として成し挙げていく壮大なドラマであるが、曹操、孫堅の2名と劉備玄徳がそもそも大きく違う点がある。それは劉備が貧しい庶民として育ち、回りからも低い身分の出であるという差別を受け続けることである。
義憤に燃え、民衆を救わんと立ち上がった劉備玄徳、関羽、張飛らは、直面する悪である黄巾賊と戦いを始めるが、劉備らを馬鹿にし、軽んじたのは同じ志を持っているはずの官軍、皇軍の将軍達、権限を持った役職者であった。
官位に胡坐をかき、私利私欲を貪る一方で、官位官職がないというだけで玄徳らを虫けらのように扱う。その姿に、劉備達は同志のなかに潜む師子身中の虫の生命に自身の生命が引きずられそうになるのを、自身の決意を思い返しながら必死に思いとどまるシーンが何度となく繰り返し描かれている。

確かに、人生には納得のいかないことが多々ある。
しかし元々自分達が何を目指しているのかという一点を見失ってしまったら、何のために生きているのかわからなくなってしまう。「こんな奴は許せない」「こんな連中と一緒に戦うなんてできるわけないだろ」という激昂する自らの感情を、改革、前進へのエネルギーに換えていくことが、私達には求められている。
しかし、これがことのほか、難しい。
理解してくれる人が身近に一人でもいれば、まだ頑張ることもできるが、そんな気持ちのときに限って、見当違いの批判を別の人から浴びせかけられたりする。
こんな心境を表現する「四面楚歌」という言葉も、『三国志』から生まれたひとつである。
自らの行動に誤りはないか。
常に自身を見つめながら、折れそうな心をつなぎとめて、今日も一歩でも前進する一日でありたい。

【関連リンク】
低所得層ほど負担増 後期高齢者医療制度で実態調査(産経ニュース6/4)
後期高齢者医療の保険料、7割の世帯は負担減…厚労省(読売新聞6/4)
後期高齢者医療制度、7割の世帯で負担額軽減(読売新聞5/29)
モデル世帯別保険料増減額
第39回桂冠塾『三国志』

2008.5.28【ザ・スクープ(鳥越俊太郎)にみるメディア報道の実態】
5月18日(日)に放送された「ザ・スクープSPECIAL」の報道内容の真偽が物議を醸している。
この日のスペシャル番組では第一部で北九州八幡東病院での看護師による認知症高齢者への虐待疑惑事件を取り上げ、第二部として鳥越俊太郎氏が在日米軍再編の真の狙いは何かという視点で緊急現地取材と銘打って嘉手納基地のF15E戦闘機の配備についてスクープとして報道した。

公式Webサイトでは映像版権等の事情があり配信を行わないとしているので元映像を確認することができないが、産経新聞ニュースのコラム欄で段潮匡人氏が鳥越氏の以下の発言を引用している。
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ミサイルを8発積んでるんですけど全部、空対空なんです(中略)空中戦しかないんです。ということは日本でいま考えて空中戦をするような現実にあるかというと、中国も来ないでしょうし、北朝鮮だって、そんな立派なもの持ってないし、F15って結局何のためにあるかって言うと、アフガニスタンだとかイラクとか、そして将来のイランのためにあるんだ。そう考えると(中略)米軍って日本の安全のためにあるのかしらという疑問が頭の中をかすめる...
-----

この発言が事実に基づいて考察されたものかどうかは断氏のコラム【スクープと称した勘違い】にも書かれているし、関心のある方は各人で確認していただきたいが、「総力検証」と銘打って派手に宣伝するほどの立派な検証などできていないということははっきりと言えるだろう。
鳥越氏がこうした事実誤認報道の指摘を受けるのは、今回が初めてではない。
鳥越俊太郎氏に限ったわけではないが、それなりに名の通ったキャスターとかジャーナリストと言われている人であっても、確固たる裏付データがないまま、マスメディアで発言をすることが、多々ある。

いかに一部のメディア報道がいいかげんであるのか。
しかし私達、多くの視聴者は、いいかげんな報道としっかりとした報道を見極める基準をもっていないのが悲しい現実だ。
しかし、ある程度は判断する基準を有することができると私は思う。
それは、そうした報道が「何らかの意図をもっているかどうか」という点だ。
今回の「ザ・スクープSP」も、報道したい「結論まずありき」で、その意図に沿った事実を収集しようと取材をしたであろうことは容易に想像がつく。サイトの説明からみても、在日米軍は日本の安全保障のために動いているのかという点に疑問を投げかけたかったのだろう。
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在日米軍経費の日本側負担(思いやり予算)に関する現行日米特別協定が3月31日に期限切れに。(4月25日国会で承認)高村外相は「日米関係、アジア太平洋地域の平和と安定に重要な意義を有する」と承認を求めていたが、野党から「説明のつかない負担がある」として反対論が浮上した..(Webサイトより).
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こうした偏向した取材姿勢が、誤報や冤罪報道、ひいてはメディア報道被害を生む悪の温床となる。
これは、メディア報道だけの話ではない。
私達一人一人の生命の問題でもある。
人と人との対話にあっても、世間の事象を判断するうえでも、偏った色メガネをかけることなく、物事の本質を素直に見抜いていく自分でありたい。
そんなことを感じる出来事である。

【関連リンク】
産経新聞ニュース コラム【断 潮匡人】スクープと称した勘違い
テレビ朝日 ザ・スクープ オフィシャルサイト

2008.5.27【第38回桂冠塾 『若きウェルテルの悩み』を読む】
5月24日(土)に今月の桂冠塾を開催しました。
今月の本はゲーテの『若きウェルテルの悩み』です。

ゲーテは1749年にドイツ・フランクフルトに生まれた世界的な名声を博している詩人、作家です。作品を読んだことはなくても、その名前を知らない人は稀だと言っていいでしょう。
代表作には『ファウスト』が挙げられますが、今回は短編の中の名作といわれている本作品を取り上げました。

作品のストーリーや背景などは桂冠塾のページを参照下さい。
→第8回桂冠塾 実施内容
本作品を読まずに書評やあらすじだけを読んだ人の印象と、全編を読み通した人との印象は、かなり違いがあるのではないかと感じています。
それは作品の底流に流れるゲーテ自身の思想が随所に織り込まれているからではないかと、私は思います。
あらすじだけを追ってしまえば...
主人公ウェルテルは、ロッテという女性と初めて出会った時からその魅力の虜になる。舞踏会で出会った彼女には既に婚約者がおり、その男性アルベルトはウェルテルの先輩の法律家でもあった。寛容なアルベルトはウェルテルと親しい友人として接するがロッテへの思いに耐えかねたウェルテルは別の町の公使館に職を得て彼らの元から去っていく。新しい赴任先では人間関係に悩み、そんな最中にロッテの結婚の報を聞いたウェルテルは放浪の旅に出て、結局ロッテ夫婦の住む街に舞い戻ってしまう。次第に精神の均衡を崩していったウェルテルは回りの人達にその思いを隠すこともせず、自殺の道を選び、物語はジ・エンド。ロッテも最終章に至って自身の本当の気持ちに気づくが何もすることができなかった....。
そんな物語です。

一読すると、そんなラブストーリー。
確かに当時を生きた民衆の感覚からみれば、純愛の心に純粋に生きるがために自殺という道を選ぶという選択肢は衝撃的であった。しかしそれも今からみれば定番と化した純愛小説だ...。
そんな評価をする人もいるかも知れません。

作品を構成する書簡ひとつひとつをゆっくりと読み進めると、ある事実に気づくはずです。ラブストーリーという筋書きからみれば、あってもなくても大差ない手紙がいくつもあるという事実。これらの手紙を通して語られるゲーテ自身の思いこそが『若きウェルテルの悩み』を名作に高めている大きな要因、魅力ではないかと、私は感じています。

一例として、「不機嫌」について書かれた箇所を挙げてみましょう。
7月1日付の比較的長くなっている手紙の一部分です。
*****
不機嫌というやつは怠惰とまったく同じものだ。(中略)
ぼくたちはそもそもそれに傾きやすいんだけれど、もしいったん自分を振い起す力を持ちさえすれば、仕事は実に楽々とはかどるし、活動しているほうが本当にたのしくなってくるものです。(中略)
自分をもはたの人をも傷つけるものが、どうして悪徳じゃないんでしょうか。(中略)
不機嫌でいてですね、しかもまわりの人たちのよろこびを傷つけないようにそれを自分の胸だけに隠しおおせるような、それほど見上げたこころがけの人がいるんなら、おっしゃってみてくださいませんか。むしろこの不機嫌というものは、われわれ自身の愚劣さにたいするひそかな不快、つまりわれわれ自身にたいする不満じゃないんですか。また一方、この不満はいつもばかげた虚栄心にけしかけられる嫉妬心と一緒になっているんですよ。仕合せな人がいる、しかもぼくらがしあわせにしてやったんじゃない、さてそういう場合に我慢ならなくなってくる、そういうわけじゃありませんか。
*****

実に身に迫る洞察だと私は感じました。
こうしたゲーテ自身の思想が底流を流れ、そしてウェルテルの行動の淵源となって作品に深く結びついている。これが『若きウェルテルの悩み』の作品としての欠かすことのできない深みとなっているのだと感じます。
このほかにも、ウェルテルが回りの人達をどのように見ているのかという場面場面での描写、精神的に病を患ってしまった作男と「おまえがしあわせだったとき...」と語り、その人生の来し方に思いをはせる場面など、細やかな心的描写とゲーテの思想が随所に織り込まれていきます。
そして圧巻は、ウェルテルが訳したオシオンの歌をウェルテル自身が朗読し、ロッテが自身の真実の思いに手が届くシーン。ここは今一度、実際にじっくりと読んでいただきたいと思います。

どこまでも、人間の心の底にある真実を見つめようとしたゲーテ。
幸福も不幸も結局は一人の人間の生命の底にある。
ゲーテは語る。
「人は誰でも生まれながらの自由な自然の心を持って、古くさい世界の窮屈な形式に順応することを学ばなければならないのだ。
幸福が妨げられ、活動がはばまれ、願望が満たされないのは、ある特定の時代の欠陥ではなく、すべて個々の人間の不幸なのである」

【関連リンク】
第8回桂冠塾『若きウェルテルの悩み』 実施内容
ウェキペディア ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ

2008.5.19【主婦業の年俸1200万円】
先日、アメリカの調査会社の試算として「専業主婦の年収は1200万円」という記事が報道された。母の日に寄せた発表であり、こうした試算は常態化している。
試算の目的は、とかく軽視されがちな主婦業の大切さ、大変さを再認識することにあるようであるが、しかしこうした金額が提示されることに違和感を覚える人も少なくないはずだ。

労働時間を給与に換算するという発想がサラリーマン的なためだろうか、私も違和感を覚えてしまった。間違いのないように言っておくと、この金額が高いとか安いとかということを問題にしているのではない。
こうした試算をしてしまうと、多くの人に有為な商品を開発販売している大企業の社長も、泣かず飛ばずで青色吐息の零細企業の経営者も、同額の給料だということになる。
現実の社会では、もちろんそんなことはあり得ない。
自分が働いた時間分の報酬が得られるのならば、中小零細企業の経営者の苦悩など存在しないことになる。

ある一定の意図を持って、特定部分だけをクローズアップするとそのひずみが必ず生まれるものだ。おもしろおかしく報道したり、ネット上でも再掲したりコメントすることは慎むのがよい場合もあるのではないだろうか。
労働時間=自分の報酬。
こんな発想に疑問を持たず主張してしまう精神構造に、現代社会の病巣の一端があるのかもしれない。

【関連記事】
時事ドットコム「主婦業、年俸1200万円=米社が「母の日」で試算」
All About「主婦の仕事を年収に換算すると

2008.5.16【後期高齢者医療制度 本質はどこにあるか】
後期高齢者医療制度の議論が沸騰している。
マスメディアの論調も様々だが、テレビメディアについては表面的、感情的コメントが大勢を占めているようだ。「感情的」という表現をしたのには、それなりの理由がある。

ここ2週間ほどの間で、私の周辺でも後期高齢者医療制度が頻繁に話題に上がるようになった。少なからずの知人が率直な気持ちや感情を吐露していた。
態度は二分されているというのが私の印象だ。様々な意見を集約すると特徴的な傾向がある。反対をしている人は高齢者本人もしくは高齢者を家族に抱える人達に多く、それよりも若い人は相対的に静観している。この理由は一概には言えないかもしれないが聞いた声から類推すると、現実に直面している人と、現時点で直接的な生活上の影響がない人との違いだろうか。

高齢者で意見を言っている人の殆どは後期高齢者医療制度に反対している。
確かに、多くの75歳以上の高齢者にとって月1万円を超える保険料負担が発生するケースが多発しており、現実に生活が続けられない事態を迎える危険がある。新たな収入増が見込めない年金受給者にとっては死活問題だ。
その一方で、従来の健康保健制度が地方の市町村を中心に破綻状態になりつつあり、早いところでは明年にも破産が発生するのではないかという状況まできている。破綻をしてしまえば多くの住民の医療費は10割負担に戻ってしまう危険がある。後期高齢者とて例外とは言えないだろう。

高齢化すると共に、医療機関にかかる頻度が増していくのは老いの現実である。
高齢者医療制度を考える上で、健康寿命をいかに伸ばしていくか、元気高齢者をいかに増やしていけるのかが最大の解決要素といえるだろう。
そうした試みが充分に行なわれないうちに少子高齢化が進んでしまったという悲劇的な要因も重なっている。

そのうえで、いまの後期高齢者医療制度の議論に私見を述べておきたい。
それは反対を唱えている国民に対してである。
反対をする殆どの人は「従来の制度に戻せ」と言っている。
しかし従来の制度で充分なのであれば、反対されることが容易に予想できた制度を施行するはずもないだろう。前述のように1〜数年で破綻する危険性を有している現行制度である。
反対するのであれば、対案を考えなければならない。
「それは政治家がやること」などという戯言はこの際論外だ。皆が主体者としての気持ちを持たなければ何事も解決しない時代になっている。自分自身が主体的に真剣に考えると「今回の制度は暴論だ」という意見はこんなに多くはならないだろうと私は思う。
事実、国会やメディアで派手に制度批判を行なっている民主党でさえ、まともな修正案を出すことができずにいる。「廃止法案」は出せても医療保険制度の改革案が出せないのが現実である。せいぜい民主党内で意見の一致を見たのが年金受給者の口座引落しの停止であると言われている。

施行するうえでの不手際、配慮のなさ、制度決定からの2年間の不作為などは厳しく追及をし、改善するべきだ。年金受給者や低所得者等への制度移行の経過措置や軽減措置は充分に考慮されなければならない。
また不確実な情報の流布は心して戒めるべきだろう。負担が少なくなる高齢者が多いなどという発言は確実な裏付データがない限り、発言すべきではないし、高齢者本人への負担を求める制度である以上、軽減されるというのは正しくないのではないかと私は思っている。
そうした諸々の事態を収拾しながら、国民が一丸となって建設的によりよい解決策を議論し決定していくべき段階に入っている。

もうひとつ、あえて今回の制度に意見を表明していない比較的若い世代の気持ちの奥底にある気持ちを探っておきたい。
それは彼らが事実上の経済的な負担者であるという事実だ。
現行の医療制度で進むならば、その保険料負担の大半は若年者層に集中する。後期高齢者医療制度に賛成も反対も表明していない人の中には、後期高齢者医療制度が廃止されれば自分達にその負担が回ってくることに気づいている人が、少なからずいる。
この点を、制度に反対している高齢者は、早く、正確に、気がつかなければ大変な事態になるかもしれない。

今の若い世代、特に40歳前後から下の年齢者は高齢者福祉の恩恵を受けるのは早くても65歳以上、おそらく70歳を超えなければ制度を利用できない状況になっているだろう。しかも若い時から高齢者を支えるために支払ってきた保険料や年金の総金額に対して、それに見合うだけの老後の保証をうけることは困難であると言われている。金銭面だけを考えれば「損」をする世代なのである。不払いの人達が増えているとは言いつつも、それでもまじめに高齢者を支えるために払い続けている若い者達が大半を占めている。

そんな若い世代からみれば、今の高齢者の言い分はなんなのかという意見がある。
「今の高齢者が若い世代の時に当時の高齢者のためにどれだけの負担をしたというのか」「あなた方が負担した保険料等に匹敵する保証は10年もあれば充分に回収できるではないか」
高齢者には高齢者の主張がある。
しかしその主張によって、その高齢者を支えている人達がどのように影響を受け、リアクションを取るのかということを慎重に考えなければならないと私は思う。

これまで数十年の日本の制度改革は、低所得者層の福祉を厚くすることに重きが置かれてきた。その財源は高所得を得ている人達から確保するというのが定石であった。
しかし、後期高齢者医療制度は全く違う構図を有している。その制度によって恩恵を受けるか負担を多くなるかの分かれ目は、単純に年齢である。これからの政治は、舵取りひとつで世代間の対立構造を生みかねない大きな危険を内包しているのだ。

政治が政治屋によって私腹が肥やされていても成り立っていた時代は既に終わっている。大企業対労働者というマルクス的な貧弱な発想では到底解決など見えない時代だ。
政権交代など、しても、しなくても、根本的な問題とはまったく関係がない。
これからの政治に、そして庶民の生活を成り立たせるためには、利害が対立する人達の中で、いかに解決の方策を見出していくか、その人間としての智慧が求められている。
それは哲学という言葉で表現するのが最も適切だと私は思う。

哲学不在の時代。
それが現在の政治の混乱の元凶である。
庶民一人一人の気持ちが荒んで、凶悪犯罪が多発するのも同根である。
ある方に金美齢(きんびれい)さんが書いていた記事を紹介していただいた。
「老後とは人生の総決算。貧困も孤独死も、自ら選んだ道のりの終着点なのだ」と。
サマセット・モーム作『ロートス・イーター』に登場するトーマス・ウィルソンの生き方と私達の人生と、果たしてどれだけの違いがあるのだろうか。
私自身が、我が事として真摯に取り組んで生きたい。

※サマセット・モーム作『ロートス・イーター』は新潮社『モーム短編集13』に収録(現在は絶版)。
【金美齢さんのコラム(「産経新聞」2008年5月2日付1面)】

2008.5.14【真の勇者の人生を】
名古屋在住の友人からうれしい報告が届いた。
1ケ月足らず前に諸般の事情で職を辞していたのだが以前にご縁のあった方から声がかかり新しい職を得ることができたとのこと。給与条件も以前の職場と同等程度の水準に。「ずっといる義理はないからやりたい仕事を考える機会にしてくれ」とも言っていただいたという。職を辞さねばならない状況になった時には暗雲が立ち込めたような気持ちにもなったのではないかと察するが、決してあきらめたりへこんだりすることなく、逆境をバネにして新しい仕事にチャレンジする貴重なチャンスを得ることができたと決意し、祈り、行動した結果であると思う。今後の活躍にエールを送りたい。

その彼が昨夜、大学時代の同期生と焼き鳥屋で飲んだという。私も面識がある共通の友人だ。その同期生が語った半生の来し方を伝えてくれた。
鳥肌が立つような感動を覚えながらその話を聞いた。
親の事情を抱えた彼は、大学卒業後、生まれ故郷の北国に帰郷。寒風吹き荒ぶ自然を相手に労多き仕事に従事。だれも頼る人のいない寒村の地で、思いを同じくする若い2人の後輩を励ましながらわずか2年余りで85名の若き世代の勇士の陣列を築き上げたのだ。2人から始まった陣列の拡大が8名になった頃から、人生の師匠と仰ぐ先生に逐次報告をしながら歓喜の渦をさらに広げていったという。
そんな彼は、家族の状況が変化し大手企業に職を得た。一度の転職の後、現在の企業に勤務し名古屋支社で全社ダントツの営業成績を記録し続けている。

そんな彼が仕事振りを聞かれて、淡々と語っていたらしい。
「自分は何もしていない」
そんなわけはないだろうと次の言葉を待つと、朴訥な語り口の彼は次のように言ったという。
「自分は先方の企業を訪ねて、社長の話を聞くだけ。じっくり話を聞いていると、先方から『今まで他の会社に注文していたがこれからはあなたの会社に頼みたい』と言ってくれるんだ」

波乱万丈の半生だと伝え聞いたことはあった。しかし、本当に生命を賭けて生き抜いてきたのだと感じるものがあった。それが今の彼の日々の生活を生み出しているのだ。そして彼はその生き方に、今いる場所で、変わることなく挑戦し続けている。
真の勇者は多くを語らない。
私もあとに続きたいと静かに決意した。
2008.5.11【第21回黎明塾「サービスの設計とマネジメント」】

今月の黎明塾を10日(土)に開催しました。
今回のテーマは「サービスの設計とマネジメント」。
無形財であるサービスに関する考察です。

現代のビジネスのほとんどは何らかの形でサービスを伴っている。全くサービスを行なわないビジネスはごく一部でしかない。
まず、サービス・ミックス(製品とサービスの複合およびその提供割合)の層別と現状を確認した後、サービスの提供を成功に導くためのポイントを考察した。
今回は参加者が少なく、いかんせんディスカッションも様々な視点でということにおいては不充分だったように感じている。
少し視点を変えてみると、リピータ客が定着するかどうかは商品品質と並んでサービスへの満足度が最重要要素である。その点でお客様がサービスに満足できていない場合のギャップについての考察は極めて重要である。

サービスの特性の箇所で指摘しているように、サービスは無形であり、不可分な単位で提供されると同時に、常に変動し、原則的には提供後に消滅する。
同じ表現で会話をしていても、それぞれの認識に微妙な差異が存在したままであることも決して不思議ではない。ましてやサービス提供者とサービス購入利用者との間には大小いくつかのギャップが存在しているのは当然のこととして対処方策を講じていくことが重要である。
そのうえで自らが提供するサービスが市場の中で他者との差別化が行なわれ、選択の対象になる存在にいかにして作り上げるかが現実の課題である。

【実施内容等について】第21回黎明塾「サービスの設計とマネジメント」

2008.5.3【絶対に許せない 船場吉兆で食べ残しを他の客に】

船場吉兆で一度出した料理を他のお客に再度出していた事実が判明した。
言語道断だ。
お客様が食べ残した料理を、別のお客様に使い回すなどということは、飲食に関わる者として、絶対に行なってはいけない卑劣な行為である。しかもそれが日本を代表するかのような高級老舗料亭で行なわれたとすれば、驚きを通り越して、激しい怒りを覚える。
これが今の日本の老舗飲食店の、そして日本の企業の現実なのか。
「そうではない」と力強く断言できる経営者を一人でも多く輩出するしかないと痛感している。

【関連リンク】
食べ残し別の客に 刺し身やアユの塩焼き 船場吉兆(産経新聞).
船場吉兆Webサイト

2008.4.29【第37回桂冠塾『こころ』(夏目漱石)】

4月26日(土)、今月の桂冠塾(読書会)を開催しました。
今回取り上げた本は夏目漱石の『こころ』です。

夏目漱石は千円札の肖像画にも使われた日本を代表する小説家と言われている(現在の千円札は野口英世に変わっている)。
その漱石の代表作の一つが『こころ』である。
この作品は後期の三部作を構成する作品でもあり、漱石の心象風景を端的にあらわしているとも見られている。多くの日本人が中学校の国語の教科書等で目にし、読書感想文を書いたりしたことがある作品でもあると思う。
作品の概要や漱石の略歴等は http://www.prosecute.jp/keikan/037.htm やネットの各種検索で確認していただければと思うのでここでは割愛する。

今回改めて読み返してみて、正直なところ少なからずの違和感を感じた。
一例を挙げると、読み通した最初の読後感では「先生」の奥さんが「下 先生と遺書」で描かれている御嬢様と一致しなかった。どうしてなのだろうかと強く疑問に感じた。
何がひっかかるのだろうか。気持ちを整理しながら考えると大小いくつか納得の行かない点がみえてきた。

まずは事実関係や文脈の矛盾点を挙げてみると...

(1)先生の奥さんはKの墓に行ったことがあるのか、ないのか

「上 先生と私」の六章の終わりではその墓には「自分の妻さえまだ伴って行った事がない」と明言しているにも関わらず、「下 先生と遺書」五十一章で、先生の奥さんは自らKのお墓参りに行こうと言い出して二人で墓を見舞っている。

(2)先生から私へ送られた手紙の数

「上 先生と私」の二十二章で「私は先生の生前にたった二通の手紙しかもらっていない」として、父親の病気見舞いの際の旅費借用の礼を述べた手紙への返事と最後の長文の手紙のみだとしている。しかし同じ「上 先生と私」九章では先生の夫婦仲の良さを記述する中で「私は箱根から貰った絵端書をまだ持っている」「日光へ行った時は紅葉の葉を一枚封じ込めた郵便も貰った」と少なくとも別に2通存在しており、二十二章との記述と矛盾を起こしている。

上記2点は明らかな矛盾である。
一部の文学研究者は、夏目漱石ほどの文豪が誤謬を犯すわけがないと確信しているのか、間違いだと言ってしまえばそれ以上の思索は断絶してしまうとして、1点目は奥さんが言い出して一緒に行ったのだから先生が伴っていったという事実はないと解釈できる、2点目は旅行先からの手紙は先生からではなく奥さんが書いてよこしたのだろうという「文学的解釈」を施している者がいた。書籍として出版している輩さえいて、私は実際に読んだ。
あきれてしまう。何を言わんかという感じだ。
こんな屁理屈で文学研究をしているつもりだろうか。地に落ちたものだ。

その他にも、臨場感を出そうとしているのか、ありのままを描くのが漱石流だというのだろうか、全体の文脈と関係ない展開、記述も多い。正直な感想として、文字数を増やすためにだらだらと書いているのではないかという印象を持った箇所も複数ある。

そもそも漱石は『こころ』で何を描きたかったのだろうか。
書評や作品の紹介文では、学生時代に親友(作品を少し読むと必ずしも親友と呼べるかどうかは疑問があるが)Kを自殺に追いやったという自責の念に苛まれながら、遁世の生活を送る「先生」が、明治天皇逝去と乃木大将自害によって自殺を決意し実行した...そのようなストーリーが書かれている。それを学生である「私」が見続けて文章にしたというのが作品の概要のように思われる。

作品が発表されたのは大正三年の4月から8月。朝日新聞の契約作家であった漱石の手によって110回にわたって連載小説として発表された。
明治天皇崩御後さほど経過していない時期でもある。作品後半の内容は実際に起こった天皇への殉死という形のため話題性も高かったと思われる。
時代を経た私達が読むと「なぜ先生は自殺を選んだのか」という重大なテーマへの思索を追求してほしいという気持ちが沸々と涌いてくるが、漱石は「私に乃木さんの死んだ理由が能く解らないように、貴方にも私が自殺する訳が明らかに呑み込めないかも知れませんが、もしそうだとすると、それは時勢の推移から来る人間の相違だから仕方がありません」「あるいは箇人の有って生まれた性格の相違といった方が確かも知れません」と記述し、その先の思索を終わらせている。
様々意見もある点だと思うが、私個人としては「それならなぜこの話題を描くのか」という疑問というか、不満がある。

主人公である私が出会ったこの人物を「先生」と呼ぶ点についても、当初、漱石は甚深の意味を持たせようとしたのだろうか。
作品の書き出し「上 先生と私」一章の第一段落で、その人を先生といいたい、よそよそしい頭文字などはとても使う気にならないと、記述している。
作品を読み進めると誰にでもわかるが、そう言われた当人の「先生」は人生最後の手紙で、人生に大きな影響を与えた子供の時からの友人を「K」と頭文字で呼んでいる。この記述を行なうことを念頭に置きながら、小説の書き出しにこの一文を置いたことは想像に難くない。
しかし、こうした点についても漱石自身が思索を深めた記述を行なっていないので詳細は全く不明だ。

とかく教科書等を通じて「下 先生と遺書」での心理描写を部分的に読まされてきた感がある私達である。
読み通してみると、確かに読みやすくて次へ次へと読み進めることができる。その意味では漱石の筆力は尋常を超えたものだと感じる。
しかしそれと同時に、生活と文筆生活を保障するためとは言え、朝日新聞の契約作家となった代償はあまりにも大きかったのではないだろうか。
前述の作品内の矛盾もほぼ毎日の長文書き下ろしを考えれば完全なケアレスミスだろうし致し方なかったのではないかと推察する。第一次世界大戦へと突き進む軍国日本にあって、日本人による文学を創出した功績はあまりにも偉大だ。
ただ問題視すべきは、単行本として出版する際に殆ど校正を行なわなかった点だろう。世間に文章を発表する者として、もう少し責任を持ってもよかったのではないか。
そういうと「いやいや漱石は則天去私の精神で書いたのだ」という声も聞こえてきそうである。

すでに他の方々も指摘していると思うが、当日のディスカッションでも「この作品は『下 先生と遺書』だけにすればもっと締まってよく作品になるのでは」という意見が出されていた。
上中下の文字数のアンバランスさも誰もが気になる点だろう。
この点については、この新聞連載の後に予定していた志賀直哉が急遽執筆を断ったために、次の執筆者を探すまでの間書き続けないといけない事情が発生し、当初よりも、「下 先生と遺書」の部分が長くなった。
これはこの遺書が400字詰原稿用紙換算で300枚余りになるにも関わらず、「中 両親と私」(この第二部がどのような意味を持たせたかったのかも今となっては少なからず疑問である)の終盤(十七章)でこの手紙は四つ折りに畳まれてあったと記述している。
さすがに原稿用紙300枚を四つ折りにはできない。「中 両親と私」を書き終えようとする時点では「下 先生と遺書」は現在の文字数よりも相当短いことを想定していたことが容易に推察できる。

いくつかの観点でみてみると、ふと自然な気持ちで思った。
「夏目漱石は本当に大文豪と呼べるだろうか」。

それともうひとつ蛇足で。
日本銀行のお札に載せる偉人って誰がどこで決めているのだろう。
とっても疑問だ。

【当日のテーマなど】第37回桂冠塾 実施内容

2008.4.18【迷惑メール 法改正に期待】

パソコンや携帯電話に一方的に送りつけられてくる迷惑メールが法改正によって、今後は事前同意がない限り、送信が全面禁止され、罰金の上限が3000万円に引き上げられることが報道されている。
このたび、総務省は特定電子メール送信適正化法の改正案を今国会に提出したことにより、平成20年中にも施行される見通しとなった。

当該の法律は平成17年度にも一度改正されているが発信者を特定して摘発できたのはわずか4件という少なさ。今回の改正によって違法行為の実行者を特定するための拘束力を高め、海外発信の場合にも捜査協力を要請する根拠ともなる。
現状では、ユーザーが迷惑メールをいったん受け取ったあとで受信拒否した場合に限って次からの送信を拒否できるという事実上やりたい放題の状況になっていた(受信拒否を通知すればそのアドレスは非常に高い確率で悪用されることはユーザーの間では常識となっている愚かな行為との見解が一般的だ)。
もちろん、今回の改正がどれだけ有効なのかという疑問の声も出てくるだろう。
しかし立法と法の執行者が毅然たる姿勢を示し、悪の撲滅に真正面から取り組むことを大いに評価し、支持したい。

多くのユーザーにとって迷惑メールは本当に気分を害される社会悪と化している。あまりの多さにメールアドレスを変更することは、いまや日常化してしまった。
かくいう私も一日の仕事が、夜間にパソコンと携帯に送りつけられた迷惑メールの削除から始まるというスタイルがすっかり定着してしまっている。
子どもたちの携帯に無差別に送りつけられるモラルハザード状態が、精神的発達段階にある子どもたちにどれほどの悪影響を与えているかと思うと、さらに有効性を高めた施策の実施も求められる。
まずは今回の改正でできる限りの犯罪者を摘発し、多額の罰金命令を執行することを望みたい。

安逸に流される生命の傾向は万人が有している。
それと同時に一人残らずすべての人に自他共の幸福を願い、実現しようという生命が具わっていることを信じ、現実の社会で個々の事象に接していきたい。
だからこそ、濁悪と化した犯罪行為には厳然たる対応が必要である。

自分の利益のためには他人の迷惑を何とも思わない現代人の身勝手さ。
その象徴たる迷惑メールを私達も絶対に許さないという毅然たる姿勢を示していきたい。

【関連リンク】
迷惑メール、法改正で送信全面禁止(産経新聞)
今回の改正内容のイメージ


2008.4.17【「首相はどうかしている」そう言っているあなたこそどうかしている。】

小沢一郎は本気でこんなことを言っているんだろうか。
それにしても、またマスメディアや報道風バラエティ番組でも同様の論調の嵐が吹き荒れるんだろうか。
日本人の政治レベルはこんなものかとつくづく嫌気が差してきそうだ。

報道によれば小沢氏の主張は「首相は一般財源化(する)と言っているのに、特定財源化する法律をやれと言うのは信じられない」ということらしい。本当にそう思うのなら、なぜすぐに一般財源化の議論の席に民主党はつかないのだろうか。首相や政府与党の行動が信じられないというなら、小沢民主党の言動は多数政党になったとたんに政治をおもちゃにして遊んでいるガキ大将気取りの戯言にしか聞こえない。

「10年延長」を盛り込んだ法案がけしからんというマスメディアや不勉強なコメンテータ達の発言が聞こえてきそうだが、自分自身を国家を運営する立場に置いて考えてみれば、わずかな良識があればわかることではないだろうか。
確かに平成21年度から一般財源化する道路特定財源であるのだから、延長期間は1年間のみでよい。しかしその前提には、民主党が与野党協議を行なって一般財源化が法案提出ができて、可決されることが必須条件となる。
もし現状の民主党の不誠実(不必要な国民生活の混乱を巻き起こしているという点において)な態度が続き、平成21年度からの一般財源化ができない場合も充分予測される。そうした可能性を考慮すると法案に謳う延長期間は2年だったらよいのか、それとも3年なのか。
それとも1年延長の法案を1年毎に提出し1ケ月以上もかけて再議決するのがよいというのだろうか。そんな議会を浪費するような徒労な行為を繰り返してよいのだろうか。
そうであれば当初の法案原案通り10年延長にしておこうというのは法案提出者として、また健全な国家運営に当たるものとして当然すぎる姿勢ではないかと、私は思う。
一般財源化が達成できれば無効となる法律であるのだから「10年延長だからうそつきだ国民を騙している」という理屈は成り立たない。
そもそも、そんな騙し方があるだろうか。
マスメディアの人間達は結構自分たち以外はそんなことも気づかない無知な大衆だと思っているのかもしれないが、一般国民だってそんなに馬鹿じゃない。
ただマスメディアで報道される言葉を鵜呑みにしてしまうインテリ気取りの国民が少なからずいることは悲しい現実でもある。
それはそれとしても、仮に私が福田総理の立場であっても今回の法案提出と同様の措置をとる可能性は高いと思う。

民主党が参議院で第一党になり、給油支援法案を否決した以降の国家としての混乱と代償は計り知れないものがある。
平和に慣れ切ってしまった政治家達が、大したことをしなくても平和は続くだろうという根拠なき油断が引き起こしている惨めで幼稚な姿だ。
少なくとも武力行使を伴う民族紛争や国家テロの危機に直面している国家であれば、こんなくだらない国会は行なわれないだろう。

マスメディアも一般国民も、もっと賢明になれ。

【関連リンク】: 「首相はどうかしている」=小沢民主代表、道路特例法案で対応批判(時事通信) - Yahoo!ニュース

2008.4.16【長寿医療制度 巣鴨で街頭演説】

今月15日から後期高齢者医療制度(長寿医療制度)保険料の給与や年金給付からの徴収(天引き)が始まった。
野党4党は「おばあちゃんの原宿」と呼ばれている巣鴨に繰り出して「姥捨て山よりもひどい制度」と街頭演説を行なった。

しかし本当に姥捨て山よりひどい制度なのか。
そもそも、どうして巣鴨に繰り出して街頭演説を行なわなければならないのか。
ただでさえ生活の先行きに不安のある高齢者にターゲットをあてて不安を煽り立てる権利がどこの誰にあるというのだろう。
こうした手法に、私は大きな憤りを感じた。

制度の是非を議論するのなら、国会でやればいいのだ。
世論を味方につけるにしても、その前後に立法府たる国会で審議することがその本質だ。
高齢者は、既に充分に不安を感じている。
仮に概要演説を行なうとすれば、それはこの制度を我がこととして理解できていない、もっと若い世代に対して行なうべきではないのか。

現在の医療制度の解決すべき最大の課題は何か。
それば持続可能な皆保険制度の続行にこそある。
そのために必要な施策は何か。
少子高齢化の急激な進行のなかで、保険給付と保険料負担の収支をいかに黒字化するのか。
この一点に今後の制度維持の可否がかかっている。

高齢者の立場を擁護して自己主張するのもいいだろう。
今回の制度の問題点を指摘し糾弾することも必要だ。
施行までの不手際、世論形成の不充分さを反省し次善策を講じることはもちろんだ。

大切なことはこれらの行為がどのような思い、理念、目的から発せられているかということだ。
「他のことは知らない、私の生活だけ守りたい」ではこれからの社会は成り立たない。
ましてや仮にも、党利党略で政局に持ち込むことを考えてこの問題を格好の攻撃材料にしているような輩がいたとしたら許してはならない。
人間の一生は後半生に入ると楽をしたくなるものだ。
それは私達のような世代であっても変わらず全世代を通して、同様の生命傾向を有している。
しかし自身の生命の永遠性から見れば、成長し続ける生命状態の一段階でしかない。その点を見誤ると、その人自身にとっても大きな損失になるのではないだろうか。
長寿医療制度の本質は、自身の生命をいかに捉えていくかという生命哲学があってこそ、根本的な解決の方途が見えてくると思えてならない。
皆さんはどのように感じているだろうか。

【関連リンク】
長寿医療制度 野党共闘で猛批判…与党、釈明に躍起
“長寿医療制度”が始まりました(厚生労働省)

2008.4.13【山口の有権者は納得しているのか?】

明後日に告示が迫った衆議院山口2区の補欠選挙の支援のために、民主党幹部が現地入りしていることが報道されている。
4月1日に期限切れとなったガソリン税の暫定税率をめぐる国会での攻防戦に大きな影響を与えるとマスメディアや政治関係者はこぞって口を揃える。民主党の菅直人氏に至っては「もう一度ガソリン税を高くするかどうかの国民投票を、山口2区の皆さんにしていただく」と山口県の街頭でアジテーションしている。

山口2区に住む有権者達はこんな選挙でいいのだろうか。
これは、国政レベルでの問題が起こっている時の補選や地方選挙が行なわれるたびに毎回感じることである。
そのテーマがその地域の有権者に直結する最重要課題であれば国民投票と表現して当然至極のことだ。通常の衆議院選挙や参議院選挙であれば、そうした論点がなくてはならない。

しかし今回は、その地域における、地元の有権者を代表する衆議院議員を選ぶ選挙である。しかも何らかの理由で空席になってしまった補欠選挙だ。ガソリン税のことももちろん大切だが、地元で地道に暮らし続けている庶民の生活に関わる様々な諸課題を総合的に考えながら、庶民一人一人が判断することではないだろうか。

ガソリン税暫定税率をめぐる主張を国民に訴えたいのならば、何よりもまず最初に、国会での審議を再開させるべきだ。
山口県の予定候補者の集会に行って選挙支援に絡めて訴えるくらいなら、全国のより多くの有権者に届くように、もっと真正面から審議をすればいい。
NHKが全国の家庭のブラウン管にあますことなく放送してくれる。

こうした一連の行動を見ているだけでも、民主党の心根が見えてきて仕方がない。

【リンク】 小沢、鳩山氏ら現地入り=ガソリン攻防へ総力戦−山口補選で民主(時事通信) - Yahoo!ニュース

2008.4.12【第20回黎明塾「製品ブランドのマネジメント」】
本日、第20回目の黎明塾(経営塾)を開催しました。

今回のテーマは「製品ブランドのマネジメント」。ブランド戦略について取り上げました。
現在ではブランドのない商品というのはほとんど存在しないため、本源的な意味でのブランド戦略が結果的によく理解されないまま感覚的に対処されている側面がある。
ブランドというと商品名のネーミングや商品カテゴリ程度にしか考えていないのが現在の企業経営者の大半の認識ではないかというのが正直な印象でもある。
その一方でノーブランドというものも存在するが、市場的には極めて小さく、一般消費者が小売店で見かけることは、生鮮食品の一部等でしかない。
「ノーブランド」という表現のブランドで商品ラインナップを揃えている大手スーパーの売場なども常態化して久しい感がある。

ブランディングが重視されるのは、経営戦略が端的に現れるのがブランド戦略であるからだ。逆説的に言えば、ブランド戦略を明確に立案実行できていない企業は、企業体としての方向性が定まっているとは言いがたく、将来のビジョンに根本的な不安要素が残されていることになるだろう。
今回は、ブランドの由来と意味、機能等を確認しながらブランド・エクイティの形成、ブランディングの意思決定ステップと本源的な困難さを考察し、いくつかの企業のブランド戦略の現状を分析しました。

経営戦略を構築する上で最も重要なポイントのひとつですが、受講者が揃わなかったことは非常に残念に思いました。それぞれの諸事情もあり、継続して受講するどころか、週末土曜の貴重な時間を遣り繰りして一回二回受講するだけでもことも多大な労力と決意の実行が伴います。そうした厳しい現実の中で受講に足を運ぶメンバーに最敬礼する思いで一杯になります。
今後の開催も全力で取り組んでいきたいと決意した一日でもありました。

《実施内容等はこちら→》第20回黎明塾

2008.4.11【いつまで許すのか 民主党の迷走】

民主党の迷走が続いている。
迷走という言い方がふさわしくなければ、暴走とも言い換えようか。

ここしばらくブログで触れることもなくすごしてきた間にも、民主党の政治理念のなさが益々浮き彫りになってきた。
揮発油(ガソリン)税の暫定税率問題、日銀総裁問題などその対応には良心を疑うことばかりだったが、福田総理の道路特定財源の一般財源化提案を一蹴してしまったことには、怒りやあきれる気持ちを通り越して「こんな政党いらない」とその存在そのものを否定する思いが沸々と涌いてきた。

民主党の未成熟さは私のブログでも何度も指摘してきた。
今回の民主党の対応には「国民生活のことなど眼中にないのか」と叫びたい。

そもそも、ガソリン税の暫定税率維持に反対していたのは道路特定財源の一般財源化のためではなかったのか?
その一般財源化が平成21年度から実施すると総理大臣が明言しているのに、これに反対する理由がどこにあるのか。この協議にすぐに入って来年度からの実施を実現すれば、民主党にとっても大きな実績にもなるだろう。
それを暫定税率廃止ができないと協議もしないという。
暫定税率廃止といってもこの4月から廃止すれば、既にその税収で予算編成を行なっている全国の全自治体で大混乱が起こることは、誰にもわかる自明のことだ。そんな混乱を起こすことが国民の利益になるとでもいうのだろうか。予算の再編成にかかるコストだけで膨大な損失だ。一人の国民として、こんな事態を引き起こした民主党に損害賠償請求をする権利をほしいと思うのは私だけではないと、思う。

現実的な対応としては平成21年度からの実施が最善の策であろう。
一般財源化を既成路線として固めた上で、暫定税率分の税収が必要かどうか国会の中で議論を戦わせばよいのではないか。
それをやらずに、審議拒否を続ける民主党。
「政権交代」という言葉を、遠い昔のまぼろしに、民主党自身がしてしまっている。

国民は、この数ヶ月の国会の混乱を冷静に、ある意味でさめた目で見ている。
ねじれ国会の先の選挙。
待っているのは、選挙をやりたがっている民主党の大敗北なのかも知れない。

2008.3.28【第36回桂冠塾『蒼き狼』(井上靖)】

3月22日(土)に今月の桂冠塾(読書会)を開催しました。
当日は暖かな小春日和の一日。
開始までの時間、会場の勤労福祉会館の和室の窓を開け放していると初夏を思わせるような陽光が差し込んでいました。

『蒼き狼』は日本を代表する作家でもある井上靖さんの代表作のひとつ。
井上靖さんはこの作品を執筆した動機を次のように書いている。
----------------------------
『歴史上の人物で書きたい欲望を起こさせるものは、私の場合は大抵その人物の持っている理解しがたいところである。全面的に何から何まで理解しがたい場合は、もちろんその人物とは無縁であって、初めから書いてみたいと言うような気持は起こらないが、その反対に何かもよく判っている人物の場合もまたそれを書こうという気持はならないものである。
成吉思汗の一生を書いてみようかという気持になったのは、その人物が一応理解できながら、一点判らない納得が行かぬところがあったからである。
それは彼の征服慾の根源であり、その秘密であった』
------------------------------------------------------
成吉思汗自身を侵略と戦闘に駆り立てたものは何だったのだろうか。そしてそれはどこから生まれきたのだろうか。

『上天より命(みこと)ありて生まれたる蒼き狼ありき。
その妻なる惨白(なまじろ)き牝鹿ありき。
大いなる湖を渡りて来ぬ。
オノン河の源なるブルカン嶽に営盤して生まれたるバタチカンありき』

『蒼き狼』の題号はここからとられたものだ。井上靖さんはこの蒙古民族共通の伝承の語りにその源を見たのだ。

当日の参加者は3名と少なかったが、読後の関心は多岐にわたった。
※当日の論点は《第36回桂冠塾/V.『蒼き狼』をめぐる論点》を参照下さい。
その中から私の考えを加えながらいくつか記述しておきたい。

成吉思汗を領土拡大へ駆り立てた精神的源泉は何か?

上記で記述したように、井上靖さんは血の証明に求めている。これは蒙古民族の歴史を語る上で最も信頼されている、唯一といっても過言ではない『元朝秘史』(『モンゴル秘史』とも呼ばれる)の冒頭に記述されている民族発祥にまつわる伝承である。
成吉思汗自身が父と仰ぐエスガイの子どもなのか、それとも他部族の見知らぬ男の子どもなのか。その迷いはすなわち、自分は果たして蒼き狼の末裔なのかという命題に通じる。
成吉思汗は、男は50歳になった時に本当の姿が現れる、モンゴルの末裔は狼になるという言葉を信じて、自ら戦い続ける道を選択した。

自分自身が真の後継者なのか。
その証明は自らが戦い続けることで明らかになる。
強烈な、衝撃的な印象を受けたシーンである。

成吉思汗は英雄なのか?侵略者なのか?

モンゴルを代表する文学者であるドジョーギーン・ツェデブ博士(モンゴル国立文化芸術大学・学長)も述べているとおり、成吉思汗の評価は二分されている。このことは成吉思汗だけのことではなく、歴史上に名を残している人物に共通する問題でもある。
現在の歴史は基本的に自国史観で編纂されていることも大きな要因であるが、現在に至るまでの国家統一をめぐる世界の歴史はまぎれもなく大量殺掠のうえに成り立っているという事実が大きいと私は思っている。
無血革命が大きくクローズアップされてきたのはわずか数十年のことである。
インド独立の父であるマハトマ・ガンジー、黒人解放の指導者であるキング牧師など非暴力革命がやっと評価され始めたばかりといっても過言ではない。
日本においても、世界においても、数え切れないほどの人命を奪っている。明治維新において江戸城明け渡しが無血開城と言われたりするが、そこに至るまでやその後の紛争で多くの人命が奪われているのは紛れもない事実だ。聖徳太子や室町、鎌倉の時代、織田信長や豊臣、徳川の時代を経て第二次世界大戦に至るまでいとも簡単に人命が奪われてきた。

決して成吉思汗の行動を正当化するものではないが、ひとつの歴史認識として正確に事実を把握することも必要である。
その意味では、成吉思汗は紛れもなく侵略者の一面を持っていた。
それと同時に、誰もが安心して暮らすことができる境界なき広大な領土を築かんとして世界最大の国家を現出させた英雄であった。

行動の源泉は『蒼き狼』の証明だけだったのか?

行動の源泉について、別の観点でも考察しておきたい。
私は「モンゴル族であれば50歳で狼になる」として戦い続けたにも関わらず、50歳になった時の後継者の証明に関する記述が作品中に見当たらないことに気づいた。
「1212年、成吉思汗は大同府に於て50歳の春を迎えた」と始める文章から数ページの記述があるが大きな出来事もない。この年には大軍を動かさなかったという記述さえある。
井上靖さんほどの作家が、自身が提示した重要なテーマを書き忘れたとは考えにくい。
では、自分自身の本当の姿がわかるとした50歳を単なる通過点のようにしか記述されていないのは何故なのだろうか。

これにはいくつかの考察が加えられるべきであろう。
いくつか私なりの考えを提示したい。

ひとつは、50歳という期限で明らかになる真実ではないという考え方に成吉思汗自身が進んだという見方だ。
これは、自らと自身の後継者達に戦い続けることを宿命として課したことからも推測できる。物事とは常に変化し続ける。人生において、よりよき方向へ変化を続ければ人間的成長となり、悪しき方向であれば堕落といわれるだろう。宇宙そのものが変化を続けていることからも類推できるように、変化をしないで一定の状態を保ち続けることは不可能だと私は思う。現在の学説では宇宙は常に成長し続けている。であるならば、そのリズムの一端を担う私達も成長し続けることは使命ともいえまいか。また成長し続けることが喜びと感じられる生命こそが自然の摂理にかなっているともいえる。
そうした意味においても、50歳で真実が確定するというのはある意味で不自然である。
いったん戦い始めた成吉思汗が、生涯闘い続ける道を選んだことは、宗教的理念を有していたと思われる彼にとって自然な結論だったのかもしれない。

ふたつめは、それは領土拡大の行動を一括してみるのではなく、いつくかの段階があったのではないか、という視点だ。

成吉思汗の人生において、その方向性を決定づける出来事は場面場面で相当数にわたって現れている。
その中でも注目すべき事件がある。
それは「オトラル事件」だ。
この事件以前と以後では領土拡大の大義名分が明らかに違っているのではないかというのが私の視点だ。
現実的な状況として、成吉思汗、幼名テムジン(鉄木真)が戦いに入っていたのはなぜか。それは自分の家族の生活のためであり、モンゴル民族のためであった。
広大なモンゴル高原がありながら、悠々とした放牧生活が送れないのはなぜか。
それは部族間、民族間の争いがあり、多大な距離を置かないと安心した生活が送れないことに起因していた。そしてわずかな安穏があっても他民族の侵略にあって生命を奪われてきた歴史があったからである。
その阻害要因をなくすことを、テムジンは首長の後継者に生まれた自らの使命と定めたのだ。したがってモンゴル部族内の他氏族との戦いや韃靼などの周辺民族、そしてかつてのハーンをなぶり殺しにした金国への戦いには民族の存続繁栄をかけた大義名分があったのだと思う。

しかし、ホラズムへの開戦にはそうした民族存亡の大義名分は限りなく小さい。
その後の拡大志向の理由を考えてみても『蒼き狼』の証明だけでは納得しがたい面が出てくるように感じている。4代目のフビライに至るまで友好拡大の意向が重視されていたことも推測できる事象がいくつもある。
そうした考えを持ちながらも、信義に劣る者達へは容赦ない殲滅的行為を浴びせかける。老齢者や女子供に至るまで屍の山を築いていく。
この相反する精神を共存させられたのは何故だろうか。

(この文章は記述の途中です)

成吉思汗のもっていた人間観とは

成吉思汗と後継者たちの歴史的評価

モンゴル帝国の繁栄と衰亡

女性たちの果たした使命とは

成吉思汗・義経伝説


2008.3.12【はっけよ〜い〜!】

すがすがしく感じるニュース記事に目が留まった。
現在、大阪府立体育館で行なわれている大相撲春場所での出来事。
昨日の取組で、番付相撲の前に行われる「前相撲」で仕切り線でにらみ合ったまま約20秒間固まってしまっていたというニュースだ。

対戦した新弟子の2人は、福田(15歳・錣山部屋)と吉沢(15歳・春日山部屋)。
記事によると2人はほとんど相撲経験がない初心者。15歳の両者は中学卒業の年を迎えたばかりの少年だろう。
しかもその日の取組の一番最初。緊張は計り知れないものがあったに違いない。

行司も初めての出来事でとまどったと書かれていたが、会場の観客も含めて、新人の若者のぎこちない緊張した姿を温かく見守っていたことだろう。

人生も30年、40年、50年...と重ねてくると一つ一つのことに「緊張」して臨むことが少なくなってくるように感じるのは私だけではないと思う。
中途半端に「こなしてしまう」人生よりも、ぎこちなく緊張して恥ずかしい思いをすることのほうが、ずっとずっと素晴らしい。
そんな初々しさを忘れずに、目下の課題に全力で取り組みたい。

【記事】 はっけよ〜い、止まった??(スポーツニッポン)

2008.3.4【主婦の声が法律を動かす 自転車3人乗り再検討へ】

今年春に予定されている道路交通法改正案の一部が見直される公算が大きくなってきた。
従来から道路交通法で3人乗りは禁止されているが、今回の改正で罰則規定を盛り込むなど指導強化を図ることが意図されていた。各都道府県交通委員会でも幼児を乗せる場合も大人1人に対して1名の幼児(6歳未満)が望ましいとして、親子3人の自転車利用をやめる方向で指導を行ってきた経緯がある。

我が家では子どもが一人だけなので直面してはいないが、お母さん仲間では幼児が2人いる家庭はめずらしくない。自転車の前後に幼児用座席を取り付けて幼稚園や買い物に出かける風景は、日常の中に溶け込んでいる。
現実の問題として、父親が仕事に出かけている昼間に行動する母親にとって3人乗りが禁止されるかどうかは死活問題といって過言ではない。

安全面から3人乗りを辞めさせたいという意図は、そうした現実を無視している、というか、よりよき解決策はないかと思索検討を深めた形跡は何ら感じられない。安直だ。
今回の解決策として、親子3人で乗っても安全が確保できる構造の自転車を開発、確保する検討が始められたようだ。
そうした検討を始めた背景には、現場の母親達の声があったという。
あきらめずに声を上げた庶民の代表に、賛同の拍手を送りたい。

何ごとも「だめだ」「できない」ということは簡単だ。
しかし、そこで今一度踏みとどまって、より本質的な思索と解決策を実行する、私達一人一人でありたい。

【ニュース記事】 <自転車>3人乗り再検討…警察庁、対応車開発を業界に要請(毎日新聞)

2008.3.3【第19回黎明塾『製品ミックスと製品ライン戦略』】

3月1日(土)に3月度の黎明塾(経営塾)を開催しました。
今回のテーマは「製品ミックスと製品ライン戦略」。
非常に基本的でかつ戦略的なテーマを討議、考察しました。

私達が商品を買うとき、本当は何を買っているのだろうか。
たとえば今日の仕事帰りにコンビニで購入したペットボトルの日本茶「○○○茶」。
○○○茶がほしいと思って最初から決めて買った人もいるだろうし、お茶なら何でもよかったという人もいるだろう。さらに、お茶でなくても飲料だったらよかったのかもしれないし、ひょっとしたら寸前まで買うつもりさえなかったかもしれない。

人によってそれぞれだが、調査結果は意外と商品機能を求めて商品を買っている人の割合が高いことを示している。
たとえば「喉の渇きを癒したい」という欲求がそれである。
これは必ずしも購買行動でのみ現れる現象ではない。
日常生活のあちこちに、そうした意識行動が偏在している。
何のために行動するのかをいかに定義するかによって、個々人の意識は想像以上に隔絶の感を呈する経験をしたこともあるのではないかと思います。

そうした視点をはじめ、いくつかの角度から製品の分類を考察した後、製品ラインの決定についてのポイントを検証しました。
時間が押してしまい、より実務的な内容である「ブランド」の考察と具体的なブランド戦略について時間をとることができませんでしたので、次回に取り上げたいと思います。

【当日の内容】
http://www.prosecute.jp/reimei/019.htm

2008.2.29【第35回桂冠塾『人形の家』(イプセン)】

2月23日(土)に2月度の桂冠塾(読書会)を開催しました。
今月取り上げた本はイプセンの『人形の家』です。

作品が発表された当時、女性の人権確立が叫ばれていた時代背景とも重なって、女性の自立と権利を主張した作品のように思われがちですがそれにとどまる作品でないことは読み返してみると明白です。

人の幸福とは何か?
人は何のために生きるのか?
こうした生命の本質的な問いかけが随所にちりばめられています。主人公のノーラ(以前の訳本ではノラ)とその夫ヘルメルのすれ違う会話の本質は、価値観の相違そのものでありました。

舞台が開いた時にすでに行われていたノーラの違法行為。ヘルメルにとってはストレートに違法かどうかが問題であるのに対して、ノーラはその行為の動機や目的が一番大切だと思っている。思いが純粋であるのだからその行為は罪ではないと法律書のどこかに書いているはずだと、頭から思い込んで微塵も疑わない。

ノーラへの金銭の貸主であり、夫ヘルメルの就任先の部下になる男であり、かつて手形の偽サインで社会的に失墜しているクロクスタに、脅迫に似た要求を突きつけられて、ノーラの過去の違法行為が白日の下に晒された時。
彼女とヘルメルの状況に対処する姿とその行動理由が実に対照的だ。
そして、リンデ夫人の役回りと絡まってクロクスタがノーラの違法行為の暴露を放棄したあとのヘルメルの豹変振りは決定的だ。
失笑さえ出てくる場面だが、しかし、ヘルメルのとった行為を浅はかだと誰が言えるだろうか。
ヘルメル的行為は、私達の日常生活の中で、実に頻繁に行われており、常態化している。

しかしそのヘルメルの行為がノーラにとって決定的だったのだ。
それはイプセンにとっても、私達読者にとっても、人として何を基準に行動を決定するのか、何のために一緒に生き行動するのかという本源的な問いかけである。

【実施内容など】
http://www.prosecute.jp/keikan/035.htm


2008.2.14【放置自転車「どこに止めようが自由でしょ!」記事に心が痛い...】

産経新聞の記事に目が止まった。
記事のレポート現場は都営大江戸線の光が丘駅周辺。私が住む練馬区にある都営地下鉄の駅だ。まったくの他人事とも思えず、どこか恥ずかしい気持ちを感じながら記事を読ませていただいた。

現在の地域の問題のひとつに放置自転車がある。
自転車を朝止めて、電車を利用して都内に出かけた後、戻ってきて自転車に乗っていくのだから、正確には放置とはいえないかもしれないが、駐輪禁止エリアに止めていることには違いはない。

本質的には地域住民一人一人のモラルに起因することに間違いない。
しかし、このモラルを維持すること、立て直すことが、ことのほか難しい。それは何故なのだろうか。
同じ練馬区内・西武池袋線の大泉学園駅を利用する私自身のことを考えてみよう。

私は大泉学園駅前(南口)にある2種類の駐輪施設を利用している。
ひとつは線路沿いに作られている自転車スタンド。自転車の前輪にチェーンをかけてロックするタイプ。1回につき100円で利用できる。
もうひとつはゆめりあタワーに隣接する有料駐輪場。5時間または7時間毎に100円。最初の2時間は無料で解錠できるのもうれしいシステムだ。
ありがたいことに両方とも満車ということはたまにしかなく、時間を考えればほぼ確実にとめることができる。
加えて、我が家から駅までは徒歩8分ほど。時間に少し余裕がある場合は極力歩いて駅に行くことを心掛けている。

その一方で、駅周辺に自転車をとめていく人も後を絶たない。
特に北口側には放置自転車の台数が格段に多いように感じる。現在の住まいに引っ越す前は北口徒歩2分のマンションに住んでいたので、マンション駐輪場に無断駐輪していく会社員が数名いて、マンション住民、所有者の間で対応をどうするか議論になったこともある。

私は、地域社会のルールは守るものだと思っている。
それは「ルールを守らないと迷惑を被る人がいる」と感じるからだ。
放置自転車といっても迷惑になる人が誰一人いないのなら、行政等も駐輪禁止エリアを設けたりしないだろう。事実、利用者人口が少ない地域では駅前すぐの場所に駐輪していることも多々ある。しかし交通機関の利用者が集中する都市部の駅前に自転車を止めると駅への出入りや駅前の通行者に不便が生じる。特にベビーカーや車椅子利用者、点字ブロックを利用する視覚障害者が通行できない場合も多い。歩道を通れないために、駅ロータリー内の車道に降りてバスが通るすぐそばを危険を冒して通過することも見かける。

そんな危険を他人におっかぶせてまで、駐輪する必然性はない、と私は思うのだが、そう感じない人が、かなりの割合で存在する。
他者の気持ちを思い遣る心。
時代と共に、他者とも関わりを避ける、直裁的な意味でも境涯が狭い人が増えてきたように感じる現代社会。私たちが取り組むべき目下の課題が山積している現実に、地道に取り組みたい。

【関連記事】【溶けゆく日本人】放置自転車「どこに止めようが自由でしょ!」(産経新聞)

2008.2.8【第33回桂冠塾『フューチャリスト宣言』】

年の瀬も迫った昨年12月22日(土)14時から、2007年最後の桂冠塾(読書会)を開催しました。
遅くなりましたが、少し触れておきたいと思います。
第33回で取り上げた本は『フューチャリスト宣言』です。

タイトルや対談している両者のプロフィール、本の帯などを一見すると、Webをめぐるいまどきの話題本の印象もあるかと思います。対談者の一方の梅田望夫さんの名前を見てグーグルを絶賛する本かと判断してしまう人も実際におられました。それはあながち間違いだとは言い切れない面もありますが、それだけだと思って「Webに関心がないなぁ」と読まないで通り過ぎるには惜しい本だと思います。

第一章 黒船がやってきた!
第二章 クオリアとグーグル
第三章 フューチャリスト同盟だ!
第四章 ネットの側に賭ける

それぞれの章毎の内容については説明を省略するが、特に心に残った論点をいくつか指摘しておきたい。それは

・ネットのこちら側と向こう側
・リアルの世界についてまわる時間とお金こそが不自由さの象徴
・ネットの向こう側は無償の世界が中心に回る
・グーグルはWeb世界の覇者になる
・リアルの世界は必ず残る。不自由だからこそビジネスチャンスがある。
・急激に変化せざるを得ない個人と組織の関係

こうした表現や論点に象徴されるWeb世界の劇的な進化である。
それはリアルな社会、世界と同一かそれ以上の広がりを持っているものである。それ以上と表現する根拠として、時間や空間、そしてそれから派生する形での貨幣の概念を超越した全く異なる価値体系が存在する可能性があるからだ。
梅田、茂木の両氏はそれぞれの経験とフィールドの視点からこれらのテーマを縦横に論じ合っている。その一例がWeb1.0と2.0の根本的違いについてだ。
このテーマは、時代の寵児といわれているようなある人物が、浅薄な理解のまま堂々と発言しているのを読んで唖然とした記憶が生々しい。リアルなビジネスや行為の補完として「利用する」Web1.0の世界と、リアル世界と全く別途で完結するWeb2.0の世界とは、似ていて異なる異次元空間が広がっている。
そうした違い等を考察していくと、私たちが漠然と思っていた認識が根本的に成立しないのではないかという仮説がいくつか浮上してくるのである。

こうした仮説を論じ、検証していく行為は極めて貴重な疑似体験となる。
そのような思考パターンを日常的に行いたいと思えるだけでも、本書を読む価値が大いにあると思うのだが、皆さんはどのように感じただろうか。

【当日の様子など】第33回桂冠塾

2008.2.8【第18回黎明塾「マーケティング戦略の立案までの重要ポイント」】

今月2月1日(土)に第18回となる黎明塾を開催しました。
今回のテーマは「マーケティング戦略の立案までの重要ポイント」。
概ね第10回から前回までの個々の視点での内容を俯瞰する意味で、今回のテーマを設定しました。

内容的には消費者市場と消費者行動に関する内容の再確認に多くの時間を費やしました。この点は今後の経営戦略の遂行と修正において重要な視点となりますのであえて時間を割くことができてよかったのではないかと思います。

次回からは経営における具体的な意思決定の内容に踏み込んでいきます。

【関連リンク】第18回黎明塾実施内容

2008.2.【倖田來未「羊水が腐る」発言をめぐる騒動の本質は何か】

倖田來未が今月1日にラジオ番組の深夜番組で行った「35(歳)ぐらいまわると、お母さんの羊水が腐ってくるんですね、本当に」発言が物議を醸して、一週間が経つ。
ネット上で大きな議論になることは容易に想像できたことなので、個人的には特に発言は控えていたが、ここにきて倖田來未本人による謝罪が放映されるなど、事態の終息に向かうかに思われてきた。
状況的にはほぼ意見が出揃った感もあり、少し触れておこうと思う。

この事件をコメントする気になったのは勝谷誠彦氏の発言をネットで知ったことによる。
勝谷氏は2008年2月4日に放送された日本テレビ系情報番組「スッキリ!!」の中で発言、また翌日月5日放送の朝日放送の情報番組「ムーヴ!」でも発言している。
その主旨は「謝っているのだからもう許せばよいのだ」「ネット上の倖田來未へのバッシングは一種のいじめだ」「バッシングを煽っているバカがいる」等という内容であることが報じられている。

確かに昨今のブログ炎上などの事件をみると、しかるべき原因があると思われる一方で「見解の相違」から表現の自由が封じ込められてしまったケースも見受けられる。
しかし、今回の倖田來未「羊水が腐る」発言への反響がバッシングと言えるものなのだろうか?

昨今の大衆(今回でいえば視聴者)の世論がネットによって、急激に過熱する危険性は以前から指摘されている。ひとつにはネットの有する匿名性が拍車をかけているという見方は一面の真理を有していると私も感じている。確かに悪意のある匿名者がある意図をもって世論を誘導するケースもあるだろう。
しかし、少し視点を変えて考えてみよう。
もともとの倖田來未の発言は正しいのか?
もちろん明白な間違いである。
ネットが普及していなかった数年前までは、電波によるマスメディアでの発言は、たとえ明らかな間違いであっても発信した側が訂正放送を行わない限り、一般視聴者(大衆)は「そうなのかなぁ」と思い込まされてしまう状況に置かれていた。特に日本においてはマスメディアによる世論形成は顕著であるといわれてきた(その理由として哲学不在の国民性が指摘もされてきたが今日の本題ではないのでそれはまたの機会に)。

現在の状況は、ネットの普及によって、垂れ流し状態であった電波メディアの誤謬が、短時間に、より多くの大衆の間で意見交換ができる環境になりつつあるということでもある。
これは決して悪いことではない。むしろ喜ばしい状況ではないだろうか。
私個人の印象としては、今回の倖田來未の発言は様々な意味で相当危険な発言だ。
公共の電波で発言することの責任は、非常に大きい。
それは勝谷誠彦氏にもいえることだ。
ましてや倖田來未の歌はティーンエイジャー達にも多くのファンがおり、その影響力は勝谷氏の比ではないだろう。そんな彼女が不用意にも「30歳を過ぎた女性の羊水は腐り始める」なんてデマゴークを公共の電波で、堂々と、しかもいったん問い返されたにも関わらず、訂正もしないまま主張し続けた責任は、圧倒的に、重い。
たしかに25歳という若さだから致し方ない要素もあるだろう。
しかしそうであれば、そんな倖田來未に、生放送のラジオ番組で自由に発言できる枠を1時間近くも与えたメディア制作側の責任も、問われなければならないかもしれない。

活動を自粛しろとか、する必要がないとか、回りから言うことは意味も必要もないと思う。
発言した本人がその発言の重みを自覚して、自ら処断することだ。
そして、より大切なことは、これからどのような行動をしていくかということである。

【関連記事】
「35歳でお母さんの羊水が腐る」 倖田トンデモ発言に批判
「ネットでバッシング煽るバカ」 倖田騒動を勝谷が猛烈批判
倖田涙の謝罪インタビュー 「軽率だった」と繰り返す

2008.2.3【いいかげんにしろといいたくなるとき。】
いろいろな活動に携わっていると「なんでこんなことに目くじらをたてるのだろう」という程度のことに、精力を投入する人にぶつかる。
今日もまたそんなことに出くわした。

ことは単なる些細なことの連絡だ。
私は経営者という立場以外に、地域の人達の責任ある立場でもある。
そこに新しいメンバーが増えることがわかった。
予定していた集まりが中止になった。
そんなときに関係するメンバーに連絡をする。
そのような状況だと想像いただきたい。

私と同等程度の責任を担っている人が別にもう一人いると仮定しよう。
その人は自分が気にかけているメンバーの連絡は自分がとりたいという意識でいる。
しかし、だからといって私が残りのメンバーのことだけみていればよいというわけではない。
その人にとっては私が先に連絡を回したことがおもしろくないらしい。断っておくが、私だけが先に情報を得たわけでもなく、伝達すべき情報であることは明白な状況でもある。問題はアクションのスピードだけである。
それでも、多少連絡がおくれても私からはその人が懇意にしているメンバーへの連絡はしないでほしいと思っているらしい。そのことを、私は本人からではなく、他のメンバーから聞かされた。
しかし、事の前後というものは、常にある。
私があとから聞くような情報も多々あるが、それを先に連絡を回されたからと言って、私が卑屈になったりするような感覚は、残念ながら、私には、ない。
「はやく連絡できなくて申し訳ない」というのが私の偽らざる感覚だ。

しかしその方にとっては、そうではないらしい。
またそうした気持ちを、私に直接言ってくれるのであれば対応の仕方もあるが、直接会った際にも私には一言もない。迂回して他者からそうしたことをクレームとして聞くことがここ数ヶ月続いている。
「そんなこと思っているのなら言って欲しいなぁ」という複雑な気持ち、ときに私からそれとなく言い出すと「そんなことはないわ」と笑顔が返ってくる。なんともいえない気分だ。

そもそも、そうした情報の報告を受けることに前後が発生することや、連絡経路を分けることにどのような意味があるのだろうか。
そうした内輪のルールが守られていないと声高に叫ぶことが、本質的な目的に対してどのような意味を持つのだろうかという発想を、持ち得ない人々が厳然と、しかも相当の発言力を持って存在することに、私は驚きを隠せない。
つくづく、自分自身が歩んできた軌跡を、目の前で再現されているような錯覚に陥らざるを得ない(^_^;)しかもそうした行為をする人は私よりもずっと年長者だ。思いは、ますます複雑になる(+_+)

本質を見失った行為を押し留めることができるパワーはいずこに存在するのだろうか。
勘違いの人々を排斥するという考えは、本源的な解決方法ではなく、自分自身が有する理念とは、もちろん相容れることはできない。
そうした排除したくなるような思いと真正面から対峙することが、自身に課せられた巨大な課題であることに、日々気づかせられる毎日である。
2008.2.1【中国産冷凍餃子による中毒事件 冷静な原因解明を】

千葉県と兵庫県で販売された中国産冷凍餃子による中毒事件が大問題になっている。
中国における過剰な農薬使用は以前から問題視されてきた。中国茶への検査が徹底できないのは業界では常識になってしまっているほどだ。
しかし、だからといって今回の問題の原因が中国における農薬漬けの野菜経営にあるかといえば、決してそうは断言できない。

今回の問題は少し状況が違う。
食に携わる者であれば誰もがすぐに気づいていることなので、あえて言うまでもないだろうが、数個の餃子を食べて残留農薬を摂取したくらいで今回報道されているような被害症状になるというのは考えにくいという事実があるからだ。
また発生のパターンも居所的で、同じ被害者でも食べた餃子個体によって発生したりしなかったりしている可能性が推測されるからだ。
マスメディアでは、どの局でもどの新聞媒体でも、報道している視点は概要2点だ。
つまり
1)原材料が製造工場に入荷して、製造、輸出して消費者の口に入るまでの経路
2)食べた消費者が中毒症状を発症してから、事件が公になるまでの経緯
この2点、言い換えれば発生に至るまでのプロセスと発生後事実が消費者に認知されるまでのプロセスである。

いずれも大切なことではあるが、特に1点目についてはどのメディアも冷凍餃子が現地で袋詰めの商品の形態に仕上がっていることとから、工場までのプロセスに原因があるとしているようだ。
しかし繰り返しになるが、一度の摂取で危篤になるような大量の有機リン酸系の薬品が検出されていることを考えれば、 何らかの人為的な行為がそこにあったとみるのが至極妥当になる。
あえて踏み込んで推測するならば、商品包装の上から噴霧または浴びせるような状況が想像される。
例えば
・商品製造後の冷蔵処理までの間の保存時に倉庫等を利用している場合に、不衛生等の理由でゴキブリ等の害虫が発生し、その駆除に使用したケース
・船便を使用していることが報道されていることから、荷積みの際に冷凍倉庫を使用せず積まれた場所にねずみ等の害虫が発生し駆除のため薬品を使用したケース
・船舶での輸送の最中に船内に住み着いているねずみ等の害虫駆除に薬品を使用したケース
こうした仮説の方が、製造ラインまでの過程で薬品が残留したり、製造工程の途中で混入したと考えるよりも、検出量から考えると可能性は高いのではないかと思われる。

たしかに中国食品の安全性や農産物の薬物汚染の疑惑はぬぐいきれないものがある。
それと同時に、個々の事件の原因解明は、冷静に、正確に行われるべきである。

2008.1.27【第34回桂冠塾『隊長ブーリバ』(ニコライ・ゴーゴリ)】

1月26日(土)に第34回となる桂冠塾(読書会)を開催しました。
今回の本はニコライ・ゴーゴリ作『隊長ブーリバ』です。

ゴーゴリには『外套』『検察官』や『死せる魂』などの代表作があるが『隊長ブーリバ』を取り上げてみた。
ドストエフスキーやトルストイと共に19世紀のロシア文学を代表すると称されるゴーゴリであるが、その人生の大半をロシアの中心都市で送っているわけではない。
生まれはウクライナ地方。ペテルブルクで創作活動を行った時期もあるが国外に逃亡した生活も長く送っている。

※このあたりの経緯は桂冠塾のページを参照下さい↓
http://www.prosecute.jp/keikan/034.htm

『隊長ブーリバ』はゴーゴリの思想を如実に反映したリアリズム作品でありロマンチズム作品であると思う。
中心的な登場人物は題名にもなっているタラス・ブーリバ、長男のオスタップ、次男のアンドリイである。それを取り巻くようにユダヤ人商人のヤンケリ、ポーランド人の将軍の娘、コサックの団長、長老、隊長たち..。

皆さんはこの作品を読んでどのような感想を持っただろうか。
リアリズム作品の特徴といってよいと思うが、どのような視点で読むのかによって一人一人の登場人物への印象は180度変わってしまう。もちろん題名になっているタラス・ブーリバを中心に描かれているのだから、彼の視点で読み進むのが正道かもしれない。しかしそれでもタラス・ブーリバの行動や思想の全てを肯定的に受け止めることは、私にとってほとんど不可能だ。だからとって彼の行動全てを否定しようということではない。ゴーゴリ自身が作品の中で書いてもいるが、いいとか悪いとかの判断以前にそうした時代が存在していたということだろう。

そのうえで、あえていくつかの視点で指摘しておきたいと思う。

タラス・ブーリバの生き方について。
この作品の主人公にして、最も評価が分かれる登場人物だ。
いかなる状況にあっても部族の誇りと自らの信念の旗を降ろすことなく、戦い続けた英雄。これが主題的な評価だろう。
別の視点からみれば、こんな見方もできる。
→自分自身の信念を無条件に息子達を従わせようとする器量の狭さがあったかも知れない。
→小休止的とはいえ一時の平和な状態を、自らの思いのみで存在しなくてもよい闘争を捏造し、多くの同胞たちの生命を奪う元凶をつくった。
→ぎりぎりの二者択一の決断に際して、個人的な理由を、さも大義名分があるかのように言葉で言い繕い、多くの同胞たちの運命を強引に変更させてしまった。
→次男アンドリイの微妙な、しかし決定的な行動を目にしながら察知することができなかった。
→意味がないとわかりながら子息を神学校に進学させるという常識的な子育てをしながら、卒業帰宅と同時にそうした学業の蓄積を活かそうともせず、戦場に赴かせるという重大な決断を、母親や当人達の意思を聞くことなく、独断で決定した。
→民族的、時代的な要因が大となり、女性への蔑視、軽視が著しい。
→ロシア正教への信仰の忠実忠誠が、異教徒の排斥、殺害という痛ましい行為を生み出している。
→自民族の誇りがそうさせているのだろうか、他民族の人達への対処は、望ましい人の行為とは到底言えるものではない。特にユダヤ人への蔑視、こういう奴らだという決めつけの認識には根深い偏見が如実に横たわっている。
→次男アンドリイの裏切りが明白になり、自らの手で我が子を殺害する。生涯をかけて更正させる道もあったのかもしれない。
→囚われの身になりながらも我が同胞に逃げ延びる方途を指し示す。どのような状況にあっても信念に生き、最後の瞬間で希望を捨てず行動し続ける姿には多くの共感が生まれたに違いない。
→同胞たちが戦いに負けてもなお一人戦い続ける老兵タラス・ブーリバの姿に自分自身の最終章の生き方を重ね合わせる人達も多くいることだろう。

そうした点もありのままにみていくことがタラス・ブーリバの評価には必要ではないかと思う。

長男のオスタップの生き方。
いわゆる優等生的人生の典型ではないか。
10代から20代初めまでの多感な時期に、体制や親世代へ反発もするが、ぎりぎりのところで踏みとどまる。その後は忍耐、努力の季節を地道に積上げて故郷に戻ってくる。
知識として学んだことを、実践の中で血とし骨肉としていく過程は私たちの現実生活にオーバーラップする感覚を覚えるだろう。
そして一貫して、組織の中のリーダーであり、親であり、人生の師匠である父タラス・ブーリバの行動から自らの生き方を受継いでいく。

次男アンドリイの生き方。
長男オスタップに比べるとある意味で「現代人」ぽい。
オスタップほどには自分の自身の思いを表にあらわすことはなく、回りの大人達との摩擦を起こすこともない。異性への関心に代表される個人的な感情は内に秘めて、決して他言はしない。親にも言わない経験を有している。表面的には一貫して従順な態度をみせ続けるが、本心は必ずしもここにあるわけではない。
最後は、恋愛感情を持った女性への思いを最優先し、同胞たちとの絆をあっさりと捨てて、敵方につく。そしてその流れのままに、生まれ育った故郷の同胞たちを何の心の呵責もなく殺戮していく。
そんなアンドリイでも、最後の最後で父親タラス・ブーバの前に出た時には、剣を振り上げるどころか父親の顔をまともにみることができない。
アンドリイがみせた行動は、別の視点でみれば純愛物語ともいえるかもしれない。舞台設定は異なるがアンドリイの生き方に焦点を当てて主人公として物語を再編するならば「ロミオとジュリエット」のような思いを抱く読者も多く出てくることだろう。

他にも、ユダヤ人商人のヤンケリ、ポーランド人の将軍の娘、コサックの団長などに焦点を当てて、その思想と行動をみていくだけでも、色々な思索が深まってくる。
私たちの生きる現代社会にもおいても、直接的に訴えかけてくるテーマも多い。
長くなったのでひとつだけ指摘して終わりにしたい。

それはオスタップとアンドリイの生き方を分けたものは何だったのかというテーマである。

偉大な父達が築き上げた一時代。そのあとを生きる次の世代たちがどのように自らの人生を切り拓いていくのか。挑戦する人生を選ぶのか選ばないのかという選択も含めて、これはまさに、現在を生きる我々が直面している大きな難問である。
経済的も一定の豊かさを手に入れた現在。
貧しさからの復興を目指してがむしゃらに働くことが人生の最大の目的として生きてこれた時代は、既に過去のものになってしまった。
人生の哲学思想を真剣に求めたのも、いわゆる親世代の人々だったのかもしれない。
その時代の人達が、子ども世代に「自分達のように生きろ」と訴えても、原体験を持たない次世代の若者達はどこまで我が事として実感し、実践することができるのだろうか。
時代を超えて積上げてきた経験や哲学を継承すること、後継者を育成することは現代を生きる私達にとって最大の課題である。

同じタラス・ブーリバの子供であっても、同じよう接した(と親世代としては思っていた)二人の息子、オスタップとアンドリイの人生は、明白に分かれてしまった。
それも180度もの違いを見せて。
その違いは、どこで、なぜ、生まれてしまったのであろうか。
私たちが『隊長ブーリバ』から学ぶことのひとつが、こんな視点にもあるのではないだろうか。

2008.1.25【ウィーン・オペレッタ管弦楽団を鑑賞】

20080124_1 1月24日(木)にウィーン・オペレッタ管弦楽団の演奏会を鑑賞した。
東京・池袋の東京芸術劇場で行われたMIN-ONニューイヤーコンサート2008と銘打たれた全国ツアーの一環である。
恥ずかしながら、オペレッタの鑑賞は今回が初めてである。

感想...楽しかった(^_^)v
開演直後の挨拶では、日本語を交えるなど観客への配慮もうれしかった。
演目はなかなかの充実ぶり。ヨハン・シュトラウスU世による作品が半分ほどを占めていた。
次々と演奏され、声楽家による歌や男女カップルによるダンスも素晴らしい。歌の意味がわかると、もっと楽しいんだろうなぁと思いながら、演じる役者のその表情やパンフレットの説明などからも充分楽しむことができた。

第二部の冒頭では世界初演となるワルツ『旭日』が披露された。池田大作博士の80歳の誕生日を祝う祝福の思いを込めて創作されたとのこと。こうした純粋な思いがひとつの作品に凝結されるということも音楽の素晴らしさだと感じた。
最後にみんなで「にっぽん!」と叫ぶ『日本ポルカ』もよかった。事前に練習していたのにも関わらず、ダンスの演技を見とれていて声を出すのがちょっと遅れてしまった(失敗、失敗^^;)。
演奏時間は休憩時間をはさんで1時間半を超え、最後は3回もアンコールに応えてくれた。
ジークフリート・アンドラシェック氏の指揮に合わせて会場の聴衆である私たちが拍手で演奏に参加。パーカッションの音にあわせて観客全員が自然と拍手を始めていた。場内が一体になったのは、管弦楽、クラシック音楽の演奏会では初めての体験だった。
感動した。

多くの人々にもこうした演奏会を体験してもらいたい。
とくに、こうした機会に恵まれない地方在住の方や子供たちに。
音楽がこんなに素晴らしいということを知れば、みんなもっと音楽が好きに、そして心も豊かになるに、違いない。

【関連リンク】
民音(民主音楽協会)
東京芸術劇場

2008.1.20【第17回黎明塾『新製品の開発』】

1月12日(土)に第17回目の黎明塾を開催しました。
今回のテーマは『新商品の開発』。

企業や事業主体となる経営者が、市場の細分化分析を行ない、標的顧客を明確にし、その顧客ニーズを的確に把握する。そのうえで市場における自らのポジショニングを決定したならば、いよいよ新しい商品の開発プロセスに着手することになる。
今回学ぶ内容はそのステップである。
私たちが目にする企業には、こうした手順を短時間で確実に仕上げているところもある一方で、結論を急ぎすぎたり直観的な商品開発をしている企業も少なからずある。
またこれらのステップを踏んだとしても必ずしも開発した商品が収益を上げるという確証もないのが現実である。
しかし、だからこそ今一度「新商品の開発」とはいかにあるものなのかを学んで欲しい。

【実施内容】
http://www.prosecute.jp/reimei/017.htm

2008.1.18【民主党が“違法ビラ” 問題はその後の対応だ】

民主党が揮発油税の暫定税率廃止を訴え配布した政策ビラが違法行為を呼びかけるものであったことが報道されている。
民主党はガソリン税の暫定税率の廃止を今国会の主眼に据えて、「ガソリン値下隊」で全国遊説をはじめたばかり。
問題のビラには「『やめるべきだ』とお考えの方はこのチラシをフロントガラスに貼って下さい」と記載されている。道路運送車両法で、自動車のフロントガラスには検査標章や保険標章を除いて通常のシールやチラシなどを貼ることは禁止されている。
自動車に関わる仕事をしている人なら常識的な知識だ。
このようなことも知らない人達が法律を変えようとしているのか。民主党の素人政治家ぶりは今更のことではないので「またか」というのが正直な感想だ。

しかし問題なのは、そのあとの対応だ。
民主党役員室のコメントとして「業者が作った原案の段階のものを誰かが配ったのかもしれない。最終的に問題のある個所は削除した」という発言が報じられている。
なんと無責任、責任転嫁の体質なのか。
どこの業者がそのような文言を、クライアントである民主党の指示もなしで勝手に作ってくるというのか。
弊社でも広宣物の製作を請け負う者の1人として、そんなことは絶対にありえないと断言しておきたい。
「『やめるべきだ』とお考えの方はこのチラシをフロントガラスに貼って下さい」などという文言は今回の民主党の運動方針そのものから発生した具体的行動案、しかも法律がわからない民主党議員の中ではおそらく中核の柱になっていた行動案、キャッチコピーであっただろうことは、誰が考えても容易に想像がつく。

仮に、百歩譲って、業者が作ってきたとしても「チェックが漏れた」ということではなく、「これ、いいんじゃない」と言って喜んで配っていたのだろう。
街頭で配られるまでに目にした民主党関係者の誰一人からも「ちょっと待って」という声が出なかったという程度の低さ。
「値下げ隊」で回っている若手議員さえも内容を見ていないと言い張るのなら、内容も確認しないものをよくも国民に配れるものだ、と言いたい。

このビラそのものの問題もさることながら、こうした事態ひとつひとつにその人達の本質が浮かび上がってくる。
庶民の私たちは、真実を見極める目をしっかりと持ちたい。

【関連記事】民主党が“違法ビラ”、慌てて回収 ガソリン税引き下げめぐり(産経新聞)

2008.1.10【社会的悪の象徴・迷惑メール】

総務省から迷惑メールによって国内企業が受けている年間損害金額の試算が発表された。
その総額は7000億円。このほか迷惑メール対策のシステム開発導入や対策ソフトの購入費が別途1000億円としている。
これらの金額には迷惑メールによるウィルス感染による被害等は含まれていない。
実際の被害はこんなものではないだろう。肌感覚では実被害だけでも数倍あるように感じるが、精神的損失額は数十倍だろうと思う。

未成年を含めて迷惑メールを受け取る庶民大衆の感情の変化が最も怖い。
そのひとつが感覚の麻痺だ。迷惑メールが送りつけられ始めた頃と比べて、受け取る側の感覚がどんどん麻痺していくのだ。また麻痺させていかないとまともな感情をコントロールできないほど毎日大量に送りつけられてくる。いちいち反応していたら、その削除だけでも時間が多大に浪費され、気持ちもどんどん荒んで憂鬱になってくる。
現状では、無視するのが最も価値的な対応になっている。

こうした他人の迷惑を何とも思わない愚劣な輩が雨後の筍のごとく存在するという事実を、これから社会に巣立って行く子どもたちはどのように受け止めてしまうのだろうか。
「社会にはこんな連中がたくさんいるんだね」
「しかたないよね」
「ろくでもない奴らとは関わりあわないのが一番だよ」
こんな風に思う体験をした現代人が、人との友好的な関係を築くことが難しいと感じるのは私だけではないだろう。
迷惑メールが諸悪の根源だとまでは言わないが、社会悪の一角をなしているのは紛れもない事実であることを私たちは深く自覚しなければならない。

抜本的なシステム対策を求めることと同時に、迷惑メールを送りつけるような卑しい人間の心根を変えていく地道な努力を続けていきたい。

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