プロセキュートHATAさん日記
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2009年12月30日 (水)【第56回桂冠塾 『怒りの葡萄』(スタインベック)】

11月21日(土)に56回目の桂冠塾(読書会)を行ないました。
今回のテーマは『怒りの葡萄』(スタインベック)です。

時代は1900年代前半、舞台はアメリカの開拓地域です。
開催案内で触れましたが、個々の庶民の生活と、社会状況の描写が各章毎に交互に描かれていきます。
⇒ 第56回桂冠塾・開催内容
主人公は、ジョード一家。オクラホマの荒廃していく農地に住む農民一家です。
ジョードは一家の長男で、刑務所を出てきたところから物語が始まります。

ダストボウル(土地の荒廃による砂嵐)に襲われていた一家は、資本家による土地の巻き上げ、大規模化によって住む家を追われ、新天地カルフォルニアを目指して大移住の旅を開始します。

様々な出来事に一人ひとりの心が大きく揺れ動きますが、それでもカルフォルニアに到着します。しかし、ジョード一家をはじめ移住してきた多数の元農民を待っていたのは低賃金の労働、悲惨な住環境。それでも仕事があるだけでも運がいい。夢破れた多くの移住者は、更に条件の悪い仕事に追い込まれていく。

そんな状況下で貧しい者同士が集まり始める。
象徴的に2つの集団模様が描かれる。
ひとつは国営キャンプを舞台に互いを助け合い、共同生活をおくる姿。
もうひとつは、貧しい者の集団のなかで更に階級が生まれていく姿だ。自分の利益を確保し他人を多少踏み台にしてでも、よりもよい生活を送ろうという姿は、現在の社会でもまったく同様といえるかもしれません...。

現在、世界が見舞われている「100年に一度」といわれる経済恐慌。
1929年に始まりましたので正確には80年前になりますが、この世界恐慌がこの作品の時代背景にあります。
スタインベックが描く資本家や事業家の姿勢には「悪辣さ」しか感じさせません。
ポンコツ同然の中古車を買い付けて、修理したように見せかけて無知な庶民に高く売りつける。
金払いの良いトラック運転手にはサービスをするが、単価の安い食べ物しか買わない移住者はさっさと追い払うスタンドカフェの経営者。
これが当時の経済活動の真実だったのかどうかは判然としませんが、少なくともスタインベックにとっての真実であったことには間違いがない。
そもそも、ジョード一家移住の発端となった従業員募集のチラシすら詐欺まがい。本当に必要な人数の何倍も人が集まるように大量のビラを撒く。仕事に対して求職者が多くなった状態を作っておいてから賃金と住居環境を低くたたく。「この条件でいいなら雇ってやるよ」というスタンスだ。多くの元農民は家も土地も手放して移住してきている。いまさら元の棲家へ帰ることもできない。経営者のいいなりに悪条件で、うまいように酷使されていく。

自治体政府の対応も微妙に変化していく。
当初は生活を助けるために援助をするが、次第に人数が増え、経済的負担が増していくと元々の住民から不満が噴出し始める。
徐々に援助は削減され、最後は駆逐する動きに転じていく。

移住した住民が純粋かといえば、必ずしも、そうではない。
銀行家が土地を巻き上げて大規模化をする。手助けになるとわかっていても日払いの賃金欲しさにトラクターの運転手の職に就く。
移住途中のロードサイドのガススタンド。
店主が気が弱いとわかると、ガソリンをタンクいっぱいに入れて、ガラクタを代金がわりに置いていく移住者一家もいる。
当たり前かもしれないが、庶民だから正直だ、というわけでは、ない。

作品全体の構成は、旧約聖書『出エジプト記』のプロットをなぞっているのは多くの研究者が指摘している点だ。ほぼ完全に一致しており、スタインベック自身も認めるところだろう。さしずめジョードはモーゼとなり、横暴なエジプト王とその王政は銀行家や地主、アメリカ国家というところだ。
しかし、「出エジプト記」で描かれる新天地を求める旅と、当時の農民移住が同じ次元で取らえるべきなのかどうか、個人的には甚だ疑問を感じざるを得ない。

時代がかわっても、起こってしまう不幸は何も変わらない。
解決策など、何一つ生まれていないのではないかと思わざるを得ない状況だ。
作品の最後のシーン。
そんな夢も希望も潰えたかに思えた時に、新しい生命が誕生しようとする。
スタインベックは、この子供たちに未来への一縷の希望を託そうとしているかと一瞬読者に思わせたかったのだろうか。しかし、この子どもは死産する。
惨憺たる気持ちになったところで、突然結末を迎える。読んでいると残りページ枚数が少なくなるので終わりが近づいているのはわかるのだが、唐突という感が否めない。

洪水で孤立した丘の上の納屋で餓死しかけている父子。その父親に死産を経験したローザシャーンが自分の母乳を与えて生命を繋ぐというシーンでこの物語が終わる。
日本語訳者である大久保康雄氏はこのシーンを評して
「これこそ人間がいかなる苦難にも耐えて生きていく象徴的な姿と見ていいのではあるまいか」と言う。
「虐げられ、苦難の果てに追われた人間たちにも、なお滅ぼし得ぬ最後のものは、生きようとする本能的な力だ、ということを、スタインベックは、ローザシャーンの微笑を通して我々につたえようとしているのである」とも記述している。

果たして、そうだろうか?
確かにスタインベックが伝えようとしているメッセージは、その通りであるかもしれない。
しかし、この姿をもって「人間がいかなる苦難にも耐えて生きていけるのだ」と主張することには違和感を感じてしまうのだ。

そもそも、苦難とは何のためにあると考えるべきなのか?
そして、その「苦難」には耐えるしかすべがないのだろうか?

もしそうだとしたら、人間の一生とはなんとも苦しいものだと私は思う。耐えて、耐えて、一生を終えるしかない。
逆説的に見れば「苦難がない人生が素晴らしい人生だ」となってしまう。
しかし、本当にそうなのだろうか?
そうだとしたら「苦難は忌むべきもので、避けて通るべきだ」という人生が必然的に出てくるが、それはそれでいいのだろうか?
事実、現代人の生き方を見ているとその方向に向かっているように感じる。

私が思う「苦難」の受け止め方は、180度、違うものだ。
苦難があるからこそ、自身の生命が鍛錬される。
苦難とは、自分自身が「いやだな」と受け止めてしまえばマイナス要因になるが、「これを乗り越える力を発揮してみせる」と挑戦すれば、まだ発揮していなかった自分自身の可能性を開花させる絶好の機会(チャンス)になるのではないかと。

人間の筋力やスポーツに置き換えるとわかりやすいと思う。
自身の筋力を高めるには現在の耐力の1割増程度の負荷(ストレス)をかけることが必要だ。スポーツにおいても自分が修得した技術だけ使っていたのでは新しいテクニックは身につかない。新たな挑戦をし、苦しいトレーニングを乗り越えてこそ、新境地に達することができる。
そのレベルに達してみれば、苦しいと思っていた状況もその後は楽々と何度もクリアできる。
人生においても、生命の鍛錬という次元においても、同様ではないかと思うのである。

しかし多くの人にとって、苦難は、やはり忌むべきものであり、耐え忍ぶものである。
この点における発想の転換が重要であると感じる今日この頃である。

スタインベックの『怒りの葡萄』から「苦難論」になってしまったが(^_^;)
奇しくも、当時と類似した経済恐慌の時代を迎えている現在である。
自身の、そして社会の転換を果たす急所を見つけるべく、語り、行動することも、この作品を読む価値のひとつではないかと思う次第である。

【関連リンク】 第56回桂冠塾・実施内容


2009年12月18日 (金)【年収2千万円で最終調整?! 「子ども手当」所得制限】

民主党政権の迷走ぶりは毎日取り上げてもきりがないので、触れる時間が惜しくて書かないことにしている。
が、なんだろうこの感覚は?
子ども手当ての財源を一部地方負担にするだとか、所得制限をもうけるだとか、制限するくせに扶養控除廃止は撤回しないだとか...。
挙句の果ては制限する所得金額が「年収2000万円」?
正直、見た瞬間、記事を書いた人の入力ミスかと思った。
「いったいどんな生活しているんだ?民主党の連中は!」
こんな声であふれかえっている。
当然の声だ。
いま、国民の多くが年間いくらで生活しているのか、わかっているのだろうか。

元々何がしたくて所得制限を言い出したのか。
所得2000万円で制限してどれだけ財源を抑えられるというのか。
そもそも世帯所得をどうやって正確に割り出すのかという問題も明示されていない。
こういうのを「迷走」というのだ。
こんなことをやるくらいなら、扶養控除を今のまま継続させて従来の児童手当を拡充させるほうが、ずっと理屈に合っている。
日本国民の生活がどんなものなのか、わからない輩にいつまで私たちの政治を任せるのか。
長年の自民党政治を覆したあとの選択としては、できるだけ民主党に政治をやらせてみたい。それが偽らざる国民の本音だろう。
実際問題として、民主党を退場させたとしても、次の政権を任せるべき器も思い浮かばない。
今の政治家、政党は、心底よくよく反省すべきだ。
言い換えれば、国民が任せるに足ると思える政党があれば、今すぐにでも政権を任せてくれる。それが日本の政治の悲惨な現状なのだ。
そんな政党がひとつもない。
それが国民の本音なのではなかろうか。
しかし、それでも、苦渋の選択をしなければならない、難しい局面を迎える時が、そう遠くないのかもしれない。

【関連記事】
年収2千万円で最終調整 「子ども手当」所得制限(朝日新聞)
子ども手当、年収2000万円上限 政府調整、与党に引き下げ案(日本経済新聞)
子ども手当、所得制限は「2千万円」で最終調整へ(IbTimes)


2009年12月11日 (金)【対処法はあるのか 《問題が発生したため、プログラムが正しく動作しなくなりました》】

1ヶ月ほど前から急に頻発するようになったエラー。
それが
「問題が発生したため、プログラムが正しく動作しなくなりました。
プログラムは閉じられ、解決策がある場合はWindowsから通知されます」
である。
※もちろん、解決策が通知されたという話は、誰からも聞かない。

ネット上で相当数の質問が記載されている。
その質問に対する回答は殆ど用を為していない。
私が確認する限り、OSはWindows Vista のみ。
原因は、Vista自体が持っているに間違いないと多くのユーザーが思っている。

とにかく、何のソフトで作業していても、発生する。
現在エラーが出ているパソコン自体は購入して9ケ月ほど。
特に大きなシステム変更や追加もしていない。
普通に(何が普通なんだ?といわれると説明が難しいが^^;)仕事で使っている。
エラーはある日に、ポンッと発生し、それからほぼ毎日発生するようになり、次第に増えてきただろうか、今は一日に何度も連続して発生するようになった。

ネット上の回答は、こうした事態に直面したことが無い人達からの書き込みばかり。
体験者の切実さも臨場感も、もちろんない(それは当然だ^^;)。
おそらくエラーを経験している人は、効果がある対策がなくて書き込みすらできないのだと思う。
「該当のアプリを再インストールすればいいじゃないか」という対処法が多く書かれているが、その度ごとに再インストールしても、その直後からエラーは発生する。
「システムの復元」をせよと書いている人もいるが、もちろんそんなことでは回避できない。
複数のファイルを関連付けて作業するアプリや、複数のアプリを並行して使用する際に発生しやすい気もするので、仮想メモリの割り当てを様々変えて試してみたが、効果なし。
ディスクのエラーチェック、最適化。これもやってみたが全く意味をなさない。

Microsoft社は原因を解明して、根本的な解決のための修正モジュールをいち早く配布すべきだ。
それとも、Vistaに起因しないという自信があるならその根拠を公表してはどうだろうか。


2009年11月30日 (月)【政府与党 民主党の国会運営に疑問が噴出】

衆議院本会議は今日11月30日で会期が切れる開催期間について、12月4日までの4日間の小幅な延長を決定した。
この4日間で、まだ衆議院にも提出されていない日本郵政グループの株式売却凍結法案などの政府提出法案を審議して成立させるつもりだと報じられている。
いま、国民の関心事になっている事案など審議するつもりなど全くないということだろうか。

そもそも郵政会社の株式売却凍結が、現在の日本が直面する最重要課題なのだろうか。この政治感覚は、まったく信じられない。
21年度予算のために行なわれた事業仕分けの是非を論じることもない、数億円という前代未聞の政治資金不正問題について行なわれるであろう党首討論にも消極的。
それ以上に問題とされるのが、急激に進行した円高不況の脅威だ。
ひとつだけでも大問題である事項がいくつも噴出している中で、政府与党、民主党政権は何も手を打たないつもりなのだろうか...。

政権交代後100日間は「ハネムーン期間」だといわれることが多い。
しかし、である。
あまりにも限度を超えているのではないだろうか。
ネットで話題になっている興味深い動画をみつけた。
民主党のダブルスタンダードを見よ! 動画『鳩山由紀夫vs.鳩山由紀夫』が面白い
かつて民主党は「ブーメラン政党」と揶揄されていた。
これは民主党に限られたわけでもない気がする。
しかし政権交代後の数々の言動を目の当たりにすると、やっぱり「ブーメラン政党」なんだと感じざるをえない。

【関連リンク】
国会:会期4日間延長 自民反発、審議拒否を継続(毎日新聞)
民主党のダブルスタンダードを見よ! 動画『鳩山由紀夫vs.鳩山由紀夫』が面白い(デジタルマガジン)
よく分かる“鳩山システム”。鳩山総理を偽装献金で捕まえるには鳩山総理の許可が必要(Livedoorニュース)

2009年11月27日 (金)【肝炎法案が衆院通過 本当に推進したのは誰なのか?】

12月26日午後の衆議院本会議で「肝炎対策基本法案」が全会一致で可決され、参議院での審議に送られた。
今回の法案は基本法であり、今後具体的な施策を実現していかなければならないが、大きな一歩前進を果たすことができたと感じている。
一貫してあきらめることなく訴え続けてきた薬害肝炎全国原告団代表の山口美智子さんをはじめ原告団の皆様、薬害肝炎と戦っている皆様にエールを送りたい。

ただ、メディア報道を見ていて、正直な気持ちとして違和感を感じたのも事実だ。
肝炎対策については長い年月の間、政治が着手することはなく、2008年4月に始まった治療費助成制度や、同年1月に成立した薬害肝炎救済法の制定から大きく動き始めたという苦い経緯がある。
今回の「肝炎対策基本法案」はその延長上にあり、通過点のひとつだ。
しかし、メディア報道では民主党の新人議員(福田衣里子衆院議員)にばかりカメラが向いていた。
実際のところ、民主党は肝炎対策には積極的ではなかったし、今後の姿勢も不透明だ。個人的な意見としては、福田衣里子氏がなぜ民主党公認で衆院議員選挙を戦ったのかさえ疑問に感じている一人である。
今回の基本法案も、本来であれば政府提案すべき重要な法案である。厚生行政の負の遺産という側面も強いからだ。
しかし、与党民主党が積極的に動くことはなく、自民・公明の両党による法案提出によって、昨日の可決に至ったというのが実態である。

たしかに全国肝炎訴訟の原告団というプロフィールを持つ新人で年齢も若い女性議員というのは、メディア受けもするのだろう。
しかし、報道というものは、事実の本質を誤認識するようなストーリーを作るべきではない。また視聴者が暗に誘導されるニュアンスも許されるべきではないと思う。
本当に汗を流し、庶民のため、社会的弱者のために尽力している人達を正しく認める社会、そして私達一人ひとりでありたい。


2009年11月24日 (火)【教学部初級試験・青年部教学3級試験 学習のために】

いよいよ11月29日(日)に平成21年度教学部初級試験・青年部教学3級試験が行なわれます。受験する皆様、頑張って下さい。
学習のために作成した問題集をアップします。
今までも試験のたびに地域での学習のために作成してきましたが、試みに公開してみようと思います。
多少でもご活用いただければ幸いです。

【掲載ページはこちら↓】
2009年11月実施 教学部初級・青年三級試験 仕上げのための問題集

2009年11月12日 (木)【日本を方向づける重要な作業「事業仕分け」 玉石混交の実態】

昨日11月11日から政府与党の行政刷新会議による「事業仕分け」が始まった。
来年度予算95兆円から削減を目指して「447事業」がピックアップされ、3つのワーキンググループに分かれて9日間「査定」が行なわれる。

こうした国レベルの事業見直し過程が国民の公開される形で進むのは画期的な出来事である。「事業仕分け」の手法自体は民主党政権が独自に編み出したものではない。国政レベルでは海外で先行事例が多くあるが、国内においても数年前から一部の地方自治体で実施されており、数十億円単位で削減効果を挙げている。
国政レベルにおいては、自公政権時代に始まった手法でもあり、いわゆる「埋蔵金」が明らかになる一端にもなった。しかし、その全過程が傍聴希望者やインターネットで見ることができるのは自公政権時代には実現できなかった。
その意味で政権交代した意味は大きい。
※希望を言えば各人の表情がわかる程度に、もう少し鮮明な映像配信にしてほしい。

その一方で、随所に稚拙といわざるをえない対応が見られている。
「危険」と言い換えたほうが正しいといえるかもしれない。

国家レベルの事業の成否を1時間で結論づけることの是非。
もちろん族議員や既存権益で続けてきた事業も少なくない。その一方で、何年も十何年も様々な角度から検討して実施してきた事業もある。少なくとも仕分け人がこの場に臨むにあたり、関係者や専門に研究してきた人達や事業に携わってきた現場を検証するという前工程が必要ではないか。それがなされたという印象は、限りなく薄い。

仕分け対象に選定された447事業と対象とされていないその他の事業の妥当性も重要である。
なぜ今回の447事業なのかという説明は全くなされていない。
どのような基準で、どのような評価軸で事業を選択しているのか。もしそのような基準がなくて選んでいるとしたら、早急に評価シートを作成公開し、全事業にわたって「事業仕分け」の対象にするかどうかの評価作業を実施すべきである。

各事業の見直し作業の開始時に必ず財務省の主計官が方向性についてコメントしている点も、よくないのではないか。
薬価見直しという医療の基幹をなす見直しにあっても「先行医療薬の価格をゼネリック(後発)薬の価格に近づける」という主計官の発言から始まり、各仕分け人もその方向の発言が目立った。奇しくも仕分けメンバーの一人でもある厚労省の担当者が指摘したように、そんなことをしたら後発薬を買う人などいなくなってしまう。ゼネリック薬品メーカーは倒産してしまうのではないか。明らかなミスリードである。
さらにいえば、先行薬を開発した薬品メーカーの開発費を本当に回収できるのかという見通しなど、仕分け人の発言からは、全く感じられない。
率直な印象として「財務省の意向に引きづられている」「もっと多角的な検証をできるように勉強してきて下さい」と感じた人が多かったのではないか。

仕分け人の研鑽不足という意味では、他の場面でも気になった。
道路行政に関しての国交省とのやり取りだ。
まずそもそも「道路事業にはまだまだ無駄が多い」などという総論だけで何とかなると思っていたのだろうか。国交省担当者は「既に来年度概算要求の時点で新規着工の凍結などで前年比20%削減を実施している」と説明。まさか仕分け人はこのことを知らなかったわけはないと思うが、その後のやり取りは、明らかに国交省ペースであった。
総論でなんとかなるのならば、公開で事業仕分けをする必要もないだろう。
具体的な「事業のここの箇所」というふうに仕分け人が事前に精査した結果を提示して廃止や見直しを検討すべきであることは言うまでもない。

議論の最中に特に気になったのが、事業関係者への仕分け人の「態度」だ。
一例をあげて申し訳ないが、蓮舫議員はその代表例だろう。
短時間で結論を出すという制約の中で使命感を持って臨んでいるのはよくわかるが、人の話はよく聞くべきである。自分が聞きたいことだけを聞いて結論を出すというのは誤った結論を導く最も典型的パターンだ。「結論まずありき」もしくは仮説を裏付けるためのやり取りだと考えているとしたら、即刻考え方を修正しなければならない。
一人二人の担当者が広い分野にわたる突然の質問に的確に回答するのは至難の業である。これが蓮舫議員自身が「答える立場」であっても同様に右往左往する場面があるはずだろう。そうした状況の中で「データを把握していないから答えられないだろう」と攻め立てるのは、尋常な感覚の人間の発言ではない。単なる言葉によるいじめそのものである。
そんなことを言うくらいならば、事前に「○○について問い質しますので必要なデータを確認して資料を持参して回答して下さい」とアドバイスするほうが、ずっと国民国家の利益に資すると言いたい。
今の仕分け人の態度は傲岸不遜そのもの、独裁政治のにおいすら感じてしまう。
すくなくとも「民主」党の看板を掲げているのであれば、民主の原則を踏み外さないでほしい。
あくまでも、人格ある相手に対しての最低限の敬意を忘れないでほしいと思う。

全般を通して「仕分け人」の資質も非常に気になる。
そもそもどんな基準で仕分け人を選んだのか。
国民新党からクレームに近い申し入れがあると、代替案として国民新党から仕分け人を1名追加するなど「言った者勝ち」。
このままでは無法地帯にもなりかねない。
あくまでも主権在民である。
国民の意見を代表、代弁する仕分け人でなければならない。

※一例をいえば、よく「経営者の代表としていかがですか?とふられたり、ご自身が「経営者の立場から発言しますが」等の発言も出てくるが、私も経営者の一人として聞いていても「それはあなた個人の意見でしょ?」と感じる発言も耳につく。その人の発言が必ずしも「経営者」の多数の意見を代表しているのか疑問もあり、正反対の意見が主流では?という発言もあった。質問をする前提として「正確に事業を把握しておいて」といいたくなるような質問も少なからず、ある。
その現実的な対応をどのように具体的に反映できるしくみにするのか。仕分け人をめぐっては大きな課題が浮き彫りになったといえるだろう。
※本論からそれるが「市場原理主義者だ」「外国人だ」という理由で公然と仕分け人を差し替えようとする姿勢に背筋が寒く感じるのは私だけではないだろう。

こうした事業仕分けによって出された結論も、どのように活かされるかも不透明だ。
前述したように、果たして本当に本質を見極めた結論なのか、疑問符がつく箇所も目に付くが、この結果が参考程度にしかならないとしたら、結果的には従来とほとんど変わらないだろう。
鳩山首相は、事業仕分けの結論は総理大臣の発言と同じくらいの重みがあるという趣旨の発言をしているようであるが、この人は、抽象論というか、精神論にとどまる発言が、実に多い。まさか「鳩山総理自身の発言が軽いので事業仕分けの結果も軽い」とブラックジョークを言っているわけではないだろう。
総理大臣と同じ重みというのであれば、法的整備を早急に行なうべきである。言葉だけで国民を煙にまけると思っているとしたら言語道断である。

まず今回の実施分については、事業仕分けの結果の妥当性の検証も含めて、公開された議論のステップを明示し、国家の方向性を間違わないように、正しくリードする政府であってもらいたい。
そして、今回の事業仕分けをスタートと位置づけて、今回実施内容のよい部分と悪い部分を検証し、修正して、継続的恒久的な事業見直しのしくみを確立することを念願している。

【関連リンク】
行政刷新会議ホームページ
行政刷新会議ワーキンググループ日程・ライブ中継サイト
社説:事業仕分け開始 国民が「劇場」の監視役だ(毎日新聞)
7項目500億円分に「廃止」 事業仕分け初日(朝日新聞)
【事業仕分け】蓮舫氏に「私の話も聞いて!」と声を荒げた女性は(産経新聞)
【事業仕分け】さながら“公開裁判” 危うき事業見直し(産経新聞)
事業仕分け 飛び交う怒声、矢継ぎ早の質問に官僚も反撃(産経新聞)


2009年11月11日 (水)【第55回桂冠塾(読書会) 『誘拐』】

10月の桂冠塾は本田靖春作『誘拐』を取り上げました。
日本におけるノンフィクション作品の代表格とされることもあるので作品名を聞いたことがある人も少なくないかもしれません。
作品のテーマは「吉典ちゃん誘拐殺人事件」。
日本中を震撼させた身代金目的の誘拐事件です。

ブログのアップが遅くなりましたが、そのまま掲載します。
※開催日は10月25日(日)でした。

東京オリンピックを翌年に控えて活況を呈していた昭和38年3月31日。年度末を迎えた東京都台東区入谷。上野や浅草にもほど近く、戦後復興の名残が色濃く残っていた下町の片隅の公園で誘拐事件は起こった。
『誘拐』はいわゆる推理物や勧善懲悪ものではない。
ましてや週刊誌のような興味本位ののぞき趣味や告発本でもない。
本田氏の視点は誘拐犯であった小原保の側にも立ち、被害者家族の立場にも立つ。小原の家族親族の側にも立ち、当然のことながら捜査陣の側にも立つ。その視点の複合性が作品の深みと広がりに繋がっている。

作品の流れは、事件の経過と平塚八兵衛による再捜査と小原保の自白に至るストーリーをメインとして、小原保の人生が織り込まれている。
誘拐は許されがたい凶悪犯罪である。
この事件に至っては誘拐直後に吉展ちゃんは殺害されている。
情状酌量の余地がない事件である。
それでも、私は小原保の生い立ちが綴られた文章に惹きつけられていく。

恵まれない僻地に、極貧の家庭に生まれ育つ。親族は心身の障害、兄弟の死産や死亡など、不幸な運命に翻弄されてきた。そんな状況の中でちょっとしたあかぎれから足の不自由な身体障害の身になってしまう。
貧しい土地地域の中でも更に差別視されてきたその幼少時代に、小原保の情操はどのように形作られたのだろうか。想像するだけで胸がしめつけられるのは私だけではないと思う。

私は、そしておそらく少なからずの読者は、なぜ小原保の来し方に気持ちがさざめき動くのだろうか。
小原保の話は特異な事例では決してないと思う。
少し話がそれるが日頃感じていることを綴っておきたい。、

小原保が生まれ育った環境は、日本人の大半がおかれているごく一般的な環境であろう。もっといえば国は違えども、世界各地で同様の環境の中で多くの庶民が生き抜いてきた。その環境とは、厳しい自然環境であり、貧富の差を大きくしてきた社会環境である。
その思いは、古今東西の様々な文学作品を読むにつけ、確信になっている。
人間が生存のための生活を営みはじめた大古の昔から、「貧しさ」は大きなテーマであった。ロシアでもアメリカでもイギリスやフランス、中国や日本。どの地域が舞台であっても、多くの古典名作には、厳しい自然に耐えながら、家族を守り、愛し、裕福になった者からの差別に虐げられながら、病気に苦しみながら、貧しさと戦い続ける庶民が描かれている。
貧困とは昨日今日始まったことではない。
人間が生活を形成しはじめた当初から、「貧しさ」は厳然と存在し続けるのだ。

東京オリンピックの前後の時代が、特別だったわけではない。
ただ、高度経済成長のこの時代だから、はっきりと際立ったということはあるだろうと思う。世間で「人間疎外」だとか言われ始めたのは、それからしばらく後の時代になってからである。ルポルタージュ等のノンフィクション作品の必要性は、事実を書き残すという使命に加えて、様々な視点から事実に迫ることで、より実像を明らかにするという側面を有しているにもあると、私は思う。

「動機なき犯罪」などと報道される事件が増えてきているようにも思う。
確かに直裁的な面だけをみれば、衝動殺人とか行き擦りの犯行、安直な犯罪などが存在するのは事実だろう。
しかし、そうした行動においても、必ずその行為に至る理由があるはずだと私は思う。原因結果の関係はどこまでも存在する。
その視点からものごとをとらえていくことが、すべての解決のための出発点ではなかろうか。
そんなふうに思うのである。

『誘拐』における作品としての評価には、ひとつ二つの視点に偏らない考察が読者の支持を受けたという面もあるのだろう。
それでも、その後に判明した事実や時代の変化の中で、今読み返してみると更なる視点の広がりがほしいと感じる面もある。平塚八兵衛に事件解決の功労が集約されている感などは、その代表例といえるだろう。
これは、ノンフィクション作品の持つ難しさである。宿命とも言えるかもしれない。

私たちは何のために生きるのだろうか。
なぜゆえに「貧しさ」が存在し続けるのだろうか。
貧困に象徴される厳しい環境に打ち勝つことができず、敗北する人生。
そして悪環境を乗り越える代わりに、犯罪行為に逃げ道を求めてしまう生き方の選択に、事件の哀れさと本質の一端を感じるのだ。
環境に負けるな。
自分にとってマイナスと思える環境をも、成長の糧へと転換するのだ。
そんな思いで生きていける自分でありたいと感じる毎日である。


2009年10月19日 (月)【そもそも、スタートが間違ってはいませんか?】

ここしばらく政治の話題を書かないで静観してきた。
意見を述べるには、現在の政治状況があまりにも稚拙すぎると感じているからであるが、昨今の状況に一言だけ。

民主党政権が始まって「マニフェストの在り方」がよく俎上に上っている。
いわく
・マニフェストに書いているので断固実行させていただく。
・赤字国債発行を増やさないという国民の意思があれば、マニフェストに盛り込んでいても実施しない選択肢がある。
・アメリカとの関係の中で変化する微妙なこともある。
・マニフェスト至上主義はよくない。
・初めて政権を担当するんだから多少のことは大目にみてやろうよ...等云々。

特にテレビの報道番組とかのコメンテーターの及び腰というか、何かと民主党を擁護する発言には驚かされている。
何か変じゃないのか?と私は感じる。

そもそも、議論されている「マニフェスト」がろくでもない代物ではないのか?
自公政権との違いを強調するために実行性を考えずに票取りのために刺激的な公約を盛り込んだ。
財源の裏づけもない。
政策間の整合性もなく、矛盾だらけ。
関係者との協議もないまま、一部のスタッフだけが考えた。
確固たる哲学、政治思想も何もない。

そんな思い付きの域を出ない名ばかりのマニフェストだったとしたら、現在のような状況になったとしても合点がいくというものである。
そんな耳障りのよい項目をマニフェストに並べて選挙で政権交代を訴えた民主党。
それを「良し」として選択を行なったのは、他ならぬ日本の有権者である。
財源確保は無理ではないのか?との批判が何度も行なわれたにも関わらず、である。
民主党マニフェスト実行が稚拙に失敗して負債をおおきくするような事態になれば、民主党を擁護していたマスメディアの連中は、どうするのだろうか。少なくとも自公政権打倒で激しく世論をあおる発言を続けてきた、古館、鳥越両氏あたりは正視眼で自己批判をしてもらいたいものだ。
いま、そのツケが浅慮な国民にまわされてこようとしている。
そんなことになっていなければいいのだが。


2009年9月30日 (水)【第54回桂冠塾 『人類の議会』(ポール・ケネディ)】

9月26日(土)に今月の桂冠塾(読書会)を開催しました。
今回取り上げた本はポール・ケネディ著『人類の議会』です。日本語訳は上下2巻で日本経済新聞社より発刊されています。

9月15日から30日まで国連(国際連合)の第64回年次総会が開催されている。
国連の年次総会は毎年9月に開催され、各国の代表がそれぞれの立場から独自の主張が繰り広げられる。
華やかで全世界の注目を浴びる最高の舞台であるが、議決権をもたないのが総会の特徴でもある。
今回は、「核のない世界」をアピールするオバマ・アメリカ大統領の発言に注目が集まった。一人の偉大な決意が、二人、三人と波動を起こすことを信じたい。

著者のポール・ケネディは1945年イギリス生まれ。イェール大学歴史学部教授、同大学国際安全保障研究部長。国際関係論の世界的権威で現代最高の歴史学者として知られる。ニューキャッスル大学に学び、オックスフォード大学で博士号取得。1987年に発表した『大国の興亡』は世界中でベストセラーになる。1995年にガリ国連事務総長(当時)の要請で、「国連の未来」研究作業部会の共同議長を務めた。

国連についての基礎知識

本論に入る前に、国連(国際連合)について、少し触れておきたい。

国際連合(United Nations)とは、国際連合憲章の下に設立された国際機構である。世界の安全保障と経済・社会の発展のために協力することを目的とする。多くの言語で第二次大戦中の連合国と呼称を同じくする。主たる活動目的は国際平和の維持、そして経済や社会などに関する国際協力の実現である。略称は、国連、英語ではUN。公用語は、英語、フランス語、スペイン語、ロシア語、アラビア語、中国語本部はアメリカ合衆国のニューヨーク市マンハッタン島にある。

19451024日、アメリカ合衆国のカリフォルニア州サンフランシスコで発足。国際連合加盟国は、現在192か国。最初の加盟国(原加盟国)は51ヵ国。日本は1956年(昭和31年)1218日に80番目の加盟国となった。最新加盟国は、モンテネグロ(2006628日加盟)である

原則として国際連合に加盟できるのは主権を持った国家だけである。国連憲章第2章第4条によ、安全保障理事会の勧告に基いて総会の決定によって加盟国として承認される。承認が得られなければ主権を持っている国であっても加盟できない。現在のすべての加盟国が主権国家であるが、設立当初からの加盟国であるインド、フィリピン、ベラルーシ、ウクライナ、シリアの5か国は国際連合設立当初は独立した国ではなかった。

政府間組織や非政府組織、正式に認定されていないが確かな主権を有する政府等は「オブザーバーとして参加するために招待を受ける団体 (entity) あるいは国際組織」としてオブザーバーとしての演説は行えるが、投票権は認められない。

世界75ヵ国から国家として承認されているマルタ騎士団及びパレスチナを国際的に代表するパレスチナ解放機構PLO)は、オブザーバー参加になっている。
スイス、バチカン市国は中立を保ちたいとの理由でオブザーバーとなっている。
コソボ共和国は、常任理事国のロシアが強く加盟に反対しているために加盟が困難な状況である。
ソマリランド共和国や北キプロス・トルコ共和国など、紛争地域における独立国は、国家承認をしている国が皆無または極めて少ないため、国家の存在自体が認められていない場合が多い。
サハラ・アラブ民主共和国は、アフリカ連合諸国や中南米諸国などの多くの国が国家として承認しているが、オブザーバー参加もできていない。

本書の構成

本書は、8章立て3部構成になっている。

第一部 起源
 第一章 新世界秩序に向けての困難な歩み 1815年−1945年
第二部 1945年以降の国連諸機関の発展
 第二章 安全保障理事会の難問
 第三章 平和維持と平和執行
 第四章 経済的課題
 第五章 国連の活動のソフトな一面
 第六章 国際的な人権の推進
 第七章 「われら人民」−民主主義、政府、非政府組織その他の団体
第三部 現在と未来
 第八章 二一世紀の約束と危険

第一部は第一章だけが割り当てられており、国際連合が誕生するまでの経緯が述べられている。
第二部は第二章から第七章の6つの視点で構成されており、国連の現状を理解する重要な部分となっている。
第三部は第八章のみ一章のみで、ポール・ケネディ氏の国連改革の主張と今後の展望について語られる箇所である。

各章の流れに沿って書いていくと、相当な文章量になりそうなのでどうしようかと思うのだが(^_^;)いくつかポイントと思われる箇所を指摘しておきたい。
まず第一章は、第一次世界大戦前の欧州5大国によるコンサート・オブ・ヨーロッパ(欧州協調)の評価に触れるところから実質的に書き出されていく。欧州協調は必ずしも欧州全体を鑑みるものではなく、第一次世界大戦と防ぐことはできなかった。
この構図は、第二次世界大戦を防ぐことができなかった国際連盟を想起させるものである。国際連盟は、第一次世界大戦の反省のうえに、大きな戦争を防ぐことを目指すが、アメリカ、ソ連の2国は自国の利益優先の姿勢を崩すことなく、ドイツ、日本の暴走を止める力など全くなかった。最終的にアメリカもソ連も連合国に参画するが、あきらかに戦後世界の勢力争いに参集するものでしかない。
そうした中で、1943年頃よりイギリスを中心として戦後世界の協調体制を目指す試みが始まる。
国際的な責任体制に参画することを嫌悪するアメリカ、ソ連の2大国をいかにして国際協調の枠組に組み込むことができるのか。これが戦後世界が成功する最大不可欠の条件であったことは誰もが認めるだろう。
こうした状況下で必然的に認められたのが「拒否権」の付与であった。
この歴史的認識を共有化するのが第一章の目的であるといってよい、と私は思う。

第二部は6つの視点で国際連合(国連)の現状と問題点、現在までの功罪を記述している。
現状として、最も関心を集めるのは安全保障理事会に関する問題である。
第二章に詳しいが、拒否権をめぐる常任理事五ケ国の行動が問題を大きくしているのは紛れもない事実である。ではその拒否権を制限すればいいのか。そんな単純な問題でないことを私たちは学ばなければならない。その点が第二章の主眼のひとつである。
拒否権を、そして常任理事国のあり方そのものを批判する国は、多い。
しかしそんな国が常任理事国になれるという可能性が提起されると、こぞって「なりたい」という。安保理の常任理事国とは魅力あるもののようである。

国連憲章には6つの機関の設置が明示されている。
憲章上では対等に位置づけられているようにも読めるが、実態は安全保障理事会がその頂点に立っている。けっして「総会」では、ない。(蛇足だが、信託統治委員会にいたっては有名無実である。)
加盟国すべてが発言の機会を得ることができる「総会」は人類の議会のイメージそのものであるが、私たちの「国連」は安全保障理事会が決定した事項を総会で追認するというのが実態である。
総会がいかに勧告を出そうとも、安全保障理事会は自分たちの価値観で無視することができる。事実、過去の歴史がそうであった。
その安全保障理事会の意思決定は5つの常任理事国に握られている。
現在、それ以外に10の非常任理事国が2年任期で交代して任命されているが、彼らは拒否権を持つ常任理事国に比べて、まったくの無力である。それは「だらしない」とかの問題ではなく、国連憲章の規定によってパワーバランスが決まっているのである。

私たちの住む日本は、そんな強大な権力を持つ常任理事国になりたがっている国の筆頭格だ。
どうして日本は常任理事国になりたがるのだろうか?
これは自民党も民主党も、同様の傾向である。民主党の小沢氏にいたっては「熱望」状態かもしれない。
ポール・ケネディ氏は安保理理事国を目指す理由は、「名誉」と「拒否権」の2つであるとバッサリ切り捨てている。
「世界平和の実現のため、世界でリーダーシップを発揮するためには、常任理事国にならなければならない」という主張には、論理的な理由がみつからない。
常任理事国になれば何ができるというのだろうか。
少し学べば誰にもわかることである。

第三章『平和維持と平和執行』は、現在の世界が抱える喫緊の問題である。
元々、各国が国連に加盟するには、常任理事会の了承を経て国連総会で承認される必要がある(加盟国の実態概要は→こちら)。

日本人の多くが理解していない事実として、国連は武力による平和維持及び平和執行活動を前提としている(国連憲章第42条)。すべての国連加盟国は国際の平和及び安全の維持に必要な兵力、援助及び便宜を安全保障理事会に利用させることを約束している(同43条)。日本がその特例になっているという事実はない。
つまり、もし国連加盟国に紛争が起こり、その安全保障が脅かされる場合において安全保障理事会の要請があれば、加盟国は必要な兵力を提供する義務を負っていることになる。もちろん、国連憲章は各国の国内法を優先するため、その国の法律が執行の前提になる。
この観点で現在の政府の対応を検証すると、明らかな義務の不履行が存在するといわざるを得ない。
国際の平和のために軍事力を持つ必要などは、もちろんない。
しかし、軍事力を持たないことが、紛争地域に日本国民を送り出さなくてもいいという理由にはならないのである。
民主党連立政権が主張するような「民生分野に限定した国際貢献」しかしないという主張は、国内法の根拠はないということである。
仮に日本が担当しなければ、他の国が担当することになる。
危険な地域での平和維持及び執行活動は他国に押し付けて、日本は生命の危険のない分野での貢献しかしない。
中小国であれば、それでもいいだろう。
しかし、果たしてこれで「国連の中で強いリーダーシップを発揮したい」という鳩山総理の主張が、真正面から受け入れられるかどうか...。

ソマリア、セルビア、カンボジア、ルワンダ...。
国連の平和維持及び平和執行の失敗が続く。
なかでもルワンダの失敗は国連の責任が重過ぎると言わざるを得ないだろう。
これらの紛争の中で生命を落としていった人々のことを思うと、またその同時期にその事実すら知らないですごしていた自分自身の来し方を思うと、世界の平和って何なのかと考えてしまう。日本としても、民生分野だけと言って、それ以外の検討をしないでよいのだろうか。
どんなきれいごとを言っても、世界のどこかで紛争が起こっている。
国際紛争の解決としての軍事力を放棄した日本であるが、だからと言って、紛争で苦しんでいる世界の同胞を守らずでよいのだろうか。
なんらかの責任を果たし、住民の安全を守るために働くとしたら、その業務を前提に人員を募り、訓練し、現地に赴く取り組みを検討することを提案したい。

第四章『経済的課題−北と南』は実に興味深い分野である。
「三脚椅子」のたとえのように、経済の復興、貧しさからの脱却は平和実現における大きな要素である。
しかし、この重要な分野での国連の貢献度、かかわりがどの程度有効であったかは、ポール・ケネディ氏が指摘するように、極めて疑問視すべきである。
民間の財団による貢献、そして主に自助努力で戦後復興を成し遂げたアジア諸国の成功例を目の当たりにしてきた私達から見ても大いに共感する論点である。
重要な課題であり、今後の世界平和を支える不可欠要素であるが、国連との関係という視点では、語るべき内容はさほど多くない。
しかし、経済的課題、特に南の国家発展を推進するためには、その財源の確保が不可欠である。その負担を北の先進諸国がどこまで担うのか。またそうした経済的支援を、南の国々は返済することができるのか。
現実問題として、不採算であれば継続することは困難である。

そしてここで指摘されるもうひとつの問題は、「世界の大国は本当に安保理常任理事国の5ケ国なのか」という点である。
国連が目指す、軍事的衝突がない世界が実現された暁には、常任理事国に付与された拒否権という特権も消滅させるのか。経済的大国となっているであろうインドやアジア諸国、中南米諸国が自国の利益のために国連を脱退すると言わないとは、誰が保障できるだろうか。そんな状況になった場合に、経済的大国に拒否権を付与することで国連に留まれという主張を、当事国自身が主張することも想定されるのではないか。

経済的課題の底辺には、こうした今後の国連内のパワーバランスの問題が大きく横たわっている。

そして、この経済的課題への挑戦は、第五章にも関連する地球規模の環境破壊と深く関係する。
第五章のソフト面の国連活動として取り上げているのは、女性と子供の問題、公衆衛生、人口問題、環境問題、そして文化の多様性の尊重である。「軍事」「経済」的活動をハードな側面と規定し、その対照軸として論じている。

しかし、国連憲章では、こうしたソフト的課題を担う部署は規定されていない。
必要に応じて設置された機能委員会や専門機関が精力的にその責務を遂行している。
そして、こうしたソフト面の理解、融和が世界の政治的軍事的危機を回避する大きな、かつ本源的な力になる事を、私たちは大いに理解している。
こうした活動を効果的に推進するために、「国際会議」という舞台を積極的に活用している。国際会議がもたらす効果は、実に広範囲に広がる。
ひとつの国際会議が終わる時点で、次の会議までの達成(努力)目標が決議される。それと同時に次の開催時期、開催地域が発表される。
ここは前人の智慧を大いに感じるところだ。
明確な数値目標を掲げることで、次の会議でその達成度がはっきりする。
各国が批准すらしない場合もあるが、それも各国の状況が国際的な明らかになるということでもある。
確かに、目標の不達成が続くと会議そのものの意味が問われることにもなりかねない。
しかし、それも現状に立脚するために必要なワンステップとなるだろう。

ここで取り上げられている各種団体、組織の取り組みや比較は非常に興味深い。

第六章では「人権」の課題を取り上げている。
いうまでもなく、生命尊厳という偉大なテーマと深く関係する課題である。
国連創設の精神的基底部に、ナチス・ドイツが犯した非人道的行為への激烈な怒り、人類としての反省があったことは間違いない。
その一方で、国連創設後もしばらくの間、植民地統治は続けられた。
相矛盾する行為であるが、国家というものは、人間というものは、自身の利益のためには平気で矛盾する行為もするし、エゴイスティックにもなれるということだろう。

特に民族独立を進めてきたアフリカ地域、東南アジア地域での事件は凄惨を極めた。ルワンダ、カンボジアの悲劇を繰り返さないために、私たちは何ができるだろうか。

ポール・ケネディ氏は、人権問題の分野で国連から広まる進歩の可能性として、
@指導者のレベル
A人権侵害の報告とデータ収集の強化
B国連人権高等弁務官事務所の存在による世界へのメッセージ発信
この3点をあげている。しかし、その主張は実に脆弱である。

現在の国連において、人権を大きく主張できるのは国連総会であり、国連事務総長の存在といえまいか。国連人権高等弁務官事務所を活かしつつ、総会としての運動の推進を強く期待したい。

第七章は今後の国連、世界を代表する国際機関としてのあり方について言及している章である。
いうまでもなく、国連は国家の連合体である。
前述のとおり英語表記は United Nations であり、国連軍とも訳されることもあり、直訳すれば「国家連合」を意味する言葉である。
今後の世界の潮流を展望すると、国家の枠組みでない民衆の声を代表する機関が、いかに世界を代表する国際機関の中で発言権を得て、庶民の意思を反映させていくかという大きなテーマがある。
この章では、その問題について真摯に考察が行なわれている。

そして、第三部『現在と未来』に入る。
ここは第八章「二十一世紀の約束と危険」の一章が充てられている。
ポール・ケネディ氏が提唱する様々な国連改革案が丁寧に主張されている箇所である。
この内容については、各人で確認していただきたい。
※私なりのまとめは別途記載しておきたい。( →メモはこちら )

ポール・ケネディ氏は本書の冒頭で次のように綴った。

(国連が、現実に)人類共通の善と長期的利益のために、自らの不安や利己主義を克服できるかどうかである。
二十一世紀の歴史の大半は、その課題にわれわれ全員がどう対処するかにかかっていると言えよう。

そして、次の文章で本書を締めくくっている。

数々の予想外の展開や後退、恐ろしい統治の失敗、おぞましい人権侵害、憲章の目的を尊重せず独自の道を貫こうとする政権と遭遇することも、覚悟しておかねばならない。我々はそんなことに最善の対応を妨げられることなく、「戦争の惨害から将来の世代を救う」というこの常に成否相半ばする試みの歴史をよりよくし、「基本的人権に関する信念をあらためて確認」し、「いっそう大きな自由のなかで社会的進歩と生活水準の向上とを」促進するために、知恵を絞らねばならない。
この国連憲章の前文は、まさしく正鵠を得ている。
問題は、われわれにそれができるかどうかである。

眼前の危機を乗り越えながらも、今一度、問題の本質に迫る努力を私たちは開始しなければならない。
広範囲にわたる問題群に対して、ややもすれば個々人の努力は無力であるように感じてしまう。身近であるはずの政治や行政ですら、何か大きな力の流れで動いていて、一人の人間の意見では何も変わらないように感じる今日この頃である。
ましてや、世界の平和だとか人類の幸福などと言うと、個々人が想像をすることすら無意味であるように感じるのは致し方ないのかもしれない。

しかし、である。
突き詰めて思索を重ねるならば、一人の人間における地道な意識変革と具体的行動のみが世界を変えるという、絶対的法則に行き着くのではないかと思えてくる。
ここに書かれているのは、「人類の議会」が必要だと感じた人々が行動してきた歴史であり、その具体的な方策の成功と失敗の記述である。
そして、二十一世紀の現在を生きる私たちが「何をすべきか」を考えるための一書である。


2009年9月25日 (金)【民主党の「民主」度は? 八ツ場ダム問題への対応】

前原誠司国土交通大臣は、23日(水)に八ツ場ダム建設予定の群馬県長野原町を訪問した。
前原氏は再三にわたり「ダム建設中止を白紙に戻すことはない」と明言。そのうえで地元住民の率直な声を聞きたいといった。地元住民は「建設中止を前提とした意見交換会には参加できない」と話し合いを拒否。地元住民の考えは要望書等の形で前原氏に手渡された。
「なぜダム建設中止はないのか?」との質問に前原氏は「国民に約束したマニフェストを実行する責務がある」とその理由が「マニフェスト」であると繰り返している。

マニフェストは「葵の御紋」か?民主党も自民党も変わらない。

そもそもマニフェストに掲げる段階で、地元住民をはじめとする関係する方々の意見を聴き、様々な影響を検討したのか、大いに疑問がある。「地元の意見を聞きたい」というのならば、マニフェスト作成前に聞くべきではないのか?
地元の声を聞かないで「勝手に」マニフェストを作っておいて、「マニフェストで約束したから」と理由付けするのは、明らかな強弁である。押し込み強盗の言い訳のようにも聞こえる。
そのように言われても、致し方ないだろう。

さらに、「一度マニフェストに掲げたから絶対にやるんだ」というのは強い意志のようにも聞こえるが、一度はじめたら途中で様々な事情が判明しても変更しないできた自民党政治と何も変わらないのではないか。不要な公共工事が公然と行なわれてきた背景と、根本的には同質の危険性が感じられてならない。
地域の住民の声を聞く。
そのことが公共工事決定のプロセスで軽視されてきたことが大きな問題ではなかったのか。民主党は、立場と形こそ違え、根っこの部分では自民党と同じ体質なのだろうか。

庶民の声を聞かない−ファシズムの前兆

前原氏の言動は、自民党よりも危険かもしれない。
自民党は「こそこそ」やっていたが、前原氏をはじめとする民主党議員は「堂々と」「公然と」やっている。
「有権者の信託を受けたのだから、一部地域の国民がなんと言おうと自分達が決めたことはやらせていただきます」
これは専制政治、ファシズムの様相を呈しているのではないか。
なにが「民主」なのか、党名に掲げた理念を、今一度見つめ直してほしい。
マスメディアは「民主」党の「非民主」的言動を指摘しない。
日本のマスメディアの偏向、日和見さは、誰もがわかっていることであるが、ここまでだらしないのかと、あきれて言葉も出てこない。

「八ツ場ダムは従来の公共工事の象徴であって八ツ場ダムの問題ではない」
「八ツ場ダムを止められずして他のムダな公共工事を止められるのか」
一部テレビのコメンテーターは、堂々と、こんな論理を展開している。

「その人」にとっては、人生の全て。

長野原町の人々はスケープゴートなのか。
50年にわたってダム建設に翻弄された「この人」の人生は、その後の公共工事のための犠牲になって当然、致し方ないという論理が、なぜ公然と展開されるのだろうか。
これが戦争という舞台になれば、民主党や社民党の議員は「ひとりの生命は限りなく重い」「多くの人のために一人の人間の生命が軽視されてはならない」という。
高齢者福祉にいたっても同様の論理を展開する。
私は、この考え方は正しいと思う。
決して例外があってはならないと、思う。
ならば、八ツ場ダム建設中止の是非にあっても同様ではないのか、と言いたい。
長野原町の住民にも賛否両論がある。それもわかっている。
そのうえで、あえて問わなければならない。
長野原町の住民の50年間の苦悩は、今後の日本の公共工事改革のために、更に苦悩を続けてくれとは、絶対に言ってはならない、と私は思う。
まだ着手されていない工事と、住民の移転まで済んでいる工事とが、どうして同じ目線で議論されるのか?私は理解、納得できない。
今まで行なわれた工事内容が、どれだけ住民生活に影響を及ぼしているのか。その点を見直しの判定基準に最重点項目として入れるべきだ、と強く主張する。

その場限りの議論をやめよ。見直しのための評価シートの作成を。

蛇足だが、ダム建設中止と続行、それぞれの場合のコスト比較は、八ツ場ダムに限って言えば、二の次の問題である。
このことは、賛成反対両者とも同様の意見だろう。
今の議論では所詮、水掛け論で終わる。
「継続時のコストはさほどかからない」と言っている人達は中止時のコストを高く見積もっており、「継続時のコストのほうが高くなる」と主張する人達は現状と同じ管理方法でのコスト見積もりをしている。中止論者であっても建設後のコストは効率化した後の見積もりをしなくては、理屈にあわない。
治水、利水の観点での専門的論議は、重要で、今後の政治判断として不可欠なステップである。
しかし、それは、今回の八ツ場ダムではなく、別の場所でやってほしいと思う。
更に言えば、公共工事見直し基準をチェックシート形式など、だれもがわかりやすい目に見える形で、数値化できる形式で示すことを、あわせて提案したい。
そうすれば、マイナスポイントが「○○点以上で工事中止」「▼△点以上○○点未満は事業内容の再策定」など、標準化ができ、感情的な論議も少なからず回避できると私は考えている。

何のための政治か。誰のために政治があるのか。

いま八ツ場ダムの現場で必要なのは、「ムダな公共工事を中止する」か、「住民一人一人の気持ちと生活を最優先する」か、ということだろう。
何のための政治なのか。誰のための政治判断なのか。
その原点に立ち返れば、もっと真摯な政治行動があるはずだ。
私は、そう思う。
皆さんはどう感じているだろうか。


2009年9月15日 (火)【民主党は政治の空白をつくるな】

8月30日夜半に政権交代が明白になって15日間が経過した。
この間、政治がほとんど前進していないことに大きな疑念を感じている。

民主党自身が、「次の内閣の大臣ポストは?」等々浮かれ気分のままだ。
連立予定の社民党や国民新党も同様だ。
社民党にいたっては「君たち大臣の仕事や特命制度を知らなかったの?」。遠足に行く前の子供だって、もっと分別のある行動をするでしょ?とあきれてしまう。
マスメディアも幼稚だ。迷走する自民党の批判もいいが、酒井法子報道ばかりやってないで、今後の政策による国民生活の影響などを検証すべきではないのか。

そして、何よりも、私たち一人ひとりが、今はどういう状況なのか、深く認識すべきである。
100年の一度といわれている経済恐慌は、いまだ抜け出しているわけではない。
それどころか、失業率、雇用不安は、これから年末に向けて増大することが予想されている。
景気には「二番底」という言葉があるように、「今が底を打っている」と思われるときに気を抜いてしまい、適切な措置を講じることができなければ、予想をはるかに超えて厳しい局面に陥ることがある。

今の日本が、そうではないのか。
民主党は、執行前の補正予算は凍結すると宣言している。
政権を取るのだから、それは、それで実行する権力を有しているのだから民主党がやると言えば止めることはできないだろう。
しかし、その行為による不利益が生じた場合の責任の取り方を明確にしてほしいと思う。ただ、それは非常に後ろ向きの主張なので、私がいま言いたいことではない。

この15日間、何をやっているのか。
凡人にとって、人事は楽しい。
無能な経営者に限って、新しい部署を作ったり、管理職を首にしたり配置したりするのが、本当に好きである。
生命論から見ても、他人を自由自在に操りたいという自己中心的な傲慢な生命を満足させられる他化自在天の典型的な特徴である。

本気で「日本を変える」と言っているのならば、「一日たりとも政治の停滞を許さない!」との強い決意と行動を示せと言いたい。
私心を捨て、自身の慢心を排して、国家、世界、そして一人の庶民の生活を守るために、生まれ変わったような決意で政治を進めよ。

政権を取る前の民主党議員の中には、純粋に政治を改革しようと思っていた輩もすくなくなかったはずである。
それが、権力を握った瞬間から(握るのがわかっただけで)自分が関わる恣意的な利益を守ろうと走り出す。
これを権力の魔性というだろう。
理屈ではわかっていても、最初はこそこそと、次第に平然と、私物化していくのだ。
そうした政治家を自由にさせないよう、私たち一人ひとりが監視し諫言し続けることだ。
そして、同様のどす黒い生命傾向は、誰人にも、ある。
そのことを深く自覚し、自己を向上させる日々でなければならない。
それが、私たち自身に課せられている永遠の試練である。


2009年9月14日 (月)【それでいいのか?民主党が教員免許更新制度を廃止】

民主党参議院議員会長の輿石東代表代行は、12日の記者会見で「教員免許更新制度」を廃止する法案を来年度の通常国会に提出する考えを発表した。
教員免許更新制度は今年4月に施行されたばかりの新しい制度。
教育現場における長年の懸案事項であった指導力、学力の著しく低い教員への対策として打ち出された新しい試みである。

施行後半年も経たない制度を早々に廃止するという。
民主党のマニフェストでは「教員免許制度を抜本的に見直す」とあったが、民主党の言う見直しとは制度を廃止することだったのか?
この制度がすばらしいとは言わない。しかし、単に廃止するだけでは逆行、退行するだけではないのか。
廃止後にどのような対策を打つのだろうか?
マニフェストには「教員の養成期間は6年制(修士)とし、養成と研修の充実を図る」とある。しかしこれでは一度教員になれば定年になるまで身分が保障されることには変りがなく、かつ教員の資質の何を是正するのか何も示されていない。

民主党の考えている制度変更のままでは、改革の逆行になりはしないのか?
未経験の時点で2年の養成期間を追加することと、実務を重ねた経験者への再教育を行なうことと、どちらが有効性が高いのか?民主党は本気で比較検討してほしい。
民主党案では、教員になりたい若者の経済的、時間的負担が増大することも見逃してはならない。
結局、これから教員になる若者世代に負担を押しつけて、既に教員になっている人達(この人達の能力不足が問題であるにも関わらず!)は既得権を守ろうとしている、という結果になりかねない。

民主党の行動には「その後」が見えてこない。

輿石氏は元々は日教組の出身。
自分の支援基盤の利益を守っているとの批判は当然起きてくる。
自分の支持母体の利益を最優先するのであれば、自民党政治と何ら変わない。
他の政策との整合性を考える技量や経験がない分だけ、未来への責任の実感が足りない分だけ、自民党議員よりも、たちが悪いだろう。

日教組の代表として、教員の身分保障を最優先とする既得権を守ろうとしているのでは?という視点で民主党のマニフェストを読み返してみると、納得がいってしまう項目が並んでいる。「教員が子供と向き合う時間を確保する」という目的を掲げることで「教員を増員」する主張はその典型だ。
現在でさえ、資質に問題がある教員がいると指摘されているのに、その問題への具体的な対処が明示されないままで教員を増やすと、さらに質の低下が増大するのではないのか?
民主党の政策の甘さ、整合性のなさは、同一分野においても既に綻んでいる。
実に底が浅い、幼稚だ、と言わざるを得ないだろう。

輿石氏よ。民主党よ。
あなたたちの行動が「改革」だと主張したいのであれば、国民の疑問を解消してくれる能動的な「対案」を提示してほしい。
有権者に選ばれた議員である限り、どんなに間違っても、支持母体への利益誘導は、やってはならない。

教育は教員や国家政府のためにあるのではない。
教育は、未来を生きる子供たちのためにこそ、あるのだ。

【関連リンク】
教員免許更新制の廃止法案、通常国会に提出も 民主・輿石氏(日経ネット)

2009年9月10日 (木)【第2回山村きぎょう会議 に参加してみる】

今月8,9日に開催された山村再生支援センター主催の「山村きぎょう会議」に参加してみた。
今回で第2回目ということ。山村再生に関する情報をWebで検索しているなかで見つけて申し込んでみたのだが...。

発表されている内容については興味深く拝聴させていただいた。
各地での取り組みについての地域性や独自性など、今後の参考にしたいと思う事例もあったので、よかったと思う。
ただ、運営自体が「身内」志向で(^_^;)
おそらく私のようにWeb等で調べて参加していたのは数名かな。
ほとんどが顔見知りの方々ばかり。発表する自治体関係者と事務局スタッフ以外は殆ど参加していない感じを受けた。
なによりも気になったのは、初参加者への配慮のなさだ。発表の合間にも終了後の懇親会の話が何度も出てきたり、「参加者は顔見知りの人が殆ど」的な発言には、正直閉口した。初めて参加した部外者は完全に蚊帳の外であった。

実は、このような雰囲気の会合は意外と多い。
Webで一般受付をしていても、実際に行ってみると明らかに迷惑がられたり、本当に来たんだという発言がぽろっとこぼれたり(^_^;)
活動を広げていく意志はほとんどないんだけれど、一応「やっているよ」という姿勢をとっておかなくちゃという、閉鎖的組織に多いように感じている。
私個人は重要だと思うテーマや情報については気にせず足を運ぶことにしているが、何の縁故もなく参加した人の多くは、たぶん二度と参加しないだろう。
それがまた、主催者側の意図だったりする。

全体の参加人数は50名程度だっただろうか。
会場は450名くらいは収容できると思うが、閑散としていた。
山村再生という大きな課題を論じる会議としては、先行き心細いばかりである。
広く広報をしなさいとは言わないが(予算の問題もあるだろうし広報すればいいという問題でもない)、少なくとも関係者以外からの参加メンバーを大切にしないと、活動は広がっていかないことは間違いないだろう。
あえて言えば「人」の問題である。
いずれにしろ、もっと開かれた活動を志向してほしいと痛感した「会議」であった。

【関連リンク】
■第2回 山村きぎょう会議
 テーマ:山村をいかに再生するか〜山村の取り組みとマッチング方法の検討
 日時: 2009年9月8日(火)13:00〜17:30
          9月9日(水)09:00〜12:00
 場所: 東京農業大学(東京都世田谷区)
     8日…1号館メディアホール
     9日…図書館4階視聴覚ホール
 主催: 山村再生支援センター

→詳しくはこちら http://sanson-navi.jp/seminar/index.html 

■山村再生に取り組む。
それぞれの地域には、その地域特有の強さがある。他の地域での事例や理論を参考にしつつも、地域の差異を活かす生活を構築できる。そこに、これからの地域再生のポイントがある。・・・

  →詳しくはこちら  http://www.prosecute.jp/task/sanson.htm

2009年9月7日 (月)【2009年秋・東大泉中村町会の防災訓練に参加】

9月5日(土)に行われた防災訓練に参加しました。
毎年9月1日の「防災の日」にあわせて第一土曜に行なわれる地域の恒例行事。
昨年は同じ日に奥多摩へキャンプに行く予定を入れてしまっていたので途中で帰ったが、今年は午前中の予定を空けておいたので大丈夫。
数ヶ月前の防災倉庫増設のときの訓練に続いて、親子三人での参加となった。

9時30分に集合場所に近隣の数班の方々が集まる。
ここで自宅に帰る方もいるので点呼が行われる。
そののち11名が避難拠点になっている区立大泉東小学校に移動。
昨年は体育館だったが、今年は校庭に集合して行なった。この日は快晴。いやぁ〜暑かった(^_^;)
10時から自治会の責任者や消防署、練馬区区役所の方々の話のあと、各人で見学や訓練体験を。消防車のホースや消火器での消火訓練、AEDを使った訓練などに列ができていた。
私たちは起震装置のついたトラックでの地震体験を見学した。
相当に激しい揺れに、少しびっくり。
10時45分頃から「アルファ米」の炊き出しを受ける。炊き出しといってもビニールを張ったダンボール箱のなかにアルファ米とお湯を入れて数分でできる。数ヶ月前の防災倉庫での訓練のときには「わかめご飯」だったが今回は「五目炊き込みご飯」。
なかなか美味しい(*^_^*)

暑かったこともあって、アルファ米を受け取ると11名揃って会場をあとにした。

今回の訓練で改めて感じたこと。
放水や消火器の使い方、避難場所を確認することも大切な訓練だが、集合場所や避難場所に近隣の方々と顔を合わせて一緒に行動することが、更に重要だと感じました。
非常時を想定して、現地であれこれと意見を交わすこと。
集合した人達の点呼をとって生存確認をする。
こうした基本を訓練で着実に行なうことが、非常時の備えになると強く実感した避難訓練でした。


2009年9月4日 (木)【政権交代時のルール作りを急げ】
昨日9月3日に、世界貿易機関(WTO)の非公式閣僚会合が開幕した。
この会合に日本からの閣僚参加がないことが物議を醸している。
今月1日には石波農林水産大臣は、政権交代が確実な中で自分が参加しても長期ビジョンを語ることができない等の理由で欠席を表明。
二階経済産業大臣にいたっては、自分が参加しなくても十分対応できるという姿勢。
二階氏の発言は論外として、石波氏の言動について一言申し上げておきたい。

本当に自分では役割を果たせないと思うのであれば、では誰が役割を果たせるのかを真摯に考えて行動すべきではないか。
自分が適任ではないというのであれば、次期政権担当が確実である民主党に働きかけて、誰かを参加させる道筋をつけるべきである。

民主党側の対応も無責任ではないのか。
TVのインタビューで民主党の原口氏などが「自民党は無責任だ」と激しい口調で非難を繰り返している。
非難している民主党自身も、何もしていないではないかといいたい。
選挙が始まる前から圧勝は想定内の事態。
その結果、自民党政権の閣僚が不参加を表明することは充分に予想されていたわけだ。
他国の事例では、政権交代が予想される場合は、次期政権を担当する可能性のある陣営から閣僚予定クラスの議員が参加するケースもある。
自分たちの陣営から会議参加者を出さないのであれば、現政権閣僚が参加するよう確約を取り付けるなど、事前にできたことはいくつもあると、言いたい。
そうした政権移行時の提案を、次の政権を担う者の責任として、実行すべきではないのか。

自民党の対応を激しく非難するのは、一見すると正義を貫いているように、みえる。
しかし、そんなことを言っても国民の利益を守ることはできない。
民主党は政権担当政党、与党となるのだ。その自覚をもって、格好をつけることばかりしないで、実務を淡々と遂行すべきではないか。
スタンドプレイは、野党のときにしか通用しないと、指摘しておきたい。

【関連リンク】
WTO:インドで閣僚会合 最終合意への道筋議論(毎日新聞)
日本が変わる:国際会議に「空白」 長期政策、説明できぬ 今月初旬、閣僚は欠席(毎日新聞)

2009年9月3日 (水)【敗因のみをコメントする批評家になるな 自分の立場で何ができるかを考え、行動を開始しよう】
大きな活動のあと、やりきったにも拘らず、思ったような結果が出ないことがある。
今まで取り組んだことのなかったプロジェクトの推進や、多くの人々の人的要因(定性要因)が複雑に絡み合う、今回の衆議院議員選挙などはその典型だろう。大勝利した民主党支持者の喜びの一方で、自民党や公明党を支援した方々のなかには「こんなに頑張ったのに、どうしてこんな結果になったのよ」「これからどうすればいいのか」と思う人も、少なからずおられるかもしれない。

敗因を数え始めたら、いくつも、列挙することができる。
社会科学の分野に属するようなテーマ、選挙結果はまさにそうした社会科学の分野であるが、世論の動向や投票行動を決定した要因、メディア戦略とその効果、メディア報道の影響、人的要因と集団としての政党選択の関連性など、数値化自体はさほど困難ではないが、数値化する要素をいかに設定するか、バイアスをどう換算するかなど、実際の作業は実にアナログ的で、現実を反映したデータの提示は、ことのほか困難である。
また一度出された結果がその時点では事実を反映しているとしても、測定時点が数時間違っただけでも結果が大きく変化することも常識的であり、発表後にその発表内容によって大きく世論等が変化するということも常々起きている。

ただ、敗北という結果は、何らかの要因の反映であることだけは、間違いない。
その意味で正確に総括することが重要である。
そうした状況であることを確認した上で、一言だけ言っておきたい。

敗因のみを、あれこれコメントするのは控えたいと思う。

負けると一緒に活動していた人達であっても、そのなかから必ず批評家が現れる。
敗因を自分から一歩二歩離れた視点で論じることで、自分自身の存在を顕示し正当化しようという人間生命の傾向性とも言えるだろう。
敗因を論じるならば、その要因に対して自分は何ができるのか?という発想を常に忘れないようにしたいと、私は思う。
逆説的に言えば「自分の立場で、勝利のためにできることは何だったのか?」「これから自分にできることは何か?」という視点で敗因を分析し、論じ、行動することが大切ではないだろうか。

物事の結果には必ず原因がある。
その結果には、必ず、何かしらの意味がある。
意味があるのだという歴史になるように、敗北をも次の勝利に活かし切っていく。

常に前進する心で歩んでいけば、私たちの限られた人生も限りない広がりをみせるに違いない。
大いに語り、大いなる前進を始めよう。
2009年9月2日 (火)【民主党が歴史的大勝 国民の選択が明らかに】

8月30日(日)に投開票が行われた第45回衆議院議員選挙の結果が確定した。
ふたを開けてみると、日本の憲政史上に特記されるほどの民主党の大勝である。単独政党による308議席というのは空前絶後。よくもここまで集約されたものと、さずがに驚嘆である。

政権交代の原動力は「自民党政治」への不満エネルギー

ただ、衆議院内の勢力分布という視点では、想定内の状況だ。
改選前の自民と民主の勢力がきれいに入れ替わったと思えば、わかりやすい。
絶対安定多数(269議席)を大きく上回ったが、衆議院での再可決に必要な3分の2には民主党だけではわずかに届いていないという意味で、ぎりぎりバランスが保たれたとみるべきだろう。

私も含めて多くの人々が指摘しているように、今回の民主党勝因は民主党そのものにあるわけではない。「自民党政治、いいかげんにしろよ」という国民の不満、鬱積した怒りが大きなエネルギーになっている。その意味では、必ずしも建設的判断とは言えない部分も、大きい。

選挙戦、その前から通して、自民、公明両党は、「民主党の政策(案)には財源がない」「一貫性、政策間の整合性がない(矛盾している政策が並立している)」と糾弾してきた。
その危うさは投票日前になって、やっとマスメディアも指摘を始めた。
いよいよ、政権交代である。
民主党は、マニフェストに公約として掲げた政策案の実行に全力を挙げるかどうかを、私たち国民は厳しく監視し、実行を促していかなくてはならない。

民主党 「修正」すべきは、潔く、「変節」せよ

私が少し調べただけでも、相当に問題点が山積している。
どう考えても、できないことを言っている面がある。
この政策を行うと、その逆作用のマイナス影響が大きすぎる。
日本の将来に大きな禍根を残しかねない。
こうした危惧がある。
特に「政策間の不整合」については、恥じるべき点は率直に国民に詫びて、恥や外聞は捨てて、国民と世界平和のために、修正を行っていくべきであると、強く申し上げたい。

自民党と公明党 本来の野党の姿を見せよ

自民党と公明党にも、成熟した対応を望みたい。
民主党は、308人の衆議院議員を擁すると言っても、半数近くは政治経験の少ない初当選だったり返り咲き議員である。2週間前まで政治家になることを思いもしなかった人も含まれている。
4年前の「小泉チルドレン」のときもそうだったと言えなくもないが、それでも政権与党としての自民党の経験値と若い意欲がかみ合っていくことができた。
しかし、今回は民主党自身が政権与党を初体験する立場である。
若手議員の育成に時間をかける余裕などまったくない。
その経験値の不足を、与野党の枠組みを越えて、自民党、公明党の議員に期待したい。

政策についても同様である。
党利党略で、国民不在の反対をするような、野党のあり方も劇的にかえてもらいたい。
そんな野党によって不利益を蒙ってきたのは、他ならない私たち庶民である。
どこまでも、国民と世界のために行動する議員であってもらいたい。
そして、「これが本当の野党のあり方だ」というものについても国民に示してもらいたいと思う。

政権与党から転落した自民、公明両党 解党的出直しを

もちろん、政権担当を外れることになった自民党と公明党には、今までの総括と今後やるべきことについて、真摯に議論し、行動を起こしてもらいたい。

自民党には、戦後政治を一貫して担ってきたことへの国民の審判が下った。55年体制が実質的に終焉したとも言えるだろう。
公明党においては、特に政権与党になってからの10年間に対する総括と自己評価が重要になるだろう。党代表や幹事長の落選という結果は真摯に受け止めるに十分に値する。今後の党運営も大切な課題である。

そして、両党共に、ただ反省の弁になる必要はないと思う。
高度経済成長期、バブル崩壊後の日本の危機的状況のなかで敢えて火中の栗を拾ってきた実績も評価されてこそ、正視眼での総括といえると私は思う。
オールオアナシングの風潮は、大きく是正されるべきである。

小選挙区中心の制度の見直しと成熟した「政策連立」の時代を

小選挙区と比例区との重複立候補をしなかった公明党の筋の通し方は、並立制の選挙制度の根本精神を考え直すには十分な問題提起でもあった。その結果として、擁立した8小選挙区全敗という代償は、公明党にとってはあまりにも大きい。
しかし、良かれ悪かれ、どのような制度であってもそれが施行されているならば、敢然と挑戦する姿勢は貫いてもらいたいと、強く思う。
こんな政党がひとつは必ず必要だ、もっと言えば、政治の中核に存在し続けるべきだ、と思う。

93年に小選挙区制導入時に、大きな批判があった重複立候補が、いつのまにか当然のように行われている現状に一石を投じ、ひいては小選挙区制の是非についての議論を喚起することを、大いに期待したい。

その意味でも、また民意の反映という意味でも、10年20年先の選挙制度改革を見据えて、今から改善のための議論を始めることを提起したいと思う。

全体の投票の割合と獲得した議席の割合は、当然、大きく異なる。
それが選挙区ごとに1名の当選者を選び、次点以降の票を反映させない小選挙区制の特徴であるが、庶民の生活スタイルが多様化し、個々の政策による個々人における恩恵の差異の発生、支えられる側と支える側の交錯状況を勘案すると、2つの政党だけで民意を反映させることは、困難であり、現実的でない。

より多くの意見を反映できる中選挙区制、そしてその先にある連立政治が、これからの時代にふさわしい政権のあり方ではないかと思っている。

議院内閣制と政策連立 首班指名にあり方

その連立の形も、いわば「政策連立」と呼ぶような、次の段階に進むことが必要ではないか、と考えている。

議院内閣制を採用している日本の国会においては、第一党が内閣総理大臣を選出するのが筋であろう。過去の例において、第1党ではない各党が首班指名の段階で共同歩調をとって、第1党以外から総理大臣を選出した歴史がある。

しかし、それをやってしまうと、それぞれの党の独自性を発揮することができなくなる。他党から選ばれた総理であっても「自分たちも選出した」となれば、多少の政策の違いがあっても、最終的に総理大臣の意向を支えるという行動をとるしかなくなるからだ。
国民目線から言っても、選挙で第1党に投じた有権者の気持ちが無視されることになりかねない。

したがって、首班指名は、原則あくまでも、各党独自で行うべきであると申し上げたい。
そのうえで、一致する政策については、政策連立を組んで、その実現に協働して頑張る。
別の分野の政策については意見の相違がある場合は共闘しない。政権の中核にある第1党は、政策を共有できる別のB党との政策連立を模索する。
こうした関係が生まれてもいいのではないか。
そんな試行錯誤を行っていく時代に入った、と言いたい。

政策連立の時代へ 閣内不一致は筋違いの批判

そうした状況が生まれた場合に、大きな試行錯誤として、閣内協力をするかどうか、という問題にも直面するだろう。
私は、「これは是非実現するべきだ」という信念がある政策の管轄省庁があれば、第2党以降であっても、大臣や副大臣を出す「閣内協力」があってしかるべきだと考えている。
ここで、発想を変えないといけないのは「閣内不一致」との批判についてである。
成熟した政策連立の時代には、すべての政策にわたって「閣内一致」を行うことは、現実的ではない。
閣内一致をいうのであれば、単独政党による内閣編成しか、選択肢が残らないからである。「党が違うが連立を組んでいる」状況において、「内閣一致を貫け」というのであれば、各党の独自性は不必要だということになり、第2党以降の連立政党は事実上「第1党の○●派閥」ということになってしまう。

公明党の10年間の連立路線の総括においても、上記のような視点が必要だと感じている。この点を明確にすることができれば、自公連立10年の経験を最大限に次に活かすことができる、と私は考えている。

また今回の政権交代にあっても、民主党と社民党、国民新党の3党で連立を組むと発表された。しかし、政策連立という発想がないため、3党は首班指名から共同歩調をとるだろう。
それでは、社民党、国民新党は政策の差があっても最後は民主党の政策に対して賛成に回る事態が生じる。結果として、個々の政党としての存在意味はなくなっていく。
少なくとも、国民目線では、違いはわからない。
おそらく、早晩、この3党連立が行き詰まりをみせることは、間違いない。

変わるべきは国民自身 常に前進し続ける日本の創出を

いずれにしろ、新しい政治の出発である。
決して悲観的にならずに、主義主張を越えて、国民自身が共闘する時代である。
根拠なきバラ色の未来像を描くこともやめたい。
現実を真正面から見据えて、緊迫した目下の課題に全力で取り組みたい。
実際に結果を出すことができなければ、待っているのは、今まで以上の苦しい生活である。
政権交代を望み、それを実現させた国民の責任を果たす。
「チェンジ」を求められているのは、むしろ、国民自身であることを、強く自覚すべきである。


2009年8月26日 (水)【本当にわかっているのか?年金問題 『今の年金制度が破綻している』という事実は、ない。】

衆議院選挙の投開票日まで残り4日足らずとなった。
連日のテレビ番組では、様々なテーマで各党が主張を繰り広げているが、本当にわかっているのか?と思わざるを得ない発言が、実に多い。
それも、堂々と勘違い発言を繰り返す。「これが日本の政治家なのか」と、程度の低さにあきれてしまうこと、しきりである。

時間があれば、ひとつひとつの問題について、丁寧に説いて聞かせたいところである。が、なかなか時間もない。仮にひとつひとつ糾したとして、果たして各政党や候補者が、自らの主張の間違いを認めるだろうかという疑問も、ある(^_^;)
とりあえず、年金問題について一言だけ言っておきたい。

  『今の年金制度が破綻している』という事実は、ないのだ。

「未納が増えると年金制度は破綻する」というウソ

少し前に年金保険料の未納率がニュースになった。
国民年金納付率、最低の62.1% 記録問題・不況響く(朝日新聞7/31)
国民年金の実質納付率、3年連続50%割れ 08年度、社保庁試算 (日経ネット8/23)

この数字をもとに各紙の社説等も書かれている。
09総選挙 年金再建―対立超え安心の制度を(朝日新聞8/26付)
年金改革 党派の対立超え接点を探れ(8月14日付・読売社説8/14付)

未納4割というのは公的年金加入者全体で見ると5%前後。これは制度設計上、当初から織り込まれている見込みでもあり、仮に未納者が6割を超えようが7割を超えようが、制度運用上の支障は、ない。
これは少し調べると、誰にでもわかる事実である。
年金積立金という基金があり、一時的に入金が減るが、減った人の分の将来の年金支給額を支払わないでよいため、なんら支障はないのである。これは簡単な計算でわかると思う。かえって将来の支払い時に税金投入(現行制度で2分の1)分を使わないため、国家財政的には楽になるのである。

にも関わらず、制度崩壊の大変な事態になっている、という論調ばかりである。
政府与党を追い落とそうとする民主党、社民党にいたってはさらに露骨に「年金制度はすでに破綻している」と報道番組の討論で堂々と述べている。
しかし、新聞各紙は「破綻している」という表現はしなくなっていることに、読者の皆さんはお気づきだろうか?微妙な言い回しをしながら、将来の「無年金者」「低年金者」が増加することが問題なのだと、論点をスライドさせているのである。

無年金・低年金者対策の意味とは

年金制度自体が破綻しているのか?
無年金者、低年金者が多く生まれることが問題なのか?
※ここで言う「無年金者」とは保険料の免除を受けている人のことではなく、自分の意思で保険料を納めないために受給年齢になったときに年金を受けない人をさす。経済的理由から保険料が払えない人には減免措置があるため、本人の意思表示さえあれば支給額が減るが無年金になる割合は極めて少ない。

この両者は、明らかに違う。

民主党は「すでに破綻しているので現在の制度を破棄してイチから制度設計を!」と訴えていることは周知の事実である。
しかし、新聞各紙の論調は、明らかに変わっているのである。
しかも姑息なことに、与野党ともに無年金、低年金への対策を考え始めたと書いている。いま指摘するまでもなく民主党は制度そのものが崩壊だと主張しているのであるから新聞各紙の主張は意図的な言い換えが含まれている。

それとも年金問題の本質がわかっていないのだろうか。
朝日新聞の社説ではこんな文章が載せられている。

「今の制度は百年安心」としてきた与党側が、さすがに制度のほころびを認め、年金を受けるのに必要な最低加入期間を現行の25年から10年に短縮することや、無年金・低年金者対策に取り組むと言い出した。

この記事を読んだ読者は、無年金・低年金者対策は年金制度崩壊の象徴だと受け取るだろう。
しかし、無年金・低年金問題は、現行制度の綻びでも、何でもない。
無年金は制度を利用しない国民の自己責任に起因する問題である。
低年金は制度の根幹とは関係ないことであって、年金受給者を広く広げようという意味で、現行制度が運用されているからこそ、できる話である。

無年金・低年金者予備軍を増加させたのは、マスメディアと民主党

年金保険料の未払い者が増え、将来の無年金、低年金予備軍を増やしているのは、他でもない、マスメディアと民主党をはじめとする「年金制度破綻」主張者の責任が大きいと私は考えている。2年近くにわたって言われ続けてきた国民も、不幸である。
確かに、年金運用の未熟さがある。
豪華すぎる保養施設、やらなくていい職員の福利厚生や無駄遣い、横領だってあった。
不正や怠慢については、断固たる姿勢で、対処しなければならない。
消えた年金記録の解明も残っている。
しかし、それと年金制度そのものとは、異質の問題である。

朝日新聞の論説委員ですら、この体たらくである。
不勉強が過ぎるのか、それとも従来「年金破綻」を叫んできた自らの過ちを認めたくないのか、いずれかだろうと私は見ている。
「政権交代」を旗印にする当事者は、おして知るべしである。
おそらくであるが、「年金制度はすでに破綻している」と叫んでいる候補者の何割かは、本当に年金制度が破綻していると思っているのだと思う。
野党の執行部など責任ある方々の多くも当初は破綻していると思ったのだろう。しかし、少し勉強して、それはまったくの誤解であることに、既に気づいていると思う。

大切なのは、過ちに気づいたときの行動である。
今回の選挙を見ていて、痛切に感じるのは、自分たちの言っている主張を実現したらどんなことになるのか、本当に考えていない政党、候補者の多さである。

20090826_2 少し前の本になるが、年金について書かれた一冊を紹介したい。

「未納が増えると年金が破綻する」って誰が言った?(細野真宏) 扶桑社新書

筆者の細野真宏さんは、わかりやすい表現と解説で年金制度の本質を説明してくれている。
この本の中でも、日経新聞論説委員・大林尚氏が、不勉強のためか、明らかに真実ではない論説を書き、その誤りを社会保障国民会議雇用・年金分科会で指摘されたことが紹介されている。
※論説委員の大林氏は反論できなかったにも関わらずその後も訂正しなかった。

日経新聞論説委員・大林氏のような主張が行われるのは、「知識がないために出てくる間違い」であると細野さんは断じている。
ちなみに、この本では、いま話題になっている全額税方式の「間違い」について、数学的観点から指摘してくれている。
実に、おもしろい本である。
ぜひ一読をおすすめしたい。

不幸なのは、自分が損をすると思って、無年金者になってしまう国民自身

ともあれ、私たち日本人は、とかくメディアで語られる話に、弱い。
無条件に「そうなんだぁ」と思い込んでしまうのだ。

不幸なのは「年金保険料を払うと自分が損をする」と思い込まされて、保険料を払っていない人達である。本来であれば、その人達が受給年齢になっても年金を払う義務は、国には、もちろんない。保険料をまじめに払った人とのバランスの問題も出てくる。そんな状況がわかったうえで、無年金者にもある程度、保障をすべきかどうか、本来の保険料の何割しか払わなかった人にはどのような年金支給が望ましいかというのが、いま議論されている「無年金・低年金問題」である。

それなのに、である。
マスメディアも民主党も、破綻だ破綻だと、結果的に「無年金者」になることを煽っておきながら、いまさら何をいわんや、である。
テレビであろうと新聞であろうと、真実を報道しているとは、限らない。特に、政治に関わる事柄については、相当に偏向している者達が存在していることは、周知の事実である。
大切なのは、自分自身で、考え、判断することである。
自分の判断の結果として、無年金や低年金を選び、老後は保険会社の個人年金や資金運用で自分でまかなうというのも、ひとつの選択であろう。

そのような人が仮に国民の9割になっても、年金制度は破綻しないのである。

この点を私達は、よくよく理解しなければならない。

あとだしジャンケンか?!今頃になって制度設計を明らかにした民主党

一度わかってしまうと、いまテレビ等で繰り広げられている年金議論の一方の主張が、いかに幼稚であるかが、よくわかるのである。
その証左であろうか。ここ数日で民主党の主張が、右往左往、二転三転している。
朝日新聞でも

税財源による最低保障年金を主張してきた野党側も、民主党が基本はあくまでも全国民が入る所得比例年金であり、社会保険方式であることを明確にした。最低保障年金は、年金額の少ない人のための補完的な役割で、新たに歳入庁をつくって保険料の徴収を徹底する、との考えだ。

と指摘されているように、期日前投票も行われている今頃になって、全額税方式との主張であったことを曖昧にし、最低保障年金は補助的であり、中心は所得比例年金の保険料方式であることが明確になってきた。明らかな路線修正であり、その変遷からみても、実質から見ても、熟考を重ねてきた制度案とは到底言える代物ではない。

年金保険料だけで所得の20%も負担するのか?!民主党案

民主党が主張する新制度では・・・

所得比例は全国民一律で所得の15%を保険料として徴収する(!)
主婦も世帯主の収入の2分の1と換算して保険料を払ってもらう(!)
自営業者の保険料負担は数倍に!年収400万円の自営業者の保険料支払いは月5万円に、600万円なら7万5千円になる(現行は月14,660円)。

このような事態.を、民主党を支持している有権者は知っているのだろうか?
大幅な負担増がすぐにわかるような、杜撰なかつ危険な制度設計だ。
民主党の年金案を支持している国民が期待するような、バラ色生活ではない。
民主党が今までこの負担増を明言してこなかったのはどういう考えであろうか。
サラリーマン世帯は夫婦で所得の22.5%を負担することになる。
多くの自営業世帯では現行保険料支払いの3〜5倍以上になる。
そして、この所得比例年金の保険料に加えて、最低保障年金に相当する負担が消費税として上積みされるという制度設計になるのだ。
民主党案では、実に、一家の所得の20%が年金保険料の支払いに充てられることになりやしないか?
こんな高額な保険料負担で、生活をしていけるはずがない、と私は思う。
私達はこの案が本当に適切なのか、今一度見つめ直すべきではないだろうか。

社会保障全体への視点が欠けた、行き当たりばったりの政策案

加えて今後の社会保障の大きな負担として、高齢者医療費と介護の問題がある。
民主党はこの2点について、触れようとしていない。
高齢者医療制度に至っては、制度自体を廃止し、「負担増は国が支援する」という(マニフェストNo.21)。かつて高齢者医療制度の必要性を認めた民主党の考えは間違いだったのか?と問いたい。「国が支援する」と言っているが、財源は示していない。これでは税金投入ということになり、負担を強いられるのは国民になってしまうのではないか。

今回は、時間の都合で年金制度についてのみ触れたが、他の政策(案)についても同様に吟味するべきであると、感じている。
国民の多くが、民主党を支持し、政権交代が実現するとのメディア報道が当たり前のように行われてきた今だからこそ、あえて問いたい。

この状態で、政権担当能力がある、国民の生活を支えることができると、本当に言えるのだろうか。

私たち一人ひとりの資質が、問われるとき。

百歩譲って、このような負担増も、本当に現行制度が破綻していて、新制度に移管しなければならないのであれば、我慢もできるだろう。
しかし、本当は破綻していないとしたら・・・
自分の発言に責任を取らない政治家が、実に多い。
ならば、私たち庶民が、自らの責任で行動するしか、ない。

とくに今は今後4年間の日本の社会保障、安全保障、国際平和、教育、経済、庶民の生活を大きく左右する、重大な決断の時である。
ある人が話していた一言が印象的だった。

「うっかり一票、がっかり4年」。

私達には、賢明になることが求められている。


2009年8月24日 (月)【第53回桂冠塾 『流れる星は生きている』(藤原てい)】

8月22日(土)に今月の桂冠塾(読書会)を開催しました。
今回取り上げた本は、藤原てい作『流れる星は生きている』です。当日は3名の参加で開催しました。

作品の概要等はこちらをご覧ください。↓
http://www.prosecute.jp/keikan/053.htm

戦争の被害は、常に弱い者のところにしわ寄せが集まってくる。これは戦争に限られることでは、もちろんないが、国家という巨大な集団で決定がされる場合、個々人の幸不幸が省みられなくなるのは戦争の犠牲の典型であるといえよう。

しかし、物事の本質はそんなところにあるわけではないと私は思う。
この作品の哀しさは、そうした戦争被害者という括りよりも、「子連れの母親」が戦争に負けた日本、満州国からの引揚げ者の中においても、観象台疎開団という小集団においても、常にもっとも虐げられ、邪魔者扱いされたことから生まれている。

本来であれば、敗戦国の一国民であり、満州からの引揚げ者という、同等の最底辺で生き抜かねばならない、同じ境遇の同胞である。しかし、そんな最底辺の集団においても厳然と格差が生まれる不条理さ、そして哀しさ。
自分の生活を守るためであれば、恥もせずエゴをむき出しにする人々。
少しでも自分の利益になることであれば、まわりの知人であっても、平気で騙す、利用する。
自分の不利益になる人間は、容赦なく排除する。
金銭で解決できることは、不道徳な行為であっても次第に平気になっていく。

それは、主人公である藤原てい氏本人も決して例外ではない。
そんな思いまでしながら、引揚げ者は生き抜こうとする。
生きて、日本に帰り着こうと必死で、前へ、前へ進む満州からの逃亡者たち。
その途上で、わが子を死なせてしまった母親。
一人の子供の生命を守るために、もう一人の子供を見殺しにする母親。
わが子の生命でさえ、守り通すことができない極限状態なのだ。
他人のことを思いやることなど、できなかった。
自分のことだけを考える悪鬼のような、餓鬼のような形相で、回りを蹴落としながら、生き抜いた。
そのことを、誰が責めることが、できるだろうか。

主人公が三十八度線を超えていく場面は、なんと言ってよいのか...表現のしようがない。
土砂降りの雨の中を、3人の子供を抱いて、歩かせ、阿修羅のごとく、歩けないと言う子供を引き摺り、後ろから子供の尻を蹴り上げ、突き飛ばし、怒鳴り散らしながら、泥まみれになって、泥濘の山を登っていく。
子供は、下半身むき出しで、寒さと恐怖でぶるぶる震えている。
足の裏は破れ、傷口に小石や砂がめり込み、化膿して激痛で歩けない状態。
それでも、母親から怒鳴り散らされ、突き飛ばされながら、泣きながら、前へ、前へと進むしか、ない。
子供は次第に震えることもできなくなり、感情すら喪失していく。
ただ、ただ、哀しい。
読んでいても、読み続けるのが辛くて、たまらない。
涙すら出ないほど、胸の奥が締め付けられるのだ。

よくぞ三人の子供たちが生き延びたものだと思わざるをえない。
次男を生死の淵から蘇生させられたと思ったそばから長男が死の彷徨に沈み込む。
もうすぐ故郷にたどり着くのに...というところまできているのにゼロ歳の長女の生命をつなぐすべもない...。
人間としての、親としての無力さ。子供を守りきれないかもしれないという、不安に押しつぶされそうになる思い。

何のために、生きるのか。

朝鮮の青年に問われた疑問は、限りなく危険な誘惑でもあった。
こんなに苦しい状況なのだ。
こんな思いまでして、生きなくてもいいんじゃないか。
私は、もう十分、頑張った。これ以上は、もう、いいよ...。

そう思ってしまったら、生き抜くことはできない、と私は思う。
実際にそう思ってしまい、生きることをやめてしまった引揚げ者も多くいたのではないだろうか。
そう思うと、辛くて、哀しくて、やりきれなくなっていく。
フィクションの小説であったら多少は気楽に読めたかもしれないとも、思う。
事実の持つ力は、私達を、完全に押しつぶそうとしている。

戦争は絶対に、どんな理由をつけたとしても、悪である。
その戦争を行うのも、阻止するのも、所詮は一人の人間である。
そして、一人の人間をエゴイストに追いやるのも、究極的にはその人自身の決断である。

感傷的になってしまいそうな思いを、ぐっと踏みとどまって、今自分が置かれた立場でできることを考え、一歩でも前進するために行動することを選択したい。
この作品の中でも、同じ状況に身をおきながらも、他人のために行動する人々が、さりげなく描かれている。
その人数は、限りなく少数である。が、確実にその人達が、いた。
エゴの生命をむき出しにした人達と、他者のために生きた人達。
この違いはどこから生まれて、どのようにして、なぜ貫くことができたのか。
私たちは、その点にも着目すべきであると、私は強く思っている。

それが戦争を生き抜いた、戦争で生命を落とした先人の方々に、報恩を捧げるひとつの行動ではないかと思うのである。

【開催の内容などはこちら↓】
第53回桂冠塾 実施内容 http://www.prosecute.jp/keikan/053.htm


2009年8月18日 (火)【「2大政党制まずありき」との世論を問う なぜ自民党政治は崩壊したのか?】

第45回衆議院議員選挙が今日8月18日(火)に公示された。
8月30日(日)の投開票日に向けて12日間の選挙戦がスタートする。

今回の選挙の”焦点”は「民主党が政権を取れるのか」の一点に当てられている。その意味で「自民VS民主」の対立構図は投票日当日まで続くだろう。
しかし選挙の”争点”はと問われて、明確に回答できる人はさほど多くないのではなかろうか。言い換えれば、有権者の関心は政権という「枠組み」にのみ向いてしまい、結果的に「政策」「政治理念」といった「内実」を軽視することになっているのではないか。
そんな不安を拭うことができない。

今日はあえて皆さんに問いたい。
2大政党のみの選択で本当によいのか。

そもそも最近の歴史の中で日本が2大政党制を志向したのは1980年代の後半、20年ほど昔の話である。
もともと明治の時代から選挙区の規模は何度も見直されてきた。
戦後においても鳩山内閣、田中内閣の時代に実施が模索された歴史がある。
現在の小選挙区制が導入された直接的な要因は、「中選挙区制においては選挙運動にお金がかかりすぎる」という反省から出てきたものであった。
実際に実施されたのは1996年の衆議院選挙であり、その歴史は13年ということになる。
検討されていた1980年代後半当時は社会党も存在して政治的には55年体制が続いており、自民党による一党独裁の弊害が叫ばれていた時代である。世界的にもイギリス、アメリカで2大政党制が機能していた時代である。
社会的にはバブル崩壊前の理念なき強者によるマネーゲーム、そして実際に小選挙区制が実施された1996年当時はバブル崩壊後の負の遺産がいつまでも解消しきれず、日本から世界不況が広がるかもしれないという危惧が蔓延していた「不安の時代」でもあった。
「ガラガラッポン」なんて言葉が流行り、社会構造の根底からの変革を国民全体が希求していた。
そんな時代だったと記憶している。

しかし、すぐには2大政党制の時代を迎えることはできなかった。
9党大連立を経て「新進党」結党という歴史的な舵を切った日本政治であるが、自民党に対抗する勢力の政治的資質の欠落、未熟さが浮き彫りになり、「自社さ政権」という新たな枠組みかと期待されつつも数日で馬脚を現した連立政権の現実によって、日本国民のわずかな希望は打ち砕かれたのであった。

その後、日本発世界恐慌の危機に直面した日本政治は「自自公政権」という自民党を中核とした連立時代に突入。「自公保」を経て現在の「自公連立」に至っている。
新進党時代に下野した自民党は、出直し的解党と叫び、従来の政治を大反省したはずであったが、数年しないうちに族議員が復活し、完全解消するはずだった派閥も堂々と復活した。
そんな自民党の体質に、官僚の腐敗も次々とあからさまになり、国民は政治不信を極限にまで増大させていく。
この間も、日本政治は2大政党制を叫び続けてきた。
その主眼に「自民党政治をぶっつぶす」という国民の怒りがあったことは明白である。
小泉内閣が国民の支持を得たのは、自民党政治の復活を認めたのではなく、郵政民営化を支持したわけでもなく、自民党を根本から変えてくれるのではないかという期待値が相当に高かったことを、私達は忘れてはならないと、私は思う。

中選挙区から小選挙区制への移行は、その明白な政治の意思である。
しかし、この20年近くで庶民の生活は大きく変化し続けている。
2大政党で国民の意思を反映することは、もはや現実的ではない。
言うならば、2大政党制の時代は、大量生産大量消費の時代の国民にふさわしいのではないだろうか。
白か黒か。
イエスかノーか。
こんな風に世の中の出来事を2分しても多くの国民の意思を掬い取ることができる時代。

翻って現在の世界。
価値観の多様化、個性の尊重、自立した人間性を尊ぶ時代になった現代。
2つの政党のみで国民の意思の大半を反映できる時代ではないことは誰の目にも明白ではないかと、私は思っている。
世界に目を転じてみても、イギリスにおいても第3勢力の台頭が始まって久しく、もはや2大政党制はアメリカの専売特許と化した感がある。
なんでもかんでも大規模化を目指し、勝負の勝ち負けをはっきりさせる社会風土にふさわしい気もするが、そんなアメリカで2大政党制が維持できるのは大統領制で行われていることに大きな要因があることを、見逃してはならない。

そして、現代の日本。
2大政党と言われるそれぞれの政治理念にどれほどの差があるのだろうか?
自民VS非自民。
これが実態ではないか。
こうなると「非自民」というのが、実に危うい。
元をたどれば典型的な自民党保守政治家もいれば左翼といわれた旧社会党の重鎮まで存在する「その他ごった煮」状態であることは多くの国民の知るところであり、政権を担当した後のドタバタ劇の顛末は想像に難くない。
国家の意思決定ができるのかどうかすら、疑わしい、と私は見ている。

今回の衆議院選挙で日本国民、有権者の決断が行われる。
そのうえで、本当に2大政党制でよいのか。
その2つの政党にどんな違いがあるのか。
有権者が選ぼうとしている「変化」はプラスかマイナスか。
それを真正面から対峙する勇気を持たねばならない。
マスメディアや「みんなが言っている」というようなあやふやな基準ではなく、自分自身の判断で、第3の選択肢を真剣に、勇気を持って、模索し決断することが求められている。

閉塞した現実を目の前にしたとき、人は「チェンジ」を求める。
大切なのは、そのチェンジが、積極的な挑戦なのか、苦しい現実からの逃避、破壊なのか、その姿勢である。
同じように「チェンジ」と表現されても、その結果は180度、違う。
チェンジも「力」であるが、持続も「力」である。

目下の課題に生きよ。
そして、
進むべき道を決めきれない時は、自らが苦労する道を選ぶ。
目の前の困難を避けるのではなく、乗り越える道を選ぶ。

これが私の判断基準である。

2009年8月5日 (水)【『百年の孤独』(ガルシア・マルケス) 第52回桂冠塾】

7月25日(土)に7月の桂冠塾(読書会)を開催しました。今回の本はガルシア・マルケスの『百年の孤独』です。

私は読み始めてみてすぐに、居心地のよくない違和感を感じることになる。多くの読者が気づいているのではないかと思うのだが、この作品の基本的設定の部分で、記述内容に大きな矛盾がある。
それは「なぜマコンドという村が開かれたのか」というストーリーの発端部分の記述が明らかに矛盾しているからだ。

22ページの記述では周辺一帯の地理の不案内であるという文脈の流れの中で

「実はまだ若かったころ、彼(ホセ・アルカディオ・ブエンディア)とその一行の男たちは女子供や家畜を引きつれ、家具什器のたぐいを洗いざらいかかえて、海への出口を求めて山越えをはかったことがあるのだが、さすがに二年と四カ月めにはこの難事業をあきらめざるをえなかった。そして、帰途につく労をはぶくためにマコンドの村を建てたのである」

と記述している。この記述では、マコンドを建てた理由は、「海への出口」を探す旅に出たが探しきれずに帰る労力を省くために住み着いた、ということである。

しかし、その少し後に全く異なる理由が述べられている。
32ページから38ページにかけて、ホセ・アルカディオ・ブエンディアとウルスラとの結婚、その後、彼らの行為によって殺された男プルデンシオの亡霊が現れるようになったことが書かれている。その亡霊を安心させるために、ふたりは同行することになった仲間たちと共に「二度と戻ってこない」山越えを敢行したと書かれている。
そして山脈の西側をさらに進み、「凍てついたガラスの流れにそっくりな水がはしる、岩だらけの川岸」にたどり着き、その夜に見た夢でその場所にできる村の名前が「マコンド」であると告げられ、その場所に定住したとある。

つまり、元々いた場所から出発した理由も違っていれば、マコンドの場所に定住した事情もまったく違う記述である。元いた場所に戻ってくるつもりがあったのか、なかったのかという意思も異質なのである。

他にも、ジプシーのメルキアデスが最初にマコンドに持ち込んだものは「磁石」だったのか「頭痛に効くというガラス玉」だったのか、それぞれに読み取れる記述が並存する。

海に行き着くことができないほどの遠く離れた土地であるはずが、はるか彼方に静かな海が見えていたという記述もある。

こうした明らかな記述上の矛盾が、この作品にはいくつかある。
しかし、こうした記述の部分部分についての指摘は割愛したいと思う。それはこの作品の主題を損なうほどの重大な問題ではないと思うからである。

この物語にはいくつかの主題が盛り込まれている。
レベーカがマコンドで最初に罹ったように読める伝染性の不眠症の持つ意味。
ホセ・アルカディオ・ブエンディアが、懲りもせずに次から次にと新しい偽の技術や情報に没頭する。
自分たちで建設したマコンドの存在が国家によって派遣された官吏によって統治されそうになる事態。
思想の違いなのか、国内での戦争が始まり、巻き込まれていくマコンドと家系の人々。
鉄道や通信、電気などの新しい文明との出会い。
男と女の愛憎と行為、妊娠と出産を経て複雑に絡む近親家系が続くという事実。
歳をとってからのそれぞれの生き様と死に様。
マコンドの人々と町の外からやってくる人達との関わり、交流、相互の影響、etc...。

中でも重要な役割を果たすのがメルキアデスの存在である。
マコンドが建設された当初から出入りしているジプシーであるが、物語の早い時点で死んでしまう。折々に語られる「わしは熱病にかかって、シンガポールの砂州で死んだのだ」とはこのことである。
しかし、死の世界から「伝染性の不眠症」の治療薬を持って現れる。
死の世界の孤独に耐え切れずに舞い戻ったと説明されている。
生への執着の罰として、超自然的な能力を奪われ、種族の者に忌み嫌われたと。
そして、死がまだ発見されていないこの世界(マコンド)の片隅に身を潜めて銀板写真術の開発に努力を傾ける決意をして現れたのだという。

ガルシア・マルケスの作品が超科学的とも魔術的とも言われる典型的な場面である。

その後、メルキアデスはノストラダムスの解釈に没頭し、マコンドの未来予言を探り当てたと確信する。それは、

「マコンドはガラス造りの大きな屋敷が立ちならぶにぎやかな都会になるに違いない。ただし、ブエンディア家の血をひく者はそこには一人もいない」

というものだった。
その数ヵ月後、メルキアデスは水死する。
その間に羊皮紙に謎めいた文字を書きなぐっていた。
それが何であるのかがわかるのはアウレリャノ・バビロニアの時代を待つことになる。
彼は死んだメルキアデスと話ができた。
メルキアデスが残した羊皮紙に書かれている文字がサンスクリットであることを知り、サンスクリット語を勉強し、メルキアデスの助けを得ながら解読を進める。

急速にマコンドが衰えていく。
300人もの犠牲者を出してバナナ会社が撤退し、多くの住民がマコンドを去っていく。
そんな中、ブエンディア家最後の継承者アウレリャノが豚のしっぽを持って生まれる。

「この百年、愛によって生を授かったものはこれが初めて」−−
そのアウレリャノが、持って生まれてきた豚のしっぽこそ、ホセ・アルカヂオ・ブエンディアとウルスラが恐れていたものであり、マコンドを建設した直接の動機であった。

「忌むべき悪徳と宿命的な孤独をはらう運命をになった子」−−
その子も父親が留守をした間に死に、「ふくれ上がったまま干からびた皮袋のような死体」が蟻の大群によって運ばれるシーンには、衝撃と悪寒が走る。

この瞬間、メルキアデスの書き残した羊皮紙の表紙の言葉が浮かび上がる。
『この一族の最初の者は樹につながれ、最後の者は蟻のむさぼるところとなる』

アウレリャノ・バビロニアによって一気に羊皮紙の文字が読み解かれていく、この後の展開はスピードが最高潮に達する。
マコンドの百年の歴史<予言>をすべて一瞬のうちに封じ込めたメルキアデスの文章を読み進めると同じ速度で、マコンドは終末に突き進む。
そして、メルキアデスの文章と諸共に、マコンドは地上から消滅し、この物語は終わった。

メルキアデスの予言書通りにマコンドの運命が辿ったのか。
それ以前に、マコンドの運命が決定づけられていたのか。
決定づけられていたとすれば、その決定要因とは何であったのか。
そもそも、ガルシア・マルケスが描こうとした「マコンド」とは何だったのか。

正確に、この作品を解説、紹介することは難しいのかも知れない。
少なくとも書籍の帯に書かれているような紹介文(「愛は、誰を救えるのだろうか?孤独という、あの深淵から・・・・・・。」という文章)などは、本質に迫っているとは、まったく言えないと私は思う。
多くの風刺や社会批判も含まれていることも事実である。
しかし、それ以上に、運命という言葉で表現される、大きな生命法則のようなものに、ガルシア・マルケス自身が果敢に挑もうとしたように思えてならない。
皆さんはどのように感じられたであろうか。

(※ページ番号は2006年改定版に準拠)

【当日の実施内容などは↓】
第52回桂冠塾 http://www.prosecute.jp/keikan/052.htm 

2009年7月9日 (木)【少なからずの違和感 『都議選は衆議院選挙の前哨戦』】
私の住む東京では今月3日、東京都議会議員選挙の告示を迎えました。
12日の投開票日まで各候補の主張が繰り広げられることだと思います。

マスメディアでは衆議院選挙の前哨戦と位置づける報道が相次いでいますが、都民である私からみると少なからずの違和感があります。
たしかに首都東京の政策が国政をリードしてきたという歴史があり、都議選での有権者の動向が直後の国政選挙と同様の動きをするということも事実ですが、都道府県は知事の力が絶大であり、議会内の勢力分布ではなく、知事の政策を支持するかどうかで政権与党かどうかの判断になります。
その意味では「首都東京から政権交代」という言葉は、完全に国政に向いた主張で、都民不在ということであり、完全に争点がずれている。
有権者が「そうなんだ」と思ってしまうとしたら、結果的に悪意のあるミスリードと言わざるを得ない。
都議会議員は東京都民の代行者であり、都民生活にどれだけ寄与しているか、また今後4年間で何をやるのか、その実績、政策、資質で判断するのが、あるべき姿ではないか。
これは東京都議会議員選挙に限らず、地方行政、地方自治における有権者の判断基準であると私は思います。

「政権交代か政権継続か」が議員選挙で問われるのは、議員内閣制が採用されている国政における判断になります。
そのうえで、政権継続か政権交代かを考えるのは一定の意味があると思いますが、枠組がどうかは最重要ではなく、何をやるのかで判断していかなければ「顔ぶれは変わったが中身は似たり寄ったり」になりかねない。場合によっては、今よりも悪い結果になる危惧もある。
この点は今回の争点ではないので、また機会があれば語り合ってみたいと思います。

皆さんはどのように感じておられるでしょうか。
2009年7月1日 (水)【英国事例に考える 陪審員制度の目指すものとは】

イギリスの裁判で、被告の知人によって陪審員に圧力がかけられ、陪審員を抜いて判決を下すことが報道されている。
このニュースは、陪審制度に馴染みのない日本人にとって、驚かされることが多い。

@イギリスでは陪審員制度が定着

陪審員制度はイギリスが発祥の地であり、18世紀から続けられてきている。特に重大犯罪においては陪審員による裁判を行ってきた歴史がある。
日本における「法の専門家」による専権事項とは対照的である。

A陪審員の重み

被告人の仲間が圧力をかける事件が起きるということは陪審員の裁判への影響力が大きいということの裏返しである。陪審員の判断一つで判決が変わるからこそ、被告人関係者が圧力を、また場合によっては意図的誘導を図るのであろう。

B明白な法制度への挑戦

その歴史の中で、2003年の法改正で、一部地域を除いて陪審員が圧力を受ける可能性がある場合は例外措置として陪審員抜きでの審理が認められ、今回がその初適用だという。
今回に限らず、暗に陽に、圧力をかける輩が存在してきたということだ。
どんな制度にしても、それを破壊してしまうのは人間である。

C陪審員制度維持への熱意

さらに驚くのは、この裁判ではこれまで第一審の陪審裁判は3度行なっていて、その費用が実に2400万ポンド、日本円で約38億6400万円にのぼっている!
今回4回目を陪審制で行えば、陪審員の警護などで新たに600万ポンド(約9億7000万円)がかかるという。
確かに凶悪犯罪とはいえ、ひとつの裁判に40億円もの公的経費をかけているということだ。これが上告となればさらに経費は嵩んでいく。
日本では考えられない裁判にかける公的経費である。

日本の陪審員制度は、何を目指して導入するのだろうか。
いま一度、法の精神に立ち返って考えてみる必要があるのではないだろうか。
イギリスで、ここまでして維持運用されてきた陪審員制度。
運用に関係する明暗、制度を維持するための公的経費の執行ができる社会的、歴史的背景、そして国民的コンセンサスが、いかにして形成されてきたのか、学んでみたいと感じる事件である。

【関連リンク】 英で初の陪審員抜き裁判…被告の仲間が脅す : YOMIURI ONLINE(読売新聞).

2009年6月23日 (火)【【読書会】『大尉の娘』(プーシキン) 第51回桂冠塾】

今月21日(日)に第51回桂冠塾(読書会)を開催しました。
今回の作品はプーシキン作『大尉の娘』です。
当日は4名の参加で行いました。

051_2プーシキンは19世紀前半の近代ロシア文学を代表する国民的作家です。
本作品は1773〜75年に起きたプガチョーフの乱(プガチョフの乱)が大きなモチーフになっている歴史小説の走りとも言え、ロシア文学の研究においても重要な作品となっています。

主人公はピョートル・アンドレーイチ・グリニョフ。
幼名はペトルーシャですが、この一家では男の子の幼名には「ペトルーシャ」の名前が多用されているのでしょうか、彼の孫も「ペトルーシャ」と呼ばれています。
作品は彼の手記という形で孫の「ペトルーシャ」に読ませるために書かれたという体裁が「前詞」で書かれていますが、ロシア国内で発刊される本ではほとんどこの「前詞」は掲載されていないと翻訳者の神西清氏自身によって説明されています。

日本語訳の本のつくりを見ると、神西氏は翻訳家ではなく研究者なのだということを感じます。
「前詞」もそうですが、「拾遺の章」を収めたり、最終稿でプーシキン自身によって削除されている表現がカッコ付きで挿入されています。
また、この作品を表現する文庫本の概略説明等で使われている「生活記録的な側面」という表現も少し特殊です。
この元は、やはり神西氏によるあとがきに書かれている「単なる歴史小説ではなくて、他面に家庭記録の要素を含んで」云々の表現を、そのまま転用したことで生じているのは明白です。
実際に読んでみると、そのような印象はほとんどなく、「生活記録的」というのであれば古今東西の多くの小説作品は同様の表現になるではというのが正直な感想です。要するに要約する出版社の担当者があまり作品本体を読んでいないのかもなぁと感じます。
いずれにしろ、この「生活記録」「家庭記録」という表現は、文学上のカテゴリ分けで行われていることは殆どないと思います。

さて、作品そのものの感想を少し述べておきたいと思います。

この作品の主題はどこになるのでしょうか。
プーシキンの着想は史実であるプガチョフの乱に興味を持ったことですが、モチーフに大きく影響したのはある実在の人物を知ったことだといわれています。
プガチョフ一派に捉えられ通訳として働き、鎮圧後に処刑されたとも、女帝エカチェリーナ2世の恩赦を受けて釈放されたとも言われているミハイル・シヴァンヴィチ少尉がその人物です。
この人物をモデルにして、主人公ピョートル・アンドレーイチ・グリチョフと宿敵シヴァーブリンが生まれたというのが通説となっており、読んでみると「なるほど」と思います。

あまりにも通俗的で自分のためになら信念など、ころころ変えてしまうシヴァーブリン。
富豪の家庭に生まれ、坊ちゃん育ちながら、様々な人生経験を経ながらも、次第に曲げてはいけない信念というものを直感的に体得、実践していくグリチョフ。
シヴァーブリンは「悪」で、グリチョフは「正義」と言ってしまえば簡単な構図になってしまいますが、グリチョフはぎりぎりのところで人生の選択をしていくシーンは読み応えがあります。

ただ、気になる点もいくつかあります。
登場人物の関係をムダなく活かしている点は、ある意味まとまりすぎているという印象が生まれてしまいます。
最終章でのマリヤの行動から生まれる結果は、ペンを急いだのか、少し安直に過ぎる感を感じるのは否めないでしょう。
桂冠塾の参加者からも「漫画(劇画)でありがちなハッピーエンド」「そんなに都合よくいかないよな」という声も出ていましたね(^_^;)

そんな印象も含めて、対照的な二人の生き方を通してプーシキンが訴えたかったものは何だったのか。
それは、歴史に埋もれた人間の生き様、信念を貫くという行動の持つ意味を訴えたかったのかもしれません。
プガチョフの乱そのものが前皇帝を詐称したのが発端。
そんな犯罪者かもしれない人物に農民やコサックを中心に数万人が自分達の思いを託した。
この作品からしか推し量ることができないので事実はどうかわからないが、自分達の首謀者は前皇帝ではなくて僭聖者かもしれないと思っていた者も少なからずいたのかもしれないと感じる。
それでも反乱に身を投じた庶民もいたのかもしれない。

何が真実で、何が貫くべき信念なのか。
プーシキンは、私達に、そんな命題を問いかけたかったのかもしれない。

【当日の内容などはこちら↓】
http://www.prosecute.jp/keikan/051.htm

2009年6月19日 (金)【信仰は生活と隔絶してよいのか 聖職者は裁判員辞退をとの見解に疑問】

カトリック中央協議会は今月18日、国内の日本人聖職者らが裁判員に選ばれた場合は「原則として辞退するよう勧める」とする公式見解を発表した。
勘違いのないように指摘しておくと、同会は裁判員制度そのものの是非を問うているのではない。同会の聖職者に対して「裁判員に選ばれたら辞退しなさい」と勧めているのだ。なお一般信者については個々人の判断に委ねるとしている。

同会に所属するとされる国内の信者は約45万人、そのうち聖職者らは約7000人だという。
公式見解の判断基準は、全世界のカトリック教会に適用される「教会法」で聖職者は国家権力の行使にかかわる公職に就くことを禁止していることを挙げており、裁判員の職務がこの規定に抵触すると判断したとのことだ。

こうした規程があるということらしいので、それはそれでその決め事を守るというのであればあれこれコメントすることではない。
ただ、そもそも宗教、信仰に関わる者が国家権力の行使に関わるなという思想は、いかがなものだろうか。

現代を生きる私達は、多かれ少なかれ、何らかの社会に属して、その恩恵を受けたり、構成員としての役割を果たしている。
そもそも宗教とは「宗(もと)となる考え、法則」を現わす基本的思想を指す。日本人は無宗教を標榜する人が多いが地球規模で見渡せば大半の人民は何らかの宗教信仰を根本に人生を送っている。

そうした宗教信仰を持つことがグローバルスタンダードである地球市民が存在する現状を無視するかのような「国家権力に関わる公職に就くな」とされる宗教指導者、聖職者の存在に、どのような意味があるのだろうか。
教会法のその条文の成立には、歴史的な背景があるには違いない。
しかし正直な印象として、今回の公式見解を含めてこれらの考え方は「自分達が取り込まれてしまいそうな大きな権力には関わるな」という消極的、閉鎖的、ネガティブな生き方、人間性の可能性の矮小、否定的な断定を感じてしまう。

しかし、そんな巨大な魔性の巣窟のような国家権力であっても、突き詰めれば私達一人一人の生活の集大成としての組織に過ぎない。
国家社会とは、社会的共同体とは、個人の生活、家族の生活、村落共同体の延長線上に存在しているのは紛れもない事実だと私は考えている。
そうであれば、一人の人間の生き方の根本に大きく影響する信仰に関わる者が、社会的役割を限定的にするというのは、明らかな自己矛盾ではないかと思うのである。

宗教とは、現実の生活を改善して、人生、そして全世界の未来に対して関係を持ち続けるものであると、私は思う。
それとも信仰は、国家のような巨大な組織に対しては、純粋な信仰心を保ち続け、信仰実践の結果をあらわすことが困難だというのだろうか。
国家がダメというのであれば、地方自治体でもダメなのか。
地域の町会はどうなのだろうか。
公的な財団法人の職責はどうなのか。
小中学校のPTA役員は?...
それが同じような職責を果たしていても、組織がNPOだったり一般企業だったりすればOKだということだろうか...。
その線引きは曖昧で、区別したとしても現実的には何の意味もないような事態も考えられはしないか。

そもそも、規模の大小、権力的影響力等が大きいか小さいかという点で判断が分かれるような判断基準が正しいとは、必ずしも言えないと私は感じている。

真の宗教、信仰とは何か。
信仰を実践する者としての社会、国家との関わりのあり方を、もう一歩踏み込んで、いま一度真剣に考えてみる必要があると私は思うが、皆さんはどのように感じるだろうか。

【関連記事】「聖職者は裁判員辞退を」カトリック中央協議会が公式見解  YOMIURI ONLINE(読売新聞).
【関連リンク】カトリック中央協議会

2009年6月19日 (金)【教育関係者らが発足「新漢検」に期待 10月に初検定】

前理事長の大久保昇、前副理事長・浩親子による背任行為等で社会問題化している日本漢字能力検定協会。
彼らが行っている「漢字検定」は学校教育の一環として位置づけてられている側面もあり、教育関係者の間では今後の対応が苦慮されている。

今回、毎日新聞のネット記事で、高校中学の校長経験者らが一般財団法人を設立し新たに漢字検定を始めることが報道されている。
従来の漢字検定との混同を避ける意味もあるのだろう、「新漢検」との愛称で普及を図るという。

短期間での準備にもなり、実務を担当するスタッフを揃える余裕も充分ではないと思われるので、スタート当初は何かと不手際も発生することも予測されると思う。
しかし、現状への不満を述べるだけではなく、自ら解決の方途を探り実行しようという姿勢に、賛同のエールを贈りたい。
この事件を単なる悪事に終わらせることなく、よりよき改善の契機となることを祈りたい。

【関連記事】新漢検:10月に初検定 元高校教諭ら組織 - 毎日jp(毎日新聞).
【新漢検について】日本漢字習熟度検定機構
【従来の漢字検定】漢検 財団法人日本漢字能力検定協会

2009年6月18日 (木)【責任の取り方はこれでよいのか 名門近大ボクシング部が廃部】

近畿大学がボクシング部を廃部することを発表した。

名門、近大ボクシング部が廃部 部員2人逮捕で(イザ!).

近畿大学の学生2人が大阪府東大阪市の路上で男性を殴るなどして金を奪ったとして逮捕された事件についての処分として発表された。単発の事件ではなく余罪が10数件にもなるという。彼らがボクシング部に所属していたことで、近畿大学は今回の処分を決定したのだという。

常習性も感じられ、相当悪質な事案ではないかと推察される。
しかし、ボクシング部の廃部は適切な措置だろうか。
ボクシング部の関係者が犯罪を犯した2名の素行に関わっていたというのならば、処分もわからないでもない。しかし、報道をみる限りでは、ボクシング部員とはいえ個人の犯罪の範疇を出るとは思えない節がある。
もしそうならば、何のためにボクシング部を廃部する必要があるのだろうか。
廃部をすることで、犯罪の抑止になるのだろうか。
廃部によって、ボクシングをしたい学生達の機会を奪うことになる。
その対価に匹敵するほど、廃部は必要な措置なのだろうか。

ボクシング部員だから、ボクシング部を廃部する。
ならば、近畿大学の学生なのだから、近畿大学を廃学しなくてもいいのか。
暴論覚悟で、あえて言えば、そんな論理にもなってしまう。
時代劇や小説、歴史の勉強で、不祥事を起こしたら「お家断絶」「藩お取り潰し」「隣組制度」を知っている私達の意識のなかでは違和感がない措置なのかもしれない。
しかし、である。

犯罪を犯した者の「連帯責任」を問うことは、慎重に吟味すべきである。

【関連リンク】 名門、近大ボクシング部が廃部 部員2人逮捕で(イザ!).


2009年6月9日 (火)【第33回黎明塾 ホリスティック・マネジメント】

今月6日(土)に第33回目の黎明塾(経営勉強会)を開催しました。
今回のテーマは「ホリスティック・マネジメント」です。

実質的に第2期の最終章となる今回は、各回で学んだポイントを押さえながら、全体観に立った経営のあり方について考えました。
少し前までは「トータル・マネジメント」と言われていた考え方ですが、有機的な全体観といったニュアンスの必要性を前面に出した表現として「ホリスティック」という言葉が用いられるようになってきています。

今回のポイントは、インターナル・マーケティングの考え方をベースとして、中小零細企業における「コーズリレーテッド・マーケティング」のマネジメントの必要性について考えました。
昨今の経済状況を見るにつけても今後ますます経営環境が厳しくなるのは間違いがない。そんな状況下において、小規模経営において自他共の繁栄を目指すビジネスは存続できるのか。私達が突きつけられている課題は、あまりにも大きく圧し掛かってきています。

現実の生活で採算を取ってこそ持続可能な社会を構築することが可能になります。
机上の空理空論ではない実学と実践の現場。
私達が今日、明日、直面しているのは、そんな差し迫った生々しい現場です。

次回で第2期は最終開催となります。

【関連リンク】第33回黎明塾実施内容

2009年5月26日 (火)【『吉田松陰』(山岡荘八) 第50回桂冠塾】

5月23日(土)に今月の桂冠塾(読書会)を開催しました。
今回は山岡荘八作『吉田松陰』です。

吉田松陰、寅次郎矩方の生涯は、大きく5つの時期に分けて捉えることができます。
若き時期から
@ 〜11歳 幼少期から徹底した秀才教育の時期
A11〜15歳 人間形成の時期
B16〜19歳 既存学問の集大成の時期
C20〜25歳 人と出会い見聞を広める諸国周遊の時期
D25〜30歳 リーダー、教育者としての後半生の時期
です。

私達の持つ「吉田松陰のイメージ」は5番目に位置する5年間が強いわけですが、その5年間に至る「前半生」である25年間を知ることが松陰に実像に迫る重要な鍵です。

読み進めるにつれて私達が持つイメージと違う吉田松陰が現れてきたように感じた方がおられたのではないかと思います。
松陰は決して幸運とはいえない環境に生まれ育ちますが、常に前向きな向上心を持ち続ける父母のもとで兄弟にも恵まれて急激に成長していきます。

松陰は若くしてひとかど以上の秀才になりますので、毛利藩の方針の中での人生の軌道を選択したとしても、それなりの歴史に名を残したかもしれません。
作品に描かれる松陰は、人間味にあふれています。
少し新しいことを覚えると天狗になり、知らないがゆえに厚顔無恥な意見書を出し、後年自分自身で恥ずかしくなったりしています。
その一例が19歳の時の意見書提出のあとの松陰の言動であり、20歳になって初めて藩内海岸防備視察に行った際の浮かれように現れています。
このときの松陰は、まるで修学旅行に行っている中学生のようです。
無邪気といえば無邪気ですが(^_^;)このときの状況のままで何も変わらなかったとしたら、その後の松下村塾での薫陶は実現しなかったのは明白です。

松陰はその後、九州視察に赴き、自分の見識がいかに浅薄であったかと思い知らされます。彼はこうした挫折を飛躍台にしながら自分自身の境涯を大きくし続けていきます。

その象徴的な出来事がアメリカ密航の失敗です。
計画自体が幼稚だったという批評もできるかもしれない。
確かに失敗直後に松陰が振り返って、杜撰な点をいくつも指摘できるくらいであったのだから、成功する確率など限りなくゼロに近かった。

しかし、山岡荘八氏が書いているように、極限での失敗に直面した時こそが、その人の人生の岐路です。
絶体絶命の悲観的状況に追い込まれた時、殆どの人が「諦め」という選択肢を取ってしまう。
誰が考えても打開できないと考えるような状況。
あきらめるのは当然かもしれない。

また安全安心をうたう社会ほど、それを容認するしくみにもなっている。
セーフティネットという名前の社会保護政策はその代表例です。
自己破産や倒産という手続きをとれば、出直すことができるのが現代社会。
たしかに出直すために足かせ手かせを軽くするという意味では有効な手段でしょうが、自分自身が行った行為が帳消しになるわけでは決してない。
自分の人生、生命の軌跡には成功したことも、失敗したことも、誰が見ていなくても厳然と刻印されることには変わりがない。

また、リセットすることで次の人生を素早くやり直せるという反面、そのぎりぎりの局面を自分自身の人生の絶好の機会にするチャンスを放棄していることも忘れてなならないと思います。
身近な学問やスポーツ、仕事のスキルの修得などに置き換えて考えてみればわかりやすいかもしれません。
自分の能力を超えた負荷(英語で言えばストレスということになる)をかけることが能力開発や技術取得の絶対条件。その人が持っている能力以下の仕事をしているだけでは、いつになっても成長はしない。
かえって次第に能力は衰えていくのは科学的にも明らかな事実です。

このときの松陰も決して例外ではありません。
松陰はこの危機的状態を、決して逃げたり避けたりしないと決意します。
その決意が自首という勇敢な行動に繋がり、裁きの場を絶好の言論闘争の場へと昇華させていく。
そしてその精神と行動が松下村塾として形作られ、明治維新と新政府の要人達の輩出へと繋がっていったのです。
アメリカ渡航失敗の現実から、松陰が死を選んだり、保身のためにその場から遁走していたら、今の日本は違っているものになっていたでしょう。
事実、アメリカ渡航を共に実行しようとした金子重之助は元々頑強な心身の持ち主であったが、この事件を境に急速に生命力を失ったかのように死出の方向に向かっていった。

何重にも絶望の淵に突き落とされた松陰が、ぎりぎりのところで決して諦めなかった要因を山岡荘八氏は、大和魂と両親の薫陶と愛情であったと指摘しています。

ここでいう大和魂、また尊王と言い換えても差し支えありませんが、その精神は、現代日本人が考えているような漠然としたものでないことは、作品の中で丁寧にかつ論理的に記述されています。
それは当時の勤皇志士と呼ばれた人達と比類しても、おそらく間違いないことであると思いますが、群を抜いている。

吉田松陰にとっての勤皇観とは、日本人の精神形成の歴史そのものであるといっても過言ではありません。
松下村塾の教育は個性尊重、人間尊重であったという。
それは西洋的な個人主義ではなく、松陰にとっては、個人も藩も国家も民族も、別々ではなく、みな一つの宇宙の生命に包含された一体のなかの枝葉に過ぎないと見ていた。
--自分を取り巻く世界からの恩恵に感謝し、大いなる生命観に立脚する。
--その感謝の心を根幹に行動を決していくから、日本人は優れているのだ。
平易に表現すれば、吉田松陰の勤皇観はこのように言えるのだと、私は思う。

吉田松陰の下で学んだ門下達は、明治維新を成就し、新しい明治の時代を築いていく。
その原動力となったのが松陰の尊王思想、そしてそれを下支えしていた生命哲学であったと言えるのではないか。
ただ、時代を追う毎に、松陰の思想の根本を継承する者が急激に減少したことも想像に難くない。また、松陰に直接薫陶を受けた者でさえ、激変する生活環境の中で、根本理念を忘れていった。

なぜそう考えるのかといえば、その後の殖産産業と共に富国強兵の道を猪突猛進した明治国家に生命への感謝の念を見ることは、限りなく不可能に近いからである。

吉田松陰が目指し、門下生達に説き続けた国家天下の理想像。
それは、現代を生きる私達にも警鐘を鳴らしているように思えてならない。

【開催内容等はこちら↓】
http://www.prosecute.jp/keikan/050.htm

2009年5月19日 (火)【新型インフルエンザ 急激な感染拡大はなぜ起こったのか】

新型インフルエンザの感染が急激な速度で広がりを見せている。
先週16日(土)に国内初の感染が発表されて、わずか2日あまりで130名を突破した。感染者数は一気に世界4番目に急上昇した。

この事実をもとに「政府の行った水際作戦は無意味だったことが証明された」云々の報道も一部では行われているが、それは枝葉末節のことにすぎないだろう。
今後は、感染拡大予防と共に感染早期発見による治療体制の整備が急がれる。

それにしても、なぜここまで短期間で感染者数が拡大してしまったのか。
今後の対策のために、充分に検証されるべきだ。
海外渡航歴のない人が最初の感染判明者であることが報道されているが、インフルエンザの病原菌が突然わいて出てくるはずもない。
常識的に考えれば、第1号とされる感染者の前に海外からの感染者がいると類推するのが妥当である。
また、急激な感染者判明という事実は、初期感染を見過ごしたということの裏返しに他ならない。
新型インフルエンザ感染者を多く出した高校では、A型インフルエンザが流行していたという。その事実を聞いた学校や教育関係者の中で、新型インフルエンザの疑いを持ち、行動を起こす人はなかった。
またその高校生の持ち込まれた検体の検査は、結果的に数日後回しにもされている。
結果的には、危機感の欠落と言われざるをえないだろう。

その一人を水際で食い止めていれば、
その本人が危機意識を持って発熱外来で主張していれば、
往診した医療機関が新型ではないかと疑いを持って対処していれば、
当人のインフルエンザの症状をみた周囲の人達が適切な連携をとっていれば、
・・・すでに起こったことに対して「もしも...」と考えることは大きな意味がないと思うかもしれないが、今後の教訓とするためには一度真正面から考えることが必要だ。

総論としては、わかっている。
だけど自分には直接関係のないことだ。
自分ひとりが気をつけようがつけまいが何も変わらないだろう。

そんな傍観者意識が今回の感染拡大の根底にあることは、間違いない。
この意識は、集団が肥大化する中で生まれる病理そのものだ。
私の身の回りでも、この手の意識で暮す人達が、思いのほか多いことにびっくりすることが多々ある。

大義名分、わかっている。
繰り返し話をされると、迷惑そうな顔をする。
しかし、現実の行動はどうだろうか。
自分の生活を変えない範囲で、やれることだけ、やる。
今の生活やリズムの枠組を少しでも超えそうになると、何やかんやとできない理由をつけて、頑として、やろうとしない。

何かを得よう、真に守ろうとするならば、自分自身が変わらなくてはならない。
常に進歩し、成長することを私達は求められている。

今後、新型インフルエンザは全国規模で拡大するステージに入る。
賢明な予防と、感染した可能性が考えられる場合には早期に適切に診療機関にかかることが重要だ。
自分自身のためにもそうであるが、それ以上に、身の回りの人達の健康と幸福に配慮できる、一人一人でありたい。

【関連リンク】 厚生労働省:健康:新型インフルエンザ対策関連情報.

《追伸》
今日の報道で、カラオケボックスやデートスポットが休校になった高校生や大学生であふれかえっていることが報じられている。
確かに罹患しても症状は重くならないという見通しも示されているが...。
初期段階の封じ込めができれば、社会的損失や税金等の投入も最小限度に抑えることが可能であることも重要なポイントだ。
自分のことしか考えないこの現状が、新型インフルエンザを蔓延させる最大の要因であることには間違いないだろう。

【関連記事】新型インフル 高校生らカラオケボックスに列 店長は困惑


2009年5月7日 (木)【直感的に感じる違和感 「日本はもう立ち直れない」 だから「海外で働こう」に賛否両論】


5月4日付J-CASTニュースに、こんなタイトルの記事が出ている。
「日本はもう立ち直れない」 だから「海外で働こう」に賛否両論
記事の中で紹介しているのは「米シリコンバレーでコンサルタント会社を経営する渡辺千賀さん」のブログだ。
[渡辺千賀]テクノロジー・ベンチャー・シリコンバレーの暮らし
  4/27付「海外で勉強して働こう」

実際のブログも読んでみた。J-CASTニュースで取り上げている内容はほぼ網羅していてて正確だ。渡辺さんの考えは至ってシンプルで、

1)日本はもう立ち直れないと思う。
だから、
2)海外で勉強してそのまま海外で働く道を真剣に考えてみて欲しい。

ということだ。
「これまでは、1)は言わずに、2)だけ言ってきた。」のであって、従来からの考えのようである。
J-CASTニュースでは「刺激的」な内容なので賛否両論が相次いでいると紹介している。
正直な感想として、渡辺さんの主張は従来からある考え(日本悲観論はアメリカ陰謀説と同じくらい主張する人が多く、私の回りの企業経営者には「40歳まで働いて余生は海外で新しいビジネスを起こして暮らす」「自身の能力を120%試すなら海外しかない」という人達が何人もいる^^;)で、さほど刺激的だとは思わないが(^_^;)、紹介されている賛成、反対それぞれの意見も含めて、私の考えと根本的にずれている点だけ述べておきたい。

日本の将来に希望が持てないから、日本以外で自分の可能性を試してみよう、という。
では世界のどこの国でも希望がなくなったら、その土地を離れるというのだろうか。
それでは、どこまで行っても、回りの環境や条件に依存した人生から脱却することはできない。
どんな状況であれ、自らが持っている可能性を発揮して、自分を取り巻く環境さえも変えていく能力がなくして、何ができると言うのだろうか。

逆境は、自らの能力を最大限に試すことができる、絶好のチャンスである。
好条件なら、多少の能力がある人なら、殆どの人が成功を収めることができるだろう。
そんな中で成功を収めたからといって、何の喜びがあるのだろうか。
それに加えて言うならば、何のために「成功」したいのか。
自己満足の域を出ることができるとは、少なくとも私には思えない。

「海外で学び、成功を収めよう」というのは、一見、困難な道を選んでいるように見える。
果敢に人生を切り拓くようなチャレンジ精神あふれるイメージも、ある。
しかし、「日本はもう立ち直れないから海外で勉強して、そのまま働こう」というのはチャレンジというよりは「切捨て」「海外脱出」、さらに言えば「忘恩」のニュアンスを感じる。
海外で悪戦苦闘しながら自らの道を切り拓いてきた人達、またこれから海外で頑張ってみようという人達に対しても、礼を欠いていると私は感じる。
渡辺氏は、「自分自身もそんなチャレンジャーの一人だ」という意識があるのかもしれないが、だからといってその行動の源泉を「日本は立ち直れない」という自分自身の見解に関連させて、回りの人達に言って聞かせる必要など、全くないと思う。
本当の意味で苦しい、けれども人として目指す道はどちらなのか。
本当に価値ある選択を私達はしなければならない。

自分達を産み、育ててくれた父母や隣人、地域に感謝し恩に報じる生き方。
現状がどんなに見通しが暗く、希望を持てなくなりそうでも、である。
自分が「今いる場所」で「目下の課題」に必死で取り組むことが最も尊い人生だと、私は思う。
そこから出てくる仕事への取組みは、必然的に渡辺氏の考えとは180度対極に位置せざるを得ない。

これが私の考えである。
渡辺氏のような意見は、日頃の自分自身の生き方や発言にブレがないか、判断する絶好の教材であり、リトマス試験紙である。自分自身の人生の方向がどちらに向いているのかを見直す絶好の機会としてほしい。
各人の判断にあって、海外の道を選ぶこともあっていいと思う。
それは個人の自由意志だ。
ただし、どこへ行っても人生を決めるのは自分自身であって、環境ではないということだけは忘れないでほしいと思う。

昔から言われていたこと。「隣りの芝生は青い」。


2009年5月6日 (水)【読書会『二都物語』(ディケンズ)第49回桂冠塾】

少し前になってしまいましたが4月25日(土)14時から4月度の桂冠塾を開催しました。
取り上げた作品はディケンズ作『二都物語』です。

物語は、フランス革命前から革命勃発後の時代にフランスとイギリスを舞台に展開されます。
ディケンズ独特の比喩的表現や意表をつこうとする伏線の敷き方には賛否が分かれるところですが、全体を通して引き込まれるような流れがあり、ストーリーテラーという言葉がしっくりくる作品に仕上がっているように思います。

主人公は荒れた人生を送ってきた青年弁護士シドニー・カートンでしょう。
ただし前半部分ではカートンの描写はあまり多くはなく、むしろ、フランス郊外に土地を所有していた伯爵の地位を捨ててイギリス社会で生きようとするチャールズ・ダーニーにスポットが当たっています。このダーニーがルーシーという美しい女性と出会うところから物語が大きく、華やかに展開していきます。

ダーニーが自分自身の身分を隠しつつ、祖国フランスに残してきた領民の管理等のためにかつての臣下と連絡を取っていたことが誤解され、スパイ容疑で死刑判決を受けそうになった裁判で弁護に当たったのが、敏腕若手弁護士のストライバー。ストライバーと組んで仕事をしているのが前述のカートンです。
ダーニーの弁護の決め手は容姿がそっくりだったカートン自身でした。
いわば
「世の中には瓜二つの人間がいる」
「検察側の証人が『見た』という被告人が本人かどうか確定できるのか」
という、論理展開です。

劇場的には受けるシーンでしょうが、現実の裁判の再現としては相当無理があります。論理の飛躍といえるかもしれませんが、この弁護によってダーニーは死刑から逃れることができます。

この裁判で大きく二つの感情が明白になります。
ひとつは、ダーニーに不利な証言を行わざるを得なかったルーシーが登場しますが、そのことによってダーニーとルーシーの間で互いの愛情を意識したと思われること。
もうひとつは、容姿が瓜二つなのに、かたや愛と名声を勝ち得ていくダーニーと、堕落した人生から抜け出すことができないカートン。それを痛烈に思い知ってしまうカートンの存在。

このふたつがこの物語のテーマに密接に絡み合っていきます。
この物語の後半は、祖国フランスのかつての臣下がフランス革命の中で死刑に処せられる危機に陥っていることを知ったダーニーがフランスに渡り、反逆の徒として死刑に処せられそうになります。
そのダーニーをカートンが身代わりになって助けるわけですが、この展開は前半の裁判と基本的には同じ構図で、比較的早い時点で推測できてしまいます。

この主たるストーリーに、いくつかの伏線的な話題や数多くの人間関係を絡めて物語としてのおもしろさを膨らませているというのが『二都物語』の全体像ではないかと思います。
ただいずれも場面場面での描写テクニック程度であり、人の深層部分に訴えかけるような類いのものではないと感じます。
特に、後半に描かれる樵(きこり)やドファルジュの奥さんは、描くことによってかえって主題が何であったのかがぼやけているのではないかと思います。

その一方で、マネット博士が18年間バスチーユ牢獄に幽閉されていたことは、後半部分で大きな山場を作り出す重要な要因になっていきます。
これはこの作品中の最重要の伏線といえるでしょう。
幽閉に至る事件、幽閉中に書き残した書簡、牢獄北塔105号に掘り込んだ博士自身の壮絶な感情が、関係する様々な人間達の精神形成と行動に、重要な役割を果たしていきます。

ディケンズとしては歴史的な事件や理念信念といった類いを描くよりも、個々の人間達の感情表現や「こんな風に絡み合っていたんだ」というような意表をつく人間関係を描くことで、推理小説を読むような意外感、種明かしの楽しみを描きたかったのかも知れません。
結果的により多くのことを描こうとして大活写的になったのか、元々娯楽作品として描こうとしたのか、その意図は不明ですが、もう少しテーマを絞り込んで掘り下げるか、紙数を増やして書き込んでいただきたかったなというのが、私の正直な読後の印象です。

・ダーニーはどうして貴族の身分を捨てたのか。その決断の出来事は何だったのか。
・マネット博士の不遇の半生と精神的発作との格闘。
・カートンはなぜ堕落した半生を送ってきたのか。なぜ弁護士の道を選んだのか。
・ルーシーはダーニーのどんなところに惹かれていったのか。
・フランス革命の渦中でどのような市民の愚行があったのか。
・貴族中心のヨーロッパ社会の悪弊と堕落はいかようであったのか。
・多くの庶民はどのような気持ちで生きていたのか。
・カートンはなぜダーニーの身代わりになったのか。
・カートンの行為にはどのような思いが込められていたのか。
・英雄視されるマネット博士の心の動きはどうであったのか。
・フランス革命を隣国イギリスの市民はどのように見ていたのか。
などなど...。

作品のタイトルである『二都物語』と大掛かりに思える舞台設定から、こうしたテーマが描かれていることを期待するのは、さほど無理な注文とも言えないと思うのだが、皆さんはどのように感じられたでしょうか?

こうした点を踏まえても、なお興味深く読める作品です。
それは、ディケンズが生まれ育った時代がフランス革命から数十年であり、革命の余韻がわずかでも感じられる環境であったのか、その後の社会にあってもディケンズ自身が社会の底辺に近い貧困生活を経験してきたことが、この作品にリアリティを与えているのかも知れません。
たとえば作品冒頭に出てくる駅馬車内での感情描写などは俊逸と言って過言ではないと思います。何が起こるのか、言葉では表現できない不安と陰謀のようなじめっとした匂いを読者である私達の多くは感じたと思います。またこの描写によって、当時の社会がいかに荒んでいて、不安定であったのかが推察することができます。

全世界で2億人以上が読んだ『二都物語』。
まだ読んでいない方には、一度読んでみてほしい一冊です。

【実施内容などは】 第49回桂冠塾 実施内容

2009年4月21日 (火)【本質を貫く困難さ 自身の生命に巣食う魔性と戦え】

真に困難なことは、わずかな違いを正確に理解することではないかと痛感する。そのわずかであるが、寸分の違いさえ許されないような本質部分に間違いがある場合、いったいどうすればこの違いの大切さを理解してもらえるのか、徒手空拳の思いに覆われてしまいそうになる。

先日も、そうした場面に直面した。
一人一人の主張していることは言葉だけ捉えれば、間違っているわけではない。正しいと言えば正しい。しかし、誰もが殺伐としている。その一点だけでもわかることだが、その場で発言している一人残らず誰もが、確実に間違っているのだ。
しかし本人はそれに気づかない。
それは、なぜ気づかないのだろうか。

いろいろな視点で分析もできる。
しかし分析等々は、それほど大きな意味はない。
大切なのは、一人一人がいかにして気づき、自ら修正をかけていくことができるか、という現実の対処である。

生命哲学の至宝である法華経は理論面でも最高位に位置する一書であるが、現実生活の中で実践展開してこそ、その価値が活かされるというものである。
しかしその法理のままに実践することは、一眼の亀、蓮の糸の譬喩のごとく、とてつもなく困難であることが指摘されている。
そして、その実践ができなければ、かえって仇なすことにもなる。
現実社会に生きる私達は、その困難さに日々挑戦しているのだという誇りを持つべきであるが、それと同時に、その困難に絡め取られそうになっているのは自分も決して例外ではないという謙虚さを持ち続けることが不可欠ではないだろうか。
そうした謙虚さがない人からは、感謝、報恩の気持ちが失われていく。
感謝、報恩のない人が、人の道を云々すれば事態がさらに混乱するのは必至であろう。

志を同じくする他者への批判、自分を取り巻く環境への不満が口に出てくる人は、どのような状況であれ、その時点で敗北である。
これには例外はない。勝敗は厳然である。
「こういう状況だから」と自分の場合は特別だと思った時点で、我慢偏執、我見に陥っている。
元々、私自身もそうした生命傾向が強い人間だと感じているので、同様の言動をする人の気持ちがある面、ある程度はわかる。しかし、その点こそが、その人にとって避けて通れない「変えるべき生命」なのである。
まわりを批判する人は、まわりの人からも批判されるのは当然といえよう。
どこまでいっても負のスパイラルからは抜け出すことはできない。

まわりの人へ暖かい眼差しを送れない人も同様である。
人はだれでも一人残らず、尊い、かけがえのない存在である。
そのように思えるのであれば、不軽菩薩の実践を寸分違わず現代に再現すべきである。「あとはその人本人の責任よ」とか「ほおっておけばいい」という発言はその対極にある。
まさに、無明に負けた姿そのものである。
常に間断なく自分を変え続けていこうという気持ちを、素直に持てる自分になることだ。
慈悲のない仏など、存在しない。
笑顔のない仏など、いない。
あえていえば、自分の幸せを一番に置く限り、自他共の幸福社会の実現など永遠に実現できない。
「その人一人一人が『自分の幸福』実現のために頑張れば幸福な社会を実現できる」という考えは、根本的に邪説と断ぜざるをえない。
20世紀に蔓延した個人主義、資本主義とも通じる危険な思想であり、その行く先は「暴走する資本主義」であることは、歴史が証明しつつある。

人生の幸福を築く最大のポイントは、自分に勝つ境涯を構築することである。
仏法観から言えば、自分に勝つとは
@無明に勝つ
A宿命に勝つ
B三障四魔に勝つ
C三類の強敵に勝つ
ことに尽きる。
この第一番目の「無明に勝つ」ことが本当に難しい。
他人の最高の生命を認めることができない瞬間がある。
自分の可能性を信じきれない場面がある。
どんなに心しても、日々、瞬間瞬間で無明が広がっている。
そのことに気づいて、日々発心する姿勢が大切なのだ。
自分にも他の人にも、全く同じ最高の生命がある。
発心する生命も、無明に負けそうになる生命も確実に存在し変化し続けている。
否定することなど、人間の生命には何一つないのだ。
真実にそう自覚した人は「それぞれ自分が幸せになればいい」などという発言にはならない。

目に見える結果ばかりを追い求める生き方も、同様に間違った軌道に入ってしまう危険が極めて大きい。短絡的で、自己第一義的な人生になるからだ。
その意味で、やはりこうした生きる姿勢も、正しいとは言えない。
目に見える結果が自分の生活に出ないと人生の価値が低くなるのか。
決してそんなことなど、ありえるはずもない。
人生を振り返ってみて、最終章に至るその瞬間にわかる幸福というものが確実にあるはずなのだ。

私達は、いかにもそれらしく聞こえる邪義を、最も警戒しなければならない。
「偽札は本物に似ているほど罪が重い」ということだ。

法華経の説く生命論では、自己の幸福を第一義に置くと限りなく生命状態は落ちていき、自己の幸福の前に自分が縁をする人々の幸福を祈り行動する人の人生は他者の幸福を実現できる菩薩、そして仏と名付けた最高の生命に行き着くことが説かれている。
わずかな一念の差である。
しかしそのわずかな一念の差が、人生を地獄と仏に分けてしまうのである。

師子身中の虫との表現は、私達一人一人の心の中にも存在する。「私は大丈夫」などどという人は一人として存在しない。大丈夫と思う気持ちがすでに慢心である。
そのことを私達は、心すべきなのである。

こうした紛然とした、紛らわしい邪悪な生命はより大きな邪悪な存在をきっかけに顕現されてくる。その邪悪を責める中で、本人が気づかない形で利己的、自己中心的な生命が顔を現すことがある。
悪を責めているつもりが、自分の生命の中の悪を助長させ、結果的に自分も相手と同様の生命状態に堕落していく。結果的に自分も邪悪な生命を波及させる存在になっていく。
他化自在天の生命であり、勝他の念である。
「紛然」というのは誰もが陥る危険である。この生命法則に気づくことが必要なのだ。
そして、自分自身の生命を高めていく努力を絶えることなく続けることが最も重要なのである。

ある方が語っていた。
「自分が受けた恩に報いようと行動することがすべての幸福軌道の源泉である」
「『親孝行しなさい』という一言に人としての生き方のすべてがある」
私達の不平不満など、人類の幸福実現から見れば、些細なことだ。
その些細なこと、目下の課題を、丁寧に、着実に変革していくことが大切なのだ。
まずは、自分自身の最高の生命を涌現する実践を続けよう。
もっともっと、生命の哲理を学ぼう。
自身が定めた師匠の行動、指導を寸分も違わず実践しよう。
誰に対しても感謝、報恩の思いで行動しよう。
自分にとって都合のよい自己解釈に陥っていないか、日々反省しながら前進しよう。
その原動力は、そのことを真に自覚した一人から始まる。
目の前の他の人ではない。
自分自身である。


2009年4月17日 (金)【ライフスタイルにふさわしい制度の構築を 厚生労働省が医療費負担の見直しに着手】

厚生労働省が高齢者の医療費自己負担率の見直しに着手したことが報道されている。
検討されている見直し案のポイントは
@65歳〜69歳の窓口負担を3割から2割に
A70歳〜74歳の窓口負担を現在凍結されている1割から2割に
の2点である。

確かに現行制度では70歳を境目にして3割から1割に急減するシステムになっており、1歳違いでの較差に違和感があることは否めない。
仕事をしていたサラリーマンにとっては多くの人が定年退職を迎える65歳以降も5年間3割負担が続く現行制度での不満も多く聞かれる。
見直しによって、平均的なライフスタイルに近づける形になると思う。

また現在70歳以上の方の負担は経過措置で現行を維持、その後は3段階の制度になるため移行期間を含めて個々人の実質的負担増は発生しない試算となる。
現在の2段階から3段階になれば、高齢者という呼び方をする年齢区分とも整合性が取れるようになり、医療制度への理解も進むように感じる。現行制度でも70歳になって急に医療機関への診療回数を増やすという方はいないと思うが、高齢化が進む現代社会にあって、早い年齢から医療費の窓口負担が少なくなることは、国民にとっては老後の安心がひとつ増えることにもなると思う。

そんな視点からも今後の審議の行方に期待したいと思う。

【関連リンク】
<医療費>65〜74歳の窓口負担 厚労省が2割に統一検討(毎日新聞) - Yahoo!ニュース.


2009年4月16日 (木)【週刊新潮 誤報と言いつつも意識は「被害者」】

週刊新潮が自ら誤りを認めた。
1987年に発生した朝日新聞阪神支局襲撃事件など4事件の実行犯を名乗る島村征憲氏の告白手記を4回にわたって連載した週刊新潮が、手記の真実性が失われたとして「誤報」と認め、謝罪した内容の記事を掲載した。

週刊新潮の売上に貢献するような愚行はしたくないので、実物の「週刊新潮」4月16日発売号を買い求めることはしないが、ネットやTV報道でその概要はある程度わかる。
「何を見苦しい言い訳をしてるんだか」
これが第一印象だ。
彼らが「謝罪」だという記事のタイトルからして、ふざけている。
「『週刊新潮』はこうして『ニセ実行犯』に騙された」
何を言っているんだ?自分達は被害者だと言うつもりなのか(^_^;)?
ネット上に編集長の早川清氏へのインタビューが掲載されているのであわせて読むと真実に近くなると思う。

裏付取材をしたがうそであるとは断定できなかったから掲載した。
要するに、これが週刊新潮の主張だ。
しかし、今までの週刊新潮の掲載記事で裏付取材と呼べるような行為が行われてきたのだろうか?斉藤十一氏の時代から一貫して週刊新潮の編集方針には「人間は一皮向けば一人残らず俗物だ」という人間性否定、蔑視思想、俗物観念が根強く流れ続けている。
だから聖人君子のような行為を見つけると「必ず裏がある」という先入観で記事を書き起こしてきたのが週刊新潮の歴史だ。これは斉藤氏自身が取材に応じて語っている話で、一部の人にはよく知られている事実である。
そんな人間性否定の考えに組する週刊誌にとって「掲載内容が事実かどうかは大きな問題ではない」と思っているとしてもさほど不自然ではない。どんな反論が出てきたとしても「人間には必ず醜い裏の顔がある」と思っているのだから「そういう見方もあるよね」程度で片付けるしまうことになりかねない。そんな編集方針で発行される週刊誌で、多大な人件費がかかる裏付取材を十分に行うなど期待するほうが無理というものだ。

ましてや、今回は実行犯を名乗る島村征憲氏が収監元の網走刑務所を出所する時点から「週刊新潮」関係者が同行。宿泊場所、食事、身の回りの品々まですべて週刊新潮が用意。完全囲い込みで他の人間との接触も完全にシャットアウトしている。
刑務所に収監されていた時から数えると約一年。
これだけの費用を投下して、裏付取材で整合性が合わないことが出てきたとしたら掲載しない、なんてことを果たして商業ジャーナリズムの代表格である「週刊新潮」が行うかどうか。
これは多くの人が考えてみるべき、日本の商業ジャーナリズムの本質でもある。

さらに付け加えて指摘すれば、週刊新潮の幼稚さがある。
島村征憲氏が「自分が実行犯だ」と実名投書をした相手は週刊新潮だけではない。
収監中の島倉氏はまず最初に朝日新聞社に投書した。
朝日新聞社は状況等を精査して島村氏の告白は真実ではないと判断。
朝日新聞社に相手にされなかった島村氏は、その後複数の週刊誌編集部等に投書を行った。その中で、島村氏にコンタクトをとってきたのが週刊新潮だったという。
他のメディアが「真実だと言えない」と判断した中で、唯一、週刊新潮だけが取材を開始する。特ダネスクープだと安易に飛びついた、と言われて反論できる余地があるだろうか。
実に、幼稚である。

「裏付取材が不充分だった」と編集長の早川清氏は語っているが、不充分というよりも「どんな記事においてもほとんど行ってない」というのが真実に近いのではないだろうか。
・全部で何人時を裏付取材に投入したのか。
・それぞれの確認すべき事実は何と何だったのか。
・それぞれに何人時を投入して、その内容はどのように報告されたのか。
・それらの報告一つ一つについて、誰と誰が何時間検討に費やして、何を決め手として掲載に踏み切ったのか。
早川氏には具体的な数字を示してもらいたい。

そうした情報が提示されれば、十分か不充分か、もしくは「行われた」というに値しないのか、自然と判明するだろう。
ここまで社会問題化している週刊新潮の編集長として、早川氏にはそうした事実をありのまま、公開する責任があるのではないだろうか。

親元は元々文芸誌の出版社である新潮社。
こうした文藝系の週刊誌の取材能力は経済系、政治系出版社の週刊誌に比べて明らかに裏付取材が欠落してきた。名誉毀損やデマ記事を掲載してきたのも圧倒的に文藝系週刊誌である。
その代表格である「週刊新潮」から「裏付取材」云々という話が出ることに違和感を感じる国民は多いのではないだろうか。週刊新潮が日常的に名誉毀損等の裁判を起こされて、その多くで敗訴しているのは周知の事実である。

「うそだと断定できないから週刊誌に記事として載せてよい」
こんな主張が正しいとされるなら、どんな記事でもばら撒くことができてしまう。
うそだと断定できないという主張も「どれだけ調べたのか」という行為が、果たして十分だったのかの判断は曖昧になってしまう。
結果的に、書いた者勝ちだ。
メディアという道具を手中に入れている者が、ほくそえむという現在の構図が続いていく。

今回の記事では、再発防止の具体的方策が示されていないことも様々な人から指摘されている。
示せないのか、示すつもりがないのか。
いずれにしろ「出直す」という曖昧な表現で終わらせてよい話ではないだろう。
何十年と染み付いてしまった心根の問題である。
そして、多くの国民が目に触れてしまうメディアであり、ある意味での公器である。
自分達が「加害者」に加担しているのか、「被害者」なのか。
それさえわからないような人達に筆を持ち続ける資格があるだろうか。
再発防止が確実に実行されないのであれば、廃刊という選択肢は避けられない。
私はそう思うのだが、皆さんはどう感じているだろうか。

【関連リンク】
IZA!朝日襲撃事件報道特集
【新潮誤報 編集長インタビュー】(上)掲載理由の一つは「証明できないが、否定もできなかったから」
【新潮誤報 編集長インタビュー】(下)「架空や捏造とは全く違う」「裏付け取材が不十分だった」


2009年4月14日 (火)【Illustratorファイル ごみ箱を空に(ごみ箱から削除)できない...】

知人から問合せがあった。
「パソコンのゴミ箱を空にしようとするとエラーが出るんだけど...」

このエラーが発生したと問い合わせてくるクライアントや友人知人に、私がまず確認するのは「イラストレーター使ってる?」である。
Adobe社のIllustratorのファイル(AIファイル)がゴミ箱にある場合、このファイルを完全に削除(ゴミ箱を空にする)しようとすると、相当高い確率で

Dc08を削除できません
ほかの人またはプログラムによって使用されています
ファイルを使用している可能性があるプログラムをすべて閉じてから
やり直してください

というエラーメッセージが表示される。
「Dc08」等はパソコン内部でのファイル認識コードであり、個々のファイルによってDc**の数字は変わってくる。

すでにネット上では周知の事実となっているが、Illustratorの関連ファイル(アイコン表示のためのファイル)の不具合であることが指摘されている。
対処方法は至って簡単だ。
※ここから先の処理はすべて自己責任で行なってください。
 何らかの不具合が発生しても一切責任を負うことはできません。

@C:\Program Files\Common Files\Adobe\Shell\ フォルダ内にある aiicon.dll というファイルを一時的に他のフォルダに移動。
Aその後にパソコンを再起動。
Bその状態でごみ箱を空にする処理を実行するとIllustratorのファイルも削除することができる。
Cごみ箱から該当するファイルが削除されたことを確認したら aiicon.dllファイルを元のフォルダ(C:\Program Files\Common Files\Adobe\Shell\)内に戻す。
Dその後にパソコンを再起動すれば作業完了である。

Windows Vista の場合はディレクトリ構造が違うので該当ファルダを探して処理することになります(スタートメニュー→検索機能等を利用する)。
フォルダ内への移動はスタートメニューの「ファイル名を指定して実行」等を利用して直接入っていくか、「マイコンピュータ」から入っていけばよい。
aiicon.dllを移動する「他のフォルダ」は、元のフォルダ(C:\Program Files\Common Files\Adobe\Shell\ )内に新しいフォルダを作ってそこに移動してもよい。イラストレーターをよく使う人は、元のフォルダ内に常にひとつフォルダを作ったままにしておくのが便利かも。

aiicon.dllファイルはアイコン表示をするだけの機能のようであり(未確認なのであくまでも推測^^;)元のフォルダ内に存在していなくてもAIファイル自体は正常に機能する。ファイルの一覧表示の際にイラストレーターだとわかるアイコンで表示されないのが不便である程度のことなので、元のフォルダに戻さなくてもさほど支障はないかも。

でも、このファイルが「悪さ」をしているのはユーザーの間では周知の事実。
Adobe社はどうして改善しないのだろう?
私にとってはそのほうがずっと大きな問題であるように思えるのだが。
Adobe社関係の方々、修正プログラムの配布を検討されてはいかがでしょう(*^_^*)?


2009年4月13日 (月)【第31回黎明塾 拡大と撤退−財務の重要性−】

一昨日、4月11日(土)に今月の黎明塾を開催しました。
当日のキャンセルも重なり、受講者わずか1名という最少人数での実施となりました。
内容的には財務諸表の構成や構成要素の確認を踏まえて、モデル例を元にして実習を行いました。財務分析の入口部分という感じで終わりましたので、次回内容を少し変更して今回の内容をおさえておきたいと思っています。

一般的に、財務分析の重要性、その有効性を十分に認識していない人が多いように感じます。会社の今の状況の追認といった程度の認識ではないかと思われますが、財務分析によって今後の方向性、経営判断の最終決断を行うこともあります。

総じて言えるのは、財務数値を十分に分析できない経営者は、自分自身で責任ある経営判断はできません。
よりポジティブな経営戦略を構築する上で、様々な考察を行ったこの時点で、今一度、財務の重要性を確認しておきたいと思います。

【関連リンク】
第31回黎明塾 実施内容

2009年4月10日 (金)【新しい発想で 既存の枠組を超えた挑戦を 埼玉県とホンダが協働】

新たな協働枠組のひとつがニュースとして紹介されている。
重大事故に直結すると思われる急ブレーキ発生地点を割り出し、路面に「追突注意」等の表示を行なったところ、急ブレーキ回数が激減したというものだ。

取り組んだのは埼玉県とホンダ。
両者は2007年12月に道路交通情報を相互利用する協定を締結。
この協定を元にして、ホンダは埼玉県域で走行した会員制カーナビ搭載車(2009年1月で県内に約61,000台)から集めた走行データを埼玉県に提供。埼玉県はこのデータから県内での急ブレーキ発生地点を割り出し、県警と協同して道路構造の問題点などを分析した。
その結果、右折専用車線の基点部分で多発しているなどの傾向が判明。「追突注意」の路面表示や歩道部分の植込みの剪定などの処置を行った結果、対策実施16地点で1ケ月間の急ブレーキ回数が105から29に激減したという。

今回の取組みによって、埼玉県では初めて急ブレーキの発生地点を定量的に把握することができたという。様々な技術革新によって、従来の手法ではできなかった、もしくは多大な労力を要していた分析や対策が迅速にかつ的確に行える環境が整ってきた好事例といえよう。

こうした取組みは、分野や立場を超えて、自分達の生活や仕事でもできるに違いないと思う。
今までの既成概念を、一度きれいに取り払って、いま自分がいる場所でできる目下の課題をいま一度見直してみたい。

【関連記事】 <カーナビ>データ基に「注意」表示 埼玉県がホンダと協力(毎日新聞) - Yahoo!ニュース.


2009年4月6日 (火)【読書会『平気でうそをつく人たち』(M・スコット・ペック)第48回桂冠塾】

年度末が差し迫った3月28日(土)に3月の桂冠塾を開催しました。
今回の本はM.スコット・ペック著『平気でうそをつく人たち−虚偽と邪悪の心理学−』です。初版から20年近く経過した本ですが今読んでも様々な示唆に富んでいるように思います。

誰が邪悪なのか、何が邪悪なのか

当日話題にもなりましたが、ケースタディとして紹介されている事例を精査してみると「誰を邪悪だと指摘しているのか」「その人物のどの行動、思考が邪悪とされているのか」が曖昧に見えてくるケースがあります。
例えば第一章で紹介されているジョージのケースはその典型でしょう。
何をもってジョージが邪悪と指摘されているのか。
・自分自身の強迫神経症の症状から抜け出すために悪魔と契約したことが邪悪なのか。
・悪魔という、神と対立する考えをもったことが邪悪なのか。
・ジョ−ジ自身が信じていない悪魔という空想をしたことが邪悪なのか。
・悪魔という考えが架空だから邪悪なのか。
・強迫観念と対峙する罰を悪魔との契約に盛り込んだことが邪悪なのか。
・その悪魔との契約に自分の息子の生命を盛り込んだから邪悪なのか。
・悪魔という忌み嫌うべき存在を空想することで現実の葛藤から逃げたから邪悪なのか。

この点に関して、スコット・ペック氏の記述は極めて曖昧である。感情的といえるかもしれない。示唆的に「伝統的なキリスト教的宗教モデル」に基づいて「神と悪魔のあいだの大きな戦い」であると書いていることから類推すると悪魔という概念に組み込まれたことを問題視しているように思える節もある。
しかしそれは心療内科的な見地から「邪悪」を科学的に研究するという趣旨からは逸脱しているのではないか。人が邪悪な考えを持ったからといってそのこと自体を非難したり否定することは現実を見ていないように感じる。人は誰でもそうした考えをもつことがあるのではないだろうか。
少なくとも上記ジョージ氏のケースでは被害を受けた他者は存在しない。
彼自身の心の中の葛藤の域を出ない。
現実の社会には悪影響を与えていない。
しかもジョージはその精神的遣り取りによって精神的不安定さから抜け出すことができている。これは誰でも空想しうる出来事であり、邪悪といえないのではないかという指摘もあるだろう。

「邪悪な人」は身近にいる

第二章以降のケースは、ジョージに比べると邪悪な人物、行動の特定は比較的に明瞭である。しかし本文でも指摘されているように依然として邪悪の判明は曖昧であり、加害者、被害者の関係も一定しているわけではない。相互依存でもある。

スコット・ペック氏が主張するように、病症のひとつとして「邪悪」という認定を行うことは大きな一歩を踏み出すことであるのかもしれない。実際の生活をしているとスコット・ペック氏が指摘する「邪悪な人たち」は厳然と存在する。

その特徴を本文から列挙すると...

・邪悪な人たちは、自身の罪悪を認めない。
・多くの場合、堅実な市民として生活している。
・彼らの犯罪は隠微であり表に現れない。
・自分自身には欠点がないと思い込んでいる。
・自分自身の罪悪感に耐えることを徹底的に拒否する。
・自分の行為を隠蔽するために他人に罪を転嫁する、スケープゴートにする。
・世の中の人と衝突すると、必ず他人が間違っているために問題が起こると考える。
・自分自身の欠陥を直視する代わりに、他人を攻撃する。
・自分自身の中の病を破壊する代わりに、他人を破壊しようとする。
・道徳的清廉性を維持するために絶えず努力する。
・他人が自分をどう思うかという点に鋭い感覚を持っている。
・善人であろうとはしないが、善人であると見られることを強烈に望んでいる。
・自身の邪悪性を認識していないのではなく、その意識に耐えようとしない。
・邪悪な人の悪行は罪の意識から逃れようとして行われる。
・社会的な対面や世間体を獲得するために人並み以上に奮闘し努力する。
・地位や威信を得るためには熱意を持って困難に取り組むこともある。
・自身の良心の苦痛、自身の罪の深さを認識する苦痛を耐えることができない。
・自分の正体を照らす光を嫌う。
・自分中心的な行為が他人にどのような影響を及ぼすのか考えない。

このような傾向を持っている。
上記のような人物が、誰の身の回りにも一人や二人はいるはずである。「そうなんだよ!」という声があちこちから聞こえてきそうである(^_^;)
日頃から「あの人、これっという決定的な出来事はないけど生理的に信用できない」という知人がこれに当てはまることが多いのではないかというのが、私の個人的印象でもある。
それはペック氏も指摘しているように、邪悪の認定の困難さのひとつが「隠微さ」にあることに起因している。一つ一つの行為を見ていると、それだけのことでは邪悪とはいえないのではないかというケースが殆どである。仮にひとつふたつの行為で回りの人の大半が「この人は邪悪だ」とわかる人は早かれ遅かれ法律によって裁かれる。そうではない人が問題なのだというのがペック氏の指摘である。

その後、ペック氏の論点は自らに最もかかわりを持った患者であるシャーリーンにうつった後、集団の悪について論じていく。

「邪悪の認定」については多くを語るペック氏であるが、その処方箋となると必ずしも多くのページを割いているわけではない。キリスト教信徒らしく、神の加護を信じ、愛の実践を貫くことを主張している。
作品の全編を通じて、ペック氏の思想の底流に流れているのはキリスト教による愛の実践である。彼が宗教的な問題と科学的問題が対立するという際の「宗教」とは、常にキリスト教であり、仏教等の思想はこれに含まれていない。
こうした点とも関連するわけであるが、ペック氏は「人はなぜ邪悪になるのか」という点については触れていない。その結果の必然として、「どうすれば邪悪の精神を克服できるのか」という我々読者が最も知りたい結論についても論及することができない。
この点がこの作品の限界と言える。

「邪悪な人」は修羅の生命状態

では生命論的に考えると「邪悪」という状態、「平気でうそをつく人たち」とはどのように考えればよいのだろうか。
仏教観で考えると、生命の状態は刻一刻と変化し続けている。「人生は無常(常ではない)」という表現はまさにここから出ている概念だ。
その意味では「邪悪」な状態も当然出てくることもあれば他の生命状態が中心になっていることもある。したがって人によっては、「邪悪」な生命状態がことのほか多く表面化しその人の人生の大半を占めているというケースも意外と多いように感じる。「生命の基底部」と表現される、その人が最もよく帰着する生命状態が問題なのである。

「邪悪」とは生命論では修羅界の生命状態と言える。
自分の対面を繕うために他人をスケープゴートにするあたりは他化自在天と呼ばれる生命そのものであり、自身を認めさせようと強烈に努力するあたりは下品の善心であり、勝他の念であり、我慢(自分が、自分が、という慢心の生命)のエネルギーそのものである。
仏法では、そうした生命状態も十界互具であるからこそ自己を高め、幸福社会実現へのエネルギーとすることができると解明する。またその原因は過去世からの自身の業行に他ならないと説き、すべては自分自身から出発し自分自身に帰結することをその根本法則として解明している。そのうえで生命の大転換を行う方途を宇宙を貫く大法則して展開し、実践するうえでの最重要要素として生命法則を実際に体現する人間の生命活動に着眼し、そうした人間の連続性を継承する師弟の存在の重要性を論じている。
ここに、ペック氏が指摘だけに終わっている諸課題の解決の方途があるのではないかと私は受け止めている。

「邪悪な人」克服のキーポイントは自身の生命変革にある

回りの人間の邪悪性を見抜く力を持つことも大切だろう。
邪悪というメカニズムを科学的因果律で解明しようとする努力も必要だろう。
そのうえで、それ以上に、そうした邪悪な生命状態を表に顕わした人達とも、変わらず接しながらより高い生命状態の環境に変化させていく努力を行うことが最も求められているように思えてならない。
回りの環境に一喜一憂するのではなく、自分を取り巻く環境を粘り強く変えていく努力。それはとりもなおさず、自分自身が変わることにある。
自分は変わらずして、回りを変えようという生命は他化自在天の生命であり、邪悪な人そのものに成り下がってしまう。
その意味で、日々の生活は自分自身の人間革命の挑戦といえる。
そう思えた時、自分が本当に変わることができるのではないだろうか。
回りに対する不満をぶちまけているだけでは、行く末は自分自身が「邪悪な人」になってしまう。
環境に紛動されていることに少しでも早く気づき、また日々決意をしながら自分自身から社会を変えていく一日、また一日でありたい。

【関連リンク】第48回桂冠塾実施内容

2009年4月5日 (月)【桜花爛漫 石神井公園でお花見】

はやいもので今年も3ケ月が経ち、春四月を迎えました。
東京では3月20日の桜の開花宣言のあと、寒い日が続き4月に入って満開になりましたのでほぼ2週間たっぷり桜の花を楽しむことができています。

昨日4月4日(土)に毎年恒例となった石神井公園でのお花見の宴を開きました。「何回目になるのかなぁ」と思って過去のスケジュール手帳を引っ張り出して確認しましたら2000年にお花見の記載が(^_^)v懐かしく当時のことを思い出しました。
毎年開催を重ねて今年で10回目。節目の年となりました。

今年の参加者は9名。
初回から欠席なしの鉄壁の常連の方、2回目、3回目から連続して参加いただいている方、数年ぶりの方、2回目、3回目の参加の方、そして初参加の方、等々。
遠くは神奈川県厚木市からも参加いただきました。
代表して東京マラソン完走の駒場さん、ありがとうございました(^_^)v
さほど若い!というわけでもありませんが独身者が半数を占めていました。

今年のお花見を終えて感じていることを少しばかり。
毎年やっていると色々感じることもあり、来年はどうしようかなぁと思うのがここ数年のパターンになってしまいました。

当日参加するだけの人と違って開催する側になると、相当な時間と労力、気力が必要になります。前日は備品や一部買出しを行って、当日は朝から場所取りに現地へ。2〜3回に分けて資材等の搬入、時間の合い間を縫って食料やアルコール類の買出しをしつつ参加者の到着を待ちます。これが殆どの場合、時間通りには現れる人はいなくて(^_^;)かなりの時間、他の花見客からちょっと嫌みな視線を感じながら少し気持ちを荒ませつつ孤独な時間が過ぎていきます..。三々五々参加者が集まり出し、予定メンバーが揃うのは毎年16時くらい。すでに風は冷たくなり始めていて、それからさらに時間が過ぎていく。夕刻過ぎて日が暮れて、片付けに入りたいなぁと思うと決まって「もう終わるの?」のブーイングの声が(^_^;)決まって遅れて参加した人から出ることがしばしば。まぁ後から来たんだから飲んでいる時間も短いわけで飲み足りないんだろうと思いつつ(^_^;)でもこちらとすれば6〜8時間飲み通している人の体調も考えてほしいし、みんなが座っている下のブルーシートは私の持ち物、持って帰らないと後始末がつかない...。私が先に帰ったこともあるがそのときはシートが泥まみれで丸めて自宅前に置かれた年もあるので後で持ってきてとは言えない。
開始前に2〜3回に分けて搬入した資材等を自転車に積んでえっちらおっちら自宅まで。荷物が多いので押していくので軽く1時間弱はかかり...。翌朝は、ゴミの分別から始まる。今年は特にひどくて、参加者メンバーが一気にゴミを袋に詰めてくれたのはよかったですが、分別が全くされていない(^_^;)しかもゴミを詰めてる袋はブルーシートの保管袋。油やソースで使えない(+_+)
憂鬱な気持ちを引きずりつつ、袋からゴミを全部出して分別作業。プラスチックは水洗いもするので所要時間1時間。油や食べ残しの残骸で手を汚しながらなんだかなぁと思ってしまうのは当然かなと思ったり。準備を手伝ってほしいという気持ちは今では毛頭なくなりましたが、終了後のゴミの分別くらいやってほしいなぁと思う。ビン缶類、プラ、燃えるゴミ別に袋を分けてたのにそれもゴッチャにしているし。
分別を終えたら、そのあとに6畳サイズのブルーシート2枚の水洗い。6畳の広さをそのまま広げられる場所があるわけでもなく、折りたたみ、裏返しながら水を切り日光で乾かしていくと、あっという間に17時、18時に。一日終わったなぁ。
それでも今年は翌日が晴れていて助かった。雨や曇だとシート洗いが一日で終わらない。

準備から片づけまで、丸々2日以上かけて花見をやる。
事前の案内、連絡を含めるとさらに多くの時間を要しているわけで、これを10年続けてきましたが、準備を手伝う雰囲気もなく、後片付けも適当で、最後作業をする人のことに思いが至ることもない人達が大半を占めてきたように感じます。
当日、その場だけ飲んで騒ぐことに何の違和感がないのなら、各自でやってもらってもいいのかなと思ったりします。
あまりネイティブな発想をしない人だと自分なりには思うのですが、この花見の宴は鬼門かな。毎年やっていて、ここ数年楽しかったと思うことが少なくなってきました。
その一方で開催を楽しみにしていただいている人がいるのも事実としてはあるわけで。
来年、どうしようかなぁ。
まだ先のことなのでゆっくり考えてみようと思います。

【関連リンク】
お花見のお誘い

2009年3月16日 (月)【銀座−名古屋18通りで複雑 確かにそうだが(^_^;)】

緊急経済対策の一環として、今月から順次ETC搭載車の高速道路料金の割引が始まる。2年限定の不況脱出の呼び水の一つとして試みられる施策である。

今日の読売新聞では銀座−名古屋間で利用曜日、時間帯によって18通りもあり、準備不足とのニュアンスも読み取られる。
読売新聞の指摘は、そのとおりだと思う。が、それはそれとして改善すればいいと思う。
ここで気をつけなければならないことは、何が本幹で、何が枝葉末節なのかという点だ。複雑で準備不足であっても施策そのものを評価すべきであればそのことを明示すべきであろう。様々運用上の支障や不手際があるからといって、その施策自体が非難されるべきではない。
問題はこの施策が景気回復に効果があったかどうか。国民の、そして世界市民の利益に供することができたかどうかだ。

もちろん、予測していた効果が得られない場合も出てくる。
そのときに、その施策の理論自体が間違っていたのか、設計に問題があったのか、運用上の不具合があったのか、その複合、それ以外の想定外の要因があったのかも十分に検討されるべきである。
その姿勢は、効果が得られた場合の検証においても同様である。

特にマスメディアの報道は「木を見て森を見ず」にならないようくれぐれも留意いただきたい。下記に読売、産経の記事を列挙する。同じことをテーマにしても、こうも違う。どちらが有益なのか、おして知るべしだ。

【関連記事】
→「銀座−名古屋」で18通りも!ETC料金の割引複雑(読売新聞)
高速1000円 上手な利用方法は?(産経新聞)

2009年3月13日 (金)【青森リンゴが大量廃棄の危機 発想転換の救済に乗り出せ】

メディアで青森りんごの大量廃棄の危機が報じられている。
青森リンゴ 大量廃棄の危機 霜被害で加工処理追いつかず(毎日新聞)

昨年春以降の霜とひょうによる被害は過去最悪レベルになるとのこと。
地元では様々な対策を講じてきてもいる。
被害リンゴ:霜やひょうで大打撃…高品質ジュース販売や宅配業者社員に販売/青森 - 毎日新聞(2008年10月1日)
悲鳴!青森リンゴ加工業者 処理量7年ぶり10万トン超も - iza(1月23日)
キズがあってもいいじゃない…ひょう害りんご消費拡大へあの手この手 - 産経新聞(2008年11月16日)

しかし状況は芳しくなく、大量廃棄が検討されるに至っている。
報道によると、地元団体が傷つきリンゴのジュースを開発。しかし、原因は記載されていないが傷のないリンゴの需要も落ち込み、価格は前年比8割にダウン。価格下落を防ぐため、生食リンゴの出荷を制限したため制限した生食用りんごが加工用に回されるという悪循環を招いたという。2月末現在、青森県下の農家の在庫は約33万箱(1箱20キロ)になっている。その多くは廃棄に回る危機に遭遇している。
しかもジュース用の買取り価格は一箱50円とも。箱代にもならない、とんでもない価格だ。
なぜこんな状態になってしまっているのか。

あえて言いたい。
地元関係者や地元出身の企業経営者に、このピンチを救える者が誰もいないのか。
本当に手も足も出せない、どうしようもない状況なのか。
ビジネスで磨き上げてきた経営者感覚で、日本全国に名だたるブランド青森リンゴを支えてきた生産農家の窮状を救え!と訴えたい。

一箱50円という破綻状態。
県下の全在庫33万箱で1650万円にしかならない。青森リンゴ、というかりんごそのものの栄養価値だけだってそんなわけない。
10倍の買取り値にして1億6500万円。事業規模5億円の投下で採算可能な事業展開が検討できないものか。
ポイントは、どのような視点で商品化を行ない、販売流通ルートを選択し、最終的に誰に買ってもらうかだ。

商品化と販売による需要と雇用の創出にも期待が生まれはしないか。
青森県をはじめ、地元自治体も指をくわえている場合ではない。
政府与党が発表し今国会で可決された75兆円の経済対策の一部を財源にするアイデアだってあるだろう。その中の5億円程度なら、わずか0.007%だ。
※計算間違ってないよね?あまりも小さい割合なので小数点の位置が違うのかな?と不安になるほどだ(^_^;)
青森県は堂々と生産農家のために補正予算から財源を確保せよと強く訴えたい。

青森県関係者よ。
今こそ智慧を発揮し、わが故郷のピンチをチャンスに転換せよ!
それが成せるのも、地元に密着して生きてきた、庶民のなせる業である。
見事なる境涯革命に心からエールを送りたい。

2009年3月12日 (木) 第30回黎明塾【事例研究】地域で事業を興す

3月7日(土)に第30回となる黎明塾(経営学習会)を開催しました。
今回は地域で事業を興す優位性と需要について考察しました。

今回の考察でも明らかなように、日本国内での個々の家計規模には2倍を超える格差が存在している。実質的な支払賃金の平均金額にも大きな格差が生まれてきており、サービス業の現場にあっては2倍近い賃金格差になっているのが実情である。

これは起業する立場からみれば、都市部で事務所等を有する負担は地方での負担に比べて2倍になっていることを意味している。企業のプライマリーバランスだけ考えれば、損益分岐点は、圧倒的に地方での企業経営が有利であることを示している。

では、それでも多くの起業家は東京などの大都市圏での開業を目指すのであろうか。
様々な要因が想定されるが、その最大のもののひとつが「消費需要」の都市集中化である。
多少の誤解を覚悟でざっくりと述べてしまえば、現在の起業環境は、
→企業間の過当競争を覚悟で消費需要が集中する都市部で起業するか
→損益分岐点が低い地方で起業するか
という二者間での選択という構図で捉えることができる。

今回のテーマは地方での起業に焦点を当てた。
その主な理由は、私が従来コンサルティングに関わってきた経験から、生命と食の安全、環境問題、人間的な生活の確保、金融政策に絡め取られつつある日本経済からの脱却といった諸問題の解決の方途として、第一次産業を主幹とした地域コミュニティの構築がその突破口となるという気持ちが強いことに由来する。

たしかに私自身は東京都内に暮らし、起業も東京都内で行い、今も都市部での仕事を中心に行っている。この黎明塾の受講者も、地理的、時間的制約で首都圏在住者のみである。従来のテーマや実例も勢い、都市部での企業経営の感覚が主となっていたことも否めない。

そのような中にあって、数年前より都市部近郊での商品開発に携わる機会を得ることもでき、いまだ実現には至っていないが首都圏を離れた農村地域での農業を主幹とした産業振興や自然エネルギー活用のプランニングも手掛けてきた。
私自身の出生は岡山県勝央町。県北山間の少し手前くらいの地域に位置する地方の1万人規模のコミュニティ。元々は農業主体であったが数十年の産業の流れの中で工業団地を開発し、兼業での農業を続ける家庭も多く残る地方である。古くからの友人の多くが製造系企業の製造現場で働き、また地域を支える企業を経営し、個人事業主として建築や販売業に従事し、そして農家として悪戦奮闘しつつ、地域の中核を支える世代になっている。私も生まれ育った故郷の行く末が気になって仕方がない一人でもある。

今回の後半は特に農業経営の実態と改善事例に焦点を当てた。
時間的な制約もあって、充分な考察に踏み込めなかったのが残念である。
また、私の思いも具体的な提言として示したいという気持ちもあるので、農業分野以外の起業も含めて、いま一度このテーマの続編を取り上げたいと思っている。

起業は雇用の創出でもある。
その意味で「どこで」起業するかという判断も重要な経営判断であることをお互いに確認し、持続可能な経営のための企業経営を遂行することを望みたい。

■実施内容についてはこちら↓
 第30回黎明塾実施内容【事例研究】地域で事業を興す−いま持続可能な事業のために−

2009年3月12日 (木)【「済州島買っちまえ」発言 小沢なら言うよね〜が国民感情。】

公設第一秘書逮捕でダーティな政治資金集め、庶民とかけ離れた金銭感覚、法律感覚を疑問視されている民主党代表の小沢一郎氏が、またまた問題発言をしていたことが判明している。

小沢代表「済州島買っちまえ」と発言…連合前会長が明かす読売新聞
「済州島を買っちまえ」?=民主・小沢氏発言、前連合会長が明かす時事通信

「小沢なら言ってもおかしくないよね」というのが、この報道を聞いた国民の率直な感想ではないだろうか。
これでも小沢一郎に日本の舵取りを任せようという殊勝な国民はいるのだろうか。
そして、つい最近まで小沢を評価していた人達、小沢を担いできた民主党を支持してきた人たちを含めて、よくよく考えてほしいと思う。

何を基準にして判断すべきか。
自分自身による判断の危うさをいま一度見つめ直す機会にしたいと思う。

【追記】
ココログニュースに出ていた
津川雅彦、ブログで民主党を痛烈批判 写真あり
津川雅彦『遊び』ぶろぐ ?サンタの隠れ家? これでマスコミが作った民主党バブルは、はじけるなあ。

有名人も真正面から小沢と民主党批判をしている。
マスメディアと有名人に流されやすい日本人に、ちょうどよい刺激剤になれば。

2009年3月11日 (水)【時事通信のニュースタイトルはマスメディアの自殺行為だ】

マスメディアの恣意的報道、偏向性の危険は今までにも何度も指摘したことだが、今日、目にしたニュースタイトルもひどい。

無利子国債・政府紙幣の検討表明=首相「いいことだ」(時事通信)

この記事をリンクするYahoo!JAPANの見出しに至っては
首相 政府紙幣の検討を表明】となっている。

Yahoo!JAPANの見出しだけ見ると「えっ!政府紙幣発行の検討に入ったのか!」と驚いてしまった。が、本文を読んでみるとなんのことはない。
自民党有志議員「政府紙幣・無利子国債の発行を検討する議員連盟」が、政府紙幣発行や利子が付かない代わりに相続税がかからない「無利子非課税国債」の発行を提言したことを受けて、麻生総理が

「100年に1度(の経済危機)ということでいろいろなアイデアが出てくる。いいことだと思う」

と発言したにすぎない。
つまり麻生総理が「いいことだ」と言っているのは、「いろいろなアイデアが出てくる」ことであって、「政府紙幣発行がいいことだ」と言っているわけではない。
ニュースを配信する人間達は、もちろん、こんなことは承知している。
承知しているうえで、意図的に、確信的に、誤解を招くような、ただ読者の関心を惹きつける為だけに、上記のようなタイトルや見出しをつけている。

実に、低俗だ。
このような行為を低俗と言わずして、何と言うのか。
天下の時事通信よ、恥ずかしくないのか。

こうした低俗な報道姿勢が庶民レベルにも波及し悪影響をもたらす。
昨今のブログのタイトルのつけ方をみていると、興味本位のタイトルばかり。マスメディアに擬したものばかりである。読んでほしいと思う気持ちはわからなくもないが、かえって軽薄さを感じてしまうのは私だけではないと思う。
TVドラマの予告編のやり方と同じ路線上にあることを思うと、国民の多くが報道と娯楽を混同していることは容易に想像できる。

さらに、時事通信のニュース本文では上記の発言を紹介して「検討対象とする意向を明らかにした」と続けているが、この文脈もあやしいものだ。
というのは、麻生総理の考えの中に以前から、相続税免除等の無利子非課税国債の発行に類するものがあったのは事実のようであるが、政府紙幣については発行する検討が必要だと考えているかどうかは全く不明であるからだ。
他のニュースを加えて類推する範囲では、麻生総理が今回の議連からの提言の中で興味を示しているのは「無利子非課税国債」であって「政府紙幣」でない可能性が極めて高いと判断するのが妥当だと、私は思う。

しかし、マスメディアの報道は所詮は興味本位だ。
「注目されて、なんぼ」程度の浅はかな皮算用しかできないと思われて反論できるのか。
メディアにいる人達よ。
真剣に報道するつもりがあるのなら、こんなニュースタイトルや見出しをつけるようなメディア自身の自殺行為は自粛すべきであると、強く訴えておきたい。

【関連記事】
無利子国債・政府紙幣の検討表明=首相「いいことだ」(時事通信)
無利子国債発行などを首相に提言=自民議連(ロイター)
無利子国債発行を検討…首相、与党議連の提言受けて(読売新聞)

2009年3月10日 (火)【読書会】『歴史とは何か』(E.H.カー)第47回桂冠塾

047 2月28日(土)に第47回桂冠塾を開催しました。
今回取り上げた本はエドワード.H.カー氏の『歴史とは何か』です。

社会科学系の書物を読むという習慣には個人差が大きいのでしょうか(^_^;)今回も「まったくページが進まなかった」等の声が続出しました(^^ゞ
「今回も」と書きましたのは、『社会科学における人間』『世論』などを取り上げた回で同様の感想があり、そのときの印象が残っているからですが、桂冠塾の中でも社会科学系の本は比較的少ないなぁと感じてもいます。
そうした状況のなかでも参加者は素晴らしい集中力を発揮していただき、難解な言い回しをひとつひとつ確認、議論を展開していただきました。

特に『歴史とは何か』のストーリーの中で“難解”と感じたのは問題提起に対して必ずしも答えを提示しているとはいえない箇所があることではないかと思います。
本書は1892年生まれのE.H.カー氏が、1961年1〜3月にケンブリッジ大学で行った連続講演を中心に、BBC第3放送での講演を加えて発刊されたものです。
当時の歴史学のトレンドへのカー自身の考察を基調としながら、「歴史」に関わる様々な疑問、テーマを提示し、カー自身の見解を述べていくというスタイルで構成されています。その内容から歴史学の入門書として、戦後日本では各大学でテキストとして取り上げられてきた経緯を持ちます。

個々のテーマについてはWebサイトを参照いただければと思いますが、歴史を学ぶ上での疑問点を丁寧に解説していきます。

【1】歴史家と事実

冒頭から、歴史的事実ということの認識についての論点を展開。「事実の羅列が歴史である」という19世紀に主流となった考えを意識的選択の面から反論します。そしてその意識的選択を行う人達(歴史家)を知り、さらにその歴史家の人格や思想を形成するに至った社会的背景等を知ることが歴史を学ぶ上で不可欠であることを主張。現代を生きる私達と過去に行われた事実との対話が歴史の真髄であり、相互作用の不断の過程であるという一つ目の結論を提示します。

【2】社会と個人

次に、そうした取り上げるべき歴史的事実とは個人に焦点を当てるべきか、社会に注目すべきかという論点に言及。当時の欧米社会が個人主義に傾倒しすぎている点に警鐘を鳴らしながら、個人と社会は不断の関係にあり、歴史は両者が相互に影響しあう中に存在することを主張。今置かれている社会の意向が歴史家の歴史的事実の選択に大きく影響することを事例を通して指摘します。
そのうえで「歴史は個人の行動をどう取り扱うべきか」というテーマに言及しますが、この点についてカー氏は直接の答えを提示していません。おそらく、ですが、カー氏自身も模索の段階だったのではないかと思われます。その回答の代わりにC.V.ウェッジウッド氏の言葉を紹介し、2つの命題を提示したのち、「個人の人間の行動の研究は彼らの行為の意識的動機の研究である」という点について2つの視点から自身の歴史家としての経験を紹介します。

一つは「歴史は相当の程度まで数の問題である」、もうひとつは「人間の行為は行った本人も意図しなかった結果を生むことがある」ということです。
これは社会科学についてまわる宿命的問題とも見なさされている命題です。どこまで自然科学のような法則性が見出せるのか、また社会科学的法則が提起されたとしてもそのほかの不確実要素が多く、結果を予測できないものを法則と呼んでよいものか。
この点についてカー氏は明言を避けて読者に判断、思索を促しているようにも感じます。

またこの論説の流れの中で突出した人間の行動、反逆者と偉人についてのカー自身の見解も述べられています。

【3】歴史と科学と道徳

そののちに、歴史と科学、歴史と道徳の問題に踏み込んでいきます。
歴史と科学の関係については、前段での論調を踏まえながら「歴史は科学である」との自説を展開します。その途上での想定される5つの反論への論証が行われています。
1)歴史は主として特殊なものを扱い、科学は一般的なものを扱う。
2)歴史は何の教訓も与えない
3)歴史は予見することができない
4)歴史は主観的になる
5)歴史は科学と異なって宗教的、道徳的問題を含む
という5点の反論です。

その後、歴史と道徳を論じます。
ここで論じている道徳とは宗教そのものであって、一般的日本人が捉えている道徳の感覚ではありません。ここに至って従来の科学が自らを規定してきた呪縛を明確に糾弾します。そして、道徳的(宗教的)判断基準なくして歴史は成り立たないという主張を展開しています。
また、人文学と歴史の関係についても論じます。
これらの結論として、求めるものは科学者も歴史学者も同一のものであり、それは自分の環境に対する人間の理解力と支配力とを増大させることに他ならず、その根本として「なぜ」と問いかけることが大切であると主張していきます。

【4】歴史における因果関係

そうした歴史研究の方法論として、「原因の研究」を掲げます。
その中で留意すべき点として「単純化」と「多様化」を指摘。それぞれの重要性と危険性に論及します。
そして、決定論的歴史観、歴史研究における未練学派に触れながら、「なぜ」という問題と共に「どこへ」行こうとしているかが重要であると主張します。
「ロビンソンの死」の論述はわかりやすく、その本質を述べています。

【5】進歩としての歴史

歴史の解釈においては、過去に対する建設的な見解が必要であるとし、未来に向かって常に進歩していく中に歴史も存在することを論じます。
歴史は生物学的進化ではなく、獲得された技術が世代間で受継がれていくことを通じた進歩であり、明確な始まりや終りがあるのもでもないと論じます。
それは必ずしも連続性を保ったものではなく、逆転や逸脱、中断の中で続けられてきた努力でもあります。
進歩とは必ずしも意図的な行為の結果ではなく、物的資源及び科学的知識の蓄積の結果だといえる。
そして再び歴史における客観性に言及。歴史における方向感覚があることが過去の事実に秩序を与え解釈することができる。この過程が進歩そのものである。歴史とは過去の諸事件と次第に現れてくる未来の諸目的との対話である。
歴史的判断の究極の基準は未来にある。
存在と当為について、真理の二面性についても考察。

【6】広がる地平線

【実施内容】第47回桂冠塾

2009年3月5日 (木)【警告 小沢一郎の主張が横行すれば日本は犯罪者天国に化す】

民主党代表の小沢一郎氏が強きの記者会見をしてわずか1〜2日の間に、小沢一郎と陸山会の集金システムが次々と明らかになっている。

【関連記事】
献金「毎年2500万円」取り決め…小沢氏側と西松(読売新聞)
小沢氏側が西松建設に献金請求書…「企業献金」認識か(読売新聞)
【小沢氏秘書逮捕】小沢氏側団体が主導 西松建設トンネル献金(産経新聞)
疑惑噴出の「陸山会」 不透明な不動産取得…政治マネーの窓口(産経新聞)
小沢氏政治団体に総額2億円=西松建設、ダミー名義で10年間−規正法違反事件(時事通信)
西松の資金提供、小沢氏側が突出…5年で4200万円(読売新聞)

早かれ遅かれ、小沢氏の脱法行為は摘発されることは当然の帰結だろう。
1〜2日後の展開くらいは予測することができれば、昨日の記者会見のようなことは行わないだろうなぁと少々不憫にも感じる。
裏表の様々な事実が白日の下に曝され法的制裁を課せられて正邪がはっきりしたあとに、おそらく数十年にわたって昨日の小沢氏の子どもじみた会見が報道されることは間違いない。なんとも惨めな後半生だろうか。

昨日の会見の主旨は様々なメディアで報道されているので改めて触れることもないだろうが、その合い間合い間で小沢氏の確信犯的言動が垣間見られた。
いくつか指摘しておきたい。

■企業献金禁止の現行法に異論

小沢氏は企業献金を禁止している現在の政治資金規正法に不満がある。
確かにアメリカなどでは企業権献金は認められている。しかし少なくとも日本社会にあっては、利益供与を求める企業献金がほとんどであり、多くの疑獄事件の反省から企業献金が禁止された経緯がある。
近年アメリカにおいても企業献金の悪弊が指摘されている。『暴走する資本主義』にもその処方箋が提言されていることからもわかるように、企業献金には多くの問題が含まれている。

「問題の政治団体からの献金は西松建設から出ているという認識があったのか」「西松建設から出ているとしても政治団体を経由しているので問題がないという認識だったのか」という記者からの質問に対して、認識の有無に触れない形で回答を回避しつつ「(企業とか個人とか)どこからもらっていいとかいけないとかではなく、いただいた献金をすべて公開、ディスクロージャーすることが大事だ」「私は(どの国会議員よりも)一番明らかにしている」という趣旨を発言。本来的には企業からの献金も公開すれば問題がないのだとの自論を展開した。
これは、法律軽視の発言である。
そしてほぼ間違いないと思うが、小沢氏は自身の確信に基づいて企業からの献金を受けている。ただ現行法があるのだから、法律に則って、政治団体を経由させたに過ぎないのではないか。
昨日来の報道で、西松建設からの献金は過去10年で2億円以上にもなり、金丸、竹下という越山会の系譜の継承者として建設業界に影響力(があると思わせていた)を行使して献金を集めていた構図が見えてきている。
しかも毎年の献金額や献金時期も、西松建設と小沢事務所で直接相談していたことが報じられている。
企業から政治家の個人事務所が献金を貰うことに「法律を犯している」という罪悪感など微塵もなかったのではないか。

■従来の手法を超えた捜査に疑問を呈する

小沢氏は会見の冒頭で「このような、この種の問題で今まで逮捕強制捜査というようなやり方をした例はまったくなかった」と「前例のない」従来の枠を超えた捜査が行われたと検察の手法を激しく糾弾した。
その発言は「従来捜査手法の枠内であれば問題にされなかった」ということを述べているに過ぎない。言い換えれば、小沢一郎氏の判断基準は「違法になるかどうか」であり、倫理的にとか本来政治家のとるべき姿勢はどうあるべきか、という発想ではないのだ。

違法にならない体裁を整えていれば何をやってもいいのか。
今回の疑惑に対する国民の怒りはその点に集約されることは間違いないだろう。
この視点が小沢氏には完全に欠落している。
従来の小沢氏の不遜とも傲慢ともみえる発言や態度は、この点から判断すると「なるほど」と合点がいくものが、実に多い。
今回の事件も「適法」と主張できるシステム作りを、小沢事務所主導で施したであろう事は容易に想像できるのも、こうした小沢氏の過去の発言によるのである。

秘書逮捕で会見 小沢氏、強弁40分 「異常、前例がない」 (産経新聞)

■「脱法行為」は合法の範疇との小沢氏の主張

「政治団体からの献金であれば問題という認識なのか」「政治団体を経由する形での迂回献金ではないかということをどこまでチェックしているのか」という記者からの質問に対して小沢氏は以下のように主張している。

献金していただくみなさんにそのお金の趣旨や、いろいろな意味において、そういうことをお聞きするということは、それは、好意に対して失礼なことでもございますし、通常、これは政治献金の場合だけじゃなくして、私はそのような詮索(せんさく)をすることはないんだろうと思っております。そういう意味で私どもとしてはまったく政治資金規正法に、その通り、忠実にそれにのっとって報告をしてオープンになっている問題でありまして、このような逮捕を含めた強制捜査を受けるいわれはないというふうに考えております

何ら政治資金規正法に違反する点はありません

つまり、法律に違反していなければ問題ないだろという主張である。
そしてもし仮に、今回の問題で法律を犯している者がいるとすれば、それは小沢氏側ではなく、西松建設側の問題だ、と言いたいのである。
だから「迂回献金かどうかはチェックしない」と主張しているのだ。
なぜチェックしないのか。
常識的に考えれば「チェックすれば迂回献金の疑いがある」ケースが含まれているからであることは誰もが考えることだろう。
要するに小沢氏側は「不正があるとは知らなかった」「気づかなかった」という言い逃れをするためにチェックを“あえて”しなかったのだ。そう言われたくないなら「李下に冠を正さず」である。小沢一郎氏も以前自分で使っていた言葉だ。「知らなかった」「気がつかなかった」とは言えない。

今後の捜査は「利益供与の有無」に移っていく。
ここが立件できるかどうかの分水嶺だ。
しかし、ここで私達が正しく認識しなければならないことは、法的に違法にならなければ何をやってもいいのかということである。
言うまでもなく法律の多くは事象の後から作られる。
つまり、起こりうる犯罪が想定されることで法的規制が行われる。
想定されている違法行為でないからといって、それが「正義」だと主張する根拠にはならないということだ。
「法律が改正されたので今までの行為は今後行わないようにします」等の政治家の釈明に、私達が言いようのない不満が沸き起こるのは、こうした背景によるものだと私は思っている。
法律に規制されていようがいまいが、悪いことは悪いのだ。
社会通念がわからない者が多くなれば社会は邪悪化する。
ましてや、わかっているいるはずの人間がわからないふりをして悪行を行えば、日本社会など簡単に無法地帯化するのは自明の理である。

小沢氏のような主張がまかり通るなら、政治資金規正法なんて全くの子供だましだ。
犯罪者が横行する日本社会になってしまう。
いま五濁悪世と言われる現代社会にあって、国民、庶民が最も神経を尖らしている最たるものの一つが「脱法行為」である。いわゆる「正直者は馬鹿を見る」社会になってしまうか。それとも「陰徳あれば陽報あり」という真面目に努力する人が正しく評価され生活できる社会を構築できるのか。
二十一世紀の社会はその点に大きな関心が寄せられている。

その絶え間ない努力を踏みにじるのが脱法行為である。
言い換えれば、法律が禁止していない不正行為、法の網の目を潜り抜ける非人道的行為が脱法行為である。だから脱法行為が公然と行われ始めると法律改正が行われてその行為を禁止される。
小沢氏の政治資金に関わるダーティな手法は間違いなく「脱法行為」である。その証拠は、彼が行った手法の多くがその後に法律改正が行われて「違法行為」になっている。
「法律で罰せられなければやっていい」という現代の風潮。
その元凶の一つは、間違いなく、小沢氏のような公職にある人間の言動であることを、私達は忘れてはならない。

脱法行為は絶対に許してはならないのだ。

【関連リンク】
小沢一郎代表の会見と一問一答(産経新聞ニュース)
詳報(1)「(捜査は)不公正な国家権力、検察権力の行使」
詳報(2)「規正法にのっとってオープンになっている問題」
詳報(3)「何らやましいことはない」
詳報(4)「どっかから持ってきたカネだとか、詮索しない」
詳報(5完)「必ず近いうちに嫌疑は晴れる」

2009年3月4日 (水)【小沢一郎 公設第一秘書が逮捕】

民主党代表・小沢一郎氏の公設第一秘書が政治資金規正法違反容疑で逮捕された。
準大手ゼネコンの西松建設に絡む一連の裏金・献金事件の一端である。

民主党からは幼稚な声ばかりが聞こえてくる。
「政権が選挙に勝つために仕組んだ陰謀」
「陰謀があるという感じはある」
何を言っているんだか。
有罪が確定した際には陰謀発言した民主党議員は全員辞職すべき問題発言だ。

評論家小沢遼子氏は「今回の容疑は3年以上前の話で、なぜ今立件されるのか違和感が残る。この時期の逮捕は国策捜査と言われかねない。」などと発言。評論家を名乗るくらいなら少し勉強されたら?と思うが、公訴時効の問題に過ぎない。この年度末で時効を迎えてしまうので、政局に影響ができることも覚悟の上で年度内に公訴するために逮捕に踏み切ったにすぎないことは少し知識があればわかることだ。
逆にもし仮に時効前に公訴しないことがあるとしたらその方が問題だ。
不見識の人間は、マスメディアであれこれ言わないほうがいい。

小沢一郎氏のダーティぶりは何度も指摘してきた。
小沢一郎 自由党と民主党の合併時の不透明資金疑惑(2007.10.8)
政治資金で購入した不動産で資金運用? 小沢一郎さん 政治家を辞めて実業家になりなさい。(2007.10.9
小沢一郎のずれた感覚に唖然(2007.2.21)

加えて最近の言動では思想的浅薄さが浮き彫りになっている。
北朝鮮拉致問題では「カネをいっぱい持っていき『何人かください』」発言。
日米安保では「米の極東におけるプレゼンスは第7艦隊で十分」発言。
底が知れた感しきりである。

今夜の古舘氏をはじめ各局のマスメディアはいつもにもなく淡々と報道をしていたのが印象的だ。これが政府与党側の逮捕だったら、ここぞとばかり騒ぎ立てたと誰もが感じただろう。
いつもこのくらい事実だけを報道すればいいのだ。
逆にいつもみたいに民主党バッシングをやってもいいと思うが、そんなことは今の日本のマスメディアには望んでも仕方ない話だ。

新聞各紙も見識を欠いた報道だ。
公設第一秘書の逮捕となれば、いま報道すべきは、事件の全容解明と議員本人の関与の問題だろう。つまり小沢一郎氏本人の責任と議員辞職があるかどうかではないか。
それに触れているマスメディアは皆無と言っていい。明朝あたりから重い腰をあげえ報道するのだろうが、現時点では「解散への影響は?」程度である。
公職選挙法に定められている「連座制」は選挙活動に限定されている。今回の疑惑は政治資金規正法違反であるため、厳密には連座制の適用というはないわけだが、議員個人事務所は法的にはあくまでも議員個人の出納管理が為されていることになっている。そうした法的解釈に加えて、現実問題として小沢氏本人がどれだけ関わっているのかが大きな問題である。

今回のことで、日本国民の多くが「自民党もだめだが民主党だってだめだ」ということに気づいただろう。野党のうちから権力やカネの欲望に絡めたられているようでは、政権をとった後は今の自民党よりも性質が悪い。
今回の事件は、国民にとっては朗報なのだと私は思う。
何を基準に判断すべきなのか、いま一度自身に問うてほしい。

2009年2月17日 (火)【第29回黎明塾 地域密着の事業戦略−日本経済と地域を取り巻く環境の変化−】

2月14日(土)に今月の黎明塾を開催しました。
今回のテーマは「地域密着の事業戦略−日本経済と地域を取り巻く環境の変化−」。前回取り上げた雇用問題の延長としても重要な視点となる、地方における事業経営について考えました。

前回は雇用の一側面として、正規/非正規の格差と企業経営者の労働に対する意識の問題、製造業における延々と続いてきた偽装派遣と改正派遣法の深層を指摘し、経営者として社内スタッフとパートナーシップのいずれかで危機を乗り越える重要性について考えました。
雇用の問題は、雇用のことだけを考えていては解決できないことは自明の理です。
雇用を創出ということは、雇用を必要とする仕事を創出するということです。
ここでいう仕事とは、ものづくりであったりサービス提供であったりしますが、そうした仕事を創出するためには、その仕事を必要とする需要の存在が不可欠です。
そうした需要の創出こそが、今現在大きな政治課題となっている「消費の拡大」そのものであることは疑う余地はないでしょう。

雇用の創出とは事業経営の展開そのものであり、消費の喚起も突き詰めると求められる事業展開ということに直結します。
そうした視点を熟考せずして「雇用を確保せよ」「労働者の生活を保障せよ」「消費を拡大させろ」と叫ぶことに、大きな意味などほとんどありません。
現在の経済恐慌を本当に打破したいのならば、事業経営を全面的にバックアップするのが最良の道です。
政府が打てる手は大きくは2つの観点しかない。
ひとつは、新規事業や既存事業の拡大を側面的に支援する法的支援、中でもより強い意志を反映できて効果的と言われているのが税制面の法的整備。
もうひとつは、緊急時のカンフル剤的刺激政策。
歴史的にみても理論的に考えても、この2つの政策は王道というべき行政の役割です。恒久施策と応急施策ということでもある。

ならば私たち民力を発揮すべき立場の人間として、いま為すべきことは何か。
事業を創出、維持拡大することで大きな役割を果たす。
このことが求められている。

この30年ほどの間で日本の経済構造は劇的に変化してしまった。
その指摘を先進各国のデータで検証し、日本経済の格差を生んでいる、雇用形態以外の大きな要因である地域格差と第一次産業の衰退に着目し、その環境の変化を考察しました。また、地域産業への取組みが日本よりも先行している欧米各国の事例を学びました。

今回の考察にあたり、参加者への意識喚起として2つの提言を提示しました。
20090214_2 ひとつはロバート・B・ライシュ氏による『暴走する資本主義』、もうひとつは池田大作氏による第34回SGIの日記念提言『人道的競争へ 新たな潮流』です。
共に世界の有識者に注目された提言ですが、この二つには共通した主張が盛り込まれています。ライシュ氏は従来私達の社会は「市民」という側面と「消費者、投資家」という側面の2つがバランスをとってきたが、近年そのバランスが大きく崩れてしまったことを指摘します。この両者は民主主義と資本主義という言葉でも表現されていますが、現在の社会は資本主義の考え方が民主主義を席巻する「超資本主義」に侵され、回復の曙光が全く見えないという絶望感すら漂います。ライシュ氏はその象徴的事象として、企業の擬人化に注目。本来個々の人間の集まりに過ぎない企業が、あたかも人格をもっているかのような、現代人の認識に問題の本質が端的に集約されており、一例として法人税を全廃することを挙げて、個々の人間を基調とすることが問題の処方箋の根本であると主張します。

一方、池田大作氏の主張も同様の色彩を帯びています。
現在の世界が抱えている金融経済恐慌の背景には限りない効率追求と実態を欠く貨幣経済への根拠なき信奉があると指摘。これはかつてマルセルが指摘した「抽象化の精神」の罠に絡め取られた姿そのものであり個々人の短期的な利益と欲望に目が眩み、グローバル化した結果であると指摘。その解決の方途は「人道的競争」への転換と、抽象化ではなく具体性の代表ともいえる地域性に徹して一人一人の人間に光を当てた「内在的普遍」へのアプローチであると提唱しています。
さらにその具体的な方策として、環境問題を通した「行動の共有」、地球共有財に対する国際的な「責任の共有」、核廃絶への「平和の共有」という3つの共有への挑戦を掲げています。
池田大作氏のこの主張は20年以上前から一貫しており、その根源は万人の生命にはだれもが最高の生命状態を涌現する力があるという生命尊厳の仏法哲学に裏打ちされています。

両者に共通している最大のポイントは、行動の主体は企業や社会というような抽象化された団体組織等ではなく一人の人間であるという点です。
社会の変革といっても、経済恐慌の転換といっても、しょせんは一人の人間の行動からしか始まらない。そのかけがえのない一人の行動が二波、三波と広がり、千波、万波へと広がっていく。ここにしか変革の構図はないのだという両者の熱き思いに深く共鳴する人は多いのではないでしょうか。

市民であり消費者であり投資家である私達一人一人が真剣に考え行動することを訴えたライシュ氏、一人一人が身近な具体的な生活の場で改革することを提唱する池田大作氏の思いを具体的に実践するということはどうすることなのか。
仕事に携わる経済人という側面からのアプローチとして、地域密着の事業展開はひとつのチャレンジとも言えるのではないかと思います。
次回は具体的な事業事例を学びたいと思います。

【関連リンク】第29回黎明塾

2009年2月5日 (木)【「かんぽの宿」はじめ旧郵政公社の一括売却価格に批判集中】

旧郵政公社の売却資産が、売却価格に比べて相当の高値で転売されていることが問題視されている。
一連の問題は昨年末、鳩山邦夫総務大臣が、かんぽの宿一括売却がどの様な経緯でオリックスグループ企業に決まったのか、その売却価格は安すぎないのかと指摘したことでマスメディアに大きく露出することになった。

昨日2月4日の衆議院予算委員会で国民新党の下地幹郎議員の質問によって民営化前の2007年3月の178ケ所一括売却価格も不当に安いのではないかと指摘された。
具体的には、東急リバブルが評価額1000円で取得した旧沖縄東風平(こちんだ)レクセンター(沖縄県八重瀬町)が那覇市の学校法人に4800万円で転売されたというもの。しかも契約直前までは3583万円だったが、東急リバブルが「競争相手が現れた」と言い出して価格が4900万円に上昇したという胡散臭い話まで出てきている。
その他にも、評価額1万円とされた鳥取県岩美町の「かんぽの宿鳥取岩井」が社会福祉法人に6000万円で転売されたことも既に報道されている。

それらの売買や契約締結の過程で談合やインサーダー取引等をはじめとする不正が行われなかったか、厳正な調査と摘発を望みたい。

それと同時に、明らかな投売りを行った官僚(公務員)の不作為の行為による政府や国家への不利益に対しても処断されるべきであると思う。
こうした売却価格に話が及ぶと、必ず「運営するだけで赤字が膨らむ」「引き取ってもらえるだけで幸運なのだ」といったまことしやかな答弁が繰り返される。
こんな答弁、発想自体がお役所体質そのものだ。
これが自分が起こした会社の資産だったらそんなことを考えるだろうか。
今回の転売話をみればわかるとおり、宿泊事業で採算がとれないならば、不動産として建物の利用価値を前面に出して売却するのは、民間の経営者ならば当然すぎるほどの発想だ。
東急リバブルが手にした利益はまさに「漁夫の利」。
売却業務を担当した旧郵政省の担当者にほんの少しでも本気になる気持ちがあれば、そのほとんどは国庫に入れることができた金額ではないのか。
こんな役人を放置するような国家である。
どんな素晴らしい政策を出しても、常に国民の頭について回るのは「税金を無駄遣いしていないか」という疑心暗鬼。
全部ひっくるめて「ガラガラッポンッ!」としたくなる気持ちもよくわかる。
しかし、そんな外面の形だけ、政治家の首を換えるくらいで、よくなるほど日本の政治は甘くない。人が変わっても、甘い汁を吸う不貞の輩は陸続と続く。それがその役職についた者の「役得」だといわんばかりに。
私が、政権交代ばかりを唱える民主党を弾劾するのは、こうした考えによるところも大きいのだ。

不作為の役人も後を絶たないだろう。
やってもやらなくても金銭的な報酬は同じ。ちょっとでも前向きな提案や調査でもやろうとするれば、権益をむさぼっている奴らから横槍が入る。元々やってもやらなくても変わらないなら、やらないほうがまし。その分自分のやりたい遊びや趣味に時間が使えるというものだ。多くの公務員が陥っている「事なかれ主義」を根絶するなど想像もできないだろう。

こんな末法悪世の現実をいかにして転換するのか。
所詮は、私たち一人一人の生命の底から、生きていく理念信念、哲学を再構築すべきであると感じるのは、多くの庶民の共通の思いではないだろうか。

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2009年2月4日 (水)【何がエース級か 緊迫感の欠如した国会審議を問う】

本日2月4日(水)の衆議院予算委員会のNHK中継を見た。
民主党は「エース級の論客4名を投入」と相当意気込んでいたようだが、実際に行われた質疑をみると、唖然とした。

「解散をするするといって解散しないから麻生首相は『やるやる詐欺』だ」
「そんな答弁なら家で寝ている方がまし。『税金泥棒』だ」

百年に一度の世界経済恐慌の大波を、日本もまともに直撃しているという時に何をやっているのか。上記発言は前原誠治氏だが、他の民主党の長妻昭、馬淵澄夫、菅直人も大同小異。議論のための議論というか、「俺達はこんだけ論争ができるんだぞ」というちまちました自己主張にしか聞こえない。
それはどうしてなのか。
今がどういう時なのか、何を議論すべきなのか。
そして、何を国会として決議し、行動すべきなのか。
そうした確固たる理念、信念が感じられないからだ。

今は先日可決された約70兆円にもなる第二次補正予算の関連法案の参議院審議が、いつ行われるかが焦点である。衆議院で可決されて参議院に送致されてすでに3週間。民主党の審議引き延ばし戦術で審議入りの目途すら立っていない。
この関連法案が可決されないと70兆円の予算執行に大きな影響が出るのは自明の理である。
何のための補正予算なのか。
定額給付金をはじめとする補正予算に異論があったとしても、すでに議決されたことだ。議会民主主義の日本の国会議員ならば、議決されたことを迅速に遂行する義務があるはずだ。
翻って衆議院では、今、何をすべきなのか。
平成21年度の予算審議はもちろんのこと、いまだ出口の見えない経済恐慌にあって、政治ができることは何か、真摯に議論し具体的な法整備、方策を打つべき段階は依然として続いている。
民主党の議員の様子をみていると、危機は去ったかのような暢気さ。
自分達の政権取りしか頭にないのかと言いたい。

ジャーナリストの太谷昭宏氏が吐き捨てていた。
「いったい何をやっているんだ」

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民主党の前原副代表が、首相を詐欺師呼ばわり
大谷昭宏事務所

2009年1月30日 (金)【第46回桂冠塾『芙蓉の人』(新田次郎)】

今月24日(土)に今月の桂冠塾(読書会)を開催しました。
今回で46回目、作品は新田次郎作『芙蓉の人』です。

主人公は富士山頂で初めて冬期気象観測を行った野中到・千代子夫妻。実在の人物です。『芙蓉の人』のタイトルからわかるように妻・千代子の生き様を中心に描かれています。
作品のタイトルは千代子が書き、報知新聞などに掲載された日記の題号「芙蓉日記」に由来すると新田次郎自身によって書かれているが、それと同時に「千代子夫人の当時の写真を見ても、『芙蓉の人』と云われてもいいほどの美しい人であり、心もまた美しい人だったから、この題名にした」と記している。
芙蓉はアオイ科の落葉低木で夏から秋にかけて白い花をつける。
日本が誇る名峰・富士はその姿から芙蓉峰(芙蓉峯)と形容されてきた。
千代子の生き様は、まさに芙蓉のごとくであったに違いない。

桂冠塾の当日は5名で行いました。
様々な視点での発言があり、大いに意見交換もできたように思います。
主な論点として用意したのは

・千代子の気持ちの描写、心象風景の変化
・野中到はなぜ富士山頂観測にこだわったのか
・千代子を富士山頂に登らせたものは何だったのか 決断に至った要因
・女性と男性の違い 求められるこれからの女性像とは
・真の男女平等とは 女性の真価 歪んだ男女同権を糺す
・封建社会と日本女性 千代子と義母・とみ子 千代子を支援する実家の両親達
・富士冬期観測をめざしながら、日本の戦勝に気持ちを奪われる男達
・昔から富士周辺に暮らし、到と千代子を助け、支えた地元の人達
・野中到、千代子夫妻が成し遂げたものは何か
・死をも覚悟せざるを得ない極限に直面した際の自身の判断の妥当性を考える
・夫を助けるつもりで登頂した後、高山病(らしき)に罹り、助けることができない千代子
・貴重な観測機材が次々と壊れ、自分を責め、笑顔がなくなっていく千代子
・到が起き上がれなくなり、冬期連続観測の「記録の鎖」を必死で繋いでいく千代子
・極寒の富士山頂に何度も慰問に訪れる支援者達
・野中夫妻が生死を彷徨うまさにその時に生命の灯火を消した愛娘園子 夫妻に去来した思いは
・「野中夫妻は元気だったと云ってくれ」と懇願する到の思いとは
・野中夫妻の惨状を目の当たりにし、口止めされながらも事実を報告した熊吉たちの心情と行動
・沸き起こった「野中夫妻を見殺しにするな」の世論
・歴史に残る偉業とは何か 何が歴史に刻まれるのか
・その後、富士山頂観測所設置、冬期観測に触れることのなかった野中到の思いとは
・「もし(褒章を)下さるならば、千代子と共に戴きたい」
・『芙蓉の人』を執筆した新田次郎の真情とは
・芙蓉の山 富士の魅力  等でした。

到が大学予備門(現在の東京大学教養学部)を中退してまで成し遂げようとした思いは、どこから生まれてきたのか。
そんな到を認めて支援する野中家、そして中央気象台。普通の予備門中退者であればそこまで認められることはなかったのではないか。
野中家のポジショニング、そして到の人間的魅力にもっと迫ってみたい。

そして、そんな到を陰に陽に支え続けた妻・千代子。
本書の解説等では「明治を代表する女性」として野中千代子を絶賛するむきがあるが、どう見ても当時の平均的な明治女性ではない。
その人間としての資質、決意と行動はどこから生まれてきたのか。どのような人生を歩むと千代子のような女性に成長することができるのか。個々の場面での判断が極めて的確である。どこまでも夫である到の目指す目標を達成させるために自分の持てる力を発揮しようとする姿は女性のみならず、人として素晴らしい生き方であり、多くの人が見習いたいと感じるだろう。そして必要とあれば、自らその能力を修得する努力を積み重ねていく姿に自分自身の可能性を信じて努力を持続すること、自分で限界を設けないことの大切さを感じた人も多いに違いない。
そしてそんな千代子を支えたのも、また家族であった。
千代子の決意を聞いた福岡の実家の両親も決して強行に反対はしなかった。
どう考えても、死と背中合わせの無謀な行為にもかかわらず、である。

物語にはいくつかの山場がある。
到が冬期観測を開始するまでの強い意志を持続させながら、堅実に準備を重ねていく千代子。
夫に遅れること11日にして、女性で初めて、しかも冬期の富士登頂を果たし、到の気象観測のサポートを始める千代子。
しかし高山病と思われる症状が続き、思うように手助けができない千代子。
喉頭の膿を取り除き、健康を回復、到のサポートに嬉々として従事する千代子。
高所環境によって次々に壊れた観測機器。それを自分のせいだと思い、笑顔をなくしていった千代子。
到の健康状態が悪化し気象観測の主役が千代子に移る。
弱音を吐く到を叱咤激励する千代子。
慰問者に危険な病状が知れた時の到が懇願するシーン。
救助隊によって救出される野中夫妻。そこで繰り広げられた千代子の思い、心からの訴え。
下山後の夫妻の巻き返し準備とその途上での千代子の死。
一人になった到が冬期富士山頂観測に触れなくなった思い。
そして、20数年後に富士山頂測候所が完成する...。

果たして、野中夫妻の行動はどのような意味があったのだろうか。

私が心に残った印象的なシーンを2つ挙げておきたい。
ひとつは、気象観測機器が壊れたあとの千代子。
もうひつとつは、千代子が亡くなったあとの到である。

観測機器が壊れたのは、もちろん千代子には責任などない。
しかし千代子が観測中に起きた出来事であったため、自らを責めるようになったのか、自信を失ったのか、次第に笑顔が消えていった。
そのとき到は初めて気がついたのだ。千代子の笑顔にどれほど救われていたのかという事実を。
千代子の笑いがなくなった。それまで千代子は一日に何度か声を上げて笑った。その笑い声を聞いているだけで到は、富士山頂にひとりでいるのではないという気持ちになり、千代子のためにも自分のためにもしっかりしなければならないのだと思っていたのに、その千代子の笑いがぷっつり切れてしまうと、心の中のストーブの火が消されたようにもの淋しく感ずるのであった。

笑顔には力があると言われることがあるが、本当にそのとおりだと思う。
特に女性の笑顔には、勇気と希望を涌き起こす力があると感じる。
用意周到であった到が、こと自分自身の身体に関しては無謀であったことも千代子の指摘と機転によって救われる。一日12回の気象観測など常人には到底無理である。トイレのない居住空間もその最たるものだった。
千代子にはその無謀さゆえに、到が生命の危機に直面することを本能的に感じとったのだろうか。

そんな思いをした富士山頂観測も82日間で断念、下山することになる。
気象学の権威である和田雄治と渡り合うシーンは男尊女卑の日本社会と真っ向から対決する場面でもある。大きなテーマである。にもかかわらず、小説全体から見ると小さく感じるのは、千代子の人生そのものが、男とか女とか、そんな違いを超えてぐんぐん迫ってくるからだろうと思う。

下山して数年を費やしながらようやく健康の回復をみる。
野中夫妻は再度の登頂のために準備を始めるが、インフルエンザの流行に罹り、千代子が52歳で急逝。
「野中到は、千代子の死後は富士山頂の越冬気象観測については二度と口にしなかった」
最初は到個人の目標であった富士山頂の越冬気象観測は、生死に直面する苦難に直面し、野中到・千代子夫妻の共通の目標になった。その同志、戦友である千代子が死んだ今、到にとっては永遠に到達することのできない目標に変わったのだろう。昇華したといってもいいかもしれないし、センチメンタルな追憶の世界に入ってしまったのかもしれない。一般的に、妻に先立たれた男性は生きる意欲を失いがちだと言われる。こうしたところにも男性の弱さがあるのかもしれない。
後年、次男の野中厚氏が語っていたエピソードがある。

母が生存中のことでした。父に褒章の話がありました。富士山頂における冬期気象観測の功績に対する褒章だったと思いますが、父はもし下さるならば、千代子と共に戴きたい。あの仕事は、私一人でやったのではなく千代子と二人でやったものですと云って、結局、その栄誉は受けずに終わったことがありました。

この話に、すべては凝縮されているのだと私は思う。

下山、そして下山後の記述から野中夫妻、特に到は瀕死状態であったことがわかる。下山の決断がなかったら、おそらく生命を落としていただろう。
自らが誓った目的のために生死をかけて挑む。
しかし再起を期すために、一時の撤退を余儀なくされることがある。
その決断の是非はどこで問われるのであろうか。
蛮勇と真実の勇気。その決断はわずかな差にすぎないのだと思う。
その違いは、最後に勝つという執念によって決されるのではないか。
そう思いながら、最後に新田次郎の言葉を紹介して本作品の感想を締めくくりたい。

この小説を書く前には偉大な日本女性の名を数名挙げよと云われても、おそらく私は野中千代子の名を挙げなかっただろう。それは野中千代子をよく知らなかったからである。しかし、今となれば、私は真っ先に野中千代子の名を挙げるだろう。
野中千代子は明治の女の代表であった。

現在の世に、野中千代子ほどの情熱と気概と勇気と忍耐を持った女性が果たしているだろうか。私は野中千代子を書いていながら明治の女に郷愁を覚え、明治の女をここに再現すべく懸命に書いた。

【参考文献】
『富士案内 芙蓉日記』(野中至・野中千代子)平凡社ライブラリー
『変わる富士山測候所』(江戸川大学土器屋由紀子ゼミ編)春風社

【関連サイト】
近藤純正ホームページ 身近な気象 4.富士山頂の気圧−芙蓉の人−
苦難と誇り刻んだ頂…富士山(山梨県、静岡県)◇新田次郎「芙蓉の人」(読売新聞コラム本よみうり堂)
新田次郎 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

2009年1月28日 (水)【何のための両院協議会か 理解に苦しむ民主党の対応】

昨日27日の衆参両院協議会を経て第2次補正予算が成立した。
民主党など野党の引き延ばし戦術の影響で2日間にわたって開かれた協議会によって得られたものが、何かあったのだろうか。この2日間の延長は、そのまま定額給付金支給開始時期の遅延に直結する。
彼らの行動には、100年に一度の世界経済恐慌に立ち向かっているんだという危機感が全く感じられない。
しかも、給付金の財源の根拠となる関連法案については参議院に送られてすでに2週間。民主党など野党の思惑によって、審議にすら入っていないという異常事態が続いている。支給業務に必要となる事務費(825億円)もこの関連法案に含まれるため、正式な手続きを踏むとすれば参議院で審議可決されないと各自治体は身動きがとれないという状態だ。今回、政府与党は関連法案の成立を待たずに交付に踏み切る方針が打ち出された。

法律遵守の考えでいれば、超法規措置とも言える。支給自体が決まっているのに民主党の党利党略によって支給時期が先に伸びていくことをおかしいと誰だって思うだろう。
今は全員が一丸となって、非常事態を乗り切るとき。
そん時に、こんな国会戦術を平然と実行している国会議員は、いったい何のために、誰のために、議員をやっているんだ?

【関連リンク】
給付金、年度内支給の完全実施は困難か…要綱を市区町村に通知
<定額給付金>市区町村、準備作業本格化 総務省が要綱通知

2009年1月22日 (木)【何のための国会なのか 石井一議員の資質を問う】

1月20日(火)の予算委員会のTV中継を、午後訪問していたお客様の事務所で見る機会があった。
ちょうど民主党の石井一(いしいはじめ)氏による補充質問が始まるところだったが、その内容といえば極めて悪質、低俗の極みであった。

石井氏の質問(といえるのかどうかも疑問だが)は大きく2点あった。
ひとつは「公明党の支援団体である創価学会が日本の政治を牛耳っている。国税庁の査察を受けたこともあるではないか。国会喚問して真偽を質せ」、もうひとつは「月刊誌に寄稿した麻生首相の手記は誰か(別人)が書いたものだろう。あなたの漢字力では書けない漢字が使われている」として、12熟語の「漢字テスト」なるものを展開した。

1点目の創価学会の質問については、その直後に質問に立った公明党・山口なつお議員の主張に集約されるが、国会の場で云々すべき事柄であろうか。石井氏は昨年の国会審議の中で同様の質問を繰り返し、厳重な注意を受けている。石井氏は民主党の中では創価学会叩きの急先鋒を自任しているので注意など意に介さないのだろう。
しかし、国会の場で創価学会の税務調査の真偽を質すとか、週刊誌の掲載記事の真偽を質すために創価学会の責任者を国会喚問せよという要求は、正義の旗を振るかのように見せた権力の横暴そのものである。そんな要求が通るようならば、特定の団体、個人を中傷誹謗したいと思えば悪意のあるデマを振りまき、三流週刊誌に疑惑記事を書き散らして、国会議員が騒ぎ出せば、国会喚問できるということになってしまう。
これを権力の横暴と言わずして、何が横暴になるのだろうか。
明らかな、信教の自由への国家権力の介入である。
これは冷静に判断すればほとんどの国民にもわかることだろう。よくわからない、判断できないという人は、よい機会なので信仰と憲法の精神を学ぶことをお奨めしたい。
この問題については、キリスト教徒である佐藤優氏も「創価学会に対する弾圧の動きに対しては、他の宗教者も声を上げるべきだろうと思う」「これは日本国憲法に反するのみならず、人類の普遍的な法に、言うなれば人類の憲法に反する行為だと思う」と警鐘を鳴らしている。

ただ石井氏も国会議員の端くれだ。憲法の理念から考えても、国会への創価学会関係者の招致等は却下されることなど百も承知の上で騒いでいるのだろうとも思える。「うさんくさい」という印象を国民(有権者)に与えれば、与党の一角をなす公明党への賛同者(票)を減らすことができる。それで目的は充分に達せられているのだろう。
本気で問題があると思っているのなら、創価学会に公開討論でも申込んで、直接石井氏の意見をぶつければよいではないか。
石井一氏。本音はどうなんだと、私は問いたい。

2点目の麻生首相への漢字テストに至っては失笑に伏すしかないような低俗な話だ。
そんなことを言って、何がしたいのか。
100年に一度と言われる経済不況を、本気で乗り越えようという気持ちが多少でもあれば、こんな質問など思いつきもしないだろう。
石井氏の質問に対しては、国会中継直後から民主党本部に苦情が相次いでいることも報道されている。
当然だ。
民主党の若手議員のコメントが報じられているが、石井氏の質問は「失敗」なのだそうだ。その言葉に象徴されるように、民主党の行動は所詮、策を弄しているに過ぎない。常に世論を気にして人気取りを考え、どちらに風が吹くのかばかりを気にしている。いつも世論受けを狙っている。だから石井氏のような発言や行動が相次ぐのだと思う。
国家百年の責任など微塵もない。

更に言えば、それは民主党だけの傾向ではない。
現在の政治家の大半は同様である。
哲学の不在が言われて久しい。
激動の時代だからこそ、揺るぎない信念哲学を持った人格者、行動者が求められている。

【関連記事】
民主・石井氏らに批判殺到 首相への「漢字テスト」(産経新聞)
民主・石井氏が学会批判 「公明党はカルトの命令下」

2009年1月20日 (火)【定額給付金 議論の推移に思う】

定額給付金の議論が迷走している。
誰も彼も、「言いたい放題」の状況だと思うのは私だけだろうか。

「定額給付金」に反対している人に聞くとその理由が曖昧で、聞いているそばから違うことを言い出す人が、実に多い。
・麻生首相の「さもしい」発言が許せない。
・高額所得者、特に国会議員がもらうのは理解できない。
・生活補償なのか経済刺激なのか目的がはっきりしない。
・消費税アップとセットで実施されるから。
・一時的なことで経済は良くならない。
・事務が煩雑で無駄が多い。
・多くは貯蓄に回るから。
・定額減税ならいいが現金を支給するのはいかがなものか。

いずれもこの半年余り議論されてきた内容だったり、運用や個々の事象を取り上げたり、論点がずれていたり思い込みだったりの視点に終始している。どのような施策であれ、また仕事でも地域でも家庭でもそうだが、100人がいて全員が賛同するという施策などはありえない。議論を尽くす時は尽くす。迅速な対応が求められている時は、決断を優先させる。
今はどのような時なのか。
その認識で大局に立った議論、発言が求められている。

一時期、どのTVチャンネルも新聞もこぞって大合唱していた「バラマキ」という表現は、すっかり鳴りを潜めた。
多くの人が気がついていると思うが、日本のマスメディアは元々「反権力」である。それはそれで意味のあることだが、現在に至ってはそこに恣意的悪弊的要素が増してきている。
それは
@視聴率 であり
Aスポンサー収入 である。
これは相互に密接に関連していて泥沼化していると言っても過言ではないだろう。

その結果、ヒステリックなほどの政府与党批判となって現れ、具体的には野党の旗頭である民主党に異常なまでに肩入れする結果にもなる。各政党別の広告出稿料もそれを顕著に物語っている。
そうした情況に浮かれているのか、民主党の不見識な言動は目に余るものがありすぎる。
総額70兆円の経済対策の全容が果たしてわかっているのだろうか。出てくる話題は「定額給付金2兆円の別の使い道」ばかりだ。
民主、定額給付金で対案 環境と安全に重点投資(西日本新聞)
これは民主党小沢一郎氏の昨日の発言の要旨だ。
2兆円で小中学校校舎の耐震補強だとか太陽光パネルの普及と戸別所得補償制度による農林漁業活性化とか...。耐震補強の予算は別途確保されているのは周知の事実であり、太陽光パネルの設置助成は既に進行している。農家の個別補償を懲りずに言い続けているが、中長期の農業政策を議論せずして補償などしてどんな展望が開けるというのか。仮に貧窮している家庭への経済補償だというのなら、なぜ農家だけなのか。それこそ定額給付金で全国民の生活補償すべきではないのか。
定額給付金に反対するなら70兆円規模の経済対策を68兆円規模だと主張すればいい。場当たり的に思いつきで発言するから「ぼろ」が出る。小沢氏の発言はその典型だ。

昨日の国会での予算審議においても、民主党が以前から主張しているアクションプログラムの中に「給付つき税額控除」の主張があることを指摘され、答弁に立った民主党議員の発言内容は明らかにしどろもどろだった。民主党の政策を説明すればするほど、定額給付金に反対する現在の民主党のスタンスと矛盾することは明らかになった。

個々の話だけを取り上げても上記のような情況だ。
将来の日本を担うべき責任とビジョンなど求めることなどできようはずがない。
世界のトヨタがマスメディアの不見識ぶりに激怒し、広告出稿を止めようかと発言したことは、現状を端的に表した事例でもある。

このテーマは様々な側面を見せる多要素を含む問題である。
短絡的に「賛成か反対か」と発言すれば思わぬ角度から攻撃されることが多々ある。
個々の要因別に議論もできるが、相当の時間と労力を要する。
そんな国会議事堂の中だけで「ああでもない」「こうでもない」などとやっている間にも、私たち庶民は日々の資金繰り、生活費の遣り繰りに悲鳴を上げている。
3ケ月以上殆ど仕事がない、12月以降昨年の半分以下の仕事量になった、週4日勤務になった、定期預金を切り崩した、自家用車を売却しようか、朝早くから深夜まで疲れ切った体で悪戦苦闘している、等の話が毎日のように入ってきている。
当初、年度内実施と言われていた定額給付金に年度末の遣り繰りの望みをかけている中小零細企業の経営者だって、事実何人もいるのだ。家族の子供の支給予定分だって事業資金にせざるをえない親の気持ちを少しでも考えてみろと、私は言いたい。
余裕のある人は、貯蓄にでも、外食にでも、地デジチューナーにでも、自由に使えばいい、と私は思う。それぞれの家庭、個人には、それぞれの事情があるからだ。
貯蓄になるから意味がない、なんてどうしていえるのか。
貯蓄に回れば、金融機関が潤うではないか。
事務の煩雑さは工夫して効率化しなければならないが、その人件費が発生すればそれで収入が増える人だっている。臨時雇用しようという自治体だってある。
一面的に反対することは、誰にだってできる。
しかし、敢えて言いたい。
誰のための議論なのか、と。

「いま大切なことは何か」を今一度、言っておきたい。
それは、迅速な審議と決断である。
そして一度決定したならば挙党一致してその遂行にあたることである。

【関連記事】
民主党、給付金に「対案」出すも…(ココログニュース)

2009年1月15日 (木)【代理ミュンヒハウゼン症候群 誰もがかけがえのない存在】

京都大学病院に入院中の我が子に水道水と思われる雑菌が混入した水を点滴液に混入して死亡させようとしたとされる35歳の母親の事件が報道されている。
入院中の子供は五女。今回の事件以前にも、次女、三女、四女が死亡しており、昨1月14日には四女の殺害容疑で再逮捕された。

殺害された子どもたちのことを思うとやりきれない。
まだ何も世の中のことを知らずに、短い人生を終わらされてしまった。
きっと母親のことは無条件に慕っていたに違いない子どもたち。

殺人容疑者となった母親は、容疑事実を認めている模様で、一連の行為の理由を「周囲の同情を買うため、子どもを看病する姿を見せたかった」と供述していると報じられている。医療関係者の声として「代理ミュンヒハウゼン症候群」の疑いもあるとの見方が出ている。
ウィキペディアによれば、ミュンヒハウゼン症候群(Munchausen syndrome)とは自分自身に周囲の人達の関心を惹きつける為に自傷行為や虚偽の作り話を吹聴したり病気を装ったりする行為を指す。ビュルガー著『ほら吹き男爵』のモデルとなったミュンヒハウゼン男爵が命名の由来である。
ミュンヒハウゼン症候群には、自分自身を自傷したりするケースと、近親者等を傷つけたり悲劇の主人公に仕立てるケース<代理ミュンヒハウゼン症候群>の2パターンが存在し、今回の事件は後者のケースではないかと見られているようだ。

自分が注目されたい、悲劇のヒロインになって同情されたいという行為は、古今東西いずれの時代、いずれの場所でもあったことで、決して目新しいことではないだろう。『ほら吹き男爵』以外にもイソップ童話の『羊飼いと狼』など一例と言えるかもしれない。
また幼少期の子供にとっては、極めて日常的な行動であり、遊びの一部にもなっている。
問題なのは、それが社会生活を営むべき年齢になり、母親父親になってもなお、そうした行為や発想にとらわれて回りに被害者を生み出してしまうことだろう。原因の一端として、受験戦争や学力のランキング競争、高学歴社会での回りからの評価で自分の進路や価値を決めようとする現代の教育の歪みが、頻繁に指摘される。
確かに、そうした教育の問題は大きなウェイトを占めているだろう。
しかし同じ環境下にあっても、ミュンヒハウゼン症候群の症状が顕在化する人とそうでない人がいることに着目しないと、問題の解決には至らないと私は思う。

強弱の差こそあれ、人間は誰しも他の人から認められたいという意識がある。
そのことに自己の存在意義を見出そうとしている人は、ことのほか多いのではないかとも思う。
しかし、それは自分以外の何か、誰かと比べることによって生じる相対的な評価でしかない。自分自身の絶対的評価ではないことに、命の底で「そうなんだ」と実感すること、生命次元で気づくことが必要なのだと思う。
その思いに立てた時、人は自分ができることに一生懸命になってみようと、行動を起こすことができるのではないか。

教育の改革も必要。
現在の病んだ人間の心をケアするカウンセリングの充実も必要。
人と人とのつながりを大切にするコミュニティの広がりも大切。
希薄になっている家族の絆を強くすることも大切。
そしてそれ以上に、自分も誰一人としてもれなく、素晴らしい存在なんだと自分自身が自分自身を認められることが最も大切なのだと思う。誰かに注目されようとされまいと、自分自身の価値は変わらない。揺るがない。
その思いで、目の前のことに誇りと自信を持って地道に取り組んでいける。

今を生きる私達に必要なものは、自分も回りの一人一人も、かけがえのない生命そのものだという生き方だと思う。
その思いを「生命哲学」と呼んでいいと私は思う。
一人一人の人生の積上げの先にしか、社会の変革も、平和もないと思うから。

「次女、三女の点滴にも水混入」殺人容疑で再逮捕の母(Yahoo読売新聞)
【点滴腐敗液混入】次女、三女にも手を加えたと供述(Yahoo産経新聞)
代理ミュンヒハウゼン症候群 - Wikipedia
ミュンヒハウゼン症候群 - Wikipedia

2009年1月13日 (火)【第28回黎明塾 パートナーシップ戦略と雇用の創出】

今月10日(土)に28回目になる黎明塾を開催しました。
今回のテーマは「パートナーシップ戦略と雇用の創出」。

現在の自社の体力を超える事業を行うというシーンはことのほか多くあります。自社の持っている能力の範囲内で仕事をしているだけではいずれは企業は衰退することになることを考えると拡大はすべての活動の使命ともいえます。
その場面で事業を遂行するのか、辞退するのか。
遂行する場合には、実力との格差をいかにして補うのかという経営判断に迫られます。
大きな選択肢として、パートナー・リレーション・シップ戦略とスタッフ雇用があげられます。

昨今の社会情勢への関心が高く、当日は「雇用」が主なテーマになりました。
日本の製造現場の実態は思いのほかよく知られてはいません。現場を経験したことがある者にとっては当然ともいえる派遣労働と業務委託の現実は長い間、存在しないかのように扱われてきた経緯があります。
平成16年3月の労働派遣法の改正のポイントをみてみると、労働力を必要としているメーカー側と、建前だとしても労働者の処遇を保証しようとする鬩ぎ合いが容易に見て取れますが、その改正内容は荒っぽい感が否めません。
このときの改正労働派遣法が今回の「派遣切り」の底流にあることは間違いのない事実です。
また時を同じくしてアメリカのビッグ3の破綻が伝えられていますが、日本の自動車メーカーが危機的状況を避けられているのは低賃金で労働力を提供している人達の存在があることを私達は正しく認識すべきだと思います。

これは労働力だけにとどまらず、部品供給や下請工場、外国人労働者や2次、3次請負の存在など日本の産業構造全体の問題。一般にホワイトカラーと呼ばれる分野においても、個人請負や日本版ホワイトカラー・エグゼンプションの導入等で雇用する側の論理が徐々に浸透しているようにも感じます。
中小企業の黒字経営率が非常に低いまま推移し続けています。
こうした慢性的な不況状態を抜け出すことが、本当にできるのか。
この一点をクリアできないとするならば、いくら起業する人がいたとしても、他人の不幸の上にしか自分の幸福は築けないことになってしまう。
雇用の創出など、一時的な利益だけでジリ貧になることを避けられない。起業を目指す者、そして現実の荒波の中で経営を行っている者にとっては、投げ出したくなるような状況が限りなく続いています。

ではどうすればいいのか。
多くの大企業の経営者は、思いのほか、安易な選択を行います。
自分の利益、特に創業者利益に預かっている者は、企業売却によって創業と一気に成長した利益をファンド化する。
スケールメリットを考えてM&Aを繰り返す。
しかし、それは根本的な解決にはならないことは、少し冷静な人であればわかるような単純な構造ですが、まことしやかに繰り返されます。
中小零細企業にあっては、何も打つ手すらなく、状況に翻弄されるのみ。必死に目の前の仕事に没頭しますが徒手空拳であることには変わりがない。その多くが廃業に追い込まれようとしている。

たしかにこのような経営者自身の問題が大きい。
しかし、それ以上に、市場を形成する消費者、国民、庶民の不見識が、本源的に問題を抱えていると断じたいと思う。
一部には怠惰な者もいるが、多くの企業経営者は必死に奮闘している。
しかし、その一方で、消費者も、自分のことだけしか考えなくなっていやしまいか。
将来の環境を破壊しているとわかっていても、安い商品を購入する。
どれだけの原価がかかっているのか、考えもしないで値段を値切れるだけ値切る。
自分の生活を考えるだけで精一杯だと主張ばかりして、地域やコミュニティのために汗を流さない。
社会が悪いのは「政治のせいだ」と罵り、そういう自分は他者のためには一切時間も労力も使わない。
そんなことで混迷の時代を切り拓く黎明を迎えることなどできやしない、と私は思う。

経営とは自他共の繁栄の実現にその目的がある。
そのためには経営者と共に、消費者が賢明にならなければ、その実現などありえない。
経営の神様と言われた松下幸之助も、明治に生きた日本の民業の基盤を創り上げた渋沢栄一も、全く同様の主張をしている。
ここに現在社会が直面している諸課題の解決の曙光が見えると私は考えている。

次回はこの突破口のひとつとして、地方地域における創業の可能性について論じたいと思います。

【実施内容はこちら→】第28回黎明塾<実施内容>

2009年1月7日 (水)【危機感を煽る行為は慎め 希望と励ましを贈る人であれ】

今回の経済恐慌が、世界的、加速度的であり100年に一度との認識では私も同じ危機感を持っているが、単に危機感を煽るような行為は慎むべきだとも思う。
その典型の一つにこんな調査結果が報道されていた。

『40歳前後の女性を指すアラフォー」の世代が、「仕事を失う不安」は1990年はじめからのバブル崩壊後より大きいと感じている』(産業能率大学調査12/11発表)
※コメントは アラフォーも職失う不安 「就活難しい」9割超(iza!) から引用

一見するともっともらしく、かつ今回の経済恐慌はバブル崩壊を経験した世代にも大きな衝撃と不安を広げていると思われる。
しかし、だ。
20年近く経った過去に経験した記憶と、現在進行中の危機感とを同列で比べること自体が無理があるのは誰の目にも明らかだ。いま、目の前で起きている出来事に、より多くの不安感を感じるのは当然のことなのだ。

まず間違いないと思うのは、「今回の経済恐慌は100年に一度の歴史的なもの。派遣労働者だけではなくより広く不安が広がっているに違いない」という「仮説」ありきの調査結果だ。

こんな調査を行って、何の意味があると言うのだろうか。
調査に携わるものの一人として、あえて辛口の批判を行っておきたい。
当該機関のWebサイトには、消費を牽引するアラフォー女性が「平成不況をどのように切り抜け、今回の景気悪化をどのように捉えているのか、また今後、自身のキャリアパスをどのように描いているのかを探ること等」を目的にアンケート調査を実施したとあるが、出てきた調査分析コメントは
・バブル崩壊時よりも不安が高い
・今後は貯蓄と資金運用を行いたいと考えている
・専門性を高めて正社員として働きたい
・結婚は急ぐ必要はないと考えている 等々...。
考察とはとうてい言い難い、ありきたりのものだ。
メディア露出が目的の一つならそれはそれでよいだろうが、挙句の果てに都合の良い箇所だけ、おもしろおかしく、マスメディアに利用されてしまっている。
そしてそれ以上に、こんな調査ともいえないような調査結果を報道するマスメディアも見識が、まったくない。
こんな調査結果を報道することに何の意味があるというのか。

いまマスメディアに行なうべき使命があるとすれば、不安の津波に呑み込まれそうになっている国民に対して、希望のメッセージを送り、くじけそうになっている気持ちを励ますことではないのか。
不況に負けず、智慧を搾り出して奮闘している経営者や労働者の姿を報道することだってできるだろう。
そんなこともしないで、不安を煽るばかりのマスメディアなど、必要がないどころか、社会悪と化していると断じたい。

世界規模に広がる未曾有の世界経済恐慌。
しかし、この危機は人間が引き起こしたものだ。
そうであるならば、同じ人間として、善の方向へ展開できないわけがない。
それは、誰かがスーパーマン的な働きをすることで達成できるのではないと、私は思う。
「これは政治の責任」という発言をTVのワイドショーで、何度も、聞く。
この発想も間違っている、と私は断じたい。
所詮は、自分が、今いる場所で、絶壁に爪を立てて攀じ登るような努力を続けるしかない。
そうした一人の努力で、すべてが決されるのだと、私は思う。
そして、そうした必死の人間がどれだけいるかで、目下の危機からの脱出時期が決まると思う。

自分もその一人でありたい。

【関連記事】
アラフォーも職失う不安 「就活難しい」9割超(iza!)
学校法人産業能率大学 調査報告書「大不況時代 40代アラフォー女性の自己防衛術」
調査報告書「大不況時代 40代アラフォー女性の自己防衛術」(PDFファイル)

2009年1月1日 (木)【謹賀新年】
2009年明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い申し上げます。

昨年から続く世界規模の経済恐慌が、日に日に身近な仕事現場。生活現場に押し迫ってくる感覚の中で迎えた正月です。
このような大きな潮流の中で、果たして私達は何ができるのか。何をすべきなのか。
こうした混迷の時代だからこそ、個々人の生き方が問われるのだと思います。
日頃から考え行動してきた自らの理念信念が正鵠を射ているのかどうか、その真価を発揮する絶好の好機。絶体絶命のピンチは最良のチャンスの時と思い定めて、今いる場所で、今という時を楽しむ一年にしたいと思っています。

縁をする全ての方々が、幸多き一年でありますよう心からご祈念申し上げます。
本年も共々に勝利の一年にしてまいりましょう。

(最終です)

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