創業の思い。私たちが目指すもの。

本来、私達の社会は、何のためにあるのか。

現在の経済構造は常に拡大成長を続けない限り不況が発生するという閉塞状況に落ち込んでいると言われて既にかなりの年数が経過している。 しかしその一方でそうした経済活動のおかげで私達の生活が成り立っているのもまぎれもない事実である。 ゼロもしくはわずかな資源から大きな成果を生み出す形での第1次産業およびライフライン産業を根幹に産業構造を再編成することが危機的な経済構造から脱却する方策であると考えるのは突拍子もないことであろうか。
本来、社会・共同体の起こりはどうであったのか。
お互いがお互いを助け合うという互助の精神が共同体社会の起こりである。
この中に既に社会福祉という考えがある。
また数人の共同体では全員が構成員であり分業化された生業も政(まつりごと)はなかったはずだ。
それが徐々に100人になり1000人になるうちに共同体自体の意思決定の全会一致が難しくなり、多数決が始まるとともに職業的分業が効率的であることに気づく。 政治の分野ではそれがさらに代表者による議決になり代理人(代表者)による行政執行が始まる。
構成員の生活の為に始まったはずの経済活動は利益追求自体が目的のように自走し始める。
いつのころから政治が、そして社会というものが構成員から見えなくなったのであろうか。
これは日本独自の問題ではない。 社会組織の根本的宿命ではないかと考えるのである。

人の幸せの追求と地球の継続性のある発展。 夢物語ではない現実の話として。

この状況を解決するための具体的方法論の一つとして道州制や連邦制という考えが歴史の必然として存在する。いわゆる拡大収縮の繰り返しサイクルである。 税収を原資とした行政事業・サービス一つ一つの必要の有無がゼロベースで考えられ、必要十分だけの財政収支が三権のもとで構成員の手の届くところで行なわれる。
生活はそのユニット(国・共同体)を基本として営まれることになることを前提に再構築すべき段階に入り、構成員が生活を実感できる大きさのユニットを形成する。
共同体の行なう事業の基準は、構成員全員の生活を等しく支えるものであるかどうかという視点が根本となり、いわゆるライフラインの確保に原則限定させるべきだと考える。 本来の社会資本とはこのものを指すのではないか。
その他の事業は、人の生活に必要な産業を根幹に、気候地域的な制約がない限り構成員が必要とするだけの規模で自由経済原理のもとで行なうことが地球共同体としての一つの目安になるのではないだろうか。
必要十分な規模を超えることは地球の循環機能から逸脱することになる。言い換えればスケールメリットを追求する消費型社会から、適正規模のユニットを基盤としてユニット間の連帯と協働を基調とした地球レベルの生活圏社会への展開を図ることを目指しているのである。
拡大経済の限界を打破する突破口として小ユニット(国・共同体)を前提とした一次産業とライフライン産業に特化することが今こそ必要だという主張は、ここにその根本的考えがある。

持続可能な生命共存体としての社会形成。
それがプロセキュートの目指すもの。

安心して手に取れるものが入りにくい都市生活がある一方で、自然にも人にもよいと思われるものを生産しようとしても採算が取れない、市場に出せないという現実。 今まで私達が普通の生活だと思っていた行動様式を続けると、環境を破壊させる、化石燃料等の資源が枯渇するという危機的な状況。
大局的にはエネルギー生産を中心とした循環系ライフラインを確立することがその主眼となるのではないか。
太陽光・風力・地熱・燃料電池等による発電、生活排水の浄化システム、排出物等を原料とした都市ガスの生成・肥料の培養、廃棄物の循環利用等、ここ数年で可能となった実用技術も多い。 こうした循環系技術を各構成員単位にまで整備し、各ユニット内で必要十分な生産消費だけで経済が成立するマーケットを確立し、大量生産大量消費をサポートするだけのマーケティングから脱却して生産地と消費地を直結する流通経路とマーケットを各地で確立する。
そして地道であるが、ユニット全体・個々の生産業従事者の現状を把握し様々な個々の改善などによって地域経済の再建と経営の効率化を目指す。こうした努力こそが生産地域の利益体質を構築することにつながり、ひいては持続可能な社会形成の経済的活動の一つとなるはずだと思うのである。
プロセキュートが目指す姿は、まさにここにある。

そのために、今、できることを始める。

一人一人の人ができることは限られている。
人生のすべてをつぎ込んで行なおうとしても大きな地球環境・宇宙生命の中から見れば微々たるものである。
しかし、そのわずかな人の努力を積み上げることだけが何かを変えられると私達は考える。
プロセキュートの事業も今できることから始めている。
すべて継続可能な社会形成のための小さな歩みと考えている。
既存のどこにもある会社と映るかもしれない。しかし、きっと私達はその事業さえ乗り越え、新しい視点を展開しながら生活実感のある社会を実現していきたい。
今までの皆様のご支援に深く感謝しながら、今後の更なるご協力ご鞭撻をお願い申し上げます。
1996年4月
有限会社プロセキュート
畑森 昭

節目、節目の思い。

あいさつ ---創業9年目になりました---

不況の時代と言われて久しくなります。そして景気回復の兆しが見え始め今年来年には回復基調が定着するとも言われるようになりました。 しかし大切なのはこうした観測や状況分析ではないと思うのです。私達はこうした自分達を取り巻く環境に右往左往している面がないでしょうか? 一つ一つの眼前の課題に取り組むことが大切であることは言うまでもありませんが、それと同時に重要なのは『何を目指すために』日々活動しているのかという点であると私共は考えています。そうしてこの4月で創業9年目に入りました。 欠かすことのできない原点を見定めながら確実に成果をあげていく。これからもそんな努力を一緒に進めてまいりたいと念願しております。
2004年(平成16年)4月12日
有限会社プロセキュート
代表取締役 畑森 昭

あいさつ ---創業12年目に入りました---

前回、このページで挨拶を書いてから3年が経ちました。 この3年間の歩みはどうだっただろうかと考えつつ、事業内容のページを中心に掲載しているコンテンツを見直しました。 経済を取り巻く状況は、推測していた想定の範囲内で推移しているように思います。 決して予断を許さない厳しさは、常にありますが、能動的な経営を目指していきたいと思っています。 時代と共に、変化のスピードが加速しています。 これからは、長くても一年で結果を出していくことが経営に求められるでしょう。 確固たる経営哲学、人生哲学を持って、堂々と切り拓いていきたいと決意しております。
2007年(平成19年)5月31日
有限会社プロセキュート
代表取締役 畑森 昭

あいさつ ---創業20年を目前にして---

社名である「プロセキュート」には”困難を乗り越えて難しい課題を達成する”という思いを込めています。 人生は困難の連続です。わが社においても眼前の苦難が次々と現れて、ひとつ乗り越えたかと思っていたら予想もしない場面で亡霊のように突然背後から襲いかかってくる。そんな理不尽とも思える障害の嵐の連続です。 望んで付けた社名とは言えども理不尽な訴訟や賠償請求などが続くと反発もしたくなります。人間不信は限界まで達して、もう辞めてしまおうかと思ったり、仕事に対する意欲はいつぷっつりと切れても不思議ではないでしょう。 何をやっても出口が見えない。多くの企業、経営者の方々が感じている、これが現実ではないかと私は思います。 しかし今一度見つめ直してみたい。 自分は何のために今いる場所を選んだのか。 なぜあえて自らこの道を進もうと思ったのか。 経営に、人生に、行き詰まりを感じている今だからこそ、もう一度原点に立ち返って自分自身が存在する意味を問い直したい。そして必ず存在している解決の方策を共々に手を携えて実行しよう。私達が同苦し支え、解決します。 あきらめる前にご一報下さい。
解決の道は必ずあります。
2015年(平成27年)8月27日
有限会社プロセキュート
代表取締役 畑森 昭

ポストコロナ禍をどう生きるか。
創業から27年7ケ月。

2020年2月から一気に感染拡大した新型コロナウィルス。生命を脅かす猛威が世界中の人々の生活を直撃しました。
この事態に重なるように、創業以来執念をもって絶えず取り組んできた事業が頓挫してしまいました。
自分自身のアイデンティティが根底から崩壊するような危機的な事態。
この状態からどう行動するかによって、その後の結果が大きく変わる。 今までの努力や足跡も、その意味が百八十度違ってしまうだろう。
そんな局面に立っている、いま2023年11月。
今いる場所からしか、前には進めない。
今は何とも言えないが、やるべきことを見つけたいと思う。 果たしてそれができるか。 それは今後の結果でわかる。
2023年(令和5年)11月18日
有限会社プロセキュート
畑森 昭