プロセキュート


【第16回】実施予定
テーマ : 『辛酸(しんさん)』(城山三郎)
実施日時: 2006年7月22日(土)14:00〜17:00
今月の会場: サンライフ練馬
東京都練馬区貫井1-9-1
※西武池袋線・中村橋駅から徒歩4分
今回の本は城山三郎著『辛酸』です。サブタイトルとして「田中正造と足尾鉱毒事件」とあるように足尾鉱毒事件を取り上げた作品です。
足尾鉱毒事件は日本史の教科書にも取り上げられた実際にあった事件です。足尾銅山は江戸時代初頭に発見された国内最大の銅山で事件当時は古河一族が所有しています。

今年は田中正造が足尾銅山の鉱毒被害を国会で取り上げてより115年、天皇直訴から105年ですが、この作品はそうした歴史の表舞台から過ぎ去った最晩年、70歳手前からはじまります。

第一部「辛酸」は水没させられる運命にある谷中村で抵抗を続ける住民家族と田中正造の姿が描かれています。
第二部「騒動」では田中正造はすでに死んでおり、その遺志を受け継いだ宗三郎たちが抵抗を続けますがその結末は...。

わずか100年前の日本で起きていた生活とは思うには惨めすぎる。こんな国家があったのかと思うとやり切れず、でも今も大差ないかもとも思えてしまう...。
私たちが知っているようで知らされていない真実というものは意外と足元にもあるのかもしれません。大きな権力に押しつぶされそうになりながらも信念を貫くことができるのか。もし貫くことが可能だとすればその源泉はどこからくるのか。
そんなことも考えさせられる一冊ではないかと思います。
当日の様子など: 当日は5名の参加でした。
城山三郎の経歴、作品や書かれた時代背景、明治の時代状況、足尾鉱山の歴史や当時の時代背景などに1時間余りを費やしたのちに作品について語り合いました。
悠々自適の老後生活を送ることもできた田中正造があえて水と土にまみれた最晩年を人生を選んだことは様々な人達の記述から疑いないが、なぜ彼はあえて苦難の道を選んだのか。
作品全体を覆うやりきれなさはどこからくるのか。
正造の死後に宗三郎が選んだ選択は正しかったのか。また彼に僥倖はあったのか...
こうした点に思いが集中していったように感じます。

 http://prosecute.way-nifty.com/blog/2006/07/16_ebe9.html

主な話題: ▼商家に生まれ東京商科で学んだ城山三郎。日本小説界の新天地とも言うべき経済小説作家の淵源がここにあるのかも。学生時代は授業よりも文芸活動に熱中。経済と小説に秀でた城山作品の源流か。
▼作品が書かれた昭和36年は60年安保の真っ只中。安保闘争にも参加した城山氏が書いた本作品の第二部は掲載拒否にあう。翌年単行本で完結して発刊。
▼描かれた時代背景は明治半ばから大正にかけての日本の黎明期。日清戦争、日露戦争が行なわれた殖産興業の時代。
▼田中正造は名主の家に生まれる。反骨精神、不正に対する義侠心に篤く生涯で4回の投獄生活を送る。うち1回は殺人事件の冤罪。
▼県議会議員を経て第一回総選挙で衆議院議員に。約11年の衆議院生活を送る。
▼足尾鉱山の鉱毒被害を国会で取り上げライフワークとして最後は土にまみれ私財も尽き果てて在野で死去。
▼第一部「辛酸」は田中正造の最晩年の数年間。正造と共に闘う谷中村残留民19戸(最後は16戸に減る)の姿が描かれる。「辛酸」は正造が好きだった「辛酸入佳境」からとったものか。
▼第二部「騒動」は正造の死後、抵抗運動の道を選んだ残留民のその後の生活が描かれる。正造の継承者となった宗三郎の心境の変化も興味深い。
▼正造がめざした決着点が見えてこないことが希望のなさに繋がるのではないか。では正造たちがめざした目標はどこにあるのか。消去法から考えるとただひとつ「足尾鉱山の操業停止」が残る。
▼足尾鉱毒事件の悲劇の元はどこにあるのか。それぞれが想定した決着点の相違にあるのでは。正造は操業停止を唯一の目標とした。しかし殖産興業に突き進む日本帝国が外貨を稼ぐ銅産出をやめるはずもない。外貨を稼いで軍艦を建造する。これこそが最高目的だ。
▼操業をやめない。一点以外は古河も国も相当譲歩したと感がられる節もある。しかし操業停止に追い込むことだけが抵抗運動の唯一の目的だったとしたら...行き着く先は悲劇しかない。
▼「古河が悪、正造が正義」という単純な構造ではない。往々にして様々な問題も同様だ。
▼この作品を貫くもうひとつの大きなテーマ。それは一見悲惨とも思える生活の中で人が行動し抜く原動力の源泉は何か。正造は正義を人生の信条とし聖書に行動規範の支えを求めた。宗三郎は同志と共に生き抜くことを絶対信条とし正造を師として彼の行動を自身の行動規範とした。
▼人生を生き抜く生命をかけるだけの哲学を持つこと、師匠を持つことで自身を超えた行動規範を得ること。このふたつが正造と宗三郎の生き方から浮かび上がる。
▼なぜ長年にわたって治水工事が行なわれてこなかったのか。地域特有の問題が奥底に横たわる。江戸時代に淵源を発する江戸厳護の体制と士農工商穢多非人制度。表立って記述されることのない歴史の陰がある。
▼足尾鉱山は1973年に操業停止(閉山)。現在も酸性化された山の斜面等に植林する運動が続けられている。
▼古河は1974年に至ってはじめて損害賠償責任を認め、賠償金15億5千万円を支払った。社会が足尾鉱毒と言い始めて90年余り経過していた。それまで「永久示談」をはじめとして示談での解決のみをめざしていた古河の方針が転換せざるを得なかった瞬間とも言える。
終えての一言 淡々とした城山三郎の筆運び。描かれている生活を具体的に思い浮かべるとどこにも救いがなくてやりきれなくなりそうだ。正造の主張は決して主流になりきらなかった。被害民といわれた農民達も個々の考えがある。先々の対策よりも目の前の保証金がほしいと思うことも責められるものではない。鉱山や自治体から援助されている住民もいたことだろう。
鉱毒という実態もよく理解されなかった。正造自身も科学的な裏付けを持っていたわけではなく主張には非科学的、情緒的な部分も少なくない。
それでも正造の主張に自分達の生命を預けた農民達がいた。何が彼らを信頼させたのだろうか。
雨が降るたびに泣き出す子供がいる。日を経る毎に衰弱していく老人と病人がいる。一日湿り切った穴倉の中での生活。何が楽しくて生きているのかとさえ思えてしまうことも一度二度ではないだろう。

象徴的な正造のせりふがある。
「正造がいつか敵(かたき)討ちしてやるからのう」
田中正造にとっての敵とは何だったのだろう。そして敵討ちを果たした状態とはどのようになっているのだろうか。
城山三郎は敢えて文字では書き記していない。しかし消去法でいけば残る目標はひとつしかない。常識で考えればあきらかに無謀だ。

そして絶対的な指導者となった正造を失ってしまえば抵抗運動は消滅すると思われていた。宗三郎自身が「正造を失えば残留民に即座に破滅が訪れるであろう」と考えているシーンが第一部で描かれている。
しかし残留民は谷中村の抵抗をやめなかった。そこにこの小説の最大のテーマがあるように思えてならない。
今回の桂冠塾の準備の中であきれるほどの非論理的な展開を行なっている本に出会った。この本は『直訴は必要だったか』砂川幸雄著(勉誠出版)。
田中正造の事跡についてはいまだ評価が定まっていない感がある。その意味で賛否両論を検証するために資料を集めている最中であった。ひとつひとつ論証をしていくと一冊の本になるのではないかと思われるので、それだけに時間を割く余裕がないのでいくつか論点を提示することに止めて、私の気持ちを少し付記しておく。

・ノンフィクションや歴史検証の形態をとって書物を書くのであれば主だった歴史観を収集し検証して書くべきである。
・ひとつの文書にかかれているからといってそれが正しい認識であるとは限らない。書いたその人の主観が必ず入る。ましてや手紙や手記などは主観で話が進んでいく。
・「やった」「言った」という事実とそのことが如何なる結果をもたらしたかは全く違う次元の話である。その違いが認識できないのであればものを書いたり論じたりする資格はない。
・1次データだから正しく認識された書類とは限らない。元々1次データとは数値データの分野で用いる考えである。人の考えや歴史認識では直接情報と伝聞情報に分けるならわかるがその人の意見や考え、歴史認識の分野で用いることには殆ど意味がない。
・統計学の分野には「見せかけの因果関係」という表現がある。それがわかっていない。

自分の意見や歴史認識を書くのは表現の自由だ。しかし「足尾鉱毒事件の真実」などと銘打って「これが本当の歴史だ」などと宣伝するに至っては社会悪と言わざるを得ない。
事件を起こった直後の様々な意見のひとつであればまだ情状酌量の余地があるがすでに100年以上も経た現代で書かれていることにあきれてしまう。
当時の様々な状況を検証すれば古河のとった行動が悪の権現とはいいきれないという見方もある。しかしこの本で書かれているような最高レベルの優良企業ではないのだ。一例を挙げてみても、古河が最高レベルの鉱毒防止対策を講じたと著者が賛辞している沈殿池は、翌年の雨で早々に貯水量をオーバーし沈殿物を下流に流してしまい国会で追及されている。この事実をどう考えているのか、またなぜその事実を著書の中で検証しないのか。
こうした検証の稚拙さが随所に見られるのだ。検証している資料の少なさからくるのか全体像を把握するのはバランスにかけた資料だ。結論が先にあって文章をつなげるためにあとから資料をあつめたのでないかと思われるほど、その資料は少なく読込み方も表面的だ。

私は今回この本を購入して読了したが、筆者は現存するデータを分析するということがわかっていないようだ。現状(事実)認識ということを一から勉強し直ないと文章を書く資格がない人物だと言われて致し方ない。しかし足尾鉱毒事件などでネットを検索するとこの本が出てきてしまう。
著者が未熟なのはどうしようもないとしても本として出した出版社の見識も疑わざるを得ない。その責任は重い。俗悪な文章は社会悪だ。
もちろん買って読む必要はないが興味のある方は図書館で借りて読んでみるといい。多くの方は私が言っている意味が理解できるはずだ。
※くれぐれも買って読む必要はありません。

「良書を読む条件は悪書を読まないことだ。人生は短く時間と力には限りがあるからだ」(ショウペン・ハウエル)
 「悪書など読むな。 どこに救世の信念がある?ただの商売ではないか。読めば読むほど自分を腐らせるだけだ」 (巴金)


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