プロセキュートHATAさん日記
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2009年3月16日 (月)【銀座−名古屋18通りで複雑 確かにそうだが(^_^;)】

緊急経済対策の一環として、今月から順次ETC搭載車の高速道路料金の割引が始まる。2年限定の不況脱出の呼び水の一つとして試みられる施策である。

今日の読売新聞では銀座−名古屋間で利用曜日、時間帯によって18通りもあり、準備不足とのニュアンスも読み取られる。
読売新聞の指摘は、そのとおりだと思う。が、それはそれとして改善すればいいと思う。
ここで気をつけなければならないことは、何が本幹で、何が枝葉末節なのかという点だ。複雑で準備不足であっても施策そのものを評価すべきであればそのことを明示すべきであろう。様々運用上の支障や不手際があるからといって、その施策自体が非難されるべきではない。
問題はこの施策が景気回復に効果があったかどうか。国民の、そして世界市民の利益に供することができたかどうかだ。

もちろん、予測していた効果が得られない場合も出てくる。
そのときに、その施策の理論自体が間違っていたのか、設計に問題があったのか、運用上の不具合があったのか、その複合、それ以外の想定外の要因があったのかも十分に検討されるべきである。
その姿勢は、効果が得られた場合の検証においても同様である。

特にマスメディアの報道は「木を見て森を見ず」にならないようくれぐれも留意いただきたい。下記に読売、産経の記事を列挙する。同じことをテーマにしても、こうも違う。どちらが有益なのか、おして知るべしだ。

【関連記事】
→「銀座−名古屋」で18通りも!ETC料金の割引複雑(読売新聞)
高速1000円 上手な利用方法は?(産経新聞)

2009年3月13日 (金)【青森リンゴが大量廃棄の危機 発想転換の救済に乗り出せ】

メディアで青森りんごの大量廃棄の危機が報じられている。
青森リンゴ 大量廃棄の危機 霜被害で加工処理追いつかず(毎日新聞)

昨年春以降の霜とひょうによる被害は過去最悪レベルになるとのこと。
地元では様々な対策を講じてきてもいる。
被害リンゴ:霜やひょうで大打撃…高品質ジュース販売や宅配業者社員に販売/青森 - 毎日新聞(2008年10月1日)
悲鳴!青森リンゴ加工業者 処理量7年ぶり10万トン超も - iza(1月23日)
キズがあってもいいじゃない…ひょう害りんご消費拡大へあの手この手 - 産経新聞(2008年11月16日)

しかし状況は芳しくなく、大量廃棄が検討されるに至っている。
報道によると、地元団体が傷つきリンゴのジュースを開発。しかし、原因は記載されていないが傷のないリンゴの需要も落ち込み、価格は前年比8割にダウン。価格下落を防ぐため、生食リンゴの出荷を制限したため制限した生食用りんごが加工用に回されるという悪循環を招いたという。2月末現在、青森県下の農家の在庫は約33万箱(1箱20キロ)になっている。その多くは廃棄に回る危機に遭遇している。
しかもジュース用の買取り価格は一箱50円とも。箱代にもならない、とんでもない価格だ。
なぜこんな状態になってしまっているのか。

あえて言いたい。
地元関係者や地元出身の企業経営者に、このピンチを救える者が誰もいないのか。
本当に手も足も出せない、どうしようもない状況なのか。
ビジネスで磨き上げてきた経営者感覚で、日本全国に名だたるブランド青森リンゴを支えてきた生産農家の窮状を救え!と訴えたい。

一箱50円という破綻状態。
県下の全在庫33万箱で1650万円にしかならない。青森リンゴ、というかりんごそのものの栄養価値だけだってそんなわけない。
10倍の買取り値にして1億6500万円。事業規模5億円の投下で採算可能な事業展開が検討できないものか。
ポイントは、どのような視点で商品化を行ない、販売流通ルートを選択し、最終的に誰に買ってもらうかだ。

商品化と販売による需要と雇用の創出にも期待が生まれはしないか。
青森県をはじめ、地元自治体も指をくわえている場合ではない。
政府与党が発表し今国会で可決された75兆円の経済対策の一部を財源にするアイデアだってあるだろう。その中の5億円程度なら、わずか0.007%だ。
※計算間違ってないよね?あまりも小さい割合なので小数点の位置が違うのかな?と不安になるほどだ(^_^;)
青森県は堂々と生産農家のために補正予算から財源を確保せよと強く訴えたい。

青森県関係者よ。
今こそ智慧を発揮し、わが故郷のピンチをチャンスに転換せよ!
それが成せるのも、地元に密着して生きてきた、庶民のなせる業である。
見事なる境涯革命に心からエールを送りたい。

2009年3月12日 (木) 第30回黎明塾【事例研究】地域で事業を興す

3月7日(土)に第30回となる黎明塾(経営学習会)を開催しました。
今回は地域で事業を興す優位性と需要について考察しました。

今回の考察でも明らかなように、日本国内での個々の家計規模には2倍を超える格差が存在している。実質的な支払賃金の平均金額にも大きな格差が生まれてきており、サービス業の現場にあっては2倍近い賃金格差になっているのが実情である。

これは起業する立場からみれば、都市部で事務所等を有する負担は地方での負担に比べて2倍になっていることを意味している。企業のプライマリーバランスだけ考えれば、損益分岐点は、圧倒的に地方での企業経営が有利であることを示している。

では、それでも多くの起業家は東京などの大都市圏での開業を目指すのであろうか。
様々な要因が想定されるが、その最大のもののひとつが「消費需要」の都市集中化である。
多少の誤解を覚悟でざっくりと述べてしまえば、現在の起業環境は、
→企業間の過当競争を覚悟で消費需要が集中する都市部で起業するか
→損益分岐点が低い地方で起業するか
という二者間での選択という構図で捉えることができる。

今回のテーマは地方での起業に焦点を当てた。
その主な理由は、私が従来コンサルティングに関わってきた経験から、生命と食の安全、環境問題、人間的な生活の確保、金融政策に絡め取られつつある日本経済からの脱却といった諸問題の解決の方途として、第一次産業を主幹とした地域コミュニティの構築がその突破口となるという気持ちが強いことに由来する。

たしかに私自身は東京都内に暮らし、起業も東京都内で行い、今も都市部での仕事を中心に行っている。この黎明塾の受講者も、地理的、時間的制約で首都圏在住者のみである。従来のテーマや実例も勢い、都市部での企業経営の感覚が主となっていたことも否めない。

そのような中にあって、数年前より都市部近郊での商品開発に携わる機会を得ることもでき、いまだ実現には至っていないが首都圏を離れた農村地域での農業を主幹とした産業振興や自然エネルギー活用のプランニングも手掛けてきた。
私自身の出生は岡山県勝央町。県北山間の少し手前くらいの地域に位置する地方の1万人規模のコミュニティ。元々は農業主体であったが数十年の産業の流れの中で工業団地を開発し、兼業での農業を続ける家庭も多く残る地方である。古くからの友人の多くが製造系企業の製造現場で働き、また地域を支える企業を経営し、個人事業主として建築や販売業に従事し、そして農家として悪戦奮闘しつつ、地域の中核を支える世代になっている。私も生まれ育った故郷の行く末が気になって仕方がない一人でもある。

今回の後半は特に農業経営の実態と改善事例に焦点を当てた。
時間的な制約もあって、充分な考察に踏み込めなかったのが残念である。
また、私の思いも具体的な提言として示したいという気持ちもあるので、農業分野以外の起業も含めて、いま一度このテーマの続編を取り上げたいと思っている。

起業は雇用の創出でもある。
その意味で「どこで」起業するかという判断も重要な経営判断であることをお互いに確認し、持続可能な経営のための企業経営を遂行することを望みたい。

■実施内容についてはこちら↓
 第30回黎明塾実施内容【事例研究】地域で事業を興す−いま持続可能な事業のために−

2009年3月12日 (木)【「済州島買っちまえ」発言 小沢なら言うよね〜が国民感情。】

公設第一秘書逮捕でダーティな政治資金集め、庶民とかけ離れた金銭感覚、法律感覚を疑問視されている民主党代表の小沢一郎氏が、またまた問題発言をしていたことが判明している。

小沢代表「済州島買っちまえ」と発言…連合前会長が明かす読売新聞
「済州島を買っちまえ」?=民主・小沢氏発言、前連合会長が明かす時事通信

「小沢なら言ってもおかしくないよね」というのが、この報道を聞いた国民の率直な感想ではないだろうか。
これでも小沢一郎に日本の舵取りを任せようという殊勝な国民はいるのだろうか。
そして、つい最近まで小沢を評価していた人達、小沢を担いできた民主党を支持してきた人たちを含めて、よくよく考えてほしいと思う。

何を基準にして判断すべきか。
自分自身による判断の危うさをいま一度見つめ直す機会にしたいと思う。

【追記】
ココログニュースに出ていた
津川雅彦、ブログで民主党を痛烈批判 写真あり
津川雅彦『遊び』ぶろぐ ?サンタの隠れ家? これでマスコミが作った民主党バブルは、はじけるなあ。

有名人も真正面から小沢と民主党批判をしている。
マスメディアと有名人に流されやすい日本人に、ちょうどよい刺激剤になれば。

2009年3月11日 (水)【時事通信のニュースタイトルはマスメディアの自殺行為だ】

マスメディアの恣意的報道、偏向性の危険は今までにも何度も指摘したことだが、今日、目にしたニュースタイトルもひどい。

無利子国債・政府紙幣の検討表明=首相「いいことだ」(時事通信)

この記事をリンクするYahoo!JAPANの見出しに至っては
首相 政府紙幣の検討を表明】となっている。

Yahoo!JAPANの見出しだけ見ると「えっ!政府紙幣発行の検討に入ったのか!」と驚いてしまった。が、本文を読んでみるとなんのことはない。
自民党有志議員「政府紙幣・無利子国債の発行を検討する議員連盟」が、政府紙幣発行や利子が付かない代わりに相続税がかからない「無利子非課税国債」の発行を提言したことを受けて、麻生総理が

「100年に1度(の経済危機)ということでいろいろなアイデアが出てくる。いいことだと思う」

と発言したにすぎない。
つまり麻生総理が「いいことだ」と言っているのは、「いろいろなアイデアが出てくる」ことであって、「政府紙幣発行がいいことだ」と言っているわけではない。
ニュースを配信する人間達は、もちろん、こんなことは承知している。
承知しているうえで、意図的に、確信的に、誤解を招くような、ただ読者の関心を惹きつける為だけに、上記のようなタイトルや見出しをつけている。

実に、低俗だ。
このような行為を低俗と言わずして、何と言うのか。
天下の時事通信よ、恥ずかしくないのか。

こうした低俗な報道姿勢が庶民レベルにも波及し悪影響をもたらす。
昨今のブログのタイトルのつけ方をみていると、興味本位のタイトルばかり。マスメディアに擬したものばかりである。読んでほしいと思う気持ちはわからなくもないが、かえって軽薄さを感じてしまうのは私だけではないと思う。
TVドラマの予告編のやり方と同じ路線上にあることを思うと、国民の多くが報道と娯楽を混同していることは容易に想像できる。

さらに、時事通信のニュース本文では上記の発言を紹介して「検討対象とする意向を明らかにした」と続けているが、この文脈もあやしいものだ。
というのは、麻生総理の考えの中に以前から、相続税免除等の無利子非課税国債の発行に類するものがあったのは事実のようであるが、政府紙幣については発行する検討が必要だと考えているかどうかは全く不明であるからだ。
他のニュースを加えて類推する範囲では、麻生総理が今回の議連からの提言の中で興味を示しているのは「無利子非課税国債」であって「政府紙幣」でない可能性が極めて高いと判断するのが妥当だと、私は思う。

しかし、マスメディアの報道は所詮は興味本位だ。
「注目されて、なんぼ」程度の浅はかな皮算用しかできないと思われて反論できるのか。
メディアにいる人達よ。
真剣に報道するつもりがあるのなら、こんなニュースタイトルや見出しをつけるようなメディア自身の自殺行為は自粛すべきであると、強く訴えておきたい。

【関連記事】
無利子国債・政府紙幣の検討表明=首相「いいことだ」(時事通信)
無利子国債発行などを首相に提言=自民議連(ロイター)
無利子国債発行を検討…首相、与党議連の提言受けて(読売新聞)

2009年3月10日 (火)【読書会】『歴史とは何か』(E.H.カー)第47回桂冠塾

047 2月28日(土)に第47回桂冠塾を開催しました。
今回取り上げた本はエドワード.H.カー氏の『歴史とは何か』です。

社会科学系の書物を読むという習慣には個人差が大きいのでしょうか(^_^;)今回も「まったくページが進まなかった」等の声が続出しました(^^ゞ
「今回も」と書きましたのは、『社会科学における人間』『世論』などを取り上げた回で同様の感想があり、そのときの印象が残っているからですが、桂冠塾の中でも社会科学系の本は比較的少ないなぁと感じてもいます。
そうした状況のなかでも参加者は素晴らしい集中力を発揮していただき、難解な言い回しをひとつひとつ確認、議論を展開していただきました。

特に『歴史とは何か』のストーリーの中で“難解”と感じたのは問題提起に対して必ずしも答えを提示しているとはいえない箇所があることではないかと思います。
本書は1892年生まれのE.H.カー氏が、1961年1〜3月にケンブリッジ大学で行った連続講演を中心に、BBC第3放送での講演を加えて発刊されたものです。
当時の歴史学のトレンドへのカー自身の考察を基調としながら、「歴史」に関わる様々な疑問、テーマを提示し、カー自身の見解を述べていくというスタイルで構成されています。その内容から歴史学の入門書として、戦後日本では各大学でテキストとして取り上げられてきた経緯を持ちます。

個々のテーマについてはWebサイトを参照いただければと思いますが、歴史を学ぶ上での疑問点を丁寧に解説していきます。

【1】歴史家と事実

冒頭から、歴史的事実ということの認識についての論点を展開。「事実の羅列が歴史である」という19世紀に主流となった考えを意識的選択の面から反論します。そしてその意識的選択を行う人達(歴史家)を知り、さらにその歴史家の人格や思想を形成するに至った社会的背景等を知ることが歴史を学ぶ上で不可欠であることを主張。現代を生きる私達と過去に行われた事実との対話が歴史の真髄であり、相互作用の不断の過程であるという一つ目の結論を提示します。

【2】社会と個人

次に、そうした取り上げるべき歴史的事実とは個人に焦点を当てるべきか、社会に注目すべきかという論点に言及。当時の欧米社会が個人主義に傾倒しすぎている点に警鐘を鳴らしながら、個人と社会は不断の関係にあり、歴史は両者が相互に影響しあう中に存在することを主張。今置かれている社会の意向が歴史家の歴史的事実の選択に大きく影響することを事例を通して指摘します。
そのうえで「歴史は個人の行動をどう取り扱うべきか」というテーマに言及しますが、この点についてカー氏は直接の答えを提示していません。おそらく、ですが、カー氏自身も模索の段階だったのではないかと思われます。その回答の代わりにC.V.ウェッジウッド氏の言葉を紹介し、2つの命題を提示したのち、「個人の人間の行動の研究は彼らの行為の意識的動機の研究である」という点について2つの視点から自身の歴史家としての経験を紹介します。

一つは「歴史は相当の程度まで数の問題である」、もうひとつは「人間の行為は行った本人も意図しなかった結果を生むことがある」ということです。
これは社会科学についてまわる宿命的問題とも見なさされている命題です。どこまで自然科学のような法則性が見出せるのか、また社会科学的法則が提起されたとしてもそのほかの不確実要素が多く、結果を予測できないものを法則と呼んでよいものか。
この点についてカー氏は明言を避けて読者に判断、思索を促しているようにも感じます。

またこの論説の流れの中で突出した人間の行動、反逆者と偉人についてのカー自身の見解も述べられています。

【3】歴史と科学と道徳

そののちに、歴史と科学、歴史と道徳の問題に踏み込んでいきます。
歴史と科学の関係については、前段での論調を踏まえながら「歴史は科学である」との自説を展開します。その途上での想定される5つの反論への論証が行われています。
1)歴史は主として特殊なものを扱い、科学は一般的なものを扱う。
2)歴史は何の教訓も与えない
3)歴史は予見することができない
4)歴史は主観的になる
5)歴史は科学と異なって宗教的、道徳的問題を含む
という5点の反論です。

その後、歴史と道徳を論じます。
ここで論じている道徳とは宗教そのものであって、一般的日本人が捉えている道徳の感覚ではありません。ここに至って従来の科学が自らを規定してきた呪縛を明確に糾弾します。そして、道徳的(宗教的)判断基準なくして歴史は成り立たないという主張を展開しています。
また、人文学と歴史の関係についても論じます。
これらの結論として、求めるものは科学者も歴史学者も同一のものであり、それは自分の環境に対する人間の理解力と支配力とを増大させることに他ならず、その根本として「なぜ」と問いかけることが大切であると主張していきます。

【4】歴史における因果関係

そうした歴史研究の方法論として、「原因の研究」を掲げます。
その中で留意すべき点として「単純化」と「多様化」を指摘。それぞれの重要性と危険性に論及します。
そして、決定論的歴史観、歴史研究における未練学派に触れながら、「なぜ」という問題と共に「どこへ」行こうとしているかが重要であると主張します。
「ロビンソンの死」の論述はわかりやすく、その本質を述べています。

【5】進歩としての歴史

歴史の解釈においては、過去に対する建設的な見解が必要であるとし、未来に向かって常に進歩していく中に歴史も存在することを論じます。

【実施内容】第47回桂冠塾

2009年3月5日 (木)【警告 小沢一郎の主張が横行すれば日本は犯罪者天国に化す】

民主党代表の小沢一郎氏が強きの記者会見をしてわずか1〜2日の間に、小沢一郎と陸山会の集金システムが次々と明らかになっている。

【関連記事】
献金「毎年2500万円」取り決め…小沢氏側と西松(読売新聞)
小沢氏側が西松建設に献金請求書…「企業献金」認識か(読売新聞)
【小沢氏秘書逮捕】小沢氏側団体が主導 西松建設トンネル献金(産経新聞)
疑惑噴出の「陸山会」 不透明な不動産取得…政治マネーの窓口(産経新聞)
小沢氏政治団体に総額2億円=西松建設、ダミー名義で10年間−規正法違反事件(時事通信)
西松の資金提供、小沢氏側が突出…5年で4200万円(読売新聞)

早かれ遅かれ、小沢氏の脱法行為は摘発されることは当然の帰結だろう。
1〜2日後の展開くらいは予測することができれば、昨日の記者会見のようなことは行わないだろうなぁと少々不憫にも感じる。
裏表の様々な事実が白日の下に曝され法的制裁を課せられて正邪がはっきりしたあとに、おそらく数十年にわたって昨日の小沢氏の子どもじみた会見が報道されることは間違いない。なんとも惨めな後半生だろうか。

昨日の会見の主旨は様々なメディアで報道されているので改めて触れることもないだろうが、その合い間合い間で小沢氏の確信犯的言動が垣間見られた。
いくつか指摘しておきたい。

■企業献金禁止の現行法に異論

小沢氏は企業献金を禁止している現在の政治資金規正法に不満がある。
確かにアメリカなどでは企業権献金は認められている。しかし少なくとも日本社会にあっては、利益供与を求める企業献金がほとんどであり、多くの疑獄事件の反省から企業献金が禁止された経緯がある。
近年アメリカにおいても企業献金の悪弊が指摘されている。『暴走する資本主義』にもその処方箋が提言されていることからもわかるように、企業献金には多くの問題が含まれている。

「問題の政治団体からの献金は西松建設から出ているという認識があったのか」「西松建設から出ているとしても政治団体を経由しているので問題がないという認識だったのか」という記者からの質問に対して、認識の有無に触れない形で回答を回避しつつ「(企業とか個人とか)どこからもらっていいとかいけないとかではなく、いただいた献金をすべて公開、ディスクロージャーすることが大事だ」「私は(どの国会議員よりも)一番明らかにしている」という趣旨を発言。本来的には企業からの献金も公開すれば問題がないのだとの自論を展開した。
これは、法律軽視の発言である。
そしてほぼ間違いないと思うが、小沢氏は自身の確信に基づいて企業からの献金を受けている。ただ現行法があるのだから、法律に則って、政治団体を経由させたに過ぎないのではないか。
昨日来の報道で、西松建設からの献金は過去10年で2億円以上にもなり、金丸、竹下という越山会の系譜の継承者として建設業界に影響力(があると思わせていた)を行使して献金を集めていた構図が見えてきている。
しかも毎年の献金額や献金時期も、西松建設と小沢事務所で直接相談していたことが報じられている。
企業から政治家の個人事務所が献金を貰うことに「法律を犯している」という罪悪感など微塵もなかったのではないか。

■従来の手法を超えた捜査に疑問を呈する

小沢氏は会見の冒頭で「このような、この種の問題で今まで逮捕強制捜査というようなやり方をした例はまったくなかった」と「前例のない」従来の枠を超えた捜査が行われたと検察の手法を激しく糾弾した。
その発言は「従来捜査手法の枠内であれば問題にされなかった」ということを述べているに過ぎない。言い換えれば、小沢一郎氏の判断基準は「違法になるかどうか」であり、倫理的にとか本来政治家のとるべき姿勢はどうあるべきか、という発想ではないのだ。

違法にならない体裁を整えていれば何をやってもいいのか。
今回の疑惑に対する国民の怒りはその点に集約されることは間違いないだろう。
この視点が小沢氏には完全に欠落している。
従来の小沢氏の不遜とも傲慢ともみえる発言や態度は、この点から判断すると「なるほど」と合点がいくものが、実に多い。
今回の事件も「適法」と主張できるシステム作りを、小沢事務所主導で施したであろう事は容易に想像できるのも、こうした小沢氏の過去の発言によるのである。

秘書逮捕で会見 小沢氏、強弁40分 「異常、前例がない」 (産経新聞)

■「脱法行為」は合法の範疇との小沢氏の主張

「政治団体からの献金であれば問題という認識なのか」「政治団体を経由する形での迂回献金ではないかということをどこまでチェックしているのか」という記者からの質問に対して小沢氏は以下のように主張している。

献金していただくみなさんにそのお金の趣旨や、いろいろな意味において、そういうことをお聞きするということは、それは、好意に対して失礼なことでもございますし、通常、これは政治献金の場合だけじゃなくして、私はそのような詮索(せんさく)をすることはないんだろうと思っております。そういう意味で私どもとしてはまったく政治資金規正法に、その通り、忠実にそれにのっとって報告をしてオープンになっている問題でありまして、このような逮捕を含めた強制捜査を受けるいわれはないというふうに考えております

何ら政治資金規正法に違反する点はありません

つまり、法律に違反していなければ問題ないだろという主張である。
そしてもし仮に、今回の問題で法律を犯している者がいるとすれば、それは小沢氏側ではなく、西松建設側の問題だ、と言いたいのである。
だから「迂回献金かどうかはチェックしない」と主張しているのだ。
なぜチェックしないのか。
常識的に考えれば「チェックすれば迂回献金の疑いがある」ケースが含まれているからであることは誰もが考えることだろう。
要するに小沢氏側は「不正があるとは知らなかった」「気づかなかった」という言い逃れをするためにチェックを“あえて”しなかったのだ。そう言われたくないなら「李下に冠を正さず」である。小沢一郎氏も以前自分で使っていた言葉だ。「知らなかった」「気がつかなかった」とは言えない。

今後の捜査は「利益供与の有無」に移っていく。
ここが立件できるかどうかの分水嶺だ。
しかし、ここで私達が正しく認識しなければならないことは、法的に違法にならなければ何をやってもいいのかということである。
言うまでもなく法律の多くは事象の後から作られる。
つまり、起こりうる犯罪が想定されることで法的規制が行われる。
想定されている違法行為でないからといって、それが「正義」だと主張する根拠にはならないということだ。
「法律が改正されたので今までの行為は今後行わないようにします」等の政治家の釈明に、私達が言いようのない不満が沸き起こるのは、こうした背景によるものだと私は思っている。
法律に規制されていようがいまいが、悪いことは悪いのだ。
社会通念がわからない者が多くなれば社会は邪悪化する。
ましてや、わかっているいるはずの人間がわからないふりをして悪行を行えば、日本社会など簡単に無法地帯化するのは自明の理である。

小沢氏のような主張がまかり通るなら、政治資金規正法なんて全くの子供だましだ。
犯罪者が横行する日本社会になってしまう。
いま五濁悪世と言われる現代社会にあって、国民、庶民が最も神経を尖らしている最たるものの一つが「脱法行為」である。いわゆる「正直者は馬鹿を見る」社会になってしまうか。それとも「陰徳あれば陽報あり」という真面目に努力する人が正しく評価され生活できる社会を構築できるのか。
二十一世紀の社会はその点に大きな関心が寄せられている。

その絶え間ない努力を踏みにじるのが脱法行為である。
言い換えれば、法律が禁止していない不正行為、法の網の目を潜り抜ける非人道的行為が脱法行為である。だから脱法行為が公然と行われ始めると法律改正が行われてその行為を禁止される。
小沢氏の政治資金に関わるダーティな手法は間違いなく「脱法行為」である。その証拠は、彼が行った手法の多くがその後に法律改正が行われて「違法行為」になっている。
「法律で罰せられなければやっていい」という現代の風潮。
その元凶の一つは、間違いなく、小沢氏のような公職にある人間の言動であることを、私達は忘れてはならない。

脱法行為は絶対に許してはならないのだ。

【関連リンク】
小沢一郎代表の会見と一問一答(産経新聞ニュース)
詳報(1)「(捜査は)不公正な国家権力、検察権力の行使」
詳報(2)「規正法にのっとってオープンになっている問題」
詳報(3)「何らやましいことはない」
詳報(4)「どっかから持ってきたカネだとか、詮索しない」
詳報(5完)「必ず近いうちに嫌疑は晴れる」

2009年3月4日 (水)【小沢一郎 公設第一秘書が逮捕】

民主党代表・小沢一郎氏の公設第一秘書が政治資金規正法違反容疑で逮捕された。
準大手ゼネコンの西松建設に絡む一連の裏金・献金事件の一端である。

民主党からは幼稚な声ばかりが聞こえてくる。
「政権が選挙に勝つために仕組んだ陰謀」
「陰謀があるという感じはある」
何を言っているんだか。
有罪が確定した際には陰謀発言した民主党議員は全員辞職すべき問題発言だ。

評論家小沢遼子氏は「今回の容疑は3年以上前の話で、なぜ今立件されるのか違和感が残る。この時期の逮捕は国策捜査と言われかねない。」などと発言。評論家を名乗るくらいなら少し勉強されたら?と思うが、公訴時効の問題に過ぎない。この年度末で時効を迎えてしまうので、政局に影響ができることも覚悟の上で年度内に公訴するために逮捕に踏み切ったにすぎないことは少し知識があればわかることだ。
逆にもし仮に時効前に公訴しないことがあるとしたらその方が問題だ。
不見識の人間は、マスメディアであれこれ言わないほうがいい。

小沢一郎氏のダーティぶりは何度も指摘してきた。
小沢一郎 自由党と民主党の合併時の不透明資金疑惑(2007.10.8)
政治資金で購入した不動産で資金運用? 小沢一郎さん 政治家を辞めて実業家になりなさい。(2007.10.9
小沢一郎のずれた感覚に唖然(2007.2.21)

加えて最近の言動では思想的浅薄さが浮き彫りになっている。
北朝鮮拉致問題では「カネをいっぱい持っていき『何人かください』」発言。
日米安保では「米の極東におけるプレゼンスは第7艦隊で十分」発言。
底が知れた感しきりである。

今夜の古舘氏をはじめ各局のマスメディアはいつもにもなく淡々と報道をしていたのが印象的だ。これが政府与党側の逮捕だったら、ここぞとばかり騒ぎ立てたと誰もが感じただろう。
いつもこのくらい事実だけを報道すればいいのだ。
逆にいつもみたいに民主党バッシングをやってもいいと思うが、そんなことは今の日本のマスメディアには望んでも仕方ない話だ。

新聞各紙も見識を欠いた報道だ。
公設第一秘書の逮捕となれば、いま報道すべきは、事件の全容解明と議員本人の関与の問題だろう。つまり小沢一郎氏本人の責任と議員辞職があるかどうかではないか。
それに触れているマスメディアは皆無と言っていい。明朝あたりから重い腰をあげえ報道するのだろうが、現時点では「解散への影響は?」程度である。
公職選挙法に定められている「連座制」は選挙活動に限定されている。今回の疑惑は政治資金規正法違反であるため、厳密には連座制の適用というはないわけだが、議員個人事務所は法的にはあくまでも議員個人の出納管理が為されていることになっている。そうした法的解釈に加えて、現実問題として小沢氏本人がどれだけ関わっているのかが大きな問題である。

今回のことで、日本国民の多くが「自民党もだめだが民主党だってだめだ」ということに気づいただろう。野党のうちから権力やカネの欲望に絡めたられているようでは、政権をとった後は今の自民党よりも性質が悪い。
今回の事件は、国民にとっては朗報なのだと私は思う。
何を基準に判断すべきなのか、いま一度自身に問うてほしい。

2009年2月17日 (火)【第29回黎明塾 地域密着の事業戦略−日本経済と地域を取り巻く環境の変化−】

2月14日(土)に今月の黎明塾を開催しました。
今回のテーマは「地域密着の事業戦略−日本経済と地域を取り巻く環境の変化−」。前回取り上げた雇用問題の延長としても重要な視点となる、地方における事業経営について考えました。

前回は雇用の一側面として、正規/非正規の格差と企業経営者の労働に対する意識の問題、製造業における延々と続いてきた偽装派遣と改正派遣法の深層を指摘し、経営者として社内スタッフとパートナーシップのいずれかで危機を乗り越える重要性について考えました。
雇用の問題は、雇用のことだけを考えていては解決できないことは自明の理です。
雇用を創出ということは、雇用を必要とする仕事を創出するということです。
ここでいう仕事とは、ものづくりであったりサービス提供であったりしますが、そうした仕事を創出するためには、その仕事を必要とする需要の存在が不可欠です。
そうした需要の創出こそが、今現在大きな政治課題となっている「消費の拡大」そのものであることは疑う余地はないでしょう。

雇用の創出とは事業経営の展開そのものであり、消費の喚起も突き詰めると求められる事業展開ということに直結します。
そうした視点を熟考せずして「雇用を確保せよ」「労働者の生活を保障せよ」「消費を拡大させろ」と叫ぶことに、大きな意味などほとんどありません。
現在の経済恐慌を本当に打破したいのならば、事業経営を全面的にバックアップするのが最良の道です。
政府が打てる手は大きくは2つの観点しかない。
ひとつは、新規事業や既存事業の拡大を側面的に支援する法的支援、中でもより強い意志を反映できて効果的と言われているのが税制面の法的整備。
もうひとつは、緊急時のカンフル剤的刺激政策。
歴史的にみても理論的に考えても、この2つの政策は王道というべき行政の役割です。恒久施策と応急施策ということでもある。

ならば私たち民力を発揮すべき立場の人間として、いま為すべきことは何か。
事業を創出、維持拡大することで大きな役割を果たす。
このことが求められている。

この30年ほどの間で日本の経済構造は劇的に変化してしまった。
その指摘を先進各国のデータで検証し、日本経済の格差を生んでいる、雇用形態以外の大きな要因である地域格差と第一次産業の衰退に着目し、その環境の変化を考察しました。また、地域産業への取組みが日本よりも先行している欧米各国の事例を学びました。

今回の考察にあたり、参加者への意識喚起として2つの提言を提示しました。
20090214_2 ひとつはロバート・B・ライシュ氏による『暴走する資本主義』、もうひとつは池田大作氏による第34回SGIの日記念提言『人道的競争へ 新たな潮流』です。
共に世界の有識者に注目された提言ですが、この二つには共通した主張が盛り込まれています。ライシュ氏は従来私達の社会は「市民」という側面と「消費者、投資家」という側面の2つがバランスをとってきたが、近年そのバランスが大きく崩れてしまったことを指摘します。この両者は民主主義と資本主義という言葉でも表現されていますが、現在の社会は資本主義の考え方が民主主義を席巻する「超資本主義」に侵され、回復の曙光が全く見えないという絶望感すら漂います。ライシュ氏はその象徴的事象として、企業の擬人化に注目。本来個々の人間の集まりに過ぎない企業が、あたかも人格をもっているかのような、現代人の認識に問題の本質が端的に集約されており、一例として法人税を全廃することを挙げて、個々の人間を基調とすることが問題の処方箋の根本であると主張します。

一方、池田大作氏の主張も同様の色彩を帯びています。
現在の世界が抱えている金融経済恐慌の背景には限りない効率追求と実態を欠く貨幣経済への根拠なき信奉があると指摘。これはかつてマルセルが指摘した「抽象化の精神」の罠に絡め取られた姿そのものであり個々人の短期的な利益と欲望に目が眩み、グローバル化した結果であると指摘。その解決の方途は「人道的競争」への転換と、抽象化ではなく具体性の代表ともいえる地域性に徹して一人一人の人間に光を当てた「内在的普遍」へのアプローチであると提唱しています。
さらにその具体的な方策として、環境問題を通した「行動の共有」、地球共有財に対する国際的な「責任の共有」、核廃絶への「平和の共有」という3つの共有への挑戦を掲げています。
池田大作氏のこの主張は20年以上前から一貫しており、その根源は万人の生命にはだれもが最高の生命状態を涌現する力があるという生命尊厳の仏法哲学に裏打ちされています。

両者に共通している最大のポイントは、行動の主体は企業や社会というような抽象化された団体組織等ではなく一人の人間であるという点です。
社会の変革といっても、経済恐慌の転換といっても、しょせんは一人の人間の行動からしか始まらない。そのかけがえのない一人の行動が二波、三波と広がり、千波、万波へと広がっていく。ここにしか変革の構図はないのだという両者の熱き思いに深く共鳴する人は多いのではないでしょうか。

市民であり消費者であり投資家である私達一人一人が真剣に考え行動することを訴えたライシュ氏、一人一人が身近な具体的な生活の場で改革することを提唱する池田大作氏の思いを具体的に実践するということはどうすることなのか。
仕事に携わる経済人という側面からのアプローチとして、地域密着の事業展開はひとつのチャレンジとも言えるのではないかと思います。
次回は具体的な事業事例を学びたいと思います。

【関連リンク】第29回黎明塾

2009年2月5日 (木)【「かんぽの宿」はじめ旧郵政公社の一括売却価格に批判集中】

旧郵政公社の売却資産が、売却価格に比べて相当の高値で転売されていることが問題視されている。
一連の問題は昨年末、鳩山邦夫総務大臣が、かんぽの宿一括売却がどの様な経緯でオリックスグループ企業に決まったのか、その売却価格は安すぎないのかと指摘したことでマスメディアに大きく露出することになった。

昨日2月4日の衆議院予算委員会で国民新党の下地幹郎議員の質問によって民営化前の2007年3月の178ケ所一括売却価格も不当に安いのではないかと指摘された。
具体的には、東急リバブルが評価額1000円で取得した旧沖縄東風平(こちんだ)レクセンター(沖縄県八重瀬町)が那覇市の学校法人に4800万円で転売されたというもの。しかも契約直前までは3583万円だったが、東急リバブルが「競争相手が現れた」と言い出して価格が4900万円に上昇したという胡散臭い話まで出てきている。
その他にも、評価額1万円とされた鳥取県岩美町の「かんぽの宿鳥取岩井」が社会福祉法人に6000万円で転売されたことも既に報道されている。

それらの売買や契約締結の過程で談合やインサーダー取引等をはじめとする不正が行われなかったか、厳正な調査と摘発を望みたい。

それと同時に、明らかな投売りを行った官僚(公務員)の不作為の行為による政府や国家への不利益に対しても処断されるべきであると思う。
こうした売却価格に話が及ぶと、必ず「運営するだけで赤字が膨らむ」「引き取ってもらえるだけで幸運なのだ」といったまことしやかな答弁が繰り返される。
こんな答弁、発想自体がお役所体質そのものだ。
これが自分が起こした会社の資産だったらそんなことを考えるだろうか。
今回の転売話をみればわかるとおり、宿泊事業で採算がとれないならば、不動産として建物の利用価値を前面に出して売却するのは、民間の経営者ならば当然すぎるほどの発想だ。
東急リバブルが手にした利益はまさに「漁夫の利」。
売却業務を担当した旧郵政省の担当者にほんの少しでも本気になる気持ちがあれば、そのほとんどは国庫に入れることができた金額ではないのか。
こんな役人を放置するような国家である。
どんな素晴らしい政策を出しても、常に国民の頭について回るのは「税金を無駄遣いしていないか」という疑心暗鬼。
全部ひっくるめて「ガラガラッポンッ!」としたくなる気持ちもよくわかる。
しかし、そんな外面の形だけ、政治家の首を換えるくらいで、よくなるほど日本の政治は甘くない。人が変わっても、甘い汁を吸う不貞の輩は陸続と続く。それがその役職についた者の「役得」だといわんばかりに。
私が、政権交代ばかりを唱える民主党を弾劾するのは、こうした考えによるところも大きいのだ。

不作為の役人も後を絶たないだろう。
やってもやらなくても金銭的な報酬は同じ。ちょっとでも前向きな提案や調査でもやろうとするれば、権益をむさぼっている奴らから横槍が入る。元々やってもやらなくても変わらないなら、やらないほうがまし。その分自分のやりたい遊びや趣味に時間が使えるというものだ。多くの公務員が陥っている「事なかれ主義」を根絶するなど想像もできないだろう。

こんな末法悪世の現実をいかにして転換するのか。
所詮は、私たち一人一人の生命の底から、生きていく理念信念、哲学を再構築すべきであると感じるのは、多くの庶民の共通の思いではないだろうか。

【関連リンク】
1000円で取得、転売で4900万円=沖縄の郵政施設−東急リバブル
かんぽの宿:評価「1万円」を6千万円で転売(毎日新聞)

2009年2月4日 (水)【何がエース級か 緊迫感の欠如した国会審議を問う】

本日2月4日(水)の衆議院予算委員会のNHK中継を見た。
民主党は「エース級の論客4名を投入」と相当意気込んでいたようだが、実際に行われた質疑をみると、唖然とした。

「解散をするするといって解散しないから麻生首相は『やるやる詐欺』だ」
「そんな答弁なら家で寝ている方がまし。『税金泥棒』だ」

百年に一度の世界経済恐慌の大波を、日本もまともに直撃しているという時に何をやっているのか。上記発言は前原誠治氏だが、他の民主党の長妻昭、馬淵澄夫、菅直人も大同小異。議論のための議論というか、「俺達はこんだけ論争ができるんだぞ」というちまちました自己主張にしか聞こえない。
それはどうしてなのか。
今がどういう時なのか、何を議論すべきなのか。
そして、何を国会として決議し、行動すべきなのか。
そうした確固たる理念、信念が感じられないからだ。

今は先日可決された約70兆円にもなる第二次補正予算の関連法案の参議院審議が、いつ行われるかが焦点である。衆議院で可決されて参議院に送致されてすでに3週間。民主党の審議引き延ばし戦術で審議入りの目途すら立っていない。
この関連法案が可決されないと70兆円の予算執行に大きな影響が出るのは自明の理である。
何のための補正予算なのか。
定額給付金をはじめとする補正予算に異論があったとしても、すでに議決されたことだ。議会民主主義の日本の国会議員ならば、議決されたことを迅速に遂行する義務があるはずだ。
翻って衆議院では、今、何をすべきなのか。
平成21年度の予算審議はもちろんのこと、いまだ出口の見えない経済恐慌にあって、政治ができることは何か、真摯に議論し具体的な法整備、方策を打つべき段階は依然として続いている。
民主党の議員の様子をみていると、危機は去ったかのような暢気さ。
自分達の政権取りしか頭にないのかと言いたい。

ジャーナリストの太谷昭宏氏が吐き捨てていた。
「いったい何をやっているんだ」

【関連リンク】
民主党の前原副代表が、首相を詐欺師呼ばわり
大谷昭宏事務所

2009年1月30日 (金)【第46回桂冠塾『芙蓉の人』(新田次郎)】

今月24日(土)に今月の桂冠塾(読書会)を開催しました。
今回で46回目、作品は新田次郎作『芙蓉の人』です。

主人公は富士山頂で初めて冬期気象観測を行った野中到・千代子夫妻。実在の人物です。『芙蓉の人』のタイトルからわかるように妻・千代子の生き様を中心に描かれています。
作品のタイトルは千代子が書き、報知新聞などに掲載された日記の題号「芙蓉日記」に由来すると新田次郎自身によって書かれているが、それと同時に「千代子夫人の当時の写真を見ても、『芙蓉の人』と云われてもいいほどの美しい人であり、心もまた美しい人だったから、この題名にした」と記している。
芙蓉はアオイ科の落葉低木で夏から秋にかけて白い花をつける。
日本が誇る名峰・富士はその姿から芙蓉峰(芙蓉峯)と形容されてきた。
千代子の生き様は、まさに芙蓉のごとくであったに違いない。

桂冠塾の当日は5名で行いました。
様々な視点での発言があり、大いに意見交換もできたように思います。
主な論点として用意したのは

・千代子の気持ちの描写、心象風景の変化
・野中到はなぜ富士山頂観測にこだわったのか
・千代子を富士山頂に登らせたものは何だったのか 決断に至った要因
・女性と男性の違い 求められるこれからの女性像とは
・真の男女平等とは 女性の真価 歪んだ男女同権を糺す
・封建社会と日本女性 千代子と義母・とみ子 千代子を支援する実家の両親達
・富士冬期観測をめざしながら、日本の戦勝に気持ちを奪われる男達
・昔から富士周辺に暮らし、到と千代子を助け、支えた地元の人達
・野中到、千代子夫妻が成し遂げたものは何か
・死をも覚悟せざるを得ない極限に直面した際の自身の判断の妥当性を考える
・夫を助けるつもりで登頂した後、高山病(らしき)に罹り、助けることができない千代子
・貴重な観測機材が次々と壊れ、自分を責め、笑顔がなくなっていく千代子
・到が起き上がれなくなり、冬期連続観測の「記録の鎖」を必死で繋いでいく千代子
・極寒の富士山頂に何度も慰問に訪れる支援者達
・野中夫妻が生死を彷徨うまさにその時に生命の灯火を消した愛娘園子 夫妻に去来した思いは
・「野中夫妻は元気だったと云ってくれ」と懇願する到の思いとは
・野中夫妻の惨状を目の当たりにし、口止めされながらも事実を報告した熊吉たちの心情と行動
・沸き起こった「野中夫妻を見殺しにするな」の世論
・歴史に残る偉業とは何か 何が歴史に刻まれるのか
・その後、富士山頂観測所設置、冬期観測に触れることのなかった野中到の思いとは
・「もし(褒章を)下さるならば、千代子と共に戴きたい」
・『芙蓉の人』を執筆した新田次郎の真情とは
・芙蓉の山 富士の魅力  等でした。

到が大学予備門(現在の東京大学教養学部)を中退してまで成し遂げようとした思いは、どこから生まれてきたのか。
そんな到を認めて支援する野中家、そして中央気象台。普通の予備門中退者であればそこまで認められることはなかったのではないか。
野中家のポジショニング、そして到の人間的魅力にもっと迫ってみたい。

そして、そんな到を陰に陽に支え続けた妻・千代子。
本書の解説等では「明治を代表する女性」として野中千代子を絶賛するむきがあるが、どう見ても当時の平均的な明治女性ではない。
その人間としての資質、決意と行動はどこから生まれてきたのか。どのような人生を歩むと千代子のような女性に成長することができるのか。個々の場面での判断が極めて的確である。どこまでも夫である到の目指す目標を達成させるために自分の持てる力を発揮しようとする姿は女性のみならず、人として素晴らしい生き方であり、多くの人が見習いたいと感じるだろう。そして必要とあれば、自らその能力を修得する努力を積み重ねていく姿に自分自身の可能性を信じて努力を持続すること、自分で限界を設けないことの大切さを感じた人も多いに違いない。
そしてそんな千代子を支えたのも、また家族であった。
千代子の決意を聞いた福岡の実家の両親も決して強行に反対はしなかった。
どう考えても、死と背中合わせの無謀な行為にもかかわらず、である。

物語にはいくつかの山場がある。
到が冬期観測を開始するまでの強い意志を持続させながら、堅実に準備を重ねていく千代子。
夫に遅れること11日にして、女性で初めて、しかも冬期の富士登頂を果たし、到の気象観測のサポートを始める千代子。
しかし高山病と思われる症状が続き、思うように手助けができない千代子。
喉頭の膿を取り除き、健康を回復、到のサポートに嬉々として従事する千代子。
高所環境によって次々に壊れた観測機器。それを自分のせいだと思い、笑顔をなくしていった千代子。
到の健康状態が悪化し気象観測の主役が千代子に移る。
弱音を吐く到を叱咤激励する千代子。
慰問者に危険な病状が知れた時の到が懇願するシーン。
救助隊によって救出される野中夫妻。そこで繰り広げられた千代子の思い、心からの訴え。
下山後の夫妻の巻き返し準備とその途上での千代子の死。
一人になった到が冬期富士山頂観測に触れなくなった思い。
そして、20数年後に富士山頂測候所が完成する...。

果たして、野中夫妻の行動はどのような意味があったのだろうか。

私が心に残った印象的なシーンを2つ挙げておきたい。
ひとつは、気象観測機器が壊れたあとの千代子。
もうひつとつは、千代子が亡くなったあとの到である。

観測機器が壊れたのは、もちろん千代子には責任などない。
しかし千代子が観測中に起きた出来事であったため、自らを責めるようになったのか、自信を失ったのか、次第に笑顔が消えていった。
そのとき到は初めて気がついたのだ。千代子の笑顔にどれほど救われていたのかという事実を。
千代子の笑いがなくなった。それまで千代子は一日に何度か声を上げて笑った。その笑い声を聞いているだけで到は、富士山頂にひとりでいるのではないという気持ちになり、千代子のためにも自分のためにもしっかりしなければならないのだと思っていたのに、その千代子の笑いがぷっつり切れてしまうと、心の中のストーブの火が消されたようにもの淋しく感ずるのであった。

笑顔には力があると言われることがあるが、本当にそのとおりだと思う。
特に女性の笑顔には、勇気と希望を涌き起こす力があると感じる。
用意周到であった到が、こと自分自身の身体に関しては無謀であったことも千代子の指摘と機転によって救われる。一日12回の気象観測など常人には到底無理である。トイレのない居住空間もその最たるものだった。
千代子にはその無謀さゆえに、到が生命の危機に直面することを本能的に感じとったのだろうか。

そんな思いをした富士山頂観測も82日間で断念、下山することになる。
気象学の権威である和田雄治と渡り合うシーンは男尊女卑の日本社会と真っ向から対決する場面でもある。大きなテーマである。にもかかわらず、小説全体から見ると小さく感じるのは、千代子の人生そのものが、男とか女とか、そんな違いを超えてぐんぐん迫ってくるからだろうと思う。

下山して数年を費やしながらようやく健康の回復をみる。
野中夫妻は再度の登頂のために準備を始めるが、インフルエンザの流行に罹り、千代子が52歳で急逝。
「野中到は、千代子の死後は富士山頂の越冬気象観測については二度と口にしなかった」
最初は到個人の目標であった富士山頂の越冬気象観測は、生死に直面する苦難に直面し、野中到・千代子夫妻の共通の目標になった。その同志、戦友である千代子が死んだ今、到にとっては永遠に到達することのできない目標に変わったのだろう。昇華したといってもいいかもしれないし、センチメンタルな追憶の世界に入ってしまったのかもしれない。一般的に、妻に先立たれた男性は生きる意欲を失いがちだと言われる。こうしたところにも男性の弱さがあるのかもしれない。
後年、次男の野中厚氏が語っていたエピソードがある。

母が生存中のことでした。父に褒章の話がありました。富士山頂における冬期気象観測の功績に対する褒章だったと思いますが、父はもし下さるならば、千代子と共に戴きたい。あの仕事は、私一人でやったのではなく千代子と二人でやったものですと云って、結局、その栄誉は受けずに終わったことがありました。

この話に、すべては凝縮されているのだと私は思う。

下山、そして下山後の記述から野中夫妻、特に到は瀕死状態であったことがわかる。下山の決断がなかったら、おそらく生命を落としていただろう。
自らが誓った目的のために生死をかけて挑む。
しかし再起を期すために、一時の撤退を余儀なくされることがある。
その決断の是非はどこで問われるのであろうか。
蛮勇と真実の勇気。その決断はわずかな差にすぎないのだと思う。
その違いは、最後に勝つという執念によって決されるのではないか。
そう思いながら、最後に新田次郎の言葉を紹介して本作品の感想を締めくくりたい。

この小説を書く前には偉大な日本女性の名を数名挙げよと云われても、おそらく私は野中千代子の名を挙げなかっただろう。それは野中千代子をよく知らなかったからである。しかし、今となれば、私は真っ先に野中千代子の名を挙げるだろう。
野中千代子は明治の女の代表であった。

現在の世に、野中千代子ほどの情熱と気概と勇気と忍耐を持った女性が果たしているだろうか。私は野中千代子を書いていながら明治の女に郷愁を覚え、明治の女をここに再現すべく懸命に書いた。

【参考文献】
『富士案内 芙蓉日記』(野中至・野中千代子)平凡社ライブラリー
『変わる富士山測候所』(江戸川大学土器屋由紀子ゼミ編)春風社

【関連サイト】
近藤純正ホームページ 身近な気象 4.富士山頂の気圧−芙蓉の人−
苦難と誇り刻んだ頂…富士山(山梨県、静岡県)◇新田次郎「芙蓉の人」(読売新聞コラム本よみうり堂)
新田次郎 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

2009年1月28日 (水)【何のための両院協議会か 理解に苦しむ民主党の対応】

昨日27日の衆参両院協議会を経て第2次補正予算が成立した。
民主党など野党の引き延ばし戦術の影響で2日間にわたって開かれた協議会によって得られたものが、何かあったのだろうか。この2日間の延長は、そのまま定額給付金支給開始時期の遅延に直結する。
彼らの行動には、100年に一度の世界経済恐慌に立ち向かっているんだという危機感が全く感じられない。
しかも、給付金の財源の根拠となる関連法案については参議院に送られてすでに2週間。民主党など野党の思惑によって、審議にすら入っていないという異常事態が続いている。支給業務に必要となる事務費(825億円)もこの関連法案に含まれるため、正式な手続きを踏むとすれば参議院で審議可決されないと各自治体は身動きがとれないという状態だ。今回、政府与党は関連法案の成立を待たずに交付に踏み切る方針が打ち出された。

法律遵守の考えでいれば、超法規措置とも言える。支給自体が決まっているのに民主党の党利党略によって支給時期が先に伸びていくことをおかしいと誰だって思うだろう。
今は全員が一丸となって、非常事態を乗り切るとき。
そん時に、こんな国会戦術を平然と実行している国会議員は、いったい何のために、誰のために、議員をやっているんだ?

【関連リンク】
給付金、年度内支給の完全実施は困難か…要綱を市区町村に通知
<定額給付金>市区町村、準備作業本格化 総務省が要綱通知

2009年1月22日 (木)【何のための国会なのか 石井一議員の資質を問う】

1月20日(火)の予算委員会のTV中継を、午後訪問していたお客様の事務所で見る機会があった。
ちょうど民主党の石井一(いしいはじめ)氏による補充質問が始まるところだったが、その内容といえば極めて悪質、低俗の極みであった。

石井氏の質問(といえるのかどうかも疑問だが)は大きく2点あった。
ひとつは「公明党の支援団体である創価学会が日本の政治を牛耳っている。国税庁の査察を受けたこともあるではないか。国会喚問して真偽を質せ」、もうひとつは「月刊誌に寄稿した麻生首相の手記は誰か(別人)が書いたものだろう。あなたの漢字力では書けない漢字が使われている」として、12熟語の「漢字テスト」なるものを展開した。

1点目の創価学会の質問については、その直後に質問に立った公明党・山口なつお議員の主張に集約されるが、国会の場で云々すべき事柄であろうか。石井氏は昨年の国会審議の中で同様の質問を繰り返し、厳重な注意を受けている。石井氏は民主党の中では創価学会叩きの急先鋒を自任しているので注意など意に介さないのだろう。
しかし、国会の場で創価学会の税務調査の真偽を質すとか、週刊誌の掲載記事の真偽を質すために創価学会の責任者を国会喚問せよという要求は、正義の旗を振るかのように見せた権力の横暴そのものである。そんな要求が通るようならば、特定の団体、個人を中傷誹謗したいと思えば悪意のあるデマを振りまき、三流週刊誌に疑惑記事を書き散らして、国会議員が騒ぎ出せば、国会喚問できるということになってしまう。
これを権力の横暴と言わずして、何が横暴になるのだろうか。
明らかな、信教の自由への国家権力の介入である。
これは冷静に判断すればほとんどの国民にもわかることだろう。よくわからない、判断できないという人は、よい機会なので信仰と憲法の精神を学ぶことをお奨めしたい。
この問題については、キリスト教徒である佐藤優氏も「創価学会に対する弾圧の動きに対しては、他の宗教者も声を上げるべきだろうと思う」「これは日本国憲法に反するのみならず、人類の普遍的な法に、言うなれば人類の憲法に反する行為だと思う」と警鐘を鳴らしている。

ただ石井氏も国会議員の端くれだ。憲法の理念から考えても、国会への創価学会関係者の招致等は却下されることなど百も承知の上で騒いでいるのだろうとも思える。「うさんくさい」という印象を国民(有権者)に与えれば、与党の一角をなす公明党への賛同者(票)を減らすことができる。それで目的は充分に達せられているのだろう。
本気で問題があると思っているのなら、創価学会に公開討論でも申込んで、直接石井氏の意見をぶつければよいではないか。
石井一氏。本音はどうなんだと、私は問いたい。

2点目の麻生首相への漢字テストに至っては失笑に伏すしかないような低俗な話だ。
そんなことを言って、何がしたいのか。
100年に一度と言われる経済不況を、本気で乗り越えようという気持ちが多少でもあれば、こんな質問など思いつきもしないだろう。
石井氏の質問に対しては、国会中継直後から民主党本部に苦情が相次いでいることも報道されている。
当然だ。
民主党の若手議員のコメントが報じられているが、石井氏の質問は「失敗」なのだそうだ。その言葉に象徴されるように、民主党の行動は所詮、策を弄しているに過ぎない。常に世論を気にして人気取りを考え、どちらに風が吹くのかばかりを気にしている。いつも世論受けを狙っている。だから石井氏のような発言や行動が相次ぐのだと思う。
国家百年の責任など微塵もない。

更に言えば、それは民主党だけの傾向ではない。
現在の政治家の大半は同様である。
哲学の不在が言われて久しい。
激動の時代だからこそ、揺るぎない信念哲学を持った人格者、行動者が求められている。

【関連記事】
民主・石井氏らに批判殺到 首相への「漢字テスト」(産経新聞)
民主・石井氏が学会批判 「公明党はカルトの命令下」

2009年1月20日 (火)【定額給付金 議論の推移に思う】

定額給付金の議論が迷走している。
誰も彼も、「言いたい放題」の状況だと思うのは私だけだろうか。

「定額給付金」に反対している人に聞くとその理由が曖昧で、聞いているそばから違うことを言い出す人が、実に多い。
・麻生首相の「さもしい」発言が許せない。
・高額所得者、特に国会議員がもらうのは理解できない。
・生活補償なのか経済刺激なのか目的がはっきりしない。
・消費税アップとセットで実施されるから。
・一時的なことで経済は良くならない。
・事務が煩雑で無駄が多い。
・多くは貯蓄に回るから。
・定額減税ならいいが現金を支給するのはいかがなものか。

いずれもこの半年余り議論されてきた内容だったり、運用や個々の事象を取り上げたり、論点がずれていたり思い込みだったりの視点に終始している。どのような施策であれ、また仕事でも地域でも家庭でもそうだが、100人がいて全員が賛同するという施策などはありえない。議論を尽くす時は尽くす。迅速な対応が求められている時は、決断を優先させる。
今はどのような時なのか。
その認識で大局に立った議論、発言が求められている。

一時期、どのTVチャンネルも新聞もこぞって大合唱していた「バラマキ」という表現は、すっかり鳴りを潜めた。
多くの人が気がついていると思うが、日本のマスメディアは元々「反権力」である。それはそれで意味のあることだが、現在に至ってはそこに恣意的悪弊的要素が増してきている。
それは
@視聴率 であり
Aスポンサー収入 である。
これは相互に密接に関連していて泥沼化していると言っても過言ではないだろう。

その結果、ヒステリックなほどの政府与党批判となって現れ、具体的には野党の旗頭である民主党に異常なまでに肩入れする結果にもなる。各政党別の広告出稿料もそれを顕著に物語っている。
そうした情況に浮かれているのか、民主党の不見識な言動は目に余るものがありすぎる。
総額70兆円の経済対策の全容が果たしてわかっているのだろうか。出てくる話題は「定額給付金2兆円の別の使い道」ばかりだ。
民主、定額給付金で対案 環境と安全に重点投資(西日本新聞)
これは民主党小沢一郎氏の昨日の発言の要旨だ。
2兆円で小中学校校舎の耐震補強だとか太陽光パネルの普及と戸別所得補償制度による農林漁業活性化とか...。耐震補強の予算は別途確保されているのは周知の事実であり、太陽光パネルの設置助成は既に進行している。農家の個別補償を懲りずに言い続けているが、中長期の農業政策を議論せずして補償などしてどんな展望が開けるというのか。仮に貧窮している家庭への経済補償だというのなら、なぜ農家だけなのか。それこそ定額給付金で全国民の生活補償すべきではないのか。
定額給付金に反対するなら70兆円規模の経済対策を68兆円規模だと主張すればいい。場当たり的に思いつきで発言するから「ぼろ」が出る。小沢氏の発言はその典型だ。

昨日の国会での予算審議においても、民主党が以前から主張しているアクションプログラムの中に「給付つき税額控除」の主張があることを指摘され、答弁に立った民主党議員の発言内容は明らかにしどろもどろだった。民主党の政策を説明すればするほど、定額給付金に反対する現在の民主党のスタンスと矛盾することは明らかになった。

個々の話だけを取り上げても上記のような情況だ。
将来の日本を担うべき責任とビジョンなど求めることなどできようはずがない。
世界のトヨタがマスメディアの不見識ぶりに激怒し、広告出稿を止めようかと発言したことは、現状を端的に表した事例でもある。

このテーマは様々な側面を見せる多要素を含む問題である。
短絡的に「賛成か反対か」と発言すれば思わぬ角度から攻撃されることが多々ある。
個々の要因別に議論もできるが、相当の時間と労力を要する。
そんな国会議事堂の中だけで「ああでもない」「こうでもない」などとやっている間にも、私たち庶民は日々の資金繰り、生活費の遣り繰りに悲鳴を上げている。
3ケ月以上殆ど仕事がない、12月以降昨年の半分以下の仕事量になった、週4日勤務になった、定期預金を切り崩した、自家用車を売却しようか、朝早くから深夜まで疲れ切った体で悪戦苦闘している、等の話が毎日のように入ってきている。
当初、年度内実施と言われていた定額給付金に年度末の遣り繰りの望みをかけている中小零細企業の経営者だって、事実何人もいるのだ。家族の子供の支給予定分だって事業資金にせざるをえない親の気持ちを少しでも考えてみろと、私は言いたい。
余裕のある人は、貯蓄にでも、外食にでも、地デジチューナーにでも、自由に使えばいい、と私は思う。それぞれの家庭、個人には、それぞれの事情があるからだ。
貯蓄になるから意味がない、なんてどうしていえるのか。
貯蓄に回れば、金融機関が潤うではないか。
事務の煩雑さは工夫して効率化しなければならないが、その人件費が発生すればそれで収入が増える人だっている。臨時雇用しようという自治体だってある。
一面的に反対することは、誰にだってできる。
しかし、敢えて言いたい。
誰のための議論なのか、と。

「いま大切なことは何か」を今一度、言っておきたい。
それは、迅速な審議と決断である。
そして一度決定したならば挙党一致してその遂行にあたることである。

【関連記事】
民主党、給付金に「対案」出すも…(ココログニュース)

2009年1月15日 (木)【代理ミュンヒハウゼン症候群 誰もがかけがえのない存在】

京都大学病院に入院中の我が子に水道水と思われる雑菌が混入した水を点滴液に混入して死亡させようとしたとされる35歳の母親の事件が報道されている。
入院中の子供は五女。今回の事件以前にも、次女、三女、四女が死亡しており、昨1月14日には四女の殺害容疑で再逮捕された。

殺害された子どもたちのことを思うとやりきれない。
まだ何も世の中のことを知らずに、短い人生を終わらされてしまった。
きっと母親のことは無条件に慕っていたに違いない子どもたち。

殺人容疑者となった母親は、容疑事実を認めている模様で、一連の行為の理由を「周囲の同情を買うため、子どもを看病する姿を見せたかった」と供述していると報じられている。医療関係者の声として「代理ミュンヒハウゼン症候群」の疑いもあるとの見方が出ている。
ウィキペディアによれば、ミュンヒハウゼン症候群(Munchausen syndrome)とは自分自身に周囲の人達の関心を惹きつける為に自傷行為や虚偽の作り話を吹聴したり病気を装ったりする行為を指す。ビュルガー著『ほら吹き男爵』のモデルとなったミュンヒハウゼン男爵が命名の由来である。
ミュンヒハウゼン症候群には、自分自身を自傷したりするケースと、近親者等を傷つけたり悲劇の主人公に仕立てるケース<代理ミュンヒハウゼン症候群>の2パターンが存在し、今回の事件は後者のケースではないかと見られているようだ。

自分が注目されたい、悲劇のヒロインになって同情されたいという行為は、古今東西いずれの時代、いずれの場所でもあったことで、決して目新しいことではないだろう。『ほら吹き男爵』以外にもイソップ童話の『羊飼いと狼』など一例と言えるかもしれない。
また幼少期の子供にとっては、極めて日常的な行動であり、遊びの一部にもなっている。
問題なのは、それが社会生活を営むべき年齢になり、母親父親になってもなお、そうした行為や発想にとらわれて回りに被害者を生み出してしまうことだろう。原因の一端として、受験戦争や学力のランキング競争、高学歴社会での回りからの評価で自分の進路や価値を決めようとする現代の教育の歪みが、頻繁に指摘される。
確かに、そうした教育の問題は大きなウェイトを占めているだろう。
しかし同じ環境下にあっても、ミュンヒハウゼン症候群の症状が顕在化する人とそうでない人がいることに着目しないと、問題の解決には至らないと私は思う。

強弱の差こそあれ、人間は誰しも他の人から認められたいという意識がある。
そのことに自己の存在意義を見出そうとしている人は、ことのほか多いのではないかとも思う。
しかし、それは自分以外の何か、誰かと比べることによって生じる相対的な評価でしかない。自分自身の絶対的評価ではないことに、命の底で「そうなんだ」と実感すること、生命次元で気づくことが必要なのだと思う。
その思いに立てた時、人は自分ができることに一生懸命になってみようと、行動を起こすことができるのではないか。

教育の改革も必要。
現在の病んだ人間の心をケアするカウンセリングの充実も必要。
人と人とのつながりを大切にするコミュニティの広がりも大切。
希薄になっている家族の絆を強くすることも大切。
そしてそれ以上に、自分も誰一人としてもれなく、素晴らしい存在なんだと自分自身が自分自身を認められることが最も大切なのだと思う。誰かに注目されようとされまいと、自分自身の価値は変わらない。揺るがない。
その思いで、目の前のことに誇りと自信を持って地道に取り組んでいける。

今を生きる私達に必要なものは、自分も回りの一人一人も、かけがえのない生命そのものだという生き方だと思う。
その思いを「生命哲学」と呼んでいいと私は思う。
一人一人の人生の積上げの先にしか、社会の変革も、平和もないと思うから。

「次女、三女の点滴にも水混入」殺人容疑で再逮捕の母(Yahoo読売新聞)
【点滴腐敗液混入】次女、三女にも手を加えたと供述(Yahoo産経新聞)
代理ミュンヒハウゼン症候群 - Wikipedia
ミュンヒハウゼン症候群 - Wikipedia

2009年1月13日 (火)【第28回黎明塾 パートナーシップ戦略と雇用の創出】

今月10日(土)に28回目になる黎明塾を開催しました。
今回のテーマは「パートナーシップ戦略と雇用の創出」。

現在の自社の体力を超える事業を行うというシーンはことのほか多くあります。自社の持っている能力の範囲内で仕事をしているだけではいずれは企業は衰退することになることを考えると拡大はすべての活動の使命ともいえます。
その場面で事業を遂行するのか、辞退するのか。
遂行する場合には、実力との格差をいかにして補うのかという経営判断に迫られます。
大きな選択肢として、パートナー・リレーション・シップ戦略とスタッフ雇用があげられます。

昨今の社会情勢への関心が高く、当日は「雇用」が主なテーマになりました。
日本の製造現場の実態は思いのほかよく知られてはいません。現場を経験したことがある者にとっては当然ともいえる派遣労働と業務委託の現実は長い間、存在しないかのように扱われてきた経緯があります。
平成16年3月の労働派遣法の改正のポイントをみてみると、労働力を必要としているメーカー側と、建前だとしても労働者の処遇を保証しようとする鬩ぎ合いが容易に見て取れますが、その改正内容は荒っぽい感が否めません。
このときの改正労働派遣法が今回の「派遣切り」の底流にあることは間違いのない事実です。
また時を同じくしてアメリカのビッグ3の破綻が伝えられていますが、日本の自動車メーカーが危機的状況を避けられているのは低賃金で労働力を提供している人達の存在があることを私達は正しく認識すべきだと思います。

これは労働力だけにとどまらず、部品供給や下請工場、外国人労働者や2次、3次請負の存在など日本の産業構造全体の問題。一般にホワイトカラーと呼ばれる分野においても、個人請負や日本版ホワイトカラー・エグゼンプションの導入等で雇用する側の論理が徐々に浸透しているようにも感じます。
中小企業の黒字経営率が非常に低いまま推移し続けています。
こうした慢性的な不況状態を抜け出すことが、本当にできるのか。
この一点をクリアできないとするならば、いくら起業する人がいたとしても、他人の不幸の上にしか自分の幸福は築けないことになってしまう。
雇用の創出など、一時的な利益だけでジリ貧になることを避けられない。起業を目指す者、そして現実の荒波の中で経営を行っている者にとっては、投げ出したくなるような状況が限りなく続いています。

ではどうすればいいのか。
多くの大企業の経営者は、思いのほか、安易な選択を行います。
自分の利益、特に創業者利益に預かっている者は、企業売却によって創業と一気に成長した利益をファンド化する。
スケールメリットを考えてM&Aを繰り返す。
しかし、それは根本的な解決にはならないことは、少し冷静な人であればわかるような単純な構造ですが、まことしやかに繰り返されます。
中小零細企業にあっては、何も打つ手すらなく、状況に翻弄されるのみ。必死に目の前の仕事に没頭しますが徒手空拳であることには変わりがない。その多くが廃業に追い込まれようとしている。

たしかにこのような経営者自身の問題が大きい。
しかし、それ以上に、市場を形成する消費者、国民、庶民の不見識が、本源的に問題を抱えていると断じたいと思う。
一部には怠惰な者もいるが、多くの企業経営者は必死に奮闘している。
しかし、その一方で、消費者も、自分のことだけしか考えなくなっていやしまいか。
将来の環境を破壊しているとわかっていても、安い商品を購入する。
どれだけの原価がかかっているのか、考えもしないで値段を値切れるだけ値切る。
自分の生活を考えるだけで精一杯だと主張ばかりして、地域やコミュニティのために汗を流さない。
社会が悪いのは「政治のせいだ」と罵り、そういう自分は他者のためには一切時間も労力も使わない。
そんなことで混迷の時代を切り拓く黎明を迎えることなどできやしない、と私は思う。

経営とは自他共の繁栄の実現にその目的がある。
そのためには経営者と共に、消費者が賢明にならなければ、その実現などありえない。
経営の神様と言われた松下幸之助も、明治に生きた日本の民業の基盤を創り上げた渋沢栄一も、全く同様の主張をしている。
ここに現在社会が直面している諸課題の解決の曙光が見えると私は考えている。

次回はこの突破口のひとつとして、地方地域における創業の可能性について論じたいと思います。

【実施内容はこちら→】第28回黎明塾<実施内容>

2009年1月7日 (水)【危機感を煽る行為は慎め 希望と励ましを贈る人であれ】

今回の経済恐慌が、世界的、加速度的であり100年に一度との認識では私も同じ危機感を持っているが、単に危機感を煽るような行為は慎むべきだとも思う。
その典型の一つにこんな調査結果が報道されていた。

『40歳前後の女性を指すアラフォー」の世代が、「仕事を失う不安」は1990年はじめからのバブル崩壊後より大きいと感じている』(産業能率大学調査12/11発表)
※コメントは アラフォーも職失う不安 「就活難しい」9割超(iza!) から引用

一見するともっともらしく、かつ今回の経済恐慌はバブル崩壊を経験した世代にも大きな衝撃と不安を広げていると思われる。
しかし、だ。
20年近く経った過去に経験した記憶と、現在進行中の危機感とを同列で比べること自体が無理があるのは誰の目にも明らかだ。いま、目の前で起きている出来事に、より多くの不安感を感じるのは当然のことなのだ。

まず間違いないと思うのは、「今回の経済恐慌は100年に一度の歴史的なもの。派遣労働者だけではなくより広く不安が広がっているに違いない」という「仮説」ありきの調査結果だ。

こんな調査を行って、何の意味があると言うのだろうか。
調査に携わるものの一人として、あえて辛口の批判を行っておきたい。
当該機関のWebサイトには、消費を牽引するアラフォー女性が「平成不況をどのように切り抜け、今回の景気悪化をどのように捉えているのか、また今後、自身のキャリアパスをどのように描いているのかを探ること等」を目的にアンケート調査を実施したとあるが、出てきた調査分析コメントは
・バブル崩壊時よりも不安が高い
・今後は貯蓄と資金運用を行いたいと考えている
・専門性を高めて正社員として働きたい
・結婚は急ぐ必要はないと考えている 等々...。
考察とはとうてい言い難い、ありきたりのものだ。
メディア露出が目的の一つならそれはそれでよいだろうが、挙句の果てに都合の良い箇所だけ、おもしろおかしく、マスメディアに利用されてしまっている。
そしてそれ以上に、こんな調査ともいえないような調査結果を報道するマスメディアも見識が、まったくない。
こんな調査結果を報道することに何の意味があるというのか。

いまマスメディアに行なうべき使命があるとすれば、不安の津波に呑み込まれそうになっている国民に対して、希望のメッセージを送り、くじけそうになっている気持ちを励ますことではないのか。
不況に負けず、智慧を搾り出して奮闘している経営者や労働者の姿を報道することだってできるだろう。
そんなこともしないで、不安を煽るばかりのマスメディアなど、必要がないどころか、社会悪と化していると断じたい。

世界規模に広がる未曾有の世界経済恐慌。
しかし、この危機は人間が引き起こしたものだ。
そうであるならば、同じ人間として、善の方向へ展開できないわけがない。
それは、誰かがスーパーマン的な働きをすることで達成できるのではないと、私は思う。
「これは政治の責任」という発言をTVのワイドショーで、何度も、聞く。
この発想も間違っている、と私は断じたい。
所詮は、自分が、今いる場所で、絶壁に爪を立てて攀じ登るような努力を続けるしかない。
そうした一人の努力で、すべてが決されるのだと、私は思う。
そして、そうした必死の人間がどれだけいるかで、目下の危機からの脱出時期が決まると思う。

自分もその一人でありたい。

【関連記事】
アラフォーも職失う不安 「就活難しい」9割超(iza!)
学校法人産業能率大学 調査報告書「大不況時代 40代アラフォー女性の自己防衛術」
調査報告書「大不況時代 40代アラフォー女性の自己防衛術」(PDFファイル)

2009年1月1日 (木)【謹賀新年】
2009年明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い申し上げます。

昨年から続く世界規模の経済恐慌が、日に日に身近な仕事現場。生活現場に押し迫ってくる感覚の中で迎えた正月です。
このような大きな潮流の中で、果たして私達は何ができるのか。何をすべきなのか。
こうした混迷の時代だからこそ、個々人の生き方が問われるのだと思います。
日頃から考え行動してきた自らの理念信念が正鵠を射ているのかどうか、その真価を発揮する絶好の好機。絶体絶命のピンチは最良のチャンスの時と思い定めて、今いる場所で、今という時を楽しむ一年にしたいと思っています。

縁をする全ての方々が、幸多き一年でありますよう心からご祈念申し上げます。
本年も共々に勝利の一年にしてまいりましょう。

(最終です)

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