プロセキュートHATAさん日記
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2006.12.24【木下順二作『夕鶴』】

昨日12月23日(土)に今年最後の桂冠塾(読書会)を開催しました。
今回取り上げたのは木下順二作『夕鶴』です。
作者の木下順二(きのした・じゅんじ)さんは今年10月30日に92歳の長寿を全うされ逝去されました。木下さんへの弔意も込めてもっともよく読まれたといわれている「夕鶴」をテーマにしました。

作品について等々は下記HPを御覧いただければと思います。
木下順二さんは生前様々な場面で作品についての意図や背景を語っていますので、その真意を知るにはそうした資料を参考にすることができます。
当日は山本安英さん主演、木下順二演出による公演を収録したカセットテープを佐藤秀男さんが持参していただき、いくつかの場面を拝聴しました。秀男さんありがとうございました。

当日の様子などはこちら→ 第21回桂冠塾

2006.12.14【ノロウィルスの脅威】

東京・池袋のメトロポリタンホテルでのノロウィルス感染のメディア報道に衝撃を受けた。
驚いたのはその感染ルートだ。
ホテル内のじゅうたんに付着した客の微量の吐物から人が歩くたびにノロウイルスが空気中に拡散、感染性胃腸炎を集団発症した疑いが強いという。350人近くが嘔吐や腹痛を訴えたが、3階と25階の利用客に集中していることから、被害が発生し始めた3日前の結婚式の出席者がこの2フロアで嘔吐していたこととの因果関係が濃厚と推測。じゅうたんに残っていた微量の付着物を検査したら2ケ所ともノロウィルスが検出された。

ノロウィルスの威力がここまで強力なものとは...。これでは外食先のレストランや居酒屋、喫茶店で感染することすらあり得る。ましてや忘年会シーズンの今月、電車内や駅のホームで嘔吐する泥酔者もごく普通に見かける。それが翌日以降になって、人が歩くたびにノロウイルスが空気中に拡散する危険があるということだ。
今までは牡蠣などの摂取、感染者の嘔吐物や排出物などが主な感染ルートとされ、嘔吐物についてはその処理の際に充分気をつけるよう注意されてきた。しかし街を歩くだれもが感染性胃腸炎の危機に晒されていることが明らかになった。

外出の際にはマスクをするなど予防にここがけることが大切だ。帰宅後のうがい、手洗いは絶対に行なうことを家族で習慣づけたい。
そして、感染しているかもと思ったら、外出は絶対に控えよう。「私は大丈夫」などと勝手な判断は多くの人に迷惑をかけてしまう。
自他共にしあわせを願う行動を徹底したい。

2006.12.12【年末年始 万全の備えを】

今年も残すところあと20日になった。年末の忙しさもひとしおの感がある。
スケジュール帳とにらめっこしながら年内に仕上げるべき仕事の日程を調整している人も多いことだろうと思う。1年の総仕上げの時期、万全の備えで明年を迎えていきたい。
昨日12月11日、裏原宿と呼ばれる渋谷区神宮前の住宅地から火災が発生し、民家を焼失する事故があった。ご家族の方の気持ちを思うとなんと申し上げていいのか...私たちとしてはせめてものの思いでお亡くなりになった方への追善回向、冥福を祈りたい。

2006.12.6【野菜の廃棄が続く】

大根、白菜、ピーマン等々...。ここ数日、野菜生産地での廃棄処分の報道が続いている。こうした産地廃棄は需給調整と呼ばれている。

政府としての生産者保護の対策はある。
大都市の卸売市場に出荷する特定の野菜価格が一定水準以下に下がった場合、生産者に価格補てんをしている。指定野菜(大根、白菜、キャベツなど)の場合で、卸売価格が保証基準額(過去9年間の中央卸売市場での平均価格の9割)を下回ったときに、その差額の9割が補てんされる。

しかしそうした制度があっても生産者は出荷するよりも廃棄して市場価格が下がらなくしたいという道を選ぶことがある。なぜこのような状況が生まれてしまうのだろうか。
野菜栽培に要した労力と費用よりも市場価格が低くなってしまう。労力を除いた諸費用に達しないことさえある。あってほしくはないが、需要と供給の関係からそのような事態も発生する。そのときに廃棄をしない対応策が策定されていないことが問題ではないだろうか。
危機管理の不在である。

工業製品においても製造に要した費用を元にした販売希望価格を消費者が受入れないことがある。原価割れのディスカウント(投売り)がスーパーの目玉商品なんてことも目にする。全く売れなかった製品が廃棄処分になることは日常茶飯事だ。
しかし、野菜の産地廃棄は売れなかった工業製品の廃棄よりもインパクト(衝撃)を感じる。
それは何故だろうか?
私は本能的に「もったいない」と感じる。主な原因のひとつには、地球上にはその食料をそのまま欲している人が多くいるからではないだろうか。

地球上の多くの人々が飢えで苦しんでいる同時刻に、日本では野菜が産地で廃棄されている。
メディアの取材に「輸送コストさえ回収できない」と生産者代表(農協等)は答えている。ならば輸送コストをかけない智慧を絞り抜いたのか?
市場原理で価格が決まるというが、そのことに対して改善する余地はないのか?もしあるなら具体的な動きをしているのか?ないというならその原理の下で苦しむ人達がいるのはなぜなのか?

こんな状況を少しでも解消したい。

2006.12.4【第5回黎明塾−消費と需要−】

12月2日(土)に経営セミナー<黎明塾第5回/通算27回>を開催しました。 今回のテーマは「消費と需要」です。
経営は様々な角度から戦略が謳われます。どの手法や方策を実施しても成功と失敗が混在するような感がありますが、そもそもビジネスが成立する状況とはどのような条件の中から生まれてくるのでしょうか。
長く「良いものを安く提供すれば売れる」というセオリーが言われてきましたが、現実には事業を断念するケースが続出しているのは多くの人が経験してきた事実です。
どこにどんな間違いがあるのか?現実に即した解決の糸口を探ってみたいと思います。

実施内容はこちら→〔第5回黎明塾

2006.11.26【車輪の下】
11月25日(土)に20回目の読書会《桂冠塾》を開催しました。
今回取り上げたのはヘルマン・ヘッセ作『車輪の下』です。
当日の様子などはこちら→ http://www.prosecute.jp/keikan/020.htm

ヘッセは1877年に南ドイツ・シュヴァーベンに生まれている。
思想的形成にはキリスト教の布教活動に従事した両親をはじめとするキリスト教思想が多く影響している。その最たるものの一つが神学校での体験だとされており、この『車輪の下』はそうした分野の代表作である。

なおもうひとつ、ヘッセの思想経営に大きな影響を与えたのは2回の世界大戦の時代を生き抜いたという事実ではないかと私は思う。第一次大戦開戦直後は純粋な愛国心から志願して兵役につこうとしたが、ドイツ国家の方針に違和感を持ち、その後は一環して批判的言動に徹している。その姿勢はナチス政権下においては相当の勇気を持った行動でなかったかと思うのである。

『車輪の下』はヘッセ自身が10代に経験した出来事がモチーフとなっている。実体験を元にしているためもあるかもしれないが、個々の描写が素晴らしい。特に自然描写はヘッセの才能を大いに感じさせる。淡々と事実を書いているかのように思う読者もいるかもしれないが、書かれている出来事は人間が生きていく中で直面す重大な課題を浮き彫りにしている。

生きるということは?
友情のありかたとは?
生命をみつめることができない教育にはどんな意味があるのか?
信仰は何のために行なうのか?
仕事に従事するということはどういうことなのか?
働く喜びを得ることの素晴らしさ。・・・

多くのことを振り返ることができる一冊ではないかと思います。

《関連ページ》桂冠塾

2006.11.20【オーストリーの表記希望】
オーストリア大使館がホームページにて「日本語表記ではオーストリアではなくオーストリーと呼んで下さい」とのお願いを掲載している旨の報道がなされているとのこと(Yahoo!ニュースによれば産経新聞報道)。
日本では第2次世界大戦後に従来の「オーストリー」(多少の表記の違いもあり)から「オーストリア」表記に変更になっている。そのことで「オーストラリア」との混同が発生し間違って大使館を訪問する人も増えているという。
私も、よくオーストリアとオーストラリアを聞き間違ったり、言い間違ったりすることがあるので(^_^;)よいことだと思う。歴史的な流れがあるのなら「オーストリー」もなんだか欧州の感じがしていいかなと思ったりもする。

外務省関係者の声として「決めかねている」など戸惑っているという報道がなされていたが何を戸惑う必要があるのだろうか。
当国のオーストリアが「こう呼んでほしいです」と言っているのだから意思を尊重して従うのが礼儀だと私は思う。
もしこれが逆の立場で「日本」が他国で好ましくない呼び方をされていたらどう感じるだろうか。また外務省はどのような行動に出るだろうか。相手の立場に立って考えて行動することが大事だと思う。
国家間のことであるからオーストリアとしての意向に間違いがないか早急に確認をし、しかるべき手続きを進めていただきたい。

少し補足しておきたい。私もどんな希望なのか確認しようと大使館ホームページを検索してみてみたがオーストリーの表記自体が使われていない。うん?と思って色々見てみた。正確には大使館ホームページでは「オーストリア」表記が継続して使用されていて、「オーストリー」表記を使っているのは大使館商務部のホームページのみだ。報道に書かれているほど唐突な発表でもないと思うし、オーストリア側が性急な表記変更を希望しているものでもないと感じる。
こうした際の対応に本音が見え隠れする。印象を良くもすれば悪くもする。お役所仕事と言われないよう誠意をもって対応していただきたい。

《関連リンク》
オーストリア大使館
オーストリー大使館商務部
yahoo!ニュース「オーストリーと呼んで」

2006.11.19【JR津山線で脱線事故】
本日午前5時30分頃、岡山県内を走るJR津山線で津山発の始発列車が脱線し横転するという事故が発生した。
2名の乗客が重症、さらに23名が怪我をする事故となった。原因はこのところ続いていた雨による地盤の緩み落石が発生しレールが湾曲破損していたためではないかと報道されている。
同路線は以前から土砂崩れの被害等が発生しており運転手の間でも危険を感じる路線と言われていたようである。

私は高校3年生まで岡山県に住んでおり今も実家は津山市の隣り勝央町にある。同級生もこの津山線で通勤をしており他人事とは思えない。多少は地元の雰囲気がわかる者として思うが、津山線はおそらく不採算路線だろう。落石警報機も今回事故が発生した箇所には設置されていなかったが、このような危険箇所はまだ他にあるに違いない。
利用者の安全を確保することは採算以前の話である。地元交通機関として赤字を出しながらも廃止することができないといった事情があるのかもしれない。危険箇所だと言ったら路線区間の半数以上がそうだとなるのかもしれない。

しかしそれでも安全を確保することが交通機関の使命である。
死者が出なかったことに感謝しつつ今後の更なる安全対策を実施することを切に望みたい。

2006.11.13【新規事業分野の将来性】
一昨日11月11日に第4回目の黎明塾を開催しました。
今回は事例研究です。テーマを「新規事業分野の将来性」として、農業/地域密着/海外の3つの視点から考察してみました。
当日の様子などはこちら↓
黎明塾(第4回)実施内容

ときおり話すことですが、それぞれの人が眼前の課題として抱えているものの困難さというのは、その人の境涯で如何様にも感じるものだとつくづく思います。
困難とは見方を変えれば試練です。言い方を変えれば訓練(トレーニング)です。スポーツでも人生でも100%の能力や筋力に対して100%の負荷をかけているだけでは能力を向上させることはできません。ましてや90%程度の負荷であれば次第に能力、筋力は低下していきます。
人生の試練や事業における困難も同様だと思うわけです。「やだな」「避けて通りたいな」と思うのか「自分の能力を高める絶好のチャンスだ」と捉えることができるのか。わずかな決意の差が人生の決定的な違いとなるのです。

新規事業とは自分自身にとって未知の分野への挑戦です。自ら積極的にチャレンジしていく姿勢と行動がなければ一定以上の成果をあげることができないのは自明の理です。その意味では新しい仕事を楽しみに感じられることが新規事業に取り組む第一条件といえるでしょう。
それは生き方そのものだと私は思います。

ただし楽しく感じられるには少なくともひとつの状況が必要です。それは「必ず乗り越えられる」「確実に実現できる」という確信があることです。
単なる思い込みではなく確固たる理念に裏打ちされた確信こそが事業推進の原動力であると私は思っています。

《関連リンク》黎明塾

2006.11.10【人間開発報告書】
国連開発計画(UNDP)が今月9日に「人間開発報告書2006」を発表した。
さっそく2006年度版の概要を読んでみた。
2006年のテーマは「水問題」だ。

水問題は言い古されてきた感さえある巨大なテーマだ。地球上における水の不均衡が指摘されてから久しい。第三国、南北問題が取り上げられる際には常に水に関する数字が提示されてきた。
地球規模の問題である病気、貧困、人権の底辺に横たわっているのが水問題だとも言われるほど水問題の解決は困難な状況になっている。

近年取り上げられてきたテーマを俯瞰してみると
2003年は貧困のない世界の実現への提言、
2004年は宗教、民族、言語等が異なる世界における多様な文化を認め推進する意義、
2005年は援助、貿易、安全保障の重要性を訴えてきている。
そして今年テーマの「水問題」。地球が抱えている問題はほとんど解決への道のりを進めることができずにいる。

本年が「貧困撲滅のための国連の10年」の最終年となっていることは日本国内ではあまり報道されていない。国連が問題とする貧困層とは「1日の生活費が1ドル未満」である人々だ。ミレミアム開発目標(MDGs)では2015年までに貧困層の人口比率を半減させることを目標に掲げているが、具体的な有効策は見出せずにいる。
プロセキュートにおいても水問題の解決の一助になればと微力な事業化を試みているが遠く及ばない状況に歯がゆい思いでいるのが現実だ。

いま自分がいる立場で何かできることがないか。
もう一度自分自身に問い直し、行動の規範としていきたい。

ひとつ申し添えておく。国内主要紙の「人間開発報告書2006」の報道内容には唖然とする。その論調は「人間開発指数での日本の順位が昨年11位から7位にランクアップした」というものだ。
比較しやすい順位という数字を取り上げるほうが楽なのだろうか。本質とはまったく関係ないうわべだけの報道に日本のマスメディアの一端を見る思いがした。

【関連リンク】
人間開発報告書2006概要
国連開発計画東京事務所
プロセキュート/雨水事業
<国連開発計画>「人間開発指数」日本7位に浮上

2006.10.30【読書週間】
今月27日から読書週間が始まっています。
新聞の社説に興味深い一文が載っていましたのでご紹介します。
(以下引用)
まず一読していただきたい。
「新聞のほうが雑誌よりいい。街中より海岸の方が場所としていい。最初は歩くより走るほうがいい。何度もトライしなくてはならないだろう。ちょっとしたコツがいるが、つかむのは易しい」

この文章は何を書いてあるのだろうかという問題である。これだけを読んで正解できる人はごくわずかだろう。答えは「凧を作ってあげること」である。わかってしまえば一気に全体が見えてくる。でもなぜわからないのか?それは「文脈」が見えないからであると書かれていた。

更に文章を読む上で重要なこの「文脈」は両刃の剣であるとの西林克彦氏(宮城教育大学教授)の言葉が紹介されている。往々にして、早合点やミスリード、「わかったつもり」で真意を読み違えたり読み飛ばす過ちを犯しやすいからだ。社説は、その中途半端な精神から「軽信」が生まれると続く。
それを防ぎ精神の力を高める方策のひとつが一流の書物の読書であると書かれていた。

実に同感であり共感する。
名作と言われる作品はともすれば難解であることも多い。多くは長編であり、文庫本で3〜4冊分あることはざらである。しかし良書は読めば読むほど自身の視野と境涯が広がり、思索が深く豊かになることを実感する。私が桂冠塾という読書会を主宰しているのも全く同じ趣旨が故である。
桂冠塾も毎月開催してきて次回で20回。
「持続は力なり」との思いで、少しでも本を読むことに貢献できるようこれからも開催していきたいと思います。

《関連リンク》桂冠塾

2006.10.29【第19回桂冠塾『モモ』を読む】
昨日10月28日(土)に第19回となる桂冠塾を開催しました。
今月はミヒャエル・エンデの『モモ』を取り上げました。
語り合ったテーマなどはこちら↓
http://www.prosecute.jp/actvity/keikan19.htm

エンデの思想的背景として彼が青年期を戦中ドイツで過ごしたことが大きく影響していると思われ、彼の創作活動を考えるときこの点を含めて少なくとも3つの要素を考慮してよいと思います。それは
1)ナチスドイツの時代を生きた経験
2)シュタイナー理論との出会い
3)ブレスト理論による創作活動
その延長に彼のファンタジー作品と利殖を伴わない経済システムへの理想が続いているように感じます。
エンデは講演の中で「モモ」で描いた時間の問題はお金の問題であることを自ら述べており、また作品の中では「時間とは生きることそのもの」との表現があります。
エンデにとって「時間」「お金(経済)」「生命」は同じカテゴリ視されているとみることが妥当だろうと思われます。

ともすればファンタジー作品や童話ではモチーフがデフォルメされ、断定的に描かれることが多々あります。「モモ」もその例外ではありません。「モモ」が発表された1972年以降、世界中で読まれた70年代は高度経済成長の真っ只中。使い捨て文化が一世を風靡し、人間疎外が社会問題化されたなかで「モモ」の主題は多くの庶民に受け入れられたという時代背景もあります。
ゆとり生活が主流になったかのような感もある現在において、時間の節約と効率化と利息で生きる人達を痛烈に批判した「モモ」の放つインパクトはさほど強くないのかもしれないなぁと思ったりします。適度なバランス感覚を身につけた現代人には違和感がある作品と映るかもしれません。

しかしエンデの意図はもう少し本源的なところにあると見るのが妥当ではないかと思います。エンデは「現在人にはもっと想像力が必要だ」と主張します。今までの経済の成立には常に搾取されるものが原資とされている。それは植民地であり、地下資源であり、第3諸国であり、自然環境である。利殖経済を含む実態を伴わない諸活動に報酬として与えられる対価は本来存在すべきではないというのがエンデの根源的な思想ではないかと私は見て取っています。

エンデはそれをファンタジー作品に託したのではないでしょうか。「ネバーエンディングストーリー」とは現代の考えに言い換えれば「持続可能な発展」と合い通じると言えるのではないでしょうか。
私はエンデの作品、主張の言葉からそんなことを感じました。

《作品の概要など》第19回桂冠塾の実施内容

2006.10.26【全国の公立高校で必修科目の不履修が発覚】
全国の公立高校で社会科の授業を中心に必修科目の授業が行なわれていない実態が報道されている。25日現在で11県65校が授業不実施が判明、過去には85校が必要な授業を行なわなかったことがあるらしい。

私が高校に通っていたのは25年も前になるが、受験しない科目を軽視する傾向は昔からあった。私は岡山県の県北にある県立高校に学んだが、2年次から国立文系、私立文系、理数系の3コースにクラスが分かれ、受験科目に重点を置いたカリキュラムが編成されていた。おそらく今でも傾向は変わらないと思う。特に私立文系クラスでの授業カリキュラムは極端だったことを記憶している。全校を通じて「公民(倫社・政経)」「地学」の授業は存在しなかった。
おそらく学習指導要領内で最低ラインをクリアしていたのだと思うが、生徒だった人間からみれば、極めていびつだった印象はいまだ持って拭い切れずに鮮明に記憶されている。

報道では現役3年生の不満やるかたない声も多く紹介されている。
私達はこの問題の本質を見抜くことが大事だ。それは
(1)そもそも学習指導要領に定められた学習内容は不要なものが含まれているのか
(2)大学受験科目に限定した高校教育に問題はないのか
という点ではないだろうか。

よく指摘されることであるが「知識」と「智慧」は似て非なるものである。教育の本来の目的は、よりよく生きるために自ら考える力を育み、よりよき人生観、生命感、世界観を伸ばし、それを具現化する力を産み出す土壌を作ることではないだろうか。
智慧を育てていれば後から入ってくる知識の正邪を判断し取捨選択して活かすことができるが、知識だけではその人が元来備えている資質に頼るしかなく、正しき知識を活かすことができない危うい状況がここかしこに生まれてしまうと私は思う。
その意味で「智慧」なき「知識の蓄積」が現代社会の病巣の原因だと言えよう。

何のための教育か?何のための学習指導要領か?
今回の高校不履修問題の根本原因は理念なき日本の教育実態の一端に過ぎない。

《関連サイト》
毎日新聞「履修不足:全国の多くの教委「把握せず」「調査せず」
毎日新聞「履修不足:「卒業できるの」「受験は?」揺れる生徒たち

2006.10.23【群馬県片品村】
10月21,22日の両日、片品村に行ってきました。
片品村については1年ほど前から知人を介して豊かな自然を有した村であることを聞いていました。今後の事業展開の可能性を探る意味もあって現地を見て回ることにしました。
2日間で多くの方の話を聞くことができました。

農業と林業と観光で生計を立てる村。それが片品村かなと思います。
農産物は豊富です。大根やキャベツ、林檎、とうもろこし、かぼちゃが大規模に作付けされています。養殖では鱒の大きな養殖場がいくつか点在しており、まいやけ、くりたけ、しめじの栽培や天然ものもふんだんに取れます。このことがあまり知られていないことは残念です。
ただ林業はまったく収益にはなっていません。これは国内の林業が持つ悩みでしょう。ちょうど山肌一画の材木が切り出されていましたが完全な赤字だと言われていました。

観光資源もあります。尾瀬の8割、丸沼、丸沼ダム、白根山、武尊山(ほたかさん)を有し、温泉とスキー場も多い関東屈指の観光地です。
そうそう「天王桜」はみごとです!近い将来必ず有名になりますので満開の時期をどのようなスタンスで公開するのかが大事になると思います。

片品村は全国的に見ても最も民宿が多い市町村でもあります。村内に入るととにかく民宿が目に飛び込んできます。トップシーズンは夏休みの1ケ月半と冬季(スキー)の4ケ月余り。1年が繁忙期と閑散期にきれいに分かれる村です。多くの民宿経営者は兼業農家で、閑散期に農業と民宿の修理メンテナンスをするというサイクルが定着しているようです。

若い人たちが村外に流出してしまう、年々個人の収入が減少している、開発が進んで自然環境の維持が難しくなってきた...。様々な現状も聞きました。通年での収入確保が大きな課題であるように感じます。
また、未来を担う子供達の教育交流も大事で官民の総力を挙げた事業化が必要だと強く感じてきました。
まずは何かひとつ。
できることを実現させようと決意しました。

《関連サイト》
片品村公式サイト
片品村観光協会
片品村農協

2006.10.7【経営者の資質】
黎明塾の第3回を行ないました。今回のテーマは「経営者の資質」です。
経営者はこうあるべきだという理想像はあるのか?その疑問に答えることもひとつの問題意識になります。
世界を代表する企業にも優秀な経営者がいますが、今回は日本人の経営者から松下幸之助、渋沢栄一、本田宗一郎の企業経営をみながら、経営者としての人間的資質を探ってみました。

言うまでもなく経営者には色々な人物がいます。「こんな人でも年商1億円上げているのか」という輩から社会的にも縦横無尽に活躍されている方まで...。企業規模と人物評は必ずしも比例はしませんが、やはり一定規模以上の業績を上げていないと社会的にも人間的にも大きなばらつきが出るように感じます。ただ事業規模が小さな経営者は多少問題があっても社会的影響も小さくて済みますので、あまりクローズアップされないという側面もあるように感じます。

《実施内容》
黎明塾第3回実施内容

2006.9.30【樅の木は残った】
今月の桂冠塾(読書会)を開催しました。
今月の本は山本周五郎の『樅の木は残った』です。
当日の様子などはこちら↓
http://homepage2.nifty.com/prosecute/activity/theme02-18.htm
原田甲斐の生き様、伊達騒動という歴史上の事件がどのように評価されるべきなのか。こうした点は上記ページを御覧いただければと思います。

加えてひとつ思うことは、人は時代や生きた環境に大きく左右されるとはいえ、藩の安泰のために少なからずの人達の生命が失われていったという事実はどのように受け止めるべきでしょうか。
私はこの点に強く疑問を感じました。
確かに、山本周五郎の描いた原田甲斐の生き様は潔いでしょう。信念に生きる人間の強さを感じます。しかし原田甲斐が生きた「藩のため」という目的は正しい選択だったのでしょうか。

人生を何のために生きるのか−−原田甲斐の姿に出口のない悲哀を感じるのはその不確かさのせいかもしれないと思いました。

2006.9.27【新生・安倍内閣が発足】
26日夜、安倍内閣が発足した。
論功行賞、安倍側近による「チーム安倍」、安倍カラー重視の機動派、派閥配慮、参院選対策、多選議員厚遇、官邸主導型内閣等々。マスメディアでは様々な論評が飛び交っている。

毎回感じることだが、民間から起用された閣僚に比べて議員選出の閣僚の中には名誉職のような安易な雰囲気が流れている者が必ずいる。今回であれば当選6回初入閣組と言われる人たちがその典型であろうか。その分野の専門家でもない議員が各省庁の大臣になる光景は組閣発表では当たり前になった感さえある。民間であれば一族経営やワンマン経営のオーナー企業で見かける情景だが、その企業が発展していくことなどほとんどないことは多くの人の周知のところだ。

言うまでもなく閣僚任命は到達点ではない。拝命した任期中に何ができるのか。今まで暖め続けてきた政策案を一気に実現していくのが閣僚任命を受けた者の使命であろう。しかしそのような決意に立った閣僚が果たして何人いるのでろうか...。もちろん安倍晋三総理大臣には実現させる決意の政策案があるだろうが、他の閣僚では...?

国務大臣は私たち日本国民の生活基盤を構築する責任と義務を有する立法行政の最高責任者である。間違っても「大過なく任期を終えよう」という意識の政治家が出ないよう監視することが必要だ。まずは大臣になった者には「自身の任期中に達成するべき目標を提示しよう」と提案したい。
あわせて小泉内閣で実施した政策の評価、実施できなかった政策案、検討しなかった政策案の評価も必要だ。

政治が解決してくれることはそれほど多くはない。
私達も観客になることなく、一歩でも庶民の生活がよくなるよう、さらに広く地球上の民衆の平和の実現に近づくよう、私達も今いる場所でできることをひとつずつやっていきたい。

《関連サイト》
首相官邸ホームページ

2006.9.25【反則金保険が廃止へ】
世の中には常識では理解しがたい商品が存在する。「反則金保険」と通称されている共済制度もそのひとつだ。
反則金保険とは、交通違反の際に発生する反則金を補填するための無認可共済制度だ。多く場合で入会金2000円で年会費6000円で会員になれる。一年毎の契約期間中であれば刑事事件に問われない交通違反の反則金を何度でも補填してくれるというものだ。通常の反則金は駐停車の場合で10,000円〜18,000円、信号無視は9000円であるため共済制度に加入したほうがお得という勘定になる。駐車違反の取締りが強化された今年6月以降に加入者が激増しているとのことのようだ。

改正保険法によって無認可共済事業者は9月末までに届け出を義務づけられているため違法商品として順次市場から姿を消す見込であることが報道されている。当然の措置だ。

しかしどうしてこのような倫理を欠く商品(サービス)が売れてしまうのだろうか。この共済制度に入ってしまえば路上駐車は事実上やり放題になってしまう。それでは交通規則として駐車違反を取り締まっている目的が無視されてしまう。そのことに事業者は社会悪を感じないのであろうか。
ちなみに検索サイトで「反則金保険」と入力して検索してみるといい。実に多くの事業者のWebサイトが出てくる。
この反則金保険の共済制度事業者はフランチャイズ化されているものもあり、多くの個人や中小零細事業者が代理店になっているという。
何のために仕事をするのか。そのことを今一度問い直す社会にしていきたい。

《関連サイト》
交通違反の反則金補償の保険、順次廃止へ (読売新聞) - goo ニュース
交通違反反則金の納付方法 反則行為の種別及び反則金一覧表

2006.9.23【教員の指導力不足】
文部科学省は2005年度において公立小中高校などの教員のうち506人を指導力不足と認定したことを発表した。
これは2000年度から都道府県や政令市の教育委員会が独自の基準を設けて第三者による判定委員会等で認定しているものだ。この制度により2004年度に引き続いて500人を突破したことが報道されている。

指導不足は教員経験の浅い若手教員に多いのかと思う人も多いと思うが、指導不足と認定された教員の6割が20年以上のキャリアを持つベテラン教員だという。指導不足教員の内訳を年齢別に見ると40歳代が最も多くて45%、次いで50歳代が37%と40歳以上で8割以上を占めている。

この結果が物語っているものは何だろうか。パターンに嵌った授業方法や世代格差によるコミュニケーションギャップが指摘されているが、それは結果の一部でしかないと思う。
より本源的な原因は「何のため」に教育を行なっているかという目的意識の欠落にあるのではないか。言い換えれば「教師としての自分の使命は何か」という問いかけを行なっていないか、真摯に思索することを怠っているのだと思う。

子供にとって最大の教育環境は教師である。そのことを忘れてはいけない。そしてそれば教職にある者だけが問われる課題ではなく、何らかの立場で多少なりとも責任ある私たち全ての者が考え、行動すべき問題である。

2006.9.14【オランダ・ヘラクレスの対応に疑問】
8月末にオランダリーグのヘラクレスを解雇された平山相太の1年間のサッカー人生が危機に立たされている。今月15日が期限となっているJリーグ選手登録までに国際移籍証明書が届かない見込があるからだ。日本サッカー協会は無所属の選手の日本代表登録を認めていないため事実上、公式戦への出場は無可能となる。
各種の報道は移籍予定先である日本(J1・FC東京)からの情報によるため公平な判断は完全にはできないが、限られた報道を見る限りヘラクレスの姿勢に問題の原因の多くはあるように感じる。
確かに利害が対立する事案だろう。ヘラクレスも経営的問題を抱えているのかもしれない。スミット会長の個人的な感情もあるのかとも思うし、平山側の危機管理意識に甘さがあったことも、曖昧な表現をあえてした部分もあったかもしれない。その意味ではどちらかが100%悪いという問題ではないかもしれない。

しかし一番に考えるべきは未来を担う若い世代の将来ではないだろうか。21歳の若いサッカー選手が右往左往しながらも、自分の努力を活かせる場所を探して新しい球団で出発を切ろうとしている。
年齢を重ねた大人であれば、それを支援こそすれ(結果的であったとしても)阻害をすることは避けなければならない。

2006.9.13【9.11から5年】
9.11の事件から5年が経った。
日本での報道は思いのほか少ないように感じられた。2日も経つと新聞もTVからもすっかり消えている。気持ちが移ろいやすいのは現代人の特徴なのか追悼の意を表する人はいても9.11のその後の世界を語る人はほとんどいない。
しかし9.11を経て私たちの住む地球の平和への意識は厳然と変化を遂げている。日本においても公然と政治の世界で先制攻撃の必要性が論じられるようになった。北朝鮮脅威論はその最たるものだ。
こうした考えは以前からあったが9.11の事件によって鮮明に打ち出されるようになったように思う。ではそうした「悪の枢軸を叩きのめす」的発想で本当に戦争やテロを根絶させることができるのか?多くの世界市民は「ノー」または「それはわからない」と答えるのではないだろうか。

いま、世界に平和を構築する推進母体となるべきところはどこかと考えると国連がある。もちろん異論もあるだろう。実際に役に立っているのかという声も実際に聞く。しかし他に代わる機関や団体があるのかと問い直すと不完全であるかもしれないが国連を抜きにして平和構築を考えるのは非常に無駄が多いだろう。
国連は今年で結成61年を迎えた。今月には第61回国連総会も開催される。世界市民の一人である私達も、まずは国連総会での議論の行く末を見守りながら、世界平和は他人事であるかのような姿勢を改め、いまいる場所からいまできることを始めたい。

2006.9.5【第2回黎明塾を開催】
9月2日(土)に第2回黎明塾(全18回)を開催しました。
今回のテーマは『ビジネスの本質を見抜く』。

私たちはビジネスを行うことで何を達成しようとしているのか。一言で言えば「ビジネスを通して実現するべき使命は何か」に尽きるでしょう。
あちこちで話すことですが、生活費を得るだけなら何をしてもそこそこ生きていけます。「自分の能力を十二分に発揮したい」そうした湧き上がる欲求も大切ですし、自分が生み出したアイデアを世の中に出していこうという積極性も必要です。しかしより多くの人たちに必要とされなければ採算は取れず、ビジネスとして続けることはできません。
また逆説的に言えば、消費者が求めるものを市場に出すことがすべて求められるのでしょうか。結論から言えばその行為自体を良いとか悪いとか判断することは困難です。

ではそうした複数の視点の検証にも耐えうるビジネスの本質とは何か?
このテーマを経営指標と新規創業の2つの角度を通し「ビジネス成立の要件」として講義とグループディスカッションを行いました。
質疑応答が相続き、新規創業については時間不足となりました。当日の出席者には新規創業を行なった方、法務局での手続きを担当した方もおられましたので、この内容は必要に応じて後日再度行なうか検討したいと思います。

当日の議論は予定メニュー以外に、従業員1人当りの売上貢献金額の目安、より機動的と思われる企業規模、納税と法人所在地の関係、道州制の是非、グローバル企業と第3諸国での生産消費のあり方、各地で起こっている不買運動の実態、地産地消の物理的範囲、等々多岐にわたりました。
大企業から個人に至るまで哲学不在となった現代。いまできる小さな努力を地道に続けていきたいと思います。

《当日の様子などはこちら》第2回黎明塾

2006.9.2【行動の善悪を見抜く力を】

今日は黎明塾第2回の講座を行いました。初参加いただきました田中さん、ヒデヲくんはじめ、ありがとうございました。
講座の詳細は明日にでも記載させていただこうと思いますが今回の会場に使った練馬公民館の対応について一言触れておきたいと思います。

会場に着いたのは13時35分頃。さあ会場の準備だと張り切っていくと受付の人が「ちょっと事務所へ入って下さい」・・・なんだろう?入っていくと職員が2名私の前に座る...。なんだか強ばった表情...なんか手続き間違ったかなぁと思っているとおもむろに「そちらの団体はどういう活動をされていますか」と聞いてこられた。
その後いくつか会話が交わされたが要するに「営利事業に関連する内容を行なう団体は使用しないでくれ」ということらしい。
確かに黎明塾は経営の勉強会だ。経営者養成を目的にも謳っている。しかし「経営の勉強会=営利事業」との極端な短絡的思考にはあきれてしまった。練馬区の生涯学習団体の申請にも経営の勉強会は認められていることも話したが「それは認められているでしょうね。でも私共(練馬公民館)では利用は認められません」とはっきりと断られた。

事情背景が少しわかりにくいかもしれないが、私が主催している桂冠塾、黎明塾は元々自分達の任意で始めた学習会だ。少し前まで私が役員を勤める会社会議室で行なっていたが、気軽に参加できるように等々の配慮から今年の春以降は都内の会議室を借りて開催してきた。

そのなかで私の地元である練馬区では生涯学習団体の登録制度があることがわかり、練馬区生涯学習課に問い合わせたところ、読書会と経営の勉強会共に実施目的として認められるということで申請を行なうことにして、申請が受け付けられるまでは利用料金半額の特典はなくても利用しようということで練馬公民館に利用申請をして当日行ったら上記の対応だった。

今回、桂冠塾の名称で黎明塾の活動会場の申込をしたことも不正だと指摘された。しかしこれも団体申込の際に同一の代表者名で別団体名で申込むと二重登録の指摘を受けるとの指導があって一団体のみで登録した経緯があるのだ。これも練馬公民館職員2名に言わせれば虚偽申請となるらしい。会費350円を徴収するのも営利活動と言われた。元々無償で行なってきたが生涯団体申請の相談の際に「原則的に運営は会費制にして下さい」との指摘があり実費相当ということで350円にしたのだが、公民館職員に言わせると会費を集めてお金儲けをしていることになるそうだ。
こちらはひとつひとつ問い合わせをして手続きを進めてきたのに...利用者の立場から言えば「統一見解で対応しなさいよ」といいたくなるような大柄な対応だった。

それぞれで基準が違うのはわからなくもない。しかし「練馬公民館は生涯学習団体利用時は半額になる施設である」という説明を受けたので申込んだ施設だ。誰でも生涯学習団体に認められた団体は練馬公民館を利用できると思うのが当然だろう。しかし練馬区民館の職員の言によれば「生涯学習団体認定の基準と練馬公民館利用許可の基準は違う」と明言された。だったら最初からそのように明示すればいい。私達は2年以上前から活動を続けている。別に練馬公民館を使わなくても活動は続けられる。ただ多くの人に参加してもらえればという気持ちで問い合わせたら生涯学習団体という制度があることを知り、その団体は練馬公民館等の施設を半額料金で利用できると聞かされたので申込んだだけの話なのだ。こちらから無理をして利用申込したわけではない。それなのに今日の職員の対応だ。

お役所仕事の典型に直面した。ただ職員の立場もまったくわからないでもない。少しでも営利的な雰囲気(この雰囲気というのがくせものだ)がある団体の利用を認めると際限がなくなると言っていた。まぁそれはそのとおりだろう。

ひとつ言っておきたい。練馬区民と接する現場の職員が経営ということと営利活動の違いがわからないのでは、いつまでたっても地域経済は復興しないだろう。職員がそこまでいうなら練馬区は不況対策とか商店街の活性化とか中小企業支援とか言わなければいい。練馬公民館職員の理屈でいれば練馬区がやっていることも営利事業と言わざるをえなくなる。それとも練馬区がやっていることは性善説で、民間がやれば性悪説で判断するのだろうか。練馬区の職員はもっと自己研鑽しなさい。

先行きを思うと暗澹たる思いになった出来事だった。
人間は最初から「疑わしい活動をしている団体ではないのか」という姿勢で見れば、どんな活動をしていても裏心があると思い込んでしまう。
世間でも私心のない行動が中傷非難にさらされている事実をみればこのような出来事は日常的に起こりうることが納得できる。確かにそうした善行に見せかけた自己中心的行動を人間も多くいることも事実だ。
行動の善悪を正視眼で見抜く確固たる判断能力を身につけることだ。そのためには一人一人が広い視野に立つことと個々の事象に振り回されない評価軸をもつことではないだろうか。
それは古来、哲学と呼ばれているものだと私は思う。

2006.8.28【第34回夏季大学講座に参加】
8月25日〜27日に行なわれた創価大学夏季大学講座に出席してきました。
だれでも参加できる市民講座として始められて今年で32年目。参加者も日本最大で今年は1万1千人を突破したそうです。
私は初めての3日間連続で受講しました。
第1日:「多文化共生を目指す創価大学の国際交流」
第2日:「創立者の若き日の思索に学ぶ」
第3日:「平和学の学び方―創立者の平和提言に学ぶ―」
の3講座を受講しました。いずれもとても興味深く、新たな気づきもあり、楽しく受講することができました。

特に3日目の平和学の講義は非常に感銘を受けました。
講師は玉井秀樹助教授(平和学研究所専任)。私の同期で夏季大学講座は初めて担当したそうです。受講者は教室にいっぱいで開始5分前に到着した私は教室の後の席にやっと座りました。
講義は平和学の起こりから2回の世界大戦、東西冷戦、核開発競争、南北対立、そして9.11事件の時代の中でどのように変遷し「ピースビルディング」という志向性に至り、現在の平和学の主要テーマ、地球上に起きている紛争や貧困、病理の問題等々を資料映像を交えながらわかりやすく進められました。

後半は創価大学創立者である池田大作SGI会長の平和提言を通してその本質を探るというストーリーだったようですが時間的な制約もあって、たぶんその内容は来年の講座にということになるのかなぁと思いました。
一受講生として、来年以降も継続して開講されますよう玉井秀樹助教授並び創価大学関係者にお願いするものであります。
創価大学の建学の3モットーのひとつに「人類の平和を守るフォートレス(要塞)たれ」とあります。その具体的な学術的アプローチとしての平和学の更なる充実と発展を心から期待し支援をしていく気持ちで3日間の受講を締めくくりました。

《リンク》
第34回夏季大学講座

個人的なお誘いの案内等

2006.8.20【第17回桂冠塾を開催】
8月19日(土)に今月の桂冠塾を行ないました。
今回の本は『ロビンソン・クルーソー』(ダニエル・デフォー)です。
当日はデフォーの生涯、社会背景を概要確認した後に本編を学びあいました。

ロビンソン・クルーソーの物語はデフォーの思想を顕著に反映しています。それはデフォー自身が自分の考えを世に問うためにこの物語を著わしたことを明言していることからも明らかです。
時代背景は大きく「大航海時代から産業革命」「宗教革命」の2側面から見ていくことが必要でしょう。
物語としての大きな流れは
・経済的生活を組み上げていくロビンソン・クルーソー
・信仰人としてのロビンソン・クルーソー
の2つのストーリーが絡み合いながら構成されています。
一般的には1つ目の視点が取り上げられることが多いわけですが、当時のデフォーの言動や物語の全体像をみていくと2点目の信仰のあり方が最重要テーマとしているように感じられます。
当時もイギリスはキリスト教社会ですが、国教会を中心とした信仰のあり方に対して聖書を根本とする信仰のあり方を問うプロテスタンティズムが台頭していた時代でした。イギリスでは1642年にピューリタン革命も起きており、デフォーは父の時代からピューリタン(プロテスタント)の信仰を行なっています。

『ロビンソン・クルーソー』では「運命」という考えが随所に現れています。そこに描かれているのはキリスト教の説く運命論です。一言で言えば運命を決定づけるのは神であり、人は始めから決定している運命の中で穏やかにまじめに生きることがその使命であるとして、気が狂いそうになる状況も諦感によって避けて通り、孤島での生活をことなく終えることに成功します。
しかし果たして人生とは本来規定されているものなのでしょうか?私はそうは思いません。もし規定されているものであれば「より努力しよう」「もっと境涯を大きく、未来の子供達のために努力しよう」等々の思いをすべての人が持つことはありえなくなります。キリスト教的発想で言えばそうした思いも持つべき人は事前に決められているということになります。世界の歴史が証明するように、キリスト教徒は他宗教徒と戦争を繰り返してきたばかりか教派が違うキリスト教徒同士が戦争を続けてきました。先に述べた思想(選民思想)が根底にあることが争いの元凶といえるでしょう。

『ロビンソン・クルーソー』は小学生の課題図書にも取り上げられる作品ですが、多くの翻訳本では信仰者としてのロビンソン・クルーソーが描かれていません。宗教不在の現在日本の象徴であるとも感じました。

《当日の様子など》第17回桂冠塾実施内容

2006.8.5【黎明塾がスタート】
いよいよ経営塾の第2期がスタートしました。
第1回目のテーマは『起業と企業』。
なぜ企業経営を行なうのか。個人事業でできること、企業体として行なわなければならないことはそれぞれ何か。また企業に勤務する会社員としての使命と経営者としての使命はそれぞれ何か、またそれは違うのか。
そうした問題意識を明確にすることをひとつの目的としました。

第1回の内容は黎明塾全会合を通じて意識してもらいたいことであります。
その意味では時間的にも思考の熟成という意味でも手応えの少ない回だったと思いますが次回以降に必ず活きてくるテーマであると考えています。

《当日の様子など》第1回黎明塾

2006.7.26【中国京劇院の公演を鑑賞】
昨日25日(火)文教シビックホールで行なわれた中国京劇院の来日公演を鑑賞してきました。
今回のテーマは『三国志−諸葛孔明−』です。
京劇の芸術性と三国志、諸葛孔明の物語と相まって素晴らしい舞台でした。

休憩を挟んで2時間の公演はあっという間!もっと見ていたいというのが終了後の感想でした。
最小限度の舞台道具と独特の化粧、そして煌びやかな衣装の数々...。
中国芸術の至宝といわれる京劇の一端をじかに感じることができたような気がします(ちょっぴりだけ^^)。

京劇の男性役の化粧には大きく分けると
1)顔に隈取りをしない「生」
2)顔に隈取りをする「浄」
3)道化師役の「丑」
の3つがあるそうです。隈取りをすると微妙な感情表現が難しいからなのでしょうか、感情を表すシーンでは指先を震わせて表現していたのが印象的でした。

諸葛孔明のせりふの中で何度か「天命」ということが出てきました。三国志を貫く大きなテーマのひとつであるように思います。
「人事を尽くして天命を待つ」
「天命が尽きる」...
この時代の人が言う天命とは現代の私たちが日常語で使う天命とは微妙にニュアンスが違うように感じます。そこには諦めが感じられないと私は思いました。その後の中国においては必ずしも正義が天命を受けたとは言いがたい歴史があったように思います。天命ということを考えながら「阿Q正伝」を書いた魯迅が自分たち中国人民を自虐的に批判したことを思い起しました。

舞台を盛り上げる楽器の生演奏も圧巻でした。芸術的な評価は素人の私にはわかりませんが(^_^;)心に残る舞台は本当に素晴らしかったです。

《関連リンク》
民音・中国京劇公演
民音・中国京劇「三国志」公演プロモーションビデオ

2006.7.23【第16回桂冠塾を開催】
昨日7月22日(土)に今月の桂冠塾<読書会>を開催しました。
今回取り上げた本は『辛酸(しんさん)』。城山三郎34歳の時の作品です。

サブタイトルに「田中正造と足尾鉱毒事件」とあるように1890年代に社会問題化した足尾鉱毒事件(問題)にその生涯を捧げた田中正造の最晩年と彼亡き後の谷中村残留民の抵抗運動、生活の様子が淡々とした筆運びで書かれた作品です。

当日の様子などはこちら↓
http://homepage2.nifty.com/prosecute/activity/theme02-16.htm
に掲載しますのでご覧いただければと思います。
当日は代々埼玉県側で農家を営んでいた末裔の方も出席されており、作品に書かれてない祖父祖母から語り継がれた田中正造の姿等など紹介されました。現在では渡良瀬遊水地として関東有数の自然環境を誇る一帯にこうした歴史があることに大きな衝撃も受けた人もおられたことと思います。

田中正造の事跡についてはいまだ賛否両論があり様々な書籍も発刊されています。正造の極端な言動や過大な表現等も評価の分かれるところです。科学的な根拠に基づいていない妄想的な発言や因果関係の特定や明らかな年代認識の誤りがあったことは事実です。
しかしそうした人間的な過ちや弱さを知ったあとでも田中正造の行動の評価が揺るぐものではないと私は感じています。

その意味では極端に神格化することなく「人間・田中正造」を素直に評価するべきであると言いたい。
当日も大きなテーマのひとつになりましたので桂冠塾のページにも記載しようと思いますが、田中正造を賞賛する対極に「さほど評価に値する人物ではない」という主張があります。今回の開催に当って双方の主張をいくつか調べました。田中正造の人生はすでに確定しているにもかかわらず、見る人の視点によってこうも評価がわかれるものかと非常に考えさせられました。

最後に「足尾鉱毒事件は脚本・演出・主役田中正造によるお芝居」と断定する暴論があることについて触れておきたい。
あきれてものが言えない。私は今回この本を購入して読了したが、筆者は現存するデータを分析するということが全くわかっていない。現状(事実)認識ということを一から勉強し直ないと文章を書く資格がない人物だと言われて致し方ない駄文だ。この本がネットを検索すると出てきてしまう。出版した出版社の見識も疑わざるを得ない。俗悪な文章は社会悪だ。
もちろん買って読む必要はないが興味のある方は図書館で借りて読んでみるといい。多くの方は私が言っている意味が理解できるはずだ。

「良書を読む条件は悪書を読まないことだ。人生は短く時間と力には限りがあるからだ」(ショウペン・ハウエル)
 「悪書など読むな。 どこに救世の信念がある?ただの商売ではないか。読めば読むほど自分を腐らせるだけだ」 (巴金)

2006.7.21【全国で集中豪雨被害が発生】
例年にない梅雨前線の停滞のためか全国で記録的な集中豪雨の被害が発生しています。私も縁故のある長野、岡山、熊本などでも死傷者があり今もまだ雨による危険な状況が継続しています。今回とくに土石流による被害がめだつようにも感じます。被害にあわれている皆様の一日も早い復旧を祈念してまいりたいと思います。

地球上の水の総量は一定で増えたり減ったりしない。エネルギー物質は不変であり完全循環をしている。どこかで水量が過剰に集中すれば別の地域ではその分が減少する。そのバランスが崩れなければ適切に変化循環する法則が成り立っています。
しかし昨今の自然環境のリズムは正常に動いていないことはこの夏の集中豪雨を見るだけでも明らかです。
「どのような化学的、物理的な因果関係」で集中豪雨が起きているかは結果を分析すればある程度判明する。しかし重要なのは「なぜ今この時点で、この場所で」こうした災害が起きているのかという「生命論的な因果関係」が解明されない限り、根源的な解決には至らないのではないか。

物事は偶然に起こることはない。必ずその原因があり必然としての結果があるとするならば私達の思索と行動はまだまだ突き詰められていない。

2006.7.19【陸上自衛隊サマワから撤退完了】
イラク復興支援特別措置法に基づいて行なわれていたサマワでの支援活動。17日午後(現地時間)日本の陸上自衛隊が完全撤退を完了した。
無事故での撤退は至上命題。どの分野での作戦業務でもそうだが勢いのある攻撃の局面に加えて、最終局面の撤退(クロージング)の困難さはその作戦業務の成否の最重要要件である。

賛否が渦巻く中ではじまった自衛隊のイラク派遣。2年半の活動。撤退の準備は1年余り前から準備されたという。陰で見えない準備の出来栄え次第が成功の因といえよう。おそらく陽の当ることのないスタッフの皆にも感謝の気持ちを伝えたい。

国内の世論は思いのほか(というか予想通りというか)大きな反響は起きていない。自衛隊がPKO(国連平和維持活動)に参加してすでに10年余り、今回のイラク復興支援特別措置法による復興支援から2年半。国際情勢の大きな変化の中での帰還である。
平和の維持とは何か。その本質は何か。絶対に譲れない根本は何で、臨機応変に対応すべき事項は何であるのか。その判断が個々の庶民が行なえる資質を成熟させる時期が来ているように思える。

武力行使からは何も生まれない。しかしそれを金科玉条のように唱えているだけでは現状は何も変わらない。
私達は「行動する理想主義者」でなければならない。
どこまでも一人を大切にした対話を続ける。と同時に目下の課題に敢然と立ち向かっていく。
しかしその判断基準は非常に難しい。一歩間違えば机上の空理空論になり、また正反対に暴理暴論にもなりかねない。
どこまでも生命尊厳を絶対とした実践哲学が不可欠である。

2006.7.15【盂蘭盆の季節】
7月も半分が過ぎました。各家庭や職場では「この夏はどこに行こうか」等の会話が聞かれる時期でもあります。
日本では今日15日と来月15日は盂蘭盆(お盆)として故人となった先祖家族、知人等の冥福を祈念する慣わしとなっています。これは仏教の追善回向の考えが基になっており生の生命が終えた先を「彼岸(ひがん)」と表現した教典があることから「彼岸会(ひがんえ)」「お彼岸」とも呼ばれ、そうした諸霊の冥福を祈る行為を「追善回向(ついぜんえこう)」と呼んでいます。

元来「追善回向」とは、生きている私たちが行なった善行の功徳を故人にも回し向けるという意味合いの生命法則を指しています。その意味では特定の日に経文を唱えるだけでは本当の意味での追善回向はできるわけではありません。
生命を貫く生命リズムを自ら涌現し、身勝手でないだけでなく自他共の幸福を願い行動することこそが本当の意味での盂蘭盆会(お盆)を迎える意義があると思います。生ある私たちがより価値的な、意義の大きな人生をおくることが最も重要と言えます。

またある経典では「最高の生命境涯の人生は自分自身のみならず出会った人々という空間的な広がり、先祖から子供、孫の先の子孫までという時間的な広がりに及んで生命リズムを伝えていくことができる」と記述されています。
お盆のこの時期を一人一人が自分自身の生き方を検証する契機にしていきたいと思います。

2006.7.4【公明党・太田昭宏幹事長代行の話を聞く】
今夜、公明党の太田昭宏幹事長代行の話を聞く機会がありました。

民主党の小沢一郎代表が中国で胡錦涛国家主席と対談していることに触れながら、今年最初に胡錦涛氏と対談したのは超党派議員団を含む7団体合同訪中団であったこと、その団長が先日逝去された橋本龍太郎元首相だったこと、胡錦涛氏に「反日」と「嫌中」を悪化させないためには青年の交流こそが大切であるという一点で合意したこと、中日友好の功労者への伝言を公式に託されたことなどを話されました。

そして今の日本の課題は「外交」と「少子高齢化社会へのシフト」であることに言及。公明党に対して「すきま産業みたいな政策ばかり」とか「与党に相乗り」等の批評を聞くことがあることについても触れ、旧態依然とした手法の政治家に対して土俵に上がって真正面から前褌を取って真剣勝負をしているのは公明党しかいないとの主張には、マスコミ報道よりもはるかに説得力がありました。

土俵に上がらずに観客席で言いたい放題になっている報道バラエティ番組がもてはやされていないか、耳障りの良い言葉とパフォーマンスに気分で投票行動に出ないよう庶民は常々心するべきではないか。
1時間にわたる弾丸ライナーのような(^_^;)興味深い話の連続で骨子だけさえも書き切れませんが、「ゆりかごから墓場まで」数々の施策は各世代で何に対して政治が支援するべきか考え、偏りなく、無駄もなく、しかも切れ目なく有機的に相互に関係しあっていることを多くの施策をあげながら話を伺いました。実際の生活を変えてきたのが公明党ではないかとの太田幹事長代行の話に素直に共感しました。

2006.6.25【黒い町】
6月24日(土)14時から第15回桂冠塾を開催しました。
今回のテーマはジョルジュ・サンドの『黒い町』です。1860年に雑誌への掲載が開始され1861年に単行本として発刊されましたが、あまり話題にならなかったのか注目されたのは100年余り経過してからだと言われています。
当日は練馬区の貫井地区区民館をお借りしました。駅からも近く、まわりも静かでとてもよい環境です。
当日は4名と少ない人数での開催で少しさびしいかなぁという感もありましたが(^_^;)作品の読み方感じ方がそれぞれ正反対という方が揃って興味深いディスカッションにもなりました。

作品に書かれているテーマを考えていく上で重要だと思われる点が少なくとも2つあるように私は思います。
ひとつは空想的(ユートピア)社会主義とアソシアシオン(社会的協同組織)論。そしてもうひとつは産業革命です。
1点目については少しディスカッションできたのですが2点目の産業革命については時間の都合であまり話せなかったのが少し残念でした。

ディスカッションのテーマなどは↓
http://homepage2.nifty.com/prosecute/activity/theme02-15.htm
をご覧下さい。

2006.6.22【北海道夕張市が財政再建団体指定申請へ】
6月20日の市議会で後藤健二市長は自主再建の道を断念し、財政再建団体指定の申請を行なうことを表明した。
その昔、全国一とも言われたほどの産出量を誇った夕張炭鉱。そこで働く労働者は最盛期で12万人を超え労働組合は国会議員を出す力をも有していた。その勢いから「泣く子も黙る炭労」と言われた。

現在では人口は最盛期の10分の1激減した。夕張市が抱える借金は600億円。市の財政の13倍を超えているという異常さだ。しかし平成17年度の決算を含めて毎年黒字決算になっているため実際の申請は来年度になってからだという。これも二重三重の意味で異常だ。

毎年の決算期に一時借入金として金融機関から借り入れて黒字決算にしていたという。そんな単純なことがどうして見破れないのか?監督関係にある北海道が本当にわからなかったとはどうしても思えない。本当にわからなかったというなら監理能力は皆無だ。

国の管理下に置かれたからといって即座に財務内容が好転するものではない。無駄な経費を削減することから着手することは容易に予想できるが、問題は経費削減後の次の手をいかに適切に講じることができるかどうかだ。
企業再建の本当のプロの登場を期待するしかないだろう。

この世の栄華を極めた感のある夕張炭鉱。その衰退の真の因がどこにあるのか。そこに思いが至らなければそこに住む人々の真の幸福は望めないのではないだろうか。

2006.6.21【イラクからの陸上自衛隊の完全撤退へ】
陸上自衛隊のイラクからの撤退が正式に発表された。
振り返ってみるとイラク派遣が始まってから約2年半が経過した。日本の自衛隊の持つ復旧支援能力は世界的に高度で現地で有用であることも充分に立証されたという意味では世界的な貢献は高かったと言えるだろう。

その一方で現地での活動は他国軍隊の庇護下で行なわれた事実も認識しなければならない。撤退は今後1ケ月半をかけて行なわれるとのことだが無事故で完了することを祈りたい。

他国からの支援活動は自ずから限界がある。今後のイラク和平は「今ここにいる」庶民の力で成し遂げるしかない。しかし他国に住む私達も祈っていくことは可能である。自他共の幸福を成し遂げるために生命の底からの祈りを続けていきたい。

2006.6.19【雲上の理想郷・岩手県松尾鉱山跡の廃虚群が推薦産業遺産に】
岩手県松尾鉱山跡が産業考古学会の推薦産業遺産に認定されたことが報道されている。
かつてその福利厚生の手厚さから「雲上の理想郷」と称された海抜1000mの硫黄産出の炭鉱町の跡で、既に廃墟と化しているとのこと。鉱山跡からは今も毎分24トンの強酸性水が流出しつづけており、その排水の中和処理に多大な予算が投入されている。

高度経済成長時の負の遺産はあまりにも大きい。多くの地域で清算が終った感があり若い世代にとって実際に目にする機会はさほど多くない。その意味でも松尾鉱山跡のような存在は貴重になりつつある。積極的に遺していこうというような意図した結果ではないだろうが、社会常識というものがいかにあやういものか実感するためにも現地に行ける人は出向いてみるのもいいのではないだろうか。

NHKテレビが映像保存のために始めたアーカイブス事業の映像を見た際に受けた衝撃に似たものを感じた。

《関連リンク》
産業考古学会
旧松尾鉱山坑排水事業の概要
武蔵野工務店・廃墟の写真<松尾鉱山>

2006.6.18【ビルゲイツの引退表明】
ビルゲイツが2008年6月を目途に収益事業の分野から順次引退することが報じられた。今後は自ら設立した財団の事業に注力するという。
高校生の時に最初の会社を起業し、ポール・アレン、スティーブ・バルマーらとMicrosoft社を創業し現在の繁栄を築いたことは広く知られている。
現在50歳。巨万の富を築いた後にも働くことをやめないビルゲイツの行動は経済学の常識を覆したともいわれることがある。彼を突き動かしている原動力は何に起因しているだろうか。そして事業をここまで拡大させたその要因を考えさせられる。
今後も更なる活躍を続けていかれることだろう。

《関連リンク》ビルゲイツ(ウィキペディア)

2006.6.14【シンドラー社製のエレベータ事故の報告が相次ぐ】
シンドラー社製のエレベータによる死亡事故から一週間が経った。この間、同社製のエレベータ事故の報告が相次いでいる。大きな企業犯罪の観を呈している。
エレベータは巨大な機械装置だ。暴走したら人の肉体など微塵に砕かれてしまう。その脅威は自動車の比ではない。そんな凶器の一面を持つ巨大装置を扱っているという危機意識がシンドラー社からは何ら伝わってこない。これが世界第二位を誇るエレベータ製造会社だ。企業の社会的責任感の欠落は指摘されて久しいが「シンドラーよおまえもか」という声が聞こえてくる。

社会としてはシンドラー社を消滅に追い込むのは必然であると思うが、こうした社会犯罪の温床はいたるところに潜在する。私達はどうやってこれを見抜き、家族の安全な生活を確保すればいいのか?

言い古されたように感じるかもしれないが「自他共の幸福を願う一念」の喚起であり「慈悲」の気持ちを広げることにつきるように思う。
そしてその根底は「生命尊厳の哲学の実践」ではないだろうか。

各地でエレベータの異常が報告された場面場面でシンドラー社(及びメンテナンス会社)の社員一人一人が、自他共の幸福を願っていたか、慈悲の思いがあったか、そして生命尊厳の行動に徹しようと思ったか...。

直接関係あるのかないのか私は知らないがこの社名を聞いて『シンドラーのリスト』を思い出したのは私一人ではないと思う。
杉原千畝さんも想起させるシンドラーの行動は、生命尊厳の信念が突き動かしたものではなかったか。
間違いを犯した者を責めることは必然だ。しかしその元凶は私達の生命の奥底にもある。

我がこととして、今いる場所で目下の課題に取り組んでいきたい。

2006.6.13【サッカーワールドカップ・日本初戦に完敗】
日本代表が負けた。この話題はここかしこで持ちきりなのであえて書くこともないのだが、がしかし、である。
最後の10分間の怒涛の失点は何を物語っているのか?確かに戦犯探しをするのは潔くはないし誰かをスケープゴートにして済まされる問題でもない。
それでも、しかし、なのである。
1ケ月前の5月16日の日記にも書いたが、ジーコの負う責任はあまりにも大きい。監督としての手腕があるのか、これまでも何度か指摘してきたことでもある。それが最後の10分間に凝縮されている。
ジーコが選手を交代させるたびに日本代表のフォーメーションは崩れ、力は劣化していった。これほど稚拙な采配は98年以来みたことがない。
負けるべくして負けた。
これが多くのサポータの気持ちではないだろうか。
3戦の最後まで希望を捨ててはいけない。
しかしドイツワールドカップの戦いは、間違いなく終った。

そして日本代表に4年後はあるのか。
1ケ月前の言葉を繰り返す。
『ジーコの罪は重い』

2006.6.12【人間関係が希薄になりつつある→80%】
読売新聞が5月13,14日に実施した読売世論調査の結果が発表されている。
同様の時系列調査は2000年7月に行なわれており、約6年間の変化が掲載されている。
人間関係が希薄になりつつあると思うかとの質問に、80%の人が「そう思う」と答え、「そうは思わない」という人は19%だったという。またその傾向は都市部で高いが、この6年間での伸びは中小規模都市や地方の町村で大きく、全国的に同様の傾向になりつつあるという。
  そう思う 前回比
全体 80%  
中都市(東京23区,政令市除く人口10万人以上) 81% +6 point
小都市(人口10万人未満の市) 80% +10 point
大都市(東京23区と政令市) 78% +3 point
町村 75% +6 point

そう回答した理由について
「人と接するのをわずらわしいと思う人が増えた」が49%と最も多く、次いで「人の立場を理解できない人が増えた」との回答が48%である。

こうした傾向は日常の中でも痛感することが実に多い。意思が通じないのが当たり前になってきた感さえある。
私もここ1ケ月ほどの中で立て続けに上記傾向、特に「人の立場を理解できない人」の増加を証明するかのような場面に連続して遭遇している。相手がクライアント(依頼者)であることを最大限考慮しても「あれほど繰り返し考えを伝えたじゃないか」「そのやり方で納得したんじゃなかったの?」と怒鳴りたくなるような状況すらある。
こうした人達には何を話しても通じないことが多い。理路整然とした論陣など無意味だ。要するに自分自身の意見が通るか通らないかが最大の関心事であり、検討会といっても打合せといっても自分達の要求を伝える場でしかない。そこには切磋琢磨、自己啓発という言葉はあってもその実態はない。協働なんて概念は空論にすぎないだろう。

しかしそうした状況下で生活していくのは他ならない私自身である。
「人の立場を理解できない人が増えた」環境に身を置くのことを運が悪いとか環境のせいだと言っていても何の解決にもならない。
「ピンチをチャンスに」「逆境こそ飛躍の源泉」である。
こうした環境下に追い込まれていることを冷静に分析し真の要因を特定し、具体的な解決策を立案し、確実に実行していく。
これが人間関係が希薄になったと言われる現実社会で生きていく私達の使命であると痛感する毎日だ。

しかしクライアントとはよく言った表現だ。「患者」の意味があるこの言葉。病んでいる現代社会の象徴かもしれない。

《関連リンク》読売新聞2006年6月1日付記事

2006.6.5【第22回龍馬塾を開催】
先日6月3日(土)に月例の龍馬塾を開催しました。
今回で22回目となりましたが、座長を務めた上津守さんの意向で今回で一区切りをつけることになりました。当日初参加したメンバーもいたので少しびっくりされたかもしれません(^_^;)
今月までを第一期として修了とし、毎回のテーマ等も再構築して来月から新規に第2期としてスタートする予定で詳細を検討しております。内容等は決定次第お知らせさせていただく予定です。また御興味のある方はぜひご参加いただければと思っております。

2006.5.30【昨今の不祥事】
このところ不祥事といわれる類いの事件が相次いでいる。
芸術選奨文部科学大臣賞を受賞した洋画家和田義彦氏による盗作疑惑の発覚、各地の社会保険事務局による国民年金保険料の不正免除問題などがその最たる事象だ。

個々の事件の説明を行なうにはいささか日数も経過しているので感じることを一言。

悪しき行為は糺していかなければならない。その意味で、個々の不祥事に怒りを爆発さえる気持ちは純粋で必要なことである。しかしその次元だけで終らせてしまったら何も解決はしない。
あわせて重要なことは、こうした不祥事を再発させない努力だ。そのためには事件の根源にある真の要因を探り出し対策を講じることだ。
一連の事件を俯瞰して感じることは、すべての鍵は人としての生命の在り方に起因するというのが率直な実感である。

2006.5.29【第14回桂冠塾を開催】
先日27日(土)に月例の桂冠塾(読書会)を開催しました。
今回取り上げた本はメーテルリンクの『青い鳥』です。
ほとんどの方が幼少の頃に一度は聞いたことがある作品だと思います。文庫本でも出ていて文章量としても比較的読みやすい短編だと思います。取り上げた理由も短くて読みやすだろうというのが主でしたが(^_^;)実際にはとても重要なテーマを取り扱っています。

6幕12場で構成される戯曲『青い鳥』は1908年に発表されています。その3年後にあたる1911年にメーテルリンクはノーベル文学賞を受賞していますので、当時すでに『青い鳥』の評価も高かったものと推察されます。

『青い鳥』に象徴されるように「生死」はメーテルリンクにとって人生最大のテーマだったようです。今回参考文献として読んだ『死後の存続』(原文題名『死』)がカトリック教禁書となったのはよく知られている事実ですが、この著作は禁書にするような内容ではなく非常に真摯に死についての考察が行なわれています。あえて禁書になった理由を探せば、キリスト教徒を含めた宗教者を引き合いに出して既存の信仰が死の恐怖には何の役にも立たないと述べている点か、交霊術の真贋を記述している点か、もしくは宇宙意識の存在を論じている点でしょうか。
しかしいずれも決して的外れな指摘ではありませんので、禁書にしたことでキリスト教自体がその限界を露呈していると言えるでしょう。

死後の生命はどうなるのか?メーテルリンクの提示したテーマを考えるためには様々な生命論を検証していくことが必要です。
中でも生命論を体系的に著わしていると評価されているのが「法華経」です。「法華経」はインドの釈尊が生涯の集大成として語った説法を、彼の死後に弟子達がまとめた、実践的生命哲学と呼ばれる一書です。

今回は特に死後の生命と宇宙生命との関係について述べている「如来寿量品第十六」の解説を中心に、「断見」と「常見」の論理的破折などを通して、メーテルリンクの突き詰めようとした死後の存続について語り合いました。
生命をテーマに語り合った経験のない参加者もいましたが、生死や臨終を真摯に考えることで生きていく目的の重要性を認識する大切な機会とできることを参加者の一人一人が思い至ったように感じました。

ディスカッションのテーマなどは↓
http://homepage2.nifty.com/prosecute/activity/theme02-14.htm
をご覧下さい。

2006.5.19【沖縄特別自由貿易地域】
昨日沖縄県東京事務所に勤務する知人と会った。
今年4月に転勤で赴任してきた沖縄県庁職員の旧友である。現在彼が担当している沖縄県への企業誘致の話を聞いた。

沖縄県の企業誘致の柱は
@製造業
A情報通信産業
B金融業 の3本らしい。昨日は製造業と情報通信産業についての施策を聞いた。各県とも地元への企業誘致活動は活発らしい。
正直驚いた。
事業拡大を考えている企業にとってかなりの好条件が用意されている。

詳細はまた機会を設けて紹介したいと思うが特に興味を引いたのは
・沖縄特別自由貿易地域
・沖縄県情報ハイウェイ の2点だ。

情報産業系にとって有利な環境が整っていることは比較的知られていると思うが、製造業企業が1500u規模の賃貸工場物件を年間900万円で借りられることをご存知の人はさほどいないだろう。
これから事業を拡大したい中小企業にとって1500uの賃貸家屋は手頃な大きさだ。他県の工業団地等の例ではこの規模ではなかなか魅力的な物件は見当たらない。

加えて日本唯一の自由貿易区域。保税地域の指定を受けているためアジア地域との輸出入に有利であるほか、東アジア地域に持っている工場を撤退して沖縄に移転するメリットも生まれてくる。
加えて5〜10年にわたって法人税、地方税が優遇される措置もついている。

さらに忘れてならないのは沖縄振興の様々な施策だ。
沖縄は日本で最も失業率の高い地域だ。特に若年層の未就業率はダントツに高い。未来を担う世代の県外への流出も大きな悩みだと思う。

米軍基地の問題もある沖縄。日本の軍国主義の犠牲ともなった歴史を背負う沖縄の発展は私たち世代の使命でもあるように思う。
沖縄を世界平和発信地にするためにも、活力ある経済基盤の推進をわずかながらでもそれぞれの立場で取り組んでいきたい。

《関連リンク》沖縄県ホームページ
       沖縄振興特別措置法のあらまし
       沖縄自由貿易地域について

2006.5.16【ドイツワールドカップ日本代表メンバー23名が決定】
ワールドカップ日本代表メンバーが発表された。
様々なメディアで報道されるので詳しくコメントする必要もないと思うが、それでも一言だけ触れておきたい。

「わくわくしない」
これが私の本音だ。もともとサッカー少年である。
中学生の頃からお正月に行なわれる国立での高校サッカーの決勝戦が楽しみだった。Jリーグの開幕もよく覚えている。川淵チェアマンが輝いて見えた。韮崎高校時代の中田ヒデも映像でみていた。過去のワールドカップはいっぱしのサッカー解説者になりきっていた。アイコンタクトに感激し、加茂監督に憤慨した。岡ちゃんに喝采を送り、中村俊輔の代表落ちに心から落胆した。トルシエ更迭論が噴出した際には真剣に議論に加わった。いろいろなことがあっても4年毎のワールドカップが待ち遠しかった。

しかし、である。
この4年間、何か私達がわくわくしたことがあったろうか。日本代表として成長し続けてきたものがあっただろうか。ジーコ自身が育てたものがあったのだろうか。いやあえて言おう。ジーコ自身が成長しているのだろうか。
長の成長なきところに組織の成長はありえない。
自然の摂理である。

もし一次リーグを突破したとしてもそれだけでよいのか。日本代表はまだまだ国際レベルではない。それだからこそ日本国民は持続して成長し続ける、勝ち続ける日本代表を夢見ているはずだ。
今回ドイツワールドカップを担うべき人材は他にいた。
そしてその彼らが4年後のワールドカップを担うはずなのだ。
果たして今回の23名の中で4年後のその舞台に何人が残っているだろうか...。

ジーコの罪は重い。そしてその功罪は4年後に明白になる。

《関連リンク》Yahoo!News「一目でわかる日本代表23人」

2006.5.15【平和への大道展・池袋サンシャイン今日まで】
池袋サンシャインで行なわれている『平和への大道展−心と心をつなぐもの−』の展示会が11日(木)から本日まで開催されている。
私も13日と14日の両日、鑑賞させていただいた。
両日とも雨が降ったりやんだりで一日の気温差が激しかったせいもあって会場内外で汗をかいたり寒くなったりだったが(^_^;)実に多くの方が鑑賞に訪れていた。

会場内にはSGI(創価学会インターナショナル)と池田大作SGI会長の活動の足跡をパネル、記念品、作品等を中心に展示されていた。世界各国、各地からの最高級の顕彰が相次いでいることに改めて驚嘆する。それとともにこうした出来事が日本国内でマスメディアで報道されないこと、国内からの顕彰がほとんどないことに日本の精神性の未熟さを重ねて情けなく感じた。

展示のひとつを紹介。
キューバのカストロ議長。いつも軍服姿の彼が公式の場で初めてスーツを着たのが池田大作SGI会長を迎えた時だったことを知っていましたか?その姿はテレビの電波に乗ってキューバ中に流され大きな反響を呼びました。

一緒に鑑賞していた友人の一言が印象的だった。
「理屈じゃないですね。これだけのことをやってきた団体、個人が他にあるのか。事実を直視すれば誰にでもわかることです」

※新宿展あり。
期間:5月31日(水)〜6月5日(月)
会場:小田急百貨店新宿店(本館11階)

2006.5.14【湯川スミさんご逝去】
本日午後、湯川秀樹博士のご夫人であった湯川スミさんがご逝去されました。享年96歳。
日本人初のノーベル賞に輝いた湯川秀樹博士を陰でささえ、1981年に博士が逝去された後、博士の悲願だった核兵器廃絶の遺志を受け継ぎ、平和運動を展開しました。女性としての立場で平和を守り育てる平和運動を志向し背筋を伸ばし「いいものはいい、悪いものは悪い」と淡々と語る姿には微塵も私心が感じられない方でありました。
心より追善回向を申し上げます。

2006.5.13【第21回経営塾を開催】
月例の経営塾を池袋で開催しました。
今回のテーマは「新会社法における法人設立」。今月(5月)から新しく会社法が施行されました。以前の回でも会社法を取り上げているのですが今回は実際に新しく株式会社を設立する手順と留意点を講義しました。

《関連リンク》21世紀経営塾

2006.4.30【ガルブレイス博士ご逝去】
20世紀を代表する著名な経済学者ジョン・ケネス・ガルブレイス博士が4月29日逝去された。享年97歳。天寿を全うされました。
博士の名著『不確実性の時代』は一世を風靡した。この数年は次代をになう後継者の育成のために様々な提言を行なってきた方でした。最晩年の著作として池田大作SGI会長との対談集『人間主義の大世紀を』はその集大成です。

「技術とは人間の幸福を実現する技術であり、武器である」
「経済を動かすには、人間を鍛えることです」
「良識の人間を育てなければなりません」
「経済学者として、わずかでも人間の幸福に貢献したい」

まさに激動の20世紀を駆け抜けた巨人でありました。心より追善申し上げます。

《関連リンク》『人間主義の大世紀を』

2006.4.23【弟13回桂冠塾を開催】

昨日22日(土)に今月の桂冠塾を開催しました。
今月取り上げた書籍は『上杉鷹山』。童門冬二さんの作品です。
参加者はぐっと少なくて3名でした(^_^;)
会場は中央区の施設をお借りしました。
とてもきれいでゆったりしてていいですね(*^_^*)

当日の様子などはこちら↓
http://homepage2.nifty.com/prosecute/activity/theme02-13.htm

5月は27日(土)に開催します。
取り上げる書籍はメーテルリンクの『青い鳥』です。

《関連リンク》桂冠塾の概要

2006.3.23【本当に実在するのか『情報仲介者』】
昨日22日の衆院懲罰委員会に出席した衆院議員の永田寿康氏の弁明内容を聞いてあきれた。この人間は何を根拠に国会答弁を行なったのだろうか?結局、情報提供者とされる「元記者」の身元すら明かさなかった。永田氏に元記者の素性を秘匿する義理も必然性もないにもかかわらず、なのにだ。
民主党は明日24日の懲罰委員会で実名公表に踏み切る意向だと報道されているが、あえて言っておきたい。

情報を提供したという「元記者」は本当に実在するのか?

2006.3.10【かつては期待していた民主党の末路】
ある友人に聞かれました「この日記を読んでて思うんだけどHATAさんは民主党が嫌いなの?」
答え「好き嫌いではない。いい加減な政治家(とそのパーティ)は徹底的に叩かないと存在自体が社会悪になる」。

元々私は民主党の誕生を歓迎した一人だった。当時の私の発言を知る親しい友人の中にはよく記憶している方もいると思う。日本にもやっと政策で判断できる政党が誕生したかと非常に期待した。市民活動をしている一般市民と定期的にワークショップを開いていたのも民主党の若手議員だった。他党も民主党議員の地道な活動に見習うべきだと提言したこともあった。

だからこそ、その後のその場しのぎの浅薄な民主党の軌跡が許せないのである。結党当初こそおとなしくしていた労組に依存する旧態依然とした議員が幅を利かせている。若手議員は地道に庶民の生活に入って政策を練り上げる努力を続けることができず、哲学を持つこともなく毎回パフォーマンスに走る。選挙違反はもとより、暴力事件、覚せい剤使用、淫行事件、デマ発言等々、人として許されない事件を起すとその殆どが民主党議員だ。朝令暮改など日常茶飯事と化してしまった...。

これらのことは確かに民主党だけの問題ではない。他の党にだってどうしようもない議員はいる。しかし政党としての自浄能力はそれぞれが有しているのではないだろうか。
今回の堀江メールの対処に象徴されるように今までの数々の事実が、個々の議員の暴走にとどまらず、立場が違えば平気で180度違うことを言ってしまうのが民主党の実態であることを満天下に暴露している。
こんな議員集団に誰が政治を任すことができるだろうか。良心ある議員は今一度、議員としての存在価値を問い直してほしい。今の民主党は村山政権時のかつての社会党を髣髴とさせる。このままではおそらく同じ道を歩むことになるだろう。

2006.3.9【堀江メール問題・あきれる民主党の発言】
今日の各メディア報道で、衆院懲罰委員会の理事会で民主党永田寿康衆院議員への懲罰を協議し、与党は永田氏にメールを仲介した元記者の参考人招致を要求したが民主党はこれを拒否したことが伝えられている。
民主党の拒否理由を聞いてあきれた。曰く「委員会は事実解明の場ではない」(毎日新聞)。こんなことを言ってしまっては、民主党は今後委員会では事実解明の追及はできないことになることに気がつかないのだろうか。

民主党の前原誠司代表は今月3日、問題のメールを持ち込んだ元記者とされる仲介者は「守るべき立場の人ではないと判断するのは当然。名前の公表を含めて検討したい」(時事通信)と報道陣相手に語っていたが、わずか6日前の発言にも責任がとれないようでは政治担当能力どころか社会人として失格だ。

2006.3.3【壊れる日本人】
先週2月25日(土)になりますが読書会【桂冠塾】を行いました。
月1回の開催を重ねて11回になります。今月は柳田邦男氏『壊れる日本』を取り上げました。
詳細はこちら→ 桂冠塾第11回実施内容

柳田氏はノンフィクション作家として評価を得たといえると思います。その一方で彼自身が書いているように作品ジャンルがエッセーにシフトしています。行き詰まりを感じたノンフィクションという表現方法の根底にある過剰な事実主義に対するアンチテーゼとして柳田氏が選んだ手法が「潤いのある物語性あるいは神話的語りかけの方法」としてのエッセーのようです。

その意味ではまだ熟成されていない感もあり根拠の提示がない断定的な表現も見受けられます。そして最も重要な点として、この書物全般を通して原因と結果の転倒があり、それに気づかないことがこの書物の致命的な欠点となっているように感じられてなりません。この原因と結果の転倒が、納得のいかないなんともいいようのない後味の悪さになって残ってしまうのだと思います。

全般として現代の事象を切り口としてその深層に切り込もうとした柳田氏の思索のあとがよくわかる本です。「見えないものを見る力というものを、今ほど求められている時代は、かつてなかったように思う」との柳田氏の指摘には深く共感しました。
柳田氏が指摘する「他者の痛みを思ってもみない完璧なまでの自己中心の精神構造」を劇的に転換する方途が真剣に模索される時代になっているだと思います。

2006.3.2【国会議員は本業に戻れ】
民主党の永田氏がやっとメールが偽物だったことを認めた。この騒動によって国会の貴重な時間が浪費されたことに永田氏は心から真摯に受け止めてもらわなければならない。
本来であれば、堀江問題は経営者としての資質の問題だ。国会で議論追及すべき問題は他にもたくさんある。防衛庁の官製談合と天下り問題、耐震偽造、米国輸入牛肉問題も看過することができない。そしてなによりも数々の法案審議は立法府たる国会が果たすべき最重要課題だ。
そうした本来の職務をそこそこにワイドショー的興味が高い堀江事件を取り上げて衆目を集めようとする軽薄な意識がなかったか、永田氏をはじめ関係した政党は自らを反省しなくてはならない。
残された国会の会期を実りあるものにすることを切望する。

2006.2.25【堀江メールをめぐる報道の姿勢】
あるキー局の午前中の報道番組のコメントを聞いた。
そのトーンは「ここまできたら堀江メールの真贋を云々するのではなく武部次男と堀江との関係を解明すべきだ」という風にスライドしていた。多くの報道番組がそうなのかもしれない。

しかしそれでよいのだろうか?癒着の問題とは別にメール真贋の問題は明白に追及すべきだ。もし仮にもメールの信憑性がないままに永田氏が公的な場でこのメールを手段として騒ぎ立てていたとしたら、どのような捏造であれ正義のためなら許されるということになる。
また特定の個人団体を中傷攻撃しようとしてデマを騒ぎ立てたら国家権力が動いてしまうことになる。事情が異なるが、イラクを悪の枢軸とし核兵器開発疑惑をでっち上げて世界の軍隊をイラクに差し向けたアメリカのやり方と同様の構図があるだろう。

良識のないコメンテーターは公共の電波で発言を控えてもらいたい。

2006.2.23【堀江メールの真実】
この事件はあえて取り上げることもないだろうと感じていたので自分の中では放置していたのだが、党首討論まで持ち込まれる事態となったのでひとこと触れておこうと思う。

いうまでもなくライブドア・堀江氏から武部自民党幹事長の次男への振込疑惑を提起したのは民主党である。具体的には永田寿康氏。この人物は千葉県を地盤とする衆議院議員である。公共の場で個人を名指しして疑惑を取り上げたのであるから、その立証責任を負うのは当然である。
立証しないのであれば名誉毀損等の犯罪に問われることになるだろう。

国政調査権が云々いっているようだが、事実と考えうるそれなりの裏付けがなければ発動しないというのは常識的な判断だ。これが立場が逆で民主党議員やその家族に疑惑が向けられていれば、民主党の前原代表だって同様の判断(根拠が示されなければ国政調査権を発動しない)をするだろう。それとも根拠が提示されなくても国政調査権を使うのだろうか。
もしそのようなことが行われれば、悪意の中傷デマを撒き散らして騒げば国家権力が動くということになる。国民としてそのようなことを見過ごすわけにはいかない。
普通に考えれば、民主党、前原氏や永田氏の主張がおかしいことは誰にでもわかることではないか。

疑惑といって公的な場所で声をあげたのだから立証責任を果たせ。

すべての事態はそこから始まる。

2006.1.25【ライブドア事件の意味するもの】
ライブドアの堀江氏が逮捕され、取締役を辞めたことが報道されている。
そのこと自体はさほど驚くことではないが、今後の堀江氏の人生がどのように送られていくのかを注目してみるのがよいと思う。
もちろん今回の事件だけで終わることはないわけだが、同様の手法で復活しようとするのか、まったく予測のつかない想定外のビジネスを引っさげて再登場するのか?

ライブドアの1件をはじめ、耐震強度偽造、アメリカの牛肉危険部位輸出、少年少女を狙った事件など、昨今の相次ぐ事件は今の社会状況を悲しいくらい的確に反映しているのだと痛感する。社会という抽象的な言い方ではなく、個々人の生命の状態といったほうがより正確なのかもしれないとさえ思う。

そうしたなかで、一部国会議員やマスメディアではこうした事件の原因を政治問題化にするかのような論調が見受けられることに異論を呈しておきたい。
こうした一連の事件の原因を政治に求めるのは筋違い、というよりも単なるこじつけにしかすぎない。仮に政治が変わったとしても、一人一人の生き方、ひとつひとつの物事に対する取組む生命の姿勢が変わらない限り、何も解決の方向には向かわない。
全ては「誰が悪いか」ではなく「自分がどうするか」に帰結するものではないかと私は感じている。

年頭に当たって今年はどういう年かと考えた。
・個々人に光があたる年
・虚業や集団で動く時代ではなく派手ではないかもしれないが一人一人が堅実に弛まず一歩一歩前進を続けていく
そうした時代に入っていると感じている。

ある提言に紹介されていた昨今の少年少女犯罪を分析した柳田邦男氏の文章が心に残った。
「真の原因を現時点で突き止めるのは困難だが、究極の原因に極めて近いところにあると思える問題は、凶悪事件を起した少年のほとんどが、他者の痛みを思ってもみない完璧なまでの自己中心の精神構造になってきている」(『壊れる日本人』より)

2006.1.17【阪神淡路大震災から満11年】
今日は阪神淡路大震災から満11年。地震が起きた当時、私はまだサラリーマンをしておりました。

「大変なことが起きた」と感じつつも、どこか自分とは関係のない出来事のように感じている自分に気づき、切迫感のないいらだちを感じていたことを思い出します。
あれから一昔と言われる年月が過ぎました。果たして自分がどれだけ成長できたのか、何ができるようになったのか甚だ不満足ではありますが、不満を感じるだけでなく、一つひとつ今いる場所で、目下の課題に生きることが大切だと感じるようになった今日この頃です。

被災された方々そして御家族の皆様の更なる幸せを心よりお祈り申し上げます。

2005.01.05【謹賀新年】
2006年明けましておめでとうございます。
今年の正月は私の生まれた岡山で親子3人に私の両親、兄家族と揃って迎えました。関東地方は曇り模様だったようですが岡山は晴天に恵まれた正月を過ごすことができました。

本年は私にとっては幾重にも重要な節目の年となります。
現在のプロセキュートを創業して10周年。
社会人としての生活を始めてから20周年。
人生の原点を刻んだ大学入学から25周年。
両親に連れられて信仰に出会ってから40周年。
この1年をいかに意義ある充実の年にできるか。自分にとっての結果を出す1年にできるか。自身の生涯を決する1年にする決意であり、またそうなる1年であることを確信しております。

今まで支えてくれた全ての皆様に感謝しつつ堅実な発展を遂げる一年にしてまいります。

(最終です)

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