プロセキュートHATAさん日記
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2010年7月9日 (金)【口蹄疫問題対処にみる政治家の資質】
口蹄疫問題の全面解決に向けて、東国原知事が動いた。
殺処分勧告を唯一拒否し続けている民間業者宅を訪問。農場経営者である薦田長久さん(72)と話し合いを持った。その場で薦田さんは所有している種雄牛6頭を県に無償提供する意向を表明、東国原知事もこの種牛を「県有」とすることを合意した。
この合意に基き、宮崎県は国に対して処分回避の特例適用を求めていくことになる。

私は以前から種牛など末端で働く多くの庶民レベルの農業従事者に大きく影響する判断については、法律の元々の趣旨を勘案して弾力的に運用することを主張してきた一人である。
5/24付ブログ「口蹄疫問題で種牛49頭の殺処分発表 他の選択はできないのか」

その意味からも、今回も東国原知事の行動を支持したい。

山田正彦農林水産大臣は「法律、法律」というが、まずは本来的にどうすべきなのかを吟味すべきではないか。そのうえで現行法が諸事情を充分に勘案していないとなれば後日修正を行なうべきであり、直近の問題として法律運用で適法に処理できる方途を探るべきである。

なぜ東国原知事と山田農林水産大臣とで、こうも次々と主張判断が対立するのだろうか。これが信念哲学の有無の違いだと私は見ている。
この口蹄疫問題の解決にあたって、口蹄疫問題の封じ込めという事態終息を目指して努力していることは両者とも同様だ。
ただ、東国原知事は畜産従事者の今後の生活と消費者の安全という2つを絶対条件として考慮しながら行動を決定しているのに対して、山田農水大臣は口蹄疫問題の封じ込めだけを考えて行動している。
この違いが両者の違いであると私は見ている。

だから山田農水大臣の決断の方が早くて、断定的だ。
個々の状況等を考慮しないからだ。
一見するとわかりやすいともいえるが、マニュアル対応とも言えるだろう。
要するに「法律がこうだからこうしなさい」ということだ。
法律際の事情に対して、本来その法律がつくられた精神や目的に立ち返って吟味するという姿勢がないのはそうした理由なのだと私は思う。

それが毅然とした態度、「ブレない」政治判断なのだと山田氏をはじめ現在の政権担当者は思っている。
それも、それでよい、かもしれない。
しかしそれでは一介の行政担当者としては合格かもしれないが、農水行政のトップとして政権中枢にいる人間としての責任を果たしているとは言えない。
こうした姿勢を歴史では「教条主義」と呼んできたのではないだろうか。

教条主義に陥るのも、ブレるのも、その原因の根っこは同一。
それは確固たる理念信念の不在である。
それを古今東西の有識者たちは「哲学」とも呼んできた。
現代日本人が生理的に忌み嫌う言葉の一つであるかもしれない。
しかし、だからこそ、確固たる理念哲学を持った政治家を送り出していくしか、政治を抜本的に改革する方途はないのだと痛感する毎日である。

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2010年7月8日 (木)【おかしな話 職員の投票用紙取り違えで無効票に】
今日のニュースで職員による投票用紙の取り違えがあったことが報じられている。
事故が起こったのは山梨県富士川町。7日(水)に期日前投票所の職員が有権者11人に選挙区と比例の投票用紙を取り違えて交付したという。交付機に用紙を入れる際に間違ったという。
人的なミスなので再発しないよう確認手順等を徹底すべきであるが、多くの人の疑問は「投票は有効になるの?」という点だ。
報道によれば、この11票はすべて無効票になるという。
いわく「有権者がミスに気づかずに比例の投票用紙に選挙区の候補の名前を、選挙区の投票用紙に政党や比例の候補の名前を、それぞれ記入していれば無効となる」と...。

これは、庶民感覚で言えば、どう考えてもおかしい。
間違えたのは職員であって、投票した本人ではない。
しかも小選挙区の投票箱にいれた用紙には小選挙区候補を書いているはずなのだ。
その用紙が比例区用だからといっても、投票した本人は「小選挙区用です」と言われて手渡されている。それに「小選挙区の候補者の名前」を書いて「小選挙区用の投票箱」に入れている。
これがどうして無効になるのか?
※比例区の票も同様の話。わかりやすく小選挙区用紙のみで記述した。

小選挙区用紙を入れ終わっているのを確認して、比例区用紙を渡すのも職員の仕事のはず。そうであれば用紙そのものが最初から入れ違っていても投票した有権者が不利益を蒙ってまで無効にする理由が存在しないではないか?
私はそう思う。

杓子定規ではなく、有権者の権利を保全する意図を持って法律を運用すべきである。
こうしたことを指揮するのが、政治家ではないか。
法務大臣はしっかりとしてほしい。
マスメディアも他人事のような報道をしないで、自らの良心を発揮して言論で訴えるべきであると、強く強く要望したい。

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2010年7月7日 (水)【消費税10% 菅直人の虚言に踊らされていないか】
参議院議員選挙も残り4日。最終盤を迎えた。
マスメディアでは今日あたりまでに最終の世論調査を行い、投開票日直前の土曜の報道にぶつけてくる。昨年夏は衆院選で単純に比較はできないが、投票を直前にした有権者の意識に温度差があるのは明白だ。

ひとつ指摘しておきたいのは、菅民主党のメディア戦略にまんまと嵌っていないかという点だ。
そもそも、菅直人は消費税を10%に引き揚げようという気持ちなど、これっぽちもない。
この選挙期間中の国民の目を政治の本質からそらせたいだけだとしたら、見事にその意図は達成したことになる。
今日はその点について論じてみたい。

そもそも今回の選挙の争点は何だったのか?
選挙期間に入るまでの様々な政治上の争点を整理してみて私なりにまとめるとすれば

@普天間基地移転を含む日米安保の今後
A小澤・鳩山に代表される「政治とカネ」の問題
B世界経済恐慌からの景気回復施策
C高齢者医療、年金等を柱とした介護福祉施策
D国家財政の黒字化(プライマリーバランス・赤字国債解消の問題)
E根拠のないマニフェストの真贋(財源なきバラマキ)

この6点ほどに集約されるのではないだろうか。
しかし民主党政権には、上記6点に対する具体的な解決策を提示することができていない。それどころか、昨年夏の衆院選で掲げた民主党マニフェストの実現のために更に国債発行額を増加させてしまっている。

上記の争点に対して、どの政党が、どの候補者が有益な方策を提示しているのか。
この視点で投票行動を決していくべきであると私は思うが、皆さんはどう感じておられるだろうか。
その具体的な行動の選択肢として出てくるのが、いま政権与党にある民主党政権の継続の可否という形になるのは自明の理である。

菅直人の消費税10%発言は、こうした争点から国民の目をそらすために打ち上げられたアドバルーン、完璧なスケープゴートであると私は断じておきたいと思います。なぜなら消費税増税を超党派で審議する云々する前にやるべきことがあるからだ。
それは
・まず最初に、いま日本国政府として行なうべき必要十分な施策は何か。
・そのために必要な予算がどれだけ必要なのか。
・必要な予算に対して削減できるコスト、組み換えによって捻出できる予算額はどれだけか。
・新たに必要となる財源はいくらか。
・税方式による確保か、保険料等による確保か。その割合はどう考えるか。
・税方式で確保する予算金額のうち、直間比率はどう設定するのか。
・消費税、環境税など直接税の中での割り振りはどう設定するか。

こうした検討を綿密に重ねた上で、初めて「消費税を何%引き上げるべきか」という議論に入ることができる。多くの賢明な有権者がすでに気づいていることですが、あえてこの点を私たちは指摘しておくべきだと言っておきたい。

こうしたことをがわかっていて菅直人は「消費税10%の部分だけ一緒に協議しましょう」という。しかも「政策は民主党だけで決めます」である。
何をいわんかである。

もし仮に、上記のような手順がわかっていなかったというのなら、それこそ政治家としての資質ゼロである。
国債発行額だって43兆円ベースで考えるという。何をいっているのか?と言いたい。たしかに麻生内閣時には総額40兆円に達したがあくまで非常事態との認識。小泉内閣時には30兆円に押さえ込んでいた事実を私たちはよくよく有権者に認識させなければならない。

結局民主党がマニフェストで掲げた夢のような政策のために40兆円を超える赤字国債を発行し、消費税を10%に引き揚げるようなものである。

こうした点などわかりゃしないだろうとたかをくくって、やる気もない「消費税論議」をぶち上げているのが時の総理大臣なのである。
選挙戦終盤までこの話題ひとつで、マスメディアや野党、有権者の関心を引っ張ってきたんだから、菅直人という人間は相当な策略家である。

「そんなつもりなどないよ」というのであれば、なおさら問題だ。
こんな初歩的なことに気づきもしない人間に政権の座にいてもらっては、日本の将来は真っ暗闇である。

菅直人と民主党から次々と出てくる発言は、どれもこれも思いつきレベルだ。
扶養控除廃止はおかしいではないかと言われれば翌日は「廃止はやめます」。
所得が低い家庭には消費税負担が重くなると指摘されれば翌日に「低所得者には給付つきで還付します」。
その基準も250万円、300万円、350万円、400万円と、ころころ変わる。
そのいい加減さを指摘されると今度はだんまりを決め込む。
普天間問題も何も解決に前進していない。
八ツ場ダムだってそうだ。
後期高齢者医療制度だって「絶対廃止」といっていたが何も取り組みなし。
年金制度改革に至っては検討するつもりすらない。
今日になったら「法人税を来年から引き下げます」と発言。本当にやる気があるのか。
とりあえず、目先の変わったことを言っていれば、民主党支持率も大きく下がらないうちに投開票日を迎えられるという気持ちなのだと思う。

これでは55年体制下での利益誘導型の政治家よりもたちが悪い。
日本人は、本当にマスメディア報道に左右される大衆だ。
枝野氏は今回しきりにメディア批判を繰り返しているが、昨年の民主党報道だって異常だった。それに比べたら今のメディア報道はおとなしいものだ。
なんだかんだいっても報道露出が多くなっているんだから目くじら立てることもないだろう。
堂々と自分達の主張をすればいいのだ。

それよりも私達有権者一人ひとりの見識が問われる時代になったということである。
理念も信念もない、口先だけの甘い話に乗ってしまうのか。
それとも自分達の子どもの世代まで考えて、託すべき政党、候補者に一票を投じるのか。
いま政治家に求められているものは、確固たる信念哲学と、それを現実に遂行する実行力である。いまの民主党政権に決定的に欠けているのは、この日本をどうしたいのかという哲学信念である。それは小手先の施策を云々する前の次元である。国家世界の百年を論じるために必要なのは情報やテクニックではない。私達人類が、そして未来を継ぐ子供達の世紀をどのようにしたいのかという理想哲学である。
それが持てないから、目の前の出来事に右往左往してしまうのだ。
それを世間の目は「ブレる」と受け止めているに過ぎない。
そのことを私たちは今一度、深く理解しなければ、言葉尻で右に左にと振り回される状況から脱することができなくなってしまう。

気分や報道の情報だけで簡単に投票することだけは、絶対にやめてほしい。
たかが「一人」、されど「一人」である。
たった一人の真摯な思いの集積が、日本と世界の未来を決めるのだと信じて行動したい。

【関連記事】
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2010年7月5日 (月)【大相撲界賭博問題 ”野球賭博”以外不問でよいのか】
日本相撲協会は今月4日に臨時理事会を開き、野球賭博に関与した力士らの処分を決定、発表した。
報道によると、大関琴光喜と大嶽親方が解雇、野球賭博に関与した27人の名前を公表し、うち18人を謹慎処分として名古屋場所の出場を停止させた。
また謹慎を受け入れた武蔵川理事長の代行として元東京高検検事長の村山弘義外部理事(73)の就任を決めた。

処分が身内感覚で甘いという声が多く出ているのも事実であるが、より問題なのは野球賭博以外の賭博行為を行なっていた力士等への処分だ。花札等と言われている賭博行為に関与した横綱白鵬ら46人が謝罪をしたが、実質的な処罰は見送られた。

確かに暴力団の資金源となっていた野球賭博の罪は重い。しかし、この事件を生んだ根源には、賭博行為そのものへの安易な黙認体質があったことは自明の理である。
金銭を賭けた賭博を行うこと自体が犯罪である。
暴力団が関与していないから...という理由だけで処罰を行なわない相撲協会に明るい未来があるはずもない。
名古屋場所で処罰なしとなった賭博力士、白鵬他の誰かかが幕内や十両優勝することも十分考えられる。
それで本当によいのだろうか。大相撲はいったん国技の名を返上してはどうか。
それほど、相撲協会の認識は一般社会と懸け離れている。

そして賭博体質の原因のひとつが相撲界の現金主義だと指摘されている。
では銀行振込に一本化すれば賭博体質はなくなるだろうか。
聞こえてくる答えは「否」であろう。

とりあえずの善後策を講じるとすれば、報奨金や給与体系を見直すことだと私は思う。
累進制ともいえるほど、番付が上がるに連れて給与が倍々で増えている現行体系を見直し、幕下等の力士でも通常のサラリーマンと同等の生活が送れるだけの給与に引き揚げると共に、三役等の上位力士の給与を半減してはどうか。
半減しても十分普通の生活が行なえるだけの給与水準は保証できるものだ。
そのうえで報奨金等は一括して協会が受取り大半を寄付等に回わす。
優勝賞金等も半額は寄付等に回し、本人受取りは半減させる。
NHKから入ってくる放映権料等も半減する。

こうして自分達自身の身を正して、はじめて国民の理解の緒端が得られる...
それくらいの厳しい認識を持つべきであると言っておきたい。

【関連記事】
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大相撲の力士と行司のお給料は?又、偶数月は何をされておられるのでしょうか??

2010年6月30日 (水)【【第63回桂冠塾】『峠』(司馬遼太郎)】
6月26日(土)に今月の桂冠塾(読書会)を開催しました。
今回の本は司馬遼太郎作『峠』です。

■作品のあらすじ

 時代は幕末。舞台は現在の新潟県長岡市、越後長岡藩。主人公は河井継之助である。
 継之助が目指していたのは『一藩武装中立』。諸藩が新政府・旧幕府に分かれて争うなか、他力に頼らず、冒されず、己の力で生きていくことを志向したがその考えは理解されず、開戦へと突き進み、戦いのなかで落命していく。

 物語は安政5年の長岡から始まる。
一度目の遊学から帰藩し、再度の江戸遊学を主席家老・稲垣平助に直談判する場面からである。

 継之助は24歳で7つ年下のすがを妻に迎えるが、近い将来長岡藩の執政になるとの自覚から26歳で単身江戸に遊学。斎藤拙堂、佐久間象山らの門を叩く。黒船が来航し事態の容易でないことを肌で感じた継之助は、藩主・牧野忠雅(ただまさ)に藩政改革の必要性を建言。これが採用されて帰藩、評定方随役を任命されるが彼の活躍する場面はなく、まもなく退役。
 安政4年(1857)父から家督を引継ぎ、外様吟味役に起用されるが、藩政改革の思いがやみがたく 安政5年(1858)に再び継之助は峠を越えて江戸へ。横浜の守備役に問題を起こすが切り抜けた後は西へ向かう。津の斎藤拙堂と再会し京都を経て目指したのは備中松山藩(岡山県高梁市)の陽明学者山田方谷(ほうこく)の門。継之助は藩の危機的財政を救った改革者の門で半年間を暮らしたあと世界の動向を察したいと長崎に入る。万延元年(1860)、34歳で帰藩。

 尊皇攘夷運動が激化する中、藩主の牧野忠恭(ただゆき)に京都所司代、さらに老中職の依命が下る。継之助は幕府もろとも失墜しかねないと辞任を求めたために忠恭は機嫌を損ね、継之助は辞職をしてこれを償うことになる。慶応元年(1865)、忠恭の抜擢で再び外様吟味役に就任すると案件だった山中村(現在の柏崎市)の庄屋と村民の争い(山中騒動)を解決しこれを布石に異例の昇進を遂げていく。この間継之助は藩の組織・財政改革をはじめ、慣習化した賄賂や賭博、遊郭も廃止させた。
武士の不当な取り立てを罰して農民を救い、商業発展のため、川税や株の特権を解消。藩士の禄高是正や門閥解体も当時、画期的なものであり、継之助は端倪すべからざる手腕をいかんなく発揮していく。
 継之助は、封建社会の古びた秩序を一掃し、人心の刷新を図ろうとした。夢に描いたのは新鋭な国家構想ー他力に頼らず、冒されず、己の力で生きていく「武装中立国」の実現。そのために軍備に極めて力を入れ、「ミニエー銃」、初の機関銃「ガトリンク砲」まで武器商人スネルから購入していく。そして中島村に兵学所を整備してフランス式兵制を推進し、長岡藩は雄藩に劣らない近代武装化を急速に成し遂げていく。

 慶応3年(1867年)10月に幕府より朝廷に大政奉還、12月に「王政復古の大号令」が発せられ、新政権を掌握した討幕派らにより旧幕府派の排除が開始された。翌慶応4年1月3日「鳥羽・伏見の戦い」で旧幕府軍と新政府軍が激突し戊辰戦争が開戦。新政府軍は江戸城を無血開城させるなど戦況を有利に進めると並行して、東国に点在する旧幕府派の反抗勢力を制圧するために各地に軍を送る。
 越後には3月15日に高田(現在の上越市)に北陸鎮撫総督らが到着し、越後11藩に対して軍資金と兵士の供出を求めた。継之助はこれに対し沈黙を守る一方、幕府派である奥羽越列藩同盟からの加盟要請を断り、中立の姿勢をとる。
 諸藩のほとんどが新政府軍に恭順する中、4月19日に北陸道参謀・山縣有朋、黒田清隆が高田に入る。中立の立場をとる長岡藩に向け進軍が開始され、4月27日に新政府軍は小千谷を占領。この日継之助は軍事総督に任命される。
 5月2日小千谷会談に臨む。慈眼寺で継之助と会談したのは山縣や黒田ではなく、当時24歳の岩村精一郎。新政府軍は直前の会津藩等との戦闘で長岡藩が旧幕府軍に加担していると思い込み態度を硬化させる。継之助は戦闘の意思がないことを訴え、幕府軍説得のための猶予を願い出るが、岩村がこれを一蹴し一方的に会談を決裂させたためやむなく継之助は徹底抗戦のみが残された道と決断する。長岡藩は奥羽越列藩同盟に正式加盟し幕府軍の一員として敗北の道を転がり落ちて行く。
 こうして当初の継之助の理想は消え去り、長岡は北越戦争最大の激戦地の運命を辿っていった。

 新政府軍約2万人の軍勢に対して同盟軍は5千人。継之助は長岡の南の要衝、榎峠の奪還作戦を画策し5月10日に開戦。同盟軍は榎峠の奪取に成功し、続く朝日山の獲得にも成功。
 二度の惨敗に新政府軍は作戦を変更、新政府軍は5月19日、濁流で長岡藩が油断した信濃川を渡り守備が手薄かつ守勢に不利な長岡城下に迫る。継之助自らガトリンク砲を操縦して対抗するがあえなく長岡城は落城した。
 継之助は長岡城奪還作戦を意図し決行する。陽動と奇襲作戦で6月25日未明に長岡城の奪還に成功。しかし長岡軍の勝利は一時的でしかないことは当初から自明であり、ついに新町口での戦いで総指揮官である継之助が左足に銃撃を受けて重傷を負ってしまう。
 総指揮官の負傷と交戦の疲労、に加えて新発田藩の寝返りで戦況は悪化の一途をたどり、奪還よりわずか4日後の7月29日長岡城は再び落城した。
 城を失い重傷を負った継之助は会津領へと逃げ延びていく。
 しかし継之助の容態は悪化、継之助は自らの火葬の指示を出した直後、1868年(慶応4年)8月16日午後8時頃、会津領塩沢村(福島県只見町)にて42年間の波乱の生涯に幕を下ろした。

■司馬遼太郎が描こうとした河井継之助

司馬遼太郎は「あとがき」で本作品を執筆した意図を次のように書いている。

私はこの「峠」において、侍とはなにかということを考えてみたかった。
それを考えることが目的で書いた。
その典型を越後長岡藩の非門閥家老河井継之助にもとめたことは、書き終えてからもまちがっていなかったとひそかに自負している。


これが本作品のテーマであることは間違いないであろう。
また司馬氏はその直前で、幕末人を生み出した二つの要素として
1.人はどう行動すれば美しいかと考える江戸の武士道倫理
2.人はどう思考し行動すれば公益のためになるかという江戸期の儒教
をあげ、
幕末期に完成した武士という人間像はその結晶のみごとさにおいて人間の芸術といえると語っている。

私は司馬氏の展開する武士観に反駁するつもりは毛頭ないが、ただ、河井継之助の選んだ道が果たして「人間の芸術」というにふさわしい生き方であったのか、その点については甚だ疑問を感じざるをえない。
司馬氏は継之助を評して、一国の宰相にもなれるほどの技量と時代を見抜く先見性があるなど絶賛しているが、はたしてそうであろうか。
元々人間たるもの、何を目的に人生の進むべき道を決めるべきであろうか。
河井継之助は何よりも優先して「長岡藩の藩士」、「牧野家の家臣」であることを絶対条件として、全ての思考と行動の規範としていた。そもそもこの出発点に間違いはなかったのだろうか。

■肯定できるか?河井継之助の生き方

継之助の判断基準とは、あえて現代を生きる私達の立場に置き換えてみれば、次のような感じだ。
日本人や一個の人間として思考するのではなく、更に限定された自分が属している集団、具体的にいえば勤務している会社の一員として、人生全ての日常行動を規定するということになろう。
継之助的に言えば、早かれ晩かれその会社は倒産の憂き目にあうのは必定であり、国家としても新しい社会システムの導入を進めていて、そのシステムで会社を再編することができるから賛同して協力せよと政府から言われているような状況である。
そんな状況下で「いえいえ私たちは日本国家としての新しいシステムは認めるが、それを自分の会社そのものを国家としてやるから日本国に属さない自治権を認めてくれ」といっているようなものである。
そういいながら新しい国家政府に反抗する旧体制勢力と仲良く情報交換しているような印象をもたれている...。
ざっくり、そんな感じだといえないだろうか。

一人の人間として、ではなく、会社人として全てを判断する。
これが必ずしも正しい判断を生まないことは、多くの人にとって自明の理ではないだろうか。河井継之助の行動は必然的に矛盾を生み出すと私は受け止めている。
その結果、何がもたらされたのか。
長岡藩としての決断に何ら関係していない庶民、領民の多くが戦闘に巻き込まれて生命を失っていった。彼らはなぜ死ななければならなかったのであろうか。
完全な無駄死である。
その死は河井継之助の決断によって必然的にもたらされた結果である。
この一点だけから結論付けても、継之助の行動は誤っていたのである。

■ブレのない決断をするために必要なものとは

では河井継之助は、そしてあの時代の指導者はどのように決断し、行動すべきだったのだろうか。歴史には「たら」「れば」はあり得ないし、一様に「こうすべきだった」というような荒っぽい結論を断じるつもりはない。
ただ原理原則はいつの時代でも同様ではないかと私は思う。
それは、
・特定の人だけではなく、もれなく自他共の幸福を目指す社会
・懸命に生きる名もなき庶民が安心して暮らせる社会
・他人の不幸の上に自分だけの幸福を築くような社会にしない
という実直な表現に集約される社会構築を目指すことで、ブレのない決断ができると私は考えている。さらにこうした考えは「生命尊厳」という言葉で集約されると私は思う。

こうした視点で再度作品中の河井継之助の言動を見てみると、重要な局面でのブレた行動や言動の不足があることが見えてくる。
いくつか指摘すると
・元々の目的(主君牧野家の温存)自体が誤っていた。
・牧野家温存と一藩独立とをつなぐ論理性が明確でなかった。
・越後長岡藩としての「一藩独立」の主張を語る前に兵器による武装化を進めた。
・自説を関係者に納得させるという対話の努力を全く行なわなかった。
・江戸から引き揚げる際に会津藩など旧幕府軍の藩士を船に同乗させた。
・小千谷会談で新政府軍側に理解してもらうための事前準備を全く行なっていない。
・自分の考えは正しいから回りの人間は理解できなくてもただついてくればいいと思っていた。
・小千谷会談が決裂した時点で投降せず徹底抗戦する道を選ぶ基準が当初目的(牧野家の温存)からずれていった。
等などである...。

冷静にこの物語の流れを俯瞰すると、河井継之助がめざす目的(その妥当性は置いておくとして)を達成する方策は「一藩武装中立」だけではなかったということがわかる。一藩武装中立はいくつかの有力と思われる方策のひとつにしか過ぎず、環境条件や状況の変化を勘案して、柔軟に取捨選択すべき方策のひとつに過ぎなかった。
しかし継之助は、そうした他の方策の可能性を検証した形跡は、ない。少なくとも『峠』に書かれている文章には何ら表れてきていない。

■河井継之助の決定的な過ち−師弟観の欠落−

そしてもうひとつ指摘しておきたいのは、河井継之助は人を育てようとしていなかった点である。
仮に継之助の努力が実を結び、薩長中心の新政府勢力と旧幕府勢力と距離を置きつつ軍備増強によって武装中立を勝ち取ることができたとしよう。そのあとはどうする積りだったのだろうか。せいぜい書かれているのは、藩をあげて商売をするという程度である。それで果たして独立国家としての運営ができたのだろうか。
本当に継之助が独自の理想を抱いて国家建設を行なう積りがあったならば、何を差し置いても人を育てるべきだと気づくと私は思う。
しかし河井継之助の人生には人を育てた形跡が残っていないのだ。

ニーチェの言葉に「無私の意向でなにか偉大なものの基礎をきずいた人は、自分の後継者を養成しようと心掛ける」とある。
一人の人間ができることにはおのずから限界がある。
時代を超えて、一個の人間の限界を超えて偉業を成し遂げるためには、世代を超えた理念信念の継承が不可欠であることは古今東西の歴史が証明済みである。
継之助と同時代を駆け抜けた偉人達の多くは、人を育てることの重要性を認識していた。勝海舟しかり、吉田松陰しかりである。
吉田松陰が開いた松下村塾の出身者が、幕末から明治にかけての日本の夜明けを強力に牽引した事実は多くの日本人が認めるところだ。

吉田松陰と河井継之助。
そのいずれの生き方が多くの庶民に貢献できたのか。
両者の思想的な価値は、具体的な行動として「人を育てる」という行為の有無で明暗をわけたといえないだろうか。
その視点から再評価すると、時代を超えた理念信念の継承を拒絶した河井継之助の生き方は自らの栄華を欲した権力者の姿に過ぎないとも言える。それは後継者を育てなかっただけではなく、継之助自身が師匠を求めなかった生き方としても現れていると私は思う。
師弟観の不在。
それが継之助の資質の決定的欠落であり、結果として師匠を求めず後継者を育てなかった。その行き着く先は必然的に狭隘にならざるを得ず、時代を超えた偉業など思い描くことすらできなかったのだと私は感じている。
結論的に言えばしょせんは「一国の宰相」の器などではなく、目先の効く実務担当者に過ぎなかったともいえる。

もし仮に司馬遼太郎氏が言うように、継之助が本当に「美しく生きるか」を追求していたのであれば、中途半端な我見や体裁など振り捨てて、先哲に学び、後継の人材を育てたと私は思う。
また私自身が同じ立場であればそうすると思う。
しかし継之助はそうしなかった。
それが彼自身の生き方の限界なのではなかろうか。

■混迷の現代だからこそ確固たる哲学理念を

河井継之助の生き方を通して「武士の美学」を語るのは、あまりにも荒っぽすぎないか。少なくとも私はそう感じている。
もし継之助の生き方が武士の美学の完成形と言うのであれば、武士の思考とはあまりにも短絡的で、哲学思想的にも浅薄であり、自己破壊的だ。そんなものではあってほしくないと思いたい気持ちもある。

河井継之助の行動の失敗は、哲学理念の不在にその出発点があったのではないか。
それが行動規範という判断基準の不在となって現れ、師匠も後継者も求めないという師弟観の不在となって現れた。
そして継之助は、長岡藩士、牧野家家臣である自分自身だけを全ての行動の規範においたがゆえに、長岡藩の存続が消え去ろうとしたときに思考停止に陥った。ゆえに、牧野家の血筋を繋ぐためにフランスへ亡命させる手はずがついたあとの継之助の行動は持続性のない、刹那的に堕していったのであろう。
それは継之助の哲学理念の不在が成せる業であったことは間違いない。

振り返って、現代を生きる私達はどうだろうか。
無意識のうちに自分自身の行動規範を小さく狭めて、自ら思考停止に入り込もうとしていないだろうか。ある面、そのほうが楽に生きることができるのも事実である。
しかし、あえて一歩踏み込んで苦労する人生を選ぶのも自分自身の決断である。
混迷する現代にあって、確固たる哲学理念を求める積極的な生き方を貫こうとするのも、自分自身で決める人生の醍醐味であると私は思うのである。

【関連リンク】
2010年6月度読書会【桂冠塾】(第63回)実施内容

2010年6月28日 (月)【「日本の主張が認められた」? 菅氏の傍若無人さの表れか 今こそ真のリーダーを選べ】
カナダで行なわれているG20が閉幕した。
発表された首脳声明には「2013年に各国の財政赤字を半減する」ことが盛り込まれたが、日本は「2015年までに半減する」という政府方針を認めてもらって「例外扱い」となった。簡単にいえば「日本は2013年までに財政赤字を半減できないレベルであるから2015年まででよい」と日本国内外が公式に認めたということだ。
国際的な水準から見ても、日本の財政赤字は危機的状況にあることを私達日本国民は、今一度認識を改めなければならない。

しかし、そうした財政状況そのものに加えて「危機的状況」だと暗澹たる思いにさせられたのが、閉幕後に行なわれた菅直人総理大臣の記者会見での発言とその態度である。

映像でも配信されているので各人確認してほしいと思うが、記者会見の場で菅氏は、繰り返し訴えてきた財政再建と経済成長の両立という日本の主張が「全体会合の中心課題になった」と話し、日本の存在感を示すことができたと語っている。
何を言っているんだろうか?
何が「存在感」だ。
要するに日本が先進国の中で突出して財政の危機を抱えているというだけの問題ではないか。
そんな悪しき問題で日本が注目されているのに、まるで胸でも張っているかのような発言に、怒りを通り越して、あきれてものが言えないような虚脱感を感じてしまう。

ここ1年前後の政治、そして世論の動きを見ていて感じてきた「無力感」が、鳩山・小沢退陣後も何ひとつ変わっていない。
それどころか、菅氏に代わって、その程度の低さがいやまして目についてしまって仕方がない。菅氏の傍若無人ぶりを見ると、鳩山氏が「単なるお坊ちゃま政治家」程度でかわいかったもんだとさえ思えてきてしまう。

菅政権が日本の憲政史上に残る「最も危険だった政権」にならなければいいのだがと、祈るばかりである。そして菅氏の心根が変わらないのであれば、早々に退場していただくことが日本の国益と国民のしあわせな生活、そして世界の秩序安定に貢献する直道であると言っておきたい。

私たちが目指す国家像は菅氏が言うような「最低不幸社会」などであってはならない。
一人ひとりが誰一人漏れなく、各々が持っている可能性を最大限に開き、自他共の幸福社会を実現することを目指さなければ「自分の生活が成り立てばそれでいい」という自己中心的な社会に行き着いてしまうことは自明の理である。
中途半端な思想しか持ち合わせない政治家にはリーダーのポジションから降りていただき、万人の幸福を目指す確固たる理念哲学とそのための具体的方策を実行する真の人間リーダーを選択する義務と権利を行使しなければ、私たち自身の未来を開くことはできないと、私はいま、心から、訴えたい。

【関連ニュース】
G20菅総理「日本の主張認められた」自ら及第点( 06/28 ニュース動画 )テレビ朝日

2010年6月11日 (金)【民主党によるメディアジャックか 政治の空白を許さない】

5月末の普天間問題解決のタイムリミットを守れなかったことと、鳩山総理と小沢幹事長の政治とカネの問題が直接の引き金となった鳩山総理辞任劇。今日で辞任後10日目に突入したわけであるが、その間に民主党と内閣支持率は劇的なV字回復を見せている。
しかし、政治的課題は何一つ解決に動いていないことを、私達国民は忘れてはならない。

普天間問題しかり。
政治とカネの問題しかり。
公務員改革しかり。
国債増発問題しかり。
子ども手当ての財源問題しかり。
高速道路無償化への取組みしかり。
八ツ場ダム問題しかり。
口蹄疫被害しかり。
カネミ油症被害者救済問題しかり。
労働派遣を含む雇用問題しかり。
景気対策しかり。
金融危機問題しかり。
財政健全化問題しかり。
年金改革問題しかり ...。

何ひとつ解決どころか、着手する気配すら全くないものまである。
予定されている今国会会期末は今月16日。
ここ2週間の民主党議員の動きをみていると、法案審議をする気持ちなど全くないことが透けて見える。
6月2日の鳩山・小沢辞任劇からして時間をかけすぎている。これは6月16日の国会閉会から逆算して世論形成を画策していると考えれば、至極納得のいく行動である。
つまり、
6月2日(水)内閣総辞職。すぐに民主党代表選挙で4日午前に代表決定、午後首班指名。ここで通常ならば当日夜に天皇陛下からの認証式が行なわれるが、菅は早々に8日(火)先送りを決定。当初から4日夜は天皇陛下は葉山御用邸入りが決まっており官房長官が日程調整を要請した気配すらない。ここで実に4日間を消費。結果的に国会日程を更に詰めてしまったわけだからすぐに所信表明となるはずだが3日経過してやっと実施される状況だ。結局、週末の首相所信演説、週明けに各党代表による質問等を行なうのだろうが、それだけですぐに閉会だ。

実に半月の間法案審議は全く行なわないで、次の党代表総理は誰にする、閣僚を誰にする、幹事長は誰だ、連立維持のために郵政法案審議はどうする、国会日程は延ばす延ばさない...そんな与党内部の手続きの話題だけで時間を浪費している。与党の世論操作が完璧に功を奏しているとみるのは、あながちうがった見方とはいえないだろう。

現在の日本人の世論形成は週末生放送の討論番組で醸成されるという構図が固まっている。いわく報道特集、時事放談、日曜討論、サンデーモーニング、新報道2001、サンデーフロントライン(サンデープロジェクトの後継番組)etc...。
この毎週末の政治討論番組が国民生活に直結しない政争ばかりで埋め尽くされていることにどれだけの国民が気づいているだろうか。
5月22,23日 社民党は連立離脱するのか
5月29,30日 鳩山辞任すべきか
6月5,6日 誰が新任大臣になるか、小沢外しできるか
そして次の週末
6月12,13日は、残りの国会日程&話題の新任大臣、国民新党連立離脱か、与野党の参議院選での獲得議席予想...
で染められるのは簡単に予想できる。

つまり結果的にみれば、丸々1ヶ月間、マスメディア公共電波は日本国と日本国民が直面している安保外交や経済問題、福祉政策についてなにひとつ取り上げることなく、与党の面々の露出を増やしただけということに終わっている。
もしこれが与党・民主党の意図的なマスメディア対策だとしたら、なんと素晴らしい選挙最優先戦略であるか、拍手喝采ものである。

私達庶民は、物事の本質を見抜かなければならない。
派手な政治パフォーマンスは徹底的に排除し、実質実利のある政治の遂行を切に望みたい。
党利党略による国会の私物化、公共電波ジャックのごとき悪行を排除せよ。
政治の空白は、断じて許さない。

2010年5月31日 (月)【第62回桂冠塾『ザ・ゴール』(エリヤフ・ゴールドラット)】

5月22日(土)に5月度の桂冠塾(読書会)を開催しました。
62回目の開催となった今回はビジネス書の分野から選びました。

本書『ザ・ゴール』は業務改善に取り組む仕事をしているメンバーにはよく読まれてきた小説です。私個人としては続編である『ザ・ゴール2−思考プロセス−』(原題『It's Not Luck』)が一番感覚的にしっくりくる感じですが、ゴールドラット博士の代表作ということで本書を取り上げました。

本書誕生の経緯は第62回桂冠塾のページに記載していますのでそちらを参照下さい。
一言で説明すれば、博士が製造工場の現場改善を通して考案した生産スケジューリングソフトの販売普及のために小説という形を用いて本を出した、ということになるでしょう。
そして関係者のほとんどが出版は失敗するだろうという反対の中で、発売当初からベストセラーに。そして本書を読んだ製造業関係者から「本書は我が社をモデルにしたのか?本当によく問題の本質を突いている」という趣旨の声が寄せられる。
そして間もなく「本書に書いてある通りに実践して改善成果を出すことができた」という手紙が次々と届くようになったという。このこと自体は素晴らしい結果であるが、ゴールドラット博士にとっては全くの誤算であった。それはどういう意味かといえば、本書の目的はあくまでも生産スケジューリングソフトを販売するための動機付けにしたかったためである。

しかし結果的には生産スケジューリングソフトという「モノ」は必要なかったのである。大切なのは改善のための「考え方」にあった。ゴールドラット博士は逡巡の末にソフト販売会社の会長職を辞任し、自らの経営改善の理論(TOC理論)の普及啓蒙にその生涯をかけることを決意し行動を開始、現在に至っている。

■本書の構成

本書は8章で構成されています。そのあらすじをざっくり記述しておきたいと思います。

T 突然の閉鎖通告

機械メーカーのユニコ社のユニウェア部門・ベアリントン工場所長として赴任して6か月を迎えた主人公アレックス・ロゴ。長引く経営の悪化の影響を受け、3か月で業績が改善されないと工場を閉鎖されると通告される。妻との離婚の危機もむかえてしまうアレックスは、手の打ちようもなく意気消沈していく。

U 恩師との邂逅

アレックスは2週間目に再会した恩師ジョナを思い出す。ジョナは学会で工業用ロボット導入の成果を発表するというアレックスに質問をした。「出荷量は増えたのか」「従業員数は減らしたか」「在庫は減ったか」...。答えを聞いたジョナはアレックスの工場に問題があると断言する。

とまどうアレックスに「君の会社の目標は何か」と問いかける。そしてその目標は「一つしかない」と言って去っていった。

工場の経理課長ルーを話す中で「純利益」「投資収益率」「キャッシュフロー」の3つの指標が大切という結論になり、この3つを同時に増やすことでお金を儲けることが企業の目的であるとの認識に至る。

V 亀裂

アレックスはジョナの連絡先を探し出し「会社の目的はお金を儲けることだ」と告げる。会社の目標に自分の工場が役立っているかどうかどうやったら知ることができるかと尋ねるアレックスにジョナは評価指標は「スループット」「在庫」「業務費用」であり、その定義は従来とは違うと語る。スループットは「販売を通じてお金を作り出す割合」、在庫は「販売しようとする物を購入するために投資したすべてのお金」、業務費用とは「在庫をスループットに変えるために費やしたお金」であると。そして「部分的な最適化」には興味がないと言った。工場に出たアレックスはスタッフに導入したロボットが売上向上に貢献したかどうかを尋ねる。売上が上がったとの実証は何もなく、部品の在庫は増えていた。その理由はロボットの効率を上げるために生産量を増やしたことにあった。そして工場の問題は「スループット」「在庫」「業務費用」を改善することで解決するはずだと告げる。では何をしたらいいのか?その答えを求めてジョナに会うためにニューヨークに向かう。ジョナは基本的なルールを教えるから自分達で改善せよと言う。そして全てのリソースの生産能力が市場の需要と完璧にバランスがとれると会社は倒産に近づくという。「従属事象」と「統計的変動」の組み合わせが重要であり、それがアレックスの工場にとって何を意味しているかがわかれば電話をくれと言って立ち去る。

この間も、次第に離れていく妻の心を取り戻すことはできない。

W ハイキング

週末の土曜日。息子デイブが所属するボーイスカウトのハイキングに同行する。急遽隊長が参加できずアレックスが15人の子供を目的地に連れて行くことになる。「従属事象」と「統計的変動」が頭を離れないアレックスの目の前でどんどん遅れていく子供達の隊列。昼食休憩でアレックスはさいころとマッチ棒のゲームを考えつく。「従属事象」と「統計的変動」の関係の実験だ。子供達の隊列と工場に置き換えてみて今の現状を納得する。

昼食後歩き始めると隊列が遅くなった原因であるハービーが皆に迷惑を変えないようにと最後尾に回る。先頭の速度ははやくなったが先頭と最後尾までの隊列は長くなってしまった。

アレックスは全員が着くことが目的であると説明し、ハービーを先頭にして他人を追い越すことを禁止、全員が手をつないで歩くようにする。のろのろになった隊列の子供達からハービーの荷物の一部を負担する子供が現れ、全体の速度が向上。夕暮れ前にキャンプ地に到着した。

翌日の夕刻、親子二人で帰宅すると妻は家を出た後だった。

月曜日。100個の部品を今日中に出荷せよととの指令が出た。工員とロボットの能力から出荷できるというスタッフを相手にアレックスは出荷時間までに100個は揃わないという。それはハイキングの経験から得た結果だという。実際に部品100個は揃わなかった。

※経営改善の着眼点を明確にするためにアレックスは敢えて出荷できない道を選んだことになる(なかなかの意志の強靭さをしめしたなぁ^^)。しかしあえて指摘しておくと現状のやり方でもあとひとつ簡単な工夫をするだけで100個の出荷ができたのだ。このことは当日の桂冠塾の中で指摘したとおりである。

X ハービーを探せ

昨日の事態を元に「従属事象」と「統計的変動」をいかに克服するかスタッフと協議するアレックスは、工場の現状を改善するためには「全体を最適化する」ことが必要だとわかったことをジョナに報告する。ジョナから次のステップは「リソースをボトルネックと非ボトルネックに分けよ」とアドバイスが出る。そして「需要には生産能力をあわせるのではなく、製品フローをあわせよ」「ボトルネックのフローを需要にあわせよ」と。

工場内でのボトルネック探しが始まった。データによる探索に行き詰った彼らは現場を見て仕掛品が溜まっているところがボトルネックだと気づく。そしてみつかった「ハービー」は二人。一人目は最新鋭ロボットのNCX−10。もう一人は熱処理センターであった。

アレックス達はジョナを工場に迎える。共に現場を歩き、改善の視点を指摘する。

スループットに繋がる部品を優先させるための方策としてボトルネックの作業者の勤務シフトを変更し、部品を色分けで区分する改善策を実施する。システムでは発見できなかった現場の智慧が改善の速度を加速させていく。

家庭では...妻の居場所が実家であることを知る。妻との時間を大切に過ごし始めるアレックスに少しずつ気持ちがほぐれていく。

Y つかの間の祝杯

改善が順調に進んでいるかに見えたが「ボトルネックが広がった」との報告が届く。電話で実施した改善改善と新たなボトルネックの話を聞いたジョナは色分けによる優先システムに関心を示し工場を再訪問する。アイドルタイムを気にする余り、余剰在庫を抱える愚策を指摘する。

息子デイブのアイデアをヒントにドラム・バッファ・ロープの改善を実施することになった。

Z 報告書

原価管理の評価メジャーの不具合に直面するが、現実に結果を出しているアレックスの工場と数値上の差異に、経営者陣も少しずつTOCの考えを理解する方向に動き始める。

[ 新たな尺度

アレックス達の改善はユニコ社の経営の考え方を変革していく。

そして彼らの話題はTOCを構成する様々な手法に広がり、最終的には自分たち自身がジョナに成長することが大切であると気づくシーンで物語は終わりを迎える。

■TOC理論のめざすもの

本書のおもしろみのひとつは、小説を読む感覚で経営理論を学ぶことができる点であろう。そしてその理論を知らない人であっても、小説の舞台となった工場現場での経営改善の進捗や関係者達の相対する意見の応酬を通じて思考の本質がわかるように説明しようという作者の意図、努力がよくわかる。改訂版に際して加筆修正を加えたのであろう第8章は少しくどい感じがするが、この点は小説としては間違いなくマイナス評価だが、理論の理解を深めてほしいと思う作者としてはあえて書いてきたかったのだと思う。

当初、本書が書かれた時点での理論は製造現場の改善の域を出ていなかったが、TOC理論に発展。本書においても改善の思考を用いて、夫婦関係の感情の行き違い、家族内やハイキングで遅れた進捗を改善するシーンが出てくる。本書が書かれた時点では製造現場の改善のヒントとして登場しているが、様々な分野に理論展開していく萌芽があったと見ることもできるだろう。

TOCの理論的進化にあわせて『ザ・ゴール2』をはじめ『クリティカル・チェーン』『チェンジ・ザ・ルール』等の続編が発表された。最新作は『ザ・クリスタルボール』で「小売業の常識を覆した」と宣伝している。巻末の解説には「小売業の常識を変えてしまったと後世言われることになるだろうとの評価が高い」と書かれていますが、内容は物流管理、購買の領域にすぎず、所詮はBtoB。
フランチャイズチェーン展開に触れているのがわずかに小売業的ではありますが、単に概要に触れている程度であって「常識」を覆すようなものでもなく...。全体としても個々の場面においても、小売の改善とは異質のもの。これでは最終消費者を相手にした小売業、サービス業等の変革は期待はできません...。
あまり大げさな表現をすると「TOCそのものが怪しい」と思われやしないかと、そのほうが心配です(^_^;)

そうしたネガティブな要因を考慮して上でも、TOC理論が目指すもの、TOC理論の汎用性は高く評価できると私も感じています。従来の経営手法の有能な箇所を活かしつつ、現場の経験とスキルから生まれてきた実効性を組み合わせて、より現実的に効率的に改革を進めるためのよきツールと育つと思います。
ある人から言われたことがあります。
それは「自分にはツールが必要と感じたことがない」「TOCで述べていることは常識的なことばかりで目新しくない」...。
ある一面、まったくそのとおりだと言えるでしょう。
しかし、より多くの人が仕事に関わっていく、雇用を創出していくことをひとつの中間目標にすえるとすれば、様々な考えの人達、思考の浅深の差の大きな状況の中で同じ目標に向かって進むためには、より有効性の高い改善ツール、経営理論の実践が求められるのも事実であると私は思っています。

今回は、作品そのものに対するディスカッションよりも理論面の理解、議論に多くの時間を割く形になりました。参加された方には、いつもと少し違う印象をお持ちになったかも...。こんな進行の回があってもよいかなぁと私自身は思いましたが、いかがでしたでしょうか(*^_^*)

【開催案内などはこちら↓】
http://www.prosecute.jp/keikan/062.htm

2010年5月24日 (月)【口蹄疫問題で種牛49頭の殺処分発表 他の選択はできないのか】

宮崎県に発生した口蹄疫問題。
エース級種牛への感染で、いま宮崎牛は存続の危機に立たされている。
東国原知事が提案した「種牛49頭の経過観察」は却下された。即断ともいえる早さだ。
その理由は「例外は認められない」と報道されている。
そうした政府の対応にあなた自身はどのように感じたであろうか?

そもそも「例外」か「例外でない」かという判断の分かれ目となる基準は何だろうか。事件の報道を見てきた一国民の意識として、それは「口蹄疫被害を封じ込める」という一点ではないかと私は感じている。
種牛49頭を殺処分から経過観察に切り替えることがその基準に抵触するだろうか。
結論は「抵触しない」。これが私の判断だ。
種牛49頭を解放するというのではない。
経過観察を続けて発症したら直ちに殺処分にするというのだから、一定レベル以上の防疫体制を取れば感染拡大を封じ込めるのではないか。一縷の望みにかけたい宮崎の人達の必死の思いが、じんじんと伝わってくる。

49頭は「生存しているだけでウィルスを撒き散らしている」との山田正彦農林水産副大臣の発言は、間違いなく、風評被害を煽っている。少なくとも、現時点では感染しているかどうかはわからない。今だって常時の防疫処理も隔離も行なっているはずであって、「撒き散らしている」という発言は、聞き流すわけにはいかない。
もし仮に、山田氏の言うことが正しいと言うのであれば、エース級種牛6頭をどうして隔離して経過観察処分にしたのか?この種牛だってウィルスを「撒き散らしている」ことになるだろう。
政府の一連の判断は、論理の整合性に欠けている。
山田氏は自分の言動を真摯に反省、謝罪すべきだ。

もし今回の決定通りに殺処分が実行されて、元々隔離していた残り5頭も感染してしまったら、残された畜産農家はどうすればよいのか?
政府はどのような対応策を検討しているのか、はっきりと示してもらいたい。
正直な印象として、今の政府の対応は、「毅然とした判断を示さなければまた国民から非難されるから一度決めたルールは絶対に守らせる」と思っているのだろうとしか、思えない。
山田正彦農林水産副大臣は「他の農家が納得しない」と発言している。たしかに全員が納得することはないだろうが、宮崎牛存続のための特例処置なら多くの農家は納得するのではないか。それは、自分たち自身の目の前の未来の生活に直結するからだ。
自分達の未来を守る対策に、多くの農家の方々が反対するとは、どうしても私には思えない。

初動から後手に回り、危機意識が欠落している政府を批判することはここではしないでおこうと思う。
それよりも、何をすることが、少しでもよりよい結果を生み出す要因とできるのか、そのことをもっと、もっと、真摯に思索し、行動することを政府関係者に求めたい。

そして、49頭の殺処分の決定を撤回し、宮崎の畜産農家の人生を守る方策を懸命に模索し行動せよ。
心ある政治家がいるのならば、いま、目の前で苦しんでいる一人の人のために、全力の限りを尽くせ。

私は心から、そう叫びたい。

【関連記事】
【口蹄疫】殺処分対象の種牛49頭の延命に賛成?反対?(Livedoorリサーチ)
種牛49頭の殺処分発表 宮崎エース級5頭だけに(47NEWS)
口蹄(こうてい)疫 山田副大臣、種牛49頭殺処分の方向性を鳩山首相や赤松農水相らと確認(FNN)
東国原知事「殺処分の49頭まだ生かしている」(読売新聞)


2010年5月11日 (火)【第61回桂冠塾 『罪と罰』(ドストエフスキー)】

061 4月24日(土)に4月度の桂冠塾(読書会)を開催しました。
今回の本はドストエフスキー作『罪と罰』です。

作品のあらすじ

主人公は、最近大学を退学したラスコーリニコフという青年。
ラスコーリニコフはペテルブルクに暮らしている。田舎に暮らす母の年金と妹(ドゥーニャ)の住み込み家庭教師の給金によって学資を出してもらっていたが仕送りが滞るようになって退学を余儀なくされる(ただし彼自身の努力によって回避できる程度であったと物語の途中から推測できる)。現状に怒りを抱えた彼自身の理屈から起死回生の資金を得るために金貸しの老女の殺人を計画する。躊躇するものの様々な偶然(か必然なのか...)が重なり殺人を実行するが、その場に居合わせた老女の妹も殺してしまい、一気に精神の均衡を失っていく。
母と妹の身の上にも事件が起こっており、結果的にルージンという弁護士と婚約し上京することに。スコーリニコフに手紙を送り、再会を果たすが妹の結婚には大反対。ルー人の打算的な下心を直感的に感じとり、ルージンと直接話す中で母と妹もルージンの本心に気づき破談させることに。
善良な老婦人を殺した罪の意識に心を蝕まれはじめたラスコーリニコフは挑発的な行動や異常な行動を繰り返す。様々な状況から犯人ではないかと思い始めた予審判事によって追い詰められようとするが、突然「自分が殺人を犯しました」とペンキ職人が名乗り出たことによって事件捜査は終結するかに思われたが、予審判事はラスコーリニコフが真犯人であるという確信を捨ててはいなかった。
そして最後はラスコーリニコフ自身が警察に出頭し自首をして事件は解決することになる。

重要な役割を果たす登場人物

この物語の中で重要な役割を果たすのがソーニャの存在である。
ソーニャはマルメラードフの長女。このマルメラードフとは気位の高い妻の性格に押しつぶされ怠惰(と一言でいえない面もある)と酒によって公務員の職を失った男。この家族を養うためにソーニャは公認売春婦として身体を売って生きている。敬虔なキリスト教徒であり、自分自身は救い難い罪を犯し地獄に堕ちることを覚悟、日々他人の目におびえながら生きているような少女であった。ラスコーリニコフはマルメラードフが馬車に轢かれて死ぬ場面に遭遇し葬儀の費用を出すことになる(このお金はルージンと結婚する前提で得た母と妹から送られたものであった)。その場で出会ったソーニャに運命的なものを感じたラスコーリニコフ。殺人を犯した彼も人の道を踏み外したと罪の意識に苦しんでいた。罪の意識に苦しみながら神の加護を信じて生きるソーニャの生き方に触れ、彼は自首を決意する。

脇役的な存在として友人のラズミーヒンが登場している。
彼はラスコーリニコフの学友であり、退学後の彼を親身に面倒をみていく。最終的には妹ドゥーニャと結婚する。ラスコーリニコフが殺人者であると疑われた時も彼のことを信じ抜いた。

別の角度で重要な役割を演じるのがスヴィドリガイノフである。
妹ドゥーニャが住み込みで働いていた貴族の主人である。
元々ペテルブルクに住んでいた博打好きの男。もてる男だったのだろう貴族の娘に気に入られて結婚して田舎に暮らしていた。ドゥーニャに好きになり駆け落ちまで画策するが妻に発覚。その後、妻が事故死(彼による殺人が疑われるが真偽は作品の中では判明しないまま)によって得た遺産を持ってペテルブルクにドゥーニャを追いかけて上京してくるが、最後は自殺する。

ドストエフスキーが訴えたかったものとは

この作品は様々な問題を投げかけている。
何点か指摘すると...
・ドストエフスキーが考える「罪」とは何か
・いったい何が「罰」なのか
・ゲラシム・チフトフ事件が作品に与えた影響
・執筆の動機は何か
・高利貸し商ベック氏殺人事件によって深まった作品のモチーフ
・黙示録の都市ペテルブルク 光と影
・場所の名前 イニシャル表記
・人名と愛称に関わる問題
・ロシアの通貨
・ロシアの大学と学生運動
・当時の現実の学生生活はどうだったのか
・マルメラードフが諳んじる聖書の言葉の意味するもの
・ラスコーリニコフが聞き間違った時間の表現
・信仰面から7月7日の意味するもの
・パレ・ド・クリスタルの出来事の意図するもの
・当時のロシア事情:@裁判制度と警察機構の大改革
・当時のロシア事情:A年金制度
・ラスコーリニコフをとらえた思想:@ナポレオン主義
・ラスコーリニコフをとらえた思想:A終末論
・悪の主人公:スヴィドロリガイリロフの思想的根源は
・スヴィドロリガイリロフとラスコーリニコフとの一致点
・黄の鑑札とは何か
・カペルナウーモフ家の象徴
・ソーニャの聖書が意味するもの
・「踏み越えた」のは誰か、何か。
・棺を想起させるラスコーリニコフの部屋とソーニャの部屋
・死者として位置づけられた者たち
・「ラザロの復活」を読ませることによって意図したこととは
・「4」の意味
・「神を見るお方」とはどういう意味か。
・レベジャートニコフの「コニューン」思想
・フーリエ主義とは
・ポルフィーリーはいかなる人物か
・カテリーナの歌う流行歌
・ミコールカと「逃亡派」
・父称の問題(イワンとピョートル):ドストエフスキーの意図
・名前の混合は意図的か
・スヴィドロリガイリロフの「棺」の意味するもの
・人工的都市ペテルブルクの地理的環境:ネヴァ川と天候の問題
・副署長(火薬中尉)の役割
・リヴィングストンの手記とは何か
・ラスコーリニコフの「刑罰」の重さと意味合い
・旋毛虫の夢が意図するものとは
・ドフトエフスキーにとっての『罪と罰』の意味とは
・犯罪と犯罪者への傾斜
・妻マリアとの愛の終わり
・運命の女アポリナーリヤとの出会い
・どん底で誕生した『罪と罰』
・ペテルブルクの暑い夏
などが列挙される。

ドストエフスキー作品は論理的構築がしっかりしており、後世の研究者にとっては研究しがいがある作品群である。実際、多くの研究者がドストエフスキー作品、そして彼自身に関する研究書を出している。上記の指摘もそうした研究書に沿うものである。
彼の執筆の直接的な動機が、ギャンブルによる借金を返済するという切羽詰った状況によることを考えると、よくぞここまで綿密なプロット構築と心理描写ができるものだと感服してしまう。当時の社会状況、政治の施策についての批判も論理的に展開もしている。
その中でも特に、心理描写は群を抜いている。
登場人物の本心がどこにあるのか。またおそらくその人物自身が自分の気持ちそのものがよくわからない、その心理状態までも実に克明に再現している。読んでいて読者である私たちが「どきどき」してしまい、登場人物と同様に不安定な想いにまでさせられていく感覚は不思議としか表現できないような...ある意味で未体験の感覚であった。

「罪」とは何か「罰」はどんな意味があるのか

時間の都合でまた改めて追記したいと思いますが、一点だけ指摘、また語り合いたいと思うのはドストエフスキーがこの作品で言わんとした「罪」とは何か、「罰」とは何か、ということです。
安易に結論を出すのではなく、また色々な人の立場に我が身を置いて思索することも大切だと思います。
そして、その「罪」と「罰」の認識は適切なものなのか?
今一度、私たちが思索しなければならないのではないかと感じています。

作品の「エピローグ」はある意味で牧歌的である。
ハッピーエンドと表現してもよいと思う最終章の最終段落は次の言葉で締めくくられている。

「しかし、もう新しい物語ははじまっている。
 ひとりの人間が少しずつ更正していく物語、
 その人間がしだいに生まれかわり、
 ひとつの世界からほかの世界へと少しずつ移りかわり、
 これまでまったく知られることになかった現実を知る物語である。
 これはこれで、新しい物語の主題となるかもしれない−−−
 しかし、わたしたちのこの物語は、これでおしまいだ。」
 (亀山郁夫訳)

ドストエフスキーは『罪と罰』を通して、人間の可能性を最後まで信じ抜く大切さを訴えたかったのかもしれない。

【関連リンク】
 第61回桂冠塾 『罪と罰』(ドストエフスキー)実施内容

2010年3月28日 (日)【第60回桂冠塾『吾輩は猫である』(夏目漱石)】

3月27日に今月の桂冠塾(読書会)を開催しました。
今回の開催で60回目の節目。
取り上げた本は夏目漱石の『吾輩は猫である』です。
全11章で構成、当初は現存する第1章のみの読切のつもりで書かれたというエピソード付きの作品です。

夏目漱石は近代日本文学をリードした文豪であり、一時期、紙幣を飾った偉人とされる人物です(余談ですが...あの紙幣の発行期間は短かったですね...)。
私個人の夏目漱石評は一言で言えば「大量執筆で才能をすり減らせてしまった不運な偉人」。一つ一つの作品にもう少し魂を込めて取り組めたら、もっと素晴らしい作品が残せたのではないかと感じています。

いま読んでみるとさほど大きな変化と感じにくいですが、漱石の功労の大きなひとつは言文一致での創作活動にあります。
当時の文学界最大の試行錯誤はこの「言文一致運動」と呼ばれ、様々な作家が試みますが現在まで一定の評価を得ているのは二葉亭四迷の「浮雲」程度であり、そうした混沌とした状況の中で本作品『吾輩は猫である』は一世を風靡した感があります。
その後も漱石の創作活動は留まるところを知らず、次々と口語体の作品を連発して近代の日本文学のみならず「近代の日本語」そのものを確立させたという評価をする研究者も少なくありません。
このあたりの評価が正確に認識されていないのかも...漱石の作品が小中学校での必読書や読書感想文の課題図書になることも多いわけですが、「なぜこの本が薦められているのか?」について教師から話してもらった経験が、少なくとも、私にはありません。
特に10代20代の青少年世代には、漱石作品をはじめ教育現場で推薦される作品には、それぞれにある一定の評価を一つ一つ丁寧に伝えていく必要があると私は強く感じています。

また本作品の大きな特徴として、語り手が人間ではなく「猫」であるという点が挙げられます。
その意味では、一人称で書かれている私小説であり、猫の目から見た擬人化小説でもあり、人間ではないために普通にはなかなか書けない視点を堂々と書いてしまえている...など様々な文学的効果を創出しています。
普通に登場人物が言ったら「差別だ」「偏見だ」と非難を浴びてしまいそうな表現があちこちに...(^_^;)。しかし(だからこそ)その視点が新鮮で、本質に迫るものがある。
私たちが日常生活で通念としている社会規範って何だろうなぁと疑問に感じてきます。

全体として読みやすい作品です。
この筆力が漱石作品の特徴のひとつですが、その反面の評価として「だらだらと書いている」と感じる人も少なくないのだろうと思います。

1jikan ちなみに...「1時間で読める!夏目漱石 要約・『吾輩は猫である』」という本が出ています。すでに何冊か発刊されている「1時間で読める!」シリーズの一冊です。
当時の写真や関連データが掲載されていて読み進める参考図書としても最適です。
※たとえば...三毛猫(茶・黒・白の毛が生えたネコ)って99%以上がメスだって知っていましたか?びっくりです。
この要約本に目を通して一番興味深かったこと。
それは、作品の要約にも関わらず、6章は4行で済ませて7章〜10章についての記載が全くないこと(!)。全11章のうちこの4章分が完全に省略されているのである(^_^;)。なんとも思い切ったもんだなぁと、びっくりというか、感嘆。
それでも全体の話の流れはほぼ正しく理解できる。
まあ、そういう一面も真実なんだなと思わせるのが漱石作品でもあるんですね。

【関連リンク】【第60回桂冠塾】実施内容

2010年3月25日 (木)【国家の哲学不在を露呈 郵政改革法案は国家的危機】

政府与党がとりまとめた郵政改革法案の概要が発表になった。
そもそも何のための法案なのか?
その意図が不純と言わざるを得ないだろう。

今回の法案の大きなポイントとして3点指摘しておく。

■限度額引上げで民業圧迫は必至

第一点は、ゆうちょ銀行の預入限度額を2倍の2000万円に引上げること、そしてかんぽ生命保険の上限額を2500万円にする点である。
以前に1000万円に引き上げた際に民間金融機関の預金から多額の現金が引き出され、郵便貯金の預入残高が急増した事実がある。今回の措置で同様の事態は間違いなく起こる。

■完全民営化の否定

第二の点は、政府が3分の1超を出資するという修正点だ。
間接的とはいえ郵便事業全体に政府の発言権、影響力を残す、民営化を取りやめるという大きな方針転換である。

■税を優遇する理由はどこにあるのか

第三の点は、グループ内取引の消費税を免除する点である。
郵便事業グループ内で発生する消費税の見込額は500億円とも言われている。
その税収を捨ててまで、何を目指すのだろうか。

その目的を「全国一律の郵便サービス」を行なうための資金を捻出するためであると説明している。
つまり、
民業を圧迫しながらゆうちょ銀行とかんぽ生命保険会社に資金を集め、
国家税収が減少する状況の中で税金を投入し、
巨額の消費税を免除して、
郵便事業のための国民の持っている金銭を集めようということだ。
100年に一度の世界恐慌の嵐の中で、政府与党はいったい何を考えているだろうか。
ただ単に民間金融機関を圧迫するだけではない。
民間消費をも完全に冷え込ませる危険を想定していないのか、はなはだ疑問である。

そして今回明示されていないが、現在の倍加するであろう集められた資金の運用はどうやって行なうのだろうか。
資金は集めれば何とかなる、というものではない。
事業益をあげるのが民間企業の本質であるが、今の政府方針ではほぼ間違いなく資金運用で運用益をあげることしか想定していないだろう。
その資金運用先は何を想定しているか。そのシュミレーションも含めて充分な収支予測を試算しているのか、国民に公開すべきである。

国民のあずかり知らない財政投融資の悪弊を排除することが、小泉政権での郵政民営化の最大の目的であったはずだ。
それが、表面に見えている「全国一律サービス」の美名の陰で、堂々と財政投融資が拡大しようとされていないだろうか。
「ゆうちょ」と「かんぽ」に集められる原資は、国民一人一人が大切に持っている個々人の資産である。それを当てにして資金運用の柱とするのは、国家戦略として安直すぎると私は言いたい。

しかも、その集めた資金の運用先が国債購入だとすれば、事態は深刻だ。
これは少し考えれば誰にでもわかることであるが、現在既に
@国民から、「ゆうちょ・かんぽ」の名称で資金を集める。
A集まったお金を原資にして日本国債を購入する。
B日本国政府は「ゆうちょ・かんぽ」から回ってきたお金を収入として国家予算として使う。
C償還期限が来たら日本国債の予定利息を加えた金額が日本国から「ゆうちょ・かんぽ」に戻される。
D戻ってきたお金を原資にして「ゆうちょ・かんぽ」の利息、払い戻しが行なわれる。
という一連の流れが出来上がっている。

つまり、国民一人ひとりの財産である「ゆうちょ・かんぽ」の資金が国家政府の収入源となっている半面で、税金という名前で集めた国民のお金が「ゆうちょ・かんぽ」の利回りに充当されている(実際には税収だけでは充当できていない現実がある)。
しかも、それぞれの資金の動きには「利息」が付加されて必要金額が増えるしくみだ。冷静に考えれば破滅の一途をたどるように思われるが、この運用を可能にしている要因が、経済成長と利息を付加して支払うまでの時間ラグ、そして償還資金を確保するために更に発行される国債による収入である。

逆説的に言えば、現在のように経済成長率がゼロベースやマイナスになった社会では破綻する方程式であり、そのツケを時間差で払わされるのは未来の世代ということである。

国民の財産で国民の利息を払い、あたかも財産が増え続けるような錯覚を与えている様は、まさに「マッチ・ポンプ」であり、保障されていない経済成長を見込んだ「錬金術」状態である。この思考停止とも言えなくもない不確実な資金運用が恒常化し、未来の世代のツケを雪だるま式に増大させているのが「ゆうちょ・かんぽ」の財政投融資なのである。
この「虚構の資金運用」を改革しようとしたのが、小泉改革の最大の狙いだった。
その改革を、民主党政権の面々は、厚顔にも完全否定しようというのだろうか。
また、この報道を聞いた有権者は、この本質をどれだけ理解しているのだろうか。

民主党政権の面々は「日銀による紙幣の増発」案といい、「高速道路無料化」案といい、財源問題どれをとっても、実に安直な、経済を本当に知っているのか?という政策といえないようなレベルの案を出してくる。
自民党も地盤沈下しているが、民主党は素人集団が多額の泡(あぶく)銭を手にして浮かれている。他の政党も力がなさすぎる。連立入りしている社民党と国民新党は国民の総意とは言い難い持論を押し通すばかり。半年前まで与党であった公明党は是々非々というが、国家運営に充分な能力と人材を有しているか、その実力は未だ不透明のままである。
そんな状態だから、「未知数」というだけで有権者は「みんなの党」に未来を託そうとする。
今の日本は、一億総博打状態である。

言い添えておくが、私は小泉改革が全面的に素晴らしかったと言っているのではない。その功罪を明確にし、持続すべき改革までも逆行させてはいけないと言っているのだ。
過疎地域での郵便事業のサービス維持向上は大切な課題である。
そのためには多くの智慧も事業努力も投下されていくべきである。
その一環として、税金投入も検討されることがあるかもしれない。
しかし、その「錦の御旗」を振りかざして、世論に乗じて「自分達の思うがままに変えてやろう」という権力の魔性の横暴は、断じて阻止しなければならない。

ある意味で今回発表された民主政権による「郵政改革法案」は、国家運営力の欠如を明確に曝け出したといえよう。
現在の政権には、国家財政のビジョンも、哲学理念も完全に欠落していると断じるしかないだろう。
政権交代以来ずっと取りざたされている「政治とカネ」も大きな問題であるが、今回の「郵政改革法案」は「普天間問題」「マニフェスト破綻」と並び立つ国家の危機であると、強く訴えたい。


2010年3月12日 (金)【1000円乗り放題を廃止して高速道路を建設か? 民主政権の完全な自己矛盾】

本日、民主党内閣は、高速道路料金を土日祝日「1000円乗り放題」にする割引制度の確保財源を高速道路整備に転用できる「道路整備事業財政特別措置法」改正案を閣議決定した。報道によると、民主党幹事長・小沢氏の名前で提出された陳情内容に沿うものであるという。

確保されている財源額は2008年から10年間で3兆円。毎年3000億円の規模である。
昨年、この財源で多くの庶民が高速道路を利用してきた。
道路建設に回すというが3000億円程度で建設できる道路の長さはしれている。
ましてや「コンクリートから人へ」が民主党のスローガンで、高速道路建設は凍結の方針だったのでないか。
高速道路無料化と言いつつ、利用者には事実上の負担増を強いて、採算性が見込めない未完成区間の高速道路を建設する...。

完全な自己矛盾である。
先日、全国の空港建設の採算見通しの甘さを糾弾したばかりの前原国交相。
今回の閣議決定をどう釈明するつもりだろうか。

【関連記事】
高速割引財源“転用”を閣議決定 ドライバーには実質値上げ(産経ニュース)


2010年3月12日 (金)【多くの意見を聞くから「ゆらぐ」? 鳩山氏の詭弁どこまで行くのか】

「物質の本質は『揺らぎ』。多くの意見を聞いて大事にする過程で、揺らぎの中で本質を見極めていくのが宇宙の真理ではないか」。

毎日新聞の報道によると鳩山首相はこう記者達に説明したという。
以前に行なった発言の真意を問われた回答である。
1997年の民主党大会での「揺らぎという弱い部分は民主主義の本質」との発言である。回答に際して「まったく人の意見を聞かなければ揺らがないのかもしれないが」とも発言したという。
「ゆらぎ」そのものについてはその解釈でいいかもしれない(「揺らぎ」を「弱い部分」とは、本当にわかっているのかな?と思うが^^;)が、鳩山氏自身の姿勢は「ゆらぎ」であるとでも言いたいのだろうか。
そうだとしたら、それは詭弁にすぎない、と断じたい。

一国の総理たる鳩山氏は、いったい何を言っているのだろうか。
理系の研究者出身という経歴が、科学用語を使っていい気になっているのかもしれない。
鳩山氏の言動を「ゆらぎ」だと思っている人がどれだけいるのか?
国民の多くは、鳩山氏が「ぶれている」と思っているのだ。

「ゆらぎ」と「ぶれる」ことは、全く違うものだ。

物理学において使われる「ゆらぎ」の定義は、「広がりまたは強度を持つ量(エネルギー・密度・電圧など)の空間的または時間的な平均値からの変動を指す」ものである。熱力学においては「熱平衡状態からのずれ、もしくは熱平衡にほど遠い系の状態」を指し、対象は違うが同様の主旨として位置づけることができるだろう。

一般生活で「ゆらぎ」という言葉を正確に使う場合はどうなるだろうか?
「ゆらぎ」は、対象とするものの「空間的、時間的な平均値」が存在するところからスタートする。その平均値からどのくらいの広がり、幅を有しているかが「ゆらぎ」であるといえるだろう。
つまり、平均値、いいかえれば「軸」と言うべきものがなければ、「ゆらぎ」という概念自体が存在しないのではないだろうか。
それが単なる「ぶれ」と「ゆらぎ」の根本的で大きな違いではないかと私は感じるのである。

これを鳩山氏の政治姿勢と比較して論じると、どうなるだろうか。
発言が「ゆらいで」いるのか「ぶれ」ているのか?
ポイントは鳩山氏の言動に「軸」があるかどうかではないか。
「軸」とは日浄の言葉に言い換えれば、政治哲学であり、政治家としての信条であろう。
鳩山氏の言動には、それが感じられない。もしくは、存在しない。
だから、他の人(特に政治的影響力のある人物=与党幹事長とか)から、何か言われるたびに、右に、左に、「ぶれる」のだ。
けっして「ゆらいでいる」のではない。
この状態を、国民は不安で、不安でしかたがないのである。

こんな、自身の哲学信念の不在を「ゆらぎ」という言葉で詭弁するなと言いたい。

では、強い哲学信念を持って行動していれば、それでいいのだろうか?
一例を挙げれば、民主党幹事長の小沢氏。
豪腕とも言われるほどの強いリーダーシップを発揮し続けている。
彼の言動が日本、世界の民衆の利益に利しているかどうか。
多くの民衆は、これまた不安に苛まれているに違いないと思うのである。
それはどうしてなのか?
強い政治哲学、信念を持っているにもかかわらず...。
それは、その哲学信念が間違っているからに他ならないだろう。

最近、フランス革命をテーマにした小説等を思い返すことが多くなっている。
民衆の圧倒的な支持を受けて誕生した民主政府(第三共和制)。
「自由・平等・同胞愛」の理念は歴史的にも有名である。
しかし、そこで繰り広げられたのは、ロベスピエールによる「恐怖政治」だった。
今の日本が向かう先が、そうならないようにしなければと願う毎日である。

【関連リンク】
鳩山首相:「揺らぎは宇宙の真理」 発言ぶれ批判に強調(毎日新聞)
揺らぎが機能を決める生命分子の科学
ゆらぎ(ウィキペディア)
フランス革命(ウィキペディア)

2010年3月9日 (火)【【第59回桂冠塾】『変身』(カフカ)】

2月20日(土)に59回目の桂冠塾(読書会)を行いました。
今回の本はカフカの『変身』です。

文章量が少ないため皆さん読了して参加いただけたようです。
開催の案内でもふれましたが、新潮文庫の100選などにも毎年取り上げられてきた作品でもあり、多くの人が少年少女時代に目にした本だと思います。
ある朝目が覚めると巨大な虫になっていた...なんとも複雑な思いにさせるシーンから始まるこの作品は、最後までもやもや、はっきりしない感情を持たせつつ物語が終わる...。
これが私の正直な感想です。
『変身』に関しては、意外と書評が出ていません。
図書館や書店に並んでいるカフカや『変身』関連の書籍は数冊しかなく、ネットを検索しても「なるほど」と思われる感想や書評は皆無という状態です。
その道の方々からみれば、時間を費やすに値しないと思われているのかもしません。
確かにネット検索で出てくる書評は浅薄な印象をぬぐい切れません。

この『変身』については様々な分析や個々人の感じ方があってよいのだと思います。おそらくカフカ自身がそれを望んでいたと思うふしもあります。出版に際して表紙や挿絵に「虫」を描かないように念を押したことはその端的な証左といえるでしょう。

当時、カフカ自身が遭遇していた職場や生活環境が作品に色濃く反映していることは間違いありません。彼自身は主人公グレーゴル・ザムザと同一ではないが「秘密漏洩」であると表現している。
つまり彼自身の心の中の真情の一部を主人公に重ねて吐露していると推察できます。
しかし、それだけではない、ということを彼は言いたかったのだと思います。
「この作品は失敗作だ」と嘆いているという事実は、もう少し深みのある示唆に富んだ伏線なり、暗示的なある意味で高尚な思想を盛り込みたかったのだとも受け止められるでしょう。
多くのカフカ研究者は作品の背景に、カフカの出生、具体的にはユダヤ人であること、幼少期からの父との確執と尊敬、独裁政治に突き進むドイツ帝国への批判、当時あまり社会的に認められていなかった公務員の仕事に就いた鬱積した思いなどを指摘しています。

そのうえで私は次の点に注目したいと思う。
それは
【1】なぜザムザは「虫」に変身してしまったのか?
【2】ザムザが変身してしまった「虫」とは、どんな意味があるのか?
【3】ザムザと彼の家族はどうして「虫」に変身したことに疑問を感じなかったのか?
【4】ザムザの家族は彼が「虫」になったことを嘆かないのはなぜなのか?

他にもいくつも疑問に感じてしまうストーリー展開があります。
このことを理由に『変身』を駄作だと断じることもできるかもしれない。
しかし、こうした居心地の悪さというか、心に引っかかる点をそのままに読み流さないことが大切だと私は思っています。
上記の点についても私なりの感じ方があり、桂冠塾当日ではお話しましたが、それはまたの機会に書き足したいと思います。

今ひとつだけ言うとしたら、それは、この作品のモチーフは架空のおとぎ話ではなく、カフカの個人的な感情の吐露にも留まらない、ということでしょうか。
『変身』が意図するもの。
それは私達一人ひとりの身の上で今も起きている、と私は感じています。

【関連リンク】第59回桂冠塾『変身』 実施内容

2010年2月18日 (木)【トヨタに危機管理能力はあるのか】

世界のトヨタの実態とは、こんなものだったのだろうか。
豊田章男社長が米議会の公聴会に出席しない意向を公言してしまった。
その理由は現場の実態は現場の方がよくわかっているから、北米トヨタの稲葉社長が出席するのがベストな選択だということらしい。

いま世論が求めているものが何であるのか、わかっていない。
現場の実態を最もよく知っているのは現場。そんなことは当たり前だ。
そんな理由で公聴会に出なくていいなんて誰が承知するのだろうか。
明らかに気持ちのうえに「逃げ」がある。
平時では、それでもいいかもしれない。
しかし今は企業存亡の危機的状況である。
そのことを深く自覚し、格好などつけていないで、ありのままを語るために消費者の前に出てくることだ。
それができなければ、経営から退くしか選択肢はない。


2010年2月1日 (金)【【第58回桂冠塾】『ファウスト』(ゲーテ)】

1月23日(土)に58回目の桂冠塾(読書会)を行ないました。
2010年最初の桂冠塾のテーマは、ゲーテ作『ファウスト』です。

世界の文学史上に燦然と輝く不朽の名作。
このくらい賛嘆の言葉を並べても、誰も大袈裟すぎるとは言わないでしょう。
しかし、ゲーテの名前が知れ渡っていることに比べて、実際に代表作である『ファウスト』を読んだ人は相当少ないのではないかという推測も、誰も否定しないと思います。

実際に読んでみると「おもしろい」。
これが当日参加された方の感想であり、読了した人の多くが持つ印象です。
開催案内ではこの作品のモチーフとなった「ファウスト伝説」について紹介しました。
⇒ 第58回桂冠塾実施内容
その物語が演劇や人形劇として当時の大人から子供まで親しんだという歴史的経緯から推察できるように、聞いていてわかりやすいストーリーがその原点にあります。
あえていえば、私たちが子どもの頃に親や家族から聞かせてもらった昔話のような存在だったのかもしれません。

ゲーテも幼少の頃から親しんできたと思われるファウスト伝説に、ゲーテなりのテーマと結論を見出したかったのでしょうか、ライフワークとして終生書き続けたものが私たちが手にしているゲーテ作『ファウスト』です。

物語は戯曲の形式で書かれていきます。
最初に
〔献詞〕〔前狂言〕〔天上の序曲〕と続きます。

献詞はこの作品を読む人に捧げた感謝の言葉と受け止めることができます。
前狂言はこの作品を芝居として娯楽的、道化的に見ようとする、また見せようとしかねない人々への風刺とも思えます。当時の(今はさらにそうかもしれませんが)移り気な庶民への皮肉かもしれません。
そして〔天上の序曲〕から物語は本論に入っていきます。
主(神)とメフィスト・フェレス(悪魔)が賭けをします。「主」と呼ばれる者が「賭け」をすること自体、どうなのかなと思う気持ちがありますが(^_^;)それはとりあえずおいておきましょう。
メフィスト・フェレスは「人間どもは、あなた(神)から与えられた理性を使いこなせていないではないか」と主に絡む。主はそれに対して「常に向上を目指す者」もいるのだとファウスト博士の名前を挙げる。それを聞いたメフィスト・フェレスは「ではファウスト博士を悪の道に引きずりこめるか賭けをしませんか」と挑発し、主を「やってみるがいい」と賭けを承諾する。メフィスト・フェレスはファウスト博士を悪の世界に引きずり込むために天上から地上、人間の世界に舞い降りていく...こうして物語が始まります。

本文は2部構成です。
第1部は通貫して書かれていますが、第2部は5幕になっています。
あらすじを追っていくだけでも相当の文章量になりそうなので(^_^;)本当に荒っぽく紹介すると...

【第一部】
現在の生活に希望を失っていたファウストはメフィスト・フェレスと出会い、死後の世界で悪魔に魂を渡すことを条件に、現世であらゆる快楽を経験するという契約を交わす。
庶民の娘グレートフェン(マルガレーテ)と出会ったファウストはメフィスト・フェレスと共に、彼女を誘惑し妊娠させ、母親を殺し、結果的に兄も殺害すると魔女の祭りワルプルギスの夜に行きパーティを楽しむ。
その間にグレートフェン(マルガレーテ)は婚前交渉と嬰児殺しの罪で牢屋に入れられ発狂した彼女は悲惨な最期を遂げる。

【第二部】
第一幕:
グレートフェン(マルガレーテ)の死を悲しむファウストであったが、国家の混乱に乗じて皇帝に仕え始める。浪費によって生じた国家財政の破綻を紙幣発行によって劇的に回復させる(もちろん見せかけの繁栄は遠からず破綻する)。信頼を得たファウストに皇帝はギリシャ神話の美女ヘレネーと美男パリスを連れてくるよう命令する。メフィスト・フェレスの力を借りて二人の霊を現世に呼び出すことに成功する。こともあろうかファウスト自身が幻のヘレネーに恋をしてしまい彼女に触れようとする。その瞬間大爆発が起こりファウストは気を失う。

第二幕:
ファウスト博士の書斎。弟子のヴァーグナーが実験によって肉体を持たない生命体ホムンクルスを誕生させる。ファウストはヘレネーに会うため、ホモンクルスは肉体を得るためにワルプルギスの夜に向かう。それぞれがギリシャ神話に登場する神々や生き物が暮らす世界を旅して回る。

第三幕:
スパルタのメネラーオスの宮殿にヘレネーが姿を現す。ギリシャ神話ではトロイア王子パリスに誘拐された後にギリシアの大軍によって奪還される。奪還されて祖国に帰ろうとする場面に妖怪に扮したメフィスト・フェレスが登場し、ヘレネー達を神への生贄にするという。助かるためにはファウストの元に逃げるしかないと唆し、ヘレネーは承諾する。ファウストはトロイアを壊滅させ、ヘレネーとの生活を始める。子供エウポリオーンを授かるが幼くして空を飛ぼうとして死ぬ。ヘレネーも肉体が消える。

第四幕:
ファウストとメフィスト・フェレスは嶮しい岩塊に立ち、世界が如何に創られたかを論じる。ファウストは海の波を封じて土地を生じさせたいと願望する。メフィスト・フェレスは、実体を伴わない経済が破綻し僭帝による反乱が起きているのでファウストが加勢して皇帝が勝利すれば褒美として海岸地帯をくれるだろうと話す。
ファウストは悪魔3人を従えて戦場に赴き、メフィスト・フェレスの魔術も借りて皇帝軍を勝利に導き、海岸地帯を手中に納める。
大司教は何かと理由をつけて教会への膨大な納税を皇帝から取り付けるのだった。

第五幕:
ファウストは大規模な灌漑工事を行い新しい土地を生もうとするがその影で住民達はファウストの横暴さに苦しむ。立ち退かない老夫婦の処置を請け負ったメフィスト・フェレスは火を放って老夫婦は焼死する。その行為にファウストは激怒、メフィスト・フェレスを追い出す。そこに「憂い」が忍び込む。ファウストの死期が間近と知ったメフィスト・フェレスはファウストの墓穴を掘り始めるが、失明したファウストはその音を建設の槌音と勘違いし幸福感に浸りながら、メフィスト・フェレスと約束に符合する言葉である「とまれ、お前はいかにも美しい」と言って死を迎える。
ファウストの肉体から魂が離れる瞬間を待っていたメフィスト・フェレスの上から天使が舞い降り、薔薇の花でメフィスト・フェレス達を退けてファウストの魂を天高く連れて上がる。
天上で最愛の女性グレートフェン(マルガレーテ)が聖母に祈りを捧げ、ファウストの魂は救われて物語は完結する。

粗々のあらすじですが、ざくっと書きました。
『ファウスト』という作品、実に多くのことを考えさせられます。
時間がかかってしまうのでなかなか書くことができないのですが、そのなかで一点だけ指摘しておくとすれば...
この作品が神と悪魔の賭けから始まっている点をまず考えてみてほしいと思います。
読者の中には「私は無神論だ」とか「私はブッティスト(仏教徒)だからキリスト教的展開はなじまない」という方もいるでしょうが、ゲーテが掲げたテーマはそうした差異を超えたところにあると私は思います。

私達の人生とはいったい何なのでしょうか?
何を求めてこの一生を生きたらいいのか?
モラルだとか、社会のためだとか、周りの人のためだとか、いろいろな言い方もできるでしょう。
しかし、そういった一切を無視して、自分の利益のためだけに生きる人間と直面したら、果たして私たちは、今までの生き方を続けることができるでしょうか?

21世紀に入って10年目。
モンスターと呼ばれる、自己至上主義といえる類型の輩が、じわじわと、確実に、増えているように思えてなりません。
まさにエゴの固まり、自分自身の快楽と利益のためなら他人に迷惑をかけることなんて気にかけもしない人間の生き方を目の当たりにし、更にその被害をもろに受ける立場になったとしたら...。
そして自分もエゴイスティックに生きればその苦痛が逃れることができ、やりたい放題の人生を送れるとしたら...。
人は今までの実直な生き方を続けることが、本当にできるでしょうか?
果たして、あなたは本当に実直に生き続けられるでしょうか?

この点を私達は、互いに、真摯に見つめていきたいと思います。
そして、そうしたマイナススパラルの危機から、どうすれば脱け出すことができるのか?
私達は、そうした具体的な思索と行動を求められているのだと感じられてなりません。

最後に、補足的に少し別の視点に触れておきます。
比較的入手しやすい解説書等では、作品の中でゲーテを展開している様々な社会批判を指摘しています。
具体的には

【1】ことば信仰とアカデミズム批判
【2】拝金主義批判
【3】戦争批判
【4】政治・権力批判

などが挙げられています。
これらは作品を読むと比較的明確に記述されているので確認してみるとよいと思います。
窮乏した国家財政を救済するために大量の紙幣を発行するというあたりは、つい最近、民主党政権が実行する危険があった政策とぴったり符合します。紙幣発行がまだ普及していなかった当時ですのでゲーテの着眼は特筆に価します。

少し話がそれますが、人類が行なってきた経済を初めとする社会活動とはなんとも不確実性の産物かと痛感します。
初めから整合性を欠いたままスタートし、その歪みに耐え切れなくなるとガラガラポンとリセットするか、次の亡霊のような政策を提示する。それも整合性に欠くが、歪みが溜まるまでは時間を稼ぐことができる。
近年で言えば、90年代初頭のバブル崩壊もそうでしょう。根拠のない土地神話を妄信し、それが崩壊すると次はITバブル。その一方でアメリカ発の住宅ローンの債権化が始まり巨額の投資マネーが次々とターゲットを探してさまよっていく。その結末がリーマンショックであったことは周知の事実です。
投資マネーが吹き荒れたあとは惨憺たる荒野と砂漠が広がっていく。
そんな、場当たり的な対応の繰り返し...。
この100年に一度の恐慌を覆そうと、生命保険を債権化し新たな投資市場にする動きも出ています。人間の欲望には際限がないだけでなく、反省とか教訓とか学習という言葉すらもないのでしょうか。
しょせん人間の社会は、人間の叡知とは、その程度のものなのか...と嘆きたくなる気持ちも出てきそうです。

また、科学者(ファウスト博士の弟子)が研究実験によってホムンクルスという名の実体を持たない意識だけの創造物(人造人間)を作り出したという展開は、SF小説そのもの。
しかも現代においては、その実現もまったくの不可能とはいえない段階にまできていることを思うと、ゲーテの想像性と問題意識の高さ、洞察力には敬服してしまいます。

ゲーテの『ファウスト』。
是非多くの方に読んでほしい、そして一度ではなく、二度三度と読み返してほしい一冊です。

【関連リンク】
第58回桂冠塾実施内容

2010年1月10日 (日)【第57回桂冠塾 『八甲田山死の彷徨』(新田次郎)】

昨年12月12日(土)に2009年最後の桂冠塾(読書会)を開催しました。
今回のテーマは『八甲田山死の彷徨』(新田次郎)です。

この小説は、明治35年に起きた遭難事故をモチーフに書かれている。
史実を調査、取材して書かれたものである。
完全なノンフィクションではなく、一部創作部分がある。
また登場人物は仮名になっている。これは作品発表当時に本人を知る遺族関係者が生存していたことに配慮したと新田氏自身が述べている。作品中にも一部本名が記された資料等がそのまま掲載されているので、誰に配慮したか判然としない感もある。

当時、遭難事故については広く新聞でも報道され、多くの義捐金が全国から集まったことが記されている。しかし、その遭難の原因が何であったのか、第五連隊と第三十一連隊の違いがどこにあったのかは長く秘されてきた。軍国政治の時代であり、国家機密に当たるということもその理由だったと思われている。
新田次郎氏はこの小説によって、遭難事故の原因を彼なりの視点で追求し、再び広く世間の人々がこの事件に注目した。

多くの方は、その後映画化されてこの作品に触れたのではないかと思う。
私も少年時代に映画を見た。その衝撃たるもの、ちょっとやそっとの半端なものではなかったことを記憶している。
映画の冒頭の雪のシーンを目にし、バックに流れる音楽を耳にすると、自分自身も吹雪の中にいるような気持ちになって映画全体が克明に頭の中によみがえる。それほどあの映画の印象は強烈だ。

ある意味、物語のストーリーはシンプルだ。
共に第四旅団第八師団に属する青森第五連隊と弘前第三十一連隊。
日露戦争を想定した軍事訓練として、平地部がロシアに占拠された場合に冬季の八甲田山中を縦走して移動できるか、それぞれの連隊毎に雪中行軍を行なって検証してはどうかという、実質的な命令によって厳寒の八甲田山での同時期の訓練が行われることになったのである。
そして、様々な状況が交錯する中で、神田大尉が率いる青森第五連隊は全210名のうち199名の死亡者を出す大惨事となった。一方、徳島大尉が率いた弘前第三十一連隊は210Km余を11日間で無事故で踏破し、一人も犠牲者を出すことなく任務を遂行したのである。

この作品は、常に対比の構図で論じられてきた。
神田大尉と徳島大尉のリーダーシップ、リーダーとしての力量の比較はその典型であるが、それ以外にも
・青森第五連隊と弘前第三十一連隊
・事前準備の差
・自然への認識
・指揮系統
・軍人と民間人
・上司の運不運
・死んだ者と生き残った者の違い
・歴史のある組織と若い組織
・雪中の経験のある者とない者
・他者の助言を受け入れる者と受け入れない者
・事実を精査して判断する者と直感で判断する者
・起こり得る可能性のある範疇を予測できる者とそれが狭い者
・状況に負けてしまう者と状況を乗り越えていける者
・・・等々。
−−−様々な比較で見つめ直すことができる。

この作品を結論付けて、青森第五連隊・神田大尉が「負け」で、弘前第三十一連隊・徳島大尉が「勝ち」と見るだけではあまりにも浅薄すぎるだろう。また、リーダーシップ論としての側面だけで徳島大尉の行動を分析し、「徳島大尉のように行動せよ」というのも安直だ。
神田大尉が優秀な人物であったことは、作品中で何度も指摘されている。
そのような人物であっても、どうして多くの人の進むべき道を見出すことができなかったのか。
悪条件が重なりすぎたという見方もある。
しかし、悪条件が重なることは、今だって頻繁に起こることだ。
「不運だったからしょうがない」というのは、あまりにも悔しすぎるではないか。
どんな条件下にあっても、活路を切り開くことができないものか。
私たちは、大惨事となった青森第五連隊・神田大尉の経験から、ひとつでも多くのことを学ぶことが大切ではないかと思いたい。

最後に...作品のなかの言葉であまりにも有名になった一節。
「天はわれ等を見放した」

あえてひとつだけ、神田大尉に直接言えるとしたら、この言葉だけは言ってはならなかったと伝えたい。
どんな状況になったとしても、人はけっしてあきらめてはならないのだ。
自分に言い聞かせるつもりで、そう決意しあいたい。

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2010年1月1日 (金)【謹賀新年】

(最終です)

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