プロセキュート


【第22回】実施内容
今月の本: 『雄気堂々』(城山三郎)
実施日時: 2007年1月27日(土)14:00〜17:00
今月の会場: 練馬区貫井地区区民館
東京都練馬区貫井1-9-1
※西武池袋線・中村橋駅から徒歩5分
今回の『雄気堂々』は近代日本の民業を創り上げたと評される渋沢栄一の半生を綴った人物伝です。
昭和46年の一年間をこの作品に費やした城山三郎氏の代表作のひとつです。彼は毎日新聞の連載開始にあたり次のような一文を残しています。
「現在と同様、価値観の動揺する時代に生きて、ひとりの若者にとって人生は何であるか、ひとりの壮年にとって人生は何であるか、さらにひとりの老人にとって人生は何であるかを、しぶとく問い詰めてみたい」

渋沢栄一は江戸時代末期の武州血洗島(現在の埼玉県深谷市)に農夫の息子として誕生。倒幕攘夷の気風に右往左往しながらも一命をとりとめ、試行錯誤の中で自身の生きる能力を培い欧州視察の機会を得ます。フランス滞在中に大政奉還が行なわれ、帰国後は自身の経歴と人の縁から活躍の舞台を勝ち取っていく姿が描かれています。

生涯で500の民間会社と600の社会事業に関係した渋沢栄一。
同時代を生きた人間達と比して大きな違いが果たしてあるのでしょうか。大にすれ微細にすれ、違いがあるとすればそれは何だったのでしょうか。またそれは一人の人間が生きていくうえでどれほどの違いになっていくのでしょうか。
「雄気堂々、斗牛を貫く」
「八百万の神達、神計りに計りたまえ」
と言い続けた渋沢栄一の生き方を通して、城山三郎氏の掲げたテーマを共に考えてみました。
当日の様子: 当日は6名の参加でした。上下2巻にも関わらず、読了して参加された方が多かった感じです。
物語は千代との結婚の場面から始まり、千代が逝去するところで物語が終わります。そのとき栄一は42歳。91歳まで生きた人生の折り返しにもきていない年齢で、物語に書かれているのは20年ほどの出来事です。「もっと読んでみたい」という声があったほど描かれている半生は波乱万丈で魅力に満ちたものです。

作品に描かれる場面は大きく4つの舞台が回ります。
・尊皇攘夷をめざす血洗島の時代
・一橋家への奉公の時代
・明治政府で働く時代
・民間人として合本組織を推し進める時代 です。

それぞれの場面で特筆すべき業績を残している渋沢栄一ですが、どうしても払拭できない疑問が残ります。それは今回のテーマのひとつとなった「渋沢栄一はなぜ渋沢栄一たりえたのか」。
同一とはいえなくても栄一と似たような状況、それなりの資質を持った人物は幾人もいたように思えます。事実、若き日の栄一は確かに優秀だったようですが一番ということではなく、志士の中心者になっていたわけではなく、地元の世話役でもなかった。それがいつのまにか時代の舵を握る最重要人物になっているのです。それは後世の私たちはもちろんですが、同時代を生きた人々にも評価されている。他の人物達と何が違ったのか。その疑問はこの作品を読んでもますます増すばかりでした。

ただ、何度か読み返す中で、おぼろげながらいくつかの生き方の信念が透けて見えてくる。
栄一が託された仕事は「栄一でなければできない」というものではなかった。それは彼が時おり口にしたといわれている「八百万の神達、神計りに計りたまえ」との言葉が彼自身の心情を表しているように思えます。誰もが充分な能力や経験などない。だからこそ自分が縁したその仕事を成し遂げるのだ、と。
そして栄一は、ひとつひとつ確実に、仕上げていく。その積み重ねが次の活躍の場を呼び寄せてきた。それが渋沢栄一の生き方の一側面ではなかったと思うのです。

そうした栄一の行動の源泉はどこにあるのか。その点については作品からはうかがい知ることは少々困難があるように感じます。
あえて文脈と他の文献から類推するならば、母「おえい」の生き方と幼少から学び親しんだ論語の思想によるものだとするのが妥当と思われます。

渋沢栄一の歩んだ人生。
彼の存在がなければ今の日本の姿はどのようになっていたのかと思うと新たな興味が湧いてくる今日この頃です。

 http://prosecute.way-nifty.com/blog/2007/01/post_c2ce.html

テーマ:
幕末混乱期の武州(千代との結婚)
一橋家奉公の時代
欧州遊学
明治政府に仕官
民間人として経済界で活躍
横浜蚕卵紙炎上事件
合本組織への熱情
小野組倒産
岩崎弥太郎との因縁の対決
千代の逝去
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